たくろふのつぶやき

BBQ強化月間。

Education

文章力とは何ぞや

せんだい



大学院時代、仙台に住んでいた。


通っていた大学は仙台市の真ん中に聳える青葉山のてっぺんにあったため、雨の日などはバスで通っていた。
大学院生というものは基本的に鬱屈しているもので、それが雨でも降ろうものなら、勉強などする気が途端に失せてしまう。容易に失せる。

仙台駅からバスに乗り、大学行きのバスに乗ると、七夕祭りで有名な青葉通りを進む。広瀬川を渡って青葉山に入ってしまうと、もう大学の敷地のようなものなので、後戻りはできない。
「今日の読書会、出ようかな、さぼろうかな」などと逡巡しながらバスに乗り、青葉通りを4分の3ほど進んだあたりで「えーい、今日はさぼってしまえ」と意を決する。
そういう時、だいたいバスを降りるのが「晩翠草堂前」というバス停だった。

この晩翠草堂という建物、文学者の土井晩翠の晩年の生家跡を、仙台市が一般公開しているものだ。学部生時代に僕が所属していた研究室の先生が土井晩翠の子孫だった縁もあり、大学院をさぼる時には、なにか先生に叱られている気がしたものだ。

土井晩翠は晩年、東北帝国大学(現・東北大学)の講師を勤め、退官後も仙台に居住していた。一度住んだ人なら分かるが、仙台というのは非常に住みやすい。よい街だ。
大学院をさぼった僕は、晩翠草堂で座禅を組むようなことはせず、一番町や国分町で遊び回り、住み良い街を存分に堪能していた。

土井晩翠の残した仕事のうち、最も有名なのが、滝廉太郎作曲「荒城の月」の作詞だろう。
あまり知られていないが、実はこの歌は四番まである。

春高楼の花の宴 巡る盃影さして
千代の松が枝分け出でし 昔の光今いづこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照り沿ひし 昔の光今いづこ

今荒城の夜半の月 変はらぬ光誰がためぞ
垣に残るはただ葛 松に歌ふはただ嵐

天上影は変はらねど 栄枯は移る世の姿
映さむとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月


擬古文で書かれた、格調高い詩だ。世の栄枯盛衰を朗々と吟じ、情景と心情描写の移ろいを高らかに謳いあげて間然とするところが無い。
昔の文学者は、漢学の素養が高かったことが伺える。

この歌詞は、それぞれが四節から成っており、五言絶句の体を成している。
四番までの歌詞は、それぞれが起承転結を成しており、これもまた絶句の体裁だ。

一番の歌詞は、春の歌。のべて日本の歌は春を「起」の題にすることが多い。
二番の歌詞は、秋の歌。春とくれば、次に秋が来ることは常識だ。春という起題を受けた「承」にあたる。
三番の歌詞で、話がいきなり「ところで昨今は」と話が現実に引き戻される。「転」の部分だ。
最後の四番は、それまでの歌を「結」び、普遍的な無常観を謳う。

きわめて文学的、漢詩の要素をふんだんに散りばめた、秀逸な歌と評してよかろう。
日本の文学において、漢詩の基本体裁である「起承転結」が、きわめて大きい影響力を持っていたことを示している。
黒澤明監督の作品の脚本を担当していた脚本家の小国英雄は、映画の筋を考えるときに起承転結を旨としていた。また現在でも、新聞に掲載される四コママンガなどは、この構造が王道とされている。

現在、日本の初等教育でも、作文作法として起承転結の構造を教えることが多い。子供は文章の骨組みを全体的に見通す俯瞰力に欠けるから、それぞれの単文がまったく関連をもたない、脈絡のない作文を書く。文章の「外枠」として起承転結を教えることには、一定の効果があるだろう。


閑話休題。現在、夏休みが近づき、各出版社が「夏の文庫本フェア」のような催しをやっている。読書の夏だ。
僕は毎年、この文庫フェアが好きで、夏に入る前に文庫本をまとめ買いする。今年は角川文庫はブックカバー、集英社文庫はシリコン製の栞をくれる。新潮文庫はなにもくれない。

近年、この夏の文庫本フェアに、「作文を上手に書く方法」のようなハウツー本が必ず入るようになった。さもしいと言えばさもしいが、正直に言って、中高生が文庫本を読む一番の理由は、学校で課される読書感想文の宿題に対処するためなのだろう。自発的な理由でなく本を読むことが苦痛なのは、誰もが経験している実感だ。そういう悩める中高生のために、出版社側もあらかじめ救いの手を差し伸べているつもりなのだろう。商魂たくましい。

僕も一応、そういう「文章作法」の本を読んでみるが、その内容に感心したことは一度もない。実感で言うと、あの手の本を読んで、実際に文章力が上がることは決してないだろう。
その理由は、日本の初等教育における「文章力」というものが、一体何を指しているのか、はっきりしないことだ。

