細き流れを集め来て 木を裂き岩を穿ちつつ
大河滔々波を揚ぐ これ大利根の壮観ぞ
朝(あした)に花の露を受け 夕べに藤の陰浸し
八千草匂ふ武蔵野を 二つに断ちて流るなり
時勢を創る英雄の 姿は此れに似たらずや
忍耐剛毅我が剣 誠実質素我が盾
どこの漢詩から取ってきた一節だとお思いだろうか。
実はこの詩は、私の出身高校の校歌である。これで全部。この校歌には校名が入っていない。私の高校時代は、この校歌の基に全校生徒が同じ魂を共有したものだ。大学時代に教育実習で久しぶりに母校に戻ったときにも、私の在学時代と何も変わっていなかった。実習の最終日には、学生全員が肩を組み輪になって校歌を張り上げエールを切ってくれ、響き渡る大声に職員室の先生方が苦笑いしていた。この学校の卒業生は、何年経っても校歌を諳んじることができる。
良い詩が心に残るのはなぜだろう。
思うに、人は詩を頭で読むのではなく、心で読むのではないか。詩には、明晰な論理も首尾一貫した主張もない。詩が表すのは、壮大な景色であり、人の情であり強さであり優しさである。理性を働かせて読むものではないために、詩とは理解するものではない。感じるものだと思う。言語のあり方に携わるもののはしくれとして、言語を用いる表現形態としてやや異端な「詩」というものの存在は、前からずっと気になっていた。
詩が情で読むものであるとしたら、情を直接揺さぶる工夫がしてある方が心に直に届きやすい。詩が理性を通り越して感情に届くのは、詩に特有で、他の言語表現形態が持ち得ない特徴、つまり「韻律」のせいだと思う。人はリズムを理性で暗記するのではない。身体に、脳に、染み込ませて覚えるのだ。統一された韻による直接的な揺さぶりが、理性の気付かぬところで感情に影響を与えるのだろう。詩は、音にされて始めて生命を持つ。音のない詩は、情報を伝えるだけの詩の抜け殻だ。
ヒトラーの演説の録音を聞いたことがある。「催眠術」と評される彼の演説は、一字一句記された文面を読むと、それほどたいしたものではない。むしろ退屈で、論旨が一貫せず、論理が飛躍している。ところがどうだろう、演説を録音で聴くと、ものすごい統一されたリズムをもって詩を謡うような「流れ」がある。聞いて改めて文面を読むと、細かく頭韻、脚韻が踏んであることに気付く。実際に演説を見ると、もっともの凄かったらしい。ヒトラーの演説は、必ず夕暮れ時、日が沈む1時間ほど前に行われたという。演説をするヒトラーに夕日が後ろから差すように場所や向きが周到に計算されていた。そのようなドラマチックな演出に加え、全員が同じハーケンクロイツをつけた軍服を着ているという連帯感が相まって、ナチスの結束力は生まれていた。
シェークスピアの歴史物(「歴史劇」ではない。念のため)の中に、『ジュリアス・シーザー』という作品がある。「ブルータス、お前もか」というセリフはよく知られているが、このセリフを創ったのがシェークスピアであることはあまり知られていない。この作品は、大衆煽動の例としてよく引き合いにされる。
物語はシーザー暗殺後が中心となっている。己の大義を信じてシーザーを暗殺したブルータスは、なぜ自分がシーザーを暗殺せねばならなかったのかを、広場で一般大衆に演説する。彼はシーザーを愛していたこと、また祖国を愛しているがゆえに彼を殺さざるをえなかったことを告げ、市民に称えられる。ブルータスの演説の直後に、やはりシーザーの忠臣であったアントニーが弔辞を述べる。彼はブルータスら暗殺者たちを責めることはせず、シーザーが野心など微塵も持っていなかったことを強調する演説を行った。その結果、どうなったか。
アントニーの演説には、ところどころに民衆を焚きつける工夫がこらしてあった。アントニーの演説を聴き、先ほどまでブルータスの心意気を賞賛していた民衆は態度を一変、ブルータスを国賊、謀反人呼ばわりして暴動を起こす騒ぎとなったのだ。そのためブルータスら暗殺者たちは命からがらローマを脱出する羽目になる。
