「たくろふのつぶやき」には一応、アクセス解析なるものをつけている。
めったに解析結果を見ないが、たまに僕のBlogの読者さんはどういう興味の対象をもってるのかなぁと思って、検索ワードを見ることがある。みなさん、どういう検索ワードをググって「たくろふのつぶやき」に飛んでくるんだろう。
まぁ、ぶっちぎりの1位は「巫女みこナース」なんですけどね。
「たくろふのつぶやき」は「哲学・思想カテゴリー」です。
結構コンスタントに検索される言葉に、「さくらんぼの歌詞」というのがある。 去年のJ-Popを風靡した大塚愛の「さくらんぼ」の歌詞、「書きあらわせれない」という一節を検索してくるひとが結構多い。僕のページにリンクを張ってそこから飛んでくる人も結構いる。
まぁ、僕のBlogを読む世代はそんなに高齢でもなかろうから、一刀両断に「間違った日本語だ、けしからん」と決めつける人はいないみたい。曲を聞いていて「おやっ?」と思ってググってみた、という人が多いらしい。
この手の、曲に現れる新語はとかく批判の対象になる。日本語の崩壊だの、言葉の乱れはなんとかの乱れだの、口うるさいひとが結構いらっしゃる。意思疎通が困難なほど自分流の言葉で押し通すのは確かに慎むべきだろう。人が理解困難な言葉を自己流で押し通すとギャグにしか聞こえない。しかし何をいってるのかが新語によって却って分りやすくなる場合だってある。そういうときは「うまい表現だなぁ」と感心する感性も忘れないでおきたいものだ。新しい言葉遣いに対する姿勢は、あまり頭ごなしの一辺倒では硬直した姿勢に過ぎる。
『万葉集』に出てくる言葉は、現代の我々にとっては古きゆかしき雅な言葉で、みな由緒ある言葉のように見える。しかし、当時にしてみれば新語、俗語、略語のラッシュで「こんな言葉遣いはなっとらん」と年配世代の眉を顰めさせるものだった。事情は「さくらんぼ」を聞いて憤る手合のいる現代と何も変わってない。
とくに万葉集の第十六巻は滑稽ものを主に並べている。当然、こういう内容のときには言葉遣いも卑俗なものになる。「坊主」「刀自」「餓鬼」などは当時の外来語、現代で言えばカタカナ言葉に相当するものだった。
『万葉集』の有名な歌に、柿本人麿の「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古へ思ほゆ」がある。近江の旧都を訪れ、荒廃した光景に盛時をしのんで作った歌だ。現在では国語の教科書にも載っている、万葉集の代表歌のひとつだ。
しかし、この「夕波千鳥」という言葉、実はまったくの造語で、人麿がこの歌のために勝手につくったものらしい。「夕方の波の上を飛ぶ千鳥」の意味で「夕波千鳥」とは大胆極まる造語だ。発想の飛躍と、音を犠牲にすることなくイメージを鮮明に映し出す造語能力には恐れ入る。
しかし、この言葉を見た当時の古典趣味の長老たちは、一様に眉をひそめたのではあるまいか。「夕波千鳥?そんな言葉は日本語にはない!」とか言っちゃったりして。現在でも「『書きあらわせれない』?そんな日本語は文法的におかしい!」と言ってるのと同じことが起きていたのではあるまいか。
言葉は常に変わるものなのだろう。「最近の言葉は崩れている」というのは、歴史上どの世代でも言われていたことらしい。人間歳をとると、だんだん変化に対応する柔軟性がなくなってきて、従来のあり方を勝手に善しと決め込んで固執するものなのだろう。
めったに解析結果を見ないが、たまに僕のBlogの読者さんはどういう興味の対象をもってるのかなぁと思って、検索ワードを見ることがある。みなさん、どういう検索ワードをググって「たくろふのつぶやき」に飛んでくるんだろう。
まぁ、ぶっちぎりの1位は「巫女みこナース」なんですけどね。
「たくろふのつぶやき」は「哲学・思想カテゴリー」です。
結構コンスタントに検索される言葉に、「さくらんぼの歌詞」というのがある。 去年のJ-Popを風靡した大塚愛の「さくらんぼ」の歌詞、「書きあらわせれない」という一節を検索してくるひとが結構多い。僕のページにリンクを張ってそこから飛んでくる人も結構いる。
まぁ、僕のBlogを読む世代はそんなに高齢でもなかろうから、一刀両断に「間違った日本語だ、けしからん」と決めつける人はいないみたい。曲を聞いていて「おやっ?」と思ってググってみた、という人が多いらしい。
この手の、曲に現れる新語はとかく批判の対象になる。日本語の崩壊だの、言葉の乱れはなんとかの乱れだの、口うるさいひとが結構いらっしゃる。意思疎通が困難なほど自分流の言葉で押し通すのは確かに慎むべきだろう。人が理解困難な言葉を自己流で押し通すとギャグにしか聞こえない。しかし何をいってるのかが新語によって却って分りやすくなる場合だってある。そういうときは「うまい表現だなぁ」と感心する感性も忘れないでおきたいものだ。新しい言葉遣いに対する姿勢は、あまり頭ごなしの一辺倒では硬直した姿勢に過ぎる。
『万葉集』に出てくる言葉は、現代の我々にとっては古きゆかしき雅な言葉で、みな由緒ある言葉のように見える。しかし、当時にしてみれば新語、俗語、略語のラッシュで「こんな言葉遣いはなっとらん」と年配世代の眉を顰めさせるものだった。事情は「さくらんぼ」を聞いて憤る手合のいる現代と何も変わってない。
とくに万葉集の第十六巻は滑稽ものを主に並べている。当然、こういう内容のときには言葉遣いも卑俗なものになる。「坊主」「刀自」「餓鬼」などは当時の外来語、現代で言えばカタカナ言葉に相当するものだった。
『万葉集』の有名な歌に、柿本人麿の「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古へ思ほゆ」がある。近江の旧都を訪れ、荒廃した光景に盛時をしのんで作った歌だ。現在では国語の教科書にも載っている、万葉集の代表歌のひとつだ。
しかし、この「夕波千鳥」という言葉、実はまったくの造語で、人麿がこの歌のために勝手につくったものらしい。「夕方の波の上を飛ぶ千鳥」の意味で「夕波千鳥」とは大胆極まる造語だ。発想の飛躍と、音を犠牲にすることなくイメージを鮮明に映し出す造語能力には恐れ入る。
しかし、この言葉を見た当時の古典趣味の長老たちは、一様に眉をひそめたのではあるまいか。「夕波千鳥?そんな言葉は日本語にはない!」とか言っちゃったりして。現在でも「『書きあらわせれない』?そんな日本語は文法的におかしい!」と言ってるのと同じことが起きていたのではあるまいか。
言葉は常に変わるものなのだろう。「最近の言葉は崩れている」というのは、歴史上どの世代でも言われていたことらしい。人間歳をとると、だんだん変化に対応する柔軟性がなくなってきて、従来のあり方を勝手に善しと決め込んで固執するものなのだろう。

