たくろふのつぶやき

オリンピック生中継で夜明けと洒落込む

第51回衆議院選挙

自民圧勝 高市政権継続へ 国論二分せぬ合意形成こそ
(2026年2月9日 朝日新聞社説)
衆院選自民圧勝 安定基盤を課題解決に生かせ
(2026年2月9日 讀賣新聞社説)
衆院選で高市自民圧勝 独断専行に陥れば信失う
(2026年2月9日 毎日新聞社説)
与党が圧勝 「高市首相」が信任された 戦後政治の大転換で日本守れ
(2026年2月9日 産経新聞社説)
首相はおごらず真に責任ある政策を
(2026年2月9日 日本経済新聞社説)
与党圧勝、首相続投へ 独断専行を排してこそ
(2026年2月9日 東京新聞社説)


真冬の超短期決戦となった第51回衆議院選。自民党が圧勝し、定数465の3分の2にあたる310議席を超える316議席を単独で獲得した。これで自民党は法案が参議院でつっ返されても衆議院で再議決できることになる。単独で定員3分の2を超えたのは初めてのことで、自民党は悲願の憲法改正に磐石の体制を築いたことになる。それを受けての各紙の社説。

簡単にまとめると、どの新聞も構成としては同じようなことを述べている。

・自民党の勝ちではなく野党の自滅
・中道改革連合、ふざけてんじゃねぇ
・自民党、調子に乗るなよ。ただの高市人気だからな
・政策ちゃんと説明しろ

まず今回の一方的な選挙結果についての原因分析は、ほとんどの紙面が「自民党の勝ちではなく野党の自滅」というニュアンスで報じている。それはそうだろう。普通に見て、今回の自民党は前回惨敗に終わった衆議院選と比べて基本政策に大きな変わりはない。前回選挙に大敗したのは「裏金議員」というキーワードがマスコミを席巻し、自民党を「印象」で落とそう、という動きが顕著だったからだ。それが今回、高市首相の個人的な人気と改革への意欲が上回り、前回の「自民党に関するネガティブなイメージ」を吹っ飛ばした。「政策勝ち」ではなく「人気勝ち」というのは本当だろう。

しかし、野党の迷走はそれを上回るほどお粗末だった。どの新聞も書いていないが、今回の「与党圧勝」「野党惨敗」の共通した原因は公明党だ。自民党総裁選の結果、勝手に因縁をつけ与党連合を離脱した。僕の見るところ、あれは公明党・斉藤鉄夫代表の勇み足だっだと思う。公明党は創価学会の信者に裏打ちされた「票田」をちらつかせて与党連合に食い込んでいたが、それをネタに自分の主張をゴリ押ししようと図った。見込みとしては票離れを危惧した自民党から譲歩を引き出せるはずだったのだろう。しかし高市首相はそれを跳ねつけ、斉藤代表は引っ込みがつかなくなってしまった。振り上げた拳の下ろし方が分からなくなり、そこから公明党の迷走が始まった。

もし公明党が党是に従い主義主張の違いから自民党と袂を分つのであれば、他の野党と連合を組む必要はなかったはずだ。ましてや、安全保障や社会保障問題で相反する主張を展開する立憲民主党と組むなどということにはなるまい。「自民党と政策が合わない」以上に、「立憲民主党とはもっと合わない」はずなのだ。しかし公明党は自分で言い出した「離婚」を取り下げるわけにもいかず、創価学会の票田に目が眩んだ立憲民主党と手を結んだ。「指をケガしたから切断しました」のような状態の悪化の仕方だった。

立憲民主党としても今回の連合は大失敗だった。選挙区では立憲民主党が候補者を擁立し、比例では公明党を優先する、というのは旧与党連合のやり方を踏襲したものだろうが、肝心の選挙区でことごとく自民党候補に惨敗した。小沢一郎、安住淳、鎌田さゆり、枝野幸男、江田憲司、海江田万里、米山隆一、岡田克也など選挙戦を賑わせた色物が雁首並べて局地戦に敗れて落選。比例では公明党を優先したため復活当選もままならない事態に陥った。票田と期待した公明党に議席を削られた、という皮肉な結果だった。

「政局ばかり気にしていたから政局に潰された」ということだと思う。政策のすり合わせも十分でないまま安易に野党連合などと謳い、選挙戦では自分たちの主張はそっちのけで自民党と高市首相の悪口ばかり。批判のネタが尽きると見るや「高市自民党は戦争を引き起こそうとしている」「ママ、戦争を止めてみせるわ」など荒唐無稽な脅迫論法に打って出た。これで完全に有権者に呆れられ、見放された感がある。各紙が「中道改革連合、ふざけてんじゃねぇ」という論調で野党の不備を指摘しているのは当然だろう。

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馬鹿なのか。


各紙が指摘している通り今回の選挙は「高市人気選挙」だった。テレビの選挙特番では高市首相が各地を応援演説に飛び回り、どこの会場でも聴衆が詰めかけている映像が流れていた。初の女性首相、改革を厭わない姿勢、毅然としたイメージなど、マスコミが必死に使い回そうとした「裏金議員」という自民党の負のイメージを上書きするには十分なインパクトだっただろう。それを受けて各紙とも「自民党、調子に乗るなよ。ただの高市人気だからな」という論調で自民党を諌めている書き方が目立つ。

しかし考えてみれば「たったひとりの個人的人気によって国の政治を司る国政選挙の趨勢が決まってしまう」ということのほうが問題なのだ。各紙の社説の言い方と実際の選挙結果を足し合わせると、「全野党が結集して全力を振り絞っても、高市首相ひとりの人気に勝てなかった」ということになる。そして、実際そうなのだろう。どの野党も選挙演説では政策や安全保障対策など一切語らず、ひたすら「高市自民党の悪口」を叫びつづけた。 そこを潰さないと選挙に勝てない、という判断なのだろう。

特にれいわ新撰組の大石晃子代表はひどかった。テレビの党首討論番組では他党代表の発言を遮り「自分が自分が」としゃしゃりでる傍若無人、街頭演説では自民党の悪口のオンパレード。その挙句が選挙区でも比例でも1議席も取れず、大勝し過ぎて「比例名簿に候補者が残っていない」という事態に陥った自民党からの流れ票でなんとか1議席を恵んでもらう無様な結果だった。他人の健康状態だろうが何だろうが相手に瑕疵があれば何でも悪口の材料にする、という姿勢が下品過ぎて有権者の反感を買った。しかも選挙後に「爪痕は残せたと思う」と、最後までやっていいことと悪いことの区別がついていなかった。

だからといって自民党が手放しで満点かというと、そうでもない。各紙が指摘している通り、自民党が政策を明示していなかった部分があったのは本当だ。解散の直接のきっかけとなったのは中国による政治的・軍事的圧力だったから、自民党は国防と安全保障を軸に選挙戦を展開した。それに反し経済政策、特に消費税に関しては不透明な部分が多かった。特に争点となったのが減税だろう。それについては日本経済新聞が一歩踏み込んだ見方をしている。

消費税について自民は食料品の税率を2年間ゼロにするため超党派の「国民会議」で財源やスケジュールの検討を加速する方針を示した。野党各党が消費税減税を掲げる中で、争点をつぶす狙いがあったのではないか。「あいまい戦術」で勝利を引き寄せた格好で、自民圧勝は有権者による高市政権への白紙委任を意味しない。
(日経社説)


日経は最近、左に寄った妄言を吐くことが多くなったが、それでも表層の出来事から裏側を推察する考察力が完全に鈍ったわけでもないらしい。自民党が消費税策について具体案を出せなかったのは確かだが、それを追撃できるほど野党にも具体案があったわけではなかった。「お互いの弱点」だったのだろう。今回の選挙戦では、チームみらいを除く全党が「消費税撤廃」「減税」を掲げた。物価高に苦しむ世相を受けての人気とり策だろうが、どの党も代替財源を提示していない。自民党の掲げる食料品限定の消費税撤廃でも国庫に5兆円の穴が空く。その代替財源はといえば、どの党も明言していないが「社会保障費の削減」しかないだろう。これについては読売新聞が指摘している。医療費負担や年金の負荷となって有権者に跳ね返ってくる。そして昨今の有権者は社会保障費の上げ下げに敏感だから、安易な減税が必ずしも嬉しいものではないことに気づいている。実際、消費税減に与しなかったチームみらいは初の衆議院選にも関わらず、共産党・れいわ新選組を軽く上回る11議席を獲得している。

どの新聞も自民党に「政策ちゃんと説明しろ」「白紙委任したわけじゃないぞ」と説明責任を求めている。その具体例に各紙の色が出ていて面白い。

自民の公約や日本維新の会との連立政権合意書には、安保3文書の年内改定や武器輸出の規制の撤廃、スパイ防止法の制定、国旗損壊罪の創設、旧軍の階級呼称の復活、軍需工場の一部国営化など、戦後80年続いたこの国のかたちを根本から変えるような「改革」がずらりと並ぶ
(朝日社説)

国際秩序をないがしろにする米国のトランプ政権とどのように向き合うのか。首相の台湾有事を巡る答弁で悪化した日中関係に打開策はあるのか。道筋は見えない。身の丈に合った防衛費の水準に関する検討も不十分なまま、増額へ突き進もうとしている
(毎日社説)

自民はこれまで、消費税を基幹財源に位置づけ、その重要性を強調してきたが、今回の衆院選でその主張を翻し、食料品の税率を2年間ゼロにすると打ち出した。だが、自民も各党も説得力のある代替財源は示していない。目先の物価高対策として、年金、医療、介護などの社会保障の財源に穴を開けることが、責任政党のすべきことなのか。若者の中には、国の借金が膨らんでいる中で減税すれば、将来、社会保障制度を維持できなくなるのではないか、といった不安を抱く人も多いという
(讀賣社説)

高市政権がまず取り組むべきは、日本の独立と繁栄の基盤である安全保障の追求である。反日的で核武装した専制国家の中国、ロシア、北朝鮮の脅威は高まっている。中国発の台湾有事が懸念される。戦後政治の対立軸は長く、防衛問題だった。日本が弱ければ平和を守れるという誤った「戦後平和主義」にこだわる左派リベラルの政党は、今回の選挙で中道を含め退潮した。自民と維新は連立合意で、安保環境の変化に即応するリアリズムに基づく国際政治観、安保観の共有を謳っている。高市政権は戦後政治の大転換を図り、日本と国民を守り抜く現実的な政策を推進すべきだ
(産経社説)

まずは国民生活に直結する26年度予算案の成立を急がなければならない。そのうえで日本経済を着実に成長させる政策を推進すべきだ。社会保障改革やエネルギー政策、国際秩序を揺さぶる米国への対応、日中関係など懸案は山積している。
(日経社説)

首相が掲げる「責任ある積極財政」には、国内の財界や専門家にとどまらず、米国をはじめ海外からも懸念する声が相次ぐ。日本の財政が市場の信認を失い、株、債券、為替の「トリプル安」となれば、国民の暮らしへの圧迫が強まるばかりではなく、世界経済にも甚大な影響が及ぶ。首相も財政状況への配慮に言及するが、市場に理解されず、長期金利の上昇が続く。10年物国債の利回りは1月20日に27年ぶりに2・3%台をつけ、2月に入っても2・2%台。輸入物価の高騰につながる円安基調も変わらず、1ドル=157円前後で推移する。積極財政が信任を得る形になったにせよ、熱心な首相支持者も賃金上昇を上回る物価高騰が続くことを望んではいまい。財政支出で経済を支えると同時に、財政安定の青写真も明示すべきだ。
(東京新聞社説)


大きく分けて「経済政策」「外交・安全保障政策」「国内安定策」に分けられるが、書き方が最も下手なのは東京新聞だろう。東京新聞は選挙戦の最中、ずっと高市首相への個人攻撃を煽る印象操作を繰り返していた。なのに選挙が終わった途端に日本市場についてのご心配ときている。「そんなことはいままで全然争点にしてなかっただろ」という手のひら返しだ。同じく高市首相への個人攻撃を執拗に繰り返してきた朝日新聞・毎日新聞は、それでも攻撃の理由として「スパイ防止法の制定、国旗損壊罪の創設、旧軍の階級呼称の復活、軍需工場の一部国営化」「対トランプ、対中国、対台湾」という軸はもっていた。少なくとも「今まで批判してきたことについて選挙後にも警鐘を鳴らす」という筋は一貫している。東京新聞はその筋すらも通していない。

今回の選挙結果を「野党側が勝手に自滅した」ということに置けば、産経新聞の書き方はごもっともだろう。日本の安全保障、なかんずく憲法九条改定に関しては「日本が平和憲法を有していれば外国から侵略されない」「九条を廃せば日本は戦争まっしぐら」という謎根拠を振り回す極左勢力が後を絶たない。それを正面から叩き潰す書き方だ。「そんなことばっかり言ってるから有権者にそっぽを向かれるんだろ」という産経新聞の意気揚々とした筆使いが目立つ。

選挙結果以外にも、自民党には党内人事の刷新という面倒事が控えている。自民党は単純に言うと「石破茂で議席を大きく減らし、高市早苗で議席を大きく増やした」ことになる。「各野党は石破茂続投を願った」という笑い話のような状況になっていたのも当然だ。それほど野党に舐められていた石破内閣の残党を党内人事で排除することになるだろう。その点、連立から公明党が勝手に離脱してくれたのは追い風になる。公明党との癒着によって票を得ていた中国寄りの勢力が今まで以上に執行部から排除されるだろう。 

選挙全体の印象として、野党による口汚い悪口がひどかった。街の街頭演説で必死に叫んでいるのは例外なく自民党の悪口。「お前らは何をしたいんだ」という方針がまったく見えてこない。そんな方法で議席を大きく減らす、という結果は非常に真っ当なものに見える。



候補者の皆様は極寒の選挙戦おつかれさまでした

米露首脳会談の目的

米ロ首脳会談 侵略者への厚遇に驚く
(朝日新聞社説 2025年8月17日)
米露首脳会談 目先の取引では停戦できぬ
(読売新聞社説 2025年8月17日)
ウクライナ侵攻 米露首脳会談 大国のごり押し許されぬ
(毎日新聞社説 2025年8月17日)
米露首脳会談 プーチン氏を喜ばせるな
(産経新聞社説 2025年8月17日)
米ロはウクライナの領土を取引するな
(日本経済新聞社説 2025年8月16日)
What Was the Trump-Putin Meeting Even About?
(New York Times, USA, 2025年8月15日)
There must be no more gifts to Vladimir Putin
(The Gardian, GBR, 2025年8月17日)
Après le sommet Trump-Poutine, aux Européens de jouer leur carte
(Le Monde, FRA, 2025年8月16日)
Europa wird sein Zaudern und seine Machtlosigkeit lange bereuen
(Die Welt, GEU, 2025年8月16日)

アラスカでプーチン大統領とトランプ大統領が会談を行った。両者の会談はロシアのウクライナ侵攻以来、初めてのことだ。その会談に関する各紙社説。今回はちょと世界各国の意見も見てみたかったので、海外の新聞社説も参考にしてみた。

まぁ、大不評といっていい。どの新聞も「会談はプーチンを利するだけだ」「トランプは何を考えているんだ」という非難ばかり。この会談は事実上、アメリカ側からの融和政策であり、ウクライナ戦線で時間稼ぎをしたいプーチンにとって渡りに船だった、という評価が多い。

この戦争はウクライナのみならず、国際社会にとっても大戦後に目指した「法の支配」による秩序を根底から覆しかねない重大な事態だ。しかし、両首脳はその喫緊の課題への対処は明瞭にしないまま、良好な関係の演出に終始した。
(朝日社説)

プーチン氏はトランプ氏との個人的な関係を深めることで追加的な経済制裁を回避し、その間にウクライナでの占領地を拡大しようとしているのだろう。プーチン氏を厚遇して事態を打開しようとしたトランプ氏の目算は外れたと言わざるを得ない。トランプ氏は空港でプーチン氏を拍手で出迎え、赤絨毯の上を並んで歩き、自分の専用車に乗せた。プーチン氏は国際刑事裁判所(ICC)から戦争犯罪の疑いで逮捕状を出されており、身柄拘束を警戒して出国を控えている。米国はICCに非加盟だが、プーチン氏を招待し、国際的な存在感を示すのに手を貸したに等しい
(読売社説)

会談が結果的にプーチン氏を利する形になったのは否めない。国際刑事裁判所(ICC)から戦争犯罪の疑いで逮捕状を発行されながら米国に招かれたことで、国際社会に存在感をアピールする機会となった。停戦に応じるそぶりを見せ、制圧地域を更に拡大するための時間を稼いだ。トランプ氏が発動すると警告していた追加制裁も先送りされている。そもそも国連憲章に違反して武力を行使したのはロシアである。停戦の実現に当たっては、「法の支配」に基づくウクライナの領土と主権の回復が最優先されなければならない。
(毎日社説)

懸念されるのは、トランプ氏のプーチン氏への宥和的姿勢が目立ったことだ。露軍はウクライナへの無差別攻撃を続けている。だが、トランプ氏は会見でロシアの侵略を批判しなかった。それどころか、両氏は具体的な一致点に全く言及しなかったにもかかわらず、会談を「有益だった」「生産的だった」と振り返った。互いに親密な関係をアピールし合った。強い違和感を覚える。北極圏の共同開発やビジネス協力について議論したのも言語道断だ。
(産経社説)

まさに袋叩きと言ってよい。確かに各紙が指摘している通り、国際法に則して正義を語るなら、今回の紛争の非はロシア側にある。他国を侵略し領土を割譲させようとするなど言語道断。それを利するトランプは何を考えているんだ、という論調が多い。

わりと感情論的な罵倒がはびこる中、毎日新聞が若干冷静に今回のアメリカの非を論じている。トランプは今回「仲介者」としてプーチンと会談したのではなく、まるで自分に全権があるかのごとく停戦のあり方を提示している。

懸念されるのは米露が一方的に停戦の枠組みを決め、ウクライナに押しつける構図となることだ。トランプ氏は当初、「領土交換」による停戦に言及していた。詳細は不明だが、ウクライナに対して領土割譲につながる譲歩を迫る内容とみられる。危機感を覚えた欧州諸国が翻意を促し、トランプ氏はウクライナ抜きでは交渉しないと約束した。ただ米テレビのインタビューで、領土問題を話し合ったと明かしており、領土割譲を含む停戦条件が議題になった可能性がある。
(毎日社説)

当たり前のことだが、トランプ大統領個人はウクライナの自治権について何の権限も持っていない。ところが今回、トランプ大統領は自ら乗り出してウクライナの停戦について言動を繰り出した。これは帝国主義の時代の大国意識「超大国が衛星国の生殺与奪の権をもつ」という傲慢な姿勢だ。今回のトランプの振る舞いで恒常的に批判されるべきところはここだろう。提案の内容自体の妥当性以前に、トランプはそもそもそんな提案をできる立場ではない、というところを批判しなければならない。

各紙の中で唯一、日経だけが今回の会談を肯定的に捉えている。日経は現在のウクライナ戦線が膠着状態にある状況を踏まえて、「しないよりはした方がマシ」という言い方で今回の会談を総括している。

米国のトランプ、ロシアのプーチン両大統領が15日に米アラスカ州で会談したが、ロシアの侵略が続くウクライナの停戦へ打開策を見いだせなかった。米ロはウクライナの領土が「取引」の対象ではないと深く認識し、公正な和平の実現を急ぐべきだ。
トランプ、プーチン両氏が会うのは2019年以来だ。22年にウクライナ侵略が始まって以降、初の米ロ首脳会談で和平問題を話し合った意義は小さくない。ウクライナとロシアの国民の大半も和平交渉を望んでいる。
(日経社説)

もちろん日経も今回の会談の「結果」については懐疑的で、実際にはロシアが占領地を手放すことはあるまい、という予測をしている。また今回の会談が結果としてウクライナの頭越しに米露が領土割譲について話し合ったことについて批判をしている。しかし今回の会談をもとに、ウクライナや欧州各国のトップを加えて首脳会談を開く可能性に言及し、最終的にはロシアへの圧力を強めることを主張している。主張の仕方は他の4紙とは異なるが、ロシアを批判し戦線を凍結する必要性を主張していることに変わりはない。

当のアメリカ国内ではどういう報道をされているのか、と見てみると、New York Timesでは日本の新聞以上に今回の会談に憤慨している様子が読み取れる。今回の会談を完全に「プーチンの勝ち」としており、嬉々として会談に臨んだ様子を描写している。

What was clear, though, was that Vladimir Putin was well satisfied. Reading from prepared notes — raising the question of whether they had been prepared before the meeting — at a press briefing after the three-hour meeting, the Russian president appeared especially satisfied with the fact that he, a pariah and wanted war criminal in Europe, was having what looked like a chummy face-to-face with the president of the United States, and on American soil, adjacent to Russia.

He heaped compliments on President Trump, even suggesting that Mr. Trump was right to say that had he been president at the time, there would have been no Ukraine war. He spoke at some length of Alaska’s Russian and Orthodox heritage, of the importance of turning the page in U.S.-Russian relations, of the great potential of trade between their countries (which drew a grin from Mr. Trump). But on the war in Ukraine, he went back to his old script, that to make a settlement lasting all the “root” causes of the conflict, which in his view are all on Ukraine’s side, have to be eliminated.
(New York Times; opinion)

しかし、ウラジーミル・プーチン大統領が大満足していたことは明らかだった。3時間に及ぶ会談後の記者会見で、用意されたメモを読み上げるプーチン大統領は、会談前に準備されたのかという疑問も生じさせるが、ヨーロッパでは社会ののけ者で指名手配中の戦争犯罪者である自分が、ロシアに隣接するアメリカの地で、まるで親しい間柄のようにも見える会談をしていることに対し、特に満足している様子だった。

彼はトランプ大統領を惜しみなく称賛し、トランプ氏が当時大統領だったらウクライナ戦争はなかっただろうと発言したのは正しかったとさえ示唆した。彼はアラスカのロシア正教の伝統、米ロ関係の新たなページを開くことの重要性、そして両国間の貿易の大きな可能性(トランプ氏からニヤリと笑顔を引き出した)について長々と語った。しかし、ウクライナ戦争に関しては、彼は古い主張に立ち戻り、永続的な解決には、彼の見解ではすべてウクライナ側にある紛争の「根本」原因のすべてを排除しなければならないとした。
(ニューヨークタイムズ社説)

NYTはこの会談を「プーチン大統領が戦争を継続するための時間稼ぎに成功した」という評価をしており、全体的にロシアを利する結果となった、と見ている。トランプ大統領が戦争終結について努力を継続することにも懐疑的で、それはウクライナにとても打撃になる。批判だらけの記事といってよい。

一方、地理的に当事者意識が強いヨーロッパの新聞各紙はどう報じているか。
フランスの新聞Le Mondeは、今回の米露会談が実質的に何の効果ももたらしていないことを指摘し、今後この問題を解決するのは欧州主導になるだろう、という予測をしている。その上でプーチンが欧州諸国のほうを牽制する可能性に触れ、その手に乗ってはならない、という論調を展開している。

Face à ce non-résultat, la balle est maintenant dans le camp des Européens, auxquels M. Trump a rendu compte samedi matin, ainsi qu’au président ukrainien, Volodymyr Zelensky, de ses entretiens et des points d’accord qu’il a mentionnés. Avant même de leur parler, il a adressé ce conseil à M. Zelensky sur Fox News, après le sommet : « Faites un deal ! » De la manière dont MM. Poutine et Trump ont présenté les choses à Anchorage, on peut déduire que ce « deal » proposé n’est pas à l’avantage de Kiev. A l’unisson avec M. Trump, M. Poutine a dit espérer que les Européens « n’essaieront pas de saper les progrès escomptés par des provocations ou des intrigues en coulisses ».