ブルータスとアントニーの演説がこの作品のハイライトだが、二人の演説を比べてみると、文章の違いがよく分かる。
ブルータスの演説は整然とした理詰めだ。原因を説明し、解決案を列挙し、他の要因を考慮し、残された方法はシーザー暗殺しかありえない、と「論証」している。それに対し、アントニーの演説は詩といって良い。韻を踏む、一定した韻律をもつ、リフレインを効かせる、すべてが流れるように「詠唱」されている。民衆に直接影響するのはどちらか、火を見るよりも明らかだろう。私が大学でこの物語を読んだときに、「ブルータスの演説の論旨を論理的にまとめてこい、アントニーの演説を100回朗読してこい」という宿題が出た。
アフリカのルワンダという国で1994年、信じられない虐殺事件が起きた。この国はフツ族とチツ族という部族に分かれているが、両族間で婚姻関係も結ばれるほど密接な関係にあった。ところがチツ族を嫌う過激派がフツ族民を煽動し、チツ族を大量虐殺する内乱状態に発展した。このときフツ族過激派が煽動手段として使ったのはラジオだった。「千の丘ラジオ(千の丘・自由ラジオテレビ)」という放送局は、軽快な語り口、今でいうラップのようなリズムに乗せてチツ族静粛を呼びかけた。その結果、興奮したフツ族民は「マシェット」と呼ばれるナタや斧やナイフ、さらに銃や手榴弾を使って、昨日まで隣人であった多くのツチ族を虐殺していった。この虐殺事件については、1998年1月18日にNHKスペシャル『なぜ隣人を殺したか――ルアンダ虐殺と煽動ラジオ放送』が放映されている。
「リズムが人の感情に及ぼす影響」に仰天した例に、映画「太陽がいっぱい」がある。
あなたに好きな異性がいたとする。その人は残念ながら、あなたの友人の恋人である。さて、ある事故でその友人が死んだ。悲しみに暮れるあなたの想い人はひとりぽっち。これはチャンス。さぁ、どうやってその人にアプローチするか。
「友人は可哀想でしたね。それはそうと、これからは私と付き合いませんか」などと正面攻撃をかけるのは愚の骨頂だろう。こういう状況に置かれたアラン・ドロンはどうしたか。
夕暮れ時、仄かな明かりに照らされる部屋で、アランは彼女の後ろから背中をそっと抱く。ギターを手に取り、後ろからギターを持たせ、彼女の手をとり、彼女の指でギターをつまびかせる。他の音は一切なし。彼女の手を取って途切れ途切れにつまびくギターだけが流れる。言葉は何もない。
その道の達人によると「薄暗さ、身体接触、音楽」は落とすための3大要素なのだそうだ。真昼間の太陽の下で、5メートル離れたところから自分の魅力を論理的に説得するのはダメらしい。百万言の金科玉条よりも、ポロンと弾くギターの方が、彼女の心を揺らすらしい。しかもこの映画はアラン自身がその友人を事故に見せかけて殺しているのだから、なおさら度肝を抜く。
人間は、理性では分かっていながら情に流されて不可解な行動をとってしまうことがある。相当に賢い人間でもその轍は踏んでいる。人がそのような行動に出る原因は何なのか、また意図的に人をそういう行動に駆り立てるようにするための方法はあるのか、私は常々興味を持っていた。そういう不埒なことを考えると、理性と感情のそれぞれについて、違いをはっきりさせたくなる。私は従来、理性側の人間で、人の感情についてはあんまり興味がなかったが、感情というものを理性で把握しようとする分にはなかなか面白そうだということが分かった。もうちょっと上達すると、己だけでなく、人の感情までもコントロールできるようになるかもしれない。そうなったらもっと面白い。
私の感じるところ、英語の韻律は煌びやかで美しいが、日本の詩歌や漢詩のような重厚な深みがない。日本の詩歌は1500年以上の歴史がある。重みがあって当然だ。高々500年足らずの歴史しか持たない欧米の詩歌が日本の韻律に深みで対抗しようなど、文字通り1000年早い。日本古来の韻律に基づく母校の校歌は、十数年の時を隔てて尚、在校当時の魂を召還せしめる力がある。この韻律の力を、あらゆる方向に自由自在に使えたとしたら、と想像されたい。もの凄い呪術だと思う。
