たくろふのつぶやき

毎年「記録的な暑さ」じゃね?

ラグビーW杯 プールB NZ vs 南アフリカ

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ラグビーワールドカップ プールB
NZ 23-13 南アフリカ


本来であれば、決勝戦であってもおかしくない対戦。それがいきなり予選プールの、しかも初戦に当たった。おそらく予選プール最大の注目カードだろう。
日本開催という幸運に恵まれ、実際に試合を見てきた。会場は横浜国際競技場。自宅から歩いて行ける距離だ。

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ひかえーい、ひかえおろうー。


実際に観た感想としては、凄く驚いた。僕はオールブラックスを観て20年以上になるが、いままで観たことのないオールブラックスだった。
しかも、たぶんテレビで観ていたら分からなかったであろうことがたくさんあった。これだからラグビーは実際に会場で観ないといけない。

開幕直前までのNZは、いろいろと不可解なことが多かった。
たとえば、SOのボーデン・バレット。今や「世界最高のSO」と称される彼を、最近のNZはなぜかFBで使っている。
そのFBには、これも「世界最高のFB」と称されるベン・スミスがいる。ところが最近のNZは、なぜかベン・スミスをWTB登録にしている。

バックスに限って言えば、両WTBの起用も分からない。今回の南アフリカ戦の先発WTBは、左ジョージ・ブリッジ、右セブ・リース。今回大会前までのキャップ数は、ブリッジが5、リースが3。ほとんど経験のないWTBといっていい。相手が南アフリカなのだから、せめて片方のWTBには経験豊富なベン・スミスを置くべきであるはずなのに、「誰それ?」という新人起用だ。

こうしたNZの、いわば「迷走」した選手起用の悪影響は、W杯直前に行なわれた、ザ・ラグビー・チャンピオンシップ(南半球4ヶ国対抗戦)で露呈してしまう。南アフリカとは16-16の引き分け、対オーストラリアに至っては47-26という近年見ない大差で敗北してしまう。その結果、NZは3大会連続で優勝していた連勝記録が途絶え、4連覇を逃してしまう。
僕はこれらの試合を「言わんこっちゃない」という気分で観ていた。選手起用の迷走からの惨敗。世界ランキング1位からも10年ぶりに陥落した。そういう状況だったため、僕は正直、「今回のW杯は厳しいかな」と思っていた。

その初戦の相手が、よりによって南アフリカ。直前に行なわれたザ・ラグビー・チャンピオンシップでは優勝を飾り、連覇を続けていたNZから王座を奪還した。いま絶好調のチームと言ってよい。W杯の前回大会でも準決勝でNZと当たり、大差での勝利が続いたNZに唯一、20-18という僅差まで追いつめた。

その前回大会でNZを追いつめた作戦が、ハイパントだった。当時のNZ代表は両WTBのキック処理能力が低く、空中戦の競り合いをほとんど南アフリカに制された。当時のNZのWTB陣、ミルナースカッダーとサヴェアは、トライ奪取能力に特化して選抜されており、その分キック処理が甘かった。南アフリカはその弱点を突き、NZを苦しめた。
あれから4年、両チームの戦い方はどのように変化してきたのか、とても楽しみな試合だった。


試合が始まると、南アフリカは、予想通りにキックを多用してきた。前回大会の準決勝と、ここ最近の数試合の分析で、「NZはハイパントに弱い」と見てきたのだろう。SHのデクラーク、SOのハンドレ・ポラードは距離を稼ぐキックではなく、中間点に落としキャッチングを競らせるコンテスト・キックを多用するゲームメイクを行なった。

ところが前回大会と違い、南アフリカのキック攻撃は、それほど効果がなかった。NZはいろいろな手を使ってハイパント攻撃に対応してきている。
一番顕著なのは、NZの両WTBだ。ブリッジもリースも、競り合いに強い。前半一発めのハイパントを、左WTBのブリッジが競り勝って取った。このワンプレーで、南アフリカのハーフバックス陣には「何か違うぞ」という違和感があったと思う。

つまりNZの、経験値の浅いWTBの起用は、「ハイパントキャッチャーに特化した人選」だったのだろう。従来の、走力にものを言わせて敵陣をぶっち切る俊足WTBではなく、確実にキック処理が行なえる補給能力の高いWTBを使う。これは今までのNZにはなかった選抜方法だ。

テレビで観てると分からないが、実際に会場で試合を観ていると、NZバックスリーの守備陣形が通常とは違うのがよく分かる。テレビの画面には映らない位置になるが、攻撃時と守備時で、ボジションを変えている。
FBに入ったボーデン・バレットは、攻撃時には両CTBの中間、やや下がったところに位置している。これは通常のFBの位置ではない。通常、FBはライン攻撃を止められたあとカウンターでキック攻撃された時に備え、攻撃ラインよりもかなり深い位置にいる。

つまりボーデン・バレットは、FBではなく、「セブンエース」(7/8th、「8分の7の位置」)なのだ。これは最近のラグビーではほとんど見られないポジション取りの仕方で、その主な役割は「影のSO」と言ってよい。最後尾に近い位置にいながら、ライン展開の2、3次攻撃ではするするっと上がってきてSOの位置に入る。展開によってはWTBの外に構えて大外を走り切る。 つまり今のNZは「司令塔が2人いる」システムなのだ。

ボーデン・バレットの最も特筆すべき能力は、その圧倒的な走力だ。相手WTBでさえ簡単に振り切る。そのスピードは、前回大会の決勝戦でもオーストラリアの心を折る、とどめのトライを奪った。もしバレットを純粋なSOで使用すると、その走力が十分に活かせない。NZは、バレットの攻撃力を最大限に活かすため、その走力と展開力を両方引き出せるポジションをやらせているのだろう。

今回の試合を見てみると、NZの両WTBは、攻撃時にあまり上がらない。カウンターのキック攻撃に備えて下がっている。つまり、本来であればFBがやるべき仕事を、両WTBがカバーして行なっている。両WTBに後ろを任せたFBバレットは、攻撃時にはラインの裏まで上がって攻撃に参加する。
通常であれば、バックスリーの攻撃は、パス回しの最終点となるため、ライン際の両端を走ることが多い。ところがセブンエースとして攻撃参加するバレットは、フィールドの中央を走るコース取りになる。

それが顕著に表れたのが、前半23分のトライだ。セブンエースの位置から攻撃参加したバレットが中央を抜き、それをサポートした左WTBジョージ・ブリッジがトライを奪った。このトライの取り方は、いままでのNZのWTBのトライの取り方ではない。大外のライン際で勝負するのではなく、中央を走るセブンエースのサポートとしてWTBを使う。この攻撃のバリエーションは、前回大会までのNZには全くなかったものだ。

ボーデン・バレットは、常に前任者SOのダン・カーターと比較され続けてきた。前回大会でもカーターの控えとされ、この4年間は「カーターの後継者」という二つ名で紹介されることが多かった。しかし今回の初戦を見る限り、バレットは「カーターの後継者」などではなく、全く違ったタイプのプレースタイルを完成させつつある。

バレットに替わってSOに入ったのは、リッチー・モウンガ。屈強で体が強く、ゲームメイクよりも縦の突破力に特徴がある。今年に入って負傷離脱していたが、調子を上げてW杯開幕に間に合わせてきた。
モウンガは展開力よりも突破力に優れているため、バレットがSOに入ったときとはゲームの展開の仕方が違う。おそらくこれが、NZがバレットをSOに入れていないもうひとつの理由だろう。

