有名なパズルをひとつ。
前にいちどたくぶつに書いた覚えがあるな、と思って検索してみたら、2004年の記事だった。16年前のことになる。
この年になると、どこでどんな記事を読んだのか、はなはだ記憶が怪しくなる。しかしさすがに、自分で書いた記事というのは覚えているものだ。Webに投稿した記事だと検索ができるのも便利だ。紙の著作物だとこうはいかない。電子媒体万歳。
このパズルの答えは、簡単に言うと「計算が違う」ということなのだが、普通の意味とはちょっと違う。ふつう、「計算が違う」というと「計算の過程が間違っている」「正しい答えが出ていない」という意味が多いが、ここでは「『何を求めようとしているのか』と『立式』が噛み合っていない」という意味だ。立てた式自体が間違っている。式が間違っているのだから、答えが合うわけがない。
それはともかく、この問題はかなり有名な問題で、いろんなところで使われている。

もともとは誰かが考えた問題なのだろうが、原典となる出典は寡聞にして知らない。
どこかの古典にでも載ってるのかな、と漠然と思っていた。
閑話休題。夏休みなので紀行文をよく読む。
特に今年のように、下手に旅行ができない時などは、紀行文を読んで旅行気分を味わう。
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)
『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ)
『阿房列車』(内田百閒)
『南仏プロヴァンスの12か月』 (ピーター・メイル)
『深夜特急』(沢木耕太郎)
鉄板ばかりの名作揃い。家にいながらにして旅行気分が存分に味わえる。
そのうち、内田百閒の『阿房列車』を読んでいたら、件の宿代パズルが出ていた。
ここで問題を出してきた「山系」というのは、旅行には必ず同行させられた百閒の弟子で、平山三郎という男。国鉄職員をやっていたため、「ヒマラヤ山系」と呼ばれていた。当時、国鉄職員は三等客車には無料で乗れたので、交通費を出してやることなく旅行に同行させることができたので、ちょいちょい百閒に連れ回されていたそうだ。
夏目漱石の弟子というのは、芥川龍之介のような変になり方と、内田百閒のような変になり方がある、と言ったら言い過ぎだろうか。両方とも僕の好みなので、芥川と百閒はともに僕の愛読書だ。
孤高を通した芥川とは違い、内田百閒は大学で教えていたので、弟子が多かった。系譜は脈々と受け継がれ、百閒の弟子にも変人が多い。その中でも比較的まともな平山三郎は、百閒の没後、『阿房列車』の記述には百閒の創作が多く含まれていることを明らかにしている。作り話と言えばそれまでだが、事実そのものは百閒にとっては話のネタに過ぎず、それを読む人が面白いように書き換えた、というところだろうか。
だからおそらく「宿代のパズル」も、平山三郎が出題したものではあるまい。どこか別のところで伝え聞いたものか、百閒自身が考えたものかどうかは分からない。
いずれにせよ、この問題がいろんな所で出題されているのを辿ってみると、いまのところこの内田百閒の著作が最も古い出典のようだ。
またどこか他のところでこのパズルを目にすることがあることもあるだろうが、同じ問題がいろんな所でいろんな使い方をされているのを見ると、この問題はまぎれも無い「名作」なんだろうな、という気がする。
ある3人の旅行者が旅館に泊まった。ちょうど季節は夏休み、繁盛するシーズンなので旅館には学生さんがアルバイトをしていた。
さて、ある仲居のバイトお姉ちゃん、お客さん3人を部屋に通すと、一泊分の宿泊料をひとり5000円、3人で合計15000円を受け取った。
仲居さんがその宿代15000円を帳場にもっていくと、おかみさん曰く、「あららウチはひとりいくらじゃなくて、一部屋いくらで宿代をもらうのよ。あの部屋は何人泊まっても10000円なの。この5000円をお客さんに返してきて」
お客さんにお金を返しに行く途中でバイトの仲居さんは考えた。ここで5000円を返すと、あの3人のお客さんはケンカになるんじゃないかしら。だって5000円は3で割り切れないもんね。じゃあここはひとつわたしがこっそり2000円もらっちゃおうかしら。そうすれば3000円になって、ひとり1000円ずつ割り切れるでしょ。たとえ1000円でも戻ってきたら喜ぶだろうから、それでいいんじゃないかしら。
とんでもない仲居もいたもんだが、さてここで考えてみよう。
お客さんにしてみれば、一人あたり5000円払って1000円返ってきたので、結局4000円払ったことになる。4000円が3人で12000円。
それに、仲居さんがポケットに入れた2000円を合わせると、14000円になる。 最初集めたのは確か15000円だったはず・・・。
【問題】さて、1000円はどこへ消えたのだろう?
前にいちどたくぶつに書いた覚えがあるな、と思って検索してみたら、2004年の記事だった。16年前のことになる。
この年になると、どこでどんな記事を読んだのか、はなはだ記憶が怪しくなる。しかしさすがに、自分で書いた記事というのは覚えているものだ。Webに投稿した記事だと検索ができるのも便利だ。紙の著作物だとこうはいかない。電子媒体万歳。
このパズルの答えは、簡単に言うと「計算が違う」ということなのだが、普通の意味とはちょっと違う。ふつう、「計算が違う」というと「計算の過程が間違っている」「正しい答えが出ていない」という意味が多いが、ここでは「『何を求めようとしているのか』と『立式』が噛み合っていない」という意味だ。立てた式自体が間違っている。式が間違っているのだから、答えが合うわけがない。
それはともかく、この問題はかなり有名な問題で、いろんなところで使われている。
たとえば『パタリロ!』(魔夜峰央)第42巻「のびちぢみリング」でもこの問題が登場する。

もともとは誰かが考えた問題なのだろうが、原典となる出典は寡聞にして知らない。
どこかの古典にでも載ってるのかな、と漠然と思っていた。
閑話休題。夏休みなので紀行文をよく読む。
特に今年のように、下手に旅行ができない時などは、紀行文を読んで旅行気分を味わう。
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)
『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ)
『阿房列車』(内田百閒)
『南仏プロヴァンスの12か月』 (ピーター・メイル)
『深夜特急』(沢木耕太郎)
鉄板ばかりの名作揃い。家にいながらにして旅行気分が存分に味わえる。
そのうち、内田百閒の『阿房列車』を読んでいたら、件の宿代パズルが出ていた。
山系が隣りからこんな事を云ひ出した。
「三人で宿屋へ泊まりましてね」
「いつの話」
「解り易い様に簡単な数字で云ひますけどね、払ひが三十円だったのです。それでみんなが十円ずつ出して、つけに添へて帳場へ持つて行かせたら」
蕁麻疹を掻きながら聞いてゐた。
「帳場がサアヸスだと云ふので五円まけてくれたのです。それを女中が三人の所へ持つて来る途中で、その中を二円胡麻化しましてね、三円だけ返して来ました」
「それで」
「だからその三円を三人で分けたから、一人一円づつ払ひ戻しがあつたのです。十円出した所へ一円戻つて来たから、一人分の負担は九円です」
「それがどうした」
「九円づつ三人出したから三九、二十七円に女中が二円棒先を切つたので〆て二十九円、一円足りないぢやありませんか」
蕁麻疹を押さへた儘、考へて見たがよく解らない。それよりも、こつちの現実の会計に脚が出てゐる。
(『特別阿房列車』)
ここで問題を出してきた「山系」というのは、旅行には必ず同行させられた百閒の弟子で、平山三郎という男。国鉄職員をやっていたため、「ヒマラヤ山系」と呼ばれていた。当時、国鉄職員は三等客車には無料で乗れたので、交通費を出してやることなく旅行に同行させることができたので、ちょいちょい百閒に連れ回されていたそうだ。
内田百閒というのは、まぁ、夏目漱石の弟子であるくらいだから、師匠に似て変な男だった。日本芸術院、日本文学報国会への入会推薦を「嫌だから嫌だ」という理由で断る。大学で教えており著作も多く十分な収入があるはずなのに、なぜかいつも貧乏で、借金取りとの戦いが日常茶飯事。
『阿房列車』の第1作内の「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」という一文は有名で、乗り鉄の座右の銘として引用されることがある。
夏目漱石の弟子というのは、芥川龍之介のような変になり方と、内田百閒のような変になり方がある、と言ったら言い過ぎだろうか。両方とも僕の好みなので、芥川と百閒はともに僕の愛読書だ。
孤高を通した芥川とは違い、内田百閒は大学で教えていたので、弟子が多かった。系譜は脈々と受け継がれ、百閒の弟子にも変人が多い。その中でも比較的まともな平山三郎は、百閒の没後、『阿房列車』の記述には百閒の創作が多く含まれていることを明らかにしている。作り話と言えばそれまでだが、事実そのものは百閒にとっては話のネタに過ぎず、それを読む人が面白いように書き換えた、というところだろうか。
だからおそらく「宿代のパズル」も、平山三郎が出題したものではあるまい。どこか別のところで伝え聞いたものか、百閒自身が考えたものかどうかは分からない。
いずれにせよ、この問題がいろんな所で出題されているのを辿ってみると、いまのところこの内田百閒の著作が最も古い出典のようだ。
またどこか他のところでこのパズルを目にすることがあることもあるだろうが、同じ問題がいろんな所でいろんな使い方をされているのを見ると、この問題はまぎれも無い「名作」なんだろうな、という気がする。
