歩く騒音公害
(2005年1月30日 毎日新聞「余録」)


そういえば日本にはそういう音があったね。
陽気がよくなると、地下鉄を利用するのが憂うつになる。ミュールと呼ぶ高いヒールのサンダルを履く女性が増えるからだ。騒音のけたたましいこと。元々は室内履きなのに、7、8年前、素足に似合う、と外出用に売り出したら爆発的な人気を呼んだ商品だ▲靴底がかかとから離れる構造なので、着地の度に硬いヒールの先が思い切り地面をたたく。まるで歩く拍子木。特に階段を下りる時、甲高い騒音をまき散らす。履いている当人も頭のしんまで響いているだろうに、流行がすたれる気配はない▲げたが消えた昔を思い出す。30年ほど前までは、人々に重宝がられ、バンカラ学生も青春ドラマのヒーローも、げたがトレードマークだった。それが道路の舗装が進んだせいか、音が嫌われ、満員電車で踏まれたら痛いとも言われ出し、駆逐された▲神戸大学の環境音響学研究室のメンバーの実験では、ミュールの騒々しさはげたを上回るらしい。しかも、騒音の周波数が2000ヘルツから4000ヘルツという人間の耳の感度が良い周波数範囲に集中しているため、余計にうるさく聞こえるそうだ▲それでも、追放や自粛の動きが起きないのはなぜか。同研究室の森本政之教授は、建物の気密性が高まるにつれ、人々は屋内では以前気にならなかった音も気に障るようになったが、屋外の騒音には鈍感になっているという。「でも、ミュールの騒音はマナーとモラルの問題」と苦笑する▲辞任したNHK前会長の顧問就任が、視聴者の抗議を受けて撤回された。世論の正義感と意気軒高さに驚いたが、どこか批判は相手が落ち目になってから強まるように思えてならない。ミュールへの寛容さとも通底するとしたら、厚顔の利用者たちには足元を見られそうだ。