Soucieux de ne perdre aucune chance de mettre fin à la guerre, le président ukrainien a cependant réagi positivement à l’idée d’une rencontre à trois avec MM. Poutine et Trump et décidé de se rendre lundi à Washington pour en parler. Le scénario redouté par les Européens, celui d’un arrangement concocté dans leur dos par les leaders russe et américain, n’est pas écarté. Mais, contrairement à M. Trump, M. Poutine reconnaît qu’ils ont, avec Kiev, des cartes à jouer. Le moment est venu de s’en servir, avec fermeté.
 (Le Monde; Éditoriaux)

この不確定な結果に直面し、今やボールは欧州諸国に委ねられている。トランプ大統領は、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領と共に、土曜日の朝、会談と合意点について欧州諸国に報告した。首脳会談後、トランプ大統領は彼らと話す前にも、FOXニュースでゼレンスキー大統領に「合意を成立させろ!」と助言した。プーチン大統領とトランプ大統領がアンカレッジで状況を説明した様子から、この「合意」案はキエフにとって不利なものであることが窺える。プーチン大統領はトランプ大統領と同様に、欧州諸国が「挑発行為や水面下の陰謀によって期待される進展を損なおうとしない」ことを期待すると述べた。
それでも、戦争終結の機会を逃したくないウクライナ大統領は、プーチン大統領とトランプ大統領との三者会談の案に前向きな反応を示し、月曜日にワシントンを訪れてこの問題について協議することを決めた。欧州諸国が懸念するシナリオ、すなわち、ロシアとアメリカの指導者が背後で画策する取り決めの可能性は、依然として排除されていない。しかし、トランプ氏とは異なり、プーチン氏は、ウクライナ政府と共に、欧州諸国が使えるカードを持っていることを認識している。今こそ、そのカードを、断固として使うべき時だ。
(ル・モンド社説)

Le Mondeは「ウクライナ問題を収束させるカードは欧州各国が握っており、それを行使することが必要だ」と言っているが、これはロジックとしてはアメリカの理屈と変わらない。Le Monde紙の書き方のちょっと気になる点は、アメリカと同じような「帝国主義的大国優越感」が行間から滲み出ていることだ。ウクライナと連携しサポートする分には構わないが、「これは我らの戦争」とばかりウクライナの頭越しにロシアに圧力をかけるようなことがあっては、平和的に停戦合意に達したとしても後々禍根を残す。

ドイツ紙のDie Weltはさらに語調が激しい。今回の会談をトランプ大統領の無能さひとつに帰着させ、トランプ個人の批判を展開している。

Doch diese Ausführungen wären bei einem Charakter wie Trump wohl zu viel verlangt. Ganz davon in Anspruch genommen, jemand zu sein, den er bewundern kann, liebt der US-Präsident den Trompetenstoß, wild und ohne durchdachte Komposition. Genau derart flog er nach Alaska. Mal dachte er die Tage davor laut über ukrainische Seegrundstücke nach, die sich Russland verständlicherweise angeeignet habe. Mal gab er den starken Führer, der den Kreml schwer bestrafen werde, wenn nicht umgehend ein Waffenstillstand vereinbart werden würde.

Worte wiegen für Trump nichts: Kaum ausgesprochen, fliegen sie davon wie Seifenblasen und zerplatzen in der Luft. So kam es, wie es kommen musste: Der Berg kreißte und gebar eine Maus.
(Die Welt; Meinung)

 しかし、これらの発言は、トランプのような人物にはおそらくあまりにも過大な要求だろう。尊敬される存在であることにすっかり夢中になっている米国大統領は、荒々しく、思慮に欠けたトランペットの音を愛する。まさにそのようにして彼はアラスカへ飛んだ。ある時は、ロシアが当然のように奪取したウクライナの領土について、出発前の数日間、声に出して考えていた。またある時は、停戦が即時合意に至らなければクレムリンを厳しく罰する強硬な指導者を演じた。
 トランプにとって言葉は何の意味も持たない。ほとんど口にされない言葉は、シャボン玉のように空に散り、はじける。そして、必然的にそうなった。山が苦しんで産み出したのは、結局のところネズミ一匹だった。
(ディ・ウェルト社説)

社説でこんなこと書いていいのかな、という論調。フランスとはちょっと違った立場なのが面白い。ドイツは欧州の紛争に関して積極的に軍事派兵ができないという事情がある。現実的なウクライナ支援の方法が限られているので、その分言論が過激になるのだろうか。

イギリス紙は相変わらずちょっと離れたところから皮肉っぽい目で今回の件を眺めている。Gardian紙は社説で今回のトランプ大統領の暴走の原因を「個人的な承認欲求」と見ている。

The peremptory tone is worryingly reminiscent of February’s notorious Oval Office meeting, when Mr Zelenskyy was told: “You don’t have the cards.” In vague terms, Mr Trump has alluded to a future US role in security guarantees following a deal. But as Ukraine fights for a viable future, he appears impatient to move on to doing lucrative future business with Moscow, and angling for a Nobel peace prize.
(The Gardian; Opinion)

この高圧的な口調は、ゼレンスキー大統領が「君にはカードがない」と言われた2月の悪名高い大統領執務室での会談を思い起こさせるほどだ。トランプ氏は漠然と、合意後の安全保障における米国の役割を示唆してきた。しかし、ウクライナが現実的な未来を求めて奮闘する中、トランプ氏はモスクワとの将来的な利益となるビジネスに着手し、ノーベル平和賞を狙うことに焦りを感じているようだ
(ガーディアン社説)

まぁ確かに今回のトランプの出臍っぷりを見れば、狙っているのはノーベル平和賞かな、という気がしなくもない。トランプに限らず、アメリカの大統領が欧州・中近東の和平交渉に乗り出してくるときはほとんどがノーベル平和賞狙いといってよい。そして、それに成功したアメリカ大統領はいまのところいない。イギリス流の茶化し方でトランプを揶揄している。


実際のところ、なぜトランプ大統領は今になっていきなりプーチンに接近したのか。
トランプがいかに馬鹿であろうと気狂いであろうと、ウクライナ侵攻に関してプーチンを利するような行動をとれば世界中から非難を浴びることになることは分かっていたはずだ。なのにトランプは今回敢えてこんな無意味な会談をセッティングした。その意図はどこにあったのか。 僕が世界中の新聞社説を読んだ限り、そのことに触れている新聞はひとつもなかった。それが逆に異様に見える。

今回のアラスカ会談の過程を見ると、なんとなくトランプ大統領は焦っているように見える。いままでのトランプ政権の動向を考えると、トランプが焦ってプーチン融和に動き出したのはどう考えてもウクライナ戦線の和平実現のためとは思えない。トランプは一体何をそんなに焦っているのか。

トランプ第2政権が一貫して固執してきたのは、国内産業の保護だ。具体的には取引相手国すべてに関税の爆上げをちらつかせ、国内雇用と流通の促進を図ってきた。そもそもビジネスマンだったトランプ大統領は、すべての政策において「損得勘定」で妥当性を図っていると断じてよい。

そんなトランプ政権が最も「ビジネスの敵」と見做しているのはどこの国か。日本国内の新聞はあたかもトランプが日本をターゲットに関税引き上げを図っているかのように煽っているが、トランプ政権にとって日本などはものの数ではあるまい。安全保障的に重要な同盟国であり、現在の日本国首相・石破茂は完全に舐めてかかれる程度の無能でしかない。

どう考えても、いまアメリカが最も重要な仮想敵国としているのは、中国だろう。経済圏において中国を抑え込む必要があるだけではなく、台湾有事や香港問題を皮切りに尖閣諸島にもちょっかいを出している中国は、安全保障上の軍事対立国でもある。この中国をどうやって切り崩すか。それがトランプ政権の最も重要な懸案事項であるはずだ。

今回、トランプがプーチンに融和的な策をとったのは、中国を孤立させるためではないか。
中国とロシアは単純な同盟国ではないが、「反アメリカ」という軸で強調はしている。2024年5月にはプーチン大統領が訪中し、北京で習近平国家主席と会談した。その際「新時代の包括的戦略協力パートナーシップの深化に関する共同声明」を発表している。これにはロシア側の強い要望で「ウクライナ危機の政治的・外交的解決において建設的役割を果たそうとする中国の用意を歓迎する」という旨の内容が盛り込まれた。これは要するに世界中から制裁を喰らったロシアが、さみしくなって中国に泣きついたということだ。

中国はロシアのウクライナ侵攻を支持してはいないが、地政的にロシアを牽制する必要はある。いま中国の軍事的懸案は台湾・香港・尖閣諸島などすべて太平洋側にある。そちらに軍事的負荷を集中させるためには、背後となるロシアとの関係を安定させる必要がある。

またロシアは北朝鮮との関係も強化している。北朝鮮は、世界中から経済制裁を受けているロシアがウクライナ戦線で必要な軍需物資を輸入できる貴重な相手国だ。2023年には金正恩・朝鮮労働党総書記がロシア極東を訪問し、2024年にはプーチン大統領が北朝鮮を訪問している。その際にロシアと北朝鮮は「包括的戦略パートナーシップ条約」に調印している。これは「いずれかの国が戦争状態になった場合、軍事支援を提供する」という内容で、事実上の同盟国化だ。

北朝鮮・中国・ロシアという「反米同盟国」の中で、いちばん切り崩しやすいのがロシア、という判断なのではないか。トランプ大統領にとって習近平や金正恩と握手をするのはハードルは高いが、プーチンであれば簡単に呼び出せる、という計算なのではないか。そこには単純な国力計算や国内事情だけではなく、民族差別的な背景もあるだろう。他民族の排斥を堂々と掲げているトランプにとって、分断策の切り崩しとして西洋人のプーチンを選ぶのは不思議ではない。

だから今回のアラスカ会談の目的は「ウクライナ問題の解決」などではない。そんなものはただの口実に過ぎず、トランプの目的はただひとつ「プーチンと握手している画を、中国と北朝鮮に見せること」なのだと思う。経済においても国内基盤においても死に体のロシアなど、ものの数ではない。ましてやトランプにとってはウクライナ戦線がどう膠着しようと知ったこっちゃないだろう。そんなことよりも、経済・政治・軍事すべてにおいて難敵の中国を孤立させることが、いまトランプが最も腐心しているところではないか。

予測としては、そのうちトランプは踵を返してプーチンを見限り、中国に接近すると思う。いまトランプがプーチン寄りにしているのは、「反米同盟国」に亀裂を入れるために過ぎない。頃合いを見計らって中国のほうに寄り、ロシアの焦りを誘う策に出るだろう。ロシアに接近するためにはウクライナ戦線という「口実」があるが、アメリカにとって中国に寄る口実はいまのところ無い。だからアメリカが中国に接近するために利用するのは台湾・韓国・日本のどれかだろう。いまアメリカが関税問題でそれらの国に圧力をかけているのは、いざという時に利用すべく関税を引き下げ、「ありもしない恩を売る」ための伏線ではないか。


世界中の新聞が今回のアラスカ会談を「ウクライナ戦線の安定」という観点から批判している。しかしもともとウクライナ支援に対して批判的なトランプ大統領が、そんな批判を気にするとは思えない。トランプにとってはウクライナが滅ぼされようがロシアの植民地になろうが、一切知ったこっちゃないだろう。アメリカは常に自国の利益しか考えず、そのための方策ならば手段を選ばない。そこから逆算すれば、何を狙ってあんな馬鹿な会談を実現させたのか、見えてくるような気がする。



いまのアラスカ、涼しいのかな。

広陵高校・甲子園大会辞退

「広陵高校辞退 暴力を根絶するために」
(2025年8月17日 朝日新聞社説)
「広陵甲子園辞退 SNS中傷招いた対応の甘さ」
(2025年8月13日 読売新聞社説)
「広陵の甲子園辞退 これでは後味が悪すぎる」
(2025年8月13日 産経新聞社説)
「広陵高の甲子園大会辞退 暴力もネット中傷も許せぬ」
(2025年8月11日 中国新聞社説)


甲子園大会で、広陵高校(広島)が1回戦に勝利した後、部内の暴力行為に関わる問題を理由に大会途中で出場を辞退した。暴力行為の被害者は転校を余儀なくされ、また広陵高校の対応にSNSで非難が相次ぎ、副次的に様々な問題を含む一大騒動に発展した。これに対する各紙の社説。

まず日付に注目すると、甲子園大会を主催している朝日新聞だけ8月17日と社説発表が遅い。広陵高校の出場辞退発表は8月10日。実に1週間も経ってから社説を発表している。一方、地元紙で当事者意識が高いと思われる中国新聞は出場辞退発表の翌日8月11日にはすでに社説を発表している。これは明らかに広陵の出場辞退を予測してあらかじめ記事を書いておいたと思われる。地元であれば広陵高校の実態についても従前から伝え聞くことがいろいろとあったのだろう。また、甲子園大会とは読者層の違う日本経済新聞、春のセンバツを主催している毎日新聞は、この件について社説を掲載していない。

結論から言うと、今回の4紙の中で合格点なのは産経新聞だけ。あとの社説は屑と断じてよい。
産経新聞だけが、広陵高校側が姑息に打った「逃げの手」を完全に封じている。

今回の一件を社説が論じるときに「被害者の救済が大事」「広陵の体制に問題がある」「高野連はこれでいいのか」「SNSでの誹謗中傷は許されない」などの言説を並べても、一切意味はない。すべて、当たり前のことだからだ。そんな当たり前のことをいくら並べたところで「ちゃんとしなきゃいけませんよ」程度の正論にしかならない。そんな正論を並べるのであれば、「ではどうすればそういう問題が起きない体制を作れるのか」まで提言しなければ建設的な主張にはならない。提言なしで表層的な「汚れ」だけをいくら書き連ねても、今回の事案の最も奥深い病巣を指摘したことにはならない。

今回の一件が大炎上した理由は、何よりも広陵高校校長・堀正和の会見内容だ。会見にあたっては広陵高校側もいかにダメージを受けずに甲子園大会から撤退する正当化をこね上げるか苦心したことだろう。その結果、堀正和校長が取った会見戦略は「広陵高校を『被害者側』として視聴者に印象付ける」という最悪の手だった。

会見冒頭で明らかにした堀正和校長の謝罪相手は「チーム、ファン、野球関係者、スポンサー」だった。明確に謝罪の対象を「今大会に出場しているチームの皆さま、高校野球ファンの皆さまほか、大会主催者である日本高等学校野球連盟、朝日新聞社、広島県高等学校野球連盟、各方面の皆さま」と並べている。つまり暴力事件の被害者生徒には一切謝罪していない。被害者の存在を会見で出すと、それだけで「いじめ案件の暴力性・犯罪性」が色濃く印象に残る。だから広陵高校側は今回の会見で意図的に「被害者」の存在を一切話題にしない策をとった。そして、そんな姑息な手段が通用するはずもなく、すぐにSNSをはじめマスコミなどが「被害者を無視している」「事件に対する認識が薄い」と大炎上した。


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被害者に謝っているわけではない


また堀正和校長は、「どこでどんな対応をすべきだったか」という記者からの質問に対し、「円満に終わる、両者が納得して終わることが最優先だった」と言い放った。「被害者にとって納得のいく解決が最優先」ではないのが異様に過ぎる。加害者と被害者がいる暴力事件で、なぜ「両者」、つまり「加害者」のほうも納得する結論を用意しなければならないのか。これは明確に被害者に対する口封じを正当化する言明に他ならない。

極めつけは甲子園大会辞退の直接の理由を「自分たちの不祥事」に帰することなく「SNSなどで学校関係者に誹謗中傷が寄せられており、生徒及び教職員の名誉と安全を保護するために」としたことだ。つまり「自分たちはSNSの『被害者』なのだ」と宣言したわけだ。自分たちの非を認めての甲子園辞退ではなく「SNSで誹謗中傷する悪い奴らがいるから自分たちは退かざるを得なかった」と、あからさまに他人の責任に転嫁した。広陵高校側にとっては、少しでも社会的な印象ダメージを食い止めようとする姑息な試みだったのだろうが、これが完全に裏目に出た。誰が知恵をつけたのか知らないが、完全にSNSやネットで交わされる意見・合意の形成過程を見誤った観がある。

今回の広陵高校の一件の根源を紐解くと、なんのことはない、すべては「金」が原因だ。 
なぜ広陵高校に暴力が蔓延ったのか。なぜ中井哲之監督はコーチを息子に、寮母を妻に据える一族体制を独裁したのか。なぜ中井哲之監督は部員の暴力行為を隠蔽したのか。
すべて「勝つことが高校側から宿命づけられているから」だ。なぜ宿命づけられるのか。高校の募集人員に影響するからだ。すでに広陵野球部は学校経営に関して鉄骨の大黒柱と化している。その学校経営の根幹を不祥事「ごとき」で潰すわけにはいかない。このようなプレッシャーの中、寮生活で逃げ場のない生徒たちのストレスは甚大なものだっただろう。そりゃいじめも発生する。

なぜ高野連は広陵高校の不祥事を大甘裁定で見逃したのか。なぜ朝日新聞はこの件を社説で掲載するのに1週間もかかったのか。朝日新聞にとって甲子園大会は莫大な利益と利権につながる「ドル箱」だ。単純に「甲子園は金になる」のだ。だから軍国主義を批判している朝日新聞が開会式の軍隊式入場行進について一言も文句を言わない。旭日旗を彷彿とさせる社旗を堂々とメインポールに掲げる。甲子園大会を盛り上げるためには「強豪校」「スター選手」「名監督」などキャラの立つ登場人物が欠かせない。それが高野連の大甘裁定につながった。

朝日新聞としては、広陵高校校長・堀正和の下手くそな会見を見て「ヘマしやがって」と舌打ちする思いだっただろう。普通に見れば、あの会見はさらなる炎上の火種にしかならないことくらい誰にだって分かる。だから朝日新聞はすぐに社説を載せるわけにはいかなかった。とりあえずSNSの炎上の仕方をよく観察し、火の手が我が身に降りかからないように慎重に社説を発表する必要がある。大会主催の立場からして無視を決め込むことはできず、何らかの声明を出す必要は分かっていただろうが、さすがに1週間はかかりすぎだ。その1週間で、朝日新聞は必死にSNSの動向を探り、広陵高校会見の二の足を踏まないように慎重に社説を書いたのだろう。

だから朝日新聞の社説は、誰のほうを向かって書かれているのかさっぱり分からない。当たり前の正論だけで成り立っている。「暴力は許されない」「被害者と真摯に向き合う姿勢が不可欠だ」「その出発点は関係者が納得する徹底した調査と説明だろう」「高野連とともに責任と役割を積極的に担っていきたい」... 馬鹿かというレベルの社説だ。そんなことは、当たり前だ。小学生にでも書ける。わざわざ社説で書くようなことではない。朝日新聞の言ってることは「ちゃんとしなければならないのである」ということを、言葉を変えてあれこれ並べているだけだ。

また、朝日新聞は社説の最後を、広陵高校と同様にSNSの社会的責任に押し付けている。

学生野球憲章は「一切の暴力を排除し、いかなる形の差別をも認めない」とする。スポーツ基本法も先の通常国会で改正されて「暴力等の防止」が明記され、性的な言動やインターネット上の誹謗中傷などが具体的に示された。今回の一連の問題でも、不確かな情報や多くの個人名がSNS上で飛び交い、人権侵害の連鎖が懸念されている。ネットにまつわる課題への対策のさらなる検討が急務だ。
(朝日社説)

書いていること自体は正しいので、この記述をもって「朝日新聞の社説はけしからん」とは言えない。しかし朝日新聞の姿勢も広陵高校と似たり寄ったりだ。この記述を社説の最後にもってくることによって、読み手に「SNSが悪いんだなぁ」という印象を強く与えようとしている。新聞社説が「内容」よりも「印象」で点を稼ごうとするようになったら終わりだ。朝日新聞の社説を任される立場の人間はいま、この程度の愚劣な文章しか書けない程度なのが現状なのだろう。常日頃から記事に「角度」をつけるのに慣れっこになってしまった挙句、自分がその「角度」から滑り落ちた体たらくだ。

中国新聞は、やはり地方紙というか、人材が不足している感がある。今回の件で地元の中国新聞だけが発することができる情報は「地域性に瑕疵はなかったか」の一点だけだ。なぜ今回の一件が広島県で起きたのか。なぜ広陵高校という学校で起きたのか。それを内側からの目で意見を発することができたのは日本全国の新聞の中で中国新聞だけだったはずだ。しかし中国新聞はのうのうと「今回の件、よくないっすよねぇ」などと他人事のように事件を遠くから眺めている。自分たちの地元でこのような事態が起きたという当事者意識が欠片もない。

高校球界はよくいわれるように古い体質を引きずっている。不祥事があれば、チーム全体で連帯責任を負うことも珍しくない。指導者による体罰も絶えない。ファンの側も品行方正な「理想の球児像」を負わせていないか。今や令和の世である。高校生たちがスポーツを楽しめる環境づくりが急がれる。SNSへの対応も含め、関わる大人たちの責任である
(中国新聞社説)

日本の都道府県の中には高校球界の体質改善に成功したところもある。「チーム全体の連帯責任」という概念など払拭した地域も多い。しかし今回、広島県では相変わらず旧態依然とした古い体質に根付いた事件が起きた。なぜ広島だったのか、地元の立場からそれを分析して全国に発信するのが地域紙の役割ではないのか。

今回の中国新聞の社説は、とにかく拙速に堕した感がある。広島が震源地となった不祥事に対して地元紙が黙っていることは許されない、程度の当事者意識はあったのだろう。だから全体として事実報道にとどまる程度の社説しか書けなかった。広陵の辞退発表の翌日という異様な早さで社説を発表したことから考えて従前から広陵高校の鬼畜性も十分に理解していたはずだが、それらに全部蓋をして、まるで全国紙を模したかのような大上段に構えた正論を無意味に並べた。地方紙の役割をまったく理解していない無能と断じて良い。田舎者が無理して「大都会発行の全国紙」を真似して醜態を晒したに過ぎない。

読売新聞は、さすがに朝日新聞よりも明確に広陵高校の責任を糾弾している。

被害者の生徒は転校を余儀なくされた。7月下旬以降、被害生徒の保護者を名乗る人物がSNSで、暴力行為には学校が認定した以上の部員が加わっていたなどと訴え、学校側への非難が殺到した。SNS上の中傷はあったにせよ、学校側が問題を軽視し、初動対応を誤ったことが、出場辞退につながったのは明らかだろう
(読売社説)

確かにこの一件での広陵高校の落ち度はそこにもあるのだが、そこだけが全てではない。むしろ広陵高校の初動対応の誤りは、広陵でなくてもどの学校でも似たり寄ったりの対処しかできなかっただろう。今回の広陵の一件を他山の石として、日本全国の高校が襟を正す役には立たない。「ちゃんとしましょう」と言ってちゃんとできるのであれば、そもそも今回のような案件は起きない。「学校側が問題を軽視し、初動対応を誤った」ことは、今回の広陵高校の問題点の「結果」であって「原因」ではない。たとえば広陵高校側が今回の一件を踏まえ再発防止のために「不祥事・暴力事件が起きたときのための対処マニュアル」を作ったとしたところで、それが役にたつとは到底思えない。