「クレジットカードを3枚出し合って」という話に翻案中。
「コロナ下の大学 学生の意欲そがぬように」
(2020年8月8日 毎日新聞社説)
「コロナと大学 対面授業の実施へ知恵を絞れ」
(2020年8月16日 読売新聞社説)
「コロナと大学 『学費返せ』の不満解消を」
(2020年8月23日 産経新聞社説)
大学のコロナ対策としてのキャンパス閉鎖が叩かれている。
一読して、マスコミはとにかく「理に適っているかどうか」など一切関係なく、世の中が不安定になるように世論をかき乱したいだけなのだな、ということがよく分かる。人は社会不安になると、情報を求める。そういう原理で自分達の利益をあげることしか考えていない。
僕の教えている大学でも、秋以降の後期授業が原則としてリモート授業になることが決まった。各社説が言っている通り、今年から大学に入った1年生の中にはまだキャンパスに足を踏み入れていない学生も多く、気の毒というほかはない。学費を払っているのに、それに見合ったサービスを受けられていない、と感じるのももっともだろう。
しかし、その非は大学に負わせるべきものなのか。
コロナウィルス禍は、一種の災害だ。大学はそれに対処しているだけであって、そもそもの原因が大学にあるわけではない。いわば「誰のせいでもない事態」「しかたがない事態」なのだ。一般読者もそんなことはよく分かっているだろう。しかし、やるせない。誰かのせいにして責めたい。そんな稚拙な市民感情を汲み取って発散させ、溜飲を下げることだけを目的にした愚劣な社説だ。
こういう社説を読んで非常に違和感を感じるのは、大学生は普段からそんなに勉強に熱心なのだろうか、ということだ。社説ではやたらと「勉強したくてしたくて仕方がない学生が、その機会を奪われて憤懣やる方ない」という論調だが、コロナ禍になる前の大学では、そんなに勉強熱心な学生ばっかりだったのだろうか。
読売新聞ではリモート授業の弊害として「学生アンケート」なるものを根拠にしているが、そもそも読売新聞がどうやってそんな資料を閲覧できたのだろうか。大学が実施している学生アンケートは、教員の能力査定に直結するため、どの大学でも秘中の秘だ。僕の授業のアンケート集計結果も、取扱注意の朱書きつきの封筒に厳封されて書留郵便で届く。
コロナ禍で社会の閉塞感が蔓延し、ストレスがたまった人達がでている。そういう人達は、学校のような集団で感染者が発生すると、まるで社会の害悪のように罵声を浴びせ非難する。感染者が出た学校に対する中傷や脅迫は、もはや社会問題になっている。
つまり、大学としては学生感情を考慮して対面授業を再開したくても、世の中がそれを受け入れるだけの許容性が無いのだ。特に都心部の大学が再開すると、大学構内だけの人的密集だけでなく、電車やバスなどの公共交通機関や店舗などの人が集まる場所の密集度合いが一気に高くなる。若い世代はとにかく移動範囲が広く活発なので、大学が再開することによって都心の人的な流動性が段違いに高くなる。それはコロナ発生の危険性に直結する。
また、産経社説が引用している通り、「小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか」という文句をいう人もいる。そういう人は、学校という場所がもつ機能を甘くみている。
学校というのは、勉強を教えるだけの場所ではない。情報として勉強内容を伝達するだけであれば、わざわざ皆が同じ場所に行って、同じ時間に、同じ内容を学ぶ必要など全くない。学校というのは学習内容の習得以外にも、人が集まる場所で集団に属し、適切な社会性を育む場所でもある。正課としての授業だけでなく、委員会活動、部活、課外活動など、様々な機会を通じて「集団における自分の位置づけ方」を身につける場所でもある。
そのような「社会性」の機能は、初等教育ほど重要性が大きい。非常事態宣言下で最初に学校再開の必要性が叫ばれていたのが、大学でも高校でも中学高でもなく「小学校」だったのは、そのためだ。小学校の機能は、勉強を教えることだけではない。児童はまだ地力で自分のあり方をアップデートする能力が身に付いていない。他者と接し、集団に属することでしか自分のあり方を確立することができない。リモート授業で勉強するべき「情報」だけを与えればこと足りる、というわけではないのだ。
それが大学になると事情が大きく異なる。基本的に大学生というのは、すでに自分の力で自分のアップデートをする能力を持つものだけが入学を許されるべき場所なのだ。初等・中等教育を通して、自分の適切なあり方を確立する社会性も、ある程度は身につけていることが要求される。そういう「大人」が集まるのが大学なので、大学の授業としてはリモート授業で代替できる部分が大きい。それが小学校との大きな違いだ。 「小学校が再開しているのに大学が再開しないのはおかしい」という主張は、「大学生の能力は、小学生の能力と同等だ」と主張しているに等しい。
新聞社説に掲載される大学生の不満は、主に「リモート授業の質が低い」という形で報じられることが多い。勉強意欲が猛烈に高いお利口な大学生が学ぶ機会を奪われている、という論調が多い。しかし本当のところ、大学生が不満を感じているのは、リモート授業そのものではなく、学校という枠組みがもつ「社会性」という機能を享受できないことではないか。友達と会えない、知らない人と知り合う機会がない、人から刺激を受けて自分を変えていく機会がない、そういう「社会性」の欠如が、学生の不満の根源だと思う。
しかし、それを言葉にすると「人と会えなくて寂しい」という、自分のパーソナリティの欠落を訴えるような不満に聞こえてしまう。堂々と主張するには恥ずかしい。だから不満の出し方としては「リモート授業の質が低い」という言い方にならざるを得ない。
つまり、大学生の不満というのは、「現在の生活から社会性が欠落している不満」を「授業の質の不満」にすり変えていることに他ならない。
新聞社説はやたらとリモート授業の質の低さを糾弾しているが、そういう新聞社は実際の大学のリモート授業をどれほど見たことがあるのだろうか。
一般的に、対面で人に直接話すよりも、出版物やリモート授業で情報を流すほうが、情報量は多くなる。大学の授業は一般的に1コマが90分〜100分ほどだが、もしリモート授業で90分も一方的に喋ったら、おそらく対面授業3回分くらいの情報量になる。大学側もリモート授業実施当初からそのことには気付いており、事前に録画した内容を流すオンデマンド形式の授業を流す場合、90分の時間枠に対して授業動画は60分程度に抑え、のこりの30分は「能動的な演習問題」を課すように要請している。
実際にリモート授業を実施して僕が驚いたことは、普段の授業よりも脱落者が少ないことだ。
30〜50人くらいの講義の場合、だいたい毎学期ごとに10人程度の脱落者が出る。課題を出さない、試験を受けない、という単位の落し方もあるが、一番多いのは、そもそも教室に来なくなることだ。ところが今回、リモート授業を実施したら、授業登録者はすべて最後まで授業を受けて、課題を出し、試験を受けた。こんなことは初めてだ。
新聞社説は、暗黙のうちに「最新機器に疎い大学教授のオッサン達がつくるリモート授業なんて、どうせ質が低くて、面白くないものに違いない」という思い込みで書かれているように見える。特に産経社説は「大学が『レジャーランド』などと言われて久しいが、行かずともいいような大学には退場願いたい」など、もはや本筋とは関係ない中傷の仕方に帰着している。
大学教員を舐めてもらっては困る。自分が専門としている分野のことであれば、どんな形式であれ、その分野のことを語り尽くすくらいの能力など、どの教員にもある。それについて外野から質の低さを糾弾される程度の授業などやっていない。
学校教育が語られるたびに、「実際に学校に通う必要などない。不登校上等。勉強などネットで十分。家でひとりで勉強すればそれでいいはず」などと嘯く輩が必ずいる。そういう輩に限って、今回のコロナ禍で「大学が閉鎖しているのはけしからん」などという自己撞着を振り回している気がする。学校の機能を「勉強を教えるところ」程度にしか考えていないから、そういう筋違いな主張を散蒔くことになる。安易に学校を叩くのは、容易に潰れることがない学校という機関の堅牢性に甘ったれているからだ。大学のコロナ閉鎖を非難している人も、大学授業が再開してクラスターが発生したら、手のひらを返して前以上に非難することになる手合いだろう。
(2020年8月8日 毎日新聞社説)
「コロナと大学 対面授業の実施へ知恵を絞れ」
(2020年8月16日 読売新聞社説)
「コロナと大学 『学費返せ』の不満解消を」
(2020年8月23日 産経新聞社説)
大学のコロナ対策としてのキャンパス閉鎖が叩かれている。
一読して、マスコミはとにかく「理に適っているかどうか」など一切関係なく、世の中が不安定になるように世論をかき乱したいだけなのだな、ということがよく分かる。人は社会不安になると、情報を求める。そういう原理で自分達の利益をあげることしか考えていない。
僕の教えている大学でも、秋以降の後期授業が原則としてリモート授業になることが決まった。各社説が言っている通り、今年から大学に入った1年生の中にはまだキャンパスに足を踏み入れていない学生も多く、気の毒というほかはない。学費を払っているのに、それに見合ったサービスを受けられていない、と感じるのももっともだろう。
しかし、その非は大学に負わせるべきものなのか。
コロナウィルス禍は、一種の災害だ。大学はそれに対処しているだけであって、そもそもの原因が大学にあるわけではない。いわば「誰のせいでもない事態」「しかたがない事態」なのだ。一般読者もそんなことはよく分かっているだろう。しかし、やるせない。誰かのせいにして責めたい。そんな稚拙な市民感情を汲み取って発散させ、溜飲を下げることだけを目的にした愚劣な社説だ。