大河滔々波を揚ぐ これ大利根の壮観ぞ
朝(あした)に花の露を受け 夕べに藤の陰浸し
八千草匂ふ武蔵野を 二つに断ちて流るなり
時勢を創る英雄の 姿は此れに似たらずや
忍耐剛毅我が剣 誠実質素我が盾
どこの漢詩から取ってきた一節だとお思いだろうか。
実はこの詩は、私の出身高校の校歌である。これで全部。この校歌には校名が入っていない。私の高校時代は、この校歌の基に全校生徒が同じ魂を共有したものだ。大学時代に教育実習で久しぶりに母校に戻ったときにも、私の在学時代と何も変わっていなかった。実習の最終日には、学生全員が肩を組み輪になって校歌を張り上げエールを切ってくれ、響き渡る大声に職員室の先生方が苦笑いしていた。この学校の卒業生は、何年経っても校歌を諳んじることができる。
良い詩が心に残るのはなぜだろう。
思うに、人は詩を頭で読むのではなく、心で読むのではないか。詩には、明晰な論理も首尾一貫した主張もない。詩が表すのは、壮大な景色であり、人の情であり強さであり優しさである。理性を働かせて読むものではないために、詩とは理解するものではない。感じるものだと思う。言語のあり方に携わるもののはしくれとして、言語を用いる表現形態としてやや異端な「詩」というものの存在は、前からずっと気になっていた。
詩が情で読むものであるとしたら、情を直接揺さぶる工夫がしてある方が心に直に届きやすい。詩が理性を通り越して感情に届くのは、詩に特有で、他の言語表現形態が持ち得ない特徴、つまり「韻律」のせいだと思う。人はリズムを理性で暗記するのではない。身体に、脳に、染み込ませて覚えるのだ。統一された韻による直接的な揺さぶりが、理性の気付かぬところで感情に影響を与えるのだろう。詩は、音にされて始めて生命を持つ。音のない詩は、情報を伝えるだけの詩の抜け殻だ。
ヒトラーの演説の録音を聞いたことがある。「催眠術」と評される彼の演説は、一字一句記された文面を読むと、それほどたいしたものではない。むしろ退屈で、論旨が一貫せず、論理が飛躍している。ところがどうだろう、演説を録音で聴くと、ものすごい統一されたリズムをもって詩を謡うような「流れ」がある。聞いて改めて文面を読むと、細かく頭韻、脚韻が踏んであることに気付く。実際に演説を見ると、もっともの凄かったらしい。ヒトラーの演説は、必ず夕暮れ時、日が沈む1時間ほど前に行われたという。演説をするヒトラーに夕日が後ろから差すように場所や向きが周到に計算されていた。そのようなドラマチックな演出に加え、全員が同じハーケンクロイツをつけた軍服を着ているという連帯感が相まって、ナチスの結束力は生まれていた。
シェークスピアの歴史物(「歴史劇」ではない。念のため)の中に、『ジュリアス・シーザー』という作品がある。「ブルータス、お前もか」というセリフはよく知られているが、このセリフを創ったのがシェークスピアであることはあまり知られていない。この作品は、大衆煽動の例としてよく引き合いにされる。
物語はシーザー暗殺後が中心となっている。己の大義を信じてシーザーを暗殺したブルータスは、なぜ自分がシーザーを暗殺せねばならなかったのかを、広場で一般大衆に演説する。彼はシーザーを愛していたこと、また祖国を愛しているがゆえに彼を殺さざるをえなかったことを告げ、市民に称えられる。ブルータスの演説の直後に、やはりシーザーの忠臣であったアントニーが弔辞を述べる。彼はブルータスら暗殺者たちを責めることはせず、シーザーが野心など微塵も持っていなかったことを強調する演説を行った。その結果、どうなったか。
アントニーの演説には、ところどころに民衆を焚きつける工夫がこらしてあった。アントニーの演説を聴き、先ほどまでブルータスの心意気を賞賛していた民衆は態度を一変、ブルータスを国賊、謀反人呼ばわりして暴動を起こす騒ぎとなったのだ。そのためブルータスら暗殺者たちは命からがらローマを脱出する羽目になる。
ブルータスとアントニーの演説がこの作品のハイライトだが、二人の演説を比べてみると、文章の違いがよく分かる。
