「休校の決断 重みに見合う説明を」
(2020年2月29日 朝日新聞社説)
「全国臨時休校へ 混乱抑え感染防止に全力を」
(2020年2月28日 読売新聞社説)
「「全国休校」を通知 説明不足が混乱を広げる」
(2020年2月29日 毎日新聞社説)
「首相の休校要請 説得力ある呼びかけを 「緊急事態宣言」へ法整備急げ」
(2020年2月29日 産経新聞社説)
「新型肺炎厳戒で政府がすべきこと」
(2020年2月28日 日本経済新聞社説)
新型コロナウィルスの流行を鑑みて、政府が突然、全国の学校に休校の要請を出した。それを受けての社説。
まあ予想通りというか、ほぼ揃いも揃って異口同音。特に読むに値する社説は無い。
おおむね批判的な論調が多い。その原因は、出した要請の内容ではなく、要請の出し方にある。今回の首相要請は、会議で諮られることもなく、専門家の検討もなく、ほぼ独断で出されたものだ。それに噛み付いている社説が多い。
今回の措置を批判しているのは、朝日、毎日、日経などの左派系新聞だ。読売、産経などの保守的新聞は今回の対策に一定の理解を示している。
今回の措置を、妥当とするかそうでないとするかは、今するべき議論ではないと思う。少なくとも、新聞の社説として今書くべきことは他にあるのではないか。
まず、今回の騒動の原因は、伝染病であって政府ではないということだ。今回の首相要請を非難している新聞は、暗黙のうちに「政府は『いままでの生活水準を1ミリも落とすことのないように』対策を講じろ」という無茶な要求をしているように見える。
しかし今回の新型コロナウィルスの大発生というのは、いわば降って湧いた国難だ。それに対処する過程では、どのみち何らかの不便は生じる。各紙の社説では「いずれにせよ何らかの犠牲は避けられない事態だ」ということが認識できていない。各新聞とも、「学校を一斉休校にするのはけしからん」と言うのであれば、その前提としては「生徒が何人死んでも構わないから」という文言が入ることになるのを忘れてはならない。
政府に求められているのは、いわば「新型肺炎で多数が死ぬか」「死なない替わりに多少の不便を我慢するか」という種類の二者択一なのだ。ところが新聞社説は「両方ダメ。何ひとつ不自由ない完璧な状態を保て」と言っているに等しい。
今回の社説で最も提言するべきことは、「政策の評価軸を定めること」ではないか。
今回の政府の休校措置は、いま現在、その妥当性を評価することは誰にもできない。問題は、数ヶ月、数年経って問題が収束した後で、「あの時の措置は妥当だった」「あの措置はまずかった」と、評価するための軸を用意して、そのためのデータをしっかり蓄積することではないか。
もし今回の新型肺炎が世界中で予想を上回る死者数を出し、日本はその傾向に巻き込まれず死者が少なかったら、今回の休校措置は「妥当だった」と判断できる。一方、大山鳴動鼠一匹、大した疾病ではなかったことが後日明らかになったら「施策は過剰だった」という評価を下さなければならない。
後日そのような客観的な評価をするためには、「何をもって政策を是とするのか」という、明確な評価軸がなくてはならない。しかし、どの新聞もそんな評価軸を明らかにしていない。暗黙のうちに「今回の施策は過剰だ」という前提のうちに話をすすめている。これが各社説の大きな問題点だろう。
新聞は一旦、政策の非難記事を書いてしまうと、後に施策が妥当であったことが明らかになっても、それを頑として認めない。マスコミのそういう「印象と感覚だけで評価を下す」という傾向は、のちに同じ問題が発生したときに同じ過ちを繰り返す原因となる。いま現在は、緊急事態なのだ。政策の非難は後からでもできる。大切なことは、妥当な非難を行えるための用意をしておくことではないか。
個人的には、今回の政府からの要請は、一種の「ショック政策」だと思う。
伝染病という緊急事態で、感染拡大を防ぐためには人の移動を差し控え、多人数が集まるイベントは控えてほしい。しかし、最初から「できるだけ控えてください。個々の判断は当事者に任せます」では、政府の指示として意味がない。そんなふんわりとした指示は、指示とは言わない。いままでの日本の事例から言っても、そんな指示など誰も聞かないだろう。誰もが無視して「いままで通りの普通の生活」をし続ける。
だから、政府が「この危機は本物だぞ」と国民に知らしめ、活動自粛を本域に高めるために、政府の指示として「全国の学校を休校にする」という形をとったのではないか。学校が休みになるというのは、相当の緊急事態だ。会社を休みにしづらい管理職も休みの指示を出しやすくなるし、イベントを中止にしづらい企画者も中止にしやすい。台風のときに「JRがまず電車を止める」という措置を取ることによって、各企業が自宅待機命令を出しやすくなったのと同じ効果を期待しているのではないか。