中高生が書く文章というものは、大きく分けて、随筆と論説に分かれる。 随筆というのは、いわゆるエッセイのことで、ものを見たり聞いたりしたときに感じたことをそのまま書く文章のことだ。文科省の指導要領では、厳めしく「生活文」などという言葉で導入してある。夏休みの読書感想文は、この範疇に入る。
一方、論説というのは、読んで字のごとく論によって説を組み立てる、論理的な文章だ。夏休みに自由研究を行うのであれば、その文章は論説の体裁で書かなくてはならない。

ところが、学校の国語の授業では、「このふたつの文章形態は、それぞれ違った書き方をしなくてはならない」ということを、きちんと教えていないのではないか、という気がする。「文章力」という言葉で、このふたつの範疇をごちゃごちゃに混ぜてしまい、そのふたつの範疇を超えた、文章を書く際の「底力」のようなものをイメージして、作文指導をしているような気がする。

随筆というのは、つまるところ「作品」だ。だから随筆を書く時には、読む側を惹き付けるような技術が必要になる。読書感想文とて、作品を読んだ人の内的世界を、他者に開示するためのものだ。
僕は「読書感想文コンクール」のような催しの意図が、まったく分からない。感想に優劣をつけて、どうしようというのだろう。

僕が国語の教師だったら、読書感想文というのは、「生徒はどういう分野に関心をもっているのか」「自分が感じたことを、どれだけ『作品』として書き上げることができるのかな」という程度のことを知る目的でしか使わないだろう。少なくとも、「文章力」を上げるための指導方法としては、効果があるとは思わない。
僕は中学時代にそう思い始め、それ以降は宿題の読書感想文に、電話帳だの地図帳だの料理本だの、ストーリーなどまるでない本ばかりを選んでいた。

感想文だって随筆だから、文章の構成は起承転結で良かろう。話の筋がはっきりして、書きやすいし読みやすい。
しかし、こうした文章の書き方を普遍的に捉え、「なるほど文章というのはこうやって書けばいいのか」と思い込んでしまうと、大学に入ってから地獄を見る。

大学に入って以降に書く文章は、すべて論説と言っていい。大学の先生は、学生に「作品」を書いてほしいわけではないのだ。大学で行っているのは研究なのだから、読書感想文のような書き方でレポートや論文を書かれても困る。大学の先生は、学生の心情的な揺れや、情緒的な内的世界などには興味がない。そんなことを、大学という場で書かれても困るのだ。

昨今、大学では1年生を対象に、必修科目として「スタディ・スキルズ」なる科目を設けているところが多い。大学での「研究」のしかた、文章やレポートの書き方などを教える科目だ。一昔前の世代の人からしてみれば、「そもそも、大学に入ってよいのは、すでにそういう能力を身につけた人だけなんじゃないの」という程度の内容だ。僕の勤務校でも、この科目は不要、と切って捨てる年配の先生もたくさんいた。

僕もこのスタディ・スキルズなる授業を何回か担当したが、試しにレポートを書かせてみると、見事に全員、感想文を書いてくる。「〜と思います」という文言が、非常に多い。
大学というのは基本的に、真実を探るための科学的手法を学ぶための場所であって、感想を言い合ってお互いの親睦をはかる場所ではない。レポートに感想文を書いてくる学生は、情緒豊かな学生ではあるのかもしれないが、学問を志す学生としては失格だ。

だから僕が担当するスタディ・スキルズの授業では、まず「中学校、高校で習った文章の書き方を、すべて忘れるように」という内容から入る。中学校、高校で習う文章作法は、読書感想文をはじめとして、すべて随筆の書き方だ。起承転結など言語道断。学術論文をそんな体裁で書いたら、まず書き直しを命じられると思って間違いない。

論説の基本構成は、「結論・根拠・議論」の三部構成だ。
まず「結論」をバンと書く。添削する教員の側から言うと、延々と事実や調査が列挙してあって、最後にようやく結論が出てくるレポートなど、落第点以外の何物でもない。結論が最初に示してあって、それを念頭に置きながら読み進めないと、事実が意味をもたない。
僕はアメリカの大学院で、論文を書く方法を学ぶ授業を受けた。そのときの先生は、文章を「アガサ・クリスティーの推理小説」と「刑事コロンボのTV作品」に例えていた。謎をたくさん散りばめて、最後の最後にどんでん返しの結末をもってくるクリスティー作品と、最初に犯行と殺人犯が明らかになり、コロンボがその謎をどう解くのか、を主眼とした倒叙構成であるコロンボ作品の違いだ。先生曰く、「学術論文は、すべてコロンボ形式で書け」とのことだった。

