今回の記事には2点、推理小説のネタばらしが含まれてます。本格派推理小説ファンは読み飛ばしてください。推理小説のエチケットには反するけど両作品とも著名な作品なので許してねハート


今日も今日とてシャーロック・ホームズ三昧。
「まだらの紐」はやっぱり名作だと思う。

蛇は耳がほとんど聞こえないので口笛では呼び戻せないとか、蛇はは虫類でミルクは飲まないとか、いろいろとつじつまが合わないところはあるがまあそれはよかろう。事件をおこす犯人を待ち伏せる恐怖の張り込みの夜の緊迫感がこの作品の命だろう。

そうはいっても、この話には最初から気に入らないところがある。原作者のコナン・ドイルが悪いのではない。翻訳の工夫がほしいところだ。
それは題名。

「まだらの紐」の原作名は「スペクルト・バンド」という。実は、この題名は掛詞になっており、ふたつの意味がある。「バンド」というのは「ひも」という意味の他に、「集団、一団」という意味がある。ギターにベース、ドラムにキーボード、ボーカルの「バンド」だ。

つまり「スペクルト・バンド」という題名には、「まだら模様の紐」という意味と、「だんだら模様の服を着た集団」というふたつの意味があるのだ。実際、原作のなかでは事件のおきた家の付近に怪しげなジプシーの一団が野営しており、彼らの犯行でないかと疑われている。題名を原作で読むと、題名そのものがひっかけになっているように作られているのだ。作品の冒頭で犠牲者となる女性の最後の言葉は「ス、スペクルト、バンド...」だが、この言葉もどっちの意味かがわからないようになている。

ところがそれを日本語に訳すと、「まだらの紐」。どっちの意味が正解かをバラしてしまっている。「スペクルト・バンド」という題名そのものが英語の掛詞なので、そもそもこの題名は和訳不可能ということだろう。そのことがこの物語を翻訳で読むつまらなさの原因になっている。このように、ある言語で掛詞をつかると、基本的にその物語は他の言語に翻訳不可能ということになろう。

横溝正史に『獄門島』という作品がある。鐘の下敷きになったり逆さ吊りにされたりと猟奇的趣味の強い作品だ。この作品にも、翻訳不可能な掛詞が謎解きのキーになっている。
とある旧家の三人娘が次々に殺される。そのなかのひとり、花子はお寺の梅の木に逆さ吊りにされて殺されていた。それを見た住職の坊主が

「きちがいじゃが仕方がない」

とつぶやく。それを金田一耕助が小耳に挟み、住職に問いただす。「きちがいだから仕方がない」だったら話は分かるが、「きちがいじゃが仕方がない」とはどういうことか。それを問われた住職は、くわっと大きな眼をむき、痙攣したようにその場に突っ伏し、無言のまま肩を震わせた。

実はこの連続殺人は俳句を踏まえたものだった。件の逆さ吊り殺人も、其角の「鶯の身をさかしまに初音かな」に見立てたものだ。鶯は春の季語。俳句は春の句でありながら、殺人は秋に起きている。住職は「季違いじゃが仕方がない」とつぶやいたのだ。金田一耕助はそれを「気違いじゃが仕方がない」と勘違いした。その言葉を問われた住職は涙にむせび慟哭していたのではない。金田一耕助の勘違いに大爆笑したいのを懸命にこらえ隠していたのだ。

「気違い」そのものが社会的にかなりギリギリの日本語だろう。むしろアウトかもしれない。しかも、日本語の掛詞をつかっているため、いかな名作といえどこの作品は翻訳不可能だ。俳句を使っている時点でかなり翻訳は厳しいが、掛詞を使うに至って完全に不可能と言える。

こういう、言葉そのものにトリックのある本はどうやってもその面白さを訳すことができない。映画の「オースティン・パワーズ」など、字幕で見たってちっとも面白くあるまい。あの映画の下品な言葉遊びの面白さはとうてい訳せるもんではない。

語学を勉強するのに、「そういう作品の妙を味わうため」というのはいい動機づけかも。