もちろん政府も、地域によっては休校措置が実情に合わないこともあることくらい、百も承知だろう。しかし、これとて最初から「休校にするかどうかは地域によって事情が違うので、その辺は各自治体が判断してください」と言ってしまうと、政府の指示として役を成さない。最初にきつめの要求をしておいて、後で状況により緩めることは可能だが、その逆は難しい。最初の指示が曖昧なものだと、全体として効果のある指示にはなりにくい。伝染病のような緊急時の指示であればなおさらだろう。
新聞各紙は、各家庭の事情や、職種によって休みがとれない仕事に就いている人達への配慮を問題点として挙げている。もしそれらを問題点として挙げるのであれば、政府が最初からそのような事情をいちいち勘案した「例外だらけの指示」を出したときの指示効果について、責任をもって立証しなければならない。
各紙とも、「専門家の検討なしに」「この指示の効果は疑わしいという専門家もいる」と、やたらに「専門家」という言葉を並べているが、この「専門家」なるものは何の専門家なのか、どの新聞もはっきり書いていない。伝染病に関する医学専門家なのか、人の行動が疾病伝播に影響する度合いを考察する社会行動学者なのか、学校教育の専門家である教育研究者なのか、どの「専門家」であれば今回の施策の妥当性をきっちり査定できるというのか。新聞は、評価の軸も曖昧なまま、印象だけで政府指示を非難している。 読者の学歴コンプレックスにつけ込んで、「専門家」とさえ書けば説得力のある記事になるだろう、という雑な書き方だ。テレビ番組がやたらと「大学教授」に喋らせて権威付けをしている構造と、何ら変わりはない。
現在の民主主義は間接民主制なので、国民は決断権を選挙によって特定の人達に委託している。その委託が間違っていれば、また選挙によって妥当な人を選び直さなければならない。そこでは「妥当」かどうかをしっかり評価するための基準が必要だろう。今回の新聞各紙の社説では、そのへんの評価軸をしっかり作ろうという気がまったく無く、最初から「非難ありき」の姿勢で書かれている。政府を非難するときは、印象や感情によって曖昧に非難するのではなく、明確な事実やデータによって明確に非難しなければならない。
(2020年2月29日 朝日新聞社説)
「全国臨時休校へ 混乱抑え感染防止に全力を」
(2020年2月28日 読売新聞社説)
「「全国休校」を通知 説明不足が混乱を広げる」
(2020年2月29日 毎日新聞社説)
「首相の休校要請 説得力ある呼びかけを 「緊急事態宣言」へ法整備急げ」
(2020年2月29日 産経新聞社説)
「新型肺炎厳戒で政府がすべきこと」
(2020年2月28日 日本経済新聞社説)
新型コロナウィルスの流行を鑑みて、政府が突然、全国の学校に休校の要請を出した。それを受けての社説。
まあ予想通りというか、ほぼ揃いも揃って異口同音。特に読むに値する社説は無い。
おおむね批判的な論調が多い。その原因は、出した要請の内容ではなく、要請の出し方にある。今回の首相要請は、会議で諮られることもなく、専門家の検討もなく、ほぼ独断で出されたものだ。それに噛み付いている社説が多い。
首相が方針を表明した時点で文部科学省内で知らされていたのは、一部の幹部だけだった。全国の教育委員会への連絡はその後に始まった。学童保育を受け持つ厚生労働省との調整など、具体策は詰めきれないままの見切り発車だった。政府の専門家会議は24日に出した見解の中で「1~2週間が急速な感染拡大が進むかの瀬戸際」との見方を示したが、休校には触れていない。翌日に政府が発表した基本方針でも、臨時休校の適切な実施に関して都道府県から要請するとの内容が入っていただけだ。専門家会議のメンバーからは「(一斉休校は)諮問もされず、提言もしていない。効果的であるとする科学的根拠は乏しい」との声が漏れる。
(朝日社説)
政府が設けた専門家会議は、全国での一斉休校が感染防止に現時点でどれだけ効果があるかを検討していない。政府は専門家会議の助言を得て、クラスターと呼ばれる小規模な感染者の集団が発生した地域に支援要員を派遣し、感染をおさえこむ計画だった。
全国一律の休校要請は、クラスターごとの対応では追いつかない特別な状況が生じたとの判断なのか。高齢者は重症化するリスクが高いが、子どもにそうした傾向は出ていない。根拠に基づく行動基準を示さないと、自治体が判断に迷うケースも出るだろう。