産経新聞と読売新聞との差は、広陵高校の病巣の一番深いとこをしっかり抉っているところだ。広陵高校のミスは初動の対応を誤ったことではない。事実上すべてが明るみになった記者会見の場に及んでなお「自分たちのことをこう思わせよう」という印象操作に走ったことだ。

2回戦を前に辞退を表明した広陵の堀正和校長は、SNSでの誹謗中傷が大会運営に支障を来しており、寮に爆破予告があったことなどを例示しながら「生徒、教職員、地域の方の人命を守ることが最優先と考えた」と強調した。SNSでは加害側とされる部員の実名や写真がさらされていた。爆破予告などは言語道断といえるが、それでは広陵はSNSの被害者なのか。そうではあるまい
(産経社説)
堀校長は「新しい事実が判明したわけではない」と述べ、事実の隠蔽や矮小化などは「一切ない」とも断言した。それなら大会を辞退する必要はなかったはずだ。被害生徒側が不満を残した初動調査の不徹底こそ、大いに反省すべきである。
(同)

なぜ広陵高校でこのような事件が起こったのか。端的に言うと「広陵高校は、自分たちが外の目にどう映るかしか考えていない」からだ。だから暴力行為を隠蔽した。だから監督一族の独裁体制を容認し選手に対する監視の目を強化した。だから「1試合だけ戦ってから辞退」という不可解なことをやった。

どの甲子園出場校も、選手の遠征費や滞在費は寄付金で賄われている。OBや地元企業からの寄付金なしでは長い甲子園日程を戦えない。金が絡むことだから収支決済もそれ相応に厳しいだろう。もし甲子園出場権を得ても、1試合も戦わずに開催前に棄権したら「甲子園には出ていない」という扱いになり、集めた寄付金は返却しなければならない。少なくとも今年度分の必要経費として計上はされないだろう。だから広陵野球部は1試合でも甲子園で「試合に出た」という既成事実を作る必要があった。要するに金だ。広陵にとっては、初戦の日程8月7日と、SNSで暴力事件が拡散され炎上する早さとを見比べて、逃げ切れるかどうか気が気ではなかっただろう。

そして、そういう「外からどう映るか」しか考えない最たるものが、あの辞退会見だった。広陵高校側は「事態の収束」「被害者への補償」「学校経営の刷新」などは一切考えていない。広陵高校にとっては、暴力被害者の生徒が自殺しようが法に訴えようが、知ったこっちゃないのだ。そんなことはどうでもいい。広陵高校はただひたすら「来年度の入試志願者の激減を避ける」ということしか頭にない。だからイメージ戦略に走り、「自分たちが被害者に見えるように」とSNSの誹謗中傷を持ち出した。

おそらく広陵高校が今回の件を反省する振りをして「不祥事・暴力事件が起きたときのための対処マニュアル」を作ったとしたところで、いざ実際にそのマニュアルが必要な事態が発生しても「これは不祥事ではない」「暴力事件など起きてはいない」と事実のほうを曲げるだろう。マニュアルがマニュアルとして作用するには、まず現状を認める客観性が必要だ。そしていま広陵高校には、その客観性が微塵もない。「よそにどう見られるか」しか考えず、自分の頭の中だけで「最適解」をこね上げ、挙句のはてにあんな無様な会見を日本全国に晒した。

この「初動の不手際」「それに続く体裁作り」というふたつの病巣を指摘しているのは、産経新聞だけだ。「広陵高校は自分たちが言っているような『SNSの被害者』などではない」ということを指摘しなければ、今回の広陵の問題点を指摘したことにはならない。他の新聞の社説はことごとく、広陵高校校長・堀正和が辞退会見で「こういうふうに持っていきたいな」と企図した印象操作の枠内でしかない。


広陵高校としては「野球部が甲子園を辞退する」「校長が広島県高野連の副理事を辞する」という2枚の「同情を引くカード」を切ることで今回の騒動を沈静化させようとしているのだと思う。しかし周知の通り、世論はそんな程度では納得せず、広陵高校に向けられる目は厳しい。自分たちの何が悪いのかを理解しようとせず、ひたすら高校生を矢面に立たせて「SNSの誹謗中傷のせいで夢を諦めざるを得なかった若者たち」なんてことをやっているようでは、当分広陵高校に陽の目は当たるまい。



あの会見、明らかに誰かが絵を描いたよね。

音を聴く

最近街中では誰も彼もがワイヤレスイヤホンをつけている。


電車の中でも、街中を歩きながらでも、みんな耳に異物を突っ込んで何かを聞いている。 あれはみなさん一体何を聞いているのだろう。一日の時間の隙間もなくびっちりと音に囲まれて生活して、疲れないのだろうか。

便利なのは間違いない。何を隠そうそういう僕もワイヤレスイヤホンを持っている。しかし、一日中のべつまくなし常に何かを聞いているかというと、そこまでのヘビーユーザーではない。だから電車の中で若い人は学生さんなどがいつもイヤホンを耳にしているのを見ると、一体何を聞いているのか気になる。 好きな音楽だろうか。でもいくら好きな音楽でも、一日数時間、それを毎日毎日となると、そんなに聞かなくてもいいような気がする。昨今、そこまで深い鑑賞に耐えられるほど質の高い音楽に溢れているとは思えない。ではニュースやPodcastや深夜ラジオの配信などの情報だろうか。いやそれとて、朝から晩まで情報に囲まれていれば情報疲れしてしまうだろう。

みなさん何を聞いているのか分からないが、ひとつ分かることは、最近の若い人たちは僕のような昭和世代のおじさんに比べると「情報の吸収スタミナが桁違いに高い」ということだと思う。昔は情報吸収は本・新聞・雑誌など「視覚」が主だった。しかし今は携帯機器の発達やワイヤレスイヤホンの普及によって耳から情報を吸収する機会が増えた。それに飽きず疲れず、ずっと情報を吸収し続けるというのは半端な体力ではない。僕などワイヤレスイヤホンをつけていられるのは通勤時間のいいとこ半分くらいまでだ。

いや、聴覚情報のみならず、今の若い人たちは視覚情報の吸収力も物凄い。なにせずーっとスマホを眺めてられる。電車に乗ってる間も、ラーメン屋さんで食事をしている間も、街中を歩いている間ですら、ずーっとスマホを眺めている。見ているものの選択肢も幅広い。Yahoo!ニュースを見ている人、SNSで友人知人とリアルタイムで繋がっている人、投稿動画を眺めている人、ドラマや映画を見ている人すらいる。昔も電車で何かを読んでいる人はいた。しかしせいぜい文庫本か新聞程度のものだっただろう。それに比べると今の人たちは気軽に物凄い情報量を吸収し続けている。

「今の若者は本を読まない」というのは、いつの時代も嘆かれ続けていた批判だ。しかし、僕の目から見て今の若者が情報摂取量において先の世代に劣るとは全然思わない。それどころか、老人世代と比べると今の若者が単位時間に摂取する情報量は比べものにならない量だと思う。老人世代が嘆き続けている愚痴は、所詮「今の若者は、自分の世代とは情報摂取の方法が違う」というだけのことに過ぎない。情報吸収の手段が格段に多くなったため、先の世代にとって唯一の手段だった「文庫本」「新聞」といった媒体に割く時間が相対的に減っただけだ。若者にとっては当たり前の現代的な情報吸収を遂行してみろ、と今の老人世代が強いられたら、おそらく夥しい情報の洪水に耐えられまい。老人世代はそんなに電子機器を眺め続けてはいられないだろう。

だから最近街中を歩いている若者を見るとほとんどの人が耳にワイヤレスイヤホンを入れて何かを聞いているのは、彼らの貪欲な情報摂取力を示しているのだろう。音楽だって日々移り行く情報の断片に変わりはない。そういう若者を見ると、なんというか「体力の衰え」を感じる。昭和のおじさん世代はそこまでの情報摂取のスタミナはないので、何も聞かずに頭を空っぽにする時間のほうが多い。そういうわけで僕は普段、街中を歩く時にはワイヤレスイヤホンを耳につけていないことが多い。


しかし最近は、それとは別の理由で、街を歩く時にイヤホンをつけないことが多くなった。
 なんというか、「街の音」そのものが面白くなってきたような気がする。


街の喧騒なんてどこも似たようなものだと思うだろうが、街にはそれぞれ固有の「声」がある。自分の住んでいる街と職場のある街でも、音が違う。車の騒音、人の話し声、公共アナウンス、そういった街に流れている生活音は、それぞれその街の歴史と現状を如実に反映している。同じ車の騒音でも、幹線道路沿いの街並みと住宅地では、音が違う。同じ女子高生の笑い声でも、渋谷のセンター街と神田神保町の古書店街では、声が違う。最近、そういう「街ごとの音の違い」に敏感になってきた。もともとはワイヤレスイヤホン疲れから始まった習慣だが、今となっては積極的に選択して行なっている行動になってきている。

ひとつには、僕の生活のリズムがゆっくりになってきたことがあるだろう。昔は街歩きをする時には、目的があってそれを果たすために目的地に真っ直ぐ向かう感じで歩いていた。今でも基本的にそれは変わらないが、それよりも歩くのがゆっくりになり、よそ見や道草が多くなった。せっかく街を歩くのだから、目的遂行のためだけではなく、ちょっと散歩を楽しもう、という感じで歩くようになった。要するに歳をとったのだと思う。

そうやって街を歩くと、街の「声」がよく聞こえるようになる。人間というのは不思議なもので、聞きたくない音、聞く必要のない音は、一切聞こえない。目的地に向かって一目散に歩いている人には、街の「声」は全く聞こえないだろう。そういう「声」が聞こえるのは、それを聴こうとしている人だけだ。


そういう「街の音」に関して、僕は不思議な経験をしたことがある。

アメリカに留学していたとき、最初の冬休みに僕は車を持っていなかった。僕が住んでいたところは大学街で、冬休みになったら閑散として誰もいなくなる。開いている店も少なく、開いているのは図書館とジムくらい。マイナス20℃くらいの極寒の中、白い雪に埋もれた街は、それこそ生活音が全くない真の静寂だった。夜になるとあまりに静かなので、自分以外の人たちはみんな死に絶えてしてしまったのではないかと疑うくらいの静けさだった。やることといえば筋トレと勉強くらいしかなく、日本から持っていった数冊の文庫本をそれこそ貪るように何度も何度も読んでいた。

その冬休みの辛さがかなり堪えたので、その次の夏休みに日本に帰国した時、僕は変なことをやった。街中を歩いて、日本の街の普通の騒音を録音したのだ。今となっては笑い話みたいだが、その時はかなり深刻だった。なにせ冬の静けさがつらすぎる。その時に僕が一番聞いていたかったのは、日本の流行りのJ-POPではなく、大好きな落語でもなく、「街の普通の騒音」だった。普通に何気なく暮らしている街の騒音というものに、まさかありがたみがあるとは夢にも思わなかった。地元の駅前、新宿駅のコンコース、空港、ショッピングモールなど、いろんなところで延々と「普通の音」を録り貯めた。

その次の冬休み、満を持して僕は日本で録った街の音を聞いてみた。すると不思議なことに、その音はとても不快だった。なんのことはない、ただの騒音だ。当たり前といえば当たり前だろう。想像していたような、街の喧騒を聞いて寂しさが紛らわせられる、ということは一切なかった。あれだけ聞きたかった街の「普通の音」が、録音してアメリカに持っていったら「ただの騒音」になり下がってしまったのは、なぜだったのだろうか。

たぶん、「生の音」と「録音した音」は違う、ということだと思う。両者は情報単位としては同じようなものなのだろうが、聞いているのは情報分析マシンではなく、人間なのだ。人間は音をただ単に情報手段として吸収するのではなく、それぞれの音に「意味」をもたせてそれに浸る。だから、実際にそれが発されている「文脈」から切り離されて、ただの「音」だけを聞いても、何の感慨も湧かない。

大事な講演や会議などを録音する人は多いだろう。しかし、その録音を後で実際に聴くかというと、聴かない人が多いのではないか。会議などで重要な情報を聞き逃さないのように記録する、というのはよく分かる行動だが、会議の最初から最後までを通して聴く人はあまりいないだろう。実際の会議や講演と違って、録音して聴く音声には実際の現場にあった「熱量」がない。人が喋っている姿勢も意欲も、何もかも削ぎ落とされた「情報」だけが残る。

ライブやコンサートに行く人というのは、何を求めて行っているのか。「その音楽が好き」「そのアーティストが好き」というだけの理由なら、別にCDでもダウンロード音源でも、動画配信でも別に構わないはずだ。それでも多くの人が「ライブ」に赴き、生の人間の歌を聴き、踊りを楽しむ。 これも会議の録音と似たようなもので、「情報だけ切り取られて配信された動画・音声」と、「実際にその人がそこにいて、生の動き、生の歌を聴く」というのは、格段にレベルの違う行為なのだと思う。

僕が「録音した日本の街の音」を単なる雑音にしか聞こえなかったのと反対に、ライブやコンサートで実際に耳にするアーティストの生声は「魂をもった生きている声」なのだ。生きている人が、そこにいる人が、生の音を出す、ということの特殊性を認識していない人はわりと多いのではないだろうか。情報媒体が発達し、誰もがスマホを持ち、推しの歌声や踊りをいつでも鑑賞できる世情が、当たり前になってきている。

かように「生の声」と「切り取っただけの情報音声」には違いがある。そして昨今の若者は、後者に対する吸収力が先の世代とは桁外れに増強されているのだと思う。なにせ、一日中配信動画を見ていられる。一日中ワイヤレスイヤホンを耳に入れていられる。僕のようなおじさん世代だと「情報疲れ」してしまうのに、若者は平気でスマホを眺め続けていられる。その情報受容力の物凄さよ。

僕は去年、一年中の講義の中で1日だけ動画配信にしたことがある。12月、年末暮れの押し迫った時期に授業日が設定されており、その授業日程は学生からも不評だった。だから折衷案として「授業は休講にしないかわりに、その日だけ授業を動画配信にしようか」と学生に提案してみた。すると学生は喜んで同意してくれた。特に遠方から上京し一人暮らしをしている学生は、帰省の日程を早めることができて嬉しかったそうだ。 普段教室で行っている講義を動画配信にしたため、伝えたい情報がうまく伝えられていないという不備はあっただろう。しかし動画配信授業はおおむね好評で、中には「いつもより分かりやすかった」という感想まであった。

それとて、昨今の学生が「動画配信のように切り取られた情報単位を吸収する能力が高い」ということの証左だと思う。彼らは、教室の対面授業よりも動画配信のほうに吸収慣れしている。 「昨今の学生は本を読まない」というのは、古今東西常に言われてきた苦言だろう。しかし今の若い学生さんたちは、昔の学生に比べて、本を読む以外の情報吸収能力が格段に上がっている。インターネットを使った検索能力も高い。昔の学生が紙媒体で1週間かかった調べ物を、今の学生はスマホを操作して10分で見つけてしまう。

電車に乗ってる高校生が、耳にワイヤレスイヤホンを入れているのを見るたびに、「何を聞いているのかな」という当世事情に関する興味と同時に、「よく疲れないね」という感嘆とが入り混じった気分になる。僕は電車の中ではどちらかというと文庫本派だが、最近は文庫本さえ読まなくなってきた。その日、その時、その瞬間の、その場の音を聞くことで、場の空気を感じることが楽しくなってきた。流れる時間が昔よりもゆったりとしてきたからだろうか。



それともただ単に文庫読む体力もなくなってきたのかな

何でもないようなことが幸せだったと思う

最近、ちょっと面白い本を買った。


loyho


『ロイヤルホストで夜まで語りたい』
(朝日新聞出版、1760円)


様々な人がロイヤルホストに関する想いを綴るだけのエッセイ集。ファミリーレストランの中でもわりと高価で特別感のあるロイヤルホストは、作家やタレントさんなど創造的な仕事をする人に好まれているらしい。売れてない頃の憧れだったり、普段使いにしている習慣の一片だったり、それぞれの筆者の人生の交差点を垣間見るようで面白い。

ほとんどの筆者が、一押しメニューとして「パラダイストロピカルアイスティー」を挙げている。僕も飲んだことがある。確かに美味しい。中にはドリンクバーはあれしか頼まない、という人もいるらしい。ドリンクバーなんてどこのファミレスでも同じだろ、と思っていたので、あれはロイヤルホストのオリジナルだったのか、と知ってなんか意外な気がした。


僕個人もロイヤルホストには思い出がある。僕がよく行ってたロイヤルホストは、仙台の繁華街である一番町。藤崎デパートからちょっと広瀬通りに向かったところのビル2階にあった。今はもうないらしい。

当時、僕はその同じビルの3階にある英会話教室に通っていた。アメリカに留学しようと決めてはいたものの、あまりにも会話力が貧弱だったので、貧しい学生生活の中から費用を工面して英会話を習いに行っていた。週に2回、2年くらい通っただろうか。

英会話の授業の前か後かのどっちかに、ロイヤルホストで予習や復習をした。ひとり暮らしをしてた身としては家に帰ってから料理をするのが面倒だったこともあり、英会話の授業の日はロイホでゆうごはん、という習慣になっていた。今考えてみるとかなり分不相応に贅沢な食生活だった。そんな日々の思い出があるから、僕はロイヤルホストに行くと今でも、まだ何者でもなかった時代、これから大きなことに挑むつもりで研鑽を積んでた時期のことを、よく思い出す。


ある日、自分の大切な人が死んだら、どうすればいいのだろうか。


去年、父が死んだ。思ったよりも悲しくはなかった。長く闘病生活気味だったこともあり、母が介護で大変だったので、その時が来た時は悲しみよりも安堵のほうが大きかったかもしれない。葬儀のときも、事後処理の時も、僕は一切泣かなかった。そのことが我ながら不思議で、なんでこんなに平然としてられるんだろうか、と自分でも分からなかった。僕自身が歳をとったからなのかな、と漠然と思ってた。

人が死んだ時に悲しむというのは、死んだという事実をすでに自分の中で受け入れているということだと思う。死んだということがわかった上で、悲しいのだ。もし突然、事故や災害で家族が死んだときには、悲しいというよりもまず死んだという事実が受け入れられなくて呆然とするのではあるまいか。幸か不幸か僕はまだそういう経験をしたことはないが、そうなるだろうということは想像がつく。昨日まで、今朝まで、普通に接していた家族が突然死ぬ。通り魔的な犯罪や高齢者の暴走車に轢かれるなど、理不尽極まりない理由で死ぬ。そういう時、ひとは「悲しくて泣く」という段階までに至らず、何が起きたのか心が消化できず、信じられない思いで呆然とするのではないだろうか。

父はゆっくり死んでいったので、家族は心の準備をする時間があった。父は普通のサラリーマンとして毎日をこつこつと生きていた人だったので、それほど大言壮語するほどの業績など無い。そんな父について思い出すのは、小さい頃から当たり前のように接していた習慣、小さな出来事ばかりだった。

残された人が後になって思い出すのは、なにか特別な出来事ではなく、普段あたりまえのように暮らしていた日常のほうなのだそうだ。「なんでもなく当たり前だと思っていたことが一番大事なことだった」というのは、様々な表現活動のモチーフとして用いられている。誰でも頭では分かってはいることだが、なかなかそれを実感として自分の心の中に落とし込むことはできないのだと思う。いざ自分が「当たり前の日常」を奪われた時に、後からその大切さに気づく、という後ろ向きな姿勢が、悲しさを増幅させるのだろう。

だれも日常、特別な出来事を欲する。なにかいつもとは違うおいしいものを食べたい。いつもとは違うどこか変わった所に行きたい。変化は、単調な日常によって摩滅した生きる力を蘇らせてくれる。しかし、それと「当たり前の日常」がもつ価値は矛盾しない。普段の土台があってはじめて、変化は変化として価値をもつ。旅行好きな人が、家が火事で燃えていいかというとそういうわけではない。グルメや食べ歩きが趣味の人が、家に炊飯器はいらないかというとそういうわけではない。

あたりまえの日常に感謝の念をもつのは、思ったよりも難しいことなのではないだろうか。それができることが、「丁寧に生きる」ということだと思う。それをしないで当たり前の日常を軽視すると、いずれ巡って自分に返ってくる。不意に当たり前の日常が理不尽に奪われた時に、心構えが全くできていない。
大震災や凶悪犯罪など、人が命を奪われるニュースは連日報道されている。しかし、そこから自分の日常と向き合う姿勢に落とし込むのは難しいことだろう。急に家族の命が奪われたら、自分はどうなるだろうか。


ロイヤルホストのエッセイ集について、はじめに「ちょっと面白い本」と書いたが、その面白さは世間的に言われている数値評価とはちょっと違うと思う。「いいね」が何万個も押されているわけではない。何百万部も売られているわけでもない。僕のおすすめを真に受けて「なんだ、ちっとも面白くないじゃないか」などと文句を言われても困る。お笑い番組や落語や漫才のようにゲラゲラ笑うものだけを「面白い」と断じる人には、ちょっと分からなかろう。

僕は日頃から論文や研究書などの硬い文章ばっかり読んでいるので、どうしても何かを読むときには「価値」を探し求めながら読む習慣がある。論文というのは、なにかしら「まだ世の中に知られていない未知の情報」が含まれていなければ無価値だ。だから文章を読むときには「その文章しか持っていない唯一無二の価値」を探しながら読んでしまう。

このロイヤルホストのエッセイに、そんな「価値」は無い。どの筆者も、自分がロイヤルホストについて持っている思い出とつらつらと書き連ねているだけだ。その人にとっては特別の思い入れなのだろうが、他人にとっては「だから何だ」というだけの話だ。それを面白いか面白くないかと問われたら、面白くないと思う人のほうが多いのではあるまいか。
だからこそ、その人ひとりにとっては「かけがえのない日常」なのだと思う。他の人にわかってもらう必要など無い。特別感も一切ない。当たり前の日常を、当たり前に過ごすことが、どれほど大切なことなのか。その大切なものは人それぞれ違う。それぞれに違う、それぞれの「あたりまえ」を大切に過ごすことが、「幸せに生きる」ということなのではないか。

自分の人生に不満を持っている人や、自分の境遇を不幸だと思っている人は、必ず誰か他の人と自分を比べている。「自分は不幸だ」ではなく、「自分は誰々と比べると下だ」という精神構造になっている。それは不幸感に限らず、人生で感じる否定的な感情はすべて同じ構造になっているのだと思う。意識せず比べる対象を前提にしているから、その格差によって自分自身を貶めてしまう。家族が急に死んだときに呆然としてしまうのも、それまでの当たり前の日常と、急に訪れた理不尽な現実の、間を埋めることができないからだろう。呆然とするのは、前提となっている「当たり前の日常」の価値をそれまで自覚したことがないからだ。失って呆然としているのではなく、自分がそもそも何を失ったのかが分かっていない。

「後悔しないように全力で生きる」という文言はよく自己啓発書の類で耳にする。しかし、その意味するところはアグレッシブに未知のものに挑戦するような動的なものばかりではあるまい。普段気にもとめないような、自分が置かれた自然な環境に気付き、その価値に感謝し享受する静かな気付きも、「後悔しないように生きる」ということの一端だと思う。