各社説では、勉強の環境を害された学生の苦悶の声を挙げている。
「しかし、教師や友人と顔を合わせて議論を交わしながら、学問を身につけていくのが学生の本来の姿だ。芸術系の大学などではとりわけ高度な実技指導が欠かせない」
(毎日社説)
「大学の学生アンケートでは、遠隔授業について「自分のペースで勉強できた」と評価する声がある一方、「集中できない」「質が低い」との不満も出ている。学習意欲の低下につながることが懸念される」
(読売社説)
「萩生田光一文科相は今月中旬の会見で『学生が納得できる質の高い教育を提供することは必要不可欠』とし、それができない場合、『授業料の返還を求める学生の声が高まることも否定できない』と厳しく指摘した」
「文部科学省は大学に対し、後期から対面授業の実施を促す通知を出した。萩生田文科相は『小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか』と苦言を呈した」
(産経社説)
こういう社説を読んで非常に違和感を感じるのは、大学生は普段からそんなに勉強に熱心なのだろうか、ということだ。社説ではやたらと「勉強したくてしたくて仕方がない学生が、その機会を奪われて憤懣やる方ない」という論調だが、コロナ禍になる前の大学では、そんなに勉強熱心な学生ばっかりだったのだろうか。
読売新聞ではリモート授業の弊害として「学生アンケート」なるものを根拠にしているが、そもそも読売新聞がどうやってそんな資料を閲覧できたのだろうか。大学が実施している学生アンケートは、教員の能力査定に直結するため、どの大学でも秘中の秘だ。僕の授業のアンケート集計結果も、取扱注意の朱書きつきの封筒に厳封されて書留郵便で届く。
大学が対面授業を再開しない理由は簡単だ。100%間違いなくクラスターが発生するからだ。
しかも、大学が懸念しているのはクラスターそのものではない。クラスター発生に対する一般世論の反応だ。
コロナ禍で社会の閉塞感が蔓延し、ストレスがたまった人達がでている。そういう人達は、学校のような集団で感染者が発生すると、まるで社会の害悪のように罵声を浴びせ非難する。感染者が出た学校に対する中傷や脅迫は、もはや社会問題になっている。
「『日本から出て行け』『学校つぶせ』…部活クラスターで中傷電話、生徒の写真も拡散」
(2020年8月23日 読売新聞オンライン)
高校の部活動などで新型コロナウイルスの集団感染が相次ぎ、生徒らがネット上などで誹謗中傷される事態になっている。学校側には十分な感染対策が求められるが、批判にさらされる生徒には精神面の悪影響も懸念される。専門家は、コロナ禍で不安や不満を募らせた大人が、生徒らをスケープゴートにしないよう呼びかける。
「日本から出て行け」「学校をつぶせ」
9日以降、サッカー部員らの感染者が約100人に上った松江市の私立立正大淞南(しょうなん)高校では、学校の批判に加え、生徒を中傷するような電話が80件を超えた。
集団感染は、部員の大半が寮で共同生活していたことが原因とみられ、同校は記者会見で「学校側の対策が十分ではなかった」と謝罪。そのうえで「生徒に落ち度はない」と強調したが、ネット上では、生徒の活動を紹介する同校の公式ブログも標的となった。
7~8月に行われた島根県の独自大会で準優勝した野球部の部員を、屋外でサッカー部員らが祝福する写真に対しては、「マスクも着けずにコロナをばらまいている」との批判が殺到。同校は「生徒個人が特定される」として写真を削除したが、テレビの情報番組などが取り上げたこともあり、さらに拡散。島根県は8月21日、写真が転載された十数件のサイトについて「人権侵害の恐れがある」として松江地方法務局に通報し、削除要請を依頼する異例の対応を取った。
生徒の心身の不調を懸念した同校は、島根県臨床心理士・公認心理師協会に協力を依頼。約50人から「寝られない」などの相談が寄せられているという。
学校関係の集団感染は、天理大ラグビー部や日本体育大レスリング部、福岡県大牟田市の私立大牟田高などでも起きている。
児童生徒を中傷や人権侵害から守るため、独自の取り組みを行うのは三重県教育委員会。5月中旬から新型コロナの感染者らを中傷するインターネット上の書き込みなどについて専門業者に委託してパトロールしている。公立小中学校や県立学校の校名が書かれた中傷などの書き込みがあれば県教委が各校に連絡して対応を依頼する。これまでに「感染者が出た学校に近くて怖い」といった書き込みが確認されており、県教委は「早期に学校などと連携し、児童生徒を中傷などから守っていきたい」としている。
つまり、大学としては学生感情を考慮して対面授業を再開したくても、世の中がそれを受け入れるだけの許容性が無いのだ。特に都心部の大学が再開すると、大学構内だけの人的密集だけでなく、電車やバスなどの公共交通機関や店舗などの人が集まる場所の密集度合いが一気に高くなる。若い世代はとにかく移動範囲が広く活発なので、大学が再開することによって都心の人的な流動性が段違いに高くなる。それはコロナ発生の危険性に直結する。
また、産経社説が引用している通り、「小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか」という文句をいう人もいる。そういう人は、学校という場所がもつ機能を甘くみている。
学校というのは、勉強を教えるだけの場所ではない。情報として勉強内容を伝達するだけであれば、わざわざ皆が同じ場所に行って、同じ時間に、同じ内容を学ぶ必要など全くない。学校というのは学習内容の習得以外にも、人が集まる場所で集団に属し、適切な社会性を育む場所でもある。正課としての授業だけでなく、委員会活動、部活、課外活動など、様々な機会を通じて「集団における自分の位置づけ方」を身につける場所でもある。
そのような「社会性」の機能は、初等教育ほど重要性が大きい。非常事態宣言下で最初に学校再開の必要性が叫ばれていたのが、大学でも高校でも中学高でもなく「小学校」だったのは、そのためだ。小学校の機能は、勉強を教えることだけではない。児童はまだ地力で自分のあり方をアップデートする能力が身に付いていない。他者と接し、集団に属することでしか自分のあり方を確立することができない。リモート授業で勉強するべき「情報」だけを与えればこと足りる、というわけではないのだ。
それが大学になると事情が大きく異なる。基本的に大学生というのは、すでに自分の力で自分のアップデートをする能力を持つものだけが入学を許されるべき場所なのだ。初等・中等教育を通して、自分の適切なあり方を確立する社会性も、ある程度は身につけていることが要求される。そういう「大人」が集まるのが大学なので、大学の授業としてはリモート授業で代替できる部分が大きい。それが小学校との大きな違いだ。 「小学校が再開しているのに大学が再開しないのはおかしい」という主張は、「大学生の能力は、小学生の能力と同等だ」と主張しているに等しい。
新聞社説に掲載される大学生の不満は、主に「リモート授業の質が低い」という形で報じられることが多い。勉強意欲が猛烈に高いお利口な大学生が学ぶ機会を奪われている、という論調が多い。しかし本当のところ、大学生が不満を感じているのは、リモート授業そのものではなく、学校という枠組みがもつ「社会性」という機能を享受できないことではないか。友達と会えない、知らない人と知り合う機会がない、人から刺激を受けて自分を変えていく機会がない、そういう「社会性」の欠如が、学生の不満の根源だと思う。
しかし、それを言葉にすると「人と会えなくて寂しい」という、自分のパーソナリティの欠落を訴えるような不満に聞こえてしまう。堂々と主張するには恥ずかしい。だから不満の出し方としては「リモート授業の質が低い」という言い方にならざるを得ない。
つまり、大学生の不満というのは、「現在の生活から社会性が欠落している不満」を「授業の質の不満」にすり変えていることに他ならない。
新聞社説はやたらとリモート授業の質の低さを糾弾しているが、そういう新聞社は実際の大学のリモート授業をどれほど見たことがあるのだろうか。
一般的に、対面で人に直接話すよりも、出版物やリモート授業で情報を流すほうが、情報量は多くなる。大学の授業は一般的に1コマが90分〜100分ほどだが、もしリモート授業で90分も一方的に喋ったら、おそらく対面授業3回分くらいの情報量になる。大学側もリモート授業実施当初からそのことには気付いており、事前に録画した内容を流すオンデマンド形式の授業を流す場合、90分の時間枠に対して授業動画は60分程度に抑え、のこりの30分は「能動的な演習問題」を課すように要請している。
実際にリモート授業を実施して僕が驚いたことは、普段の授業よりも脱落者が少ないことだ。
30〜50人くらいの講義の場合、だいたい毎学期ごとに10人程度の脱落者が出る。課題を出さない、試験を受けない、という単位の落し方もあるが、一番多いのは、そもそも教室に来なくなることだ。ところが今回、リモート授業を実施したら、授業登録者はすべて最後まで授業を受けて、課題を出し、試験を受けた。こんなことは初めてだ。
新聞社説は、暗黙のうちに「最新機器に疎い大学教授のオッサン達がつくるリモート授業なんて、どうせ質が低くて、面白くないものに違いない」という思い込みで書かれているように見える。特に産経社説は「大学が『レジャーランド』などと言われて久しいが、行かずともいいような大学には退場願いたい」など、もはや本筋とは関係ない中傷の仕方に帰着している。
