先日、センター試験についての記事を読んで思ったことをちょろっと書いたら、思わぬ反響が多くてビビッた。

blogを書いてる皆さん、どれほどのコメントを受け取っていらっしゃるのだろう。
今まで、「おもしろく読ませていただいてます」のようなメールを何回か受け取ったことがある。中にはblog上でコメントをつけてくださる方もいらっしゃる。非常にうれしい。が、今回はコメントがゼロだったにも関わらず水面下でメールを結構送られてびっくりした。トピック別過去最高量。中にはまさしく受験真っ最中の高校生からのメールもあった。慌てたような様子のやつもあったし、中には殺気立ったメールもあった。こんなblog読むくらいなら勉強しろよ受験生。
まぁいいや。世の高校生が主張してることはだいたい間違ってるけど、それを高校生が主張するってこと自体は正しいのだろう。

えーと。
なんの為に勉強するのか、だったっけ。

簡単だ。
楽しむためである

勉強は、他に何の目的もない、楽しむためにするものだと思う。単純に、謎を見つけて、それに対する説明を思いつくという、鋭い発見の喜びを味わうためにやるものだ。はっきり言って娯楽だと思う。

世の中には、「学問というのは世の中を進歩させ、技術の向上をもたらし、豊かな日常生活に直結している気高い行為だ」という誤解をしている人が多いと思う。大学で研究に携わる者で、「世のため人のために役に立つ研究をしよう」などと思って研究をしている者など誰一人いない。みな、自分で「なんでだろう」と疑問に思ったことを、納得いくまで考えることを止めない5歳児がそのまま大人になった者ばかりだ。「大学院で勉強をしています」と人に堂々と言う大学院生はいない。誰もが、「単に自分は楽しいことを続けているだけ」という意識があるからだ。しかも、国立大学の場合は国民の皆様の血税を享受している。

学問は、基本的に役に立たないものだ。しかし、役に立たないことは価値がないことを意味しない。

学問の価値は、絶対的に、人間のみに許された特権を享受することにある。
人間は、この世に遍く存在する事物のなかで例外的に、己の力で自己を変えることができる。たとえば石ころは、置いておいたらいつまでたっても石ころのままだし、ニワトリは本能の命じるままに生きているにすぎず、いつまでたっても精神的成長など起こらない。ところが人間は、外部から影響を受けることなく、己の意思と力で自分の能力を上げることができる。実存主義のサルトルはこのことを「人とは、あるところのものではなく、ないところのものである」と表現した。禅問答みたいだが、噛み砕くといっていることは簡単だ。人は、「今現在の状態の自分」から成長して、「そうではない自分」になることができる(「あるところのものではない」)。また反対に、「今現在は自分に手の届かない高い位置にいる存在」に、「今現在の自分」を変えることができる(「ないところのものである」)。人間がこういう能力を持つのは、思考能力を持つからだ。パスカルの言葉「人間は考える葦である」というのも、基本的には同じことを言っていると思う。

勉強というのは、「それまでの自分」から脱却し、「今までにはあり得なかった自分」に変わる行為だ。今まで自分では分からなかったことが分かるようになり、見えなかったものが見えるようになる。その動力となるのが知識欲だ。人間には食欲、性欲、睡眠欲、排泄欲、自己実現欲などの欲求があるが、知識欲はそれらの欲求とは明白な違いがある。それは、「決して満たされることがない」という点だ。ひとつ分かると、さらにその先に自分が知らないことが見えてくる。世の中は、解かれていない謎だらけだ。その謎を発見し、自分でその謎を解く。これは、人間のみに与えられた栄光だろう。世界でただ一人、自分しか考えていない謎がある、というのは例えようもない興奮だ。

「オレは勉強なんて役に立たねぇことはしねぇぞ」と仰る方がいる。そういう人に問いたい。その人が日々行っている「役に立つこと」とは何だろうか。ビールを飲むことか。テレビで野球中継を見ることか。コンビニでエロ本を立ち読みすることか。「うるせぇ、そういうのは楽しいからいいんだよ」と仰るかもしれない。そこで最初に戻る。勉強も、本来楽しいものなのだ。学校における初等教育では、勉強の楽しみ方こそを教えるべきである。楽しみに一旦火がつけば、あとは放っておいても自分で勉強をするようになるのだ。高校生が「数学が一体なんの役に立つのか」という疑問をもつとしたら、受けてきた教育が失敗だったということだろう。「勉強の喜び」というもっとも大事なことを味わってこなかったということだ。私見では、難問に見えるものが、ちょっとした閃きでスパっと解ける快感は、数学という科目が最も味わい深かった気がする。

