「やさしい人」ってどんな人?
以前、非常勤で教えていたときに、学期末に授業評価のアンケートをしていた。私が勤めていた学校は語学系ということもあって、9割を女の子が占める。
ひととおり授業についてのアンケートを作ったあとで、スペースが余ると、「好きな音楽は」「よく行く遊び場所は」「好きな異性のタイプは」などの質問を付加していた。興味の集中はすべて最後の質問にあることは言うまでもない。
「お金をいっぱい持ってる人」
「服のセンスがいい人」
「話が面白い人」
「イケメンくん・かっこいい人」
…きみたち正直なのね。
ちょっとは繕えよ。
そういう正直な回答のなかで、相変わらずもれなく挙げられる条件があった。
それが、「やさしい人」。
今も昔も、「やさしい人」というのは異性に対する条件としては不動の一位だろう。
とはいえ、どういう人が「やさしい人」なのか、休み時間に女の子に聞いてみたりする。
「えー、よくメール入れてくれる人とか」
「夜、寂しいと電話してくれるとか」
「記念日をちゃんと覚えててプレゼントしてくれるとか」
「会いたくなったらいつでも会いに来てくれるとか」
「荷物が重いときに持ってくれるとか」
それは「マメな人」じゃないのか?
どうも、最近では手数(てかず)の多さをかけることが「やさしさ」と呼ばれているようだ。メールだの電話だの誕生日だの、そんなものは自分の人生を顧みたときに本当に根本的な要因を成していると言えるだろうか。自分が生きていくうえで、それほど大事なものなのだろうか。蓋し、最近では目先の気持ちを満たしさえすれば、それが「やさしさ」と呼ばれるようだ。
どうやら、私の世代とは「やさしい」の意味が変わってしまっているようだ。
「やさしさ」とは、そう日常的に触れられる情ではあるまい。「やさしさ」とは、本人が行き詰まり、道に迷い、苦しみに嵌り、人生の袋小路に迷い込んだ最後の最後に、あらかじめ気を配ってあったかのようにそこに待ち構えているような思いやりのことを言うのではなかろうか。当然、やさしさとは、自分が窮地に追い込まれたときにしか出会うことのない情ではあるまいか。自分の損得を省みることなく相手のことを思う気持ちが、「やさしさ」の本質だろう。
彼女が仕事後の彼氏に会ったとしよう。なんか彼氏の機嫌が悪い。やたらと不平不満、文句が多く、ほとんど八つ当たりに近い。ここで、
(1)「なんでそんなこと私に言うのよ。私には関係ないでしょ」とキレる
(2)(ああ、なんか仕事で上司と衝突してるって言ってたから、なんか会社でイヤなことがあったんだな。しばらく当り散らしたら落ち着くかしら)と思って、相手の目を見てニコッと微笑む
世の女性諸君は、自分ならどちらの反応を選ぶだろうか。
どっちの対応が「やさしい」だろうか。
これは間違いなく(2)だろう。「自分の損得を顧みず、相手のことを思いやる」というのは、こういうことではないだろうか。男の一員として断言するが、(2)の態度をとられて上目遣いに微笑まれたら、130%の野郎は己の理不尽を悟り、土下座して落とし前をつけるだろう。詫びの印にモノのひとつも買ってくれるかもしれない。
最近でいう「やさしさ」が、手数をかける程度の浅いものだとしたら、優しい人を装うことなど簡単だ。心など要らない。はっきりいって単純作業だ。そのような表面上の「やさしさ」を重視する女の子たちは、のちのち大きな誤算に気づくのではなかろうか。
私の見たところ、「手数をかける頻度」と、「相手を思いやる心」は、どうも反比例の関係にあるような気がする。やたらと彼女にアプローチするマメな男は、どうも相手のためというよりも自分のためにやってはいまいか。反対に、相手を思いやる心の深い人は、あまりその心を相手に伝える手間暇をかけることには執着しないようだ。
中には、「相手を思いやる心」が深く、かつ「手数をかける頻度」も多い、というパーフェクトな優しさを持つ人もいる。しかし、そういう人は例外なく、自分自身の人生の主人公になっていない。他人に情をかけすぎるあまり、自分自身に気を回す余裕がないのだ。一人の人間が廻せる情の量に限界があるとすれば、その情をどう配分するかで、その人の情の質は決まるのではなかろうか。
「…もう一度…」
「十年後にもう一回言ってやるよ」
「十年に一度?」
「ああ。」
「…ケチ」
十年に一度でも、本当にその言葉が必要な一瞬にためらわずその言葉をかけるのなら、それがやさしいってことじゃないのかな。
「ひとつだけ約束してくれ」「なぁに?」「毎年、和也の墓参りに付き合うこと」「うん。」
以前、非常勤で教えていたときに、学期末に授業評価のアンケートをしていた。私が勤めていた学校は語学系ということもあって、9割を女の子が占める。
ひととおり授業についてのアンケートを作ったあとで、スペースが余ると、「好きな音楽は」「よく行く遊び場所は」「好きな異性のタイプは」などの質問を付加していた。興味の集中はすべて最後の質問にあることは言うまでもない。
「お金をいっぱい持ってる人」
「服のセンスがいい人」
「話が面白い人」
「イケメンくん・かっこいい人」
…きみたち正直なのね。
ちょっとは繕えよ。
そういう正直な回答のなかで、相変わらずもれなく挙げられる条件があった。
それが、「やさしい人」。
今も昔も、「やさしい人」というのは異性に対する条件としては不動の一位だろう。
とはいえ、どういう人が「やさしい人」なのか、休み時間に女の子に聞いてみたりする。
「えー、よくメール入れてくれる人とか」
「夜、寂しいと電話してくれるとか」
「記念日をちゃんと覚えててプレゼントしてくれるとか」
「会いたくなったらいつでも会いに来てくれるとか」
「荷物が重いときに持ってくれるとか」
それは「マメな人」じゃないのか?