ロイヤルホストをめぐる「その人にとっては当たり前で、大切な日常」という文章を読み続けて、そんなことを考えた。
だから、「ちょっと面白い本」ではないのかもしれない。僕が勝手にこの本を読んで、本文の内容とは関係ないところを「ちょっと面白い」と感じただけなのだろう。



あと食後のパフェを推してる人も多かった。

「絶対的真理」の否定

大学で講義していつも思うことなのだが、「正解病」に冒されている学生が本当に多い。


講義で何を説いても、学生は必ず「で先生、正解は何ですか?」と訊いてくる。特に、大学に入ったばかりの1年生にこの手の学生が多い。
だからといって学生が「事実」に対する好奇心が旺盛というわけではない。要するに学生は、「テストでなんて書けば点をもらえるんですか?」と訊いているだけのことに過ぎない。

僕の実感では、そういう学生はだいたい大学1年生が終わる頃に授業に出てこなくなる。2年生になったら楽に単位をとれる授業ばかりを選んで出るようになり、大学の勉強よりも就職活動のほうに精力を傾けるようになる。口癖は「大学の授業なんてつまらない」「役に立たない」。
決して「優秀な学生」ではない。だから就活もうまくいかず、大学の勉強も就活も両方共倒れになって、暗鬱とした状態で大学を放り出される。 生きる姿勢相応の、似合いの結末だ。

端的に言うと、そういう学生は「大学1年生」ではなく「高校4年生」なのだ。世の中の問いには、すべて答えがあると思っている。なんにでも「正解」があると思っている。そして、その「正解」をたくさん知っている人が「頭がいい人」だと思っている。
そういう学生は、「高校までの勉強」と「大学からの勉強」の違いが分かっていない。

高校までの勉強には、正解がある。テストにも必ず正解がある。高校までの中等教育は既存の知識体系を敷衍することが目的だから、そのときその時代でコンセンサスを得られている知識体系を理解しなければならない。そして、その到達度は「成績」という形で表される。試験の点数と通知表の成績が、その生徒の「価値」を決めるようなところがある。
つまり高校までの勉強の成果というのは、常に「他人の評価」によって計られる。テストの点数も通知表の成績も、教師という「他人」の評価に過ぎない。それは大学入試でも同じことで、大学という「他人」が生徒の価値を判断する。

この「他人の評価」によって自分の存在意義を塗り固めてしまった生徒は、大学に入ってからも相変わらず「他人の評価」、つまり「成績」によってしか自分の価値を実感できない。訊かれたことに何と答えれば「正解」なのか、何と言えば「評価してもらえる」のか、そればっかりしか考えていない。
そういう思考回路の学生は、逆に言えば「評価につながらないことには意味がない」と考えるようになる。いくら頑張っても自分の評価を上げる役に立たないものには見向きもしない。そして「それは何の役に立つんですか?」が口癖になる。

世の中に開く扉を、自ら固く閉ざしてしまう姿勢だろう。「役に立つか・立たないか」という尺度で世界のすべてを計るようになり、価値のないものは切り捨ててしまう姿勢が習い性になる。
そもそも、彼らは「役に立つ」ということの意味をそれほど深くは考えていない。何が「役に立つ」ものなのか、自分でもよく分かっていない。世の中のすべては、突き詰めて考えていけば、すべて「役に立たないもの」なのだ。むしろ人生にとって価値があり、面白いものは、だいたい役に立たない。学生は考えが浅く、視野も狭いので、とりあえず自分の目先の利益にならないものを「役に立たない」と簡単に切って捨てる。そういう学生が潜在的に恐怖感を持っているのは就職活動なので、つまるところ「自分の就活に役に立つかどうか」で大学の活動すべてを測ろうとする。そりゃ、就活もうまくいくはずがないだろう。

実のところ、大学で学ぶ分野はことごとく役に立たない役に立たないから、面白いのだ。大学の研究者で「自分の研究は世のため人のために役に立つ」などと思って研究している人などいない。どの研究者も、その分野が面白いから研究しているだけなのだ。優秀な研究者というのは「艱難辛苦に耐えて猛勉強し立派な業績を挙げる偉い人」ではなく、「面白がって蝶を追いかけていたらいつのまにか山の頂上に辿り着いてしまった人」だ。そういう、物事なかんづく世界に対する見方を転換するのが、大学1年生のうちに課された知的活動といっても過言ではない。

「正解病」は単にテストの点への渇望というだけでなく、真実に対する無邪気な信頼があるようだ。どうも彼らは「世の中には、絶対的な真実がある」と信じ込んでいるらしい。
高校までの勉強と違って、大学から先の勉強には正解がない。数学や論理学のような形式科学はともかく、経験科学で取り組む分野に絶対的な真実など存在しない。高校までに数学と理科をきちんと勉強しないから、そのような間抜けな錯誤を引きずることになる。


中世以来、真実を希求する方法として人間は宗教から哲学への脱却を試みていた。その方法論として、一般原則から個別事象を導く合理論と、個別事象から一般原則を導く経験論が拮抗したことは高校の教科書でも習う程度の基本知識だろう。ただし、多くの学生がそこで学習を止めてしまい。合理論と経験論のバトルがどのような結果に落ち着いたのか、「その先」を知らない。

巷の哲学書では、「合理論と経験論はカントによって統一された」ということになっている。そう書いてある本が多い。しかしもともとカントは合理論に基づく立場であり、ヒュームなどの経験論の知見を得てその修正に迫られた、というほうが事実に近いと思う。また現代的な「事実」とカントの目指したものにはずれがあり、「何が正解なのか」という問いで求めているものが違う。現代に生きる我々は「事実」というと人間の存在に関係なく所与のものとして成り立つ普遍的事実をイメージするが、カントはあくまでも「人間は世界をどう認識するのか」を追い求めていたのであって、いわゆる自然科学的な「真実」を対象にしていたわけではなかろう。個別の事象を観察するとき、ただ観察しているだけではその背後にある一般的法則にはつながらない。頭の中に何らかの知識体系・法則化された一般原理があって、はじめて個別現象が意味をもつ。例外事象を見て「おかしいぞ」と思うためには、まず頭の中に「こうあるべきである」という知識体系がなくてはならない。

カントのこのような構成主義の考え方は、合っている間違っているの問題ではない。単にカントは人間に蓄積される知のあり方をそのように捉えていた、というだけのことに過ぎない。実際のところ、合理論はそのあと形式科学として発展し、数学や論理学が体系化された。一方、経験論はそのあと経験科学として発展し、一般科学に広く共通する方法論になっている。

いまの学生は高校時代にあまり理科の授業を熱心に受けていないらしく、この「経験科学」の方法論にびっくりするくらい疎い。経験科学のレポートに「証明」などという言葉を平気で使う。
経験科学というのはイギリスで流行った経験論をもとにした方法論なので、まず「観察」が基本となる。その観察から「疑問」を導きだし、それに「仮説」をたてる。その仮説の妥当性を検証するために、「予測」を立て、それが正しいかどうかを「実験」する。実験によって結果が是と出たら他の予測を立て、また実験を繰り返す。そのうちに予測に対して否となる結果が出てくる。そうなったら「仮説」を修正する。

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経験科学の一般的方法。理科で習ったはずだが…


カントが言ってたのは、この「疑問」を導くためにはまず頭の中に何らかの知識体系が必要だ、ということに過ぎない。常識が一切ない人にとっては、木からリンゴが落ちるのではなく空に飛び上がっても不思議でも何でもない。そういう面では経験科学は「経験100%」だけでは成り立たない、という程度のことだ。これを「経験論と合理論の融合」というのは無理があるだろう。

経験科学の方法論はカール・ポパーによって20世紀前半に確立されたが、経験論と合理論の「融合」によって直接導かれたものとは思えない。カントが両者の不備について考察したからといって、それがすぐ現代経験科学に結びつくと考えるのは飛躍がある。
経験科学の方法論を見ればすぐに分かるが、経験科学には終わりがない。「これが真実ですよ」という「あがり」が無いのだ。仮説検証、予測、実験、の検証過程のサイクルを延々と回し続けるのが経験科学なのであって、そこには形式科学のような「証明」という概念はない。どこまでいっても「仮説」どまりなのだ。どうも学生は、それをよく分かっていないようだ。

学生がすぐ「正解は何ですか?」と絶対的真理を盲信しているように、当時のヨーロッパ社会も「世の全てを統べる絶対的真理」に対する盲目的な信仰があった。その背景にはキリスト教の世界観がある。天地創造から終末への一直線構造の世界観を擁し、真実はすべて神の意志によって決まる。そういう世界観を笑う日本人が多いが、キリスト教には縁のない衆生である日本人でも、学生は無邪気にどんなことにも「正解」があると思い込んでいる。似たり寄ったりだ。

「絶対的な真実がある」という思い込みで2000年を過ごしてきた西洋人が、ある日いきなり「『真実』なんて無いんじゃね?」と発想を転換できるとは思えない。そこには何らかのパラダイム転換(当時はそんな用語は無かったが)が起きただろうし、それを受け入れるために苦悶煩悶を経たことも想像に難くない。そのふたつをつなぐミッシング・リンクは誰がつなげたのだろうか。



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フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844-1900)


言ってることが支離滅裂なわりになぜか人気の高い哲学者。誰もが風貌と雰囲気は知っているが著作は一度も読んだことがない哲学者。哲学者になるよりはピアニストになったほうがよっぽど成功しただろうが、付き合った音楽家がよりによってワーグナーだったためにその道が閉ざされ、仕方なく哲学をやっていた哲学者。生きた時代が不幸で、ナチスに思想を利用されたりダメな妹に金儲けに利用されたりして精神に異常をきたした可哀想な人。

ニーチェの人気が高いのは、その思想内容よりも翻訳書のタイトル和訳のせいだと思う。一種のキャッチフレーズになっており、いかにも哲学っぽい雰囲気に酔ってる「似非ファン」が多いような気がする。『みんな勘違いしてね?』(『反時代的考察』)、『なんかムカつく』(『人間的な、あまりにも人間的な』)、『見える、見えるぞ!』(『曙光』)、『分かった、分かったぞ!』(『悦ばしき知識』)、『バカにも分かりやすく言うと』(『ツァラトゥストラはかく語りき』)などの題名から勝手にイメージを膨らましている人が多い。

ニーチェは『悦ばしき知識』のなかで、「永劫回帰」という概念に触れている。
キリスト教的世界観の中では、歴史は天地創造から終末へと一直線に向かっている。世界には「最初」と「最後」があり、時代は終末に向かって一方通行で進んでいる。その「終末」の恐怖を信者に煽って「救われたくばこの壷を」などとやっている新興宗教と、やってることはそれほど変わらない。

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従来のキリスト教的世界観


ニーチェはこの構造に異を唱え、「世の中って永遠に続くループなんじゃね?」と言い出した。世の中は輪っかのようなつながった状態になっているのではなく、最初と最後がつながった円環状態になっている、という考え方だ。

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ニーチェの世界観


キリスト教というのはやたらと暗い考え方をするもので、「現世に希望が持てないから『最後の審判』に期待しよう」という考え方になる。いま生きている世界を切って捨て、存在するかどうかも分からない来世のほうを重視する。来世に対する期待値を爆上げして煽るのは、乱世における宗教活動の常套手段だ。ニーチェはこれを否定し、「来世なんか無いわい」とぶった斬った。
ニーチェの永劫回帰は鎌倉仏教で流行った輪廻転生と似ているが、重視しているものが違う。輪廻転生はあくまで来世に価値を置いており「生まれ変わったら幸せになれるように現世のうちに徳を積もう」だったが、ニーチェが言っているのは「来世なんか知るか、いま生きているこの世の中をちゃんと生きろ」だ。

一直線の世界観を円環状の世界観に転換したことで、「真実」というものに関するとらえ方も変わってくる。ニーチェは「世の中すべてを統べる絶対的知識」の存在を否定し、「これさえやっておけば善し」という絶対的な道徳観も否定した。一般的に「神は死んだ」という言葉で表される思想転換だが、多くの人はこの言葉をニヒリズムになぞらえて絶望的文脈として理解しているような気がする。ニーチェが言っているのは「世の中には絶対的な真理などなく、すべては人間の側が何を選択するかによって決まる。神など必要ない」ということであって、「世の中は酷くって神も仏もないよね。これから先どうしよう…」的な甘っちょろい世界観ではない。このあたりの誤解が、ダメンズに溺れる女性ファンが多い理由ではないかと僕は個人的に疑っている。

ニーチェは哲学史的には実存主義に分類されている。確かに「存在価値が神によって与えられるのではなく、人間が自分でつくりあげなくてはならない」というのは実存主義の考え方だが、僕の考えではこれは結果的にそうなったのであって、出発点ではなかったのではないかと思う。たとえば実存主義の嚆矢と目されるキルケゴールとは思想の方向性が全く違う。「人生の二択をすべて間違った方向に進む」でお馴染みのキルケゴールは、ありもしない「34歳死亡説の呪い」に終生苦しみ、その中で生きる価値を見いだすために生き方を追い求めた。僕がキルケゴールの著作を読んだ限り、彼はその根源を神に求めている。同じ実存とはいってもキルケゴールが依拠したものはあくまでも「神」であり、「神への依存がひとりの人間としての実存のしかたを決める」という考え方をしている。依存できる絶対真理を否定したニーチェとは逆の方向を向いている。

ニーチェが実存のあり方について考えたのは、キルケゴールのような手前勝手な個人的事情ではなく、社会全体のあり方を憂えた結果に過ぎなかっただろう。哲学というのは、ある程度固まった時代ごとに多数の哲学者が一気に輩出される傾向がある。僕は個人的にその段階を「国家の形成時期」「活版印刷発明」「産業革命」「帝国主義」「両世界大戦終結」の5つに分けて考えているが、ニーチェの場合は「帝国主義」の勃興とそれが破滅に向かう第一次大戦への時代傾向が背景にあったのではないか。帝国主義の世の中では、それまで常識だった価値観が通用しない。力こそパワー。奪ったもの勝ち。勝ち組がいれば当然負け組も多い。そういう殺伐とした世相では、何が正しくて何が間違っているのか、善悪の判断すら覚束ない。そういう時代に「いままでヨーロッパ世界の道徳観念の基本であったキリスト教は、もう時代に合っていない」という実感が基になっていたのではないか。だから「生き方は、自分で決める」という「超人」思想に至ったのだろう。

こうしたニーチェの永劫回帰論は、確たるゴールをもたない世界観だ。「絶対的な真理」も「こたえ」もない。必要であれば、各自が自分でそれを作らなければならない。こうした考え方がベースとなって、20世紀になってから経験科学の方法論が受け入れられる素地となったのではないか。
経験科学の方法論も、トポロジー的には円環構造をしている。仮説、予測、実験、検証を永遠に繰り返す構造には、終わりがない。考えてみればこれは「絶対的真理」を想定するキリスト教的世界観とは相反するものであり、いきなりポパーがこれを唱えたところですんなり時代に受け入れられるとは思えない。ポパーの経験科学の方法論提唱には、その前段階として「終わりのない世界観」を提唱したニーチェの思想が露払いの役割を果たしたのではないか。

キリスト教的世界観では、「事実の把握」と「道徳観」は分ち難く一体のものだった。人間の存在から切り離された「事実」などなく、すべての事実は「人間がそれをどう認識するか」「それは人にとってどうなのか」という観点からのみ考察された。その思想の外枠はあまりに強固で、カントですらその壁を破れなかった。
ところがニーチェはその壁を破った。ニーチェにとって「道徳的事実」などは存在せず、すべては「事実を人間がどう解釈するか」という問題でしかなかった。ここに至ってようやく人間は「事実」と「倫理」を切り離すことができるようになった。リンゴは木から下に落ちるが、その現象には「良い」も「悪い」もない。ただ「落ちる」という事実があるだけだ。今では常識となっている「客観性」という価値基準は、こうして作り上げられたものだ。

ニーチェの考え方は、世界大戦後の哲学の主潮流となった分析哲学の考え方とも一致している。よくニーチェ信者が「ニーチェの思想は20世紀の思想すべてを網羅している」と言うのは、当たってはいないが完全に外れてもいない。認識論や価値観を、世界のあり方と切り離す思考はニーチェが嚆矢であり、20世紀中盤以降の分析哲学はその影響下にあるといってもあながち過言ではなかろう。


高校時代の「テストで点をとるために勉強する」という努力の仕方が染み付いている学生は、頭の中の世界観が一直線構造をしている。「問題が出る」→「勉強する」→「努力する」→「答えを出す」→「マルかバツか」→「いい成績をとる」という流れしか頭にない。自分で問いを立て、仮説を出し、その過程でまた問いが生まれ、という循環構造の世界観が分かっていない。だから性急に「答え」を欲しがるような愚かなことになる。大学教育を受けるのであれば、「絶対的真実などない」「世の中は循環構造をしていて同じサイクルを回し続ける」というニーチェ的世界観にはやく馴染む必要があるだろう。

ちなみに東京大学はこの「ニーチェ的循環構造世界観」を大学入試の必須問題にしていたことがある。1999年まで国語の第二問は「作文」という奇怪な問題が出題されていた。受験業界では「東大国語 死の第二問」と呼ばれ、何を書けば点になるのかさっぱり分からず、予備校も問題集も見当違いなことばかり模範解答に挙げていた。実際のところ、東大の作文問題はすべて同じ考え方を違った問い方で何度も何度も出題しているに過ぎず、すべて「客観的視点」「循環構造」のふたつが鍵になっている。 東大の中での思想的な流行りもあったのだろうが、学術研究を志す者にとってそのふたつの世界観を確立していることは最低限の必須条件、という東大の入試基準は分からないでもない。


まぁ、正解病に取り憑かれた挙句、高校の時と同じような勉強の仕方を延々と続けて「大学の授業なんてつまらない」と言い出す学生には、「ニーチェをちゃんと読め」と言えばいいのだろう。しかし迷える大学生にニーチェは、なんとなくお薦めできない。大学生は思考力だけでなく読解力もないから、ニーチェを正しく読み解くことなどできないだろう。「虚無主義」「ルサンチマン」「神は死んだ」などの言葉の上っ面しか読むことができず、憂いを帯びるニーチェの肖像から勝手にイメージを膨らませて、厭世観に陥りかねない。
馬鹿というのは「知識の少ない者」のことを言うのではなく、「自ら知を生み出すことができない者」のことをいう。大学に入ってまでいつまでも「で、答えは何ですか?」と訊き続ける学生は、まさしく自分の手で自分の世界を閉じ、絶対的真実という妄想を追いかけて彷徨う愚かな衆生に過ぎないだろう。



試験の点が良くってもただ成績が上がるだけだろうがよ。

あさがお満開

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大願成就。



4年の歳月を経て、ようやく夏のあさがおの栽培に成功。


あさがおを無事に咲かせる秘訣は



庭付き一戸建てを買って庭に植える。



ベランダの鉢植えは暑過ぎるらしい。

極左報道機関の本性

「トランプ氏銃撃 政治暴力の連鎖を断て」 (2024年7月15日 朝日新聞社説)
米国の歴史に重苦しい流血の一章が、また新たに刻まれた。多くの有権者が集まった大統領選挙の集会で、前大統領が銃撃されて負傷し、複数の市民が死傷した。トランプ氏の演説中に銃声が響く映像は世界に衝撃を与えた。耳を負傷したとみられる。早期の回復を祈る。

 20歳の男性容疑者は射殺された。事件の詳細はまだ不明だが、選挙運動中の候補者が言論で支持を訴える場を狙った犯行は、民主主義の根幹を揺るがす暴挙であり、断じて容認できない。バイデン大統領が「このような暴力の居場所は、米国にはない」と断じたのは当然だ。

 米国では政治家を狙った事件がたびたび起きてきた。ケネディ大統領が暗殺された1960年代には、弟の上院議員もまた、大統領選の演説直後に射殺されている。各種調査によると、政治的動機に基づく暴力犯罪は70年代をピークに沈静傾向にあったが、近年再び増えているという。とくにトランプ氏が大統領選で当選した2016年以降に顕著だという。20年の前回大統領選後、敗北したトランプ氏の支持者が連邦議会を襲撃した。人種差別やジェンダー、人工妊娠中絶など、社会を分断する個々の問題をめぐっても、市民の間で衝突が頻発している。主要機関による昨年の世論調査では、自分の信じる「より良い社会」につながるならば、暴力は「容認しうる」との回答が約2割もあった。米社会の緊張は、すでに危険水域に達していたといえよう。

 この点で、前回大統領選の結果を認めず、憎悪をあおってきたトランプ氏の責任もまた重いと言わざるをえない。根拠のない陰謀論を語り、「報復」を示唆する言動が国民の分裂を深めたことを自省すべきだろう。バイデン氏は事件後、国民に結束を呼びかけるとともにトランプ氏に見舞いの電話をかけた。先月の両者の討論会は中傷の応酬に堕したが、これを機に理性的な政策論争に転換すべきだ。

 近年、米社会は「内戦寸前」と揶揄(やゆ)されてきたが、危機は現実に迫っている。内向きの政争が対外的な威信を傷つけている現実を直視し、足元の分断と社会不安を鎮める努力こそが必要だ。論じられるべき点には、米国の積年の病である銃器の問題も含まれる。成人の3人に1人が銃を持つ社会では、政治家も市民も安全が保障されるはずもない。今回の事件とともに、過去の数々の米国の悲劇が教える教訓である。




久々の投稿がこんなものの晒し記事かよ。

勉強の春。

obenkyoubag


嫁がお勉強用バッグを作ってくれましたo(^▽^)o



明日からのNHKロシア語講座はアネクドート特集。

パワハラ的指導の是非

次の二種類の教師は、どちらが「優秀」だろうか。


(A) 過酷なまでに厳しく怒鳴り散らし、罵詈雑言は当たり前、時には人格否定を含む暴言を吐く。授業についていけない脱落者は数知れず。しかし実力は確かで、課される試練を越えれば確実に世界の一流になれる教師

(B) 穏やかな人格者で朗らかな佇まいで、常に生徒に丁寧に寄り添い、励まし、親身に接し、脱落者を出さずにすべての生徒を優しく導く。そのかわり生徒の実力の伸びは並みレベルしか期待できず世界のトッププロを狙うには物足りない教師


どちらのタイプもよくいる教師像だろう。(A)のような昭和的スポ根指導者も、(B)のような友達感覚指導者も、どの年齢層、どの教育段階においても見られる二極区分だと思う。
はたして自分なら、どちらの指導者に教わることを希望するだろうか。



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『セッション』(Whiplash, 2014)


アメリカ最高峰の音楽学校、シェイファー音楽院を舞台としたヒューマンドラマ。ジャズに打ち込む音楽院の学生とそれを指導する厳格な教師の物語だ。発表当時から芸術性と出演者の演技が高く評価されており、第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、編集賞・録音賞・助演男優賞の3部門を受賞。原題の”Whiplash”は「ムチ打ち症」という意味で、ジャズの名曲の題名でありつつジャズドラマーの職業病でもある。

主人公のアンドリューは音楽院の生徒で、偉大なジャズドラマーになることを夢見ている。一人でドラムの稽古をしていると、学校最高の指導者と謳われる教師フレッチャーに目をかけられ、いきなり最上級クラスに引き抜かれる。最上級クラスは半端ないプレッシャーの中で行われ、常にフレッチャーの怒号が飛び交う恐怖のクラスだった。アンドリューは必死に授業にくらいつき、徐々にバンド内での地位を上げていく。