「根拠」の節は、レポートのもっとも中核的な部分になる。この部分を埋めるために、調査や実験が必要になる。学生はすぐにこの節を書くためにWikipediaに飛びつくが、根拠の内容には制限がある。「誰が書いたのか明記すること」「出典を明確にすること」だ。情報の信頼度は、ソースを辿って妥当性を検証できるものでなくてはならない。誰が書いたのか分からないWikipediaを根拠に使うということは、自説の信頼性を、誰だか分からない匿名の人に依存することになる。

「議論」の節は、自説から派生する可能性や、自説が間違っている可能性について論じる箇所だ。ここで「正解絶対説」に冒された学生の病巣が明らかになる。
学生は、どうやら「レポートというのは、『正解』を書かなければならない」と思い込んでいる節がある。中学・高校時代の定期テストのような感覚で、レポートを書くのだろう。しかし、大学で行われる学問が真実の探求である以上、一介の学生ごときが真実を見抜くことなど、ほぼ不可能なのだ。学生の書くレポートや論文で提示する結論は、ほぼ間違っていると断じてよい。

そして、間違ってもよいのだ。ここが、高校までの中等教育と、大学以上の高等教育の、大きな差であることが分かっていない。大学で学生が読む論文は、そのほとんどすべてが「仮説」に過ぎない。こう考えると事実がうまく説明できる、という程度問題でしかない。もし学問に「正解」があるのなら、今後の学問はすべて発展の可能性を無くし、意味を失うだろう。

僕の実感では、読書感想文や起承転結という「心情吐露」の技法ばかりを作文の書き方だ、と思い込んでいた学生が、きちんとした論説やレポートを書けるようになるまでには、みっちりした演習を繰り返して2年かかる。大学3年生になって卒論のテーマを決める段階で、この能力が身に付いていない学生は、手遅れと言っていい。

僕は別に、中等教育で読書感想文や随筆を書かせるのが悪いとは言わない。何も書かないよりははるかにましだろう。
しかし、「随筆」と「論説」はまったくの別物であること、目的によって書き方を分けなければならないことは、きちんと教えておくべきだと思うのだ。高校では、論文など書かないし、読まない。
野球を例にすると、「野球を教えてください」と言ってくる子供に実際に教える時には、バッティングと守備を分けて教えるだろう。そのふたつは別の練習が必要な違う資質であり、片方を教えればもう片方も自動的に上達する、というものではない。「随筆」と「論説」の違いも、それと同じことだ。

夏休みの文庫本フェアに出てくるような「作文の書き方入門」のような本を見るたびに、僕はそのふたつをきちんと分けているかどうかをチェックする。だいたい、分けていない。そりゃそうだろう。読者として想定している中高生は、なんとかして宿題の読書感想文を書き上げたいと思っているのだから、いきおい内容はその指南書と化す。大学に入ってから必要な論説の書き方など、知ったこっちゃない。だいたい、高校までの知的生活では、論説の構造や外枠を、きっちり学ぶ必要性も機会もないのだ。また世の中の人の多く、文庫本を手軽に読む一般の人の多くは、大学で課されるような論文を書く機会など無いだろう。

しかし、大学に入ってからのレポートや論文で、「荒城の月」のような朗々とした大河的作品を書かれても困るのだ。そんなことは求めていないし、必要でもない。僕が読んだことがある優れた論文の中でも、文章力そのものは下手な人はたくさんいる。「内容の妥当性」をとことん追求するのが論説であり、「使用する字句の洗練度を上げる」「内容の共感性を高める」ことを目的とする随筆とは、文章を書く目的がそもそも違うのだ。

そのずれが最も顕著になるのが、大学入試の小論文だろう。大学という学術研究機関に入るための選抜試験なのだから、入試の小論文は基本的に論説の作法で書かなくてはならない。しかし、随筆的な文章の書き方しか習っていない高校生は、求められているものを適切に把握できず、途方に暮れる。入試小論文の書き方で、起承転結を薦めている本があるが、滑稽千万だ。

全国読書感想文コンクールで最優秀賞をとった生徒に、プロの作家として大成した人はいないそうだ。随筆は「作品」であり、鑑賞に耐えうる質をもつべき「芸術」に近い。それと、学問に必要な再現性を備えた、無機質で機械的な論説を、同列に扱うほうがどうかしている。その両方を「文章力」という曖昧なカテゴリーでくるみ、あたかも同じ方法論で書ける、と言わんばかりの内容が満載の文章作法本など、何の役にも立たないと思う。語彙が多ければ人の心に残る名文を書けるわけではないように、「文章力」なるものを上げることと、大学以降で必要となる文章作法を学ぶことは、近いように見えて方法論は全く別なのだ。