どうも、最近では手数(てかず)の多さをかけることが「やさしさ」と呼ばれているようだ。メールだの電話だの誕生日だの、そんなものは自分の人生を顧みたときに本当に根本的な要因を成していると言えるだろうか。自分が生きていくうえで、それほど大事なものなのだろうか。蓋し、最近では目先の気持ちを満たしさえすれば、それが「やさしさ」と呼ばれるようだ。
どうやら、私の世代とは「やさしい」の意味が変わってしまっているようだ。
「やさしさ」とは、そう日常的に触れられる情ではあるまい。「やさしさ」とは、本人が行き詰まり、道に迷い、苦しみに嵌り、人生の袋小路に迷い込んだ最後の最後に、あらかじめ気を配ってあったかのようにそこに待ち構えているような思いやりのことを言うのではなかろうか。当然、やさしさとは、自分が窮地に追い込まれたときにしか出会うことのない情ではあるまいか。自分の損得を省みることなく相手のことを思う気持ちが、「やさしさ」の本質だろう。
彼女が仕事後の彼氏に会ったとしよう。なんか彼氏の機嫌が悪い。やたらと不平不満、文句が多く、ほとんど八つ当たりに近い。ここで、
(1)「なんでそんなこと私に言うのよ。私には関係ないでしょ」とキレる
(2)(ああ、なんか仕事で上司と衝突してるって言ってたから、なんか会社でイヤなことがあったんだな。しばらく当り散らしたら落ち着くかしら)と思って、相手の目を見てニコッと微笑む
世の女性諸君は、自分ならどちらの反応を選ぶだろうか。
どっちの対応が「やさしい」だろうか。
これは間違いなく(2)だろう。「自分の損得を顧みず、相手のことを思いやる」というのは、こういうことではないだろうか。男の一員として断言するが、(2)の態度をとられて上目遣いに微笑まれたら、130%の野郎は己の理不尽を悟り、土下座して落とし前をつけるだろう。詫びの印にモノのひとつも買ってくれるかもしれない。
最近でいう「やさしさ」が、手数をかける程度の浅いものだとしたら、優しい人を装うことなど簡単だ。心など要らない。はっきりいって単純作業だ。そのような表面上の「やさしさ」を重視する女の子たちは、のちのち大きな誤算に気づくのではなかろうか。
私の見たところ、「手数をかける頻度」と、「相手を思いやる心」は、どうも反比例の関係にあるような気がする。やたらと彼女にアプローチするマメな男は、どうも相手のためというよりも自分のためにやってはいまいか。反対に、相手を思いやる心の深い人は、あまりその心を相手に伝える手間暇をかけることには執着しないようだ。
中には、「相手を思いやる心」が深く、かつ「手数をかける頻度」も多い、というパーフェクトな優しさを持つ人もいる。しかし、そういう人は例外なく、自分自身の人生の主人公になっていない。他人に情をかけすぎるあまり、自分自身に気を回す余裕がないのだ。一人の人間が廻せる情の量に限界があるとすれば、その情をどう配分するかで、その人の情の質は決まるのではなかろうか。
「…もう一度…」
「十年後にもう一回言ってやるよ」
「十年に一度?」
「ああ。」
「…ケチ」
十年に一度でも、本当にその言葉が必要な一瞬にためらわずその言葉をかけるのなら、それがやさしいってことじゃないのかな。
「ひとつだけ約束してくれ」「なぁに?」「毎年、和也の墓参りに付き合うこと」「うん。」