重要なコンペティション演奏会の日、アンドリューは不運と事故が重なり、集合時間までに会場に着けなくなってしまう。なんとか会場には辿り着くものの、事故による怪我の影響でろくに演奏ができず、ついには握力が効かなくなりスティックを落としてしまう。フレッチャーは曲の途中で演奏を止め、冷酷に「お前は終わりだ」とアンドリューに宣告する。いままで耐えてきたプレッシャーと理不尽への怒りが爆発したアンドリューは壇上でフレッチャーに殴り掛かり、音楽院を退学処分になってしまう。

単に音楽ものの映画ではなく、ひとりの人間の成長物語という体裁をとっている。その中心的なモチーフは「狂気」だろう。フレッチャーはもともと才能のみに価値を置く厳格な教師だが、その授業に必死でくらいつくアンドリューが次第に世間的な常識を失っていき、狂気に取り憑かれていく様子が描かれている。ガールフレンドに「一流のドラマーになるためにはもっと練習しなければならない、その為には君は邪魔だ」と一方的に別れを宣言する。帰省して家族と会った時も、スポーツで実績を挙げている兄弟たちと比べて音楽をやっている自分が軽んじられていると感じ、挑発的な言動を繰返し夕食の場を台無しにする。

作品の最後にアンドリューは、恩讐が絡まり関係が泥沼化したフレッチャーと再会し、彼に請われてフレッチャー率いるバンドのドラマーとして急遽演奏することになる。これは自身のパワハラを密告され学院から解雇されたフレッチャーが、アンドリューを音楽界から完全に葬り去るべく仕掛けた罠だった。カーネギー・ホールで批評家やスカウトの眼が注目する中、アンドリューはフレッチャーの仕掛けた罠にはまり悲惨な演奏をしでかしてしまう。一度は壇上を降りて涙ながらに立ち去ろうとしたが、意を決したように再び壇上に戻り、フレッチャーの指揮を無視してドラム独奏を叩き始める。その気迫はバンドメンバーはおろかフレッチャーすら圧倒し、アンドリューは演壇上の主導権を完全に奪い取る。フレッチャーはためらいながらアンドリューのドラムに合わせて指揮をとったが、完全に才能に覚醒し魂の演奏を見せるアンドリューを見て、フレッチャーは満足そうに笑みの表情を見せる。


まぁ、パワハラの被害に遭ったことのある人や、厳格な教師がトラウマになっている人は観ない方がいい映画だろう。教師フレッチャーを演じるJ・K・シモンズの演技は鬼気迫るものがあり、作品の厳格な雰囲気をつくり出している。この演技でJ・K・シモンズはアカデミー助演男優賞を受賞している。

この映画が作られたのは2014年。いまから10年前だが、この10年で「パワハラ」をとりまく世界的な環境は大きく変わった。おそらくいま現在この映画が発表されたら、社会的に問題ありということでアカデミー賞には一切ノミネートされないのではあるまいか。パワハラによる訴訟が社会問題となっている昨今では、もうすでにひとむかし前の時代の作品、という感がある。

物語に登場する教師フレッチャーは、間違いなく(A)のタイプの教師だ。最高を追い求め、生徒にそれを要求し、一切の妥協を許さない。自分の求めるレベルに達しない生徒は「無能」と切り捨て、生徒に罵声を浴びせ怒鳴り続ける。ただしフレッチャーの要求に応えたバンドはアメリカ最高の水準であり、出場するコンテストやコンペティションですべて優勝を勝ち取っている。

この作品が発表された当時から、フレッチャーの教師像に関しては賛否両論があった。「最高を目指すなら厳しくなるのは当然」「フレッチャーは目標のために必要な指導をしているに過ぎない」という擁護論から、「いくら指導のためでも人格否定は許すまじ」「音楽家として以前に人としてどうなの」という批判論まで、賛否両論が渦巻いた。教育業界がこの作品を題材に小論文を書くように課されたら、どう書くだろうか。

実は作品の中で、フレッチャーに対する否定的な見解は明確に示されている。アンドリューが上級クラスに参加した初日、「音を何回も外した」という理由で太っちょメガネの学生がその場でクラスを追放されたが、実はこれは冤罪だった。実際に音を外していたのはその隣の白人学生で、フレッチャー自身がそれを認めている。
また作品の終盤で、フレッチャーは「交通事故で死んだ」ことになっている学生が、実は自身のパワハラが原因で鬱病を発症し自殺に追い込まれたことを暴かれている。遺族である両親は退学処分を課されたアンドリューに接触し、「フレッチャーを学院から追い出すために彼のパワハラを証言してくれ」と依頼する。結局この一件が理由でフレッチャーは学院を追われることになる。


「優秀な教師」の条件というのは様々あろうが、僕の考えでは、だいたい次の3つだと思う。

(1)「夢中」になれる環境をつくること
(2)「自己教育力」を得る機会を与えること
(3) 「内」と「外」の調整力を養うこと

教師が暴力行為やパワハラのような不適切指導に堕す原因のほとんどは、「焦るから」だ。パワハラのような激烈なしごきを行う教師というのは大抵、体育会系に多い。体育会でこのような強権的指導が横行する理由は、雇われコーチは成果を出さないとクビになってしまうからだ。勝たないといけない、全国大会に出場しないといけない、全国優勝しないといけない。特に私立学校は学校の知名度を上げ受験者数を増やす手段としてスポーツを利用する。だから勝たないと意味がない。勝てないコーチは無価値なのだ。だから結果しか求められていないコーチは「人間形成」などと悠長なことを言っていられず、とにかくその時その場で「勝てる」ように短絡的なしごきに走る。

このような努力も、努力には違いない。しかし、嫌な指導者に暴力で練習を強制されるような「努力」は、その道を楽しみ主体的に熱中している者には勝てない。「努力」は、絶対に「夢中」には勝てない。たとえ同じ「1日10時間の練習」をするにしても、暴力で脅されて無理やりやらされている10時間と、夢中になってそれにのめり込み「あ、気がついたらもうこんなに経ってる」という10時間とでは、継続力が違う。

努力を強制された生徒は、そのコーチの指導を外れた途端に努力をしなくなるだろう。少なくとも、それまでの努力の質と量を維持することはできない。あくまでもその努力は「やらされていたもの」であり、「自分でつくりあげたもの」ではない。しかし、本当にその道の魅力に気付き、自ら率先して主体的に練習をする生徒は、いつまででもそれを続けることができる。人は、つらいことをいつまでも続けられるようにはできていない。理不尽に努力を強要し続けていると、いずれ人を壊す。

「勉強しなさい」「練習しなさい」と口にする時点で、指導者としては0点だ。「勉強しなさい」と言う、ということは、生徒はそもそも勉強をやりたがっていない。「夢中になる」どころか、学ぶことの魅力にすら気付いていない。「勉強しなさい」という小言は、「勉強する分野の魅力に気付かせる」という最低条件すら満たしていないくせに、形だけの行動を強制する意味のない行為だ。

だから教師の仕事というのは、安心して生徒がその精進に集中できるように環境を整えてやることだろう。まず生徒にその分野の魅力を語り、それにのめり込ませ、集中してそれに没頭できるように環境を整えること、それが教師の仕事ではないか。


「自己教育力」というのは、簡単に言うと、「教え込む」のではなく「自立させる」ということだ。教師の仕事は、「教えること」ではない。教えることが教師の仕事であるならば、生徒はその教師から離れたら学ぶことができなくなる。教師の仕事は、「自分から離れても、自分がいなくなっても、生徒が自分の力で自分の能力を伸ばしていける方法を身につけさせる」ことだ。その教師のクラスから離れても、学校を卒業しても、どんな時でもどんな分野でも、自分の能力を自分の力で伸ばす方法さえ会得していたら、人は成長できる。

「自分が教えてるときは成長させられるけど、自分から離れたら生徒は何も学ばなくなる」というのでは、教師の仕事としては3流だろう。教師の本当の仕事は、生徒が卒業してから後に発揮されるものではあるまいか。学生に与える影響力が直接学生に接している期間に限られる教師というのは、たいした教師ではないと思う。

僕自身も大学で語学や専門分野を教えているが、教えている科目の「知識」を教えているわけではない。教えている科目を通して「知力を身につけるとはどういうことか」を体感させているだけだ。早い話が、教える科目は何でもいいのだ。言語学だろうと論理学だろうと日本語だろうと英語だろうとラテン語だろうと、どの科目を担当しようと、教えることはすべて同じ。「どうすれば、こういう知識体系を自分の力で身につけられるか」。教えている科目名など「ただの一例」に過ぎない。

大谷翔平が「世界一の野球選手」になったのは、高校時代に「世界一のコーチ」に教わったからではない。もちろん感謝に足る出会いはあっただろうが、おそらくどんなコーチ、どんな監督に育てられても、大谷翔平は大谷翔平になっただろう。大谷翔平が高校時代、日ハム時代に身につけたのは、コーチや監督に習ったことを逐一なぞるような「教えてもらったことの習得」ではなく、「いかなる能力でも身につけたいときに自分で身につけられる方法論」だったのではないか。


「内」と「外」の調整力を養うこと、というのはちょっと抽象的な話になるが、簡単に言うと「人としての生き方をちゃんと作れること」だ。
僕は、映画「セッション」にまつわる教師論の一番のポイントは、ここだと思う。

どんなに専門分野で一流を目指しても、どんなにプロとして厳しい世界に身を置いても、我々は所詮ひとりの人間として世の中を生きていかなければならないのだ。自分が集中して極めようとしている分野で血の滲むような研鑽を積んでいても、毎日ごはんは食べなければいけないし、関わる人々への感謝の心を忘れてはいけない。そういう「専門分野での研鑽」とは別に「普通の人としての日常生活」を両立させられないのでは、たとえ専門分野で一流であったとしても、人としてはしょせん3流だ。

映画の中でアンドリューは、ライバルの出現によって精神的な余裕を無くし、ドラムの練習だけに時間を費やさなければならないという強迫観念に駆られ、恋人に別れを告げる。世の中にもこれとよく似た物言いとして「今はこれこれに集中しなければならないから、結婚などしている場合ではない」というのがある。仕事としてプロとして極めるべきことと、人としての生き方を同じ軸としてしか扱えない生き方だ。
そう言う人の両親は、ヒマだったから結婚したのだろうか。ヒマだったから当人を産んだのだろうか。人はどんな時でも、常にやるべきこと・極めるべきことに駆り立てられて生きている。それを言い訳にして人としての生き方を犠牲にするのは、要するに器が小さいのだ。経験上、そういう小さい生き方をしている人が、なにか特定の分野で一流になった試しはない。

数学で定理を証明するとき、その命題内の妥当性を立証するだけでは十分性を満たしたに過ぎない。「たまたまそうだった」という可能性を排除できない。証明をする際には、その命題の「外側」、つまり他の理論体系と齟齬なく整合性を保つことを示してはじめて必要性が満たされる。
政治の世界でも同様だ。ある懸案事項について対策を立てなければならない事態になったとする。そのときある提案を採用すれば問題が解決できても、その提案によってそれまで円滑に進んでいた他の事案に支障が出てしまったら、その提案は妥当とは言えない。
かように物事には「内側の妥当性」と「外側の整合性」がバランス良く満たされてなければならない。

これを人の生き方に準えると、プロとして専門分野では優秀であっても社会不適格者であっては、人として優秀とは言えない。スペシャリストとして世界一の技能をもっていても、我が強く常に仕事上の人間関係でトラブルばかり起こしているような人を「一流」とは言わない。
学校でも、成績さえ良ければ良い生徒、というわけではない。するべき課題をクリアすることと共に、人と軋轢を起こさず、課題以外のところで人としてのしっかりとした生き方を真っ当する、ということが必要になる。

ちょっと分かりにくいが、映画「セッション」の中でもこのことは示唆されている。鬼教師フレッチャーは、目指すべき「天才」の例として、頻繁に“バード”ことチャーリー・パーカーの名前を挙げ、そのエピソードを学生に語っている。確かにジャズの世界ではチャーリー・パーカーは神格化されており、「一流」を目指す音楽院の学生にとっては憧れの的だろう。
しかし史実として、チャーリー・パーカーは人間としては破滅的な人生を送っており、トラブルメーカーとして悪名を馳せていた。麻薬とアルコールに溺れ、心身を病み精神病院への入院を繰返し、34歳で早世した。決して生き方の手本にできる人間ではない。「内」なる演奏技術は素晴しかったのだろうが、「外」たる人としての生き方は最悪といってよい。 映画でチャーリー・パーカーが頻繁に引用されるのは、フレッチャーの浮世離れした異常な感覚を際立たせるための演出だろう。


そう考えると、映画「セッション」の教師フレッチャーは、すべて教師としての資質から外れている。

(1’) ひたすら「根性の修練」を課す
(2’) 「言われた通りにしろ」と主体性を奪う
(3’)  演奏技術が全て。それがない者に価値などない。

映画を丁寧に観れば分かるが、フレッチャーは決して理想の教師としては描かれていない。生徒の両親を貶す罵声や、椅子を投げ危害を加えかねない暴力行為、チャーリー・パーカーを理想として挙げる言動、など映画の端々に確信犯的にフレッチャーを否定する要素が散りばめられている。
こういう教師像が批判の対象であることは、映画が作られた2014年においてすら折込み済みだった、ということだろう。映画批評の中にはこのような失格教師のキャラ付けをもって「最低の映画だ」という論評も多かった。しかしそれは「事実」と「物語」を混同した筋違いな批評だろう。この映画の素晴らしいところは「そういうクズのような教師」をクズとして余す所なく描き切った所にある。もし描く対象の道徳的適否をもって映画の価値を論じるのであれば、戦争を題材とした記録映画はすべて「最低の映画」ということになる。

実際のところ、現在の価値観としてはフレッチャー的な(A)タイプの教師は否定されている。それは道義的な主観や個人的感想によるものではなく、きっちりと法で定められている判断だ。パワーハラスメントが社会問題となり、たとえ「崇高な目的」であったとしても手段が暴力的であれば、それを排除する方向で法律は整備されている。

医学の分野では、たとえ医学的進歩が見込まれるとしても、人体実験は絶対に許されていない。おそらくコロナ禍のとき、人体実験を行っていれば、人類はもっと早く治療方法を発見できただろう。しかし人類は過去の反省から、人体実験を封印する道を選んだ。たとえコロナによる犠牲者が大量に発生しても、それでもなお人体実験は許されない。被験者本人が希望し立候補しても、許されない。それが人類が行った「選択」なのだ。
教育の分野でもそれと同じことが起きている、というだけの話だ。人格を否定し、罵詈雑言で追い込み、狂気の努力を課せば、才能は開花するかもしれない。それによって生まれる「天才」もいるかもしれない。しかし、人類はそれを封印する道を選んだのだ。たとえその分野で素晴しい成果が上がるとしても、後世に残る才能が見いだされたとしても、暴力で指導することは許されない。

「パワーハラスメント」というのはすでに人口に膾炙し、かなり耳慣れた感がある。圧力感のある言葉ではなく、すでに日常語になってしまっている。しかしもともとは、そういう人類全体の「選択」、それをすれば得られるはずの成果よりも大切なものがある、という判断が含まれる、とても重い言葉だ。それを実感し日常の職務に反映させている教師が、一体どれだけいるのだろうか。



最後の9分の演奏ですべてをチャラにするには虫が良過ぎる映画。

「古典は役に立たないから無駄」論。

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2月25日、カンニング竹山が『ドーナツトーク』(TBS系)に出演。古典の授業は「役に立ったことが1回もない」と話したことが物議を醸している。

番組後半では、「無くしたムダな時間」というテーマでトークを展開。現役の女子高生がムダな時間として「古典の授業」をあげると、竹山は「めっちゃわかる。高校生のときから思ってた」と共感。

「今年で53歳のおじさんだけど、いまだ古典が役に立ったなと思ったことが1回もない」と述べ、スタジオの笑いを誘った。さらに竹山は「大学受験に古典が関係なかったら、0点でもいいんだよ」と発言。


まぁ、「そう思うんなら勉強しなければいいんじゃない」としか。


「学校でこんなこと勉強して何の役に立つんだ」という問い。学校教育から脱落した低能層からよく出てくる「疑問」だ。
むろん、当人たちの目的はその「疑問」について妥当な答えを得ることではない。その「疑問」を楯に、「勉強すること」から逃避するもっともらしい言い訳を手に入れることが本当の目的だ。その「疑問」を口にする時点で、既に「逃げの姿勢」と断定してよい。 自己弁護と自己正当化しか頭にない。

そもそもそんな疑問が出てくること自体、学校教育で要求される最低限の能力を身につけていないことの証左だ。
学校教育の目的は知識や思考能力を身につけることではない。そんなことは最低限以前の必要性に過ぎない。問題は「知識や思考能力を身につけることで一体何ができるようにならなければならないか」だ。

初等教育の目的は「自分の知らない世界を自分で切り拓く能力を養うこと」だ。
世の中には、ひとりの人間の直接体験ではカバーし切れないほどの広大な知的領域が広がっている。その全てがそのひと一人の人生にすべて関わってくるわけではない。しかし、本人の人生に直接関わってくる・こないに関わらず、「世の中にはこんな広い世界が広がっている」ということを見せてもらるかどうかだけで、その国の文化度は格段に違ってくる。

誰もが人生の中で、それまで自分が全く知らなかった世界に飛び込まざるを得なくなる。全く経験したことがないことに挑戦しなければならなくなる。それは学問研究のような勉学に関する分野だけでなく、新しいスポーツ、新しいゲーム、新しい友人関係のような卑近なものから、就職、結婚、新居購入のような人生の転機に関わるようなことも含まれる。そういう時に、「どうすれば『正解』の道を辿れるか」という絶対安全な道など無い。どんなときも、正解は自分で作らなければならないのだ。そのためにはまず、「自分の知らない分野に頭から突っ込んで行く勇気」が必要となる。

学校教育で、人生に全く必要のない知識体系を詰め込まれるのは、その「突っ込んで行く勇気」と「その方法」を先行体験しているだけなのだ。
三角関数という得体の知れないものに、なにか世の中の真実らしきものが含まれているらしい。何だろうかそれは。どうすればその真理を理解することができるのだろうか。
日本には1000年以上前に書かれた暇な女の日記が残されている。当時の日本人は一体何を考え、何のために生きていたのだろうか。

そういう「広大な知識領域」が眼前に広がっているときに、そこに踏み込む姿勢と能力を身につけることが、初等教育で最低限身につけるべき能力なのだ。誰だって、よく知っていることは出来る。知っている分野での振舞い方は分かる。しかし、全く新しい分野に踏み込む時に「知らないからできない」というのは、教育を受けた人間の姿勢ではない。知らない分野に踏み込むときは、いままで自分が経験してきた知的領域の征服方法を思い出し、自分なりの新しい方法論を自分の力で創り出さなければならないのだ。

だから「こんな分野、自分には一生関係ないから勉強する必要はない」という言い方は、要するに「私は今後一切、新しいことに取り組むことを拒否する」という姿勢に他ならない。学校教育の目的は「知の体系を身につける方法論を身につけ、今後それを自分で編み出せるようになること」であって、習う知識そのものではない。はっきり言ってしまえば、習う分野は何でも構わないのだ。その中で、特に汎用性が高く、日本という国で日本人という自己意識を確立するための助けになり、学校卒業後に新たな分野に挑む方法論を学ぶための参考になるような、よく練られた知識体系を選んで学んでいるに過ぎない。

「自分には必要ない」と思うのなら、学ばなければ良い。世の中には、人生に必要なものしか学ばせてもらえない国のほうが多い。そういう教育後進国のあり方をお望みなら、遠慮なくそうすればよい。自分の人生に必要なものだけに価値を認め、必要ないものはすべて切り捨てて価値を見下すような、そういう人間になりたければそれも良かろう。生きる世界を自分で狭めるのは、教育を軽視する人間の典型的な自業自得だ。日本という教育先進国に生まれた特権を自らドブに捨てて、自分の人生の役に立つものだけの世界を壁で囲って、その中で狭く生きていけばいい。馬鹿によくお似合いの生き方だ。


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社会学者の古市憲寿氏(39)が28日、自身のSNSを更新し、「古典の授業が無駄」という議論に対して私見を述べた。

古市氏は「『古典の授業が無駄』といった議論に反射的に反論するひとって、授業時間が有限だということを忘れがちだよね」とつづり、「そりゃ時間が無限にあれば古典でも何でもすればいいけど、それはたとえば外国語よりも有益なのか。あと反論するひとたちが、どれだけの古典に関する教養を持っているかを知りたいところ」とした。

また、「みんな教育に期待しすぎだと思う」とし、「この国の高校卒業率は約95%だけど、大人を含めてみんなで大学入学共通テストを受けてみたら、平均何点くらいになるのか。たぶん悲惨な結果になると思う。結局、日常的に使ってる知識以外は忘れていくし、逆に必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」と私見をつづった。


「馬鹿の言うことに対して、馬鹿がコメントをしている」という図式。もはや笑い話だ。学校で習うことを「役に立つ・立たない」「有益・無益」「覚えているか・忘れているか」という尺度でしか測ることができない。この程度の知的許容量しかない輩が「社会学者」とは恐れ入る。

「習ったものをすべて忘れたら、その教育は無駄」という、歪んだ知識偏重主義だ。実際のところ、学校教育で身につけるべきものは知識ではない。学校教育の本当の価値は、「習ったものをすべて忘れた後、それでも残っているもの」にある。残った知識が大事なのではなく、「かつてここまで覚えたことがある」という思考経験の絶対最大量をともかくも一度作っておくことが大事なのだ。

古市憲寿は「必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」などと嘯いているが、自分が経験した初等教育の恩恵に甘ったれている笑止千万な言い方だ。新しいことを学ぶことができるのは、かつて学校で「学ぶ」という過程を一度辿ったことがあるからだ。「学び方の違う様々な分野を広く学ぶ」という行為を一度も行ったことがない人は、新たなことを学ぶための方法論を自分で編み出すことなどできない。自分の力で自分の能力を上げていく自己教育能力がない。簡単に「何歳からでも新しいことは学べる」なととほざいているが、堅固な初等教育で役に立たない知識をたっぷり吸収した恩恵を軽視しており、知的活動の源泉となる生き方を舐めている態度だ。

受ける教育のレベルを選ぶのは自分の勝手だ。「こんなこと学んでも役に立たないなら無駄だ」というなら、とっとと学校を退学すればよい。義務教育すら拒否して「人生は冒険だ!」などとほざき全国を車で乞食行脚の旅に出るのも良かろう。どれも個人の勝手だ。
しかし、その個人の価値観を社会全体の強制力に転化し、「だから学校教育からこの科目を削るべきだ」と主張するのは絶対に許されない。「教育を受けない自由」を、「他人の教育機会を剥奪する権限」と勘違いしてはいけない。他人が学ぶ邪魔までする権利はない。学校教育を拒否して無能低能に堕するのは手前が勝手にやるべきことであって、他人にまでそれを強制する権限など誰にもない。

