数学の魅力はその永遠性にある。
形式科学である数学において、形式に基づいてなされる考察は証明が可能である。これは観察に基づく一般化が求められる物理学、天文学、化学、地質学、言語学、生物学などの経験科学などと厳然たる違いを成す数学独自の特徴である。
数学において一度証明された言明は、永遠に真実である。
中学生でも知っている「三角形の内角の和は180度である」という命題は紀元前に証明されたが、20000年以上経ってなお真実だし、2000年後にもなお真実であり続ける。仮説の構築と事実の検証というサイクルを永遠に繰り返すことで成り立つ経験科学に終わりはないのに対し、数学は山の頂上に立てる一瞬がある。その快感は想像するに余りある。前人未到の処女峰を征服する数学者の悦楽は、人類のいかなる快楽にも増して深く広いものであるに違いない。
数学的な命題は、証明可能か反証可能かのいずれかである。つまり、ある数学的命題が提示されたとき、それは「正しい」か「間違っている」かのいずれかである。正しいことは「証明」でき、間違っていることは「提示」できる。ゼロかイチか、マルかバツか、シロかクロかの世界。理を重んじる者にとって、これほど納得のできる世界はない。
私はかつてそう思っていた。
私だけではない。数学者を含めた世界中がそう思っていた。
1931年。その信念が崩壊した年だ。
数学は完璧ではあり得ない。そのことが証明されてしまった。
どんなに難しい命題も、証明もしくは反証できるという幻想はもろくも崩壊した。数学的命題のなかには、その真理値を決定できない、正しくもないし間違ってもいない、邪悪な命題が存在するのだ。
これがゲーテルの「不完全性定理」である。
不完全性定理は二つの定理から成る。
第1不完全性定理は「いかなる論理体系において、その論理体系によって作られる論理式のなかには、証明する事も反証することもできないものが存在する。」というもの。
第2不完全性定理は「いかなる論理体系でも無矛盾であるとき、その無矛盾性をその体系の公理系だけでは証明できない」というものである。
誤解を恐れず平たく言うと、「数学には正しくもなく間違ってもいない命題がある。そのようなことがあり得ないということは、、数学自身では証明できない」ということだ。
これは数学者にとって眠れぬ夜の始まりだった。自分が取り組んでいる命題が正しいか間違っているかを突き止めようと日夜研究を重ねるときに、「そもそも、どちらとも決められない命題かもしれない」という恐怖が襲うことになる。
アラン・チューリングは、数学的命題の中にそのような「邪悪な命題」が含まれるのなら、せめて有限回の手順でそれを見抜く操作はないか、と考えた。彼は1937年の論文で、そんな方法は存在しないことを証明した。このなかで彼は「有限回の操作」を厳密に定義し、あらゆる論理手続きを演算できる計算プログラムを考案している。これが「チューリング・マシン」である。これが現代のコンピューターの始まりであった。今に繋がるコンピューターは、この、当時25歳の青年による論文が出発点となっている。
不完全性定理はコンピューターの分野において、人工知能の実現性に対して限界を突きつけた。
精神を持つ機械は製作可能であろうか?デカルトによって「精神とは何か」という問いが提示されて以来、人間は精神について考察を重ねてきた。精神についての仕組みが明らかになれば、人工的にそれを再現可能なはずだ。そう信じ、人工知能の開発研究が進められた。
ところがペンローズは不完全性定理を元に、人間精神と完全相似の人工知能は設計不可能であることを見抜いた。「量子脳理論」である。
Deep Blueというスーパーコンピューターは、チェスの世界チャンピオンと対決して勝利した。コンピューターがチェスをできるのは、単純な計算の集積にすぎないからだ。真の人工知能は、単純な計算の集積以上に深いレベルで人間の脳が果たす役割を再現しなくてはならない。ところがコンピューターはその性質上、計算集積以外のアルゴリズムを持たない。そして、不完全性定理は、非計算的事実の存在を証明してしまった。現実世界には、0でも1でもない、計算不可能な命題が存在する。開けてはいけない扉が開かれたとき、そこに人工知能の限界が見えたのだ。不完全性定理によって、人間にできることと機械にできることの区別が冷酷に区切られた。
人間の脳は規則正しく機械仕掛けに動いているのではない。
20世紀の科学の成果である量子力学は、「物理現象は外界と完全独立の規則性をもつわけではない。観察者による観察という行為が、対象に影響を与え、ゆらぎをもたらす」ということを示した。きわめてファジーだ。人間の脳は、量子力学が明らかにした「ゆらぎの効果」を示して「計算」以上の「判断」をしている。脳がもたらす精神は、有限回の演算による予測可能な計算ではなく、対象によって様々な変化形をとる意思である。この現代科学の説明力を凌駕する機能こそ「心」であろう。この存在の特徴を解明するためには、現代科学はほんの緒端を発したに過ぎない。
認知能力の一分野である言語を解明しようとする者のなかには、言語機能のしくみを明らかにすれば、自動的に人間の精神構造が把握可能になり、人工的に再現可能になるという楽観視をしている者が少なくない。心に直結する精神構造において言語はほんの数パーセントの役割しか果たさない。しかも、人間の精神構造そのものが人工的に再現不可能であることがすでに示されている。言語を「心」とは独立した純粋な計算手続きと見なし、したがって人工的にプログラムが再現可能であると信じる者は、言語の計算機構と心のゆらぎを厳密に区分する覚悟が必要だ。
言語は知能に含まれるか。この問いは、不完全性定理によって心の再現が不可能であることが示されてはじめて成り立つ問いであることを、失念している言語学者が多いのではないか。
冬休み、時間をもてあます余り、最近の認知意味論の動向を読んで、ふとそんなことを思った。