つまり、「SOの負傷離脱」を防ぐため。NZは伝統的に、SOのゲームメイクによってバックス陣の統制をとってきたチームだ。縦横無尽に走り回るBK陣は、SOの指揮によって自由自在の攻撃を仕掛けてくる。
だから、SOを封じられると、NZは攻撃力が激減する。2003年大会では、当時世界最高のSOだったカルロス・「キング」・スペンサーのゲームメイクを徹底的に分析され、準決勝でオーストラリアに苦杯を喫している。2011年大会では、準決勝でダン・カーターを負傷で欠き、決勝戦では第二SOのアーロン・クルーデンまで負傷、第三SOのドナルドで戦わざるを得ず、決勝でフランスに1点差まで詰め寄られる薄氷の勝利だった。

NZがモウンガを第一SOに据えているのは、「SOのゲーム展開を分析され対策を絞られないため」「ゲームメーカーの負傷離脱を防ぐため」という、ふたつの理由があると思う。それがはっきりと分かったのが、試合後半の選手交代だ。
NZは後半10分にCTBライアン・クロティに替えて、ソニービル・ウィリアムズを投入する。ソニービルは日本でプレーした経験もあり、変幻自在なオフロードパスが秀逸で、日本でも人気がある。選手交代の時には会場中から大きな歓声が上がった。

CTBに替えて入れるのだし、もともとソニービルはCTBが本職なのだから、投入されたらそのままCTBに入るのが普通だ。しかし後半途中で投入されたソニービルは、なんとSOの位置に入った。そしてSOのモウンガが替わりにCTBにずれる。つまりソニービルは、今のチームでは、CTBだけでなく「第三のSO」の役割も果たしていることになる。

確かにソニービルの縦突破とオフロードパスを考えたら、SOとして使うのは理に適ってる。相手チームのバックローにしてみれば、ソニービルのような屈強なSOは嫌だろう。しかも、モウンガともバレットとも、全く違うタイプのSOだ。それぞれ違うタイプのSOが、ゲーム展開によって自在にポジションを入れ替えて全く違うタイプのゲームメイクをする。これが今大会のNZの、新しい試みだろう。体の強いモウンガやソニービルは、「ゲームメーカー」のSOではない。むしろ「CTBが3人いる」という感じのフロントスリーだろう。

ポジションチェンジを繰り返していたのは、BKだけではない。NZはFW陣もポジションチェンジを頻繁に行なっていた。最も不思議だったのは、キャプテンのNo.8、キアラン・リードだ。8番なのに、スクラムのときにはなぜかFLの位置に入っている。また、LOのスタメンはスコット・バレットだったが、後半途中の選手交代からFLに入っている。

NZのバックロー陣の主な狙いは、ブレイクダウン時のプレッシャーを迅速にかけることだろう。速攻守備で相手バックロー陣を封殺し、南アSOのハンドレ・ポラードにプレッシャーをかける。そうすることで、ポラードにキックを蹴らせない。
すると南アのキック攻撃は、SHデクラークからのボックスキックに限られる。NZバックロー陣のプレッシャーによってSOにパスを回す余裕がなくなるので、デクラークが蹴るしかない。SHからのボックスキックは、地域的にタッチライン沿いの両端を狙うことになる。

そして、これが、NZがベン・スミスをWTBで使っている理由だろう。ベン・スミスは、トライを取るためにWTBで使われているのではない。高い補球能力で、相手SHからのボックスキックを取り、空中戦を制圧するためのWTBだ。この試合でも、途中交代でWTBの位置に入り、ライン際のキックを危なげなく処理した。この「バックローがプレッシャーをかけ、SHにボックスキックを蹴らせる」「WTBがライン際の空中戦を制する」というのが、今のNZのディフェンスの基本になっている。

ライン展開を防がれ、ボックスキックを封じられ、試合途中から南アSHのデクラークは明らかに攻め手を失っていた。苛々が募ったデクラークは、不要なファウルやオフサイドを犯し、みすみすNZにペナルティーを献上してしまう。
また、南アのバックロー陣は、NZバックローの頻繁なポジションチェンジに対処できず、局地戦をことごとく制圧されてしまう。機能不全に陥った南アのバックローは、なんとキャプテンのFLシヤ・コリシを途中交代で下げてしまう。

この、SHデクラークとFLコリシの途中交代は、南アがNZの戦術に嵌ったことを象徴していた出来事だったと思う。
しかしそれ以外にも、それぞれのポジションで、南アはNZの大局的戦略にしてやられた部分があった。

今回の試合で、NZはフロントローの3人を後半10分の段階で交代している。後半開始時にはHOコールズ、後半10分には両PRのムーディー、ラウララを相次いで投入した。これは従来のNZの最前列の交代よりも、かなり早い時間帯での交代だ。

南アが最も強いのは、出足の早い詰めのディフェンスだ。ガンガン出て相手にプレッシャーをかけるのは、南ア得意の守備だ。その一方で、詰めのディフェンスは消耗度が激しいという難点がある。体力が80分続かず、途中で息切れしてしまう危険性がある。
NZは、抜かりなくその消耗を突いてきた。フロントローを早い時間で替えたのは、南アのパスミスが多くなったためだ。ノックオンやスローフォワードは、相手ボールのスクラムになる。 NZは、南アがハンドリングの反則を多く犯すことに気付いて、すぐに対策を立ててきた。

そのNZの周到な対策によって、結局、南アは勝ち点1を失う結果になる。
試合後半、南アはハンドレ・ポラードのDGによって4点差まで迫る。W杯のルールでは、負けたチームも7点差以内での敗北なら勝ち点1がもらえる。ところが、南アはハンドリングエラーで次々とNZにスクラムを与えてしまう。そのスクラムで、南アの消耗したフロントロー陣が、選手交代したばかりで体力十分なNZのフロントローに太刀打ちできず、反則でペナルティーキックを与えてしまう。そのペナルティーを2本たて続けに決められ、一気に6点を離された。終わってみれば10点差の敗北。この点差を生んだのは、試合終盤でスクラムに圧倒的な差をつけた、NZフロントロー陣の手柄だろう。

NZが局地戦を制したのは、途中交代で入ったSHのTJ・ペレナラによるところが大きい。スタメンSHのアーロン・スミスは展開力に優れ、自身も走力がありトライ奪取能力も高いが、ペレナラはそれとはタイプの違うSHだ。
ペレナラがSHとして優れているところは、FWを動かす指揮力にある。密集ごとに、ジャッカルを狙って絡みにいくのか、捨ててラインディフェンスに備えるのか、その判断と伝達能力が高い。
南アは、NZの連続攻撃でフェイズを重ねられるのを嫌った。南アのディフェンスの仕方では、連続攻撃への防御は消耗に直結し、体力を削られる。南アがキック戦術でフィールドを広く使おうとしていたことには、そういう背景もある。しかしペレナラはそれを見抜き、FWを使って縦に押し込む展開を続けた。

その結果、試合後半の最後の時間帯は、ずっとNZボールで、南ア陣内で試合が続くという展開になった。ペレナラの指揮によってNZのFW陣が地域を確保し、マイボールの展開でフェイズを重ねる。南アにとっては、反則をひとつ犯したら即3点を失う、という時間帯が延々と続いた。

南アにしてみれば、キック展開を封じられ、相手のアンストラクチャーを狙う攻撃に対処できず、FWの体力を削られ、自陣深くに押し込まれる。どうにもできない試合展開だっただろう。
南アの能力が劣っていたのではない。FBルルーは相変わらず高い捕球能力で空中戦を制していたし、SOポラードは正確なキックで得点源になっていた。しかし、それらの能力を完全に活かすための試合展開をつくる能力は、NZのほうが高かった。

NZとて、そうした試合展開をつくることが、最初からできたわけではない。今回のチーム戦術は、前回大会までのNZの戦術とは全く異なる。新しい試みがいくつもある。そのために、NZは4年間を費やし、W杯開幕直前の貴重なテストマッチを有効に活用してきた。
NZは去年のこの時期、オーストラリアとの定期戦を日本で行い、実際のW杯の時期の日本の気候や条件、決勝戦会場の横浜国際競技場までも、実際に試している。日本の湿度に対応するため、練習では濡れたボールを使ってハンドリングエラーに備えていた。そういう周到な準備を重ねた上で、今大会に臨んでいる。