トップダウンによる臨時休校は、教育現場を混乱させている。感染症にかかった児童・生徒を出席停止とし、臨時休校とする法律はある。だが患者ゼロの学校も休校とする法的根拠は曖昧だ。3月は入試や合否発表があり、結果を踏まえて進路指導を予定する学校も多い。文部科学省は休校期間について「地域や学校の実情を踏まえ設置者の判断を妨げない」とややトーンダウンした通知を出したが、当然だろう。
(日経社説)
今回の措置を批判しているのは、朝日、毎日、日経などの左派系新聞だ。読売、産経などの保守的新聞は今回の対策に一定の理解を示している。
学校は大勢の子供が集まり、ひとたび生徒が発症すると、感染が一気に広がりやすい。家庭に戻って家族にうつす恐れもある。新型肺炎では、感染経路のわからない患者集団が各地で見つかっている。ここ1~2週間は本格的な流行を抑止するための極めて重要な時期である。
全国一斉休校という異例の措置は、危機感の表れと言える。北海道では27日から、小中学校の臨時休校が始まっていた。東京都は都立高校など約200校で、期末試験の終了後、前倒しで春休みに入ることを決めていた。各自治体で独自に休校の動きが広がる中、政府として、統一的な考え方を示す必要に迫られた面もあったとみられる。
(読売社説)
休校要請の対象となる児童、生徒らは約1300万人いる。日本の歴史にこれまでなかった規模だ。新型ウイルスとの戦いが容易ならざるもので、日本が緊急事態の渦中にあることを意味する。休校を決める権限は政府ではなく、全国の教育委員会や学校法人にある。首相の表明を受けて文部科学省や各教委からは驚きの声があがった。首相が打ち出さなければ全国一斉休校は到底実現できない。各地の教委などは要請を重く受け止めて対応すべきである。
学校は、大勢の子供が日々、同じ教室で学び、食事もとる集団生活の場だ。ウイルスにとって格好の温床となる。子供たちがウイルスを持ち帰り、高齢者を含む家族に感染を広げる図式はインフルエンザと共通する。一斉休校の意義は大きく、感染者や犠牲者を減らすことに寄与するだろう。およそ百年前にスペイン風邪が日本で大流行した際は、学校や軍隊から全国へ感染が広がった。その教訓を忘れてはならない。
(産経社説)
今回の措置を、妥当とするかそうでないとするかは、今するべき議論ではないと思う。少なくとも、新聞の社説として今書くべきことは他にあるのではないか。
まず、今回の騒動の原因は、伝染病であって政府ではないということだ。今回の首相要請を非難している新聞は、暗黙のうちに「政府は『いままでの生活水準を1ミリも落とすことのないように』対策を講じろ」という無茶な要求をしているように見える。
しかし今回の新型コロナウィルスの大発生というのは、いわば降って湧いた国難だ。それに対処する過程では、どのみち何らかの不便は生じる。各紙の社説では「いずれにせよ何らかの犠牲は避けられない事態だ」ということが認識できていない。各新聞とも、「学校を一斉休校にするのはけしからん」と言うのであれば、その前提としては「生徒が何人死んでも構わないから」という文言が入ることになるのを忘れてはならない。
政府に求められているのは、いわば「新型肺炎で多数が死ぬか」「死なない替わりに多少の不便を我慢するか」という種類の二者択一なのだ。ところが新聞社説は「両方ダメ。何ひとつ不自由ない完璧な状態を保て」と言っているに等しい。
つまり、各新聞は今回のコロナウィルス流行を舐めているのだ。各新聞は、ペストや天然痘レベルの、致死性の高い伝染病の流行でも「各家庭の事情が」「両親への負担が」などと並べて休校措置に反対するだろうか。新聞各紙は、暗黙のうちに「『この程度の伝染病』でこの措置はおかしい」と言っているように見える。ところが「この程度」がどの程度なのか、という事実はどの新聞も触れていない。
マスコミの常として、連日ショッキングな事例ばかりを強調し、繰り返し報道する。「◯◯県で感染者が発生」「◯◯県では感染者が◯人に到達」など、視聴率のためにインパクトのあるニュースばかりをこれでもかこれでもかと報道する。マスコミの基本姿勢として「こんなにひどい事態なんですよ」と過度に強調して報道している。なのに政府が「じゃあ学校を休みに」という指示をした途端、「それはやりすぎだ」と来る。報道姿勢と政府批判の内容が矛盾している。
朝日、毎日などの左派系の新聞の目的は「対策の是非を問わず、常に政府を批判すること」だ。だから政府が対策を講じて不便な状況を招いても非難するし、対策をなにも講じずに死者が多数出ても非難する。どのみち非難するのだ。だから、何ひとつ建設的な提言になっていない。
今回の社説で最も提言するべきことは、「政策の評価軸を定めること」ではないか。