ブルータスの演説は整然とした理詰めだ。原因を説明し、解決案を列挙し、他の要因を考慮し、残された方法はシーザー暗殺しかありえない、と「論証」している。それに対し、アントニーの演説は詩といって良い。韻を踏む、一定した韻律をもつ、リフレインを効かせる、すべてが流れるように「詠唱」されている。民衆に直接影響するのはどちらか、火を見るよりも明らかだろう。私が大学でこの物語を読んだときに、「ブルータスの演説の論旨を論理的にまとめてこい、アントニーの演説を100回朗読してこい」という宿題が出た。
アフリカのルワンダという国で1994年、信じられない虐殺事件が起きた。この国はフツ族とチツ族という部族に分かれているが、両族間で婚姻関係も結ばれるほど密接な関係にあった。ところがチツ族を嫌う過激派がフツ族民を煽動し、チツ族を大量虐殺する内乱状態に発展した。このときフツ族過激派が煽動手段として使ったのはラジオだった。「千の丘ラジオ(千の丘・自由ラジオテレビ)」という放送局は、軽快な語り口、今でいうラップのようなリズムに乗せてチツ族静粛を呼びかけた。その結果、興奮したフツ族民は「マシェット」と呼ばれるナタや斧やナイフ、さらに銃や手榴弾を使って、昨日まで隣人であった多くのツチ族を虐殺していった。この虐殺事件については、1998年1月18日にNHKスペシャル『なぜ隣人を殺したか――ルアンダ虐殺と煽動ラジオ放送』が放映されている。
「リズムが人の感情に及ぼす影響」に仰天した例に、映画「太陽がいっぱい」がある。
あなたに好きな異性がいたとする。その人は残念ながら、あなたの友人の恋人である。さて、ある事故でその友人が死んだ。悲しみに暮れるあなたの想い人はひとりぽっち。これはチャンス。さぁ、どうやってその人にアプローチするか。
「友人は可哀想でしたね。それはそうと、これからは私と付き合いませんか」などと正面攻撃をかけるのは愚の骨頂だろう。こういう状況に置かれたアラン・ドロンはどうしたか。
夕暮れ時、仄かな明かりに照らされる部屋で、アランは彼女の後ろから背中をそっと抱く。ギターを手に取り、後ろからギターを持たせ、彼女の手をとり、彼女の指でギターをつまびかせる。他の音は一切なし。彼女の手を取って途切れ途切れにつまびくギターだけが流れる。言葉は何もない。
その道の達人によると「薄暗さ、身体接触、音楽」は落とすための3大要素なのだそうだ。真昼間の太陽の下で、5メートル離れたところから自分の魅力を論理的に説得するのはダメらしい。百万言の金科玉条よりも、ポロンと弾くギターの方が、彼女の心を揺らすらしい。しかもこの映画はアラン自身がその友人を事故に見せかけて殺しているのだから、なおさら度肝を抜く。
人間は、理性では分かっていながら情に流されて不可解な行動をとってしまうことがある。相当に賢い人間でもその轍は踏んでいる。人がそのような行動に出る原因は何なのか、また意図的に人をそういう行動に駆り立てるようにするための方法はあるのか、私は常々興味を持っていた。そういう不埒なことを考えると、理性と感情のそれぞれについて、違いをはっきりさせたくなる。私は従来、理性側の人間で、人の感情についてはあんまり興味がなかったが、感情というものを理性で把握しようとする分にはなかなか面白そうだということが分かった。もうちょっと上達すると、己だけでなく、人の感情までもコントロールできるようになるかもしれない。そうなったらもっと面白い。
私の感じるところ、英語の韻律は煌びやかで美しいが、日本の詩歌や漢詩のような重厚な深みがない。日本の詩歌は1500年以上の歴史がある。重みがあって当然だ。高々500年足らずの歴史しか持たない欧米の詩歌が日本の韻律に深みで対抗しようなど、文字通り1000年早い。日本古来の韻律に基づく母校の校歌は、十数年の時を隔てて尚、在校当時の魂を召還せしめる力がある。この韻律の力を、あらゆる方向に自由自在に使えたとしたら、と想像されたい。もの凄い呪術だと思う。