大学教員を舐めてもらっては困る。自分が専門としている分野のことであれば、どんな形式であれ、その分野のことを語り尽くすくらいの能力など、どの教員にもある。それについて外野から質の低さを糾弾される程度の授業などやっていない。
学校教育が語られるたびに、「実際に学校に通う必要などない。不登校上等。勉強などネットで十分。家でひとりで勉強すればそれでいいはず」などと嘯く輩が必ずいる。そういう輩に限って、今回のコロナ禍で「大学が閉鎖しているのはけしからん」などという自己撞着を振り回している気がする。学校の機能を「勉強を教えるところ」程度にしか考えていないから、そういう筋違いな主張を散蒔くことになる。安易に学校を叩くのは、容易に潰れることがない学校という機関の堅牢性に甘ったれているからだ。大学のコロナ閉鎖を非難している人も、大学授業が再開してクラスターが発生したら、手のひらを返して前以上に非難することになる手合いだろう。
イラついてるだけだろ。
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「高校の国語 文学と論理 境を越えて」
(2020年7月31日 朝日新聞社説)
朝日新聞という新聞社は、嘘はつくしデマはバラまくし捏造はするし、倫理観や社会的責任感は皆無だし、国を売り飛ばすような売国的な立場を貫くし、本当にどうしようもない新聞社だが、それでも出版界から葬り去るわけにはいかないのは、たまにこのような世の中の本質を問うような鋭い問題提起をすることがあるからだ。今回、全国紙5社のなかで、高校国語の新学習指導要領について触れた社説は朝日新聞だけだ。
22年度実施の新学習指導要領再編によって高校の国語は、論理的・実用的な文章を扱う「論理国語」と、文学的な文章を扱う「文学国語」という選択科目に分けられることになった。これに対して多くの作家や研究者が「文学軽視につながる」と異を唱えている、というのが問題提起の内容だ。その背景には、全体の授業時間の制約や受験への配慮などから「論理国語」が優先され、「文学国語」を採用する高校は少なくなるとみる予想がある。
日本の国語教育は、長らく「文学的素養」と「論理的思考能力」の区分を曖昧にし続ける方針をとって来た。その最たるものが読書感想文だろう。僕は中学時代、夏休みの読書感想文に、作品として作りが甘い箇所や表現が稚拙な箇所、話の流れが強引すぎて不自然すぎる箇所などを列挙した「批評」を提出したら、国語の先生にこっぴどく叱られた。どうやら日本の中等教育では、読書感想文というのは「人生の素晴しい面を新しく知って感動した」という内容でなければならないらしい。それ以降、僕は夏休みの読書感想文には、電話帳や地図帳や料理本など、物語性が皆無なものしか書かなくなった。
高校までの国語では、「文章を書く」という指導がほとんど読書感想文だけに限られる。しかも書かせっぱなしでフィードバックは無い。論理的思考能力に基づく文章を書く訓練をほとんど行わないので、大学に入ってから学生が困惑する。レポートや論文を「読書感想文をめちゃくちゃ長くしたもの」と思っている。現在の大学では、そういう学生に文章の書き方を一から教える不毛な授業が必修科目になっている。
現在の国語教育でも一応、読むほうでは「論理国語」に相当する論説文を扱っている。しかし書くほうとしては壊滅的な状態と言ってよい。今回の新学習指導要領再編は、「『文学国語』を弾く」というよりは、「『論理国語』を確保する」という側面のほうが大きかろう。はっきり言うと、文学なんて書けなくてもいいのだ。しかし論理的文章は、読めて書けなければならない。その質的・量的な区分けを明確にしようとする再編だろう。僕は個人的にこの再編は必要だと思う。
小説家というのは別に論理的な文章を書く必要はない。自分の内的世界を過不足ない形で表現すればいいだけだ。事実、小説家というのは世の中の事象について評論させると頓珍漢なことばかり言う人が多い。善悪の判断でさえ信頼できない人もいる。一般的に小説家というのは「文筆に関する職業」というだけの理由で「知的な人達」、と思われているようだが、本来的に小説と論理的思考能力は関係ない。小説を書くために必要な感覚的整合性と、緻密に理論を紡ぐ論理的思考能力は、もともと種類が違うものだ。小説家が査読に耐え得る学術論文を書けるわけではないし、研究者の誰もが売れる小説を書けるわけでもない。
ところが日本の国語教育ではその両方が混在しているので、子供はその境目が曖昧なまま文章生活を送る。「本を読む」という行いを「勉強する」という行いと同一視して忌避する子供が多いのは、その証左だろう。小説家の多くが今回の新学習指導要領再編に反対しているのは、何のことはない、いま小説が売れないからだ。学校教育で「文学」を国語教育の軸に据えていれば、まだ夏休みの読書感想文等で強制的にでも読ませることができる。しかしもし「論理国語」「文学国語」と明確に区分し、しかも大学入試では前者のほうが重視される、とされてしまえば、子供の文学離れが加速する。おそらくその程度の危機感ではないか。
はっきり言って、「文学国語」は無駄だ。無駄だからこそ、学校でしっかり教えなければならないものだと思う。文学国語に限らず、高校で習うほとんどの教科というのは、実生活では何の役にも立たない無駄なものばかりなのだ。無駄だから、学校を卒業した後に自分から身につけようとする機会がほとんどない。学校で習った内容だけが、一生を通してその人の知的財産に留まってしまう、という人は多いのではなかろうか。学校教育というのは、そういう無駄な知識を、いかにたくさん吸収する機会を提供できるかにその根源的な価値がある。そういう無駄なことをたっぷり教えることのできる時間、人材、教材、環境のゆとりを整えていることが、文明国としての指標だと思う。
小説だって、何の教養も無い人が素手で読めるものではない。段階を追って、徐々に読み方を身に付けなければならないものだ。それを発育段階に従ってしっかり教えることができるのは、学校教育以外には有り得ない。
ほとんどの人は、「読む」という行為を十把一絡げに考えていると思う。論理的に他者の論評を読むことと、楽しみのために小説を読むという行為には、違う能力が求められていることを知らない。どちらが大事か、という話ではない。生きていく上では両方無駄なことだ。無駄だからこそ、それをしっかり教える唯一の機会である学校教育を充実させねばなるまい。
(2020年7月31日 朝日新聞社説)
朝日新聞という新聞社は、嘘はつくしデマはバラまくし捏造はするし、倫理観や社会的責任感は皆無だし、国を売り飛ばすような売国的な立場を貫くし、本当にどうしようもない新聞社だが、それでも出版界から葬り去るわけにはいかないのは、たまにこのような世の中の本質を問うような鋭い問題提起をすることがあるからだ。今回、全国紙5社のなかで、高校国語の新学習指導要領について触れた社説は朝日新聞だけだ。
22年度実施の新学習指導要領再編によって高校の国語は、論理的・実用的な文章を扱う「論理国語」と、文学的な文章を扱う「文学国語」という選択科目に分けられることになった。これに対して多くの作家や研究者が「文学軽視につながる」と異を唱えている、というのが問題提起の内容だ。その背景には、全体の授業時間の制約や受験への配慮などから「論理国語」が優先され、「文学国語」を採用する高校は少なくなるとみる予想がある。
日本の国語教育は、長らく「文学的素養」と「論理的思考能力」の区分を曖昧にし続ける方針をとって来た。その最たるものが読書感想文だろう。僕は中学時代、夏休みの読書感想文に、作品として作りが甘い箇所や表現が稚拙な箇所、話の流れが強引すぎて不自然すぎる箇所などを列挙した「批評」を提出したら、国語の先生にこっぴどく叱られた。どうやら日本の中等教育では、読書感想文というのは「人生の素晴しい面を新しく知って感動した」という内容でなければならないらしい。それ以降、僕は夏休みの読書感想文には、電話帳や地図帳や料理本など、物語性が皆無なものしか書かなくなった。
高校までの国語では、「文章を書く」という指導がほとんど読書感想文だけに限られる。しかも書かせっぱなしでフィードバックは無い。論理的思考能力に基づく文章を書く訓練をほとんど行わないので、大学に入ってから学生が困惑する。レポートや論文を「読書感想文をめちゃくちゃ長くしたもの」と思っている。現在の大学では、そういう学生に文章の書き方を一から教える不毛な授業が必修科目になっている。
現在の国語教育でも一応、読むほうでは「論理国語」に相当する論説文を扱っている。しかし書くほうとしては壊滅的な状態と言ってよい。今回の新学習指導要領再編は、「『文学国語』を弾く」というよりは、「『論理国語』を確保する」という側面のほうが大きかろう。はっきり言うと、文学なんて書けなくてもいいのだ。しかし論理的文章は、読めて書けなければならない。その質的・量的な区分けを明確にしようとする再編だろう。僕は個人的にこの再編は必要だと思う。
小説家というのは別に論理的な文章を書く必要はない。自分の内的世界を過不足ない形で表現すればいいだけだ。事実、小説家というのは世の中の事象について評論させると頓珍漢なことばかり言う人が多い。善悪の判断でさえ信頼できない人もいる。一般的に小説家というのは「文筆に関する職業」というだけの理由で「知的な人達」、と思われているようだが、本来的に小説と論理的思考能力は関係ない。小説を書くために必要な感覚的整合性と、緻密に理論を紡ぐ論理的思考能力は、もともと種類が違うものだ。小説家が査読に耐え得る学術論文を書けるわけではないし、研究者の誰もが売れる小説を書けるわけでもない。
