言語学をやってて思うことがある。

世界中の言語を見てみると、やっぱり隣接している地域の言語はよく似ている。相互に交流があったのだろうし、もしかしたら太古の昔には同じ人種だったのかもしれない。脳の作りも似ているんだろう。

日本人である僕は英語がいまいち上達しきれない。なんというか、発音が日本人なのだ。テレビを見ていて日本紹介の番組を見るともなしに流しっぱなしにしてしまうことがあるが(そのあいだにこんなblog書いてたりするんだが)、在米日本人がコメントをしているときにはすぐそれと分かる。発音が明らかにヨーロッパ人と違うのだ。考えてみりゃ、地球の反対側の言葉を使ってるんだ。すぐに流暢になれる方がウソだろう。

ヨーロッパ人は英語がうまい。当たり前のような気がするが、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語などは単語、文法など英語と派手に違う特徴を持っている場合が多い。これはなんとしたことか。
要するに、類似の違いじゃないだろうか。例えば、ドイツ人が英語を学ぶというのは、言ってみればサッカー部だった学生がラグビー部にコンバートするようなものなのではないだろうか。違うスポーツではあっても、どことなくにているところがある。要求される能力がかなり似通っている。それに比べ、日本人が英語を学ぶというのは、言ってみれば剣道部だったのが登山部に転向するようなものではなかろうか。あまりにも特質が違いすぎる。

日本人は文法を叩き込まれて育つため、慣れないうちは頭の中で英作文してから話す癖がある。僕もはじめはそうだった(今は違うのかとか突っ込むなバカ者)。ところが、ヨーロッパの奴らが英語を話すときには、母国語の語順をそのまま使うだけでそのまま自然な文になれるということが多いのではないだろうか。日本語は語順が自由で、

僕が 学校に 明日 荷物を届けに 行く
僕が 明日 学校に 荷物を届けに 行く
僕が 学校に 荷物を届けに 明日 行く
学校に 明日 僕が 荷物を届けに 行く
荷物を届けに 僕が 学校に 明日 行く
学校に 僕が 荷物を届けに 明日 行く
明日 僕が 荷物を届けに 学校に 行く
明日 僕が 学校に 荷物を届けに 行く

要するに最後が動詞でありさえすれば真ん中の語順はどうでもよい。こんな自由奔放な言語能力を持っている日本語話者が、基本的には正しい語順は一通りしかない英語を勉強すると、窮屈さを感じるのはあたりまえだ。ヨーロッパの言語は、おおむね正しい語順が一つに定まっているので、単語を並べて文を作るときに、母国語の能力をそのまま外国語に使える場合が多いらしい。世界共通語とか言っちゃって実はヨーロッパですら通用しないエスペラント語は一応、各国の語順の最大公約数的な文法を持っている。こういう人造言語が曲がりなりにも成立可能なところがヨーロッパ言語の類似性を示している。

実はドイツ人の英語は少し聞きにくい。動詞が最後にくることがたまにあるからだ。語順の差異に敏感なのは専門病かもしれないが、音に対する習熟度もヨーロッパ人とアジア人では異なる。しょせん同じヨーロッパ、言語の持つ音はそれぞれ似通っている。中国人の留学生とヨーロッパからの留学生で、どちらが早く日本語が流暢になるかというのと似ているのかもしれない。

今のヨーロッパは本気でEU統合を考えている。国境がなくなったら、言語的に興味深い融合が起きるのではなかろうか。ドイツ語とフランス語を足して二で割った言語なんて想像しにくいが、時間の問題のような気もする。言語変化は100年単位の大きな流れだが、今の時代はその節目にあたってるような気がする。僕はヨーロッパの新聞の文芸欄を読むたびに、その辺に注目して読んでいる。