すみだ水族館に行ってきました。
2012年、東京スカイツリーのふもとにオープンした、都内ではわりと新興の水族館です。
オミクロン株の流行に十分気をつけて、ソーシャルディスタンスを保ち、行ってきました。

嗚呼、そびえたつツリーの高さよ。
入場券はあらかじめインターネットで購入し、スマホでQRコードをチェックしてもらえれば入場できます。
ちなみに1回の入場料は2300円。1回見た後でもう1回分の2300円を上乗せすれば、年間パスポートにアップグレードできます。2回行くだけで元がとれてお得です。
場所的に、それほど大掛かりな展示はできないだろうし、どんな感じで展示してるのかなー、と思ってたら
超絶良かった。
マジ良かった。
各地の水族館を練り歩き、水族館に関しては一家言あるワタクシが太鼓判を押すクオリティーの高さです。
いわゆる目玉になるような巨獣・珍獣はいないんですが、なによりも展示が美しい。手持ちの条件をフルに発揮して最大効果を発揮している感じの新都心型水族館です。水族館というよりもむしろ美術館みたい。デートにおすすめの水族館といえましょう。
クラゲの水槽。闇と光の演出が美しい。
好きだなぁこういう魅せ方。
クラゲの大水槽。足下を透過して床下が見えるようになってます。
水族館のキャラクターにもなっているチンアナゴ。
江戸下町という地の利を生かした金魚の魅せ方も秀逸。
フィーディングタイム中のオットセイチーム。
水族館は研究機関でもあります。
ラボを一般に可視化して公開。
いかにも涼さげな展示、美しい照明の演出でなかなか雰囲気がよろしい水族館ですが。
ワタクシがなによりも楽しみにして参りましたのは
ででーん。ペンギン大水槽。
いま流行りの断面型水槽。
すみだ水族館を一躍有名にしたのは、特別な話題になりそうな珍しい魚を強引に飼うのではなく、ペンギン一羽一羽についている名前と性格を公開して、観る側の興味を引くという新感覚の方針です。
飼育員さんは当然、全部のペンギンの名前を覚えているでしょうが、普通の水族館はそれを公表したり、ましてや売り物にしたりはしません。ところがすみだ水族館では、ペンギン一羽一羽の性格とストーリーを公開し、だれとだれがくっついたの、だれとだれが仲悪いの、とペンギン社会の関係を赤裸々に見せています。これを参照しながらペンギン水槽を見ているだけで余裕で3時間はいけます。
ペンギン水槽の隣にはのんびり休めるカフェもある。
もちろん店名は「Penguin Cafe」。
平日にふらっと寄りたい感じの水族館です。
「ウクライナ危機 秩序を壊す侵略行為だ」
(2022年2月23日 朝日新聞社説)
「『独立国家』承認 国際秩序を壊すロシアの暴挙」
(2022年2月23日 読売新聞社説)
「露のウクライナ派兵命令 世界秩序揺るがす暴挙だ」
(2022年2月23日 毎日新聞社説)
「ウクライナ危機 露の侵略は許されない 日本も強い制裁を発動せよ」
(2022年2月23日 産経新聞社説)
「独立承認は国際秩序を踏みにじる行為だ」
(2022年2月22日 日本経済新聞社説)
朝日社説:
「国連安全保障理事会の常任理事国が、自ら国連憲章を踏みにじってどうすんだ」
読売社説:
(特に読む価値なし)
毎日社説:
「『ミンスク合意』違反だろ」
産経社説:
「長期計画的。クリミヤ併合の時と使ってる手が同じ」
日経社説:
「世界がこれを認めたら、たぶん中国は台湾を武力併合する」
(2022年2月23日 朝日新聞社説)
「『独立国家』承認 国際秩序を壊すロシアの暴挙」
(2022年2月23日 読売新聞社説)
「露のウクライナ派兵命令 世界秩序揺るがす暴挙だ」
(2022年2月23日 毎日新聞社説)
「ウクライナ危機 露の侵略は許されない 日本も強い制裁を発動せよ」
(2022年2月23日 産経新聞社説)
「独立承認は国際秩序を踏みにじる行為だ」
(2022年2月22日 日本経済新聞社説)
朝日社説:
「国連安全保障理事会の常任理事国が、自ら国連憲章を踏みにじってどうすんだ」
読売社説:
(特に読む価値なし)
毎日社説:
「『ミンスク合意』違反だろ」
産経社説:
「長期計画的。クリミヤ併合の時と使ってる手が同じ」
日経社説:
「世界がこれを認めたら、たぶん中国は台湾を武力併合する」
日経の勝ち。日付に注意。
セルゲイ・ブブカ
ウクライナ(旧ソ連)の陸上競技選手。棒高跳の元世界記録保持者。
実に35回(屋外17回・室内18回)も世界記録を更新し続け、2020年9月に破られるまで27年もの間、世界記録保持者だった。人類で初めて6mの壁を破る。世界陸上は第1回から第6回までの大会(ヘルシンキ、ローマ、東京、シュトゥットガルト、イェーテボリ、アテネ)を6連覇。圧倒的な実力から「鳥人」の異名を取った。
ブブカの凄さには様々な逸話がある。棒高跳以外でも身体能力が桁外れで、走幅跳、走高跳では年代別国内記録を持っていた。空中姿勢を保つために体操競技を練習に取り入れ、体操選手並みの技を行うことができた。100m走は10秒3。棒高跳のポールを持って走っても11秒台で走れたと云われている。
世界記録を一気に更新するのではなく、1cm刻みで細かく更新し続けるので「ミスター・センチメートル」と揶揄されることもあった。これは世界記録更新に付与されるボーナス収入を得るためであったことを本人が認めている。ブブカは旧ソ連の中でも経済的に苦しいウクライナ地方の出身で、家族や親戚の生活を支える必要があったことが背景にあった。ブブカは細かく世界記録を更新し続けたことを「私は自分の実力だけで家族を幸せにできた」とむしろ誇っている。
陸上の世界大会が行われるたびにそれぞれの競技で優勝予想が行われるが、棒高跳については「どうせブブカだろう」という、勝って当たり前という感があった。僕はちょうど中高生のころがブブカの全盛期にあたり、自分も陸上競技をやってたから自然とブブカの記録をリアルタイムでよく見聞きした。実際の試技を見たこともある。
そんな「無双」ブブカだが、なぜかオリンピックとの相性は悪かった。
1984年ロサンゼルスオリンピックは、ソ連がボイコットしたため不参加。
1988年ソウルオリンピックでは5m90cmで優勝し金メダル。
1992年バルセロナオリンピックは途中で試技を止め、決勝記録なし。
1996年アトランタオリンピックは予選で棄権。記録なし。
2000年シドニーオリンピックでは1回めの試技5m70cmをクリアできず、記録なし。
ソウルオリンピック以外では、なぜかオリンピックで勝てない。陸上の7不思議のような扱いだった。
そんなブブカの競技を見て、僕が一番凄いと思ったのは、世界記録を樹立した時でもなく世界陸上で連覇を重ねた時でもなく、相性が悪かったオリンピックで唯一、金メダルを取った1988年のソウル大会の時だ。9月に入ってからの平日に行われたオリンピックだったので、先生に頼んで職員室のテレビで棒高跳決勝を見た。普段は陸上競技など見ない先生や生徒もわらわらと集まってきて、職員室が街頭テレビさながらになったことを覚えている。
この大会、結果としては金メダルだったが、この時のブブカは明らかに調子が悪かった。普通なら余裕で成功するはずの高さに何度も失敗する。優勝を決めた5m90cmも自己ベストの世界記録からは遥かに低い記録で、「なんでこんな高さで失敗するんだ」という感じだった。結局ブブカは5m90cmを3回めの試技でようやく成功し、優勝を決める。通常の試合では2〜3回の試技で軽く優勝を決めるブブカだが、この時ばかりは失敗を重ね何度も跳んだため体力と精神力を消耗し、自身が持つ6m06cmの世界記録への挑戦を棄権している。

3度めの試技でようやく5m90cmに成功した時のブブカに、ちょっと驚いた記憶がある。
ガッツポーズで大声を出し、雄叫びを上げていたのだ。いつもブブカは世界記録を更新した時もちょっと微笑み片手を挙げて声援に応える程度で、感情を表に出すことの少ない選手だった。それが旧ソ連のイメージと相俟って、「常に冷静沈着な競技サイボーグ」のようなイメージだった。そうした威圧感と圧倒的な実力が「絶対王者」としての風格を醸し出していた感がある。そのブブカが、ガッツポーズをして大声を上げるなんて、初めて見た。しかもその時の記録は、自己ベストからは程遠い平凡なものだ。
当時まだ子供だった僕は、「へぇ、ソ連の選手も、普通の人間なんだ」と変な感想をもったことを覚えている。それと同時に、つまらない記録で優勝して驚喜しているブブカに、なんか説明できない「凄さ」を感じた覚えがある。
あの時のブブカに感じた、なんか説明できない凄さは、一体何だったのだろうか。
当時の僕は分からなかったが、今の僕にはあの時のブブカの凄さの理由がよく分かる。
あれは、「運命を実力でねじ伏せた凄さ」だったのではないか。
ブブカはオリンピックとの相性がよくなかった。なにせ世界記録保持者の絶対王者が、5回出て4回負けているのだ。なにか「オリンピックに呪われている」という感がある。
不思議なことだが、競技の世界にはそういうことがよくあるらしい。普段は優秀なアスリートだが、なぜか特定の大会でだけは力を出せない。「優勝確実」と言われていながら、説明できない不思議な理由で負ける。なにかに取り憑かれたかのように、実力を全然発揮できないまま終わる。
理由はいろいろとあるのだろう。大会のもつ雰囲気になじめないとか、季節がたまたま低調な時期に当たってるとか、競技の行われる時間帯とか、なにか「いつもの自分のパフォーマンスができない要因」というものがある。それはたとえ小さいものでも、様々な要素が蓄積すると大きな障害となり、本人のパフォーマンスを蝕んでいく。
アレッサンドロ・ネスタ
「イタリア最高のDF」の呼び声の高いサッカー選手。ラツィオ、ACミランで長く活躍し、才能ひしめくイタリア代表で10年にも渡りレギュラーを穫り続けた。国際経験も豊富で、U21欧州選手権で優勝、EURO2000で準優勝、2006W杯では優勝してる。EURO2000では大会優秀選手に選出。歴代の名手を集めた「FIFA 100」にも選ばれている。
数々の栄光に輝いたネスタだが、なぜかワールドカップでは活躍できなかった。1998年フランス大会では予選リーグのオーストラリア戦で負傷し戦線離脱。2002年日韓大会では予選リーグのクロアチア戦で負傷し戦線離脱。2006年ドイツ大会では予選最終戦のチェコ戦で負傷しまたもや戦線離脱。代表歴78試合を誇りながら、なぜかワールドカップでは活躍できなかった。2006年大会で優勝したときも、大会前にカルチョ・スキャンダルによってACミラン所属選手がマスコミに袋叩きに遭っている状況で、しかも決勝戦ではジダンとマテラッツィがやらかしてしまい、自身も戦力として貢献できなかったこともあり、表彰式では無表情でメダルを授与されるネスタが世界中に放映された。
竹石尚人
元陸上競技選手。近年、箱根駅伝で無双の強さを誇る青山学院大学の出身。青山学院は近年、箱根で強さを発揮しており、2015年の91回大会で初優勝を成し遂げてから破竹の4連覇。この春(2022年)の98回大会も大会記録の激走で他チームをぶっち切った。
そんな青山学院大学も、2019年の95回大会(優勝は東海大学)と2021年の97回大会(優勝は駒沢大学)では負けている。その負けた2大会で「ブレーキ」の戦犯扱いをされた5区走者が竹石だった。2年生時に臨んだ94回大会こそ区間5位でまとめたものの、翌年95回大会では区間13位に沈む。翌年は怪我の影響で出走できず、留年してまで臨んだ97回大会では区間17位に終わる。大会を経験するごとに区間順位が落ちている。
「竹石が登りに強い」というのは本当らしい。なにせ選手起用に慎重な原晋監督が太鼓判を公言するほどの信頼感を勝ち得ているのだ。夏合宿からすでに箱根の登りに備えた練習を繰り返しており、その登りの速さは猛者揃いの青山学院勢でも太刀打ちできない。5区の大学記録をもつ飯田貴之も雑誌のインタビューで「登りは竹石さんに敵わないから他区間に回った」と証言している。
なのに、なぜか箱根駅伝本番では結果を出せない。竹石は「遅い」のでもなく「登りに弱い」のでもなく、「箱根駅伝と相性が悪い」のだと思う。1月という季節がバイオリズム的に低調なのかもしれないし、寒さに弱いのかもしれないし、箱根という場所が合わないのかもしれない。最終年には過去の失敗による苦手意識も加わっただろう。それひとつひとつは小さな理由なのかもしれないが、そのような小さな「合わなさ」が積み重なって、低調なパフォーマンスに終止した不運な感がある。
ネスタがW杯で活躍できなかったように、竹石尚人が箱根駅伝で活躍できなかったように、ブブカもオリンピックで活躍できなかったはずの人だったのだと思う。なぜかは分からない。だけどなぜか勝てない。オリンピックというのは特にそういう「魔物」が棲んでいる大会ではあるまいか。
しかし、ブブカは1998年のソウル五輪で勝った。あれは「優勝候補の大本命、世界記録保持者が、当たり前に勝った」のではなく、「本来であれば勝てないはずの選手が、有無を言わさぬ実力で運命を強引にねじ伏せ、勝ちをもぎ取った」のだ。
そう考えると、ブブカが優勝を決めたときの、あのブブカらしからぬ嬉しがりようが、なんとなく分かる。あの普段とはまったく違う狂喜乱舞の仕方は、単に「オリンピックで優勝した喜び」ではない。なにかもっと大きなものに打ち勝ったときの人間の喜び方ではあるまいか。勝てない運命を自らこじ開けた感覚。ソ連の選手であるブブカが、あんなに表情を露わにして大声を出したのは、そういう感情だったのではないか。
時は流れて2022年、北京オリンピック。スキーの混合ジャンプ競技で、日本チーム第1試技者の高梨沙羅がウェア規定違反で失格になった。高梨沙羅は女子スキージャンプ界では世界を牽引する存在で、ワールドカップは男女通じて歴代最多の61勝、表彰台に上がること110回、個人総合優勝は女子歴代最多の4回。女子スキー界のトップジャンパーだ。
ところが、高梨沙羅はなぜかオリンピックでは勝てない。2014年ソチ大会では4位。「金メダル大本命」として臨んだ2018年平昌大会ではまさかの3位。今回の2022年北京大会ではメダルに届かず4位。世界の舞台で何度も優勝を経験していながら、なぜかオリンピックでだけは勝てない。
今回の北京大会から新たに混合団体ノーマルヒルの競技が新設され、個人でメダルを逃した高梨にとっては「手ぶらで帰らない」ための最後のチャンスだった。その混合団体でまさかの失格。気丈に集中力を発揮し2回めの試技に挑んだが、良いジャンプを見せたにも関わらず直後に泣き崩れる様子が中継で写された。
この競技では日本以外にもオーストリア、ドイツ、ノルウェーなどの強豪国で失格者が続出し、「検査の方法がいつもと違う」と物議を醸した。失格対象となったのがすでに個人競技を終えた女子選手だけだったこともあり、「何か裏があるんじゃないか」という疑念をもたれている。当事者の高梨沙羅はひどいショックを受け、SNSには進退について考えている旨のコメントを出した。
そんなことないよ。よくがんばったよ。
中継では、男子エースで同世代の小林陵侑が、憔悴して落ち込む高梨沙羅を抱きしめて慰め、その対応が賞賛された。今の高梨に必要なのは何よりも、そのような励ましと精神的な休息だろう。
しかし競技者として高梨沙羅が今後の道を進むためには、何が必要なのか。いまの高梨沙羅は何をよすがに前を見ればいいのか。
そんなことをぼんやり考えていたら、ソウル五輪で優勝したときのブブカの姿を思い出した。なぜかオリンピックで勝てない。なぜか自分だけ悪条件に苦しめられる。なぜか自分だけ条件が厳しい。なぜか自分だけツイていない。そういう「何かに取り憑かれているような感覚」に囚われたときは、他に方法などない。強くなるしかない。自分にまとわりつく不運を、ツイていない運命を、すべてなぎ倒すような圧倒的な実力を身につけるしかない。 明日もまた練習する以外に、運命に勝てる方法など無い。
僕がブブカを凄いと思うのは、世界選手権で優勝したことでも、オリンピックで優勝したことでも、世界記録を打ち立てたことでもない。陸上競技、その中でも棒高跳という、競技年齢がかなり短い特殊な競技で、実に15年にもわたって競技をし続けたことだ。数々の栄光にも包まれたが、オリンピックではいつも挫折を味わった。その度ごとに立ち上がり、記録の向上を目指し、次の大会に向かった。連勝記録が途切れても、カウンターをゼロに戻し、また1から新たに連勝記録をつくり始める。本当に強い人というのは、他人に勝つのではなく、「己が負けた」という事実に打ち勝つことができる人だろう。長く競技を続けていれば、失敗もあるだろうし、負けることもあるだろう。そういう苦難を乗り越えられる人だけが、長く競技を続けることができる。
日本ジャンプ陣にとって、今回の混合団体4位は残念な結果だろう。まだそのショックから立ち直れていない関係者も多かろう。しかし日本ジャンプ界には何よりも、そのような挫折を経験し続け、戦い続け、世界の誰も達し得ない高みに到達したレジェンドがいる。
葛西紀明
W杯、オリンピックの両方で輝かしい経歴を誇るが、地元開催で日本団体チームが優勝した1998年長野大会ではメンバー落ちしている。個人でもノーマルヒル7位に終わっている。男子団体戦のとき猛吹雪で競技が中止になりそうになり、1回めの試技の結果で最終順位が決定しそうになった時、仲間の逆転優勝のためにテストジャンパーとして飛び、1回め試技の誰よりも最長不倒の記録で飛び、他国の関係者を仰天させた。「葛西のベストジャンプは長野五輪の団体戦」というジョークを、ライバル他国はにこりともしない真剣な顔で語り継いでいる。