W杯開幕直前に行なわれたザ・ラグビー・チャンピオンシップも、新システムの試行のために、敢えて「捨てた」のだろう。新しいシステムを試し、定着するための「実践練習」として、開幕直前に行なわれた4ヶ国対抗戦を利用した。大会4連覇を捨ててまで、ワールドカップの優勝のための準備に費やした。世界ランキング1位から陥落しようが知ったこっちゃない。それよりも、新システムに磨きをかけ、W杯優勝を狙うほうを選んだ。

今回の新しいシステムで臨んだNZは、7月20日の対戦で南アフリカと16-16で引き分けている。その時はまだ未完成だったから引き分けに終わったが、そのシステムを洗練させ完成に近づけたW杯本大会の大事な初戦では、きっちり23-13で勝ち切った。NZが開幕直前の数ヶ月をどのように位置づけ、どのように強化プランを練ってきたのかが、よく分かる試合だった。


サッカーのW杯と違い、ラグビーのW杯は応援するチームごとに観客席が分かれていない。両チームを応援する観客が入り乱れて座っている。声を張り上げて応援しながらも、試合が終わればどちらのチームのサポーターも笑顔で挨拶をし、お互いを尊重する。試合が終われば「ノーサイド」になるのは、選手だけではないのだ。
この試合でも、ノーサイドの後で、それぞれのチームのレプリカジャージを着ているサポーター同士が、一緒にビールを飲みながらスマホの自撮りで一緒に記念撮影をしていた。さすが世界の舞台。さすがワールドカップ。質の高さが求められるのは、選手も観客も同じなんだなぁと思った。



やばい書いてて超楽しい。

ラグビーW杯 開幕戦 日本vsロシア

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ラグビーワールドカップ 開幕戦 プールA
日本 30-10 ロシア


10年前に招致が決まったラグビーW杯日本大会が、いよいよ始まった。
前回大会で躍進したラグビー日本代表の位置づけが試される大会だろう。また運営上では来年に迫った東京オリンピックの実質的な「予行演習」の意味付けがあり、日本にとっていろいろな面で重要な大会だ。

その開幕戦。相手は格下のロシア。ほとんどの予想が「勝って当然」という雰囲気だった。しかし実際に蓋を開けてみたら、ロシアは強かった。まぁ、ラグビーにおいて楽勝という試合はほとんどない。それは、前回大会の開幕戦で南アフリカにまさかの勝利を挙げた日本代表が一番よく分かっていることだろう。

ロシアは明らかに日本代表の弱点を分析していた。すなわち、キック処理。
前半開始のキックオフから20分はひどかった。技術の無さというより、開催国というプレッシャーで選手が固くなっていたように見える。国歌斉唱のときの選手の高ぶりを見ると、気持ちを上げ過ぎて自分をコントロールできなくなった選手が多かったようだ。
特にBK陣にそれが顕著で、SO田村優などは判断が悪く、キックが入らず、ゲームコントロールを全く失っている状態だった。キャプテンのリーチ・マイケルでさえ、試合の出だしにキック処理をミスしてしまい、混乱に陥った。

こういう時にものを言うのが、経験豊富な選手の落ち着きだ。今回の試合では、PR稲垣啓太、HO堀江翔太、WTB松島幸太朗の3人が日本代表を落ち着けた。確実にボールを確保し、フェイズを重ね、陣地を少しずつ挽回していく。PRやHOはスクラムが本職のため、展開ラグビーにおいては体力を温存するよう、ポイントの「片側」だけに控えているのが普通だ。しかし稲垣と堀江は体力を出し惜しみせず、フロントローとしては異質なほど走り回った。彼らの勤勉な動きが、他のFW陣を落ち着けるために果たした役割は大きいだろう。

また、今回の試合でWTB松島が3トライを取ったのは、決して偶然ではないと思う。WTBは試合中に廻ってくるボールの数が圧倒的に少ない。だから試合終盤まで維持しなければならない集中力の種類が、他のポジションとは違う。
松島は序盤で日本代表が混乱していた時間帯、「のんき」に構えて他の選手への声掛けを行なっていた。特に混乱に陥ったSO田村には頻繁に声をかけ、BK陣を落ち着かせようとしていた。前回大会ではまだ売り出し中の若手だったのが、今回大会ではBKリーダーともいえる役割を果たしている。その気持ちの持ち方の変化が、3トライという結果につながっているように見えた。

試合の序盤はロシアのゲームプランに嵌り、主導権を取られたが、前半のおわり辺りから日本が主導権を取り返す。ロシアの弱点は、意外なことだが、フィジカルにある。力は強いが、体力が保たない。ロシアは日本の弱点がキック処理にあるとみて、頻繁にハイパント攻撃を仕掛けてきた。しかしそれは裏を返せば、ロシアがその攻撃にしか活路を見いだせなかったということでもある。ロシアは徹底して接近戦を嫌い、日本がモールやラックでフェイズを重ねる展開を切ろう切ろうとしていた。フェイズを重ねる接近戦になれば、体力を消耗し、集中力が落ちるからだ。過酷なまでの強化合宿でフィジカルとスタミナを上げていた日本代表との差が、徐々に見えてくる。

次第に日本代表がゲームプランを実行しはじめるようになり、モールやラック中心の展開が増え、ロシアのディフェンスが中に中に寄るようになる。すると外が空くので、WTB松島がフリーになりやすい。今回の試合で松島がハットトリックを決めたのは、そういう経緯があったからだ。最初こそロシアに主導権を握られたが、途中でそれを取り返したのは日本代表にとって大きな自信になるだろう。


試合のことはともかく、今回の試合を見ていて気になったことがいくつかあった。

(1) 選手移動の先導車両
今回の日本大会は、移動が長い。全国の試合会場を移動しながらプール4試合をこなす。その際、会場入りするためのチームバスに、警察の先導車両が無い。海外の大会だったら、チームバスには警察の先導が付き、信号もなにもぶっち切って最短時間で移動する。HOの堀江翔太も、開幕戦のためのバス移動の時間が長く、体が硬くなってしまったことを指摘している。

僕の住んでる横浜でも試合が行なわれるため、大きな道には「ラグビーW杯期間中、試合当日は、不要不急な車の移動はご遠慮ください。」という看板があちこちに見られる。しかし、日本の交通事情でそんな呼びかけをすること自体、実効性が疑わしい。どんな状態であってもスムースに運営しなければならないのが開催国の務めだ。ちょっと、これでいいのかな、という気がする。

(2) 明る過ぎる照明
開幕戦の会場となった東京スタジアム、照明が明るすぎたような気がする。普段、Jリーグなどで使用しているときよりも明るかった。試合序盤の日本のキック処理のミスは、ひとつには明る過ぎる照明で、ボールが「溶けて見えなくなった」のではあるまいか。

前日の報道によると、日本代表の前日練習は昼間に行なわれていた。一方、ロシアは前日練習を敢えて試合時間と同じ夜に行なった。ロシア代表はその時スタジアムの照明を確認し、キック攻撃を「いける」と判断したのではないか。試合状況の確認は、試合と同じ環境で行なうのが鉄則だ。日本代表の準備は、その点でやや甘いところがなかったか。

(3) 温度と湿度
残念ながら今回の日本大会は、天候があまり良くないようだ。台風も接近してきているし、秋雨前線がずっと日本列島に停滞している。夏の猛暑はなんとか脱したものの、ラグビーにとって最適な環境と言えるほど涼しくなってはいない。

ラグビーの試合は消耗戦なので、天気や温度によってゲームプランを変えなくてはならない。単発の試合とは違い、先が長いので、選手の消耗を抑えることも必要になる。それができて、戦術の引き出しが多いチームと、チームプランがひとつしかなく、どんな環境でもひとつの戦術を貫かなければならないチームで、大きな差が出てくるような気がする。