土井晩翠は東北帝国大学で教えていたくらいだから、論説の構成くらいは身につけていたと思う。しかし、文学者として名を成した晩翠翁の書いた論文を読んだことがある人が、どれほどいるのだろうか。僕が読んだ限り、明治から昭和初期にかけて活躍した文学者は、おおむね論文を書くのが下手だ。筆致が滑り過ぎ、美辞麗句に埋もれて、話の要点が見えない。例外は森鴎外くらいのものだろう。学術論文は名人芸ではないので、誉れ高い文章力など要らない。まず「型」をしっかり身につけて、内容の妥当性を検証する思考能力のほうが必要だ。

日本の文芸は文学を軸として発展してきた。それはそれで誇るべき文化であり、継承していくべき資質ではあるだろう。しかし、それはそれとして、学問とは別に教え込む必要があるものだ。ましてや、次世代を担う子供に接する教師の側に、その境界線をはっきり見定める技量がなければ、到底無理だろう。



雨の日の一番街は出店が多いから買い食いが進むんです。

ブラインドウォーク

たまに大学で、異様な光景を目にする。
何かの授業を受けている学生たちが、二人一組になって、構内を歩き回っている。そのうち一人はアイマスクなどで目隠しをし、もう一人が案内役になって先導している。


ブラインド


なんの儀式だ。 


実はこれ、「ブラインドウォーク」という活動で、「ホスピタリティとは何か」を学ぶためのものだ。
大学でこれを行うということは、おそらく教員養成課程の授業だろう。学生指導やカウンセリングなどの手法を学ぶ授業で、「どうすれば生徒を安心させる接し方ができるのか」を実践するために行われる。
また、教員養成以外でも、「人に対する接し方」の基本を教える講習で取り上げられることが多い。お客様に対するホスピタリティを学ぶための訓練として、一般企業の初任者研修でも行われることがある。

眼を塞いで歩くのだから、被験者の行動は、すべて案内役に委ねられる。ルールとして、案内役は一言も言葉を発してはならない。ボディータッチだけで、段差や障害物などの危険を被験者に伝えなければならない。身体接触という非言語コミュニケーションだけで、相手に安心感を与える能力をつけるための活動だ。

被験者に対する共感性が高い人ほど、直面する危機を伝える能力が高いのだそうだ。逆に、作業的・機械的に被験者に触れているだけの人に案内役をされると、身体接触によって伝えられる情報が、どんな危険への警告なのかが分かりにくい。案内役の能力の高さによって、安心して歩ける場合と、不安に感じる場合がある。

実は、僕もこれを行ったことがある。
昨今の大学では、学生指導やカウンセリングの方法を身につけさせるために、教員に研修を行うことがある。僕も大学から派遣されてこのカウンセリング講習を受けた。3泊4日くらいの研修で、軽井沢の人里離れた研修所に監禁されて、朝から晩まで講習を受けた。その中で、このブラインドウォークをやったことがある。

正直に言うと、たいした効果を感じなかった。僕が実際にブラインドウォークの被験者になった時には、パートナーを変えて2, 3回歩いたが、すべて不安に感じた。
その原因は、組んだパートナーの案内役が、すべて講習を受けている受講者であったことだろう。まだその能力が身に付いていない受講者同士が組まされても、下手に決まっている。

だからこのブラインドウォークを効果的に行うためには、「上手な人と下手な人との差」を感じられるように行わなくては、意味がないと思う。要するに、ホスピタリティに優れ、被験者に共感する能力の高い人の、お手本を体感しなくては、凄さが分からない。「なるほど共感性の高い人に案内されると、何も不安なく歩けるんだな」ということを実感しなければ意味がない。

僕が受けたときの講習では、その辺の事情をうっすらと分かっているような感じだった。ブラインドウォーク実施時の目的として、「カウンセリングを受ける学生の、不安感を体験すること」とあったからだ。
本当は、下手な人と上手な人との差を認識して、共感力の腕前の差を知るに越したことはない。しかし実際問題として、受講生全員が「上手な案内役」を体感できるほど、人材を用意することができないのだろう。僕が受講した講習会は、60人ほどの新任の教職員が同時に研修を受けていた。その全員に「上手な案内役」を配するのは、現実的に不可能なのだろう。だから、「カウンセリング能力の違いを知る」ではなく、単に「下手な人にガイドされた時の不安を知る」というレベルに受講内容を止めている。

僕が受講した講習会では、最後にレポートを提出することが義務付けられていた。そのレポートの中で、僕はこのブラインドウォークの実施方法の問題点を指摘しておいた。講習会では、受講者60人がいくつかの少人数グループに分かれて講義を受けるが、時間割が固定されているため、ブラインドウォーク実施の時にも、すべてのグループが一斉に活動を行った。もし、受講の時間割をグループごとに組み替えて、少人数ごとに別々の時間にブラインドウォークを行えば、たとえ「お手本役」の講師が少人数でも、全員に能力の差が体感できる。