ところが日本の国語教育ではその両方が混在しているので、子供はその境目が曖昧なまま文章生活を送る。「本を読む」という行いを「勉強する」という行いと同一視して忌避する子供が多いのは、その証左だろう。小説家の多くが今回の新学習指導要領再編に反対しているのは、何のことはない、いま小説が売れないからだ。学校教育で「文学」を国語教育の軸に据えていれば、まだ夏休みの読書感想文等で強制的にでも読ませることができる。しかしもし「論理国語」「文学国語」と明確に区分し、しかも大学入試では前者のほうが重視される、とされてしまえば、子供の文学離れが加速する。おそらくその程度の危機感ではないか。
はっきり言って、「文学国語」は無駄だ。無駄だからこそ、学校でしっかり教えなければならないものだと思う。文学国語に限らず、高校で習うほとんどの教科というのは、実生活では何の役にも立たない無駄なものばかりなのだ。無駄だから、学校を卒業した後に自分から身につけようとする機会がほとんどない。学校で習った内容だけが、一生を通してその人の知的財産に留まってしまう、という人は多いのではなかろうか。学校教育というのは、そういう無駄な知識を、いかにたくさん吸収する機会を提供できるかにその根源的な価値がある。そういう無駄なことをたっぷり教えることのできる時間、人材、教材、環境のゆとりを整えていることが、文明国としての指標だと思う。
小説だって、何の教養も無い人が素手で読めるものではない。段階を追って、徐々に読み方を身に付けなければならないものだ。それを発育段階に従ってしっかり教えることができるのは、学校教育以外には有り得ない。
ほとんどの人は、「読む」という行為を十把一絡げに考えていると思う。論理的に他者の論評を読むことと、楽しみのために小説を読むという行為には、違う能力が求められていることを知らない。どちらが大事か、という話ではない。生きていく上では両方無駄なことだ。無駄だからこそ、それをしっかり教える唯一の機会である学校教育を充実させねばなるまい。
朝顔、枯れちゃった・・・。
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えー、コロナウィルスのせいで自粛生活が続いておりますが。
大学の授業も家からの遠隔授業となりまして、出勤せずに家で仕事をする日々です。
日程も大幅にずれ込んでおりまして、前期授業の開始は5月のゴールデンウィークを過ぎてから、という有様です。
当然、授業開始が遅れるということは、授業終了も遅れるということで、どうやら今年の授業はお盆をまたぐ頃にようやく終わりそうな感じです。
もともと東京オリンピックが予定されていたため、普通通りの夏ではないだろうと予想していたところ、予想を大幅に上回る混乱っぷりです。
で、コロナやら仕事やら猛暑やらで、今年の夏はどこにも旅行には行けそうもない、ということになりまして。
しかしピンチはチャンス。これを機会に、兼ねてからの夢だった夏休みのイベントを打ちたいと思います。
朝顔を育てる。
好きなんですよね、朝顔。いかにも夏休みって感じがします。
しかし朝顔を栽培するとなると、旅行にも行けないので、いままで老後の楽しみに取っておいたんですが
コロナウィルスによる自粛の夏こそ朝顔の夏なのではないか。
というわけで諸々を揃えに100円均一に行ってきました。



まぁ、ほとんどのものは100均で揃います。便利な時代だ。
で、栽培法をいろいろとネットで調べてみたら、どうやら鉢には受け皿が必要で、肥料を使ったほうが安定して成長するそうなんです。
それらはホームセンターに行って買い足しました。
で、日当りのよいベランダに置いて、毎日観察日記をつけることにしました。
ちゃんと花が咲くといいなー、朝顔。
大学の授業も家からの遠隔授業となりまして、出勤せずに家で仕事をする日々です。
日程も大幅にずれ込んでおりまして、前期授業の開始は5月のゴールデンウィークを過ぎてから、という有様です。
当然、授業開始が遅れるということは、授業終了も遅れるということで、どうやら今年の授業はお盆をまたぐ頃にようやく終わりそうな感じです。
もともと東京オリンピックが予定されていたため、普通通りの夏ではないだろうと予想していたところ、予想を大幅に上回る混乱っぷりです。
で、コロナやら仕事やら猛暑やらで、今年の夏はどこにも旅行には行けそうもない、ということになりまして。
しかしピンチはチャンス。これを機会に、兼ねてからの夢だった夏休みのイベントを打ちたいと思います。
朝顔を育てる。
小学校2年生以来だから実に30〜40年振り。
めざせ満開。
好きなんですよね、朝顔。いかにも夏休みって感じがします。
しかし朝顔を栽培するとなると、旅行にも行けないので、いままで老後の楽しみに取っておいたんですが
コロナウィルスによる自粛の夏こそ朝顔の夏なのではないか。
10年以上ぶりにたくつぶ記事に新しいカテゴリーを作るくらいの気合の入れっぷりだ。
というわけで諸々を揃えに100円均一に行ってきました。

最近は植物のタネも100均で売ってる

つるを巻き付ける支柱。

もちろん水をあげるのはコレだ。
まぁ、ほとんどのものは100均で揃います。便利な時代だ。
で、栽培法をいろいろとネットで調べてみたら、どうやら鉢には受け皿が必要で、肥料を使ったほうが安定して成長するそうなんです。
それらはホームセンターに行って買い足しました。
で、日当りのよいベランダに置いて、毎日観察日記をつけることにしました。
ちゃんと花が咲くといいなー、朝顔。
小学2年生の頃にはなかった大人力をフル稼働してやる。
「五輪1年延期 コロナ収束が大前提だ」
(2020年3月26日 朝日新聞社説)
「五輪1年延期 開催実現へ手立てを尽くそう 」
(2020年3月26日 読売新聞社説)
「東京五輪1年延期 乗り越えるべき課題多い」
(2020年3月26日 毎日新聞社説)
「東京五輪延期 日本は成功に責任を負う まず感染の収束に力を尽くせ」
(2020年3月26日 産経新聞社説)
「前例なき五輪延期に知恵と力を集めよ」
(2020年3月25日 日本経済新聞社説)
春休みなのに新型コロナのせいで外出できずにヒマなので、新聞を読むくらいしかすることがないんですわ。
そんなわけで東京オリンピック延期を論じた新聞社説。例によって全国五紙を読み比べてみた。
まぁ、なんというか、僕自身の「新聞を読む癖」を我ながら強く自覚する社説だった。
僕は新聞社説を読むとき、どうしても「論旨」「構成」「語彙・表現」を重視して読んでしまう。一般社会人が書く文章として妥当なものかどうか、広く世間に発信する文章として適切か、「審査」するような感覚で読んでしまう。
大学の授業では、教養科目や基礎科目で、学生に新聞の読み方や文章の書き方を教えるために社説を使うことがある。だから僕自身が社説を読むときに、「講義ではどうやってこの文章を教材として使うか」という眼で読んでしまう。
しかしまぁ、そんな新聞の読み方をする人のほうが稀だろうし、そもそも新聞は大学の授業の教材として作られているわけでもない。一般読者の人が読みたい内容と、僕が想定する「良い内容」が合致していることのほうが、むしろ珍しいのだろう。
今回の社説は、どの社説も本当に指摘すべきことを見逃している。しかし、それは別に各新聞社の落ち度というよりも、「一般の読者は、そんなこと気にしていない」というほうが実情に近いだろう。新聞はまず、買ってくれる読者の皆様が知りたいことをまず書く。商売の鉄則として、それは如何ともしがたいことだろう。僕の眼から見て「足りないなぁ」と思う社説でも、世の中からしてみれば「そんな話を読みたいわけじゃない」ということも、大いに有り得るのだ。
まぁ、標準的な日本人が最も気になることは、ここのところだろう。勤め人にとっては、仕事の内容がオリンピックによって影響を受ける業種ということもあるだろう。見込まれていた利益と来年度予算を見直さなくてはならないこともあり得る。そういう「カネに関する影響」が最も気になるのが、おおかたの日本人の本音ではあるまいか。
この問題については、5紙すべてがそれぞれ触れている。最も読者が気になることを書くのは新聞としてあたりまえのことなので、これは自然なことだろう。主にこの経済問題を社説の主要テーマとして書いている新聞が多いのは十分にうなずける。それをきちんと問題提起していれば、世間的には合格点の社説と評価できる・・・のだろう。
ところが、大学の授業でこれらの社説を使って講義をするとなると、あまり良い評価はできない。大学で行う学問では、まず何よりも「疑問を発見し、問題点を指摘する」という段階が出発点となる。大学の勉強というのは「答えを出すためのもの」ではなく「疑問を見つけるためのもの」だ。だから出発点となる問題提起のピントがずれていたら、どんなに完璧な解答を出したとしても研究としての価値は無い。
今回のオリンピック延期は、いままで例がなかった事態だ。だから決まった手続きというものが存在しない。どの団体も、お互いに顔を見合わせながら、状況を読みつつ意思決定をしている迷いが見える。
つまり、今回のオリンピック延期に最も強い意志を示したのは「日本政府」なのだ。これは産経社説が指摘している通り、異例といってよい。例えば、さきにマラソンと競歩を札幌開催に移転したのはIOCの独断だった。オリンピックに関する決定事項に関しては、まずIOCが理事会に諮るのが通常の手続きだろう。
保守系の産経新聞は、この日本政府の動きを評価する論調で書いている。しかし「異例」といえば聞こえはいいが、要するにいま起きていることは「異常」なのだ。競技団体も日本政府も、今回の延期決定に関して何らかの発言権はあるだろう。しかしここまで日本政府が前に出て強く延期を要望し、しかもそれがすんなり通るというのは普通ではない。伝染病拡大という緊急事態であることを差し引いても、意思決定の筋道が不透明に過ぎる。