日本ジャンプ陣の今後を立て直すために、葛西紀明の果たす役割は大きいと思う。
選手は誰もが4年に1度のオリンピックのために競技生活を送っている。その大舞台で負けるのは、自分の世界をすべて根底から覆すほどのショックだろう。自分を責め、今後の競技生活に迷うのも無理はない。簡単に言葉で慰めることなど誰にもできないだろう。
だからそこから先は、自分で何かを悟るしかない。自分で立ち上がるしかない。何度負けても、何度不運に見舞われても、戦う意志はそれまでの結果とは関係ない。人間、負けても次を戦うことはできる。そういう強さを持つ人だけが、競技を続けられる。
今回、日本団体混合チームのアクシデントを見て、なぜか陸上棒高跳という何の関係もない競技を思い出した。ブブカのソウル五輪のときの、あの気迫に辿りつける競技者はそう多くはないだろう。だけどなぜか、負けた後の日本チームを見ていると、この中から運命の扉をこじ開け、ねじ伏せてくれる若者が出てきてくれそうな気がした。
セルゲイ・ブブカは引退後、故郷のウクライナに「ブブカ・スポーツクラブ」を設立し、貧困家庭や孤児を援助する事業を展開している。ウクライナ・オリンピック委員会会長を務め、IOCの理事にも選出された。国際陸上競技連盟の副会長も務めている。
北京オリンピックと並行して、いまロシアがウクライナに武力侵攻しようとしているニュースが報じられている。歴史上ウクライナは常に、不凍港を求めて黒海への南下政策をとるロシアに蹂躙されてきた。今のロシアは国内的にも対外的にも行き詰まり、破れかぶれになったロシアがウクライナに侵攻する危険性は高い。オリンピックという場を政治利用するのは好ましいことではないが、ロシアとその友好国である中国はともに五輪開催を利用してお互いに政治利用している節がある。ウクライナは何度ソ連に蹂躙されても、何度武力攻撃を受けても、その度ごとに立ち上がって独立を勝ち取った。ウクライナ五輪選手団を統括する立場として、敵の友好国の首都で、いまブブカは「オリンピックで負けること」よりも大きな敵と戦っていると思う。
綺麗に化粧して帰っておいで。
伊集院光のラジオで昔、妙に心に引っかかる話を聞いたことがある。
子供たちはいつの頃からか、その紙蓋を集めるようになった。少しでも珍しい紙蓋を集めようと、駅の牛乳スタンド近くのごみ箱を漁ったり、週末や連休で学校が休みのはずの日付が押してある紙蓋を収集したり、とにかく「珍しい紙蓋」を集めるのに熱中していたそうだ。珍品の紙蓋を持っている子供は「偉い」という位置づけになり、子供内での存在感が増した。
そのうち、その紙蓋がいつからか「通貨」のような役割を果たすようになった。珍しい紙蓋ひとつと普通の紙蓋10枚を交換したり、特殊な紙蓋ひとつを「支払って」掃除当番を替わってもらったり、紙蓋ブームが加熱した。伊集院光はその頃の熱中度合いを「インフレみたいなものだった」と説明している。
ある日、小学生時代の伊集院光は、手持ちの紙蓋を全部処分し、それ相応の利益を得た上で、「俺は今後一切、紙蓋なんか知らない!」と一方的に撤退を宣言した。それを見た他の子供たちは困惑し、次々に紙蓋集めをしなくなり、急に憑物が落ちたように紙蓋交換をしなくなった。伊集院光は当時のことについて「なんていうのかな、急にバブルがはじけたような感じ。凄い紙蓋をたくさん持っている奴が、その価値が急に暴落して呆然としてた」と語っていた。
なんとなく身につまされる話だ。具体的にはよく思い出せないが、僕も子供の頃、なんかそういう「仲間内だけで妙な価値観が流通し、交換の原則で取引をしていた」という記憶がある。メンコだったこともあるし、ポテトチップスのおまけについている野球カードだったこともある。実際の社会経済に参入していない子供でも、そういうモノを使って「商取引」をした経験は、わりと誰にでもあるものではないか。僕は世代的にはずれているが、僕よりも後の世代では、ポケモンカードとかトレーディングカードなど、その役割を担うことを想定した商品が意図的に作られている。
このような「通貨の替わりになるような取引媒体」に共通している特徴は、「取引の対象となるモノそれ自体には何の価値もない」ということだ。少なくとも、それが交換により取引されるときに負うことになる価値を越えるほどの重要性は、モノそのものには無い。牛乳の紙蓋は単なる紙蓋に過ぎず、普通の状況ではただのゴミだ。「それの取引が流行っている小学校」という文脈を外してしまえば、紙蓋にはなんの価値もない。普通の状況でいきなり牛乳の紙蓋を渡されて「これあげるから、掃除当番替わって」と頼んでも、「は?何言ってんだバカ」と断られるのが落ちだろう。
そのような「異様な価値をもつようになるモノ」というのは、それが通用する特殊な状況が構築されて、はじめて価値をもつ。小学校の子供の仲間うちだけで牛乳の紙蓋が価値をもつことがあるように、世の中には「それ自体には何の価値もないものが、閉鎖的な環境の内部においては異様な価値をもつようになる」ということがあり得る。その価値は、その環境の内部だけで通用する価値なので、少年時代の伊集院光のように「俺もう知ーらね」と離脱すれば、価値は一瞬で水泡と化す。ものの価値というものはどのように決まるものなのだろうか。なんか「相対的に決まる不安定な価値のあり方」を示唆しているようで面白い。
繁華街にたむろってる不良共がお互いに喰い合いをした、というだけのつまらない事件だ。「被害者」とされている中学1年生の少女なるものも、制御する能力もないくせにSNSなどを振り回し、挙句は本人の実態も知らないくせに「有名人だったのでアイドルと同じ感覚であこがれを持った」など軽薄な価値観で衝動的に動いている。喰い物にされて当たり前だ。加害者、被害者ともにレベルが低く、同情の余地など無い。「中学生だから」という理由で一方的に被害者扱いされているが、SNSというのは「ソーシャル」、つまり社会的な媒体だ。使用するには権利だけではなく義務も伴う。それを使用した以上は、それに伴う結果についての責任も負わなくてはならない。
僕がこの事件について興味をもったのは、容疑者の「雨宮ただくに」こと水野泰宏が、近隣に屯す少年たちに「トー横の王」と呼ばれていた、というくだりだ。住所不定・無職の輩が「王」とは大したもんだ。その「王」という称号は、何を元手として得られた称号なのだろうか。
単純に考えれば「金」だろうが、住所不定無職の輩にそれだけの資金力があったとは思えない。被害少女は容疑者のことをSNSで知ったそうだ。記事にも「『トー横』で踊る様子などをSNSで投稿し、若者の人気を集めていたという」とある。だからおそらくSNSに動画を配信して、それが人気を博していた、という程度のことではあるまいか。
すると「王」という称号の根拠となるものは、「SNSのフォロワー数」「動画のアクセス数」ということになるだろう。どれだけフォロワーがいるか、どれだけアクセスを稼いでいるか、という「数字」が、トー横なる界隈では「力」に直結する尺度として通用しているのだろう。その「数字」が一人歩きをした価値をもち、その界隈の「存在感」に昇華し、「トー横の王」なる珍妙な存在をつくり出したのだろう。
しかしその力の根源は、トー横からちょっと外れて世の中を客観的に見れば、一切価値のない単なる数字に過ぎない。フォロワーが多かったら、何だというのだろうか。SNSのフォロワー数も動画のアクセス数も、その世界とは関係ない者にとっては「牛乳の紙蓋」と大差ない。フォロワー数の数字を競っているのも牛乳の紙蓋を見せびらかすのも、本質的には対して変わりはあるまい。「トー横の王」というのは、そのような虚構の上に作られた「まやかしの価値」に過ぎない。トー横あたりに群がってる頭の悪い若者にふさわしい価値尺度と言えるだろう。
結局、そういう若者達というのは、実力主義の世界に生きていないのだと思う。そのような若者は、競技の勝ち負け、試験の点数、売り上げの金額、勝ち取った契約数といった「客観的に価値が保証される絶対的尺度」を嫌う。それに直面することを極度に嫌がる。己の無価値を突きつけられるのが怖いのだ。だから「試験の点数で人の価値が決まるのか」などと喚き、試験の点数そのものを忌避する。
しかしそれは単に、直面すべき絶対価値から逃げているに過ぎない。そういう主張をする輩は例外なく、試験の点数が取れない手合なのだ。課される絶対的尺度をクリアした上で価値に疑問を呈するなら良い。しかしそれができないくせに「そんなものに価値など無い」というのは、負け犬の遠吠えに過ぎない。
「トー横の王」という呼称からは、そのような卑俗で軽薄な価値観でコミュニティを形成する愚かさが、にじみ出ている。集まってる人間がそもそも、誰もが「絶対的な価値尺度」から逃げてきた輩ばかりなので、「絶対的な価値尺度」も無しにひとりの人間を「王」などと軽薄に崇め奉る。自分の生き方が自分の世界の見方を歪めている典型的な事例だ。 自業自得と吐き捨てて良い。
だから、そういう輩は突然「絶対的な価値尺度」を突きつけられると世界があっさり崩壊する。どんなにSNSでフォロワーがいようとも、根拠のない存在感で一目置かれていようとも、「法律に違反した」という圧倒的な判断尺度の前では意味がない。逮捕されたことで「王」の権威は失墜したことだろう。根拠のない価値観は、ある日いきなり崩れ去る。小学生の紙蓋のように「俺、もうやーめた」と宣言できる若者であれば、自らを閉鎖的な価値観から解放できるだろうが、まぁそこまで理性と知性のある輩がトー横界隈に群がってるとは思えない。それができないからこそ、いつまでもあの辺で構築される閉鎖的な価値観の中で生きているのだろう。トー横では今日も、牛乳の紙蓋を必死に集めている若者が屯っているのだろう。
京極夏彦の小説に『絡新婦の理』という作品がある。本というよりもキューブ型の直方体をしているので本屋ですぐに分かる。
その中に、聖ベルナール女学院という学校の経営者一族である「織作家」という名家が出てくる。
織作家には紫、茜、葵、碧という4人の娘がいる。話が進むうちに、同時期に起きた連続殺人犯「目潰し魔」の事件、聖ベルナール女学院内の悪魔崇拝、売春などの事件のいくつかに、織作家が深く関わっているらしいということが分かる。折しも学園理事長の織作是亮が絞殺される。
織作家は旧家独特の謹厳実直な雰囲気があり、家族内でも緊張感が絶えない。特に三女の葵は女性の権利向上の為の活動をしており、発言は常に論理的で厳しく、男尊女卑を匂わせる発言をした人間には高圧的な態度をとる。事件の関係者のひとり今川は、諸事件の根本には織作家の旧態依然とした家風があると考え、主人公の中禅寺秋彦に織作家の憑物落しを依頼する。中禅寺秋彦は単なる古本屋だが、憑物落しを本業とする陰陽師でもある。
その憑物落しの場面が面白い。
憑物落しをするにあたり、中禅寺秋彦は三女の葵にこのように話す。
ここで憑物落しが「失脚」という言葉を使っているのが僕にはどうにも気になった。「失脚」というのは一般的に、社会的に保証されている地位を追われることを意味する。しかし葵は物語中、一族が経営している会社や企業で何らかの役職についているわけではない。一族内での発言力はあるし影響力もあるが、なにか形式的に保証された「地位」についているわけではない。
物語では、中禅寺秋彦の憑物落しによって葵の誤謬と隠された真実が暴かれ、葵の権威は失墜する。それ以後は織作家内での立場が低下してしまう。社会的にはともかく、織作家内で確かに葵は「失脚」する。別に何らかの役職から追われるわけでもなく、減給や謹慎などの制度的な懲罰がなくても、「失脚」という概念は思いのほか世の中にあふれているものなのだろう。
似たようなことは、人が集まるコミュニティー内であれば、程度の差こそ有れどこにでもあるものだと思う。人が数名集まれば、その場を統括する「オピニオンリーダー」が必ず台頭する。場で「いちばん偉い人」が何となく決まる。他の人に対する影響力を公使するようになる。しかし、何をもって誰が「偉い人」になるのか、という客観的な基準は存在しない。「存在感」「影響力」という無形のものは、その場の人たちだけの中でしか通用しない限定的なものに過ぎない。状況と環境が替わってしまえば、その「偉い人」はただの人かもしれないのだ。 僕は「鯛の尾より鰯の頭」という慣用句はそういう意味だと思っている。
だから、ある日突然その地位から「失脚」してしまうこともあり得る。場にいる人の憑物が落ち、「…別にあの人、なにか根拠があって偉いわけじゃないよね」と全員が同時に気付いてしまうことがある。誰かが意図的に「俺、今日からやーめた」と宣言して場の価値観から離脱するという荒技を使うこともあるだろう。
『絡新婦の理』で行われている「憑物落し」というのは、実際には何をやっているのか。具体的には「価値観の解体」のことだ。葵の行動原理になっている主義主張、世界観、価値尺度をことごとく反駁し、その背後にあるのが単なる主観に過ぎないことを暴く。客観的に保証されない価値尺度を指摘し、それ自体には本質的には価値がないことを諭す。小学生の子供に「ただの牛乳の紙蓋だろ?」と言い放つに等しい。憑物落しの対象となる「呪い」の正体は、「閉鎖的な環境で流通している、根拠のない価値感」のことだ。
トー横あたりに群がる若者も、腕のいい憑物落しにかかれば「何をそんなに毎日、必死になっているのか」の馬鹿さ加減に気付いて、安定した価値尺度で世の中を計る世界に戻れるのかもしれない。しかし、今のところは彼ら自身がそんなことを望んでもいないだろうし、望んでいたとしてもそれを認めないだろう。よくスポーツの世界では「実力がすべての世界」という言葉が使われるが、世の中では逆に「実力とは関係ないものがすべての世界」ということのほうが多いのではないか。何の実力も価値もない人間が「トー横の王」などと祀られる界隈では、有無を言わさぬ「実力」など逆に歓迎されないだろう。
伊集院光が子供の頃の思い出をしている内容だ。
昭和の昔、給食の牛乳はビンに入っていた。その紙蓋を専用の錐のような道具で開けるタイプだった。
こーゆーの。
子供たちはいつの頃からか、その紙蓋を集めるようになった。少しでも珍しい紙蓋を集めようと、駅の牛乳スタンド近くのごみ箱を漁ったり、週末や連休で学校が休みのはずの日付が押してある紙蓋を収集したり、とにかく「珍しい紙蓋」を集めるのに熱中していたそうだ。珍品の紙蓋を持っている子供は「偉い」という位置づけになり、子供内での存在感が増した。
そのうち、その紙蓋がいつからか「通貨」のような役割を果たすようになった。珍しい紙蓋ひとつと普通の紙蓋10枚を交換したり、特殊な紙蓋ひとつを「支払って」掃除当番を替わってもらったり、紙蓋ブームが加熱した。伊集院光はその頃の熱中度合いを「インフレみたいなものだった」と説明している。
ある日、小学生時代の伊集院光は、手持ちの紙蓋を全部処分し、それ相応の利益を得た上で、「俺は今後一切、紙蓋なんか知らない!」と一方的に撤退を宣言した。それを見た他の子供たちは困惑し、次々に紙蓋集めをしなくなり、急に憑物が落ちたように紙蓋交換をしなくなった。伊集院光は当時のことについて「なんていうのかな、急にバブルがはじけたような感じ。凄い紙蓋をたくさん持っている奴が、その価値が急に暴落して呆然としてた」と語っていた。
なんとなく身につまされる話だ。具体的にはよく思い出せないが、僕も子供の頃、なんかそういう「仲間内だけで妙な価値観が流通し、交換の原則で取引をしていた」という記憶がある。メンコだったこともあるし、ポテトチップスのおまけについている野球カードだったこともある。実際の社会経済に参入していない子供でも、そういうモノを使って「商取引」をした経験は、わりと誰にでもあるものではないか。僕は世代的にはずれているが、僕よりも後の世代では、ポケモンカードとかトレーディングカードなど、その役割を担うことを想定した商品が意図的に作られている。
このような「通貨の替わりになるような取引媒体」に共通している特徴は、「取引の対象となるモノそれ自体には何の価値もない」ということだ。少なくとも、それが交換により取引されるときに負うことになる価値を越えるほどの重要性は、モノそのものには無い。牛乳の紙蓋は単なる紙蓋に過ぎず、普通の状況ではただのゴミだ。「それの取引が流行っている小学校」という文脈を外してしまえば、紙蓋にはなんの価値もない。普通の状況でいきなり牛乳の紙蓋を渡されて「これあげるから、掃除当番替わって」と頼んでも、「は?何言ってんだバカ」と断られるのが落ちだろう。
そのような「異様な価値をもつようになるモノ」というのは、それが通用する特殊な状況が構築されて、はじめて価値をもつ。小学校の子供の仲間うちだけで牛乳の紙蓋が価値をもつことがあるように、世の中には「それ自体には何の価値もないものが、閉鎖的な環境の内部においては異様な価値をもつようになる」ということがあり得る。その価値は、その環境の内部だけで通用する価値なので、少年時代の伊集院光のように「俺もう知ーらね」と離脱すれば、価値は一瞬で水泡と化す。ものの価値というものはどのように決まるものなのだろうか。なんか「相対的に決まる不安定な価値のあり方」を示唆しているようで面白い。