あとで聞いた話だが、僕が受講した次の年から、ブラインドウォーク活動の実施が、僕が提案した方法に変わったそうだ。60人全員にブラインドウォークを行う講師の方は、ご苦労様だ。大学というのは組織が大きいから、現場の実施方法を変えることはなかなか難しい。だから、わりと柔軟にフィードバックに対処するんだな、と少し驚いたことを覚えている。

いま大学でブラインドウォークを実施している学生たちを見ていると、40人ほどの学生が一斉に行っている。おそらく、同じ授業を受けている学生たちなのだろう。 大学の授業であれば、40人ほどの学生というのは適正人数の範囲だし、実施の現実性からしても仕方のない部分はあるだろう。

しかし、あの授業を受けている学生たちは、僕が実際に体験したような、「うん、確かに不安ですね」という程度の感想しか持たないと思う。学生同士が案内役と被験者をやるのだから、おそらく下手だろう。「上手なホスピタリティとは」を体感できないまま、授業を終えるのではないか。

僕が実際に受けたブラインドウォークはあまり効果がなかったが、説明を受けると、その目指すところと実際の効果は想像できる。下手な案内役だけでなく、上手な案内役に導かれたら、その差を体感することができたのだろうな、ということくらいは分かる。
しかし、それを想像するレベルであることと、実際に体感できることの間には、ものすごい差があると思う。せっかくの講習を効果的に行うためには、その凄さを体感するところまで実施に含めなければ、意味がない。

僕は大学でプレゼンテーションの方法を教える授業を受け持っているが、学生にプレゼンの方法を認識させ、やる気を出させるのは簡単だ。「上手なプレゼン」のお手本を、実際に見せればいい。もっと言うと、その過程を含めない授業は、すべて机上の空論なのだ。

ホスピタリティに限らず、受講者に「能力の差」を認識させ、その差を埋めるための努力を引き出すために最も必要なのは、「お手本」だと思う。今の自分の実力の無さを実感し、本当に巧い人の技術を目の当たりにし、その差を埋めるための具体的な努力の方法を提示すれば、あとは本人が勝手に努力する。その3つの条件を満たしていない講習は、無意味だと思う。

プレゼンテーションの方法を教える授業でも、知識としてやり方を教えるだけでは、決してプレゼンは上手にならない。お手本をしっかり見て、自分で実際にやってみて能力の不足を体感し、数限りない試行錯誤によって失敗を繰り返す、というサイクルを作らなくては、能力の向上は望めない。
その環境は、自力では作れない。だからその条件と環境を提供するのが、授業や講習会の役割ではないか。


いま大学の授業でブラインドウォークをやっている学生たちを見ると、「ああ、あれやってるんだ」という懐かしさを感じる。それと同時に、「本当にあのやり方で効果があるのかね」と、ちょっと冷めた目で担当教員を見ることが多い。



ジャージ姿の女子学生を拝めるので、まあ良しとしてるんだけど

リーダーの条件

「優れたリーダー」にはどんな性格が求められるのか?

この方法を人間の性格に適用するうえでは、「性格」をどのように測るかが大きな課題だ。この課題に最初に取り組んだのは、進化論で有名なダーウィンのいとこにあたる遺伝学者ゴールトンだ。彼は1884年に、人間の性格を表す英語表現を約1000個選び出した。  

この研究は心理学者に引き継がれ、1936年には4504語の性格用語が整理された。そして、これらを要約する研究が始まった。類似の性格用語をまとめた上で、それぞれの性格特性を被験者の自己評価や他者評価によって数値化し、その数値を要約する研究が続けられた。その結果、1990年代になって、人間の性格は5つの基本要素(ビッグファイブ)に要約できるという点で、研究者の間の意見が一致した。そのビッグファイブとは、外向性・開放性・協調性・良心性・情緒安定性の5つだ。  

外向性とは行動的な積極性であり、外向性が高い人は精力的で、冒険的だ。また、そのような行為を評価されたいという報酬感受性が高い。
 これに対して、開放性は認知的な積極性であり、開放性が高い人は好奇心が強く、思慮深く、創造的だ。報酬にはとらわれない。
 協調性は他者に協力的な性質であり、協調性が高い人は世話好きで、他人を信じやすい。
 良心性とは、責任感、勤勉性、計画性に関係しており、良心性が高い人は規則や計画を守り、任務をしっかりまっとうしようとする。
 情緒安定性は感情の制御に関係しており、情緒安定性が低い人は感情的であり、神経質で、緊張しやすい。  

優れたリーダーには、外向性・開放性・協調性・良心性・情緒安定性が高いことが求められる。ただし、これらが極端に高すぎる人は、リーダーには適さない。あまりに冒険的で創造的な人物は組織を危機に陥れがちだし、協調性が高すぎる人は決断を躊躇しがちだ。規則に忠実すぎると危機に柔軟に対応できないし、情緒安定性が高すぎる人は人間関係の機微に気付けない。行き過ぎない程度に、外向性・開放性・協調性・良心性・情緒安定性が高いことが、優れたリーダーの条件だ。  