この類いの教育批判は、誰もが抱いている教育劣等感に刺さる。簡単にウケる安易な方法だ。しかし、ことの本質は「古典は有益なのか無駄なのか」ではない。「『知識』そのものの有益・無益は教育の本質には一切関係ない」ということを知らない愚か者が後を断たないということが問題なのだ。日本では初等教育を受けられることが当然のことだと思われている。その価値と恩恵に気付かず、自らその価値を貶める言動をする輩など、教育を受けた人間とは言えない。

香港の街中には本屋が無い。イギリスに50年支配され、中国に引き渡された香港には、自分たちの物語を語る言語がいまだに確定していない。だから香港市民はみんな本ではなく中国語で書かれた新聞ばかり読んでいる。重厚な「物語」を語ることができず、薄っぺらい「情報」にしか知的生活の拠り所がない。香港以外でも、いま世界には自国語で書かれた本が出版されていない国のほうが多い。
ましてや「古典」が存在する国など限られている。そのことに激しい劣等感を抱いているアメリカは、千年以上にわたる文化遺産を有している日本が妬ましくて仕方ない。だからやたらと「古典は無駄だ」「英語こそ正義」という価値観を日本に押し付けてくる。彼らは日本人自らの手で日本の古典を捨てさせたいのだ。日本のもつ本当の価値に気付かず、豊富な古典遺産に対して嫉妬の感情をぶつけてくるアメリカの英語絶対主義に簡単に踊らされる軽薄な日本人が多い。

中国という国はやたらと政治・経済分野において日本に圧力をかけてくるが、古典教育・文化に関しては一切何も言ってこない。日本以上に雄大な知的文化遺産を有する中国にとって、日本の古典ごとき屁のようなものだろう。その辺は長大な歴史を誇る中国の、根源的な自尊心の表れだ。
ただし中国は一度、自国の誇る歴史遺産や文化遺産を自らの手で破壊したことがある。共産党以外の教義はすべて害悪。毛沢東の言説だけが正義で他は悪。古典・歴史はすべて無意味。古典はすべて焼き尽くし、歴史的建造物や寺社仏閣はすべて破壊すべし。文化大革命という愚かな行為は、自分の国がもつ本当の価値を中国国民自身が破壊した出来事に他ならない。カンニング竹山は、このようなあり方を日本の理想として提唱するつもりなのだろうか。


実際のところ、カンニング竹山も古市憲寿も、古典を学ぶ必要性も意義も十分に分かっていると思う。彼らがこのような言説を流布する目的はただひとつ、「目立つため」だろう。番組を盛り上げるため、構成作家の台本通りに、世の中を騒がすようなことをわざと言って数字を取ろうとする。普通に古典の意義を擁護するような言説を公表しても誰も注目してくれないから、逆張りをして注目を浴びる。彼らの価値観の中心は「Yahoo!ニュースのトップに載ること」であって、正論を発して世間を啓蒙することではない。そんなことは彼らにとって「何の役にも立たない」ことだ。目立たなければ全ては「無駄」なのだ。物事の正道など一切無視し、曲学阿世に堕する生き方が、果たしてどれほど「有益」な生き方なのだろうか。彼らにとって本当に大切なものとは、一体どこにあるのだろうか。



軽薄極まる。

売れる「教養書」

春休みになったので本屋をぶらついて平積みになっている本のなかから、ちょっと面白そうな本を買ってみた。


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『世界のエリートが学んでいる教養書 必読100冊を1冊にまとめてみた』
(永井孝尚 (2023), KADOKAWA)


題名だけで内容の要旨が分かる。世界の名著100冊の内容を端的に説明し、それを現代社会の問題を考察するための武器として使うにはどう考えればよいか、という指針をまとめたものだ。
大著であり、労作であることは間違いない。古今東西の名著を100冊も読破するだけで大変な労力だろう。紹介する本のジャンルも「西洋哲学」「政治・経済・社会学」「東洋思想」「歴史・アート・文学」「サイエンス」「数学・エンジニアリング」と多岐に渡る。これだけ異なる読み方を要求されるジャンルの本を幅広くカバーするだけでも大変だろう。

100冊の本の選択もまぁまぁ知見に富んだチョイスとなっており、納得できる選択だ。現代書だけに留まらず、古典の名作も多く選択しており、なかなか僕の趣味に合う。僕はここで紹介されている100冊すべてを読んだことがあるわけではないが、自分の専門に絡む本も紹介されており、わりと本気で原著を読み通した本も多く紹介されている。この本で紹介されている内容理解の精度はなかなか高く、まずもって「よくこんなに多くの本を理解し通したな」という印象が強い。結構な本を出したものだ。

もちろん、煩いことを言えば批判などいくらでもできる。例えばジャンル分けにしても、厳密な学問領域の区分とはかなり異なる。たとえば「政治・経済・社会学」も「数学・エンジニアリング」も「歴史」も、どれも本当は「サイエンス」の一分野なのだが、この本ではそういう区分には沿っていない。この本が章として採用している「サイエンス」という括りは、一般読者の漠然としたイメージの「なんか理系っぽい分野」程度の雑な意味で使われている。

また、現在ではその価値に賛否両論ある危険な作品もとり上げられている。たとえば『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)が「環境汚染を世界で初めて告発した『環境問題のバイブル』」として紹介されているが、現在の環境科学の検証では『沈黙の春』で引用されている例は勇み足が多く、事実認識の歪みが多数紛れていることが明らかになっている。現在の環境保護団体もこの本を大々的に喧伝するようなことはしていない。
『沈黙の春』はそういう欠点のある問題作ではあるが、紹介の名目となっている「環境汚染を世界で初めて告発した」という部分は間違いではない。当時、環境汚染という認識がまったく無かった時代にその危険性を啓発したという役割を果たしたのは本当だ。ただしその内容に誤謬があったために現在では無批判にとり上げるわけにはいかない、というやっかいな本だ。『沈黙の春』だけでなく、まぁ言ってみればどの本でも賛否両論は必ずあるものだ。毛沢東の『抗日遊撃戦争論』など現代の道義的な観点からみれば危険書以外の何物でもないが、この本を読まずして現在の中国共産党の基本理念は理解できない。そういう本でも、知らないよりは知っていたほうがいい。

僕がこの本を読んで最も強く感じたのは、「あぁ、ビジネス書ってこういう感じなんだなぁ」ということだ。
僕は普段、学術書や論文ばかり読んでいるので、自己啓発やらマーケティング論やらいわゆる「役に立つ」本をあまり読まない。この本は、徹頭徹尾ビジネスマンにとって「役に立つ」ように書かれている。

この本は「教養書」と銘打ってはいるが、その内容と編集の仕方は「教養」とは正反対だ。そもそも題名からして「世界のエリートが学んでいる…」。この部分だけを見ても「教養」とはかけ離れた姿勢と断じて良い。しかし、だから悪いと言っているのではなく、「ビジネスの世界と『教養』というものを折り合わせるのは、一般にうまく訴求する形でまとめるのは難しい」ということだと思う。そこには、「教養」というものに対する世間一般の大きな誤解があるような気がする。そして、その難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題だろう。


「教養」とは何だろうか。
世間一般によく使われる言葉であり、漠然とひとの知力を示すバロメーターとしてイメージされている概念だろう。だが、その本当の意味を理解している人はそれほど多くないような気がする。

たとえば、大学で身につける能力は「教養」だろうか。
世の中の知見を広く身に付けよう、世の中に出て役に立つ知識を身につけようとして意気揚々と大学に入学してみても、実際に専門のゼミで行うのは退屈な論文を延々と読まされる原典講読だったり、何の役に立つかも分からないような基礎実験だったり。それらのどこが「教養」なのだろうか。
こういう「いままで自分が持っていた『教養』のイメージ」と「大学で実際に行われる知的活動」のギャップに苦しみ、「大学教育なんて何の役にも立たない」と判断して授業に出てこなくなる学生は多い。なかには大学教育に一切の価値を見いだせなくなり、中退する学生もいる。

教養は一般的に「頭の中に蓄積されている知識量」というイメージで認識されていることが多いだろう。教養のある人というのは、いろいろなことをいっぱい知っている人。物知りな人。「歩く辞典」のような人。クイズや問題にたちどころに正解できる人。
この本でもそのような「教養」観が強く前提となっている。本の一番最初の「はじめに」の箇所でも、「脳内にある知識が教養なのだ」と断言している。

実際には、この本ではさらにそこから一歩進んで、教養を「単なる知識」に留まらず、「実際の問題を解決する武器として使えるかどうか」まで意識している。単なる「あらすじを覚えましょうね」的な紹介文ではなく、現代のビジネス界で生じているさまざまな困難に立ち向かうために、100冊の知見をどのように適用し応用するか。そういう知力の「使い方」まで指南してある。『マッキンダーの地政学』をウクライナ侵攻に絡めて「大国の思惑を読み解いて、したたかにビジネスの先手を打て」という指針につなげる。ヒュームの『人性論』で説かれている経験論における因果律から「帰納法の限界がわかれば『AIの限界』も理解できる」と謳う。
僕がこの本を「ビジネス書ってこういう感じなんだなぁ」と感じたのは、ここの部分だ。

僕は寡聞にしてビジネスの世界の現状を知らないが、漠然と「成果を出せない努力は無意味」という価値観が席巻する世界なのだろう、という見当はつく。だから世界の名著100冊の内容を覚えているだけでは不十分で、「それを今のビジネス社会にどうやって活かせるのか」まで伸ばせなくては意味がない。知識は使ってなんぼ。古い革袋に新しい酒を入れるが如く、古今東西の名著を今この現代の問題を解くための知見として使えるようになってようやく「教養」。そんな「教養」観が見える。

情報の丸暗記を「教養」と勘違いしている軽薄な暗記主義よりは、実践に則した姿勢だろう。筆者は研究畑の人間ではなく、IBMの戦略マーケティングマネージャー、人材育成責任者などを歴任した、バリバリのビジネスマンだ。日々実務に携わっている身でありながら古今東西の名著を読み解し、内容を理解するのみならずそれを実践として活かす方法まで考える、というだけで相当に「教養」ある生き方だ。この筆者自身が「教養」の深い人物であることは間違いなかろう。
しかし、どうして著書で読者に訴求する「教養」は、それとは全く違ったものになってしまっているのだろうか。


僕の考え方だが、「教養」というのは、「自分の中にある静的な知的蓄積物」ではなく、「自分の外にある未知の世界に対する姿勢」のことだと思う。「既存のものを理解する」のが教養なのではなく、「新しいものを創造する礎になるもの」が教養だろう。

百科事典を全冊暗記したところで、そんなものは「教養」とは言わない。それは単なる「脳内の情報処理」であって、覚えること自体を目的とした行為からは何も新しいものは出てこない。そういう「歩く辞典」から、世の中を動かす新たなイノベーションは生まれてこない。
暗記すること、情報を覚えること、というのは「手段」であって「目的」ではないのだ。新たなものを創造しようとするとき、無からは絶対に何も生まれない。先人の努力を知り、先例を知り、そこから法則を仮定し現実に適用することで、新たな「知」は創造される。

教養ある態度というのは、未知のものに対する畏敬の念をもち、新たな世界を知ることを厭わない知的な姿勢のことだと思う。「それ知らないから興味ない」ではなく、「それ知らないから面白そう」という態度だ。自分の知らない世界を拒絶せず、自らを閉じてしまわず、未知のものを取込んで自分の生き方に変える能力のことだ。端的に「知的好奇心」と言っても良い。
一般的に「教養」というのは、「1の知識を10000まで伸ばすこと」というイメージで捉えられていると思う。しかし実際の「教養」とは、「0を1にする力」のことではあるまいか。

では、そういう能力はどうやったら身に付くのか。ビジネスの世界で、いままで誰も作り得なかった新たな価値を生み出すために求められる力は何なのか。
そういう「未知への挑戦」というと、やたらと「創造的活動」「イノベーション」「革新的な発想」のようなイメージに取り憑かれて、それまで自分の中になかった「新たな何か」にすがろうとする人が多い。しかし実際のところ、そういう発想力、目的到達能力、創造性といった能力は、過去の事例を丁寧に辿り、人間の知の総和から学んでいくしか方法がない。その点では、この本は王道を辿っていると言える。

しかし、この本で紹介されている100冊の本の内容を理解し、さらにその内容を現在のビジネスに活かす方策を「覚えた」ところで、それは本当の「教養」なのだろうか。それは百科事典を全冊暗記する行為と何が違うのだろうか。

どんなに本書の内容を理解したところで、その応用のしかたを知ったところで、それは所詮、著者の仕事の枠内から出たことにはならない。教養というのは「既存の知識の敷衍」ではなく、「それを基として枠の『外』に出ること」だ。創造的に本書を利用し自分の創造的知的活動につなげられない限り、教養など皆無な姿勢と断じて良い。
さきほど「難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題」と書いたのは、そういう意味だ。この本そのものの欠点なのではなく、これを読む読者の側は、それをちゃんと弁えて読めるのだろうか。

そして気になるのは、筆者自身が教養を「既存の知識を敷衍すること」という段階の認識に留まっているような気がすることだ。もちろん筆者もこの本を読んだだけでは理解に不十分であるということは十分に認識している。「はじめに」の中で「もしかしたら本書を読んで『原著が完璧に分かった』と思うかもしれない。残念だが、それは幻想だ」と警告している。この本はあくまでも「紹介本」であって、この本をガイドに原著にあたるのが正しい読書の仕方だろう。とかくビジネスマンは御用とお急ぎの方が多く、「細かいことはいいから簡単に内容だけ教えてくれ」のような軽薄な知的態度の人が多いのだろう。そういう態度を戒めることを忘れてはいない。

しかし、本書であらすじを知った後、原著を読んで自分で理解しようとする姿勢まで達すればそれが「教養」かというと、それでも足りない。そういう姿勢は、いってみれば学校で出してもらった宿題を家でやっているのと大差ない。「何を読むべきか」が他人から与えられており、自分の判断で「これは読む価値がある」と判断したわけではない。それまで自分の知らなかった世界を自分の中に取込む、という一番最初の段階を、本書に頼ってしまっている。

この本を読んで身につけるべき本当の「教養」は、「100冊の内容と使い方を覚えること」ではない。「100冊の原著に挑戦すること」でもない。
自分の力で101冊めを見つけること」ではあるまいか。

新しい創造の際に必要な能力のひとつに、価値判断がある。「これは挑戦するに値する」「これは新たな価値を生む」という、自分の挑戦することに対する価値の見分けが必要となる。端的に言うと、自分が全く知らなかったことに対して「これ、おもしろそうだぞ」という嗅覚だ。この能力がないと、つまらない瑣末なことに莫大な労力とかける無駄を生み出すことになる。

教養のある人は、「多くの人が名著として絶賛する本をすべて網羅している人」ではない。「誰もが見向きもしないものに『これ、おもしろいんじゃないか?』と価値を見いだせる人」だ。「すでに知っている世界、馴染みのある世界で、既存の価値観の枠内で甘んじて生きる人」ではない。「知らない世界・未知の世界の魅力、まだ存在しない価値に最初に気付ける人」が本当の「教養のある人」ではないか。
グラミー賞ヴァイオリニストのジョシュア・ベルの演奏会にチケットを買って聞きに行く人と、彼がストラディバリウスの名器を携えワシントン中心部の駅構内で路上ライブをやった時に誰もが目もくれず通り過ぎる中ただひとり足をとめてじっと聞き入った少年と、どちらが「教養」があるだろうか。
イギリスの無名のシングルマザーが書いた童話の翻訳出版の持ち込みを冷淡に断った大手出版社と、その価値を見いだし『ハリー・ポッター』シリーズの全版権を独占して買い取った静山社と、どちらのほうが「教養」があるだろうか。

そういう「教養」、なかんずく「未知の価値に気付ける能力」は、どうやって身に付くのだろうか。
未知の世界は広大だ。分野によってもアプローチの仕方が異なる。無限の世界が広がっている。そういう世界を相手にするときに、「こたえ」を求めるような姿勢では太刀打ちできない。未知の世界では、問題は同じでも答えのほうが日々変わる。静的で確立した「正解」を覚えていても意味がないのだ。だから「既存の知識に頼らず、その時その場で必要な『知』を自ら編み出していく能力」が必要となる。教養とは、「有限の情報の静的な蓄積」ではなく、「無から『知』を生み出す動的な態度」なのだ。

そういう動的な能力を身につけるためには、欲張ってはいけない。ひとつの分野だけでもいい。ひとつのテーマだけでもいい。誰にも頼らず、自分だけの力で、ともかくも一定に見解に至る経験を踏むことが必要だ。
登山に例えると、100名山の特徴と景観を全部暗記したところで、登山の能力などなにひとつ身に付かない。近所の裏山ひとつ登れるようにはならない。どんな山にもどんな状況でも頂上を極められる「万能の登山能力」を身につけるためには、まずひとつの山をちゃんと定め、自力で頂上まで登り切る経験から入らなくてはならない。ひとつの山にもいろいろと登山のルートがあるが、ここでも欲張ってはいけない。ひとつのルートだけに特化してよい。そのルートを選択する段階からすでに勝負は始まっている。

そうやって、細いルートを辿って、ともかくも自力で頂上まで達する経験を積むと、山に取り組むアプローチの仕方が分かってくる。10の山に自力で登れば、11個めの山にも自力で登れるようになる。いつまでもガイドブック頼り、ネットの情報頼り、情報の暗記ばかりに拘泥していると、いつまでも未知の山を克服する能力は身に付かない。

それを「教養」という知的活動に置き換えると、どういう努力が必要なのかは明らかだ。
漠然と「教養」という広い知的世界を想像するから努力の仕方が分からない。まずひとつの山を目標として定めるべきなのだ。火星の運行現象でもいい。古代バビロニアの政治形態でもいい。絶滅言語の修復でもいい。有毒物質を中和する物質の開発でもいい。なにかひとつ絞ったテーマを定め、過去の研究事例をじっくりと辿り、それに自分の発想を上乗せしていくしかない。

だから大学では、まず基礎文献をみっちりと読み込むことが必要なのだ。基礎実験を繰り返してデータを丹念に積み上げていかなければならないのだ。ひとつの分野の、ひとつのテーマについて、細い道を地道に、自らの力で一歩一歩進んでいかなければならない。
そうして長い年月をかけ、小さくてもいいからひとつの山の頂上に自力で辿り着いた人は、「未知の山への挑み方」を会得できる。違う山であっても、その山の特徴を調べ、過去の経験から必要なところは再利用し、未知の部分は新たに創造し、頂上に挑むことができるようになる。

こうした大学の基礎演習を「退屈だ」「何の役に立つんだ」と切り捨てる人が多い。そういう人たちは、そこで学んでいる「内容」自体にしか興味がない。その地道な演習の積み重ねによって身につけられる能力にまで思いが至らない。登山に例えると、「こんなルートを地道に登ったところで、こんな道はこれからの人生で二度と登ることはないんだから、歩くだけ無駄だ」という態度だ。決して未開の世界を切り拓く能力など身に付かないだろう。

つまり「教養」というのは、ちっとも華やかではない代物なのだ。少なくとも世の中の多くの人が無邪気に憧れているような煌びやかなものではない。毎日地道に少しずつ、地を這うようなスピードで、ゆっくり着実に一歩ずつ前へ進むような、地味な作業の繰返し。毎日毎日、そういう繰返しを膨大な数だけ積み重ねていく。その果てに「真理」という分厚い岩盤にわずかながら小さな穴を開ける。それが「教養」というものの実態だ。世の中の人は、そういう「教養」を本当に欲しているのだろうか。そういう知的な積み重ねの毎日を、本当に「何かの役に立つ」とでも思っているのだろうか。

この本を読む限り、「与えられた既存の知識体系」「100冊の本の内容と実践への活かし方」を覚えることを「教養」と銘打っているような気がしてならない。しかし、そんなものは単なる「情報の記憶」であって、そこから何か新しいものが生まれてくるとは思えない。
この本を読んで原著をすべて理解した気になるのは論外だ。そんなのは、他人の登山経験談を聞いただけで自分も登った気になってる勘違い野郎と同じだ。しかし、この本で紹介されている100冊の本の原著を読んでみる、というだけの姿勢も五十歩百歩だ。「100名山で紹介されている山を、紹介されている装備で、紹介されているルート通りに辿ってみた」という程度のものでしかない。その人は101個めの山を自力で登頂できるのだろうか。そもそも、挑むべき101個めの山を自分で定めることができるのだろうか。

そういう動的・創造的な「教養」にフォーカスを当てず、既存の知識の敷衍とその応用だけに留まっている点は、筆者の落ち度ではないと思う。なにせこれだけの知的領域を克服した筆者だ。実際のところ、本当の教養とはどういうものかを十分に分かった上で、(本当の語義は違うが)確信犯的に敢えてこのような編集形態の本にしたのではないか、と個人的には疑っている。

本当の「教養」というのは、売れないのだ。本当の教養は「ひとつの分野を、じっくりと腰を据えて細い道を辿る」という地道な積み重ねしか生まれない。そしてそういう地道な努力は、嫌われる。それは、大学の授業を「退屈」「意味がない」「世の中に出ても使えない」と低く見下げている人の多さからも容易に分かる。本にしたところで、ろくに売れないだろう。かように、「ビジネスの世界と『教養』というものを折り合わせるのは、一般にうまく訴求する形でまとめるのは難しい」のだ

だから時間がなく忙しいビジネスマンには、このような「100冊全部分かりますよ!」「知識の使い方まで載っていますよ!」という、安直な「こたえ」が書いてある本のほうが重宝される。「こたえ」が与えられるのだから、自分の力で解答に達しようとする本当の「教養」とは正反対だ。僕が「この本は『教養書』と銘打ってはいるが、その内容と編集の仕方は『教養』とは正反対だ」と書いたのは、そういう事情に拠る。

本は、書けばいいというものではない。売れなければ意味がない。この本の筆者は相当なキャリアを積んだビジネスマンだから、その辺の事情はよく分かっているのだろう。馬鹿正直に「教養とは何ぞや」という正論を大上段に構えたところで、誰も見向きもしない。世の中は、「正しいこと」が「良いこと」とは限らないのだ。「正しいが売れない本」と「間違っているが売れる本」とでは、後者のほうがビジネスの世界では絶対正義だ。ましてやこの本は学術書ではなくビジネス書だ。売れないビジネス書など、矛盾以外の何物でもない。だからこの本は根本的に難点を抱えているが、「難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題」なのだろう。


ビジネスの常套手段として、この本でもあちこちに「権威による箔付け」が利用されている。例えばレイチェル・カーソンが「1999年、『TIME』誌の『20世紀の最も重要な人物100人』では、その一人に選ばれている」という箔付けが紹介されている。
しかし本当の「教養」ある態度というのは、TIME誌ごときの権威を盲信せず、「だから何だ?」「『TIME』誌の『20世紀の最も重要な人物100人』って、本当に妥当なの?」「選者は誰なの?」「目的ありきで偏向していない?」と疑いの眼をもち、自分の考えで価値を判断できる人のことだろう。



役に立てよう立てようとして必死な印象。

タイパ重視の生き方

学生が論文を書けない。

本当に書けない。絶望的に書けない。高校までにちゃんと文章の書き方を習ってきているのかと思うくらい書けない。
思うに、いまの若い子たちは日常生活のなかで「長い文を書く」という体験が欠落しているのだろう。自分の考えていることを表出する能力が著しく不足している。