(4) 右展開に寄ったゲームプラン
戦術的な面では、日本代表の展開が右展開に偏っていたのが気になる。右WTB松島は3トライを上げたが、左WTBのラヴァには、ほとんどボールが回っていない。
スクラムの時には、攻撃側の左サイドは相手SHの分だけ1枚ディフェンスが厚いので、サイド攻撃は右から仕掛けるのが定石だ。しかし今回の日本は、スクラムのようなセットプレーだけでなく、フェイズを重ねた展開の途中でも、決め打ちは右から攻めた。ひとつには押された展開にあっても右WTB松島が落ち着いていた、ということを見たSH流の判断だろうが、このままではいずれ相手国に分析される。特に次戦のアイルランドは相手国の分析に長けている国で、日本の展開パターンを確実に読んでくる。日本代表の躍進には、BK展開のバリエーションを増やしていくことが必要ではないか。


まぁ、とにかく、日本代表が緒戦を取ったのは大きい。こういうスポーツの国際大会では、やはり開催国が躍進することが大会全体の盛り上がりに大きく影響する。前回大会では開催国のイングランドがまさかの予選敗退の憂き目に遭った。サッカーのW杯では、前回大会で開催国のロシアがまさかの躍進を見せて大会全体が盛り上がった。前回大会で大きく躍進した日本代表が、この4年間でどれだけ進化したのか楽しみだ。日本でこんな大きな大会が行なわれるのは、少なくとも僕が生きている間はもうないだろう。一生に一度の楽しい機会を満喫したい。



経験の力ってのはやっぱり侮れないんだなと実感。

原因と対策

文在寅の報復は「日本に影響ナシ」どころか「韓国に大打撃」の可能性 経済の条件が違いすぎる
(高橋 洋一)

韓国の失政の代表例は、雇用政策である。文政権は、韓国内では左派政権とされるが、それが雇用政策に失敗したとあっては、面目がないだろう。この点、韓国の文政権は驚くほど日本の民主党と共通点がある。

文政権は、「最低賃金引き上げ」と「労働時間短縮」に取り組んだが、結果として失業率は上がってしまった。

最低賃金引き上げも労働時間短縮も、ともに賃金引き上げを意図した政策だ。しかし、金融緩和を行って雇用を作る前に、先に賃金を上げてしまうと、結果として雇用が失われる。典型的な失敗政策で、まさに日本の民主党政権と同じ間違いだ。

左派政党の建前は、労働者のための政治だ。このため、雇用を重視する。しかし、雇用を作るための「根本原理」が理解できていないと、目に見えやすい賃金にばかり話が行きがちだ。

金融緩和は、一見すると企業側が有利になる。そのため左派政党は、短絡的に「金融緩和は労働者のためにならない」と勘違いする。金利の引き下げは、モノへの設備投資を増やすとともに、ヒトへの投資である雇用を生み出すことを分からないからだ。

この間違いを犯す人は、金融引き締めで金利を上げることが経済成長のためになる、などと言いがちだ。例えば、立憲民主党の枝野幸男代表がその典型だ。

そうした勘違いの末、政策として実行しやすい最低賃金の引き上げを進める、という話になる。民主党政権もこれで失敗した。


この軋轢を「外交問題」と捉えている人が多いが、その実、この問題の本質は文在寅の「経済失策」にある、という指摘。
この指摘が正しいのであれば、文在寅が強行に嫌日政策をとっている理由は「それが唯一の失政回復の方法だから」であり、ことの本質は外交には無いことになる。日本側の態度は一切関係ない。日本側がどういう態度をとろうと、文在寅にはこの方策しか無い。

つまりこの件は、外交努力で解決できる類いの問題ではないことになる。



原因を断ち切るのが問題解決の王道。

今日も暑いぞ

ビールがうまい。


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するっと

秋田とくれば稲庭うどんだ。

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普通に暑い

北に来れば涼しくなると思ってた。

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脇目も振らず突撃だ

旅先で必ず嫁が寄るのは地元スーパー。

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もちろん大盛だ。

盛岡ときたら冷麺。

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どんどんくれたまえ

盛岡ときたら椀子そば

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角館駅

すんげえ旅に来た感。


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反論すべき社説はどれか

「対立する日韓 交流の歩みも壊すのか」
(2019年8月3日 朝日新聞社説)
「輸出優遇国除外 韓国はなぜ現実に向き合わぬ」
(2019年8月3日 読売新聞社説)
「韓国を『輸出優遇』除外 負のスパイラルを案じる」
(2019年8月3日 毎日新聞社説)
「ホワイト国除外 「甘え」絶つ妥当な判断だ 韓国は不信払拭の行動起こせ」
(2019年8月3日 産経新聞社説)
「日韓は摩擦対象を広げるな」
(2019年8月3日 日本経済新聞社説)
「ホワイト国除外 「報復」の悪循環やめよ」
(2019年8月3日 東京新聞社説)


日韓の国際関係に決定的な亀裂を生じさせた今回の輸出優遇国除外措置。
日本政府の決定の是非はさておいて、ここでは単純に社説の出来・不出来だけに注目して読んでみたい。この中に、ひとつだけ「絶対に反論しなければならない社説」がある。どの社説だろうか。

それぞれの社説で、意見を出してる立場が違う。

「よいことだ」・・・産経
「よくないことだ。韓国が悪い」・・・読売
「よくないことだ。日本が悪い」・・・毎日、東京
「よくないことだ。両方悪い」・・・朝日、日経

意外なのは朝日新聞だ。ここのところ日韓関係については偏向報道を立て続けに流し、世論の批判を浴びていることを十分に意識しているのだろう。今回の日本政府の決定に関しては、ちょっと驚くほど中立な立場で書いている。「角度」の付け方が普段の朝日らしくない。

自治体や市民団体などの交流行事は中止や延期が相次ぐ。7月の半導体材料の輸出規制もあわせ、今後の運用次第では韓国経済を深刻に苦しめ、日本の産業にも影響がでかねない。きのうの決定が実施されるのは今月下旬からになる。両国関係に決定的な傷痕を残す恐れがある一連の輸出管理を、日本は考え直し、撤回すべきだ。
(朝日社説)
一方、文在寅(ムンジェイン)政権は対抗策として、安保問題で日本との協定を破棄する検討に入った。だが北朝鮮が軍事挑発を続けるなかで、双方に有益な安保協力を解消するのは賢明な判断とは言えない。文大統領は、ここまで事態がこじれた現実と自らの責任を直視しなければならない。きのう「状況悪化の責任は日本政府にある」と語ったが、それは一方的な責任転嫁である。

当面の対立緩和のために取り組むべきは徴用工問題だ。この問題で文政権は、韓国大法院(最高裁)が日本企業に賠償を命じる前から、繰り返し日本政府から態度表明を求められてきたが、動かなかった。文氏は、司法の判断は尊重するとしても、行政府としては過去の政権の対応を踏まえた考え方があることを、国民に丁寧に説明しなくてはならない。
(朝日社説) 


現代の国際間紛争であれば、片方だけが一方的に悪いということはあり得ない。今回の日本の措置にしても、日本だってしたくてそんなことをしたわけではない。状況をコントロールする方法として、持っている手段を公使しただけだ。その前提には、「状況がコントロールを必要とするほど乱れている」という現実がある。

朝日の主張は要するに「状況を悪くしたのは韓国。そのコントロール手段を誤ってるのが日本」という内容だ。結果としてだが、わりとバランスのとれている社説になっている。普段の朝日新聞であればもっと韓国ワッショイの記事を載せるところだろうが、朝日新聞の現状からしてそれは致命傷になりかねないと踏んだのだろう。ビビった挙句なのだろうが、結果としてわりとまともな社説になっている。