閑話休題。
ニュースを見ていたら、よく分からない事件が報じられていた。
「歌舞伎町『トー横の王』、女子中学生への淫行容疑で逮捕」
(1/28 金 朝日新聞)
女子中学生とわいせつな行為をしたとして、警視庁は、住居不定、無職水野泰宏容疑者(24)を東京都青少年育成条例違反の疑いで逮捕し、28日発表した。
水野容疑者は、東京・歌舞伎町の中心部の「トー横」と呼ばれる場所に集まる少女たちから人気があったといい、若者の間で「トー横の王」と呼ばれていたという。
少年育成課によると、逮捕容疑は昨年12月~今年1月、歌舞伎町のホテルで、18歳未満と知りながら都外の中学1年生の少女(13)とみだらな行為を繰り返したというもの。容疑を認めているという。
2018年ごろから歌舞伎町の複合施設「新宿東宝ビル」横の路上や広場に居場所をなくした若者たちが深夜に集まるようになり、周辺は次第に「トー横」と呼ばれるようになった。集った少女たちがわいせつ被害に遭うなどの事件が相次ぎ、警視庁は昨年6月から補導活動を強化している。
水野容疑者は18年ごろから「雨宮ただくに」と名乗って「トー横」で踊る様子などをSNSで投稿し、若者の人気を集めていたという。今回被害に遭った少女もSNSを通じて水野容疑者と知り合い、「有名人だったのでアイドルと同じ感覚であこがれを持った。優しくされて好きになり、断れなくなった」と話しているという。
水野容疑者は少女について「交際相手ではない」と話しているという。同課はほかにも多数の少女とわいせつな行為をしていた疑いがあるとみて調べている。
繁華街にたむろってる不良共がお互いに喰い合いをした、というだけのつまらない事件だ。「被害者」とされている中学1年生の少女なるものも、制御する能力もないくせにSNSなどを振り回し、挙句は本人の実態も知らないくせに「有名人だったのでアイドルと同じ感覚であこがれを持った」など軽薄な価値観で衝動的に動いている。喰い物にされて当たり前だ。加害者、被害者ともにレベルが低く、同情の余地など無い。「中学生だから」という理由で一方的に被害者扱いされているが、SNSというのは「ソーシャル」、つまり社会的な媒体だ。使用するには権利だけではなく義務も伴う。それを使用した以上は、それに伴う結果についての責任も負わなくてはならない。
僕がこの事件について興味をもったのは、容疑者の「雨宮ただくに」こと水野泰宏が、近隣に屯す少年たちに「トー横の王」と呼ばれていた、というくだりだ。住所不定・無職の輩が「王」とは大したもんだ。その「王」という称号は、何を元手として得られた称号なのだろうか。
単純に考えれば「金」だろうが、住所不定無職の輩にそれだけの資金力があったとは思えない。被害少女は容疑者のことをSNSで知ったそうだ。記事にも「『トー横』で踊る様子などをSNSで投稿し、若者の人気を集めていたという」とある。だからおそらくSNSに動画を配信して、それが人気を博していた、という程度のことではあるまいか。
すると「王」という称号の根拠となるものは、「SNSのフォロワー数」「動画のアクセス数」ということになるだろう。どれだけフォロワーがいるか、どれだけアクセスを稼いでいるか、という「数字」が、トー横なる界隈では「力」に直結する尺度として通用しているのだろう。その「数字」が一人歩きをした価値をもち、その界隈の「存在感」に昇華し、「トー横の王」なる珍妙な存在をつくり出したのだろう。
しかしその力の根源は、トー横からちょっと外れて世の中を客観的に見れば、一切価値のない単なる数字に過ぎない。フォロワーが多かったら、何だというのだろうか。SNSのフォロワー数も動画のアクセス数も、その世界とは関係ない者にとっては「牛乳の紙蓋」と大差ない。フォロワー数の数字を競っているのも牛乳の紙蓋を見せびらかすのも、本質的には対して変わりはあるまい。「トー横の王」というのは、そのような虚構の上に作られた「まやかしの価値」に過ぎない。トー横あたりに群がってる頭の悪い若者にふさわしい価値尺度と言えるだろう。
結局、そういう若者達というのは、実力主義の世界に生きていないのだと思う。そのような若者は、競技の勝ち負け、試験の点数、売り上げの金額、勝ち取った契約数といった「客観的に価値が保証される絶対的尺度」を嫌う。それに直面することを極度に嫌がる。己の無価値を突きつけられるのが怖いのだ。だから「試験の点数で人の価値が決まるのか」などと喚き、試験の点数そのものを忌避する。
しかしそれは単に、直面すべき絶対価値から逃げているに過ぎない。そういう主張をする輩は例外なく、試験の点数が取れない手合なのだ。課される絶対的尺度をクリアした上で価値に疑問を呈するなら良い。しかしそれができないくせに「そんなものに価値など無い」というのは、負け犬の遠吠えに過ぎない。
「トー横の王」という呼称からは、そのような卑俗で軽薄な価値観でコミュニティを形成する愚かさが、にじみ出ている。集まってる人間がそもそも、誰もが「絶対的な価値尺度」から逃げてきた輩ばかりなので、「絶対的な価値尺度」も無しにひとりの人間を「王」などと軽薄に崇め奉る。自分の生き方が自分の世界の見方を歪めている典型的な事例だ。 自業自得と吐き捨てて良い。
だから、そういう輩は突然「絶対的な価値尺度」を突きつけられると世界があっさり崩壊する。どんなにSNSでフォロワーがいようとも、根拠のない存在感で一目置かれていようとも、「法律に違反した」という圧倒的な判断尺度の前では意味がない。逮捕されたことで「王」の権威は失墜したことだろう。根拠のない価値観は、ある日いきなり崩れ去る。小学生の紙蓋のように「俺、もうやーめた」と宣言できる若者であれば、自らを閉鎖的な価値観から解放できるだろうが、まぁそこまで理性と知性のある輩がトー横界隈に群がってるとは思えない。それができないからこそ、いつまでもあの辺で構築される閉鎖的な価値観の中で生きているのだろう。トー横では今日も、牛乳の紙蓋を必死に集めている若者が屯っているのだろう。
京極夏彦の小説に『絡新婦の理』という作品がある。本というよりもキューブ型の直方体をしているので本屋ですぐに分かる。
その中に、聖ベルナール女学院という学校の経営者一族である「織作家」という名家が出てくる。
織作家には紫、茜、葵、碧という4人の娘がいる。話が進むうちに、同時期に起きた連続殺人犯「目潰し魔」の事件、聖ベルナール女学院内の悪魔崇拝、売春などの事件のいくつかに、織作家が深く関わっているらしいということが分かる。折しも学園理事長の織作是亮が絞殺される。
織作家は旧家独特の謹厳実直な雰囲気があり、家族内でも緊張感が絶えない。特に三女の葵は女性の権利向上の為の活動をしており、発言は常に論理的で厳しく、男尊女卑を匂わせる発言をした人間には高圧的な態度をとる。事件の関係者のひとり今川は、諸事件の根本には織作家の旧態依然とした家風があると考え、主人公の中禅寺秋彦に織作家の憑物落しを依頼する。中禅寺秋彦は単なる古本屋だが、憑物落しを本業とする陰陽師でもある。
その憑物落しの場面が面白い。
憑物落しをするにあたり、中禅寺秋彦は三女の葵にこのように話す。
「葵さん、あなたがどうお考えになっているのか僕には解りませんが、いずれ平野は吐く。そううればあなたは確実に失脚します。あなたは事実上の織作家当主となり、柴田グループの重職にも就いたのでしょう。自首するならまだ救いはある」
ここで憑物落しが「失脚」という言葉を使っているのが僕にはどうにも気になった。「失脚」というのは一般的に、社会的に保証されている地位を追われることを意味する。しかし葵は物語中、一族が経営している会社や企業で何らかの役職についているわけではない。一族内での発言力はあるし影響力もあるが、なにか形式的に保証された「地位」についているわけではない。
物語では、中禅寺秋彦の憑物落しによって葵の誤謬と隠された真実が暴かれ、葵の権威は失墜する。それ以後は織作家内での立場が低下してしまう。社会的にはともかく、織作家内で確かに葵は「失脚」する。別に何らかの役職から追われるわけでもなく、減給や謹慎などの制度的な懲罰がなくても、「失脚」という概念は思いのほか世の中にあふれているものなのだろう。
似たようなことは、人が集まるコミュニティー内であれば、程度の差こそ有れどこにでもあるものだと思う。人が数名集まれば、その場を統括する「オピニオンリーダー」が必ず台頭する。場で「いちばん偉い人」が何となく決まる。他の人に対する影響力を公使するようになる。しかし、何をもって誰が「偉い人」になるのか、という客観的な基準は存在しない。「存在感」「影響力」という無形のものは、その場の人たちだけの中でしか通用しない限定的なものに過ぎない。状況と環境が替わってしまえば、その「偉い人」はただの人かもしれないのだ。 僕は「鯛の尾より鰯の頭」という慣用句はそういう意味だと思っている。
だから、ある日突然その地位から「失脚」してしまうこともあり得る。場にいる人の憑物が落ち、「…別にあの人、なにか根拠があって偉いわけじゃないよね」と全員が同時に気付いてしまうことがある。誰かが意図的に「俺、今日からやーめた」と宣言して場の価値観から離脱するという荒技を使うこともあるだろう。
『絡新婦の理』で行われている「憑物落し」というのは、実際には何をやっているのか。具体的には「価値観の解体」のことだ。葵の行動原理になっている主義主張、世界観、価値尺度をことごとく反駁し、その背後にあるのが単なる主観に過ぎないことを暴く。客観的に保証されない価値尺度を指摘し、それ自体には本質的には価値がないことを諭す。小学生の子供に「ただの牛乳の紙蓋だろ?」と言い放つに等しい。憑物落しの対象となる「呪い」の正体は、「閉鎖的な環境で流通している、根拠のない価値感」のことだ。
トー横あたりに群がる若者も、腕のいい憑物落しにかかれば「何をそんなに毎日、必死になっているのか」の馬鹿さ加減に気付いて、安定した価値尺度で世の中を計る世界に戻れるのかもしれない。しかし、今のところは彼ら自身がそんなことを望んでもいないだろうし、望んでいたとしてもそれを認めないだろう。よくスポーツの世界では「実力がすべての世界」という言葉が使われるが、世の中では逆に「実力とは関係ないものがすべての世界」ということのほうが多いのではないか。何の実力も価値もない人間が「トー横の王」などと祀られる界隈では、有無を言わさぬ「実力」など逆に歓迎されないだろう。
世の中の人々がどのような価値観で動いているのか。人と人の間の「序列」というのはどのように決まるものなのか。社会生活を営んでいる限り、誰もがどこかで漠然と感じることだろう。自分にとっては絶対的なものだと思っているものでも、ある日突然「俺、今日からやーめた」と宣言することで離脱でいる程度の呪いかもしれない。一言で言うと「客観性」というだけの能力なのだが、それを身につけて閉鎖的な価値観の縛りから自由でいられている人は割と少ないと思う。
いじめは、閉鎖的な学級でこそ起こる。そこには世の中の多くの人にとって理解不能な「その場限定の価値・原理」が同調圧力として働いているのだろう。自分を律している価値観は、本当に絶対的で不動のものなのだろうか。おそらく僕は一生関わることもないであろう「トー横」という界隈で起きた奇妙奇天烈な事件報道から、そんなことを考えた。
紙蓋集めに熱中してる輩の多いこと多いこと。
【 1区 】木村暁仁(専修大)1:01:24(区間4位)
【 2区 】松山和希(東洋大)1:07:02(区間5位)
【 3区 】伊予田達弥(順大)1:01:19(区間3位、7人抜き)
【 4区 】石塚陽士(早大)1:02:20(区間6位)
【 5区 】吉田響(東海大)1:10:44(区間2位)
【 6区 】小泉謙(駿河台大)58:47(区間3位)【 7区 】富田峻平(明治大)1:03:02(区間2位)
【 8区 】中沢雄大(中央大)1:05:02(区間3位、4人抜き)
【 9区 】竹井祐貴(関東学生連合・亜細亜大)1:09:03(区間6位相当)
【 10区 】川上有生(法政大)1:10:31(区間11位、総合11位→10位)
完全主観です。
「岸田政権、継続へ 真価問われる『丁寧な政治』」
(2021年11月1日 朝日新聞社説)
「自民単独過半数 緊張感持ち政権の安定を図れ」
(2021年11月1日 読売新聞社説)
「衆院選で自民過半数 首相は謙虚な政権運営を」
(2021年11月1日 毎日新聞社説)
「岸田首相の続投 安定勢力で成果を挙げよ 対中抑止に本腰を入れる時だ」
(2021年11月1日 産経新聞社説)
「政権は民意踏まえ課題を前に進めよ」
(2021年11月1日 日本経済新聞社説)
締まりのない選挙だった。
「他に入れるところがないからしょうがなくここに入れる」という感じの選挙。
今回の選挙は、いわば「コロナ禍対策の『採点』」という趣きが濃かった。しかし、口ではいろいろ言っていながら、みんな心の底では分かっているのだろう。コロナ禍はいわば天災であって、どの政党が政権を担当しても100%誰もが納得する施策など打ちようがないのだ。みんな自分の生活が思うようにいかない苛々を誰かにぶつけたくて、政治に八つ当たりをしていたに過ぎない。マスコミは必死になって現政権の失策をあげつらうネガティブキャンペーンを展開したが、蓋を開けてみれば自民党の単独過半数。大山鳴動鼠一匹の感が拭えない。
それを報道する新聞各社にもそれぞれの色がはっきりと出た。
まず、例によっていつもの通り朝日新聞は論外だ。安倍憎し、自民党憎し、日本憎しの朝日新聞は相変わらず政権を貶める工夫に余念がない。明確な偏向報道だ。
「角度をつける」のも、ここまでやれば大したものだ。朝日社説が論じているのは「今回の選挙の総括」では全くない。「安倍・菅政権の悪口」だけだ。朝日社説は必死に無視しているが、事実として自民党は単独過半数を獲得して野党を退けている。いわば野党の完敗だ。それを何とかして「自民党はしくじった」「国民は自民党を見限った」という印象を植え付けようとしている。朝日社説は、自民党や旧安倍政権が嫌いで嫌いで仕方ない人が、ストレス発散のために読むものだ。便所の落書レベルのものだろう。
朝日新聞も毎日新聞も、安倍政権の悪口を言うときには必ず「『数の力』で強引に進める」という文言を使う。しかし、議院制民主主義に基づく政党政治はそもそも「数の力」を採択原理としたものだ。政治の原理原則を真っ向から否定して、何を主張したいのだろうか。数の力で勝てないから、数の力を貶めているに過ぎない。旧民主党が政権を取ったとき、強行採決を敢行した数はそれまでの自民党政権よりもはるかに多かった。そういう時には朝日も毎日も「数の力」云々などおくびにも出さず、「民意の反映」などと嘯く。自分達の都合によって言い方を変える論説は信用に値しない。
今回の野党敗北の原因を一刀両断にしている。今回の選挙は「与党が勝った」のではない。「野党が負けた」に過ぎない。朝日新聞が喚き倒しているように、本当に国民が自民党に愛想を尽かしたのであれば、単独過半数など到底無理だろうし、野党5党の連合は軒並み議席数を伸ばしたはずだ。しかし、実際にはそうはなっていない。
自民党が前回よりも議席数を減らした事実を見ても、コロナ禍対策に対する自民党の政策に有権者が厳しい目を向けているのは確かだろう。しかし野党5党の連合に対しては「だからといってお前らじゃない」という断を有権者は下したことになる。有権者に厳しい評価を下されたのは、野党5党も同じなのだ。朝日新聞は必死に「自民党1悪」の構図を吹聴したがっているが、その点、毎日新聞のほうがやや冷静に事実を俯瞰している。
朝日新聞が一切無視している部分だ。コロナ禍対策の内政問題を突くか、外交と安全保障対策の不備を突くか。左派系と右派系の新聞で論点がはっきり分かれている。
他の新聞は、自民党の今後に対して「コロナ禍を防ぐためにちゃんとしなければならない」「落ち込んだ経済状態を上向かせるためにちゃんとしなければならない」「安倍政権時の弊害を取り除くためにちゃんとしなければならない」と、漠然とした掛け声に終止している。具体的な提言は一切無しだ。どうすればコロナ禍を防げるのか、どうすれば経済が良くなるのか、安倍政権時の弊害は具体的にどういう所に顕在化しているのか、明確な言及を放棄している。曖昧な批判と文句を並べているだけで、読者の「印象」に訴えかけることしかしていない。
しかし産経新聞は、「自民党の議席が減った」ということに対して、唯一具体的で現実的な方策を提言している。外交や安全保障は、野党がみんな口を濁して明言を避け続けた問題だ。その不備を突くことで相対的に議席増が見込めたのではないか、という提言は、合っているか間違っているかは別として、具体性がある。正しいか間違っているかの検証ができる。つまり検討に値する。印象操作に終止し、イメージを喚起するためのふわふわした文言を並べているだけの他紙に比べれば、論述の方法として一段高いところにある。
その正反対が日本経済新聞だ。朝日新聞とは別の意味で、読むに値しない。
要するに、どれも「ちゃんとしてください」と言っているだけのことに過ぎない。「成果によって信頼を得ろ」「器を整えろ」「ビジョンを打ち出せ」「指導力を発揮して実績を積み上げろ」などということは、小学生にでも言える。問題は、「どのようにそれをしなければならないのか」という具体的な方策の切り口を示すことだろう。産経新聞は、合っているか間違っているかはともかく、それをしっかり書いた。日経は「間違い」の提言をすることを恐れているのか、美辞麗句を並べることが社説の品格だと勘違いしているのか、中身が全くない曖昧な理想論で最初から最後までを埋め尽くしている。
