この時期になると、受験生が必死になって英語を勉強してることだろう。
「英語の読解力がいきなり上がるような勉強方法ってないかなぁ」と望むのは誰もが同じだ。

どうも、入試に限らず、外国語というのは「読めればとりあえず用が足りる」という場合が多い。
たとえば「まるで日記のように」さんのように感じるのは、まさに日本人の語学学習者に共通した実感だろう。

そこで問題。
「聞く、話す」はどうでもいいから、手っ取り早く「読む」能力を鍛える方法はあるだろうか?

答えは、残念ながら、ない
人間の脳は、そういうふうには出来ていないのだ。

電話をかける。
電話帳を見て、その番号を一発で覚えて電話をかけるとしよう。
(1) 目で見るだけで、番号を映像として記憶する
(2) 番号を声に出して口で言うことによって、その音の並びを覚える
どちらが効率よく覚えられるだろうか。
これは、ぶっちぎりで声に出すほうが覚えやすい。絵画などのイメージ映像と違い、シーケンシャルに並ぶ記号の羅列は、視覚能力よりも聴覚能力の方が記憶に深く関与していることが最近明らかになっている。歴史の年号を覚えるのに語呂合わせを使う受験生は、そのことを無意識のうちに使っているのだ。

アメリカ人はやたらと人の名前をつけて話す。
初対面の時にお互いの名前を交換すると、「オー、たくろふさんですか。よろしくお願いしますたくろふさん」と、目を見てしっかりと名前を発音する。その後の会話でも、「よろしかったらゴハンでも一緒に行きませんかたくろふさん」「明日のミーティングは3時ですよねたくろふさん」と、やたらと名前をつける。どうやら、彼らはそうすることで人の名前を覚えていくらしい。声に出すと記憶が定着することを、経験的に知っているのだろう。名刺をもらって、名前の文字をじーっと一分くらい眺めていても、翌日には忘れてしまう。

人間の脳の中には、言語を司る独立した領域がある。
その領域は、論理、計算、情報処理などの「頭脳系」に分類されるのではなく、運動、知覚、反射などの「運動系」に位置していることが分かっている。人間が言語を習得するときには、アタマを動かすというよりは、反射による反応に近い脳の働きをしている。

ホウキか、その長さに近い棒を用意して、手のひらの上に立ててみよう。支える手を離し、片手だけでバランスをとって手のひらの上に棒を立ててみる。誰でも10秒くらいは持つのではないか。実は、人間がこの「バランスをとる」という行為をしている間に、実に信じられない量の情報演算をしていることが分かっている。少し棒が傾いたら、その傾きを相殺するだけの距離と方向を割り出し、その距離を移動するだけに必要十分な運動を筋肉に命じる。現段階では、この芸当をするために必要な情報処理は、世界で最も優秀なスーパーコンピューターでも計算不可能とされている。人間がこれができるのは、頭脳で情報を演算するというよりも、感覚運動神経によって反射的に行動しているからだ。運動神経は経験によって上達可能なため、何回もやっているとコツが分かってきて、長い時間の間、棒を立てられるようになる。

言語も、これと同じ感覚運動神経に基づく反射行為である。「聞く、話すの訓練は面倒だし、そもそもそんな能力使わないから、読めるようにする能力だけつけてくれ」というのは、言ってみれば「棒を手の上に立てる練習をするのは面倒なので、どちらの方向にどのくらい棒が傾いたら、どれだけの力でどの方向に手を戻せばいいのかを現す一般式を作ってくれないか」と言っているのと似ている。そんなことするくらいなら、練習したほうが早いのだ。仮にそんな一般式を示されたとしても、それで棒立てがうまくなるはずはない。

言語は、音声を基本として人間の脳に定着する。音を発するよりも早く文字が読めるようになる赤ん坊はいないし、音があって文字のない言語はあっても、文字があって音のない言語は存在しない。生まれついての聾唖者は手話を母語として習得するが、それとて「腕を動かす」という運動を繰り返すことによって、反射動作となるまで体に染み込ませているのだ。決して、頭で手話の動きを情報として暗記しているのではない。

多くの日本人の共通の願い「話せなくてもいいから読めるようにしてくれ」という外国語学習の姿勢は、ひとえに学校教育にその責任がないか。
前にも書いたが、どうも現在の学校における語学教育には、「読みは文法と一体を成す、頭脳志向の営みだ」という固定観念がないだろうか。日本はTOEFL, TOEICがアジアで最低レベルなのを見ても、学校教育のあり方が間違っているのは明らかだろう。多くの国では、外国語学習の初期段階では、まず教科書を使わない。ひたすら喋る練習をする。相当に流暢に喋れるようになってからでも、その言葉の文字が読めない人は大勢いる。なんだかんだ言って、我々はローマン・アルファベットに慣れている。英語とはまったく違う記号体系、たとえばロシア語やアラビア語を学ぶことを思ってみよう。字が読めるようになるのは、学習過程の相当進んだ段階になってからだと思う。まずは聞くべし聞くべし聞くべし、マネして声に出すべし出すべし出すべし、なのだ。

「話せなくてもいいから読めるようにしてくれ」という望みが出ること自体、この国の語学教育は何かが変なのだ。