この「異常事態」がなぜ問題かというと、次の問題、「では開催を具体的にいつにするのか」の決定方法に関わってくるからだ。延期はとりあえず日本政府の強い意向で決まった。すると次に具体的な開催日程を決定するのは、誰がどうやって、何に基づいて行うのか。なにせ前例がないことだから、競技場や宿泊施設などのインフラ面では「現場」の日本政府と東京都が大きな役割を担わざるを得ない。日程の決定にはその辺の調整が不可欠なので、IOCが上から一方的に決められる種類のものではない。
競技の種類によっては、開催時期がいつになるかによって、有利・不利になる国が出てくる。どの時期に決定されても、必ずどこかの国が反対してくる。そのへんの綱引きは各競技団体の内部で収めるべき問題だが、それをIOCに丸投げしてくる競技団体もあるだろう。そうすると、オリンピックの運営に関わるIOCの役割が、これまでと大きく変わってくることになる。
つまり、今回の「延期決定」のプロセスを見ていると、オリンピックに諸々に関する意思決定の力関係が、従来と比べて大きく歪んでいるのだ。事実上、オリンピックの準備はこれまで6年かけてきたものを全部白紙に戻し、1年足らずで新しい計画を立て直さなければならない。その時間との戦いで「誰がどのような決定権を持つのか」がはっきりしない。
新聞社説ではその手の問題を「綿密な意思疎通が必要だ」などと漠然と書いているが、そんなことは、あたりまえだ。必要なのは「綿密に意思疎通ができない状況で、どうやって意思疎通を行えばいいのか」の具体的な方法論だ。
今回のオリンピック延期が日本政府の要望通りに通ったのは、国際陸連のセバスチャン・コー会長が世界陸上の日程変更をいち早く決定したことが大きい。オリンピックが1年延期すると、世界陸上、世界水泳の開催とかぶってしまう。だからオリンピック延期には世界陸連と世界水連の強い反発が予想された。ところが世界陸連がオリンピック延期を優先したことで、3者のうち「競技団体」の意思共有が短時間のうちに進んだ。
セバスチャン・コーは西側諸国のボイコットが相次いだ1980年モスクワオリンピックで、アメリカの反対を押し切って強行出場したイギリス代表の選手だ。800mで銀、1500mで金メダルをとっている。両種目で同国選手のスティーブ・オベットとの一騎打ちは名勝負だった。自身の「オリンピックにおける例外的措置は、軋轢なく解消されるのが望ましい」という体験が、今回の国際陸連の決定につながったという側面はあろう。
陸連、IOC、日本政府という団体は、それ自体が意思をもつ実態ではない。どんなに大きな団体だろうと、最終的に意思を決定するのは特定の「人」なのだ。いま新型コロナウィルスの対応で世界中から叩かれている世界保健機関(WHO)も、テドロス・アダノム事務局長というひとりの言動が、あたかもWHOの全人格であるかのように報じられている。
オリンピックが実際にいつ開催されるのか、決定される過程には、必ず誰か「特定の人間」の意思が強く働く。大事なのは、その「人間」を選ぶ方法を確立すること、その人間が暴走せず各条件を勘案して意思が決定できるようまわりの環境を整えること、だろう。「団体間の意思疎通」などというものはない。あるのは「そこに属する人間の意思疎通」だ。そのチャンネルをいかに確保するか、それが当面の具体的な問題だろう。
新聞に限らず、文章というものは読む側の立場によって如何ようにも読める。今回の各社説の出来が悪いとは言わない。それぞれ、読者が読みたい記事にはなっているだろう。「知りたい情報を提供する」ということと「まだ知られていない問題点を指摘する」というのは、両立しがたい部分がある。その辺の比重をどうするか、バランス感覚が試されるテーマだった。
(2020年3月26日 朝日新聞社説)
「五輪1年延期 開催実現へ手立てを尽くそう 」
(2020年3月26日 読売新聞社説)
「東京五輪1年延期 乗り越えるべき課題多い」
(2020年3月26日 毎日新聞社説)
「東京五輪延期 日本は成功に責任を負う まず感染の収束に力を尽くせ」
(2020年3月26日 産経新聞社説)
「前例なき五輪延期に知恵と力を集めよ」
(2020年3月25日 日本経済新聞社説)
春休みなのに新型コロナのせいで外出できずにヒマなので、新聞を読むくらいしかすることがないんですわ。
そんなわけで東京オリンピック延期を論じた新聞社説。例によって全国五紙を読み比べてみた。
まぁ、なんというか、僕自身の「新聞を読む癖」を我ながら強く自覚する社説だった。
僕は新聞社説を読むとき、どうしても「論旨」「構成」「語彙・表現」を重視して読んでしまう。一般社会人が書く文章として妥当なものかどうか、広く世間に発信する文章として適切か、「審査」するような感覚で読んでしまう。
大学の授業では、教養科目や基礎科目で、学生に新聞の読み方や文章の書き方を教えるために社説を使うことがある。だから僕自身が社説を読むときに、「講義ではどうやってこの文章を教材として使うか」という眼で読んでしまう。
しかしまぁ、そんな新聞の読み方をする人のほうが稀だろうし、そもそも新聞は大学の授業の教材として作られているわけでもない。一般読者の人が読みたい内容と、僕が想定する「良い内容」が合致していることのほうが、むしろ珍しいのだろう。
今回の社説は、どの社説も本当に指摘すべきことを見逃している。しかし、それは別に各新聞社の落ち度というよりも、「一般の読者は、そんなこと気にしていない」というほうが実情に近いだろう。新聞はまず、買ってくれる読者の皆様が知りたいことをまず書く。商売の鉄則として、それは如何ともしがたいことだろう。僕の眼から見て「足りないなぁ」と思う社説でも、世の中からしてみれば「そんな話を読みたいわけじゃない」ということも、大いに有り得るのだ。
今回の東京オリンピック延期を受けて、一般読者が一番気になるのは何か。「選手選考はやり直すのか」「開催はいつになるのか」など、観客的な目線での興味関心ももちろんあるだろうが、それよりも日本国民が一番気になるのは「経済的な影響はどうなるのか」だろう。オリンピックの延期は、日本国民の懐事情を直撃する。遠くの国で起きてるスポーツ大会というだけでなく、開催国という現場で暮らしている日本人には「いま、ここにある問題」なのだ。
延期には新たな支出の発生が避けられず、追加分をどこが負担するのかが大きな問題になる。五輪とパラリンピックの開催経費について、都と組織委は昨年末時点で1兆3500億円にのぼると公表している。IOCなどの試算では延期に伴う競技施設やホテルの借り換え、職員の人件費増などで3000億円の経費が増えるという。都や国の新たな負担となる場合は、丁寧に理解を求めねばならない。
(日経社説)
財政問題も重要だ。ただでさえ総経費が当初言われていたものより大きく膨らんでいるなか、延期によってどれだけの額が上乗せされるのか。それを誰が、どうやって負担するのか。都民・国民の財布を直撃する話だ。見通しをできるだけ早く示すことが求められる。
(朝日社説)
まぁ、標準的な日本人が最も気になることは、ここのところだろう。勤め人にとっては、仕事の内容がオリンピックによって影響を受ける業種ということもあるだろう。見込まれていた利益と来年度予算を見直さなくてはならないこともあり得る。そういう「カネに関する影響」が最も気になるのが、おおかたの日本人の本音ではあるまいか。
この問題については、5紙すべてがそれぞれ触れている。最も読者が気になることを書くのは新聞としてあたりまえのことなので、これは自然なことだろう。主にこの経済問題を社説の主要テーマとして書いている新聞が多いのは十分にうなずける。それをきちんと問題提起していれば、世間的には合格点の社説と評価できる・・・のだろう。
ところが、大学の授業でこれらの社説を使って講義をするとなると、あまり良い評価はできない。大学で行う学問では、まず何よりも「疑問を発見し、問題点を指摘する」という段階が出発点となる。大学の勉強というのは「答えを出すためのもの」ではなく「疑問を見つけるためのもの」だ。だから出発点となる問題提起のピントがずれていたら、どんなに完璧な解答を出したとしても研究としての価値は無い。
今回のオリンピック延期は、いままで例がなかった事態だ。だから決まった手続きというものが存在しない。どの団体も、お互いに顔を見合わせながら、状況を読みつつ意思決定をしている迷いが見える。
各紙社説によると、オリンピック延期の決定に関与しているのは、主に「国際オリンピック委員会(IOC)」「日本政府」「各競技団体(国際陸連、国際水連など)」の3者だ。問題は「この3者のうち、どこが最も強力な決定権を持っているのか」だが、その関係がはっきりしない。それが今回の社説で最も大きく採り上げなければならなかった問題だろう。
今回の決定過程では安倍晋三首相が前面に出た。中止になれば、経済などへのダメージは大きい。最悪の事態を避けるために、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長との直談判に動き、延期の流れを作った。(中略)予定通りの開催にこだわっていたIOCには、各国の選手やオリンピック委員会から批判の声が相次いだ。ビジネスの契約や損失ばかりに気を取られ、他のスポーツ大会との日程調整が進まなかった。
(毎日社説)
延期の決定に、驚かされたことが2つある。1つは、安倍晋三首相が国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長との電話会談で「大会の1年程度延期の検討」を提案し、バッハ会長がこれに「百パーセント同意する」と応じたことだ。これで事実上、大会の延期は既定の方針となり、その後のIOC臨時理事会で承認された。五輪マラソン・競歩コースの札幌変更に代表されるように、これまで五輪組織委員会や東京都は、いわばIOCの言いなりだった。異を唱えることは、はばかられる空気もあった。世界的な新型コロナウイルスの感染拡大を受けた五輪の大会日程についても、「決定権はIOCにある」との声ばかりが聞かれた。IOC会長が開催国首脳の提案を受け、理事会を経ずに重大な決定を示唆したこと自体、極めて異例である。