ニュートンは「プリンキピア」を執筆した2年間、一切のレクリエーションを取らず、睡眠中以外はぶっ通しで研究と執筆に明け暮れたという。食事さえ忘れる集中力だったそうだ。世の中のしくみについての概念を革新的に変えた研究の最中には、ニュートンは他のレクリエーションなどどうでもよく思えるほど、自らが発見する知見に驚き、興奮し、喜びを見出していたのではないだろうか。人間は苦痛なことを意志の力で継続できるようにはできていない。楽しいからこその勉強であり、学問だろう。ニュートン物理学は近代文明の基礎となり、科学技術を飛躍的に進歩させた。しかし、研究中のニュートンは、自分の研究がどれほど世の中の役に立つかなどは微塵も考えず、ただひたすら発見の興奮を楽しんでいたのではあるまいか。

去年、阪神タイガースが劇的なリーグ優勝を遂げた。日本中が沸き、久々のトラフィーバーを楽しんだ方も多いだろう。僕はあまり野球を見ないが、その僕にして去年の阪神を中心とした野球は面白かったと思う。阪神優勝の経済効果はものすごく、関西を中心に景気の回復の起爆剤となった面もあろう。
しかし、当の阪神の選手達は、何を考えて野球をしていたのだろうか。ただ単に「勝つ」。もっと具体的には「次の球を打つ」「次の一球はあのコースに決める」ということしか頭にないのではなかろうか。間違ってもバッターボックスやピッチャーマウンド上で「元気のない日本に活力を与えよう」とか「日本の景気を少しでも回復させよう」などとは微塵も考えていないに違いない。

大学で学ぶ者と、阪神の選手は、基本的に同じ立場に置かれている。つまり、「自分が成し遂げるべきこと」と、「成し遂げたことによって世の中にもたらせるもの」は、まったく別物なのだ。阪神フィーバーは、純粋に阪神の選手だけによってもたらされたものではない。阪神グッズを製造・販売する業者、阪神の快進撃を連日伝えるマスコミ、球場に足を運ぶファン、そういった「選手以外の人たち」によって、世の中に影響がもたらされているのだ。
大学でもたらされた研究結果が、具体的な技術革新をもたらし、我々の生活を豊かにしてくれることは確かにある。しかしそこには、研究結果を具体的な利用価値のある技術に転換する仕事をしている者が必ずいる。こういう、「純粋な学問」と「我々の日常生活」には、見えない関係を結んでいる無数の努力が存在している。
虚数は紀元前に発見されている。当時は「2乗してマイナスになる数」など、日常生活上でなんの価値もなかったにちがいない。しかし現代では、コンピューターが飛行機の離着陸の時の浮力計算をするときに、虚数値を代入しないと計算不可能な演算がある。

国立大学、州立大学で税金を投入していただいて研究する立場としては、自分が発見し興奮した喜びを、世間の皆様にも味わっていただくように研究結果を公開する義務がある。そうすることにより、大学外の世界にも思考の喜びを享受できる機会が増えることになるだろう。それが文明国のあるべき姿だと思う。「大学の研究が役に立たないのなら、そんなものに税金を払うのは反対だ」という人は、そういう税金がない代わりに、大学をはじめ学問研究機関が一切なく、新しい知見が一切生まれることのない国を想像してみるといい。役に立たないという理由で数学、物理、古典、歴史を教えず、ひたすら職に「役立つ」技術や知識だけを徹底して詰め込む。自分の子供を、そういう文化環境のもとで育てることにも賛成できるだろうか。

はっきり言って、日本の大学の授業はつまらない。役に立つ勉強など、探してもどこにもない。大学とは、教わる場所ではなく、自分で自ら学ぶ場所だ。「世のため人のため役に立つ学問を修めよう」と青雲の志をもって桜の季節を迎える好青年は、賭けてもいい、半年で潰れる。勉強をする意義のいちばんおいしいところを勘違いしている限り、大学など苦痛以外の何者でもない。それに気付かず、辞めていく者も多い。

大学に入る高校生が「役に立つ勉強をしたい」などと口走る時点で、自分の限界を自分で作っている。自分がなにか役に立てるものを見つけたら、はいそれでおしまい、というのではなく、尽きせぬ謎にがむしゃらに取り組み、飽きることなく考え続け、与えられた4年間の間、発見の喜びを可能な限り追求して己の限界をぶち抜き、入学時には「ないところのものであった」自分になって卒業するような気概が欲しい。