まぁ、いつの世の中でもそう言われてきたのだろう。僕もそう言われる側から言う側に回ってしまったというだけのことかもしれない。
しかし、なんというか、一般に思われている「最近の若い子はろくに文章も書けない」というのと、僕が言う「学生が論文を書けない」というのは、ちょっと問題の焦点が違う。

まずもって学生が「論文とは何ぞや」ということを理解していない、というのは仕方がない。高校までの日常生活で生徒が書く長い文章といえば、読書感想文が関の山だろう。しかも夏休みの宿題で嫌々書く程度のものだろう。さらに最近の学校の先生は忙しいから、それらの読書感想文にしっかり赤を入れて添削してフィードバックする、などということもあるまい。書いたら書きっ放し。これで文章力が上がるわけがない。
僕もいままでこのBlogで「感想文と論文は何が違うのか」についてつらつらと駄文を書いたことがあるが、最近僕が感じている学生の能力不足はそれとはちょっと違ってきている。

なんというか、「間違えることを極度に恐れている」ような気がするのだ。いや「恐れている」というよりは「嫌っている」というほうが近い。膨大な手間をかけ、入念に調査をし、幾重にも分析を重ねた先が「空振りでした」というのは研究ではよくあることなのだが、最近の若い子たちはそういう「無駄」を非常に嫌っているような気がする。学生は「正しい論文」を書かなければならない、という強迫観念に汲々としているように見える。

そもそも論文には「正しい論文」「間違った論文」というものはない。あるのは「面白い論文」「つまらない論文」という区分だけだ。もちろんデータ収集の段階で不正をしたり資料を改竄したりするのは「間違った論文」だが、ここではそういう話をしているのではない。彼らは中等教育を通して、学業の成果を「正解」「不正解」という分け方で評価され続けてきた。だから大学に入ってからの研究にも「正解」「不正解」があると思い込んでいる。そして、彼らは「不正解」の論文を書いたら成績を落とされる、と恐れている。
まぁ、「大学一年生」というよりは「高校四年生」なのだろう。思考の過程が高校生レベルに留まっており、高校までの「おべんきょう」と大学以降の「研究」の違いが分かっていない。

大学で行う研究というのは、例えて言えば「狩り」だ。自分で野山を歩き、獲物を見つけ、銃で仕留める。どこを歩こうが、どこを猟場にしようが、どんな獲物を狙おうが、各自の自由。自分で好きな所を歩き、好きな獲物を仕留めればいい。

一方、高校までに習ってきた「おべんきょう」というのは、言ってみれば「狩りをするために必要な個々の道具を磨くこと」だ。銃にはどんな種類があるのか、どうやって撃てばいいのか。どの山にはどんな獲物がいるのか。どうやって獲物の居場所を察知すればいいのか。
高校までの「おべんきょう」で優秀だった生徒というのは、要するに「銃の種類と名前をたくさん覚えている」というだけのことに過ぎない。それを撃つ腕前が確かかどうかは分からない。そもそも獲物がどこにいるのか探す能力があるとは限らない。むしろ、「自分はどういう獲物を仕留めたいのか」すら決めていない手合も多い。

高校を出たての大学一年生が論文を書けない理由はいろいろあるが、その一番最初の大きな壁は「研究テーマを決められない」ということだ。
僕は大学一年生対象の、基礎的な文章訓練の授業を担当している。大学なので当然、期末課題として論文の執筆を課すのだが、なかなかテーマを決められない学生が多い。「どんなことに興味があるの?」と水を向けても、口ごもる学生が多い。その「口ごもる」という理由が、僕が想像していたのとちょっと違う気がするのだ。

論文のテーマを決めるというのは、狩りに例えると「どの獲物を仕留めたいのか」を決めることだ。狙う獲物によって、使う道具が違ってくる。だから仕留めたい獲物が決まらないと、使う道具が決まらない。勉強や調査の仕方が決まらない。
だが学生は延々と「先生、テーマが決まらないんです」といつまでもぐずぐずしている。

僕は最初、学生がテーマを決められないのは、学術的な研究価値の判断能力がないために適切な問いを提示する能力が欠けているためだと思っていた。これは大学院を出ても研究者になっても常につきまとう問題で、この部分の能力は固定した知識を暗記していても意味がない。その時その場でどのような「問い」を発するかというのは、常に思考と発想が要求される動的なものだ。創造的になにかを「創り出す」能力なので、知識さえ身につければ使い回しで楽ができるという類いのものではない。

ところが今の若い子たちは、研究テーマについて相談に来る時、なんか「正解」を求めて探りに来ているような感触があるのだ。「このテーマで大丈夫ですか?間違いありませんね?これでやって問題ありませんね?」のように、やたらと「確約」を求めてくる。
研究テーマというのは要するに「仕留めたい獲物」なので、どのようなテーマを選ぼうがその学生の自由だ。合っているも間違っているもない。好きなことをすりゃいい。自分が追いたいテーマがあればそれがその学生にとって最良のテーマである、というだけのことに過ぎない。

しかし学生は、高校までに根強く染み付いた「正解病」のせいか、「研究テーマにも『正解』と『不正解』がある」と思っているらしいのだ。「正しいテーマ」を選んだら合格論文、「間違ったテーマ」を選んだら不合格、というイメージらしい。
実際のところ、論文のテーマとして「スジの良いもの・悪いもの」というものはある。スジの良い論文というのは、その論文自体が正しいか間違っているかで決まるものではない。「その論文を出発点として、様々な方向に議論が発展していく」というのが「スジの良い論文」だ。その論文自身が出している答えは、むしろ間違っていても構わない。科学というのは人類全体のチームワークなので、自分で書いた論文で仮説が間違っていても誰か他の人がもっと妥当な答えを出してくれる。アインシュタインだって自分が提唱した一般相対性理論の証明には自身で失敗している。

かように深く染み付いた学生諸君の「間違ってはいけない」「正解を出さないといけない」という強迫観念は何なのだろうか。僕が大学生の時代にもそういう「高校四年生」はいた。大学というのは「高校よりももっと難しい試験問題が出る場所」と本気で信じている学生もいた。しかし、最近の学生は僕の時代よりもその傾向により拍車がかかっているような気がするのだ。なぜ今の学生たちはそんなに「間違える」ことを恐れるのだろうか、僕はつねづね気になっていた。


sanmagoten


つい先日、『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系列、火曜午後8時)の放送を見た。
「受験戦争を勝ち抜いた有名人SP」(2024年2月6日放送)という企画で、「東大出身アイドル・慶応大出身お笑い芸人らが驚きの受験テクニックを紹介!」という触れ込みだ。受験期に入ってきたので、受験を勝ち抜いた芸能人たちに受験の思い出を語ってもらおう、という企画らしい。

その中で、芸人の水川かたまり(空気階段)が「地方の予備校で動画配信を見ていたので、いつも倍速で授業を聞いていた。上京後、その講師が普通に話しているのを聞いて『遅っ!』と思った」というエピソードを話していた。
MCの明石家さんまが驚いて「今の若い子は動画をぜんぶ倍速で見るんか〜っ!」と驚いていたら、東大出身の雲丹うに、河野玄斗らが頷いて
「ドラマもアニメも倍速で見る」
「音楽はイントロや間奏を飛ばす」
「新作は一旦ネットで調べて『◯話からが面白い』などの確証を得てからはじめて見る」
「小説はあらすじだけ最初に調べて、面白そうだったら読む」
「レビューや『いいね!』の数を見て読むかどうか決める」
「芸人さんの動画は再生回数を調べてから見るかどうか決める」
とコメントしていた。


uni

「だって12回見て面白くなかったら無駄じゃないですか」


tanaka

「お前らネット信じ過ぎなんだよ!」


どうも「時間をかけて自分で試してみて、結果が空振りだったら時間の無駄」という価値観らしい。最初から結論を知っていないと安心して入っていけない。「最後はこういう着地点になる」という確証がないと手をつけない。つまり、今の若い子たちは「試行錯誤」が嫌いなのだ。
それと同じようなことは日常生活の至るところに顕われているのだろう。食べにいく店を決めるときにはネットで評価を調べる。新作の映画を見るかどうかはネットの評判で決める。新しくできたアトラクションに行く前にまずネットの評価を調べる。

要するにどれも「他人の評価」「他人の仕事」に寄りかかっている態度だ。その根底にあるのは「失敗したら過程が全部ムダ」という考え方だろう。とにかく「ムダ」をしたくない。「空振り」をしたくない。効率よく、「正解」だけを掬い取って生きていきたい。
そして今の世の中は、ネットによって「正解」を掬い取れるような世の中になっている。再生回数、アクセス数、「いいね!」の数、レビューの星の数、など「世間の評判」が数値化して可視化されている。


この番組を見て、どうして最近の学生たちが研究テーマを決められないのか、なんとなく分かるような気がした。
彼らは「間違えるのが怖い」のではなく、「労力をかけた結果がムダになるのが嫌い」なのではなかろうか。

他人の評価、他人の意見によって「自分の見解」をつくる、ということは、どこまで行っても他人の影響から脱することはできない。他の人の価値観に縛られているうちは、自分だけの独自の見解をつくることは絶対にできない。

たとえば狩りにおいて「鹿は金になるからいい獲物らしいよ」という評判が流れたとする。その評判を鵜呑みにして、千人のハンター全員が鹿を仕留めてきたら、当然ながら鹿の価値は暴落する。
大学の研究において、最後にものを言うのは「オリジナリティー」だ。世の中の誰もが気付かなかった謎、誰もが見過していた穴を、最初に見つけた研究が最も「おもしろい研究」だ。誰も彼もが鹿を仕留めてくる中で「なんか変な動物がいたぞ」と誰もが見たことも聞いたこともない珍獣を仕留めてくるのが、狩りの醍醐味なのだ。

そしてそういう能力は、自分で試みるよりも「他人の評価」「世の中の評判」「ネタばらし」を先行させるという生き方からは、絶対に身に付かない。
テーマを選ぶときにはまず最初にデータを見るわけだが、そのときには独自の「嗅覚」が働く。研究を長く続けていると分かるが、「これは面白そうな獲物だぞ」という勘が働く。その勘は「他人の評判を横目に見ながら自分の身の振り方を決める」という生き方をしているうちは、絶対に身に付かない。自分で決め、自分で狙いを定め、自分で進む生き方をしない限り身に付かない。

当然、空振りはある。やってみたけどムダだった、という経験は枚挙に暇がない。しかしその「ムダ」な体験をただムダとして切り捨てるか、自分の能力を身につけるための段階と捉えるか、によってその人の能力の限界値は決まる。
高校までの「おべんきょう」と違って、大学から先の「研究」では、失敗もひとつの成果なのだ。科学というのは人類全体のチームワークなので、ある方策で研究した結果が無駄に終わったら、「この先は進んでも行き止まりですよ」と世の中の人に広く告知することができる。失敗を共有することも研究の意義のひとつなのだ。失敗を「無駄」「不正解」と切り捨てる硬直した態度では、大学以降の研究を志しても心が折れて終わるだろう。

学生がしつこく研究テーマの妥当性にこだわるのは、この「失敗」ということに対する異様なまでの嫌悪感が原因なのではあるまいか。失敗をしたくない。ムダをしたくない。失敗は単なるムダだ。他人の評価だけで自分の世界観をつくりあげているから、論文を書くときも他人(=先生)の評価しか気にすることができない。その研究が自分にとって楽しいものであるかどうかなど一切関係なく、「評価されるかどうか」しか考えていない。そんな姿勢で大学生活を続けても、楽しいことなどひとつもあるまい。

若者世代の「労力をかけた結果ムダをしたくない」という価値観を「タイパ(タイムパフォーマンス)」というのだそうだ。コストパフォーマンスからの類語だろう。いまの若い人は、誰もがこの「タイパ」の奴隷と化している。「かけた時間だけ見返りを得られる」という確証がない限り、手をつけようとしない。浅ましい価値観だと思う。そういう生き方をしている限り、決して自分の深淵までに達する「本物」を掴むことはできないだろう。どこまでいっても、どんなもの見ても、必ず「他人」が介在する程度のものにしか達しない。少なくとも、誰もが思いつかなかった仰天するような研究は彼らから出てくることはないだろう。


件の番組に出ていた河野玄斗という出演者は東大医学部卒業で、医師国家試験・司法試験・公認会計士試験に合格したという大変な秀才なのだそうだ。しかし、医師国家試験に合格して、いま何をしているのだろう。司法試験に合格したら何なのだろう。公認会計士試験に合格したのが今にどうつながっているのだろう。「他人の仕事」「他人の評判」に寄りかかって生きて、「自分の生き方」はどうやってつくっているのだろう。結婚相手を見つけるときはネットで相性を試すのだろうか。仕事相手の人物評価はネットで検索するのだろうか。
難関試験に次々に合格している、ということは「他人に出される問題」に答える能力は高いのだろう。しかし人生は、他人からの問いに答えるためのものではない。自分の中に自分だけの何かを造り、世の中に誰も気付いていない何かを新たに見いだし、自ら何かを発信する能力はあるのだろうか。そういう眼は開いているのだろうか。



高校14年生くらいの印象。

芸能人の大学受験挑戦


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タレントの小倉優子(39)が大学受験に挑戦し、白百合女子大学に合格、学習院女子大学に補欠合格した。
巷ではわりと話題になっているらしく、この挑戦というか企画というか、試みに賛否両論らしい。

僕個人の感想としては、誰がどの大学を受験しようと勝手なので、「批判」する人の意図がよく分からない。主に「この程度の学力で早稲田志望なんて、受験を舐めてんのか」という批判が多いらしい。

早大挑戦の小倉優子は「受験を舐めてる」...批判にSNS猛反論 育児・仕事しながら勉強2000時間「尊敬に値する」

 小倉さんの受験企画をめぐり、SNSでは否定的な反応も一部で上がった。
「受験を舐めてるとしか言いようがない。芸能人がこうやって冷やかし半分で受験するのマジでやめてほしい」「これで早稲田とか本気なのかな」とするツイートなどだ。なかには、30万回以上表示されるなど拡散した投稿もあった。

こういう批判を見るたびに疑問に思うことなのだが、こういう人たちは小倉優子が大学入試に挑戦することで、なにか実害を被っているのだろうか。小倉優子は誰かになにか迷惑でもかけているのだろうか。

「他人のやってることによって自分が貶められる」という感覚自体、他人と比べることで自分の人生を作り上げようとしていることに他ならない。ひとりの存在として自立しておらず、他との比較によってしか自意識をつくることができない。どうせろくに大学教育を受けてない手合いだろう。

また、こういう挑戦に対しては必ず「舐めるな」という批判をする人がいるが、ろくに挑戦をしないまま安穏たる人生を送ってきた臆病者だろう。現状の自分よりもはるか高みを目指すときには、ある程度対象を「舐めてかかる」ことも必要なのだ。ビビって何もしないよりは遥かに前進できる。

大学側の立場からすると、芸能人のこういう大学入試受験は「どうぞどうぞ、どんどんやってください」という感じだろう。決して「大学を舐めるな」的な批判はしない。なにせ、受験料というのは入学金・学費と並んで大学の数少ない貴重な収入源なのだ。

現在、私立大学の受験料は3万5千円くらい。大学入試共通テストの受験料が1万8千円。だから小倉優子は今回の受験で、受験料だけで22万8千円を使っていることになるのだ。シングルマザーで子供3人を育てている身には安くない出費だろう。大学入試を舐めた態度で払える金額ではない。

ことの適否はさておき、日本というのは高等教育が手に届きやすい国なのだな、と感じる。日本以外の国で、こうやって芸能人が大学に戻って勉強しようという挑戦が可能な国がそれほどたくさんあるとは思えない。しかも今回、小倉優子が行った受験は、芸能人だからといって特別枠で優遇される自己推薦入試やAO入試ではない。純粋に学力だけで勝負する一般入試だ。早稲田、津田塾、学習院、成蹊の4大学はそれを公平に採点し、不合格を出した。名前が知られている芸能人が一般人として実力だけで勝負し、大学側も公平にそれを査定する。こういうことが普通にできる国は、学業文化のレベルが高いと言ってよいと思う。


僕は大学で教えているので、また春から新学期が始まったらどういう学生が入ってくるのか、受験生の動向にはそりゃ興味がある。そういう目線で今回の小倉優子の受験を見たので、ちょっと普通の視聴者とは見方も感じ方も違うと思う。そんな僕が今回の小倉優子の受験挑戦を見てて思うのは、「そりゃ受からんだろう」と、「大学に入ってからえらい苦労するだろうな」ということだ。

番組で小倉優子の勉強方法についてはあまり詳細に説明されていなかったが、使っている参考書や問題集の跡を見る限り、基本的な勉強方法は「暗記」だったようだ。知識量ゼロから受験をするとなると、知識の絶対量がなくては話にならないので、監修した指導陣もとりあえず情報を覚え込むところから勉強させたのだと思う。

受験校を見てみると、小倉優子が受験したのはすべて私立大学で、国公立大学は受験していない。国公立の1次試験である大学入試共通テストの点数(日本史31点(100点満点)、英語89点(200点満点)、国語97点(200点満点))を勘案すると、たぶん受けても受からないと思うが、それでも勉強の方法が受験校を狭めた印象は否めない。

センター試験の世代の方々はあまり想像できないかもしれないが、いまの大学入試共通テストの問題は難しい。少なくともセンター試験に比べると格段に難しい。数学なんて難度が一気に激化した。その難しさは、「教科書に載っていない細かい知識まで問われる」という難しさではない。「身につけた知識をどのように使うか」という調整能力がないと解けない類いの難しさだ。

丸暗記一辺倒の問題に対する批判を受けて、文部科学省は威信をかけて国公立大学1次試験の改革を行った。実際のところ僕はセンター試験への批判は、問題そのものに対するものというよりも、試験の利用方法に起因するものだったと思う。要するに、私立大学が参加し過ぎたのだ。センター試験は国公立大学の1次試験だったのに、受験者の拡大と受験料収入を狙った私立大学が悪用し過ぎた。そりゃ、東大・京大のような難関校を受験する一次試験と、定員割れするような就職支援校が同じ試験問題を使うのだから、歪みも出る。

むかしの国公立受験は、1次用のセンター試験対策と、2次試験対策は違う種類の努力が必要だった。しかし公平に見て、現在の大学入試共通テストは、国公立大学の2次試験に必要な資質がある程度問われる問題になっている。覚えるだけではなく、知識を使いこなせないと正答を出せない。だから全般的に問題の場面設定が複雑になり、問題文が長くなっている。国語力が弱い受験生などは、問題文の状況を理解するだけでかなり頭に負荷がかかるだろう。数学の難問化は、問われる問題そのものが難しくなったわけではない。答える問題の質が変わり、「どの知識を使わなければならないのか」から見定める必要が生じたためだ。

つまり、今の大学入試共通テストの傾向は、小倉優子の勉強方法には合わない。ひたすら知識量を積み上げるだけの暗記勉強では、大学入試共通テストは手も足も出ないだろう。小倉優子は津田塾大学の受験を大学入試共通テストの利用方式で受験しているが、これだったら一般受験のほうがまだ勝負になったのではあるまいか。

私立大学の入試問題が暗記問題中心に作られているのは、別に大学に入ってからその知識が重要だからではない。単純に、採点が面倒くさいためだ。1次試験で人数を絞ってから少人数に2次試験をする国立大学と違って、私立大学は一発勝負なので何千人の答案を短期間で採点しなければならない。だから当然、記述式の問題など出せず、マークシートで選ぶ客観問題しか出せない。

僕個人の考えだが、高校三年間の勉強を真っ当にやっていれば、間違いなく国公立大学のほうが受験しやすい。どう勉強すればそんな知識が身に付くのかわけ分からないような私立大学の問題とは異なり、国公立大学の問題は文部省の指導要領から一歩も外に出ない。東大や京大のようないわゆる難関校だって、問題は必ず高校の教科書から出る。ただし、機械的に情報を暗記するような手抜きの勉強方法では解けない。国公立大学の入試問題では、知識は手段であって目的ではない。既存の知識を組合せ、必要かつ十分な情報を取捨選択し、問われたことに最適解を出さなければならない。

国公立大学がそのような「考える問題」を問うのは、大学に入ってからの学問ではその能力が必須だからだ。真面目な高校生ほど勘違いしている人が多いが、大学というのは研究機関であって、教育機関ではない。教科書の情報を逐一暗記することを「勉強」だと思い込んでいる生徒が大学に入っても、ろくな研究はできまい。中等教育の間は「既存の知識体系を敷衍する」のが目的だが、高等教育の目的は「新たな知を創造する」ことが目的なのだ。

だから小倉優子のように、情報を暗記することを勉強としているようなやり方だと、大学に入ってからどんな能力が求められているのかすら分からないだろう。そんなのは大学1年生ではなく、高校4年生に過ぎない。よく真面目で高校時代よい成績をとっていた優等生が、大学に入ってから勉強の仕方が分からなくなり落ちこぼれていくことがあるが、大学という場でやるべきことを勘違いするとそういう羽目に陥りかねない。

大学教育で身につけるべきものは、静的で不変的な知識体系ではない。未知の問題に対して知恵を絞り最適解を生み出す動的な方法論だ。世の中では、問いのほうが変化するので、固定した答えだけを「暗記」していても役に立たない。自分自身の力で、自分をアップデートしていく能力が求められる。

今回の小倉優子の受験は番組の企画なので、受験をよく知ってる講師陣が手取り足取り勉強の仕方を教えてくれただろう。しかし、もし来年、第一志望の大学を再受験するべくもう一年勉強することになったら、果たして自分の力で最適な勉強の仕方を自分で編み出すことができるだろうか。「人から教えてもらったやり方で、情報をただひたすら暗記する」というやり方では、大学に入ってから身につけるべき能力が全然鍛えられない。大学に入ってから「自分は何をしなければならないのだろう」という自我崩壊に陥りかねない。 大学で必要な能力が身に付いていなければ、当然大学受験にも受からない。それだけの話だ。

小倉優子が1年間、あれだけ努力を続けられたのは、芸能界において「出身大学」という箔が収入に直結するからだろう。いい大学を出ることが金になるのであれば、そりゃ誰だって必死に勉強する。学生を受け入れる大学側としては、別に学生がどういうつもりで大学に入ってこようがそりゃ構わないが、一般的に大学という場は何をする所なのかが大きく勘違いされているような気がする。報道番組の「キャスター」「コメンテーター」、クイズ番組の「高学歴芸人」のようなポストを目指して大学に入るのであれば、きっとつまらない大学生活になるだろうな、という気がする。



ほとんどの学生はそんなことにも気付かないまま卒業するけどね。

ラグビーと大学教育

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昭和世代にはお馴染みの『スクール☆ウォーズ』(大映テレビ・TBS系列)というドラマがある。


荒廃した不良高校に体育教師として赴任した元ラグビー日本代表・滝沢賢治の奮戦記というドラマだ。体罰が普通であった昭和当時としても暴力描写が多く、相模一高に109-0の大敗を喫した際には部員全員を殴り飛ばすという、現在ではコンプライアンス的観点から地上波での再放送が絶望的ともいえる、いかにもアレなドラマだ。