今回の政府の休校措置は、いま現在、その妥当性を評価することは誰にもできない。問題は、数ヶ月、数年経って問題が収束した後で、「あの時の措置は妥当だった」「あの措置はまずかった」と、評価するための軸を用意して、そのためのデータをしっかり蓄積することではないか。
もし今回の新型肺炎が世界中で予想を上回る死者数を出し、日本はその傾向に巻き込まれず死者が少なかったら、今回の休校措置は「妥当だった」と判断できる。一方、大山鳴動鼠一匹、大した疾病ではなかったことが後日明らかになったら「施策は過剰だった」という評価を下さなければならない。
後日そのような客観的な評価をするためには、「何をもって政策を是とするのか」という、明確な評価軸がなくてはならない。しかし、どの新聞もそんな評価軸を明らかにしていない。暗黙のうちに「今回の施策は過剰だ」という前提のうちに話をすすめている。これが各社説の大きな問題点だろう。
新聞は一旦、政策の非難記事を書いてしまうと、後に施策が妥当であったことが明らかになっても、それを頑として認めない。マスコミのそういう「印象と感覚だけで評価を下す」という傾向は、のちに同じ問題が発生したときに同じ過ちを繰り返す原因となる。いま現在は、緊急事態なのだ。政策の非難は後からでもできる。大切なことは、妥当な非難を行えるための用意をしておくことではないか。
個人的には、今回の政府からの要請は、一種の「ショック政策」だと思う。
伝染病という緊急事態で、感染拡大を防ぐためには人の移動を差し控え、多人数が集まるイベントは控えてほしい。しかし、最初から「できるだけ控えてください。個々の判断は当事者に任せます」では、政府の指示として意味がない。そんなふんわりとした指示は、指示とは言わない。いままでの日本の事例から言っても、そんな指示など誰も聞かないだろう。誰もが無視して「いままで通りの普通の生活」をし続ける。
だから、政府が「この危機は本物だぞ」と国民に知らしめ、活動自粛を本域に高めるために、政府の指示として「全国の学校を休校にする」という形をとったのではないか。学校が休みになるというのは、相当の緊急事態だ。会社を休みにしづらい管理職も休みの指示を出しやすくなるし、イベントを中止にしづらい企画者も中止にしやすい。台風のときに「JRがまず電車を止める」という措置を取ることによって、各企業が自宅待機命令を出しやすくなったのと同じ効果を期待しているのではないか。
もちろん政府も、地域によっては休校措置が実情に合わないこともあることくらい、百も承知だろう。しかし、これとて最初から「休校にするかどうかは地域によって事情が違うので、その辺は各自治体が判断してください」と言ってしまうと、政府の指示として役を成さない。最初にきつめの要求をしておいて、後で状況により緩めることは可能だが、その逆は難しい。最初の指示が曖昧なものだと、全体として効果のある指示にはなりにくい。伝染病のような緊急時の指示であればなおさらだろう。
新聞各紙は、各家庭の事情や、職種によって休みがとれない仕事に就いている人達への配慮を問題点として挙げている。もしそれらを問題点として挙げるのであれば、政府が最初からそのような事情をいちいち勘案した「例外だらけの指示」を出したときの指示効果について、責任をもって立証しなければならない。
各紙とも、「専門家の検討なしに」「この指示の効果は疑わしいという専門家もいる」と、やたらに「専門家」という言葉を並べているが、この「専門家」なるものは何の専門家なのか、どの新聞もはっきり書いていない。伝染病に関する医学専門家なのか、人の行動が疾病伝播に影響する度合いを考察する社会行動学者なのか、学校教育の専門家である教育研究者なのか、どの「専門家」であれば今回の施策の妥当性をきっちり査定できるというのか。新聞は、評価の軸も曖昧なまま、印象だけで政府指示を非難している。 読者の学歴コンプレックスにつけ込んで、「専門家」とさえ書けば説得力のある記事になるだろう、という雑な書き方だ。テレビ番組がやたらと「大学教授」に喋らせて権威付けをしている構造と、何ら変わりはない。
現在の民主主義は間接民主制なので、国民は決断権を選挙によって特定の人達に委託している。その委託が間違っていれば、また選挙によって妥当な人を選び直さなければならない。そこでは「妥当」かどうかをしっかり評価するための基準が必要だろう。今回の新聞各紙の社説では、そのへんの評価軸をしっかり作ろうという気がまったく無く、最初から「非難ありき」の姿勢で書かれている。政府を非難するときは、印象や感情によって曖昧に非難するのではなく、明確な事実やデータによって明確に非難しなければならない。
初めてのことで狼狽しているだけのようにも見える。
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