日経のような「きれいすぎる社説」が無価値なのは、そこから生み出されるものが何もないからだ。抽象的な提言からは、抽象的な方策しか出てこない。抽象的な方策からは、何も出てこない。単なる掛け声だ。業績を上げるための指示が「がんばりましょう」、国民の信を得るための提言が「しっかりしましょう」、選挙の総括が「ちゃんとしましょう」。
どれも正しい。絶対に正しい。どんな状況であっても間違っていることなど絶対に有り得ない。だからこそ、何の意味もない。現実に落し込んで考えるときに、誰にも、何をしろとも、どうしろとも言っていない。反証可能性がゼロなので、検証にも値しない。盛り盛りの角度をつけまくってプロパガンダに終止している朝日新聞よりはマシだが、人に読ませる文章という観点からすれば五十歩百歩だ。
最近、日経の社説にはこういうのが増えてきた。単なる感想文や作文に等しい。こういう社説を書いているうちは、日経の社説など読む価値はあるまい。
一言でいうと、「勝者のいない選挙」だったと言えるだろう。自民党は単独過半数を保持したが、岸田首相が息巻いたように「国民の信を得られた」わけではない。他の野党がもっとひどいので、仕方なく自民党に票を入れざるを得ない有権者が多かっただけのことだろう。各紙が指摘しているとおり、与党にも野党5党連合にも与せずに独自路線を敷いた日本維新の会が大きく議席を伸ばしたのは、その証左だろう。
今回の選挙は、夜の選挙速報がやたらと時間がかかった。深夜になってもまだ当確が出ない選挙区が相次いだ。それだけ接戦が続いたということだ。コロナ禍という未曾有の事態にあって、現政権に厳しい目を向けながらも、「だからといって変に八つ当たりをしたらもっとひどいことになる」という有権者の学習が結果に表れた、そんな選挙に見える。
(2021年11月1日 朝日新聞社説)
「自民単独過半数 緊張感持ち政権の安定を図れ」
(2021年11月1日 読売新聞社説)
「衆院選で自民過半数 首相は謙虚な政権運営を」
(2021年11月1日 毎日新聞社説)
「岸田首相の続投 安定勢力で成果を挙げよ 対中抑止に本腰を入れる時だ」
(2021年11月1日 産経新聞社説)
「政権は民意踏まえ課題を前に進めよ」
(2021年11月1日 日本経済新聞社説)
締まりのない選挙だった。
「他に入れるところがないからしょうがなくここに入れる」という感じの選挙。
今回の選挙は、いわば「コロナ禍対策の『採点』」という趣きが濃かった。しかし、口ではいろいろ言っていながら、みんな心の底では分かっているのだろう。コロナ禍はいわば天災であって、どの政党が政権を担当しても100%誰もが納得する施策など打ちようがないのだ。みんな自分の生活が思うようにいかない苛々を誰かにぶつけたくて、政治に八つ当たりをしていたに過ぎない。マスコミは必死になって現政権の失策をあげつらうネガティブキャンペーンを展開したが、蓋を開けてみれば自民党の単独過半数。大山鳴動鼠一匹の感が拭えない。
それを報道する新聞各社にもそれぞれの色がはっきりと出た。
まず、例によっていつもの通り朝日新聞は論外だ。安倍憎し、自民党憎し、日本憎しの朝日新聞は相変わらず政権を貶める工夫に余念がない。明確な偏向報道だ。
有権者の審判は政権の「継続」だったが、自民党は公示前の議席を減らし、金銭授受疑惑を引きずる甘利明幹事長が小選挙区で落選した。首相や与党は重く受け止める必要がある。「1強」体制に歯止めをかけ、政治に緊張感を求める民意の表れとみるべきだ。
(朝日社説)
9年近く続いた安倍・菅政治の弊害に正面から向き合い、政治への信頼を回復する。議論する国会を取り戻し、野党との建設的な対話を通じて、直面する内外の諸課題への処方箋を探る
(同上)
国政選挙で6連勝した安倍長期政権の終焉、新型コロナ対応に失敗した菅政権の1年余りでの退場を経た今回、自民党はある程度の減少は織り込み済みだった。しかし、派閥の領袖や閣僚経験者が小選挙区で相次いで落選するなど、不人気の菅首相を直前に交代させ、新しい顔で臨んだにしては、国民の期待を糾合することはできなかった
(同上)
新しく選ばれた465人の衆院議員には、安倍・菅政権下で傷つけられた国会の機能を立て直す重い責任がある。憲法の規定に基づく臨時国会の召集要求に応じない。論戦の主舞台となる予算委員会の開催を拒む。質問をはぐらかし、正面から答えない。「虚偽」答弁が判明しても深く反省しない。議論の土台となる公文書を改ざん・廃棄する。過去の国会答弁を無視し、一方的に法解釈を変更する――。政府が説明責任を軽んじ、国会の行政監視機能を掘り崩す行為が、何度繰り返されたことか。特定秘密保護法や安保法制など、意見の割れる重要法案を、与党が「数の力」で押し切る場面も少なくなかった。
(同上)
「角度をつける」のも、ここまでやれば大したものだ。朝日社説が論じているのは「今回の選挙の総括」では全くない。「安倍・菅政権の悪口」だけだ。朝日社説は必死に無視しているが、事実として自民党は単独過半数を獲得して野党を退けている。いわば野党の完敗だ。それを何とかして「自民党はしくじった」「国民は自民党を見限った」という印象を植え付けようとしている。朝日社説は、自民党や旧安倍政権が嫌いで嫌いで仕方ない人が、ストレス発散のために読むものだ。便所の落書レベルのものだろう。
朝日と並んだ左派系の毎日新聞も、今回の選挙そっちのけで「安倍・菅政権の悪口」を並べている。
安倍晋三政権からの9年間では、政治に対する国民の信頼が損なわれる事態が相次いだ。コロナ対応では失政が続いた。経済活動の再開に前のめりになり、感染拡大を防げなかった。病床の確保が追いつかず、自宅で亡くなる人も出た。生活困窮者や休業を余儀なくされた飲食店への支援も十分に届かなかった。経済政策では格差拡大を招いた。成長と効率を重視するアベノミクスで富裕層は潤ったが、非正規労働者が増えた。異論を認めず、国会を軽視する姿勢も目立った。「政治とカネ」の問題では説明責任を果たそうとしなかった。安全保障関連法など世論が割れる政策を、「数の力」で強引に進めた
(毎日社説)
朝日新聞も毎日新聞も、安倍政権の悪口を言うときには必ず「『数の力』で強引に進める」という文言を使う。しかし、議院制民主主義に基づく政党政治はそもそも「数の力」を採択原理としたものだ。政治の原理原則を真っ向から否定して、何を主張したいのだろうか。数の力で勝てないから、数の力を貶めているに過ぎない。旧民主党が政権を取ったとき、強行採決を敢行した数はそれまでの自民党政権よりもはるかに多かった。そういう時には朝日も毎日も「数の力」云々などおくびにも出さず、「民意の反映」などと嘯く。自分達の都合によって言い方を変える論説は信用に値しない。
ただ、毎日新聞は朝日に比べて若干冷静に、今回の選挙全体の趨勢についても論じている。
野党第1党の立憲民主党は、共産党、国民民主党などと小選挙区の7割以上で候補者を一本化し、野党5党による共闘態勢で臨んだ。前回、野党第1党の民進党が分裂したことを教訓にしたものだ。今回は1対1の構図を作ることはできたが、政権交代への期待を高めるまでには至らなかった。政治の現状に対する国民の不満が高まっているにもかかわらず、民意を受け止めきれなかった。立憲は、共産との選挙協力の戦術を含め検証を迫られる。「改革」を訴えた日本維新の会が大きく議席を伸ばし、自民、立憲に対する批判の「受け皿」となった形だ。
(毎日社説)
今回の野党敗北の原因を一刀両断にしている。今回の選挙は「与党が勝った」のではない。「野党が負けた」に過ぎない。朝日新聞が喚き倒しているように、本当に国民が自民党に愛想を尽かしたのであれば、単独過半数など到底無理だろうし、野党5党の連合は軒並み議席数を伸ばしたはずだ。しかし、実際にはそうはなっていない。
自民党が前回よりも議席数を減らした事実を見ても、コロナ禍対策に対する自民党の政策に有権者が厳しい目を向けているのは確かだろう。しかし野党5党の連合に対しては「だからといってお前らじゃない」という断を有権者は下したことになる。有権者に厳しい評価を下されたのは、野党5党も同じなのだ。朝日新聞は必死に「自民党1悪」の構図を吹聴したがっているが、その点、毎日新聞のほうがやや冷静に事実を俯瞰している。
一方、保守系の読売新聞や産経新聞は、選挙の争点を内政から外交にずらすことによって自民党政権の失点をごまかす書き方をしている。自民党政権、特に旧安倍政権の一番の強みは、外交と安全保障対策だ。反対に今回の野党5党の連合が惨敗を喰らった原因は、その件に関して連合間の調整がうまくいかず、ごまかすしか仕方なかったからだ。特に立憲民主党と共産党という、安全保障に関して正反対の主張をする党同士が連合しても、矛盾しか生じない。
日本は今、新型コロナウイルス流行だけでなく、本格的な経済再生や、人口減少への対応など、困難な課題に直面している。軍事・経済両面で台頭する中国は国際ルールを無視した行動が目立ち、米国など民主主義国との対立が深まっている。
(読売社説)
北朝鮮のミサイル発射や、中国による一方的な海洋進出により、日本の安全保障環境は一段と厳しくなっている。ミサイル攻撃に対する抑止力の強化について、早急に方針をまとめるべきだ。 (同上)
立民は「現実的外交」を掲げるが、日米安保条約廃棄を主張する共産と連携して、どのような政権を目指すのか。それが不明確だったのが敗北の要因だろう。政権批判票の受け皿とならなかったことを、野党第1党として深刻に受け止めねばなるまい。共産との協力には、民間労組の一部からも反発を招いた。立民が政権交代を目指すのなら、安保関連法廃止などを訴えるのではなく、現実の脅威に対して具体的な外交・安保政策を掲げたうえで、経済や社会保障政策などで与党との違いを明確に打ち出すべきではなかったか。
(同上)
朝日新聞が一切無視している部分だ。コロナ禍対策の内政問題を突くか、外交と安全保障対策の不備を突くか。左派系と右派系の新聞で論点がはっきり分かれている。
同様の指摘は、同じく保守系の産経新聞も行っている。しかし、読売新聞とはちょっと書き方が異なる。産経新聞は、外交問題の不備を野党5党の惨敗理由とするだけでなく、自民党が議席を減らした原因としても見ている。
外交安全保障は大きな争点にならなかった。4年前の衆院選で北朝鮮の核・ミサイル問題が国難とされたのとは対照的だ。だが、今回衆院選の公示日には北朝鮮が日本海へ向けて潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を発射した。選挙期間中には中国とロシアの合同艦隊10隻が日本を周回した。この艦隊は伊豆諸島付近でヘリを発艦させる演習を実施し、航空自衛隊の戦闘機が緊急発進(スクランブル)した。日本へのあからさまな威嚇である。
日本をとりまく安全保障環境は厳しい。台湾危機や北朝鮮による拉致、核・ミサイル問題などへの対応を、与野党はもっと語るべきだった。立民や共産党などは、安全保障関連法の「違憲部分」廃止を唱えた。集団的自衛権の限定行使容認の道を閉ざすもので、日米同盟を機能不全に陥れる政策だ。この政策の危うさや厳しい国際情勢を、岸田首相や与党は具体的に指摘し、対中抑止や防衛力の強化の必要性を訴えるべきだった。そこに力を入れなかった点は、自民の議席減の理由の一つであろう。岸田政権が、防衛力充実や経済安全保障を推進し、対中抑止を強化しなくては平和は守れない。
(産経社説)
そこじゃないだろう、という気もする。自民党が今回議席を減らした一番の原因は、やはりコロナ禍対策の失策が第一だろう。それを「外交・安全保障問題に関する野党の不備をもっと攻撃すれば、議席はもっと取れたはずだ」というのは、敗因を正しく汲み取っていない提言かもしれない。
しかし、今回の社説で「建設的な提言」をしているのは唯一、産経新聞だけであることも確かだ。
他の新聞は、自民党の今後に対して「コロナ禍を防ぐためにちゃんとしなければならない」「落ち込んだ経済状態を上向かせるためにちゃんとしなければならない」「安倍政権時の弊害を取り除くためにちゃんとしなければならない」と、漠然とした掛け声に終止している。具体的な提言は一切無しだ。どうすればコロナ禍を防げるのか、どうすれば経済が良くなるのか、安倍政権時の弊害は具体的にどういう所に顕在化しているのか、明確な言及を放棄している。曖昧な批判と文句を並べているだけで、読者の「印象」に訴えかけることしかしていない。
しかし産経新聞は、「自民党の議席が減った」ということに対して、唯一具体的で現実的な方策を提言している。外交や安全保障は、野党がみんな口を濁して明言を避け続けた問題だ。その不備を突くことで相対的に議席増が見込めたのではないか、という提言は、合っているか間違っているかは別として、具体性がある。正しいか間違っているかの検証ができる。つまり検討に値する。印象操作に終止し、イメージを喚起するためのふわふわした文言を並べているだけの他紙に比べれば、論述の方法として一段高いところにある。
その正反対が日本経済新聞だ。朝日新聞とは別の意味で、読むに値しない。
日経の記事は、とにかく「正しいことを書こう」としているように見える。「正しければそれが一番良いことだ」という考えが透けて見える。
自民党は単独で安定多数を確保したものの選挙前からは議席を減らし、選挙区で落選した甘利明幹事長が辞意を示す事態となった。政権はこの結果を真摯に受け止め、新型コロナウイルス対策や経済再生など直面する課題に取り組み、着実な成果によって信頼を得るよう全力をあげてもらいたい
(日経社説)
野党がより大きな塊となり、「1強多弱」といわれた状況が変われば、政治に緊張感が生まれ、政権や与党は丁寧な運営を心がけなければならなくなる。そのためには経済や外交・安全保障など国の根幹にかかわる政策を擦り合わせることが避けて通れない。政権選択の名に値するような器を整えてもらいたい。
(同上)
重要なのはコロナの感染状況が落ち着いている間に「第6波」への備えを固めるとともに、経済再生への具体策を示すことだ。コロナ禍で困窮している人たちや企業への支援は重要だが、一律給付のようなばらまき政策は効果が不明だし、厳しい財政状況を考えればとるべき選択肢ではない。経済成長と財政再建を果たしていく中長期のビジョンを打ち出すことが肝要だ。
(同上)
来年夏には参院選が控え、首相はすぐに成果を問われることになる。政権の求心力維持には、指導力を発揮して実績を積み上げていくことこそが王道だ。それが国民の負託にこたえる道でもある。
(同上)
要するに、どれも「ちゃんとしてください」と言っているだけのことに過ぎない。「成果によって信頼を得ろ」「器を整えろ」「ビジョンを打ち出せ」「指導力を発揮して実績を積み上げろ」などということは、小学生にでも言える。問題は、「どのようにそれをしなければならないのか」という具体的な方策の切り口を示すことだろう。産経新聞は、合っているか間違っているかはともかく、それをしっかり書いた。日経は「間違い」の提言をすることを恐れているのか、美辞麗句を並べることが社説の品格だと勘違いしているのか、中身が全くない曖昧な理想論で最初から最後までを埋め尽くしている。
日経のような「きれいすぎる社説」が無価値なのは、そこから生み出されるものが何もないからだ。抽象的な提言からは、抽象的な方策しか出てこない。抽象的な方策からは、何も出てこない。単なる掛け声だ。業績を上げるための指示が「がんばりましょう」、国民の信を得るための提言が「しっかりしましょう」、選挙の総括が「ちゃんとしましょう」。
どれも正しい。絶対に正しい。どんな状況であっても間違っていることなど絶対に有り得ない。だからこそ、何の意味もない。現実に落し込んで考えるときに、誰にも、何をしろとも、どうしろとも言っていない。反証可能性がゼロなので、検証にも値しない。盛り盛りの角度をつけまくってプロパガンダに終止している朝日新聞よりはマシだが、人に読ませる文章という観点からすれば五十歩百歩だ。
最近、日経の社説にはこういうのが増えてきた。単なる感想文や作文に等しい。こういう社説を書いているうちは、日経の社説など読む価値はあるまい。
一言でいうと、「勝者のいない選挙」だったと言えるだろう。自民党は単独過半数を保持したが、岸田首相が息巻いたように「国民の信を得られた」わけではない。他の野党がもっとひどいので、仕方なく自民党に票を入れざるを得ない有権者が多かっただけのことだろう。各紙が指摘しているとおり、与党にも野党5党連合にも与せずに独自路線を敷いた日本維新の会が大きく議席を伸ばしたのは、その証左だろう。
今回の選挙は、夜の選挙速報がやたらと時間がかかった。深夜になってもまだ当確が出ない選挙区が相次いだ。それだけ接戦が続いたということだ。コロナ禍という未曾有の事態にあって、現政権に厳しい目を向けながらも、「だからといって変に八つ当たりをしたらもっとひどいことになる」という有権者の学習が結果に表れた、そんな選挙に見える。
選挙行ったあと外食しました。
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「池袋暴走に実刑 判決を高齢事故減の機に」
