大学生の学力低下 国語教育の充実が急務だ
(2004年11月29日 産経新聞社説)


僕はもともと文部科学省がここ数年以来、初等教育の柱としてきた「ゆとり教育」という観点に反対だ。

理由はいくつかある。この「ゆとり教育」の失敗は、1990年代のアメリカですでに明らかになっていた。余暇の充実、勉強以外での自己啓発促進、など日本で耳にしているお馴染みのキャッチフレーズのもとで学校教育のカリキュラムを大幅に削減。その結果、陸軍配卒の新兵が銃器の取扱説明書が読めないという事態に陥るほど、若年世代の文章読解力が落ちた。

小学生、中学生の子供であれば、まぁ、やらなくてもよいのであれば勉強はしない。人間は、環境が緩くなればそれなりの緩まった生き方をしてしまうものだと思う。僕はゆとり教育前のカリキュラムで育ったが、「ゆとりがほしい」と切望するほど厳しいものだったとは思えない。人間、適度なプレッシャーがなければ充実した生活などできないと思う。

なかでも僕がゆとり教育に反対する最も大きい理由は、勉強するなかで非常に重要なことを文科省は無視しているような気がする、ということだ。

ある知識を習うとする。一度教室で覚える。その時にはなんとか理解できたとしよう。その一回きりの理解で、その知識は定着したと言えるだろうか。

「わかった」というのは、「話を聞いたときに理解できた」というものではないような気がする。本当にその知識を自由自在に使えるようになるまで定着したのか、習ったことを応用を効かされようが、逆から辿ろうが、裏から眺めようが、本当に迷い無く理解が追いつくのか。1回話を聞いて理解した、というレベルでは、本当に知識が定着したことにはならないと思う。

猛烈な反復学習こそが、成果となって表れるものだろう。小学校、中学校の段階での勉強など、「頭がいい」ことが求められるものではあるまい。天才でなければ理解できないような内容ではない。誰もが時間をかけてじっくり取り組めば、自ずと分かるようなレベルの知識だと思う。

要は馴れだと思う。勉強ができない子供は、一体1日何時間勉強して「わからない」と言っているのか。理科でも算数でも国語でも何でもいい。勉強で大事なのは、その分野にどっぷり浸って思考方法に馴れてしまうことだと思う。

国語という教科を考える。なんのことはない日本語だ。僕が見たところ、国語ができなかった生徒の共通した特徴は明らかだ。本を読み活字を目で追う絶対時間が、著しく少ないのだ。僕は小学生の5、6年生のときに全くと言っていいほど家で勉強しなかったが、本だけは滅茶苦茶に読んだ。1日、2、3冊は読み通してた。ときには小学生の理解力では追いつかないような本まで背伸びした読んだ。内容を完璧に理解したとは言い難いが、無駄だったとは思わない。読めないような難解な本でも、何度も何度も読み通すうちに、「だいたいこういうことを言ってるんだろうな」ということを感じられるようになるものだ。

ひと月に100冊以上の本を読んで、読書力が上がらない訳がない。僕は学生時代の最後まで、国語という教科のために特別の勉強をしなかった。古文、漢文だって、文法書や参考書で語法や知識を「勉強する」よりは、教科書に載ってる原文を100回音読した。そのほうが知識の定着が早いということを、なんとなく経験的に知っていた。

この、「繰り返しやっているうちに、なんとなくわかったと感じてくる」という理解の仕方は、学校教育では「そういうのは分かったとは言わない」いって退けられることが多い気がする。はっきりとした定義に基づき、理路整然としたロジックで、反復可能な説明方法をもってきちんと理解することが「わかった」ということで、一旦そういう理解に達すると、それはもう理解したものとして先に進む。

どうも学校では、「韋編三絶・読書百遍意自ずから通ず」的な勉強の仕方を根性論として嫌い、「頭にスパっと閃く瞬間理解」を目指しすぎるような気がする。たしかにきれいごとでは、そういうのを「理解した」と言うのだろう。しかし、僕が思うに、勉強するうえで必要なのは、分からないながらも丹念に考えながらじっくりと時間をかけ、意味を考えながら呻吟する時間の積み重ねではあるまいか。

実際問題として、僕はいま毎日のように論文を読んで、1回では理解できないことのほうが多い。しかし、何回も何回も時間をかけて読み通すうちに、うっすらと言いたいことが分かってくる。霧が少しずつ晴れて来て、最後には「ははぁ、こういうことを言いたい論文なのか」という理解に達する、というのが現実だ。

「ゆとり教育」の概要をはじめて聞いた時に感じたことは、文部科学省は「スパッと理解」式の勉強だけを重視し、「根性の韋編三絶式」の勉強を切り捨てたんだな、ということだった。そのバロメータが、国語の授業時間の縮小だと思う。国語の勉強は、数学や理科などの科学系とは方法が違う。ものが言語に関わるものだけに、スパっと理解するべきことはむしろ少ない。繰り返し繰り返し本を読み声を出し紙に書き、馴れることのほうが大事なのだ。

科学を志す人のなかに、この「根性の韋編三絶式」の方法論を嫌う人が多い気がする。科学の分野では、普遍的に共有可能な明確な形で知識を形式化することが目的だから、クリアな形での理解が得られないと気分が悪いのだろう。国語教育など学校教育に不要だと思う人もいるそうだ。しかし、世の中なんでも科学の思考法や価値観が当てはまるべきだいう態度はいかがなものか。非科学的で不条理に見える方法論が実は一番実効性がある、ということも、よくあることなのではあるまいか。家庭のお母さんが料理上手なのは、究極のレシピを知識として装備しているからではない。1年365日、絶え間なく料理し続けている圧倒的な経験値が、お母さんを料理上手にしているのだ。

初等教育の勉強に必要なのは、絶対時間量と背伸びだと思う。僕が小学生の頃に読んでいた本が「心配」を「心ぱい」、「骨折」を「こっ折」などと交ぜ書きしている本ばかりだったら、僕は読書力などちっとも上がらなかったと思う。分からなくても分からないなりに、考えながら、じっくり読む経験というのは、国語だけに限らず勉強一般にとって大切だと思うのだ。

もちろん、そういう勉強のしかたには時間がかかる。その時間を削減してしまった以上、国語力をはじめとして勉強力が低下するのは当然だろう。普通に考えて、勉強時間を削減して学力が伸びるはずがない。いまの初等教育の勉強のしかたでは、自分でじっくり考えながら繰り返し考え続け、何らかの知見に自ら達するような、「自ら進む能力」は啓発できないと思う。



さてと。勉強しよ。
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