朝日と並んで「両方悪い」という主張を載せている日経社説は、珍しく出来が悪い。経済と民間交流に及ぼす影響しか考えていない。もとは政治的な背景のある問題だとしたら、「そもそもの原因は何か」という過去由来の論拠と、「それが及ぼす影響は何か」という未来志向の論拠と、両方を揃えなければ説得力がない。今回の日経は、後者だけに著しく偏っている。ことの発端がどうであろうが関係ない、影響だけが問題だ、という書き方だ。これでは影響の指摘が適切であろうとも、説得力のある解決策には結びつかない。

普段の朝日の論調をそのまま踏襲したのが毎日新聞だ。完全に「韓国が正しい。日本が間違っている」の一本槍。いくら左派系とはいえ、ここまで他国寄りの社説を載せる新聞は世界的にも珍しいだろう。

毎日新聞がどのような主張を載せようが勝手なのだが、その論拠がいただけない。毎日新聞の論拠は、「政治的な対立を、経済的な手段で報復するのは筋違いだ」ということだ。もともと今回の日本の優遇国除外措置は、日本政府の発表によると、政治的対立は関係ない。単に「優遇国として課されるルールを韓国が守っていないから」ということになっている。日本が眉を顰めたのは、兵器に転用可能な輸出品目の管理と報告を韓国がずさんに行なっていることだ。端的に言えば、北朝鮮への兵器用素材の密輸を疑っている。

だから毎日新聞の主張の妥当性は、「今回の日本の措置は、本当に政治問題に由来した報復なのか」というのを明らかにできるかどうかに懸かっている。経済の問題に対して経済で対処したのなら、何の問題もないはずだ。

それに関する毎日新聞の論拠が、お粗末極まりない。

韓国は1965年の日韓請求権協定に基づき解決済みとしてきた。だが昨年の韓国最高裁判決を受け、今年6月に日本に示した案は日本企業に資金拠出を求める内容だった。請求権協定に基づき、日本が要請した仲裁委員任命にも応じていない。日本政府は国際法違反とみている。

日本政府は元徴用工問題への事実上の対抗措置として輸出規制に踏み切った。世耕経産相は、韓国の対応について、信頼関係が著しく損なわれたと説明していた。

だからといって無関係な貿易の手続きを持ち出すのは筋が通らない。日本政府は否定するが、国際的には貿易の政治利用と受け止められた
(毎日社説)


「貿易の政治利用と受け止め」たのは、一体誰なのか。
「国際的には」とは、どこで誰が言ったことを指すのか。


一番肝心な論拠を、受身で書いて動作主をごまかして書いている。最も恥ずべき書き方だ。「みんなそう言ってますよ」「そう言われてるんですよ」などという書き方に、説得力など微塵も無い。学校の生徒が、作文や小論文で絶対に書いてはいけない書き方だ。子供でさえ改めさせられる外道な書き方を、こともあろうに全国紙の社説が臆面もなく書いている。もはや「恥を知れ」レベルの社説だ。

「恥を知れ」レベルの出来の悪さでいえば、東京新聞も負けてはいない。毎日新聞は、一応、論拠らしいものを出す体裁を整えるふりをしつつ、肝心なところをごまかして書いていた。一方、東京新聞はその体裁を整えようとすらしていない。

日韓間では、影響が広がっている。心配なのは地方自治体や若者による草の根の交流事業が、相次いで中止されていることだ。韓国では日本製品の不買運動が拡大。飲料や衣料だけでなく、日本車も対象になっている。日本への観光客も激減しており、両国をつなぐ航空便が次々に停止や縮小に追い込まれている。

問題の発端は、昨年十月、韓国最高裁が出した元徴用工をめぐる判決だ。しかし、ここまで関係が悪化している現実を、日本政府は認識しているのだろうか。混乱の拡大を懸念し、韓国だけではなく米国も見送るよう求めていたのにもかかわらず、除外を強行した責任は重い。


「しかし」の意味がまったく分からない。
並べてみると、

「韓国で日本に対して良くないことが次々と起きている」
 ↓
「発端は韓国最高裁が出した元徴用工をめぐる判決」
 ↓
「日本の責任。日本が悪い。」



なぜ。



韓国側の問題を延々と指摘したあとに、何の脈絡もない「しかし」という接続詞一発で、日本の責任追及にあっさり舵を切る。根拠も、文章の体裁も、論理の整合性も、一切無い。すべて軽やかに無視している。こうなると、もはや社説ではない。なりふり構わず読者を誘導するための煽動記事以外の何者でもない。東京新聞なら、そのくらいは平気でするだろう。

こうして見てみると、「日本が悪い」系の新聞は、内容云々以前に、社説としての出来が悪い。説得力が皆無だ。これは新聞業界全体にとって由々しき事態だと思う。産経新聞のような好戦的な主張に対する反論として機能しないからだ。

産経新聞だけが、今回の日本政府の措置を全面的に支持している。極右系の新聞だけあって、開戦も辞さないような攻撃的な社説だ。しかも挙げている論拠には、出自不明の伝聞やら「〜と言われている」的なごまかしは一切なく、淡々と事実を積み上げて論証している。この主張に反論するのは、少なくとも毎日新聞や東京新聞では無理だろう。 書き方の妥当性と説得力が段違いだ。

産経新聞は、論拠の筋は通っている。しかし、それが「妥当な提言」になっているかというと、大いに疑問だ。ぶっちゃけ、隣の国なのだから、関係が悪くなって良いはずは無いのだ。新聞社説の提言としては、「韓国なんてぶっ潰せ、やっつけろ」ではなく、「どうすれば事態が収束するか」という、平和的な着地点の模索であるべきだろう。

最近の韓国の、国としてのあり方に苦虫を噛み潰す思いの日本人は多いかもしれない。しかし、国際間の問題で「胸がスカッとするような方策」は、破滅の道であることが多いのだ。戦前の日本の国際連盟脱退もそうだったし、日ソ中立条約の破棄もそうだった。産経新聞の社説からは、そのような道を日本が再び辿ろうとしている危険な気配を感じる。

だから他紙としては、産経新聞のこのような好戦的な社説に歯止めをかけるべく、冷静な視点で収拾案を提言しなくてはならない。産経新聞のような社説に熱狂して同意し、「韓国憎し」の感情を増幅しても、廻り廻って損をするのは日本なのだ。ちょうど今、外交的にも内政的にも窮地に経たされた文在寅大統領がひたすら「日本憎し」のプロパガンダを炸裂させているが、日本もそれと同等の立場に堕ちてしまう。その愚を犯す危険は避けなければならないだろう。

日本は歴史教育によって、なぜ戦前の日本が世論によって戦争を回避できなかったのかを、すでに学んでいる。「他国を潰そう」という憎しみのエネルギーが諸刃の剣であることは、日本は世界のどの国よりも学んでいるはずだ。産経新聞の主張は正当で論拠に弛みがなく、正しい。正しいからこそ、産経の主張に正面から反論し、代替案としての収拾策を提言できなければならない。それこそが、国際紛争を事前に回避する歴史教育の目的だろう。それができなくては、日本国民は、韓国や中国を「『歴史認識』を一方的な齟齬によって犯す国」として批判する資格はない。



八方塞がりの韓国には、今ああいう態度以外に方策は無い。
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「英語教育が改善された」という報道がない理由

「全国学力調査 格差解消につなげよう」
(2019年8月1日 朝日新聞社説)
「全国学力テスト 英語のデータをどう生かすか」
(2019年8月1日 読売新聞社説)
「英語での表現力不足 教師任せにしていいのか」
(2019年8月1日 毎日新聞社説)


全国学力調査で「生徒の英語力が低い」という社説。全国紙では朝日、読売、毎日の3紙が採り上げていた。
この手の話題では、絶対に揺るがない基本がふたつある。

ひとつは、学力調査の結果がどのようなものであるにしろ、マスコミが「日本人の英語力は伸びています。大丈夫です」と言うことは絶対に無い、ということだ。マスコミには、事実はどうであれ、「日本人の英語力は低くあらねばならない」という確固たる信念がある。その背後には、1000億円産業である英語教育業界・予備校業界から得られる広告費がある。読者に危機感を煽って、不安にさせて消費を引き起こそうとするのは、マスコミの基本原理と言ってよい。