(2021年9月3日 産経新聞社説)
「多面的な高齢運転者対策を」
(2021年9月3日 日本経済新聞社説)
痛ましい事件だった。遺族の心痛を思うと遣り切れない。
2019年4月19日、池袋の路上を暴走し、2名を殺し、10名の負傷者を出した飯塚幸三に対する判決が東京地裁で行われた。禁固5年の実刑判決。事件の重大さを考えると軽過ぎる判決だろう。
この判決に関して社説を載せたのは産経と日経の2紙だが、両方とも言っていることはおおむね同じ。犯行の悲惨さを訴えた末、「本当の問題はこのような高齢者による交通事故をいかにして防いでいくかだ」という、万人受けする着地点に無難にまとめている。
しかし今までこの件が世間で騒がれていたことから分かるように、この一件は単に「よくある高齢者事故」で片付けるには異様な点が多過ぎる。安易に一般化できるほど瑣末な事例ではない。両紙とも、その辺の特殊性を一切捨象している点が腑に落ちない。
飯塚幸三が世間の非難を浴びているのは、事故そのものよりも、事故後の無責任な態度による。
事故発生の直後には、のんびり息子に電話をしており、自分が撥ねた被害者を一切無視している。119番通報すらしていない。明確な救護義務違反だ。しかも事故を起こした言い訳として「予約したフレンチに遅刻しそうだった」などと嘯いていた。
さらに、事故を起こした原因についても供述が二転三転する。事故直後、飯塚幸三は「ブレーキが利かなかった」と話していたが、実況見分後の事情聴取では「最初に接触事故を起こし、パニック状態になってアクセルとブレーキを踏み間違えた可能性もある」と供述を変えている。さらに起訴される直前には「自分は一切運転を謝誤っていない。プリウスが勝手に暴走した」と言い張り、自分には全く過失が無いという主張をするに至った。
この事件の審議が長引いた理由は、飯塚幸三が一切自分の非を認めず、ひたすら「トヨタのプリウスが勝手に暴走して人を轢いた」と主張していたからだ。これが被害者遺族の心情を逆撫でし、世間の反感を買った。
僕は個人的に、今回の事件で後世に残すべき教訓は、この飯塚幸三のような無責任な高齢者の態度に対する施策をシステム化することだと思う。産経と日経が謳ってるように「高齢者の事故」という枠でこの件を捉えることもできるだろうが、それでは話が大き過ぎる。一般化し過ぎて、この件の特異性が霞んでしまうように見える。
飯塚幸三は逮捕もされず在宅起訴で済まされており、「上級国民だからだ」と世間の反感を買った。飯塚幸三は元通商産業省官僚で、工業技術院長も務めている。瑞宝重光章も受勲している。
つまり、日本の工業技術を引き上げ、世界と競争できるレベルに押し上げる努力をする側の人間だ。その人間が、自分の事故の責任から逃れるために「プリウスが勝手に暴走した」と主張している。日本の工業技術を冒涜するにも程がある。当然ながら、技術を毀損されたトヨタは猛然と反発し、事故を起こした車に問題はなかったことを検分で明らかにしている。
おそらく「プリウスが勝手に暴走」という主張は、事実ではないし当人自身の言葉でもあるまい。事故直後から供述が変わり過ぎている。弁護士から知恵をつけられたのかもしれないし、連帯非難を嫌った省庁から何らかの手回しがあったのかもしれない。しかし、当人の言葉だろうがそうでなかろうが、これまで積み重ねたキャリアをすべて裏切るような言動をせざるを得なくなるほど、今回の事故の重篤性が高いということだ。高齢者の事故は、当人にとっても失うものが多い。その事例として、今回の一件は特にその部分が肥大して異様な様相を呈しているように見える。
事故後に119番通報もせず、救護措置もとらず、のんびり息子に電話していたのは、通産省時代から「なんか問題が起きたら部下に丸投げ」という基本体質があったからではないか。明らかに、常日頃から自分の行いに自分で責任を負い続けてきた人間のすることではない。起訴に至るまでの供述の変遷も、「自分は何と言えばいいのか」を周りに吹聴され、それをそのまま口にしているだけのように見える。被害者遺族が憤るのも当然だ。
今回の事件は決して、よくある「ボケた高齢者が交通事故を起こした」というだけの一件ではない。飯塚幸三という犯人の経歴・特質に起因する特殊な要素が多過ぎる。その特殊な事例に対して、一般的な原理原則が貫けなくなっていることが、本当の問題ではないのか。産経と日経が唱えているように「だから高齢者事故が起きないようにしましょう」というだけでは、今回の事件の総括としては過大に不足だろう。
(2021年9月3日 産経新聞社説)
「多面的な高齢運転者対策を」
(2021年9月3日 日本経済新聞社説)
痛ましい事件だった。遺族の心痛を思うと遣り切れない。
2019年4月19日、池袋の路上を暴走し、2名を殺し、10名の負傷者を出した飯塚幸三に対する判決が東京地裁で行われた。禁固5年の実刑判決。事件の重大さを考えると軽過ぎる判決だろう。
この判決に関して社説を載せたのは産経と日経の2紙だが、両方とも言っていることはおおむね同じ。犯行の悲惨さを訴えた末、「本当の問題はこのような高齢者による交通事故をいかにして防いでいくかだ」という、万人受けする着地点に無難にまとめている。
しかし今までこの件が世間で騒がれていたことから分かるように、この一件は単に「よくある高齢者事故」で片付けるには異様な点が多過ぎる。安易に一般化できるほど瑣末な事例ではない。両紙とも、その辺の特殊性を一切捨象している点が腑に落ちない。
飯塚幸三が世間の非難を浴びているのは、事故そのものよりも、事故後の無責任な態度による。
事故発生の直後には、のんびり息子に電話をしており、自分が撥ねた被害者を一切無視している。119番通報すらしていない。明確な救護義務違反だ。しかも事故を起こした言い訳として「予約したフレンチに遅刻しそうだった」などと嘯いていた。
さらに、事故を起こした原因についても供述が二転三転する。事故直後、飯塚幸三は「ブレーキが利かなかった」と話していたが、実況見分後の事情聴取では「最初に接触事故を起こし、パニック状態になってアクセルとブレーキを踏み間違えた可能性もある」と供述を変えている。さらに起訴される直前には「自分は一切運転を謝誤っていない。プリウスが勝手に暴走した」と言い張り、自分には全く過失が無いという主張をするに至った。
この事件の審議が長引いた理由は、飯塚幸三が一切自分の非を認めず、ひたすら「トヨタのプリウスが勝手に暴走して人を轢いた」と主張していたからだ。これが被害者遺族の心情を逆撫でし、世間の反感を買った。
僕は個人的に、今回の事件で後世に残すべき教訓は、この飯塚幸三のような無責任な高齢者の態度に対する施策をシステム化することだと思う。産経と日経が謳ってるように「高齢者の事故」という枠でこの件を捉えることもできるだろうが、それでは話が大き過ぎる。一般化し過ぎて、この件の特異性が霞んでしまうように見える。
飯塚幸三は逮捕もされず在宅起訴で済まされており、「上級国民だからだ」と世間の反感を買った。飯塚幸三は元通商産業省官僚で、工業技術院長も務めている。瑞宝重光章も受勲している。
つまり、日本の工業技術を引き上げ、世界と競争できるレベルに押し上げる努力をする側の人間だ。その人間が、自分の事故の責任から逃れるために「プリウスが勝手に暴走した」と主張している。日本の工業技術を冒涜するにも程がある。当然ながら、技術を毀損されたトヨタは猛然と反発し、事故を起こした車に問題はなかったことを検分で明らかにしている。
高齢者の引き起こす事故というのは、かように当人のそれまでの人生をすべて覆してしまうものなのだ。これが、今回の事件で一番異様な点だと思う。生涯をかけて日本の工業技術の推進に努めて、叙勲までされて、その果てが日本の工業界を貶める最低の主張だ。
おそらく「プリウスが勝手に暴走」という主張は、事実ではないし当人自身の言葉でもあるまい。事故直後から供述が変わり過ぎている。弁護士から知恵をつけられたのかもしれないし、連帯非難を嫌った省庁から何らかの手回しがあったのかもしれない。しかし、当人の言葉だろうがそうでなかろうが、これまで積み重ねたキャリアをすべて裏切るような言動をせざるを得なくなるほど、今回の事故の重篤性が高いということだ。高齢者の事故は、当人にとっても失うものが多い。その事例として、今回の一件は特にその部分が肥大して異様な様相を呈しているように見える。
僕はこの一件に関する報道をずっと追っていて、飯塚幸三が一度も自分の言葉で喋っていないように感じた。なんというか、基本的な態度が「家臣になんでも責任を取らせる『殿』」なのだ。世間で言われている「上級国民」という非難とさほど違わない。
事故後に119番通報もせず、救護措置もとらず、のんびり息子に電話していたのは、通産省時代から「なんか問題が起きたら部下に丸投げ」という基本体質があったからではないか。明らかに、常日頃から自分の行いに自分で責任を負い続けてきた人間のすることではない。起訴に至るまでの供述の変遷も、「自分は何と言えばいいのか」を周りに吹聴され、それをそのまま口にしているだけのように見える。被害者遺族が憤るのも当然だ。
ただの老人であろうと、元高級官僚であろうと、法を犯せばその立場は変わらない。犯した罪の前では、それまでのキャリアも人生も一切関係ない。それが今回の一件では、警察や検察の扱いもおかしいし、本人の振舞いもおかしい。判決も軽過ぎる。
今回の事件は決して、よくある「ボケた高齢者が交通事故を起こした」というだけの一件ではない。飯塚幸三という犯人の経歴・特質に起因する特殊な要素が多過ぎる。その特殊な事例に対して、一般的な原理原則が貫けなくなっていることが、本当の問題ではないのか。産経と日経が唱えているように「だから高齢者事故が起きないようにしましょう」というだけでは、今回の事件の総括としては過大に不足だろう。
全て失った状態で獄中で死ぬことになるだろう。
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「東京五輪閉幕 混迷の祭典 再生めざす機に」
(2021年8月9日 朝日新聞社説)
「東京五輪閉幕 輝き放った選手を称えたい」
(2021年8月9日 読売新聞社説)
「東京五輪が閉幕 古い体質を改める契機に」
(2021年8月9日 毎日新聞社説)
「東京五輪閉幕 全ての選手が真の勝者だ 聖火守れたことを誇りたい」
(2021年8月9日 産経新聞社説)
「「コロナ禍の五輪」を改革につなげよ」
(2021年8月9日 日本経済新聞社説)
日本人にとっては総括が難しいオリンピックだったと思う。東京五輪招致が決定した時には、日本人の誰もがバラ色の2020年を夢見ていた。前回の東京大会の成功体験が大きい世代も存命している。コロナウィルスという全世界的な危機的状況でオリンピックを迎えることになるとは誰も思っていなかった。
今回の五輪開催には反対意見も多かった。災害復興を謳った五輪にもかかわらず、伝染病拡大という「災害」の最中に開催を強行する、という矛盾した図式が一番の理由だが、それだけではあるまい。開催直前になっての大会役員・企画参与者の不適切な言動が国民の神経を逆撫でした、という「人災」の面も多かろう。
開催をめぐる駆け引きの中で、IOCの態度も日本国民の感情を逆撫でした。かねてから指摘されていたことだが、今のオリンピックは金がかかりすぎている。余計なところに金をかけ過ぎ、開催のハードルは回を追うごとに膨らみ続けている。今回の開催強行に際してのIOCの独善的な姿勢、かつ責任は一切取らないという一方的な構造は、オリンピックのあり方がすでに限界に近づいていることを世界中に露呈した。少なくとも多くの日本人はIOCに対して良い感情を持たなかった。
こうした国民感情を受け、マスコミは五輪前、開催に否定的な意見が多かった。それがいざ実際に開幕してみると、日本勢のメダルラッシュを受けて手のひらを返したように五輪絶賛に論調を変えた。
これに対してマスコミの姿勢を非難する声が多いが、マスコミとて理念と現実の突き合わせに苦悩する毎日だっただろう。開催前であれば、中止を求めるのはやむを得ない面がある。コロナウィルスの感染状況とは別に、実際問題として各種イベントをはじめ、学校行事、集会、催し物はことごとく中止に追い込まれていたのだ。それなのに五輪だけ特別扱いして開催というのは筋が通らない。国民感情に合わない。
しかし、だからといって開催が強行されてからも「五輪断固反対」を叫び続けるのは、現実問題として何も生むまい。五輪開催前の日本のニュースは、不愉快なことばかりだった。その主な理由が五輪運営側の不手際や不祥事とあれば、なおさらだ。五輪開催前の日本は、すでに日本国内だけの力で、国民の意識を上向かせるだけの良いニュースを生み出す力を失っていた。誰もが誰かを非難し、他人の非を責めることにより鬱憤を晴らす、ぎすぎすした嫌な感情が国中に渦巻いている感じだった。
そこへ来ての日本選手の大活躍だ。開催前に「五輪反対を叫んでいた」という理由だけで、開催後も五輪に批判的な論調を繰り返すのでは、いま唯一日本に与えられている「明るいニュースで世の中を上向かせる」という機会を、自ら逸してしまうことになろう。マスコミの「手のひら返し」を批判する人達は、五輪開催前の「ぎすぎすした世の中」が延々と続くことがお望みだったのだろうか。
マスコミの側にも問題はある。マスコミが延々と五輪反対キャンペーンを打っていたのは、政権批判のためだ。五輪批判の論調は、必ず着地点として「都政」「国政」の失策をあげつらっていた。マスコミにとって五輪批判はいわば「目的ありきの手段」だったため、簡単に方向転換ができる代物ではなかった。マスコミが政治と関係なく、本当にコロナウィルス感染拡大と開催リスクだけを問題にしていれば、開催後の方針転換も容易だったはずだ。マスコミの報道姿勢が叩かれたのは、かねてから五輪の論じ方が歪んでいたため、そのツケを自ら払わされたという面がある。
今回の日本代表選手団は、過去最高のメダル数を獲得し、躍進した。これはいわば「不幸中の幸い」だ。確かに日本は連日メダルラッシュに沸いた。良いニュースで国民の精神的健康も上向いた。しかし、感染拡大に関する五輪前の「課題」は何ひとつ解決しておらず、却って悪化している。五輪という夢から醒めたら、日本はまた以前と同じ課題に向き合わなければならなくなる。
まとめると、今回の五輪に関する良し悪しは、こんなところだろう。
各新聞の社説を見ると、これらを統括して全体をうまくまとめている社説は少ない。
まず読売新聞と産経新聞は論外だ。手放しの五輪讃歌。万々歳のハッピー論調。すごいぞ日本選手、すごいぞオリンピック。能天気にも程がある。一応ちょろっと「問題点」を書いてはいるが、単なる予防策に過ぎない程度の書き方であって、全体的な論調は「五輪大成功」だ。これでは今回の五輪を通して日本国民が学ぶべきことを啓発できまい。
これは純然たる「社の立場」だろう。例えば読売新聞は、「天皇」のナベツネをはじめ経営陣がすべて五輪利権を受ける側だから、五輪をゴリゴリ押すのは当たり前だ。今回の五輪の総括に関しては、読むに値しない社説と断じていい。
上に挙げた「よいところ」「わるいところ」をわりと万遍なく掬い取って総括しているのは朝日新聞と日本経済新聞だが、視点と文章力の両方の面で、朝日新聞のほうが上だろう。
朝日新聞は以前、五輪開催に反対していた。2021年5月26日の社説「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」では五輪中止を強く訴える意見を掲載している。今回の社説では、朝日新聞は「社会情勢としては五輪開催に反対」と「いざ五輪が始まったら日本人選手が大活躍」の報じ方に葛藤があることを正直に書いている。
こういう書き方を「矛盾だ」と非難する向きもあろう。多くの国民が、開催前の「五輪に対する嫌悪感」と、開催後の「日本バンザイ」の感情を自分の中にうまく落し込むことに苦心していたのではないか。
今回のオリンピックは、どのみち伝染病という惨禍の中での強行開催なので、国民全員が何らかの葛藤を抱えたまま実施を受け入れなければならない大会だったのだ。その葛藤を自分の中で消化する能力の無い者が、やたらと他人を批判の矛先として口汚く罵り合って憂さ晴らしをする。今回のオリンピックを自分なりに統括することは、日本人にとっては難しいことだが、いまの日本にはこういう能力が全体的に欠けていることが明らかになったと思う。
まず「わるいこと」だが、朝日新聞は全体としては五輪反対の論調なので、その詳細を主として論じている。
どれも「そのとおり」と頷くしかない指摘だ。日本選手の活躍に喜ぶ感情とは別に、これらの問題は厳然として存在することは認めなくてはならない。これは五輪に限った問題ではなく、今後も日本におけるイベント開催、コロナとの付き合い方に直結する、普遍的な問題だ。
一方で朝日新聞は「よいところ」について、「新種目」と「選手の精神的衛生面」に関しておもしろいことを言っている。
正直なところ、今回の各紙の社説で僕が朝日新聞が一番良いと思った根拠は、ここの部分だ。
五輪開催前、日本のテニス選手、大坂なおみが精神的状況を理由に全仏オープンの記者会見を拒否したことが問題になっていた。テニスの4大大会では選手のメディア対応はルール化された義務であり、これを拒否することはできない。大坂なおみはこれを拒絶し、批判されるや後出しの形で「鬱病」というカードで世論の非難をかわそうとする姿勢をとった。