ここで、これら5つの基本要素(ビッグファイブ)は、互いに相関がないことを条件として要約された因子であることに注意してほしい。例えば、外向性が高いからといって、開放性が高いわけではない(精力的な人が創造的であるとは限らない)。同様に、協調性が高いからといって情緒が安定しているわけでもない。このため、ビッグファイブ全てにおいて秀でた人は、希少な存在となる。


ビッグファイブ全てに優れ、なおかつ、能力も高い人の割合はさらに小さい。人間にはさまざまな能力があるが、その中で一般的な認知能力は「知能」と呼ばれる。知能とは、高度な記憶力や知的集中力によって、たくさんの情報を迅速かつ正確に処理する能力である。

ビッグファイブの中で、知能と関係しているのは、開放性である。好奇心が強く考えるのが好きな人ほどさまざまな知識を得やすいので、知能を高める機会が増える。

実際に両者には相関があることが分かっている。しかし、両者の相関は必ずしも強くなく、両者に関与する脳の領域は異なっている。知能には、その人の脳が持つ潜在的な演算能力と、学習や経験を通じて得られる知識量(学力)の両方が関わっていると考えられる。




漠然と思っていたことを書かれた感じ。

求められる答え

次の数字は、ある規則性に基づいて並んでいます。(   )にあてはまる数を書きなさい。

 5, 9, 13, (   ), 21

(お茶の水女子大学付属中学校)



別にお茶大付属を受験しようとする幼女の努力をあざ笑おうというわけではないのだが、こういう間抜けな出題をする学校に、本当に入りたいのだろうか。
「規則性」という言葉の意味を、本当に分かっていて出題しているのだろうか。中学入試であることを差っ引いても、かなりの悪問だ。

一見して気づくのは、これらの数列の差がすべて4になっていることだ。だから公差4の等差数列とみなして、17を答えとする・・・のが正解に見える。

しかし、本当にそうだろうか。5, 9, 13, (   ), 21、という数値をとる規則性は、本当に公差4の等差数列だけなのだろうか。

入試問題である以上、正解というものは、問題文の要求を満たすための、必要かつ十分な条件を備えなければならない。「この答えは正解になり得る」だけでは不十分で、「この答え以外は正解になり得ない」ことを示さなくてはならない。
つまり、この正解を「17」としてしまうことは、「この数列では、17以外の数が入る『規則性』は存在しない」ということを宣言するに等しい。

この問題を、xy軸を使った座標平面にプロットしてみると、1項めは5, 2項めは9, ・・・とやっていくわけだから、下図のような点の関係になる。


グラフ1


この問題の答えとして、4項めに「17」を入れることを正答とし、他の解答を一切正解として認めない、というのであれば、この4点をつなぐ「規則性」とやらを、直線だけに限定しているということになる。
ところが、「規則性」というのは直線だけとは限らない。曲線だって、立派な「規則性」だ。

たとえば、この問題の答えを「5」と答えたとする。するとこの問題は、「5, 9, 13, 5, 21という数列が満たす法則性を述べよ」という問題に還元される。
代数的にこの問題を解くと、この問題は
f(x) = ax4 + bx3 + cx2 + dx + e とおき、
 f(1) = 5
 f(2) = 9
 f(3) = 13
 f(4) = 5
 f(5) = 21
を満たすa, b, c, d, eを求めればよい。
数値をぶち込んで連立方程式を解くと、

f(x) = 2x4 - 22x3 + 82x2 -118x + 61

となる。

グラフ2


立派な「規則性」だろうがよ。 


答えとなり得るのは、別に5だけではない。与えられた数を5, 9, 13, x, 21とすると、xにはどんな数だって入りうるのだ。言い方を変えれば、xにどんな数を入れようと、その5つの数を含む関数は存在し得る

つまり、この問題は、どんな数を(   )に入れようと、その数を含む「規則性」が存在することになる。だから、どんな数を入れても正答なのだ。
もし、この正解を「17」だけに限定するのであれば、出題者は、(   )に他の数値をとる関数が「規則性ではない」ということを証明しなくてはならない。

100000歩譲って、問題文の「ある規則性」という言い方が、「任意の規則性のもとで」という意味だと解釈し、その任意のひとつが公差4の等差数列である、と解釈したとしよう。
その場合、この問題文は「私(出題者)は、ある任意の規則性を頭に思い描いています。その規則性とは何でしょう」という問題になってしまう。