多くの読者は、今回の学力調査の結果を自分で精査しようとはしない。今回のような社説を読んで、なんとなく「ああ、やっぱり日本人の英語力は低いのか」という印象を得るだけだ。マスコミが撒き散らす印象操作を鵜呑みにする読者がほとんどだろう。

しかし今回の調査結果を実際によく見てみると、読解力と作文力は伸びている。中学・高校での英語教育が本来的には「大学に入って学問研究を行なえること」、つまり「英語の論文を読めて、英語で論文が書けること」と考えると、今回の調査結果はかなり肯定的に読み取れる。

マスコミは事実に関係なく「日本人の英語力は弱い」という結論ありきで記事を書くから、その改善案も必然的にいいかげんになる。根本的な対策を立てられては困るからだ。毎日新聞などは露骨に無責任さを全開にしている。

教師は部活動や事務作業など授業以外の業務で忙しい。そのため、課題は分かっていても、一方的に知識を伝える昔ながらのスタイルを変えられないのではないかということも、これまで指摘されてきた。教師任せにするのでなく、地域と連携して外国人住民との交流の機会を増やすなど、英語に親しむ環境を授業以外にも広げていく仕組みを考えるべきだ。
(毎日社説)


そもそも全国学力調査は、学校教育の改善のために行なうものだ。その結果を受けて「学校に頼らず、その辺に住んでる外国人に任せたほうがいいんじゃね?」という、雑な提言だ。絵に描いたような本末転倒。もはや「提言」と呼ぶのもおこがましい。この毎日新聞の無責任極まりない書き方から、新聞各紙は本気でこの問題を解決しようという気などさらさら無い、ということがよく分かる。


もうひとつの基本事項とは、そもそも中・高の英語教育で「コミュニケーション能力」なるものが一向に改善されない理由だ。誰もが本当の理由などよく分かっている。はっきり書いてはいないが、読売新聞がそれをちらちら伺わせている。

生徒の英語力を高めるには、教員の指導力向上が不可欠だ。文科省は、公立中学校で英検準1級以上を持つ英語教員の割合を50%にする目標を掲げたが、まだ36%と伸び悩んでいる。教員の自己研鑽が欠かせない。英語のコミュニケーション能力を身につけられるよう、自治体は、研修の態勢を整えるべきだ。
(読売社説)


「英検の準1級も受からない人間が、教壇で英語を教えている」という事実。もはや説明は不要だろう。日本の学校で音声会話に基づく「コミュニケーション能力」なるものが鍛えられない理由は簡単だ。そもそも教える側の教師にその能力がないからだ。教える側ができないのに、習う側ができるようになるはずがない。

現在、教壇に立っている現役世代の英語教師は、「自分たちが生徒の時代に受けた英語教育」と「これからやっていかなければいけない英語教育」が全然違う。必要となる英語能力を身につけていないし、そもそも自分がそういうやり方で教わっていないので、教え方が分からないのだ。

街の英会話学校の講師と違って、学校の教師に必要なのは専門分野の技能だけではない。教員採用試験も、専門技能が高い人を優先的に合格させるようにはできていない。各都道府県の教員採用試験で、専門能力の低い者が不可解な優先合格を受けるのは、もはや公然の事実だろう。

つまり、根本の原因となる「教師が無能だから」を抜本的に改善しようと正論を振りかざすと、いろんな虎の尾を踏んでしまうのだ。僕は個人的に、全英語教師のTOEIC、TOEFL、英検のスコア・資格を公表するべきだと思っている。しかしそんなことを実行しようとしたら、現場は大混乱になり、資格が認められるべきではない不適格英語教員が大量に出てくるだろう。

今回に限らず、「日本の英語教育は」のような話題が出てくるとき、マスコミは本気でその問題を解決しようとは決して思っていない。むしろ解決されては困る場合が多い。しかし学生時代に英語に苦労したのは日本人全員に共通している原体験であり、記事として読者の目を引きやすい。「決して解決しないので、叩くだけ叩ける」「困ったときにはこの話題さえ出しておけば、注目を集められる」という、お得なトピックなのだ。

それが証拠に、同じ議論を何年も何年も繰り返し、提言の内容だけでなく、議論の仕方からして全く変わっていない。変える気が全くない。マスコミの意図通り、これから先も問題提起だけ頻繁に行なわれながら、一向に解決しないままだろう。



マスコミにとって「解決されたら困る問題」のひとつ。
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「バイエル」って誰?

本屋で書棚を眺めてて、ふと面白そうな題名の本があった。
新刊ではないが、なんとなく買って読んでみた。


Byel

「バイエルの謎 日本文化になったピアノ教則本」
安田寛、新潮文庫


めっちゃくちゃ面白かった。


この夏、僕が自信をもってお薦めできる渾身の一冊だ。大学の講義で課題として全学生に有無を言わさず強制で読ませたい。というか、夏休み読書感想文の課題図書、推薦図書の類いに一切選ばれていないのが不思議で仕方がない。僕が新潮社の企画担当なら、この夏の文庫フェアとして「新潮文庫の1冊」に選定したい。

この本を大学生に読ませたいのは、「大学での研究というのは、一体どういうものなのか」を端的に示している本だからだ。
世間一般に、大学での研究というのは、「人知を越えた知能を持つ天才達が、最新の装置やら理論やらを駆使して行なっている、難解で高尚な営み」と思われていることが多い。まったくの間違いとは言わないが、完全に正しくもない。少なくとも、大学に進学しようとしている高校生たちが身につけるべき姿勢は、そういうことではない。

世の中には大学の研究者が書いた本が溢れている。ふだん学問研究に関係ない一般人でも、誰でも読める。その中で、「本物の一流研究者」が書いた本というのは、読めばすぐに分かる。楽しそうなのだ。「自分の研究がどのように世の中の役に立つか」とか、「この研究にどのような価値があるのか」など、他人の評価は一切無視。ただひたすらに、自分が「面白い」と思った謎を追い求めて、その答えを探すことにのみ熱中する。答えにたどり着くまでは絶対に諦めず、必要とあらば世界の果てまで手がかりを追う。最後は執念で押し倒す。

よく、高校までは秀才で通ってきたが、大学に入って以降、勉強というものが分からなくなり、虚脱状態になる学生がいる。その理由は、「『勉強』というものの持つ意味が、高校までの中等教育と、大学から先の高等教育では、まったく違う」ということに対処できないことにある。

高校までの勉強は、他人に訊かれたことに答えられれば「優秀」とされる。自分の勉強能力を評価するのは、他人なのだ。中等教育というものは、高等教育に入るための準備段階という位置づけだから、必然的に既存の知識体系を敷衍することが中心になる。要するに暗記中心だ。「いままでの人類は、ここまでの知を積み重ねてきたんですよ」という、人類の知的遺産をとりあえず知ることが中心となる。

ところが高等教育はそうではない。大学から先の「勉強」というのは、「で、あなたが独自に見つけた真実は何ですか?」ということなのだ。既存の知識を敷衍するのは、大学では「手段」であって「目的」ではない。「自分で新たな真実を発見する」ということに結びつけられなければ、たとえ百科事典全冊分の知識を丸暗記したとしても、すべて無駄だ。

つまり大学から先の勉強というのは、「狩り」なのだ。自分が仕留めたい獲物を、どこまでも追い続ける。そのためには、まず何よりも最初に、自分が追うべき「獲物」を定める必要がある。つまり研究テーマとして取り組む「謎」だ。これがなければ、大学での勉強というものは始まらない。
大学に入ってから勉強に惑う学生というのは、この「謎」を持っていないのだ。既存の知識体系、普段生きている世界を、当たり前のものとして疑っていない。「なぜなんだ?」「どうしてなんだ?」という「謎」、つまり「獲物」がなければ、追い求めるという行為そのものが成り立たない。

そういう学生に「いま何の研究をしているの?」と訊いても、ろくな答えが返ってこない。ひどい学生になると、指導教官に「で、僕はどういう獲物を追えばいんでしょうか?」ということを訊いてくる。知らねぇよとしか答えようがない。何のために大学で勉強するのか、その目的まで人に決めさせるなと言いたい。


閑話休題。この本で追っている「謎」は明白だ。


バイエルって、誰?