それを受ける形で、五輪では女子体操の「絶対女王」シモーン・バイルスが「心の健康を何より優先するため」という理由で競技を棄権した。これは要するに、従来の言い方をすれば「プレッシャーに負けた」というだけのことだろう。しかし、こういう競技に対する姿勢は個人だけの問題ではなく、その国、その競技に関わる構造的な問題という面もあろう。競技の歴史が長い伝統的なものであればあるほど、そうした柵は大きいものとなる。
だから、10代の選手が朗らかに技を競う新競技がオリンピックに向かう選手のあり方そのものを変える契機になるかもしれない、という指摘は優れた視点だと思う。スケートボード、サーフィン、スポーツクライミングなどの新競技は、日本人が躍進したこともあり、注目を集めた。それらの競技で、試技が終わった選手に対して、国籍・チーム関係なく健闘を称え合う様子は、他の競技で見られないものだった。そこには「オリンピック新競技採用までの道のりをともに戦ってきた『仲間』」という意識もあったと思う。しかしそれ以前に、そういう競技ではそもそもお互いを「競技仲間」と考え、凄い技には無条件に敬意を払う、という文化が根ざしているように見える。
前回の東京オリンピックは露骨に国威発揚の場だった。選手は「お国のために」戦い、戦後でありながら戦時中であるような重苦しい悲壮感が漂っていた。男子マラソンで競技場のゴール直前に抜かれて3位になった円谷幸吉は、家族・国民・マスコミの集中砲火を受けて自殺に追い込まれている。
そういう「国威発揚型」の動機付けでは、もはや優れた成績を残すことはできない、ということだろう。国威発揚型の典型は、オリンピックの成績が生涯の保証につながった旧東欧諸国だが、そのような社会システムはすでに存在しない。スポーツで良い成績をあげ、長く競技を続けるために必要なものは何か、今回のオリンピックでは顕在化した感がある。
どの新聞もとりたてて指摘していないが、今回からオリンピックの新しい面として、視聴者にとって「ただ観るだけのもの」ではなく、「観る側の姿勢が問われるもの」という、双方向のものになったということが挙げられる。
つまり、SNSによる選手個人への誹謗中傷の攻撃。国によっては組織的と思われる大量の中傷コメントで、対戦国の相手を貶める行為が続発した。多くの選手がそうした個人的な中傷攻撃に対する抗議の声をあげている。
これは、今回の五輪開催に際して「開催するべきではないという社会情勢」と「開催後の興奮と喜び」をうまく自分の中で消化できない幼稚な精神性と、根が同じ問題だ。誰だって、応援している自国の選手が敗れれば面白くない。しかし、それを自分の中で消化できず、負の感情をそのまま相手にぶつける。幼稚というよりも粗野だ。人間社会で生活し、他人と共存する根本的な姿勢を根底から放棄している。
現在は情報技術が発達し、自分の思っていることを広く世に知らしめ、特定の個人に思いを届けることが簡単になっている。その情報技術を誤った方向に振りかざし、「自分がイヤだった」というだけの理由で他人を安易に傷つける行為は、罰則に値する愚行だろう。世の中には法整備によって実刑が課されないと行為の善悪が判断できない低俗な人間が多い。それらの行為を厳禁するルール作りは今後の課題だろう。
オリンピックは終わった。普段の日常に戻った日本に残された現実は、悪化した感染拡大だ。日本と世界は根本的な問題を解決すること無しに、犠牲を承知の上で五輪を開催するという道を選んだ。選んだ以上は、その後に残されたものに適切に対処する義務がある。それを対処せずに放り出すような真似は許されない。そこまで含めて「五輪開催」の範疇だろう。どれほどの具体策を打てるのか、今後も注視する必要がある。
(2021年8月9日 朝日新聞社説)
「東京五輪閉幕 輝き放った選手を称えたい」
(2021年8月9日 読売新聞社説)
「東京五輪が閉幕 古い体質を改める契機に」
(2021年8月9日 毎日新聞社説)
「東京五輪閉幕 全ての選手が真の勝者だ 聖火守れたことを誇りたい」
(2021年8月9日 産経新聞社説)
「「コロナ禍の五輪」を改革につなげよ」
(2021年8月9日 日本経済新聞社説)
日本人にとっては総括が難しいオリンピックだったと思う。東京五輪招致が決定した時には、日本人の誰もがバラ色の2020年を夢見ていた。前回の東京大会の成功体験が大きい世代も存命している。コロナウィルスという全世界的な危機的状況でオリンピックを迎えることになるとは誰も思っていなかった。
今回の五輪開催には反対意見も多かった。災害復興を謳った五輪にもかかわらず、伝染病拡大という「災害」の最中に開催を強行する、という矛盾した図式が一番の理由だが、それだけではあるまい。開催直前になっての大会役員・企画参与者の不適切な言動が国民の神経を逆撫でした、という「人災」の面も多かろう。
開催をめぐる駆け引きの中で、IOCの態度も日本国民の感情を逆撫でした。かねてから指摘されていたことだが、今のオリンピックは金がかかりすぎている。余計なところに金をかけ過ぎ、開催のハードルは回を追うごとに膨らみ続けている。今回の開催強行に際してのIOCの独善的な姿勢、かつ責任は一切取らないという一方的な構造は、オリンピックのあり方がすでに限界に近づいていることを世界中に露呈した。少なくとも多くの日本人はIOCに対して良い感情を持たなかった。
こうした国民感情を受け、マスコミは五輪前、開催に否定的な意見が多かった。それがいざ実際に開幕してみると、日本勢のメダルラッシュを受けて手のひらを返したように五輪絶賛に論調を変えた。
これに対してマスコミの姿勢を非難する声が多いが、マスコミとて理念と現実の突き合わせに苦悩する毎日だっただろう。開催前であれば、中止を求めるのはやむを得ない面がある。コロナウィルスの感染状況とは別に、実際問題として各種イベントをはじめ、学校行事、集会、催し物はことごとく中止に追い込まれていたのだ。それなのに五輪だけ特別扱いして開催というのは筋が通らない。国民感情に合わない。
しかし、だからといって開催が強行されてからも「五輪断固反対」を叫び続けるのは、現実問題として何も生むまい。五輪開催前の日本のニュースは、不愉快なことばかりだった。その主な理由が五輪運営側の不手際や不祥事とあれば、なおさらだ。五輪開催前の日本は、すでに日本国内だけの力で、国民の意識を上向かせるだけの良いニュースを生み出す力を失っていた。誰もが誰かを非難し、他人の非を責めることにより鬱憤を晴らす、ぎすぎすした嫌な感情が国中に渦巻いている感じだった。
そこへ来ての日本選手の大活躍だ。開催前に「五輪反対を叫んでいた」という理由だけで、開催後も五輪に批判的な論調を繰り返すのでは、いま唯一日本に与えられている「明るいニュースで世の中を上向かせる」という機会を、自ら逸してしまうことになろう。マスコミの「手のひら返し」を批判する人達は、五輪開催前の「ぎすぎすした世の中」が延々と続くことがお望みだったのだろうか。
マスコミの側にも問題はある。マスコミが延々と五輪反対キャンペーンを打っていたのは、政権批判のためだ。五輪批判の論調は、必ず着地点として「都政」「国政」の失策をあげつらっていた。マスコミにとって五輪批判はいわば「目的ありきの手段」だったため、簡単に方向転換ができる代物ではなかった。マスコミが政治と関係なく、本当にコロナウィルス感染拡大と開催リスクだけを問題にしていれば、開催後の方針転換も容易だったはずだ。マスコミの報道姿勢が叩かれたのは、かねてから五輪の論じ方が歪んでいたため、そのツケを自ら払わされたという面がある。
今回の日本代表選手団は、過去最高のメダル数を獲得し、躍進した。これはいわば「不幸中の幸い」だ。確かに日本は連日メダルラッシュに沸いた。良いニュースで国民の精神的健康も上向いた。しかし、感染拡大に関する五輪前の「課題」は何ひとつ解決しておらず、却って悪化している。五輪という夢から醒めたら、日本はまた以前と同じ課題に向き合わなければならなくなる。
まとめると、今回の五輪に関する良し悪しは、こんなところだろう。
よいところ
・日本人選手がめちゃくちゃ活躍した
・新競技おもしろかった
・日本で久々の大規模イベントに参加できた感
わるいところ
・オリンピック、金かかりすぎ
・IOCムカつく
・コロナの状況が依然として最悪
・性別、精神保全、SNS誹謗中傷など、オリンピックの新しい問題
各新聞の社説を見ると、これらを統括して全体をうまくまとめている社説は少ない。
まず読売新聞と産経新聞は論外だ。手放しの五輪讃歌。万々歳のハッピー論調。すごいぞ日本選手、すごいぞオリンピック。能天気にも程がある。一応ちょろっと「問題点」を書いてはいるが、単なる予防策に過ぎない程度の書き方であって、全体的な論調は「五輪大成功」だ。これでは今回の五輪を通して日本国民が学ぶべきことを啓発できまい。
これは純然たる「社の立場」だろう。例えば読売新聞は、「天皇」のナベツネをはじめ経営陣がすべて五輪利権を受ける側だから、五輪をゴリゴリ押すのは当たり前だ。今回の五輪の総括に関しては、読むに値しない社説と断じていい。
上に挙げた「よいところ」「わるいところ」をわりと万遍なく掬い取って総括しているのは朝日新聞と日本経済新聞だが、視点と文章力の両方の面で、朝日新聞のほうが上だろう。
朝日新聞は以前、五輪開催に反対していた。2021年5月26日の社説「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」では五輪中止を強く訴える意見を掲載している。今回の社説では、朝日新聞は「社会情勢としては五輪開催に反対」と「いざ五輪が始まったら日本人選手が大活躍」の報じ方に葛藤があることを正直に書いている。
朝日新聞の社説は5月、今夏の開催中止を菅首相に求めた。努力してきた選手や関係者を思えば忍びない。万全の注意を払えば大会自体は大過なく運営できるかもしれない。だが国民の健康を「賭け」の対象にすることは許されない。コロナ禍は貧しい国により大きな打撃を与えた。スポーツの土台である公平公正が揺らいでおり、このまま開催することは理にかなわない。そう考えたからだ
(朝日社説)
一方で、本来のオリンピズムを体現したアスリートたちの健闘には、開催の是非を離れて心からの拍手を送りたい。極限に挑み、ライバルをたたえ、周囲に感謝する姿は、多くの共感を呼び、スポーツの力を改めて強く印象づけた。迫害・差別を乗り越えて参加した難民や性的少数者のプレーは、問題を可視化させ、一人ひとりの人権が守られる世界を築くことの大切さを、人々に訴えた
(同)
こういう書き方を「矛盾だ」と非難する向きもあろう。多くの国民が、開催前の「五輪に対する嫌悪感」と、開催後の「日本バンザイ」の感情を自分の中にうまく落し込むことに苦心していたのではないか。
今回のオリンピックは、どのみち伝染病という惨禍の中での強行開催なので、国民全員が何らかの葛藤を抱えたまま実施を受け入れなければならない大会だったのだ。その葛藤を自分の中で消化する能力の無い者が、やたらと他人を批判の矛先として口汚く罵り合って憂さ晴らしをする。今回のオリンピックを自分なりに統括することは、日本人にとっては難しいことだが、いまの日本にはこういう能力が全体的に欠けていることが明らかになったと思う。
まず「わるいこと」だが、朝日新聞は全体としては五輪反対の論調なので、その詳細を主として論じている。
懸念された感染爆発が起き、首都圏を中心に病床は逼迫(ひっぱく)し、緊急でない手術や一般診療の抑制が求められるなど、医療崩壊寸前というべき事態に至った。
これまでも大会日程から逆算して緊急事態宣言の期間を決めるなど、五輪優先・五輪ありきの姿勢が施策をゆがめてきた。コロナ下での開催意義を問われても、首相からは「子どもたちに希望や勇気を伝えたい」「世界が一つになれることを発信したい」といった、漠とした発言しか聞こえてこなかった
今回の大会は五輪そのものへの疑念もあぶり出した。五輪競技になることで裾野を広げようとする競技団体と、大会の価値を高めたいIOCや開催地の思惑が重なって、過去最多の33競技339種目が実施され、肥大化は極限に達した
延期に伴う支出増を抑えるため式典の見直しなどが模索されたが実を結ばず、酷暑の季節を避ける案も早々に退けられた。背景に、放映権料でIOCを支える米テレビ局やスポンサーである巨大資本の意向があることを、多くの国民は知った。財政負担をはじめとする様々なリスクを開催地に押しつけ、IOCは損失をかぶらない一方的な開催契約や、自分たちの営利や都合を全てに優先させる独善ぶりも、日本にとどまらず世界周知のものとなった
どれも「そのとおり」と頷くしかない指摘だ。日本選手の活躍に喜ぶ感情とは別に、これらの問題は厳然として存在することは認めなくてはならない。これは五輪に限った問題ではなく、今後も日本におけるイベント開催、コロナとの付き合い方に直結する、普遍的な問題だ。
一方で朝日新聞は「よいところ」について、「新種目」と「選手の精神的衛生面」に関しておもしろいことを言っている。
選手の心の健康の維持にもかつてない注目が集まった。過度な重圧から解放するために、国を背負って戦うという旧態依然とした五輪観と決別する必要がある。10代の選手が躍動したスケートボードなどの都市型スポーツは、その観点からも示唆を与えてくれたように思う。
正直なところ、今回の各紙の社説で僕が朝日新聞が一番良いと思った根拠は、ここの部分だ。
五輪開催前、日本のテニス選手、大坂なおみが精神的状況を理由に全仏オープンの記者会見を拒否したことが問題になっていた。テニスの4大大会では選手のメディア対応はルール化された義務であり、これを拒否することはできない。大坂なおみはこれを拒絶し、批判されるや後出しの形で「鬱病」というカードで世論の非難をかわそうとする姿勢をとった。
それを受ける形で、五輪では女子体操の「絶対女王」シモーン・バイルスが「心の健康を何より優先するため」という理由で競技を棄権した。これは要するに、従来の言い方をすれば「プレッシャーに負けた」というだけのことだろう。しかし、こういう競技に対する姿勢は個人だけの問題ではなく、その国、その競技に関わる構造的な問題という面もあろう。競技の歴史が長い伝統的なものであればあるほど、そうした柵は大きいものとなる。
だから、10代の選手が朗らかに技を競う新競技がオリンピックに向かう選手のあり方そのものを変える契機になるかもしれない、という指摘は優れた視点だと思う。スケートボード、サーフィン、スポーツクライミングなどの新競技は、日本人が躍進したこともあり、注目を集めた。それらの競技で、試技が終わった選手に対して、国籍・チーム関係なく健闘を称え合う様子は、他の競技で見られないものだった。そこには「オリンピック新競技採用までの道のりをともに戦ってきた『仲間』」という意識もあったと思う。しかしそれ以前に、そういう競技ではそもそもお互いを「競技仲間」と考え、凄い技には無条件に敬意を払う、という文化が根ざしているように見える。
前回の東京オリンピックは露骨に国威発揚の場だった。選手は「お国のために」戦い、戦後でありながら戦時中であるような重苦しい悲壮感が漂っていた。男子マラソンで競技場のゴール直前に抜かれて3位になった円谷幸吉は、家族・国民・マスコミの集中砲火を受けて自殺に追い込まれている。
そういう「国威発揚型」の動機付けでは、もはや優れた成績を残すことはできない、ということだろう。国威発揚型の典型は、オリンピックの成績が生涯の保証につながった旧東欧諸国だが、そのような社会システムはすでに存在しない。スポーツで良い成績をあげ、長く競技を続けるために必要なものは何か、今回のオリンピックでは顕在化した感がある。
どの新聞もとりたてて指摘していないが、今回からオリンピックの新しい面として、視聴者にとって「ただ観るだけのもの」ではなく、「観る側の姿勢が問われるもの」という、双方向のものになったということが挙げられる。
つまり、SNSによる選手個人への誹謗中傷の攻撃。国によっては組織的と思われる大量の中傷コメントで、対戦国の相手を貶める行為が続発した。多くの選手がそうした個人的な中傷攻撃に対する抗議の声をあげている。
これは、今回の五輪開催に際して「開催するべきではないという社会情勢」と「開催後の興奮と喜び」をうまく自分の中で消化できない幼稚な精神性と、根が同じ問題だ。誰だって、応援している自国の選手が敗れれば面白くない。しかし、それを自分の中で消化できず、負の感情をそのまま相手にぶつける。幼稚というよりも粗野だ。人間社会で生活し、他人と共存する根本的な姿勢を根底から放棄している。
現在は情報技術が発達し、自分の思っていることを広く世に知らしめ、特定の個人に思いを届けることが簡単になっている。その情報技術を誤った方向に振りかざし、「自分がイヤだった」というだけの理由で他人を安易に傷つける行為は、罰則に値する愚行だろう。世の中には法整備によって実刑が課されないと行為の善悪が判断できない低俗な人間が多い。それらの行為を厳禁するルール作りは今後の課題だろう。