(中略)
2つ目の驚きは、IOCの決定に対して世界陸連や国際水泳連盟といった主要競技団体がいち早く賛同の意を示したことだ。来夏には米オレゴン州で世界陸上、福岡市で水泳の世界選手権といった大イベントが予定されており、これが五輪1年延期の最大の障壁となるとみられていた。だが両連盟は、柔軟に日程変更を検討することまで表明した。
(産経社説)
つまり、今回のオリンピック延期に最も強い意志を示したのは「日本政府」なのだ。これは産経社説が指摘している通り、異例といってよい。例えば、さきにマラソンと競歩を札幌開催に移転したのはIOCの独断だった。オリンピックに関する決定事項に関しては、まずIOCが理事会に諮るのが通常の手続きだろう。
保守系の産経新聞は、この日本政府の動きを評価する論調で書いている。しかし「異例」といえば聞こえはいいが、要するにいま起きていることは「異常」なのだ。競技団体も日本政府も、今回の延期決定に関して何らかの発言権はあるだろう。しかしここまで日本政府が前に出て強く延期を要望し、しかもそれがすんなり通るというのは普通ではない。伝染病拡大という緊急事態であることを差し引いても、意思決定の筋道が不透明に過ぎる。
この「異常事態」がなぜ問題かというと、次の問題、「では開催を具体的にいつにするのか」の決定方法に関わってくるからだ。延期はとりあえず日本政府の強い意向で決まった。すると次に具体的な開催日程を決定するのは、誰がどうやって、何に基づいて行うのか。なにせ前例がないことだから、競技場や宿泊施設などのインフラ面では「現場」の日本政府と東京都が大きな役割を担わざるを得ない。日程の決定にはその辺の調整が不可欠なので、IOCが上から一方的に決められる種類のものではない。
競技の種類によっては、開催時期がいつになるかによって、有利・不利になる国が出てくる。どの時期に決定されても、必ずどこかの国が反対してくる。そのへんの綱引きは各競技団体の内部で収めるべき問題だが、それをIOCに丸投げしてくる競技団体もあるだろう。そうすると、オリンピックの運営に関わるIOCの役割が、これまでと大きく変わってくることになる。
つまり、今回の「延期決定」のプロセスを見ていると、オリンピックに諸々に関する意思決定の力関係が、従来と比べて大きく歪んでいるのだ。事実上、オリンピックの準備はこれまで6年かけてきたものを全部白紙に戻し、1年足らずで新しい計画を立て直さなければならない。その時間との戦いで「誰がどのような決定権を持つのか」がはっきりしない。
新聞社説ではその手の問題を「綿密な意思疎通が必要だ」などと漠然と書いているが、そんなことは、あたりまえだ。必要なのは「綿密に意思疎通ができない状況で、どうやって意思疎通を行えばいいのか」の具体的な方法論だ。
今回のオリンピック延期が日本政府の要望通りに通ったのは、国際陸連のセバスチャン・コー会長が世界陸上の日程変更をいち早く決定したことが大きい。オリンピックが1年延期すると、世界陸上、世界水泳の開催とかぶってしまう。だからオリンピック延期には世界陸連と世界水連の強い反発が予想された。ところが世界陸連がオリンピック延期を優先したことで、3者のうち「競技団体」の意思共有が短時間のうちに進んだ。
セバスチャン・コーは西側諸国のボイコットが相次いだ1980年モスクワオリンピックで、アメリカの反対を押し切って強行出場したイギリス代表の選手だ。800mで銀、1500mで金メダルをとっている。両種目で同国選手のスティーブ・オベットとの一騎打ちは名勝負だった。自身の「オリンピックにおける例外的措置は、軋轢なく解消されるのが望ましい」という体験が、今回の国際陸連の決定につながったという側面はあろう。
陸連、IOC、日本政府という団体は、それ自体が意思をもつ実態ではない。どんなに大きな団体だろうと、最終的に意思を決定するのは特定の「人」なのだ。いま新型コロナウィルスの対応で世界中から叩かれている世界保健機関(WHO)も、テドロス・アダノム事務局長というひとりの言動が、あたかもWHOの全人格であるかのように報じられている。
オリンピックが実際にいつ開催されるのか、決定される過程には、必ず誰か「特定の人間」の意思が強く働く。大事なのは、その「人間」を選ぶ方法を確立すること、その人間が暴走せず各条件を勘案して意思が決定できるようまわりの環境を整えること、だろう。「団体間の意思疎通」などというものはない。あるのは「そこに属する人間の意思疎通」だ。そのチャンネルをいかに確保するか、それが当面の具体的な問題だろう。
新聞に限らず、文章というものは読む側の立場によって如何ようにも読める。今回の各社説の出来が悪いとは言わない。それぞれ、読者が読みたい記事にはなっているだろう。「知りたい情報を提供する」ということと「まだ知られていない問題点を指摘する」というのは、両立しがたい部分がある。その辺の比重をどうするか、バランス感覚が試されるテーマだった。
2年続けて夏休みの計画が立てづらい。
続きを読む
「感染症と世界 「鎖国」は解にはならぬ」
(2020年3月19日 朝日新聞社説)
「G7首脳会議 感染拡大の阻止へ指導力示せ 」
(2020年3月18日 読売新聞社説)
「G7首脳がコロナ協議 個別対策と協調の両立を」
(2020年3月18日 毎日新聞社説)
「世界的感染拡大で問われる政治の指導力」
(2020年3月14日 日本経済新聞社説)
なんというか、世の中の正論が、事実よりも先走って幅を利かせるようになると、こういう支離滅裂なことを言って辻褄を合わせなければならなくなる、という典型的な例だろう。端的に言うと、「『グローバル化』なる高尚な理念は嘘っぱちだ」ということをまざまざと露呈している。
これらの社説を読むときの視点はただひとつ、「出入国封鎖は是か非か」だけだ。
事実としては、伝染病が発生したときは発生源を封鎖しなければならない。そんなことは疫学上の常識だ。人の行き来を凍結し、誰も立ち入れないようにする。ところが問題は、「封鎖」という行政的な手続きを実行するとき、どの単位でその施策を実行するのか、ということだ。
人の行動に対する強制権を行使できる必要かつ十分な行政単位は、「国」でしか有り得ないだろう。ある国の中で伝染病が発生したら、直ちに国の出入りを禁止し、世界中に伝播することを避ける。これが国際社会に対する責任であるはずだ。
しかし現在、「ボーダーレス社会」「グローバル化」という大義名分のもと、「国」という単位で他と区別する施策はすべて「悪」と見なされるようになっている。「自国民に限る」という施策は「国籍で差別するのか」となり、他国とは違う独自路線はすべて「国際社会から孤立するぞ」という脅迫がついてまわる。
今回の新型コロナウィルスは、そうした「『グローバル化』という正義」に対して、本当にそれは正しいのか、世界中の人々に問題点を突き付けているように見える。グローバル化というお題目を嘲笑うかのように「国境封鎖」を各国に迫っている。特にヨーロッパの国々でその傾向が顕著だ。フランスやイタリアは自国内で爆発的に感染者が増加したことを受けて、あわてて入国制限に走った。EUの理念などクズ同然に吹っ飛び、自国の安全しか考えていない。
それが悪いと言っているのではない。伝染病の時には、そもそもそうするべきなのだ。EUの理念がコロナウィルスの前にクズ同然に吹っ飛んだのは、EUの理念がクズ同然だったからだ。ボーダーレス、国境の廃止、人の自由な行き来、物流の流動性。すべて20世紀終わりごろから世の中に押し付けられてきた「正しい世界のあり方」だ。ところが、そんなことは人が頭の中だけで考えた「理想の正義」でしか無いことが明々白々となっている。
今回の騒ぎでどのマスコミも報じていないが、先にさっさとEUを離脱したイギリスは、真っ先に他国からの入国制限をかけている。島国という地理的な要因もあろうが、その封鎖体勢は徹底している。EUの理念など真っ向からガン無視だ。このイギリスの対応をどのメディアも報じていないのは、「『グローバル化』という『正義』に反するから」だ。イギリスの対応策を報じてその有効性が周知されると「うちも」「うちも」と入国制限をかける国が続出する。それはEUが高らかに奉じているところの「グローバル化」に対するアンチテーゼに他ならない。
ところが今の言論界では、そのような「グローバル化」に反することは、もはやタブーと化しているのだろう。上に挙げた4つの新聞でも、なんとかその虎の尾を踏まないように、慎重に慎重に記事を書いている。ぶっちゃけていうと、「グローバル化」に反しないようにビビってる社説と断じて良い。
おおむね、社説の方向性は3つに分かれる。
1. 「ある程度の出入国制限はやむを得ないが・・・」(読売、毎日)
2. 「伝染は止めろ。でも鎖国するな」(朝日)
3. まったくの意味不明(日経)
現実路線なのは読売と毎日。まぁ、新聞としてはこのような言い方をせざるを得ないのだろう。本当に世界規模での伝染拡大を防ぐためには「完全に出入国を封鎖しろ」と言うべきところなのだが、いまのご時世、そうは言えない。だから「ある程度はやむを得ない」という、腰が砕けた言い方になる。むろんそう言ってしまったら「『ある程度』というのは、何に基づいて誰が策定するのか」という問題が次に控えているわけだが、いまの段階でその「正解」が分かる者など誰もいない。読売と毎日の社説からは、現実に基づいた施策を提案したくても出来ない、という新聞社としての葛藤が読み取れる。気の毒な感じすら漂う社説だ。