形式科学である数学において、形式に基づいてなされる考察は証明が可能である。これは観察に基づく一般化が求められる物理学、天文学、化学、地質学、言語学、生物学などの経験科学などと厳然たる違いを成す数学独自の特徴である。
数学において一度証明された言明は、永遠に真実である。
中学生でも知っている「三角形の内角の和は180度である」という命題は紀元前に証明されたが、20000年以上経ってなお真実だし、2000年後にもなお真実であり続ける。仮説の構築と事実の検証というサイクルを永遠に繰り返すことで成り立つ経験科学に終わりはないのに対し、数学は山の頂上に立てる一瞬がある。その快感は想像するに余りある。前人未到の処女峰を征服する数学者の悦楽は、人類のいかなる快楽にも増して深く広いものであるに違いない。
数学的な命題は、証明可能か反証可能かのいずれかである。つまり、ある数学的命題が提示されたとき、それは「正しい」か「間違っている」かのいずれかである。正しいことは「証明」でき、間違っていることは「提示」できる。ゼロかイチか、マルかバツか、シロかクロかの世界。理を重んじる者にとって、これほど納得のできる世界はない。
私はかつてそう思っていた。
私だけではない。数学者を含めた世界中がそう思っていた。
1931年。その信念が崩壊した年だ。
数学は完璧ではあり得ない。そのことが証明されてしまった。
どんなに難しい命題も、証明もしくは反証できるという幻想はもろくも崩壊した。数学的命題のなかには、その真理値を決定できない、正しくもないし間違ってもいない、邪悪な命題が存在するのだ。
これがゲーテルの「不完全性定理」である。
不完全性定理は二つの定理から成る。
第1不完全性定理は「いかなる論理体系において、その論理体系によって作られる論理式のなかには、証明する事も反証することもできないものが存在する。」というもの。
第2不完全性定理は「いかなる論理体系でも無矛盾であるとき、その無矛盾性をその体系の公理系だけでは証明できない」というものである。
誤解を恐れず平たく言うと、「数学には正しくもなく間違ってもいない命題がある。そのようなことがあり得ないということは、、数学自身では証明できない」ということだ。
これは数学者にとって眠れぬ夜の始まりだった。自分が取り組んでいる命題が正しいか間違っているかを突き止めようと日夜研究を重ねるときに、「そもそも、どちらとも決められない命題かもしれない」という恐怖が襲うことになる。
アラン・チューリングは、数学的命題の中にそのような「邪悪な命題」が含まれるのなら、せめて有限回の手順でそれを見抜く操作はないか、と考えた。彼は1937年の論文で、そんな方法は存在しないことを証明した。このなかで彼は「有限回の操作」を厳密に定義し、あらゆる論理手続きを演算できる計算プログラムを考案している。これが「チューリング・マシン」である。これが現代のコンピューターの始まりであった。今に繋がるコンピューターは、この、当時25歳の青年による論文が出発点となっている。
不完全性定理はコンピューターの分野において、人工知能の実現性に対して限界を突きつけた。
精神を持つ機械は製作可能であろうか?デカルトによって「精神とは何か」という問いが提示されて以来、人間は精神について考察を重ねてきた。精神についての仕組みが明らかになれば、人工的にそれを再現可能なはずだ。そう信じ、人工知能の開発研究が進められた。
ところがペンローズは不完全性定理を元に、人間精神と完全相似の人工知能は設計不可能であることを見抜いた。「量子脳理論」である。
Deep Blueというスーパーコンピューターは、チェスの世界チャンピオンと対決して勝利した。コンピューターがチェスをできるのは、単純な計算の集積にすぎないからだ。真の人工知能は、単純な計算の集積以上に深いレベルで人間の脳が果たす役割を再現しなくてはならない。ところがコンピューターはその性質上、計算集積以外のアルゴリズムを持たない。そして、不完全性定理は、非計算的事実の存在を証明してしまった。現実世界には、0でも1でもない、計算不可能な命題が存在する。開けてはいけない扉が開かれたとき、そこに人工知能の限界が見えたのだ。不完全性定理によって、人間にできることと機械にできることの区別が冷酷に区切られた。
人間の脳は規則正しく機械仕掛けに動いているのではない。
20世紀の科学の成果である量子力学は、「物理現象は外界と完全独立の規則性をもつわけではない。観察者による観察という行為が、対象に影響を与え、ゆらぎをもたらす」ということを示した。きわめてファジーだ。人間の脳は、量子力学が明らかにした「ゆらぎの効果」を示して「計算」以上の「判断」をしている。脳がもたらす精神は、有限回の演算による予測可能な計算ではなく、対象によって様々な変化形をとる意思である。この現代科学の説明力を凌駕する機能こそ「心」であろう。この存在の特徴を解明するためには、現代科学はほんの緒端を発したに過ぎない。
認知能力の一分野である言語を解明しようとする者のなかには、言語機能のしくみを明らかにすれば、自動的に人間の精神構造が把握可能になり、人工的に再現可能になるという楽観視をしている者が少なくない。心に直結する精神構造において言語はほんの数パーセントの役割しか果たさない。しかも、人間の精神構造そのものが人工的に再現不可能であることがすでに示されている。言語を「心」とは独立した純粋な計算手続きと見なし、したがって人工的にプログラムが再現可能であると信じる者は、言語の計算機構と心のゆらぎを厳密に区分する覚悟が必要だ。
言語は知能に含まれるか。この問いは、不完全性定理によって心の再現が不可能であることが示されてはじめて成り立つ問いであることを、失念している言語学者が多いのではないか。
冬休み、時間をもてあます余り、最近の認知意味論の動向を読んで、ふとそんなことを思った。