オリンピックは終わった。普段の日常に戻った日本に残された現実は、悪化した感染拡大だ。日本と世界は根本的な問題を解決すること無しに、犠牲を承知の上で五輪を開催するという道を選んだ。選んだ以上は、その後に残されたものに適切に対処する義務がある。それを対処せずに放り出すような真似は許されない。そこまで含めて「五輪開催」の範疇だろう。どれほどの具体策を打てるのか、今後も注視する必要がある。
文句言いながら競技を観ても全然面白くなかろう。
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【小林賢太郎氏 コメント全文】
小林賢太郎と申します。私は元コメディアンで、引退後の今はエンターテインメントに裏方として携わっております。
かつて私が書いたコントのせりふの中に、不適切な表現があったというご指摘をいただきました。確かにご指摘の通り、1998年に発売された若手芸人を紹介するビデオソフトの中で、私が書いたコントのせりふに、極めて不謹慎な表現が含まれていました。
ご指摘を受け、当時のことを思い返しました。思うように人を笑わせられなくて、浅はかに人の気を引こうとしていた頃だと思います。その後、自分でもよくないと思い、考えを改め、人を傷つけない笑いを目指すようになっていきました。
人を楽しませる仕事の自分が、人に不快な思いをさせることはあってはならないことです。当時の自分の愚かな言葉選びが間違いだったことを理解し、反省しています。不快に思われた方々におわび申し上げます。申し訳ありませんでした。
先ほど組織委員会から、ショーディレクター解任のご連絡をいただきました。これまでこの式典に携わらせていただいたことに感謝いたします。
(加藤元浩『Q.E.D. 証明終了』vol.46)
安易な道には必ず落とし穴がある。
2021年5月13日放送の『秘密のケンミンSHOW極』(日本テレビ系列)で、面白い企画をやっていた。
「ヒミツのKYOTO 極 【京都府】 」と題して、京都の住所のわかりにくさの特集だ。
京都市内の住所は、一般的な区画制ではなく、碁盤目状に区切られた通りのタテ列とヨコ列の組み合わせ、さらにその交差点からどっちに入るのか、さらにその先にある町名、で構成されている。
だから京都市では、最後に記される「町名」にあまり意味がない。
京都市内の住所では、前半部分の「どの通りと、どの通りの交わりか」が重要であって、町名というのはその場所につけられた便宜上の符号でしかない。だから京都市内に同じ町名がたくさん重複している。
「住所は亀屋町です」というと「どこのですか?」と訊かれる
ピザ屋の配達も困るらしい
プロのタクシードライバーにしてこの一刀両断
京都の住所がかようにややこしいのは、「町名」の区切り方が一般とは異なっていることに拠る。
ふつう「町」というのは、道路で区切られた区画のことを指す。ところが京都では、「町」の区画が道路によって区切られておらず、道路をまたいで同じ町が広がっている。町の区切りが目に見える道路ではないため、町の境目が分かりにくい。タクシードライバーが認識していないもの無理はない。
普通はこう。
京都はこう。
町名が通りを挟んでいる。
(資料は「山と終末旅」さまからお借りしました)
なぜ、京都ではこのように複雑な町名の付け方になっているのか。
それと全く同じ問いが、東京大学の入試問題、2020年の日本史[2]で問われている。
京都の夏の風物詩である祇園祭で行われる山鉾巡行は、数十基の山鉾が京中を練り歩く華麗な行事として知られる。16世紀の山鉾巡行に関する次の(1)〜(4)の文章を読んで、書きの設問に答えなさい。
(1)1533年、祇園祭を延期するように室町幕府が命じると、下京の六十六町の月行事たちは、山鉾の巡行は行いたいと主張した。
(2)下京の各町では、祇園祭の山鉾を確実に用意するため、他町の者へ土地を売却することを禁じるよう幕府に求めたり、町の十人に賦課された「祇園会出銭」から「山の綱引き賃」を支出したりした。
(3)上杉本「洛中洛外図屏風」に描かれている山鉾巡行の場面を見ると(図1)、人々に綱で引かれて長刀鉾が右方向へと進み、蟷螂(かまきり)山、傘鉾があとに続いている。
(4)現代の京都市街図をみると(図2)、通りをはさむように町名が連なっている。そのなかには、16世紀にさかのぼる町名もみえる。
設問
16世紀において、山鉾はどのように運営され、それは町の自治のあり方にどのように影響したのか。5行以内で述べなさい。
教科書でしか日本史を勉強していない受験生にとっては「なんじゃこりゃ」という問題だろう。日本史の教科書には、祇園祭の山鉾巡行なんて出てこない。「なんでこれが日本史の問題なんだ」と訝る受験生も多いだろう。
しかしこの問題には、東大の「なぜ日本史を学ばなくてはならないのか」という基本姿勢が明確に打ち出されている。
まず東大の入試問題の常識として、設問のヒントに無駄な記述は一切ない。つまり合格答案は、与えられた条件をすべて使い切ったものでなければならない。4つのヒントと2つの図、それらをすべて汲み取った答案だけが、合格答案となる。
まず(1)の文から、当時の町民は、幕府の命令に対して平然と異を唱えるほど力をもっていたことが分かる。なにせ「祇園祭の延期」という幕府の命令に平然と楯突いたのだ。
ちなみに1533年の幕府の祇園祭禁止令は、比叡山延暦寺の働きかけによるものだった。もともと祇園祭は疫神による死者の怨霊を鎮めるための鎮魂祭(御霊会)だったが、その主体があちこち移った挙句、最終的に現在の八坂神社に落ち着いた。八坂神社は比叡山延暦寺の末寺だったため、「本家」の延暦寺の山王祭が行われない時は、右に倣えで祇園祭も中止になることが多かった。それに加えて1533年は応仁の乱の中断後という事情もあった。
山鉾巡行というのは、要するに祇園祭のアトラクションのひとつだ。鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じた。今でいう御神輿や山車の類いと思えば当たらずとも遠からず。その巡行を行うのは八坂神社の宮司ではなく、当時経済力をつけてきた町人だ。
つまり、祇園祭を中止にするというお達しがあったにも関わらず、(1)のように「山鉾の巡行はやらせてくれ」というのは、本来であれば本末転倒なのだ。お祭りが中止なのに御神輿だけが町を練り歩くことになる。つまり(1)の記述からは、16世紀にはすでに祇園祭が変質しており、鎮魂祭である祭りそのものよりも、町人が練り歩くアトラクションのほうが主体となっていたことが分かる。
(2)の記述からは、祇園祭のアトラクション・山鉾巡行によって、京都の町民がどのように団結していったのか、その仕組みが分かる。要するに人と人の結びつきの原理が「血縁」ではなく「地縁」だった、ということだ。農村のような血縁関係による家族的共同体構成ではなく、「その土地に住み着いた人達」が団結して共同体をつくる。だから「土地の売却」は、集団の秩序に反するものとして御法度となった。
その自治組織のメンバーから山鉾巡行の資金を徴収するということは、山鉾が「地縁」による結びつきを象徴し、強固にするための機能を果たしていたということを意味する。教科書的な記述では「経済力を強めてきた町人たちは、自分達で自治の費用を出し合って、自ら共同体の主体としての力を行使した」ということになる。ここに至って山鉾巡行は単なる祭りのアトラクションではなく、共同体存続のための重要な位置づけを占めるようになった。そりゃ幕府の禁止令にも背くわけだ。
資料(3)(4)は、図1,2と連動して読まなければならない。図2の現在の京都の地図を見ると、「傘鉾町」「蟷螂山町」「長刀鉾町」など、(3)の記述にある山鉾チームの名前がそのまま町名として確認できる。これは、町ひとつの共同体が、山鉾巡行を行う単位として現在に残っていることを示している。
また図1の山鉾巡行の様子をみると、まさに現在の山車と同じで、通りに沿ってワッショイワッショイと練り歩く様子が分かる。つまり山鉾巡行では「通り」が重要なのだ。図2の地図を見て分かる通り、現在の京都の町名は、通りをはさんでその両隣に広がっている。このような成り立ちの町を「両側町」という。このように山鉾巡行の路である「通り」を基体として、その両側に共同体としての「町」を構成した。
つまり、『秘密のケンミンSHOW極』の特集、「なぜ京都の住所はこんなに複雑なのか」という疑問に対して、東大入試の日本史の問題は「室町時代の祇園祭で行われた山鉾巡行の名残り」という答えを用意している。昔のことを紐解くと、なぜ今そうなっているのかが分かる。
(こたえ)
山鉾は町ごとに所有し町民が管理するものであり、自分達で費用を負担し自らを担い手として巡行が行われた。町の通りは山鉾の通路として重要な位置を占め、その通りを挟んで地縁による結びつきで住人が団結し、山鉾の名を冠する町名をつけるに至った。そうした町は共同体としての自治意識が高く、山鉾の費用徴収や土地売買の禁止により連携を強め、町組や惣町を形成していった。
「歴史なんて、今になっては関係ない知識なんだから、学校で習う必要はない」などと嘯く輩は多い。
また、昨今の東大生を回答者としたクイズ番組のブームによって、東大生を「普通の人は知らないような知識を記憶している『暗記お化け』」と思い込んでいる輩も多い。
この東大日本史の問題は、そういう傾向に対して「馬鹿じゃねぇの?」と挑発的に問題を突きつけているように見える。
この東大日本史の問題を見て、「そんなこと学校で習っていない」という文句を言う人もいるだろう。しかし、こうしたことが日本史の教科書に載っていないかというと、そんなことはない。ちゃんと書いてある。
16世紀の室町時代の世情について、歴史の教科書には「富裕な商工業者である町衆が自治の担い手となり、町を自治単位として独自の町法を定めた」というようなことが書いてある。
教科書のこうこう記述は、まぁ、だいたいの高校生が読み飛ばす。「単語」で「記憶」できる情報形態ではないからだ。
高校生の多くは、歴史の勉強を「情報を記憶すること」と思い込んでいる。聖徳太子といえば「十七条憲法」「冠位十二階」、織田信長といえば「楽市楽座」などの名称を覚える。彼らがその用語を暗記したがるのは、歴史上それらの概念が重要だからではなく、「名詞の用語として記憶できる便利な情報形態だから」に過ぎない。
だから、受験生の多くは経済史に弱い。経済史というのは「その時代の背景となる趨勢」のことであって、なにか特別の事件やできごとが起こるわけではない。つまり「用語一発で覚えることができない分野」なのだ。そういう時代の抽象概念を、現在につながる流れの一部として体系的に理解するには、相当に高度な思考作業が必要となる。
ところが高校生は「抽象概念を具体的事象に投影させて、さらにそれを再び抽象概念に一般化しなおすことによって概念への理解を深める」という思考作業を行う能力がない。刺激や情報に反応するだけなら猿でもできる。歴史の勉強といえば「単語頼りの暗記」一辺倒の高校生は、猿並みの進化段階と言える。
現役の東大生が出演しているクイズ番組が、あんなに「知識」「情報の暗記」にフォーカスを当てるのは、それが番組の構成にとって便利な情報形態だからだ。「問題です」と始め、問題文を読み上げ、回答者が早押しで「◯◯◯◯っ!」と短い単語を答える。非常にリズムがよい。見ている視聴者が飽きない。クイズ番組が描く「東大生」というのは、単に「情報形態としての『用語』をいっぱい暗記している学生」であって、東大入試が問う「論理を武器にして抽象的な概念を具体化する能力をもつ学生」ではない。そのほうが番組が作りやすいからだ。クイズ番組と東大入試では、求めているものがそもそも違う。
もちろんクイズ番組に出演している東大生は、東大の問う問題に合格しているのだから、東大入試とクイズ番組では求められている知識の質が違うということくらい百も承知だろう。そこを「いや、本当の勉強というのはこういうものじゃないんですよ」などと番組内で小賢しく高説を垂れない辺りは、彼等の頭の良さだろう。クイズ番組を単なるゲームとして割り切って、自分の知的領域の拡大とは別物として考える。東大生くらいならその程度の割り切りはできて当然だ。
普段から「日本史なんて現代では関係ない知識なんだから習っても無駄だ」などと嘯く輩に限って、今回のような東大日本史の問題を「学校ではこんなこと習ってない」と文句を言う。東大が問うているのは、「歴史というものは、何らかの形で現在に影響を及ぼしている。その変遷の筋道を辿ることができるのか」ということだ。「歴史不要」厨があまりにも歴史を「役に立たない」「役に立たない」と連呼するので、「じゃあ役に立つところを見せてやろうじゃないか」という挑発的な問題だ。東大の問題が解けないのであれば、「日本史の知識なんて役に立たない」のではない。人の側に「歴史の知識を役に立たせる程度の能力すら無い」のだ。
京都の住所がわかりにくい、ということそのものは『秘密のケンミンSHOW極』のような卑近なバラエティ番組のネタにもなるような、面白い現象だ。だが、その根源をたどっていくと室町時代の山鉾巡行という、一見何の関係もなさそうな歴史的事実に突き当たる。その両端を埋めるための間の過程を推理し、それに象徴される時代の姿を想像すること、それが「歴史を勉強する」ということだ。決して、クイズ問題に答えるために歴史用語を頭に詰め込むことが「歴史の勉強」ではない。
大学全入時代となり、世間には大学を卒業している人も多くなった。しかし相変わらず、東大入試というと「百科辞典の隅から隅まで暗記していなければ答えられない超難問」のような勘違いをしている人が多い。知の体系の本質は、情報を溜め込むことにあるのではなく、自ら知を創り出すことにある。その辺を勘違いしている人が、自己啓発とやらの目的で「勉強」を始めたとしても、苦しいばかりで得られるものなど何もあるまい。
コロナのせいで2年連続で中止になりましたね。
1000以下の素数は250個以下であることを示せ。
2021年、一橋大学の入試問題。ついこないだ出題されたばかりのホヤホヤ。
問題はたった1行。ぶっきらぼうにも程があるが、問題としてはなかなか面白い。
素数を手計算で簡単に並べ上げるアルゴリズムは無いから、余事象をとって「素数ではないものが750個以上ある」ことを示すことになる。
つまり、この問題は整数問題に見えて、実際のところは集合問題だ。余事象をとって、集合の積を排除して和集合の濃度を導く、という集合論の基本さえ身に付いていれば、機械的な計算で解ける。
この問題の面白いところは、「力技でしらみつぶしに調べ上げるとき、どの程度まで力を使う必要があるか」を見極めることができるかどうかによって、難易度が著しく変わることだ。
「素数ではないもの」、つまり素因数をもつ数を調べるのであれば、2の倍数、3の倍数、5の倍数、7の倍数、11の倍数… と素数の倍数を「1以上1000以下の数」から数え上げていけばいい。問題は、倍数を数え上げる素数をどの程度まで調べなくてはならないのか、だ。
素数2, 3, 5あたりに関しては簡単だから簡単に数え上げられる。
2の倍数は、1000÷2=500個
3の倍数は、1000÷3=333個
5の倍数は、1000÷5=200個
これだけで1033個。ここから「重なり」を引かなくてはならない。
6の倍数(2と3の公倍数)は、1000÷6=166個
10の倍数(2と5の公倍数)は、1000÷10=100個
15の倍数(3と5の公倍数)は、1000÷15=66個
さらにここから、「過剰に引いた分」を足し直す。
30の倍数(2と3と5の公倍数)は、1000÷30=33
よって、1以上1000以下の数のうち、2,3,5の倍数のものは
500+333+200-166-100-66+33=734
734個ある。 つまり、1以上1000以下の数で、2, 3, 5の倍数かつ素数でないものは、2, 3, 5(こいつらは素数)自身を除くから、
734-3=731個ある。
ここで話が終われば話は簡単なのだが、この数字では、欲しい数「750個」にちょっと足りない。
つまり題意を満たす「素数でない数」を求めるのに、2, 3, 5という素数の倍数だけでは足りず、その先までちょっと調べなければならない、というところが一橋大学の意地悪なところだろう。
ここで、「では7の倍数を調べよう」「それでも足りなければ11の倍数を調べよう」… と考えるのは、単純ではあるが思考力が足りない。面倒くさいからだ。
2, 3, 5の倍数でやった思考法を、7の倍数、11の倍数、13の倍数… と拡張していくと、その分だけ集合の交わりの部分を排除する処理が面倒になる。ここはひとつ、上で計算した「731個」(=2,3,5の倍数)という数をこれ以上操作することなく、楽に答えを導きたい。
5よりも大きい素数を調べると、7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, … と続く。これらの数同士を掛け合わせた数は、素数ではないし、2,3,5の倍数でもない(つまり「731個」に含まれない)。
上記7つの素数から任意のふたつを選んで掛け合わせた数は、7C2=21通り。これは先ほど求めた731個には含まれないので、足し合わせると752通り。つまり「1から1000までの数には、素数ではない数が752個は確実に存在する」。
余事象をひっくり返すと、1000以下の素数は1000-752=248個以下であり、題意の通り250個以下であることが示される。(Q.E.D.)