そんなこと知るか


手前が勝手に起想している規則を当てろ、という問題ならば、それは算数でも数学でもない。
「人の顔色を伺って、何を求めているのかを察知する能力」に過ぎない。

邪推すると、お茶大付属中は、「正論を振りかざすような、教師にとって面倒くさい学生」を排除するためにこんな問題を作ったのではないか、という気がする。何が正解か、何が真実かなど関係ない。生徒は教師の顔色を伺って、ひたすら先生のお気に召すような言動をすればよい、という入試問題に見える。「私は等差4の等差数列を考えてますよ。それを当てなさいね」などという問題が、本当に入試問題として適切なのか。


教師の中には、生徒に不必要な抑圧を加えるタイプがいる。そういう教師にとって、「正解」とは世の中に真実のことではなく、「自分が『正解』と認める答え」のことだ。

大学のゼミで、教員が学生にディスカッションをさせることがある。そういう輩は、学生がどんな結論を出しても仏頂面で黙り込み、批判を繰り返すのみ。学生がどんな論拠を出そうが、どんな根拠を出そうが、「違う」「そんなことは聞いていない」の一点張り。
かくしてゼミは冷めた雰囲気となり、場の収拾がつかなくなる。先生の機嫌はどんどん悪くなる。学生は困り果てる。

学生だってバカじゃない。そういう教員は「自分が『正解』と認める答えを出すまで許してくれない」ということが分かっている。だから、ゼミは途中から「『先生が言わせたい言葉』を当てるゲーム」と化す。
そんなものは、学問でも何でもない。単なる、先生のご機嫌取りだ。

僕は、ゼミというものは、最初に想定していた答えよりも、遥かに良い知見が出てこなければ、無意味だと思う。教師が用意していた答えが「絶対の正解」であるならば、それは単なる当てっこに過ぎない。
大学から上の「学問」というものは、高校までの「勉強」と違って、絶対的な正解など無い。あるのはすべて「仮説」であり、そう考えれば多くの事実が説明できる、という程度のものでしかない。そういう学問の場に、「これが絶対の答えだ」というものを振りかざすこと自体、学問の本質に反している。

残念ながら、小・中・高はおろか、大学においてでも、そういうタイプの教員は存在する。おそらく一般企業の「上司」に該当するポストにもいるだろう。
一言で言ってしまうと、度量が狭い人間なのだと思う。学生や部下から、自分が思いもつかなかったアイデアが出てくると、途端にうろたえる。自分が用意した「枠」に閉じ込めようとする。想定を超えた事態を、制御できる自信がないのだ。

教員がゼミで学生の論文を指導するときには、意図してそういう枷をはずそうと努めるようにするべきではないか。たとえ「通説」とされている仮説から外れた答えを学生が用意してきても、どちらが真実かなど分からないのだ。もしかしたら通説のほうが間違っていて、学生のアイデアのほうが正しいかもしれない。少なくとも、教員が想定してる仮説を「絶対的な正解」のように振りかざし、学生の発想の飛躍を妨げるようなことをしてはなるまい。

たかが中学の入試問題でそこまで考えることもないのかもしれないが、こういう入試問題が、将来の「数学嫌い」を増やす遠因になっているような気がしてならない。この問題に、素直に「17」と答える女の子よりも、「17以外の数が入ったら、関数として成立しない・・・というのは本当なのだろうか?」と考える女の子のほうが、数学的センスは優れている。僕がゼミ生として採るのであれば、迷い無く後者を採用する。

それを、「答えは17です」とぶっち切ることにより、その先にある深淵な「規則性」の本質を覗くことのないまま、「正解が出たから満足」という思考停止を生み出す。教師に顔色を伺って、ひたすら「求められている答え」を当てっこする能力ばかりを膨らませることになる。


僕はかつてこの問題を、自分のゼミ生を選抜するための試験問題に使っていたことがある。残念ながらみんな「17」と答えていた。
考える能力が、ないわけではないのだろう。しかし、公差が4であることくらい、小学生にでも分かる。その答えに満足しているようでは、中学受験をする小学生と知的レベルは変わらない。その先にある「一歩深い思考力」を求めている立場としては、非常につまらない思いをしたことを覚えている。



必要なのは「正解を出す」ことではなく「正解を疑うこと」だ。

自己開示のリスク

今年も夏が近づき、教員採用試験の時期が近づいてきた。
この時期になると、教採受験を控えている学生や卒業生から、面接のための相談を受けることが多い。

将来の進路として教師を志す学生は後を絶たない。子供の数は減っているのだから、需要と供給のバランスを考えれば、教師というのは「競合が激しい一般企業」のようなものだ。それでも学生というのは、そういう「なりやすさ」など考えず、自らの夢と希望と理想のために、教師を目指すものらしい。

ご苦労なことだ。僕は教師なんて真っ平だから、初等・中等教育を志す学生を見ると、心から頭が下がる。大学で教えておいてこんなことを言うのも何だが、僕は生徒ひとりの発育過程において、その価値観や人生観に影響を及ぼしうる存在など、ご免被る。そこまで人の人生に責任を取れない。
さらに、僕は教員採用試験を受けたことがない。教師として初等・中等教育の現場に立ったこともない。そういう僕に、学生は教員採用試験の面接のための相談をしてくる訳だ。相談する人を間違えているとしか思えない。