非常に分かりやすい。この本の筆者は、この謎を追うために延々と調査を続け、研究に没頭する。「その解明がいったい何の役に立つのか」など一切考えない。研究の世間的な価値など、知ったこっちゃない。必要とあらば書類一枚を見るためにはるばるドイツやアメリカに取材に出かける。その過程からは、筆者が何の邪念もなく「狩り」に没頭し、謎を追い求める知的興奮が伝わってくる。


『バイエル ピアノ教則本』。
ピアノを習ったことのある人なら、誰もが一度は手に取ったことがある楽譜だろう。約160年の長きにわたって、世界中で使われ続けているベストセラーだ。

しかし、この教則本を作った「バイエル」なる人物、わかっていないことが多い。音楽の教科書にも出てこない。音楽室に掛けられるような肖像画もない。音楽辞典を調べても2〜3行しか載っていない。いつ、どこで生まれ、どのような経歴があり、どこで働き、どこで死んだのか、情報が一切明らかにされていない。

この本では、最初のほうに「バイエル ピアノ教則本」にまつわる様々な謎を提唱している。
たとえば、バイエルのピアノ教則本は、106曲から成る。なぜこんな半端な曲数が含まれているのか。なぜ100曲ぴったりではいけなかったのか。

さらに、バイエルは106曲のいわゆる「番号曲」のほかに、曲番号が割り振られていない12曲の「番外曲」が挿入されている。この「番号曲」と「番外曲」のバランスが、非常に悪い。何の脈絡もなく、突然「番外曲」が挟まっている。この正体不明の「番外曲」は、どういう意図で入れられたのか。
106曲の構成も不可解だ。バイエルの1曲め、最初の曲は、いきなり変奏曲で始まっている。しかも連弾だ。なぜ子供に教える最初の曲が、よりによって変奏曲なのか。

著者が一番疑問に思っているのは、「バイエルは、曲として全然おもしろくない」ということだ。子供にピアノを教える最初の教材としては、絶望的に曲がつまらない。「芸術的には無価値な曲ばかり」と断言している。なぜこんなつまらない曲を、バイエルは子供向けの練習用教材として作ったのか。なぜそれが、世界中で広く使われているのか。

さらに筆者は疑問の手を緩めない。最初のはしがきに、バイエルはこう書いている。

 この小品は将来のピアニストができるだけやさしい仕方でピアノ演奏の美しい芸術に近づけることを目的としている。
 子ども、とりわけまだまだ可愛い子どものためのこの本は、小品に許されたページ数の範囲内でどの小さなステップでも上手くなってゆけるように作ったものである。以上のことから、ピアノ演奏で出会うあらゆる困難、例えば装飾音などについてもれなく網羅することはこの小品の目的では有り得ないことを了解してほしい。実際、生徒が一年かせいぜい二年で習得できる教材を定曲するための入門書を作ろうとしたに過ぎない。こうした内容の作品はおそらくこれまでになかったもおのである。この作品は、音楽に理解がある両親が、子どもがまだほんの幼いとき、本格的な先生につける前に、まず自分で教えるときの手引きとしても役立ててほしいものなのである。
 私はこの後に中級程度まで進む詳しいピアノ教則本を出版することを考えている。
フェルディナント・バイエル


著者はこのはしがきを評して「何を言っているのだろうか」と疑問を投げかける。はしがきが言っているのは、「この教材を使ってもテクニックなんて身に付かないぞ」「先生につく?てめぇひとりで練習しろ」「弾き方?ママにでも訊いてろ」ということだ。つまりバイエルの教材は、音楽教室で先生に教わるための教材として作られていない。こんな意図で、はたして子供用の教材の役に立つのか。

バイエルは残された資料が極端に少ないので、この「はしがき」は、バイエルが自筆で残した数少ない貴重な資料だ。著者はこのはしがきを出発点に、バイエルが生きた痕跡を辿り続ける。

本の後半になって、著者は執念で「バイエルの謎」をひとつひとつ解き明かしていく。この謎解きがあまりにも見事で、鮮やかな解答というほかはない。正直、僕も読んでいてびっくりした。何を言っているのか不可解な「はしがき」に照らし合わせて、その意図がひとつひとつ明快に理解できる。 ネタバレになってしまうのでここでは書かないが、それが非常にもどかしいくらいの鮮やかさだ。

人文科学であれば、出てくる解答はすべて「仮説」の域を出ない。本当のところはどうなのか、を証明することは原理的に不可能だ。しかし研究者の直感として、真実に肉薄した仮説にたどり着いたときには、「仕留めた」という明確な実感がある。謎が阻む強固な壁を、自らの執念でぶち抜いたという実感、これこそが高等教育のもたらす最大の福音だろう。大学時代に一度でもそのような実感を得られる経験をしたら、ちゃんとした大学生活を送っていたということだと思う。

また、単に謎解きの本というだけでなく、謎を追う際の紀行文としても楽しめる。著者はバイエルの情報を追って、アメリカ、ドイツ、オーストリアに取材に出かけるのだが、その道中記が生き生きと描かれている。
どんな研究者でも、偉い大学の先生でも、自分の知らない外国の街にひとりで行くのは、怖いのだ。目的の所に辿りつけるだろうか。人に会ったら自分の用件をちゃんと伝えられるだろうか。こっちの不備で必要なものが手に入らなかったらどうしよう。そんな不安と戦いながら恐る恐る図書館を巡り、手がかりを見つけたときは大喜び、ガッツポーズをしながらホテルに戻る。そこには、世間一般に考えられている「大学教授」のイメージは欠片も無い。ただ一心に謎を追い続け、知りたいことを知ろうとする、「知のハンター」がいるだけだ。

大学生にこの本を薦めるときには、特に語学の必要性を説きたい。バイエルはドイツ人なので、調査にドイツ語が必要なのは当然として、この調査には少なくともドイツ語、フランス語、英語を使いこなすことが必須だ。大学の第二外国語で落第点を取っている程度の語学力では、この「狩り」は出来なかろう。銃もないのに狩りが出来るか。語学というのは、学問研究における基礎中の基礎だ。普段からそういう意識で語学の授業に出ている大学生が、どれほどいるのだろうか。

著者は調査の過程で、市井の人を含む、さまざまな人から助力を得ている。大学教授でありながら、自分の専門以外の分野に関しては、大学院生にだって謙虚に教えを乞う。真実にたどり着く「運」を偶然にでも掴むには、こうした日々の生き方が必要なんだろうな、と思わせてくれる。

知的研究の興奮を余すところなく伝え、世界を飛び回る紀行文が楽しめ、謎をひとつずつ解いていくパズルとして優れている。この夏、なにか読書をしようと思っている人に、ぶっちぎりでお薦めの一冊だ。


note

内容をまとめる読書ノートは当然コレ。



巻末の解説が、名著『絶対音感』の最相葉月というのも渋い。

『いのちのよろこび』(でんぱ組.inc)





仕事しながらラジオ聞いてて、たまたま流れてたんだけど、歌詞にびっくりした。
仕事の手を止めてじーっと聞いてしまった。

「日本人は無宗教」なんて言う人がいるけど、宗教という特定の既存物に頼らず、習合によって様々な世界観を各自が自分の中に取り込んで、独自に完結させている世界唯一の民族なのだと思う。たとえ矛盾する教義であっても、それを自分の中に取り込む能力がある。哲学にせよ宗教にせよ、既存の世界観は、自分の内的世界をつくるためのきっかけに過ぎず、頼るものではない。