昨今、コロナ禍で行政の臨時措置や時限立法など、「その場限りの対処」が増えてきている。
その対処に四苦八苦し、特に飲食店が苦境に晒されているのは周知の事実だろう。
コロナ禍のような、単一の手法で解決案が見いだせない状況では、様々な手段を累積的に積み重ねなくてはならなくなる。複雑な問題を解決するときには、先に打った手が、後に打った手と矛盾してしまう、という混乱が生じることがある。
僕の印象として、そういう矛盾するような施策をとってしまう人というのは、いいかげんな人なのではなく、「愚直なまでに基本方針に忠実な人」に多いような気がする。
コロナ禍が一般市民に蔓延するのを防止する、という方針を真面目に突き詰めれば、ロックダウンのような強制封鎖が良いに決まってる。しかし、そうなれば飲食店や販売店は経営が立ち行かなくなる。どちらかを取ればどちらかが立たない、そういう矛盾した状況に対処しなければならない時は、どうすればいいのか。
非常事態宣言を出して一般市民の行動を制限しようとする政治家も、GoToキャンペーンのような人とモノの流通を促進する政策を打ち出す政治家も、ともに自らの「正義」に従って「信念」で行動しているのだと思う。世の中を悪くしようとしているのではなく、彼らは彼らなりに世の中を良くしようと思っているのだろう。
そして、そのような「信念」が固い人ほど、矛盾する状況があったり、問題が複雑になり過ぎて単一手法では解決し得なかったりする状況に弱い。「固い信念」は、時として柔軟性を損ない、現実に対処できなくなる危険性を孕んでいる。
上に挙げた一橋大の問題でも、単純に「2, 3, 5で行った演算を、そのまま7, 11, 13,…と拡げていけばよい」と考える人は、泥沼に嵌る。基本に忠実ではあるのだろうが、頭が固く、「一度うまくいったから」という硬直した思考回路から抜け出せない。
いちど上手くいった施策でも、後から追加手段を追い討ちする時には、「前に打った手段と矛盾しないように隙間を縫って手を打つ」という調整力が必要になる。
数学を学べばそのような能力が身に付く、という単純な話ではないが、昨今の世情を見てみると、あまりに理性に欠け、「信念」一本やりで行動している行政者が多過ぎる気がする。個人的には、固過ぎる信念に執着する政治家など、信用に値しない。状況が変化しても対処手段を変えることができず、しまいには「自分のとった方策が正しいことを示すことのみに血道を上げる」という本末転倒なことになる。
世の中の問題には、数学のような絶対解はない。どのみち、その場に居合わせた人々の最大公約数的な「最適解」を模索する以外にはない。
しかし、その「模索」する方法論を、安易に情緒や信念に頼り過ぎ、理詰めで考える方法論が放棄され過ぎているように見える。
指折って数えるだけで解けました。
有名なパズルをひとつ。
前にいちどたくぶつに書いた覚えがあるな、と思って検索してみたら、2004年の記事だった。16年前のことになる。
この年になると、どこでどんな記事を読んだのか、はなはだ記憶が怪しくなる。しかしさすがに、自分で書いた記事というのは覚えているものだ。Webに投稿した記事だと検索ができるのも便利だ。紙の著作物だとこうはいかない。電子媒体万歳。
このパズルの答えは、簡単に言うと「計算が違う」ということなのだが、普通の意味とはちょっと違う。ふつう、「計算が違う」というと「計算の過程が間違っている」「正しい答えが出ていない」という意味が多いが、ここでは「『何を求めようとしているのか』と『立式』が噛み合っていない」という意味だ。立てた式自体が間違っている。式が間違っているのだから、答えが合うわけがない。
それはともかく、この問題はかなり有名な問題で、いろんなところで使われている。

もともとは誰かが考えた問題なのだろうが、原典となる出典は寡聞にして知らない。
どこかの古典にでも載ってるのかな、と漠然と思っていた。
閑話休題。夏休みなので紀行文をよく読む。
特に今年のように、下手に旅行ができない時などは、紀行文を読んで旅行気分を味わう。
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)
『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ)
『阿房列車』(内田百閒)
『南仏プロヴァンスの12か月』 (ピーター・メイル)
『深夜特急』(沢木耕太郎)
鉄板ばかりの名作揃い。家にいながらにして旅行気分が存分に味わえる。
そのうち、内田百閒の『阿房列車』を読んでいたら、件の宿代パズルが出ていた。
ここで問題を出してきた「山系」というのは、旅行には必ず同行させられた百閒の弟子で、平山三郎という男。国鉄職員をやっていたため、「ヒマラヤ山系」と呼ばれていた。当時、国鉄職員は三等客車には無料で乗れたので、交通費を出してやることなく旅行に同行させることができたので、ちょいちょい百閒に連れ回されていたそうだ。
夏目漱石の弟子というのは、芥川龍之介のような変になり方と、内田百閒のような変になり方がある、と言ったら言い過ぎだろうか。両方とも僕の好みなので、芥川と百閒はともに僕の愛読書だ。
孤高を通した芥川とは違い、内田百閒は大学で教えていたので、弟子が多かった。系譜は脈々と受け継がれ、百閒の弟子にも変人が多い。その中でも比較的まともな平山三郎は、百閒の没後、『阿房列車』の記述には百閒の創作が多く含まれていることを明らかにしている。作り話と言えばそれまでだが、事実そのものは百閒にとっては話のネタに過ぎず、それを読む人が面白いように書き換えた、というところだろうか。
だからおそらく「宿代のパズル」も、平山三郎が出題したものではあるまい。どこか別のところで伝え聞いたものか、百閒自身が考えたものかどうかは分からない。
いずれにせよ、この問題がいろんな所で出題されているのを辿ってみると、いまのところこの内田百閒の著作が最も古い出典のようだ。
またどこか他のところでこのパズルを目にすることがあることもあるだろうが、同じ問題がいろんな所でいろんな使い方をされているのを見ると、この問題はまぎれも無い「名作」なんだろうな、という気がする。
ある3人の旅行者が旅館に泊まった。ちょうど季節は夏休み、繁盛するシーズンなので旅館には学生さんがアルバイトをしていた。
さて、ある仲居のバイトお姉ちゃん、お客さん3人を部屋に通すと、一泊分の宿泊料をひとり5000円、3人で合計15000円を受け取った。
仲居さんがその宿代15000円を帳場にもっていくと、おかみさん曰く、「あららウチはひとりいくらじゃなくて、一部屋いくらで宿代をもらうのよ。あの部屋は何人泊まっても10000円なの。この5000円をお客さんに返してきて」
お客さんにお金を返しに行く途中でバイトの仲居さんは考えた。ここで5000円を返すと、あの3人のお客さんはケンカになるんじゃないかしら。だって5000円は3で割り切れないもんね。じゃあここはひとつわたしがこっそり2000円もらっちゃおうかしら。そうすれば3000円になって、ひとり1000円ずつ割り切れるでしょ。たとえ1000円でも戻ってきたら喜ぶだろうから、それでいいんじゃないかしら。
とんでもない仲居もいたもんだが、さてここで考えてみよう。
お客さんにしてみれば、一人あたり5000円払って1000円返ってきたので、結局4000円払ったことになる。4000円が3人で12000円。
それに、仲居さんがポケットに入れた2000円を合わせると、14000円になる。 最初集めたのは確か15000円だったはず・・・。
【問題】さて、1000円はどこへ消えたのだろう?
前にいちどたくぶつに書いた覚えがあるな、と思って検索してみたら、2004年の記事だった。16年前のことになる。
この年になると、どこでどんな記事を読んだのか、はなはだ記憶が怪しくなる。しかしさすがに、自分で書いた記事というのは覚えているものだ。Webに投稿した記事だと検索ができるのも便利だ。紙の著作物だとこうはいかない。電子媒体万歳。
このパズルの答えは、簡単に言うと「計算が違う」ということなのだが、普通の意味とはちょっと違う。ふつう、「計算が違う」というと「計算の過程が間違っている」「正しい答えが出ていない」という意味が多いが、ここでは「『何を求めようとしているのか』と『立式』が噛み合っていない」という意味だ。立てた式自体が間違っている。式が間違っているのだから、答えが合うわけがない。
それはともかく、この問題はかなり有名な問題で、いろんなところで使われている。
たとえば『パタリロ!』(魔夜峰央)第42巻「のびちぢみリング」でもこの問題が登場する。

もともとは誰かが考えた問題なのだろうが、原典となる出典は寡聞にして知らない。
どこかの古典にでも載ってるのかな、と漠然と思っていた。
閑話休題。夏休みなので紀行文をよく読む。
特に今年のように、下手に旅行ができない時などは、紀行文を読んで旅行気分を味わう。
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)
『八十日間世界一周』(ジュール・ヴェルヌ)
『阿房列車』(内田百閒)
『南仏プロヴァンスの12か月』 (ピーター・メイル)
『深夜特急』(沢木耕太郎)
鉄板ばかりの名作揃い。家にいながらにして旅行気分が存分に味わえる。
そのうち、内田百閒の『阿房列車』を読んでいたら、件の宿代パズルが出ていた。
山系が隣りからこんな事を云ひ出した。
「三人で宿屋へ泊まりましてね」
「いつの話」
「解り易い様に簡単な数字で云ひますけどね、払ひが三十円だったのです。それでみんなが十円ずつ出して、つけに添へて帳場へ持つて行かせたら」
蕁麻疹を掻きながら聞いてゐた。
「帳場がサアヸスだと云ふので五円まけてくれたのです。それを女中が三人の所へ持つて来る途中で、その中を二円胡麻化しましてね、三円だけ返して来ました」
「それで」
「だからその三円を三人で分けたから、一人一円づつ払ひ戻しがあつたのです。十円出した所へ一円戻つて来たから、一人分の負担は九円です」
「それがどうした」
「九円づつ三人出したから三九、二十七円に女中が二円棒先を切つたので〆て二十九円、一円足りないぢやありませんか」
蕁麻疹を押さへた儘、考へて見たがよく解らない。それよりも、こつちの現実の会計に脚が出てゐる。
(『特別阿房列車』)
ここで問題を出してきた「山系」というのは、旅行には必ず同行させられた百閒の弟子で、平山三郎という男。国鉄職員をやっていたため、「ヒマラヤ山系」と呼ばれていた。当時、国鉄職員は三等客車には無料で乗れたので、交通費を出してやることなく旅行に同行させることができたので、ちょいちょい百閒に連れ回されていたそうだ。
内田百閒というのは、まぁ、夏目漱石の弟子であるくらいだから、師匠に似て変な男だった。日本芸術院、日本文学報国会への入会推薦を「嫌だから嫌だ」という理由で断る。大学で教えており著作も多く十分な収入があるはずなのに、なぜかいつも貧乏で、借金取りとの戦いが日常茶飯事。
『阿房列車』の第1作内の「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」という一文は有名で、乗り鉄の座右の銘として引用されることがある。
夏目漱石の弟子というのは、芥川龍之介のような変になり方と、内田百閒のような変になり方がある、と言ったら言い過ぎだろうか。両方とも僕の好みなので、芥川と百閒はともに僕の愛読書だ。
孤高を通した芥川とは違い、内田百閒は大学で教えていたので、弟子が多かった。系譜は脈々と受け継がれ、百閒の弟子にも変人が多い。その中でも比較的まともな平山三郎は、百閒の没後、『阿房列車』の記述には百閒の創作が多く含まれていることを明らかにしている。作り話と言えばそれまでだが、事実そのものは百閒にとっては話のネタに過ぎず、それを読む人が面白いように書き換えた、というところだろうか。
だからおそらく「宿代のパズル」も、平山三郎が出題したものではあるまい。どこか別のところで伝え聞いたものか、百閒自身が考えたものかどうかは分からない。
いずれにせよ、この問題がいろんな所で出題されているのを辿ってみると、いまのところこの内田百閒の著作が最も古い出典のようだ。
またどこか他のところでこのパズルを目にすることがあることもあるだろうが、同じ問題がいろんな所でいろんな使い方をされているのを見ると、この問題はまぎれも無い「名作」なんだろうな、という気がする。
「クレジットカードを3枚出し合って」という話に翻案中。
ペンギン命
takutsubu
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