今では問題作扱いされるドラマだが、決して暴力肯定一辺倒というわけではない。作品中、賢治が生徒に対して手を上げた後は、必ず何らかの形で賢治にペナルティが課されている。作品後半には賢治が厳しいだけの指導に行き詰まりを感じるようになる。そこで元ウェールズ代表候補のマーク・ジョンソンを紹介され、その全く異なるラグビー観に戸惑いながらも、「楽しむ」「自分で考える」という新しい軸を指導に取り入れていく過程が描かれている。娘が友達とやっている交換日記からヒントを得て練習日誌をつける習慣を取り入れたり、勉学一辺倒に偏る岩佐邦靖校長を決して悪者として描いていないなど、その時代としては先見の明がある教育観だろう。そのため、前半と後半でまるで別のドラマのように見える作品だ。しかし前半部分の体罰描写があまりにもインパクトが強く、今でも『スクール☆ウォーズ』といえば体罰作品、という印象をもつ人が多い。

このドラマの昭和当時の放映人気は凄まじく、ドラマ放映最終回の翌週には早くも再放送が始まった。夕方4時代の時間にはこの再放送を見るために街から不良の姿が消え、ゲームセンターは閑散たる状況だったという。このドラマに薫陶を受けた世代には「お前らゼロか!ゼロなのか!悔しくないのか!」「悔しいです!」「俺は今からお前らを殴る!」などの台詞がすっかりお馴染みだ。全国の中学校・高校のラグビーポールには必ず「イソップ」と書き込まれていた。昭和世代のほとんどは「この物語は、ある学園の荒廃に闘いを挑んだ熱血教師たちの記録である。高校ラグビー界において全く無名の弱体チームが、荒廃の中から健全な精神を培い、わずか数年で全国優勝を成し遂げた奇跡を通じて、その原動力となった信頼と愛を、余す所なくドラマ化したものである」を諳んじることができる。

僕ものちにラグビーをするようになったので、このドラマの印象は深い。今とはラグビー的に隔世の間があることも多く、当時は「プレイスキッカーがフランカーなのか…」と変な感想をもったことを覚えている。また県大会の決勝で、川浜高校のチーム統制が乱れていることを見て取った相模一高の勝又欽吾監督は作戦としてハイパントを指示するが、これは実際のセオリーとは逆だ。ハイパントは相手チームの統制が取れ過ぎて隙がないときにアンストラクチャーを生み出すために使うもので、相手の統制がとれていない時は普通モール・ラックを中心とした縦突破を使い陣形を崩し、外を余らせる。おそらくハイパントの処理のため上を向いてあたふたする川浜高校の選手を描くための演出的な描写だろう。

今でも様々な媒体でネタとしてとり上げられる名シーンが多いこのドラマだが、一応、教師という職に就いている僕は、このドラマを思い出すときに、普通ではあまりとり上げられない妙なシーンを思い出す。


川浜高校がまだ荒れていた頃、番長だった水原亮は賢治を敵視し、激高させ暴力行為によって辞職に追い込もうとあの手この手で嫌がらせをしてくる。そのすべてが空振りし、卒業を危惧する取り巻きが離れていく中、いよいよ自身が追い込まれた水原は、凶器を持って賢治と差しの勝負を挑む。そこで賢治に返り討ちにされ完全に叩きのめされ、逆に家で介抱される。


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その時、水原が「なぁ、ラグビーってどういうところが面白いんだ?」と賢治に尋ねる。


その時、賢治は「そうだなぁ、いろいろあるが…」と三つの理由を説明する。
ひとつめは、ラグビーは1チーム15人と団体競技で最も人数が多く、皆で力を合わせないと勝てないこと。
ふたつめは、臆病者にはできないスポーツであること。コンタクトプレーが多く、相手にタックルするためには並々ならぬ勇気がいる。
みっつめは、ラグビーボールの特殊な形。どこへ転がるか分からないから、最後まで追い求める執着心が必要。途中で諦めた奴のところには決してボールは転がってこない。

一般的には「不良・水原改心のシーン」として名場面に括られることが多いが、僕は最近、このとき賢治が言っていた3つの理由をよく思い出す。



話は全く変わるのだが。
大学で教えていると、男子学生と女子学生の違いが如実に顕われることがある。特に大学に入ったばかりの学部1, 2年の基礎教育の段階でそれが顕著だ。昨今の風潮では「男子」「女子」という性別のくくりで物事を論じるのは良くないことなのだろうが、厳然たる事実として性差は存在する。学生の問題に対処する必要上、その違いを理解していなくては話にならない。

大学に入ったばかりの1年生の語学授業などを担当していると、間違いなく女子学生のほうが優秀だ。課題はちゃんとやってくる、小テストは満点をとる、提出物はきっちり守る、試験勉強をちゃんとやって点数を取る。言ったことを全部きっちりやってくる良い子が多い。教えてる側からしても非常に気分が良い。覚えがよろしい。

一方、男子学生は、まぁ、勉強をしない。全く勉強しない。特に一般教養科目や語学授業などはまず勉強しない。宿題はやらない、小テストはすっとばす、レポートは雑に書く、試験勉強をしない。白紙答案なんてものもザラだ。先生の言うことを全く聞かない。大学に入って羽目を外しているのかと思いきや、そうでもないので不思議だ。授業にはちゃんと来るのだが、そこでコツコツと努力をするということをしない。学期によっては成績順に並べると上半分が全員女子、下半分が全員男子、ということもあって困ることがある。

ところが、大学2年から3年にかけての時期に、逆転現象が起きてくる。男子学生がぐんぐん伸びて、女子学生がごぼう抜きされる。特に専門科目やゼミなど学習範囲が先鋭化してくると、その傾向が顕著になる。授業のレポートを読むと、優秀なレポートを書くのはほとんどが男子学生ばかりになる。女子学生の書くレポートは、誰かの研究をまとめただけにすぎなかったり、ただ資料を切り貼りしてきただけの形式的なものばかりだったりすることが多くなる。

背景としては、その頃になると女子学生の興味の中心はすでに「就職活動」に傾いており、就活に必要のない科目や授業をことごとく切り捨てていく傾向がある、ということがある。非常に現実的だ。就活に執心するならまだマシなほうで、重症になると勉強がとてもつまらないものに感じられてしまい、学習意欲がゼロになり、大学に来なくなる。「自分は何をしに大学に入ったのだろうか」と煩悶するようになり、目を背けるように学業以外のことに熱中するようになる。

このように男女が逆転する理由は明らかだ。女子学生は、本質的に「大学3年生」なのではなく「高校6年生」であることが多いのだ。勉強する目的・手段・動機付け・意義・価値、すべてにわたって「高校生」の感覚なのだ。大学に入ってからも、高校の頃と同じような感覚で勉強をしている。新しいステージに合わせるように自分をアップデートできていない。それは一言でいうと「他人から評価されるための勉強」と言ってよい。

女子学生の多くは、優秀な成績を取ることが重要だと思っている。「一生懸命勉強して、試験でいい点を取って、優秀な成績を積み重ねて、いい企業に就職する」。女子学生の「理想の大学生像」は、おおむねそんなところだ。だから先生の言うことにはきっちり従う。やらなければいけないことを全部やる。「『優』ばかり並んでいる成績表」が、女子学生の目指すところと言ってよい。

一方の男子学生が勉強しないのは、「なぜそれをしなければいけないのかが分からない」からだ。彼らは先生に突っかかっているわけでも反抗しているわけでもなく、心の底から「なんでそれを勉強しなければならないんですか?」と思っている。大学入試が終わってからも英語を勉強しなければいけない理由が分からない。自分の専門と関係のない一般教養を学ばなければならない理由が分からない。だから勉強しない。男子学生は、理由もなくいい成績をとるためだけに努力をする、という不毛なことを丹念に続けられるようにはできていない。意味がないと思えば、やらないのだ。

大学の勉強というのは、例えて言うと「刀を研ぐ作業」と「剣術を鍛える修行」のふたつがある。「刀を研ぐ」というのは、いわゆる「おべんきょう」のことだ。知識を身につける。語学能力を上げる。ひたすら努力する。高校までの中等教育が目的としているのは「既存の知識体系を敷衍して身につけること」だ。これは己の知的作業の武器を磨き上げることに他ならない。

一方、「剣術を鍛える修行」というのは、敵を倒すための動的作業だ。大学でいうと、これは自分の研究テーマとして狙い定めた謎を解くことに相当する。どんなに研ぎ澄まされた刀を身につけていても、それを使って敵を倒せなければ意味がない。高校まではひたすら刀を磨いていればよかったが、大学では刀を磨くのは「手段」であって、それ自体が「目的」ではない。

女子学生の多くは、刀を研ぐ作業に秀でている。そして、大学に入ってからも相変わらず延々と刀を研ぎ続けているだけなのだ。実際にその刀を使って何か謎に取り組み、斬りかかり、倒そうという気は全くない。そして大学3年くらいになってもひたすら刀を研ぎ続け、「私は大学で一体何をやっているのだろうか」と煩悶するようになる。つまり、やっていることが高校の頃と全く変わらない。

つまり女子学生は、刀を研ぐのは上手いが、その刀を実際に使うのが下手なのだ。自分が倒すべき敵さえ定められない女子学生も多い。女子学生はどんなに優秀な成績をとっていても「で、大学では何を研究しているんですか?」と訊かれると、答えに窮することが多い。それは「知識を身につけること」が教育の目的であると盲信し、そこから一歩も外に出られていないからだ。高校までは、ひたすら上手に刀を研げれば褒められた。いい成績がもらえた。だからいつのまにかそれを「至上の目的」としてしまい、「成績のために勉強する」、つまり「他人の評価のために勉強する」という姿勢が習い性になってしまう。

女子学生が「一生懸命勉強して、試験でいい点を取って、優秀な成績を積み重ねる」のは、別にそれが楽しいからではない。それが「いい企業に就職する」、つまり「他人に評価される」ために一番手っ取り早い方法だと思っているからだ。基本原理が「自分」ではなく「他人の評価」なので、自分のやっていることが他人からの評価につながらないと悟った瞬間、自己が崩壊する。

企業は、どんなに良い刀を研げても、それを使って問題を解決する能力が無い者は採用しない。剣術の腕前がなければ話にならない。女子学生が「優秀な成績」をとっていても就職活動に苦戦する理由はそこにある。就職活動の面接では必ず「で、大学では何を研究しているんですか?」と訊かれるが、女子学生はそれに対して自ら発する熱量をもって専門分野の魅力を熱く語ることができない。女子学生にとって大学の研究とは「成績のために仕方なくすること」でしかなく、良い成績さえ取ってしまえば研究内容などどうでもいいからだ。企業に研究内容について訊かれても、ただ就活のために用意した陳腐な文言しか並べることができず、それは企業の面接官に露骨に伝わる。

それは何も就活だけに限ったことではなく、大学の本分たる研究活動にも反映されている。女子学生は、男子学生と比べて圧倒的に大学院の進学率が低い。それは「女子には研究能力がない」からではなく、大学院に入ってまで「勉強」を続けようという意欲が湧かないからだ。大学院で行うのは「勉強」ではなく「研究」である、ということを根底から勘違いしている。女子学生が大学院に進学しないのは、要するに「これ以上、刀を研ぎ続けるのは嫌だ」というだけの理由に過ぎない。倒す敵もなく、使うつもりもなく、ひたすら刀を研ぎ続けるのはそりゃ苦痛だろう。学部で「よい成績」を取った女子学生が大学院に入って論文一本書けない、というのはよくある話だ。僕がアメリカの大学院にいた時も、飛び級で入学してきた20歳そこそこの「優秀」な女子学生が、タームペーパーの論文一本まともに書けず、1年で退学していった。彼女らは「知識を暗記する」「訊かれたことに答える」「試験で点をとる」ことを「知的活動の全て」と思い込んでおり、「自分から謎を発見する」「仮説を立てる」「持論の正しさを立証する」という「剣術の腕前」を疎かにしている。

一方、男子学生のほうは、ろくに刀を研ぎもしないでやたらに振り回そうとする。研究テーマを定め、取り組む問題を見つけ、解明のための筋道をつける能力はあるが、いかんせん知識がない。英語が読めない。敵を倒すためにいつまでも棒っきれを振り回して挑むような粗忽さがある。

だから、敵を倒すために必要な武器を調達する必要がある、と悟った時点から猛烈に刀を研ぐようになる。男子学生が「宿題はやらない、小テストはすっとばす、レポートは雑に書く、試験勉強をしない」のは、それをする必要性を感じないからだ。男子学生は、自分でしたくもないことを「他人に評価されるため」というだけの理由ですることを嫌う。だが一旦、倒すべき敵が明確になり、そのために勉強が必要だと悟ったら、猛烈に勉強をするようになる。大学入試のために英語を勉強する必要がなくなっても、「自分の論文は英語で書かないと世界中の人が読んでくれない」と分かると、途端に英語を猛勉強しはじめる。「世界の企業を相手に英語でスピーチをして自社製品の優秀さをアピールできないと仕事を取ってこれない」という将来像が明確になると、途端に英会話が上達しはじめる。男子学生は、先生の言うことを全く聞かない。だから先生の書いた論文にも臆することなく反論する。

大学における学習態度の男女差が最も顕著に表れるのは、授業中に挙手をさせて意見を述べさせる時だろう。
そういう時、女子学生はまず発言しない。女子学生の多くは理想の勉強の仕方を「家でひとり机に向かって、こつこつと努力すること」だと思っている。だから教室ではひたすら気配を殺して、他人の背後に隠れ、自分が目立つことを嫌う。当然、「議論」などという行為は最も女子学生が忌み嫌うところだ。女子学生は、議論を「他人の意見にケチをつけること」「意見の正しさの勝ち負けを競うこと」「自分の意見にダメ出しをされること」だと思っている人が多い。そのため議論をするたびに「自分は他人にどう思われているのだろうか」ばかりが気になり、無駄にメンタルが削られる。だから議論では絶対に発言したがらない。

こうした幼稚な態度は、高校までは通用しただろうが、大学よりも上の世界では単なる「無能」に過ぎない。その「無能」の正体は、意見の表出能力でも思考能力ではなく、そもそも「議論」というものは何のために行うのか、という一番根本の部分を誤解しているだけなのだ。そこが、女子学生が大学以降で伸び悩み、大学で学ぶ意義がわからなくなってしまう一番の原因だろう。高校生の感覚のまま大学生になり、議論の意義も目的も知らないまま「他の人に攻撃的になるのは嫌だ」という理由で意見を言いたがらない。

大学で扱う「もんだい」というのは、大きく”problem”と”issue”に大別される。
Problemというのは、「確たる正解はないが、場の必要上、参画する人で一応の同意に達する必要がある問題」のことだ。環境問題、年金問題、税金問題、コロナ禍でのマスク可否問題、などがそれにあたる。「こうすればいい」という絶対的な正解などない。しかし、切羽詰まった現実に対処するために、その場にいる人で協力してとりあえずの合意をつくり、「最適解」をつくりだす営みだ。

一方、issueというのは「解くべき謎を見つけて、最も妥当と思われる仮説を提唱し、その妥当性を立証するべき問題」のことだ。人間はこのissueに対処する方法論として「科学」を創り出した。数学や論理学などの公理系をもつ形式科学はちょっと別だが、「自然とは何か」を模索する自然科学、「人間とは何か」を模索する人文科学、「社会はどうあるべきか」を模索する社会科学は、すべて共通した方法論をもつ。

人類は有史以来、「もんだい」を解決するために3つの方法論を編み出してきた。すなわち「宗教」「哲学」「科学」の3つだ。
宗教の方法論は単純で、「信じること」。今でも学生の中には先生の言った「こたえ」を盲信する者がいるが、それは科学でも何でもない、「先生教」という宗教に帰依しているだけの思考停止だ。
哲学と科学の方法論は共通して「疑うこと」。しかしそのふたつは取り組み方が異なる。「哲学」というのはいわば個人技の名人芸だが、「科学」というのは人類全体のチームワークだ。有史以来、数限りない哲学者が「この世の真実」に到達してきたのだろう。しかしその世界観は、他人が理解できない再現不可能なものだ。ある哲学者にとっての真実は、あくまでもその哲学者の中だけの真実であって、他人に共有できる種類のものではない。「それはあなたの感想ですよね?」というのは、哲学的手法を揶揄するためのものだ。

現在の大学教育は、「科学」の方法論に基づいて行われている。現在、世界中で広く行われている研究活動は科学の方法論に立脚しているので、それに基づくのは当然のことだろう。「科学」はひとりよがりの世界観ではなく、人類全体のチームワークで世界の謎を埋めていく作業なので、当然ながらルールがある。科学の作法を知らなければ、科学研究に参与することはできない。

「議論」というのは、要するにissueに対する仮説に対して、problemに対する提言に対して、その場にいる人間全員で最適解を導くための共同作業だ。そこではおかしいと思うことはおかしいと指摘し、より良い案があれば提案し、その場の「集合知」を少しでも上に押し上げる協力体制が必要となる。


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大学教育が行っていることを端的に例えると、映画『シン・ゴジラ』みたいなものだ。
東京の湾岸地域に得体の知れない生物が出現し暴れている。そこで「あれは何だ?」というissueが発生し、皆で知恵を絞って妥当な仮説を出し合う。試行錯誤の議論を経た後、「あれはどうやらゴジラというものらしい」という仮説に達する。
そうしたら次は「どうすれば倒せる?」というproblemに取り組む必要がある。自衛隊を動員して一斉射撃をするべきだ。いやいやそれだと地域住民が犠牲になる。では東京近郊で住宅が密集していない場所に生物を誘導すればいい。そんな場所あるか?ある。多摩川流域の河川敷なら一斉放射しても犠牲は少ない…


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皆で「議論」した末、とりあえず辿り着いた「最適解」。


ところが女子学生のほとんどは、「どうすればゴジラを倒せるか?」という問題であっても、議論であれば何でも「意見の優劣・勝ち負けを決めるための勝負」という観点しかない。誰かの意見に反論することを「その人に対する敵意」と思い込んでいる。だから意見を出したがらない。すぐ外でゴジラが暴れていようと多くの人が犠牲になっていようと、一切関係ない。女子学生にとっては、「家でひとり机に向かって、こつこつと努力すること」こそが勉強の理想形であり、人類全体で力を合わせて「集合知」をくみ上げていく共同作業など、知ったこっちゃない。要するに「自分さえ点数を取れればそれで良い」のだ。

だからその場にいる人の間で「集合知」をつくる作業には一切協力しない。ひたすら気配を殺して、他人の背後に隠れ、目立たないように振舞う。「意見を言う」という、目立つようなことは絶対にしない。教室という小さな場で「集合知」をつくるのに協力しない人間が、人類全体の「集合知」をつくるために貢献できるわけがない。普段から「目立たないように」を基本原理として行動している人間が、就職活動の面接という場で人の印象に残るわけがない。

実際のところ女子学生が教室で意見を言わないのは、そこまで悪意に満ちたものではなく、単純に「人前で話すのが怖い」という理由であることが多い。しかしその理由だって、大元を探ってみれば「失敗するのが怖い」、正確には「他人から『失敗した』と評価されるのが恥ずかしい」、要するに「他人の評価」によって自意識をつくりあげていることに起因している。

人前に立って自分の意見を話すことは、そりゃ誰にとっても怖いものなのだ。しかし、人類の「集合知」をつくることに協力し、より良い最適解を皆で作り上げるためには、ひとりひとりの協力が不可欠なのだ。皆で知恵を寄せ集めなければ、ゴジラの倒し方など誰にも分からない。「自分の意見は間違っているかもしれないが、全体の集合知を作り上げるために貢献できればそれでいい」という客観的なものの考え方をしなければ、意見など出せない。そして女子学生にはそれができない。

この世には絶対的な「真実」などなく、決まった方法論をとればいつも「正解」に辿り着ける、というものではない。問題ごとに最適解は異なるし、この世の中では問題そのものが常に変化する。決まったやり方を暗記しているだけでは何の役にも立たないのだ。「こう訊かれたら、こう考えて、こう答えればいい」という絶対正解が存在していた高校までの「おべんきょう」ではそれで何とかなったかもしれないが、世の中に出てから成果のないissueやproblemに取り組む時には、その時その時で頭を振り絞って、その場にいる全員で協力して、知恵を集めて最適解をつくる必要がある。


そう考えると、大学で学ぶべき知のあり方というのは、非常にラグビーに似ているような気がするのだ。
ラグビーは15人で行う競技で、団体競技で最も人数が多い。だから「個の力」だけでは勝てない。チーム全員が力を合わせて、「チームの総力」を組み上げるやり方を、各自が分かっていなければならない。それと同じで、「科学」という営みも、人類全体のチームワークなのだ。そのためには自分勝手なやり方では何の貢献もできない。科学のルールを守り、科学の方法論に従わなければ、人類の集合知を構築するための戦力にはなれない。ましてや「ひたすら目立たないように黙ってる」「家でひとり机に向かって、こつこつと勉強することこそ至上」「『議論』は他人に対する攻撃だから嫌だ」などという姿勢は、その共同作業に参加することを最初から放棄している。人類という「チーム」がどうなろうと知ったこっちゃない、という態度に他ならない。

もちろん、人前で意見を言うのは勇気がいる。僕は大学の英語の授業で1年生にも英語でのスピーチを課しているが、大学1, 2年生くらいの学生にとっては、人前に立って英語で発表をするというのはかなりハードルが高かろう。1年生対象の授業では、壇上に立った途端に目に見えて分かるほど足が震える女子学生もいる。ちょうどラグビーのタックルが怖いのと同じことだ。全力で突っ込んでくる相手FWにタックルに行くときの心境は、ちょうどそんなものだ。人前で自分の意見を発表するのも、突進してくる相手にタックルするのも、ともに勇気がいる。ラグビーも、科学研究への参与も、決して臆病者にはできない。

女子学生は試験の点数だけが気になるので、やたらと「それで先生、答えは何ですか?」と訊いてくる。要するに「こう答えればどんな時でもちゃんと評価されますよ」という絶対的な安心感を欲しがるのだ。しかし、大学より先の世界には、正解などない。issueにしてもproblemにしても、決まったやり方で答えれば常に正解が出せる、という甘いものではないのだ。ちょうどラグビーのボールのように、どちらに転ぶか全く分からない。時にはセービングのために身を投げ出し、体を張ってボールを確保しなければならない。途中で諦めた奴のところには決してボールは転がってこない。ラグビーのボールにしろ科学的探求にしろ、必要なのは「最後まで諦めずに追い求める執着心」なのだ。

他人に評価されるために勉強する女子学生と、他人の評価なんか知ったこっちゃなく自分の興味と関心を満たすためにしか勉強しない男子学生の違いは、早いと大学1年生の秋頃にはすでに出てくる。真面目に勉強するに越したことはないが、学生の多くは「真面目」のあり方を勘違いしている。高校までに良しとされてきた勉強の仕方をそのままずっと続ける、成績という他人の評価のためだけにひたすら頑張る、努力と勉強は「よりよい次の進路のため」と思い込み本質を見失う、というのは大学2年生までに学生が各自、自分の力で乗り越えなければいけない壁だ。

単なる高校4, 5, 6年生なのか、それとも晴れて「大学生」へと自らをアップロードできるのか。仕事柄、そのへんの事情を学生に説明することが多い。
そんなときは水原に「なぁ、ラグビーってどういうところが面白いんだ?」と尋ねられたときの滝沢賢治の返事を、最近よく思い出す。



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daitoyo


余談だが、土建屋のオヤジ・内田玄治が夜遊びしているキャバレー「大東洋」、いつも「大泉洋」に見える。



勉強の仕方を知らない学生など、しょせん雪で止まった新幹線。
ペンギン命

takutsubu

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