朝日新聞はまったくの矛盾。「伝染拡大は止めろ」と言っておきながら、「人と物資の自由な行き来は止めるな」と主張している。これは伝染拡大を煽る方策に他ならない。
実際のところ、朝日新聞は日本ではなく中国・韓国の利益を優先している新聞社だ。だから日本に物流を封鎖されると困る中・韓の主張を代弁している。その本音は「伝染病がどれだけ広がろうと知ったこっちゃない。中国様・韓国様の機嫌を損ねる方策は許さん」というところだろう。「鎖国」などという負のイメージがつきまとう用語で印象操作をしようとしているあたりに、朝日新聞の意図がよく表れている。
朝日新聞は主張としては唾棄すべきものだが、それでも一応、主張としての体裁は成り立っている。「日本人は勝手に死ぬだけ死ね、出入国封鎖は許さん」という内容でも、主張として何を言いたいのかはよく分かる。
ところが日経の社説は、そもそも主張になっていない。この日経社説を読んで、何をどうしろと言っているのか理解できる人がいるだろうか。
よくもまぁ、ここまで意味のない軽佻浮薄な妄言が並べられたものだ。日経の言っていることを一言で要約すると「ちゃんとしなければいけないのである」ということに過ぎない。そんなこと、誰だって分かってる。その具体的な方策を提言するのが、新聞社の仕事ではないのか。
大筋で日経が言っていることは、「今回の伝染病みたいな大きい問題は一国だけでは対処不可能なので、各国が手を取り合って協力しましょうね」ということだ。これは伝染病の伝播防止の鉄則の真逆をいく主張だ。各国で手を取り合って、協力体制を敷いて、交流をしまくった結果が、いまのヨーロッパの惨状なのだ。つまるところ日経も、現在の世界の潮流「グローバル化」という宗教に洗脳され、「狭い範囲で封鎖しろ」という主張ができなくなっている。
医療が進歩し、世界はここ百数十年、人間が大量死するレベルの伝染病を経験してこなかった。その間に「ボーダーレス」「グローバル化」なる概念が拡大し、一人歩きを始め、今やそれは絶対的な教義になりつつある。イギリスのようにそれに異を唱える国もあるが、それについては誰も触れない。高い理想を掲げ過ぎ、現実的な方策をとれなくなった例というのは、世界史上、数え上げたらきりがない。今回の騒動も、その延長線上にある、人間の過ちの繰り返しのひとつに過ぎないだろう。
(2020年3月19日 朝日新聞社説)
「G7首脳会議 感染拡大の阻止へ指導力示せ 」
(2020年3月18日 読売新聞社説)
「G7首脳がコロナ協議 個別対策と協調の両立を」
(2020年3月18日 毎日新聞社説)
「世界的感染拡大で問われる政治の指導力」
(2020年3月14日 日本経済新聞社説)
なんというか、世の中の正論が、事実よりも先走って幅を利かせるようになると、こういう支離滅裂なことを言って辻褄を合わせなければならなくなる、という典型的な例だろう。端的に言うと、「『グローバル化』なる高尚な理念は嘘っぱちだ」ということをまざまざと露呈している。
これらの社説を読むときの視点はただひとつ、「出入国封鎖は是か非か」だけだ。
事実としては、伝染病が発生したときは発生源を封鎖しなければならない。そんなことは疫学上の常識だ。人の行き来を凍結し、誰も立ち入れないようにする。ところが問題は、「封鎖」という行政的な手続きを実行するとき、どの単位でその施策を実行するのか、ということだ。
人の行動に対する強制権を行使できる必要かつ十分な行政単位は、「国」でしか有り得ないだろう。ある国の中で伝染病が発生したら、直ちに国の出入りを禁止し、世界中に伝播することを避ける。これが国際社会に対する責任であるはずだ。
しかし現在、「ボーダーレス社会」「グローバル化」という大義名分のもと、「国」という単位で他と区別する施策はすべて「悪」と見なされるようになっている。「自国民に限る」という施策は「国籍で差別するのか」となり、他国とは違う独自路線はすべて「国際社会から孤立するぞ」という脅迫がついてまわる。
今回の新型コロナウィルスは、そうした「『グローバル化』という正義」に対して、本当にそれは正しいのか、世界中の人々に問題点を突き付けているように見える。グローバル化というお題目を嘲笑うかのように「国境封鎖」を各国に迫っている。特にヨーロッパの国々でその傾向が顕著だ。フランスやイタリアは自国内で爆発的に感染者が増加したことを受けて、あわてて入国制限に走った。EUの理念などクズ同然に吹っ飛び、自国の安全しか考えていない。
それが悪いと言っているのではない。伝染病の時には、そもそもそうするべきなのだ。EUの理念がコロナウィルスの前にクズ同然に吹っ飛んだのは、EUの理念がクズ同然だったからだ。ボーダーレス、国境の廃止、人の自由な行き来、物流の流動性。すべて20世紀終わりごろから世の中に押し付けられてきた「正しい世界のあり方」だ。ところが、そんなことは人が頭の中だけで考えた「理想の正義」でしか無いことが明々白々となっている。
今回の騒ぎでどのマスコミも報じていないが、先にさっさとEUを離脱したイギリスは、真っ先に他国からの入国制限をかけている。島国という地理的な要因もあろうが、その封鎖体勢は徹底している。EUの理念など真っ向からガン無視だ。このイギリスの対応をどのメディアも報じていないのは、「『グローバル化』という『正義』に反するから」だ。イギリスの対応策を報じてその有効性が周知されると「うちも」「うちも」と入国制限をかける国が続出する。それはEUが高らかに奉じているところの「グローバル化」に対するアンチテーゼに他ならない。
ところが今の言論界では、そのような「グローバル化」に反することは、もはやタブーと化しているのだろう。上に挙げた4つの新聞でも、なんとかその虎の尾を踏まないように、慎重に慎重に記事を書いている。ぶっちゃけていうと、「グローバル化」に反しないようにビビってる社説と断じて良い。
おおむね、社説の方向性は3つに分かれる。
1. 「ある程度の出入国制限はやむを得ないが・・・」(読売、毎日)
2. 「伝染は止めろ。でも鎖国するな」(朝日)
3. まったくの意味不明(日経)
現実路線なのは読売と毎日。まぁ、新聞としてはこのような言い方をせざるを得ないのだろう。本当に世界規模での伝染拡大を防ぐためには「完全に出入国を封鎖しろ」と言うべきところなのだが、いまのご時世、そうは言えない。だから「ある程度はやむを得ない」という、腰が砕けた言い方になる。むろんそう言ってしまったら「『ある程度』というのは、何に基づいて誰が策定するのか」という問題が次に控えているわけだが、いまの段階でその「正解」が分かる者など誰もいない。読売と毎日の社説からは、現実に基づいた施策を提案したくても出来ない、という新聞社としての葛藤が読み取れる。気の毒な感じすら漂う社説だ。
朝日新聞はまったくの矛盾。「伝染拡大は止めろ」と言っておきながら、「人と物資の自由な行き来は止めるな」と主張している。これは伝染拡大を煽る方策に他ならない。
実際のところ、朝日新聞は日本ではなく中国・韓国の利益を優先している新聞社だ。だから日本に物流を封鎖されると困る中・韓の主張を代弁している。その本音は「伝染病がどれだけ広がろうと知ったこっちゃない。中国様・韓国様の機嫌を損ねる方策は許さん」というところだろう。「鎖国」などという負のイメージがつきまとう用語で印象操作をしようとしているあたりに、朝日新聞の意図がよく表れている。
朝日新聞は主張としては唾棄すべきものだが、それでも一応、主張としての体裁は成り立っている。「日本人は勝手に死ぬだけ死ね、出入国封鎖は許さん」という内容でも、主張として何を言いたいのかはよく分かる。
ところが日経の社説は、そもそも主張になっていない。この日経社説を読んで、何をどうしろと言っているのか理解できる人がいるだろうか。
「科学的知見と社会や経済への影響を見極め、的確に対応していく政治の指導力が問われている」
今後は医療や経済、社会活動の専門家らの意見を踏まえ、対策の効果と影響を分析した総合的な判断が求められる
日本は感染者の隔離や治療の経験を踏まえ、国際的な協力態勢の確立に主導的な役割を果たしていくべきだ。
よくもまぁ、ここまで意味のない軽佻浮薄な妄言が並べられたものだ。日経の言っていることを一言で要約すると「ちゃんとしなければいけないのである」ということに過ぎない。そんなこと、誰だって分かってる。その具体的な方策を提言するのが、新聞社の仕事ではないのか。
大筋で日経が言っていることは、「今回の伝染病みたいな大きい問題は一国だけでは対処不可能なので、各国が手を取り合って協力しましょうね」ということだ。これは伝染病の伝播防止の鉄則の真逆をいく主張だ。各国で手を取り合って、協力体制を敷いて、交流をしまくった結果が、いまのヨーロッパの惨状なのだ。つまるところ日経も、現在の世界の潮流「グローバル化」という宗教に洗脳され、「狭い範囲で封鎖しろ」という主張ができなくなっている。
医療が進歩し、世界はここ百数十年、人間が大量死するレベルの伝染病を経験してこなかった。その間に「ボーダーレス」「グローバル化」なる概念が拡大し、一人歩きを始め、今やそれは絶対的な教義になりつつある。イギリスのようにそれに異を唱える国もあるが、それについては誰も触れない。高い理想を掲げ過ぎ、現実的な方策をとれなくなった例というのは、世界史上、数え上げたらきりがない。今回の騒動も、その延長線上にある、人間の過ちの繰り返しのひとつに過ぎないだろう。
もうちょっとまともなことは書けんものかね。
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