「屁理屈」という言葉がある。

いったいどういう意味だろう。よく大人が子供を説教するときに、子供が口答えするときに「うるさい、屁理屈を言ってるんじゃない」などと説教をする・・・というのがよくある使い方だろう。

広辞苑で調べると、屁理屈とは「つまらぬ理屈。道理にあわない議論」という語義が載っている。広辞苑にしては淡白な定義だ。ある理屈が面白い、つまらないなどとどうやって決めるんだろう。

そもそも「理屈」とはどういう意味か。一般的には良い意味でも悪い意味でも使われているようだ。「理屈に合う」などというときにはいいもんだし、「理屈をこねる」などという時には悪い意味だろう。

辞書には二系統の意味が載っているようだ。

(1)物事の筋道、道理、ことわり
(2)こじつけの理由。現実を無視して条理、また、それを言い張ること。

それぞれが、いい意味、悪い意味に対応している。

ところが「屁理屈」という語彙には、まぁ、いい意味はない。そもそもの「理屈」に上記(2)のごとく悪い意味があるのだとしたら、悪い意味での「理屈」と、「屁理屈」という言葉にはどういう意味の違いがあるのだろう。

僕が思うに、理屈というのは「現実に即さず、机上の空論だけで成り立つ推論」ではあるまいか。ひとつひとつの論の連鎖には論理上の矛盾はないが、全体としてみてみると実際問題としてありそうにない。そういった「現実を無視した論旨」のことを「理屈」というのではあるまいか。

「風吹けば桶屋が儲かる」という落語みたいな言葉がある。

風が吹く

砂が飛んで人の眼に入る

盲人が多くなる

三味線の需要が増える

原料の皮が必要になるためネコが減る

天敵が減ってネズミが増える

ネズミが桶をかじるようになる

桶屋が儲かる。


まぁ、ひとつひとつのつながりだけ見ればそうなのかも知れないが。実際にそうなるかと言えばそうじゃないわけで。こういうのを「理屈」というのだろう。

では「屁理屈」とは何か。
僕の直感だが、「屁理屈」というのは、そもそも話者が意図していること、会話のスコープとなる前提を一切無視し、会話の前提と関係ない理屈を引っ張ってきて自己の正当性を主張しようとすること、ではあるまいか。

子供が親にゲームボーイアドバンスを買ってもらおうと思ってねだってるとする。実は僕も欲しい。親はあきらめさせようとして、いろいろと根拠を挙げる。


「だってさ、ゲームボーイって面白いんだよ」

「いかんいかん。第一、高いじゃないか。それにソフトだって次から次に欲しくなるだろうし。それにそんなの買ったら勉強しなくなるだろ。今はゲームボーイよりもすることがあるだろう。しかもあんな小さい画面、眼に悪いぞ。視力が悪くなったらどうするんだ。ゲームボーイなんて買ってもいいことなんてなーんもありゃせんぞ。」

「そんなことないよ。今、日本は景気が悪いんだよ。」

「・・・?」

「景気を良くするためには、みんながお金を使わなきゃいけないんだよ。ゲームボーイは高いし、ソフトだって買わなきゃいけないけど、そうやってお金を使えば日本の景気が良くなっていくんだよ。父ちゃんはゲームボーイを買ってもいいことなんてなんもないって言うけど、そんなことないよ。日本の景気を考えれば買うことはいいことなんだよ。」


と、まぁ、こういうのが「屁理屈」だろう。
父親が「ゲームボーイを買うことはいいことではない」という根拠は、ひとえに子供一人の成長過程を鑑みての言葉だ。ここで話題になるのは、当該の子供ひとりにとって良いか悪いか、である。それが「会話のスコープ」となっている。ところがそれに反論する子供は、その会話の前提を外れて「日本の景気」などという、会話の前提の外にある事例を根拠として持ち出している。こういう、そもそも会話がどのレベルを話題としいいて行われているのかを無視してとんでもないところから根拠を持ち出し自分の主張を正統化するような物言いが「屁理屈」だろう。

だから父ちゃんの立場からすれば、ゲームボーイ購入が日本の景気に及ぼす影響の議論などに付き合う必要はない。「屁理屈言っとるんじゃない。今、日本の景気の話なんかしとらん!」と一喝すればいい。あくまでも話題の土俵の上で話をすればいいのであって、場外乱闘を目論む子供の屁理屈に付き合ってはなるまい。

すなわち、「今、そんな話をしてるんじゃない」というのが屁理屈だろう。屁理屈も理屈のひとつだから、一応論理の筋は通っている。ところが日常会話においては「論理の筋が通ってる」イコール「妥当な言明」というわけではない。会話には話題の領域というものがある。その領域を無視して「理屈は通ってるぞほれほれ」という物言いが「屁理屈」だろう。

そういえば最近、理屈をこねてないなぁ。