テレビで「Drunk Master (ドランクモンキー・酔拳 (1978))」という映画を見た。
ジャッキー・チェンの映画はガキの頃から死ぬほど見た。僕がはじめて語学に興味を持ったきっかけもこれだった。
特に「酔拳」はジャキー・チェンが成功のきっかけをつかんだ出世作。男の常識、紳士のたしなみと言える逸品だろう。英語で見ようが広東語で見ようが、セリフもストーリーも全部覚えてる。

子供の頃に見たときには気にならなかったが、改めて見て非常に印象的なシーンがあった。

この作品は、中国拳法界の伝説の達人、黄飛鴻(ジャッキー・チェン)を主人公にして展開する。拳法道場のドラ息子である彼に手を焼いた父親は、弟子を痛めつけ再起不能までシゴき抜く蘇化子という達人に彼を弟子入りさせる。修行嫌いの黄飛鴻はいったん逃げ出すものの、街で会った殺し屋に半殺しの屈辱にあい、執念で修行をおさめ、伝説の秘拳「酔八仙」を伝授される。

黄飛鴻は様々な素材に登場しており、映画では「酔拳」のほかにも「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」で中国拳法全国大会優勝者のリー・リン・チェイが演じている。ほぼすべての作品で黄飛鴻は人格高潔な真面目人間として描かれている。その黄飛鴻が、なぜジャッキー・チェンの映画でだけこれほどグータレた人間像として描かれているのかは私が幼い頃から少し疑問だった。

酔八仙は八つの酒仙の型から成るが、八仙目の何仙姑(かせんこ)は女仙であるため、その型は腰をくねらせ足をからませ、はっきりいってオカマっぽい。その型をバカバカしく感じた黄飛鴻は、何仙姑の型を習得するのをサボる。
作品の最後に、黄飛鴻は因縁の殺し屋と再び闘うことになる。幻の酔八仙を、一度自分が倒した若造が使うことに殺し屋は一旦は驚くが、実は、彼には酔八仙についての知識があった。黄飛鴻の繰り出す技はすべて見切られる。技を出し尽くしたとき、彼は闘いを見守る師匠の蘇化子に、何仙姑の習得をサボったことを白状する。
ここで蘇化子が黄飛鴻に喝を入れる。「お前の知っている型を組み合わせて、お前だけの何仙姑を作れ」

黄飛鴻は咄嗟に女仙に見立てた型を自分で編み出す。自分の知らない何仙姑の型にうろたえる殺し屋に向かって、彼は言い放つ。

「術は変化する。師の教えを弟子が発展させるんだ」

このシーンこそ、この作品が最高傑作と評されている点ではないだろうか。
先達の教えを忠実に踏襲することは、自らの道程において通過点であって、目的地ではない。伝授された技に自らの技術を盛り込み、師匠の技を超えるところがこの作品のポイントではなかろうか。黄飛鴻が真面目な拳徒ではなく、グータラな修行嫌いとして描かれていたのも、この最後のシーンを魅力あるものにするための伏線なのではあるまいか。この伏線は実に利いている。「師匠の技を超える」というコンセプトは次作の「スネーキーモンキー・蛇拳」にも踏襲されているが、伏線の利かせ方、人物描写の魅力など、「酔拳」の方が数倍上回ると感じる。

世の中のエリートと呼ばれる優等生は、教わったことをほぼパーフェクトに理解する信じられない能力をもつ努力家だ。教わったことを反復し理解することが求められる段階では、真面目な態度は賞賛に値する。しかし、そこから階段を上り、自ら新しい知見を上積みすることが求められる段階になると、1000の知識は1の発想に劣る。学問の世界では大学院に入ってからが奉公の始まりのようなものだが、大学院において既存の知識を理解するのは手段であって、目的ではない。最終目標はあくまでも自らが新しい知見を切り拓くことにある。大学院生は、素直な優等生である必要はない。むしろ、先行研究を胡散臭そうに斜めに読み、少しでも穴が見つかると嬉々として穿り出すような生意気な態度のほうが伸びる。既存の概念を破壊する爆発力を持つ。

「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」
2003年2月の東京大前期入試、数学の問題だ。まさに良問と言える。ほとんどの学生は最後のページをめくって出てきた1行だけのこの問題に仰天したという。明らかに手持ちの型で解ける問題ではない。このときにパニックを感じた優等生は相当の数に上るだろう。むしろ、入試中にイスにあぐらをかいて、鉛筆を齧りながらニヤリと笑って考えることを楽しむ現代の黄飛鴻のほうが、試験時間内に自分なりの何仙姑を編み出せたのではないか。
実際、この問題はそれほど難しくない。私でも解けた。基本的な発想は円に内接する多角形(たとえば24角形)を考え、円の面積の方が内接多角形よりも大きいという当たり前のことを示せばいいだけの話だ。ネタを明かせば中学生にでも分かる。しかし、常日頃から既存の技に頼らず、自ら考えて前に進む気概のある者のみが開けられる扉だろう。

優等生であることが賞賛に値するのは、他人が自分を評価する間だけだ。真の意味で自分の人生を歩くものには、他人の評価など副次的な産物に過ぎない。まさかこの歳になって「酔拳」から感じることがあるとは思わなかった。