この詞を各国語に翻訳して「どこの国で作られた曲か」と聞いても、世界中の人がためらいなく「日本」と答えると思う。こんな詞、世界の中で日本人しか書けない。愛だの恋だの、自我だの平和だの、そんなことしか詞の題材がない欧米人に書ける詞ではない。こんな詞を、女の子たちが踊りながら平然と歌ってるのが日本という国。

内容だけでなく、使われていることばもかなり練られてる。概念とことばが離れ過ぎず、なおかつ現代の女の子世代の身体感覚に合うようなことばを選んで楽曲の勢いを全く殺さない。安直な繰り返しもなく、詞が一つの物語として完結している。半端ない完成度。



作った人は何者だろうか。

気になるコトバ。

夏が近づき、出版各社が夏の文庫フェアを開始した。
その中のひとつ、集英社文庫の「ナツイチ」に採り上げられた、『言えないコトバ』(益田ミリ 著)を読んでみた。


ienaikotoba


言葉に関するエッセイ集。単なるあるある話から、筆者が日頃から違和感を感じている言葉まで、言葉に関するあれこれを雑然と綴っている。
まぁ、読みやすい本。年配者による「最近の若者の言葉遣いはけしからん」的な、上から目線のダメ出しなどでは全然なく、筆者が肩肘張らずに言葉に関して思ったことをそのまま書いている観のある本。言語論ではなくエッセイとして、気軽に読める本だろう。暑い夏に読むための読書フェアに推されるのも、まぁ分からないではない。


しかし、言葉に関してエッセイを書いているにしては、この著者、ことばづかいが雑すぎるのが気になった。


まず、文章に「のである」がやたらに多い。
中・高の国語の授業であれば、無条件に削除するように添削される表現だ。

「試しに言ってみるのだが、今まで驚いてくれた人は、ひとりもいなかったのである

「どうも気後れして真似ができなかったのである

「想像したら、少し胸がキュンとしたのである


見開きの2ページだけで、「のである」が3例も出てきている。
一般的に「のである」は、単独で使われる時は削除しても意味が変わらない。「ひとりもいなかった」「真似ができなかった」「少し胸がキュンとした」と書くほうが簡潔で、意味も伝わりやすい。

「のである」が使われるのは、一度言ったことを、他の例を使ったり違う言葉を使ったりして、もう一度言い直すときだ。
本書の『パンツ』という項目で、筆者は「チョッキ」「トックリ」という言葉を最近使わなくなり「ベスト」「タートルネック」と言うようになったことを挙げて、こう書いている。

「わたしの父には、いいまだそれらは死語ではないし、このまま突き進むはずだ。ちなみにわたしの母は、わたしよりも、うんと長い時間がかかったものの、ベストやタートルに辿り着いている。オシャレへの関心の度合いによって、夫婦である父と母には若干のコトバの壁ができたのである。」


この箇所では、「父はこう」「母はこう」「要するにこう」と、前に挙げたことを他の表現でまとめているので、これは「のである」の正しい使い方だ。
しかし、この本ではあまりに「のである」が多用され過ぎているので、これはたまたま正しい用法で「のである」を使っていた箇所、というだけに過ぎないだろう。「濫発した中にたまたま正しい用法があった」という、単なる偶然だと思う。

そもそも、「のである」の正用法には、「伝えたいことを一文だけで伝え切れていない」という大前提がある。伝えきれないから、他の言い方で補完しなければならないのである。だからそもそも正用法といえども「のである」を多用するのは、上手な書き手ではない。


他にもこの本、言葉遣いが疑わしい書き方が多く見られる。

「どうやら、おもてなしをすることが流行っているような気がする」


典型的な文のねじれ。「どうやら」の後に句読点が打ってあるので、これは文全体を修飾する。すると被修飾語は文全体の述語になるので「気がする」ということになる。すると言っていることは「自分では意識していないが、どうやら私は・・・という気がしているようだ」ということになる。おそらく誤文だろう。

察するところ、正しい係り受けは「どうやら・・・流行っているようだ」だろう。「どうやら」は、係り受けとして「〜ようだ」「〜らしい」で受ける表現だ。上の文では、それが成り立っていない。いっそのこと「どうやら、」を削除して、単に「おもてなしをすることが流行っているような気がする」と書いたほうが誤解がない。

「デパートか、百貨店か。
口にする前に、毎度、
『どっちだっけ?』
と一瞬とまどうわたしがいる。」


どこかで見た歌の歌詞か、哲学的な思索に関する言及を、何の疑問もなく丸パクリして使ってる表現だろう。当該のエッセイは、筆者が「『デパート』という言葉は『パレード』に似てるから、ゴージャス感が凄すぎて、使うのをためらう」という内容だ。そんな瑣末なことを迷っているよりも、「一瞬とまどうわたしがいる」という表現を躊躇もなく使う感性のほうを疑ったほうがいいのではないか。

「〜しているわたしがいる」という表現は、主文の述語が「いる」という存在認識なので、その対称として「いない」(=「非存在」)の概念が前提となる。つまり「死」「無」「虚」の世界だ。無というのは、それ自体に概念を与えられないので、必然的に「有」と対称することでしか捉えることができない。そういう「無」に捉えられそうになったとき、自分の存在に立ち返る(つまり「我に返る」)ことによって「無」の認識に達するときの表現が、「〜するわたしがいる」という言い方だ。この表現はもともと日本語独特のものではなく、海外の認識論を翻訳する際に編み出された翻訳表現だ。僕の知る限り、最初に使ったのは確か堀口大學だったと思う。

当該の文は、そこまで意図してこの表現を使ってはいまい。おそらく「デパートか百貨店か、気づくと『どっちだっけ?』と迷っていることが多い」くらいの意味だろう。それを何やら歌の歌詞のように、もってまわった言い方で表している。決して、文章勘の成熟した大人が書く文章ではない。


かように突っ込みどころが満載の本なのだが、別に僕はそれが悪いと言っているわけではない。この本はエッセイなのだし、想定している読者もそれほどことばにうるさい人ばかりではなかろう。夏の暑いさかりに、時間つぶしに読書を、などという向きには読みやすい本だと思うし、その面では「仕事をしている本」だろう。

僕が思うのは、「この筆者、いままでの人生で、誰にも文章を直される経験がないままここまで来てしまったのだろうか」ということだ。
たとえば先に挙げた「〜のである」などは、中学生のうちに直されているはずの表現だ。昨今では国語の授業数が削減されて、作文の指導も十分ではないのかもしれない。中学、高校と、文章を添削される機会は数多あったはずなのだが、そのどの段階でも添削をすり抜けてここまで来てしまったのだろうか。

日本語の母語話者だからといって、日本語が上手とは限らない。特に思考を文章に著して、広く世の人々の目に触れるようになれば、そこには一応の文章訓練が必要だろう。僕の印象では、学校における国語教育を軽視する人ほど、そういう能力をきちんと身につけていない。

言葉に関するエッセイであれば、読者としては、自然と筆者の「日本語力」に注視しながら本を読み進める。どれだけ書いてある内容が面白かろうと、気楽に読める本だろうと、「本を書く」ということの一番の根幹を成す能力が疑わしければ、説得力が激減する。読んでいて興醒めする。

言葉についてあれこれと書いてあるエッセイなのだが、この本から僕が一番強い印象を受けたのは、そういう言葉の運用面に関することだった。まぁ、筆者の意図とは違うだろうが、ことばの使い方とその身につけかたについて、考えさせられる本だった。 



『言えないコトバ』と、なぜカタカナで表記してるんですかね。
ペンギン命

takutsubu

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