そういう教採受験生から、面接のためのQ&Aの対策のような相談をされるのだが、その中に定番の質問として「生徒に個人的に相談をされた時の心構え」というのがある。
教師であれば、生活環境が恵まれていない生徒、精神的に疾患を抱えている生徒から、打ち明け話に近い相談を受けることがある。そういう時に、どういう心構えで話を聞いてあげるべきか。出題の仕方は様々だが、意図としてはざっくり「どういう心構えで生徒に接しますか」という根っこを訊いてくる問題だ。

教師を目指す学生というのは、おおむね真面目で良い子で理想主義だから、「生徒の立場になって、親身になって話を聞き、共感してあげることが大事だと思います」のような回答を考えることが多い。


アホか、と思う。


実際の教採試験の面接で、何が「正解」とされているのかは知らない。しかし僕の実感を正直に言うと、実際の学校現場で、生徒の相談事にいちいち「生徒の立場になって共感」などしていたら、仕事にならない。

そういう理想的な態度で生徒に接している教師の成れの果てが、いま問題になっている「職場放棄」「学級崩壊」などを引き起こす、いわゆる「問題教師」の原因だと思う。問題教師というのは、絶対的な能力が不足しているケースもあろうが、それだけがすべてではないと思う。むしろ、能力的には高いが、教師としての自分の律し方を見失って、自己崩壊に陥っているケースのほうが多いのではないかと、僕は睨んでいる。

教師というのは、生徒に相談事を持ちかけられた場合でも、その単位時間が終了したらすぐに日常業務に戻らなくてはならない。親の離婚、いじめ、鬱症状などの相談を受けたとしても、その生徒と話す時間が終わったら、試験の採点やら会議やらの業務をこなさなくてはならない。生徒の深刻な問題に「共感」しすぎて、精神的に落ち込んだ状態では、教師の仕事は勤まらない。

人は、たとえ他人の話でも暗い話題を聞き続けると、話し手の精神状態までうつってしまう。一般に「もらい鬱」と言われる症状だ。性犯罪に遭った女性被害者の調書をとっているうちに、女性警官がその性犯罪を「仮想体験」してしまい、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥ってしまうケースがある。それと同様に、生徒の深刻な相談事を、自分の精神状態にトレースしてしまい、教師まで鬱になってしまうことがある。

ばっさり斬ってしまうのは酷なことは重々承知しているが、要は技量が未熟なのだ。自分の精神状態を一定に保つことができないのなら、他人の相談にのる資格など無い。
教師を目指す学生であれば、学生の相談を聞く時に「いいかげんに聞いて適当な返事をしよう」としている者はいない。みんな真面目に取り組もうとするはずだ。教師は生徒から相談事をされると、「なんとかして自分がその問題を解決してあげなきゃ」と、正義の味方になり切ってしまうことが多い。

そういう真面目さが、要らぬ感情移入を引き起こし、挙句は自分の心が振り回される。真の問題点は、能力がないくせに真面目に取り組もうとして、自分の精神状態を崩してしまうことにある。技量が、信念に追いついていないのだ。

誤解を招く恐れはあるがはっきり言ってしまうと、そういう時に大事なのは、「しょせん他人の話」と割り切って話を聞くことだ。我が事のように感情移入して話を聞いているうちは、防御が甘い。
僕も、研究室に来室した学生から、両親の離婚、実家の経済破綻、自殺未遂といった、深い相談事を受けたことがある。そういう時に僕が気をつけることは、その生徒に対する対応もさることながら、「その後に研究室に来た学生に、そういう深刻な相談を受けたことを悟らせないこと」だ。

いちいち感情移入などしていては、そんなことは不可能だ。プロの教師であるならば、自分をしっかり自分として保った上で、生徒の要求にきちんと応える対応ができなくてはならない。他の学生から顔色を伺われて、相談の内容を悟られるようでは、教師として三流だ。
そういう時には、言い方は冷たいが、「しょせん自分の問題ではない」という「壁」を、しっかり築いておかなくてはならない。心のなかに、高田純次を棲まわせておくことも必要なのだ。

逆説的なようだが、学生対応の基本として「むやみに解決案を提示せず、ひたすら共感してあげること」というのがある。教員志望の学生であれば、カウンセリングに類する授業で必ず習う。ところがこれを、文字通りに受け取ってしまう学生が多い。
はっきり言ってしまうと、本当に必要なのは、「共感してあげている、という姿勢をきちんと見せること」だと思う。「共感してあげる」というのは、「心のレベルで同じ感情を共有すること」ではなく、「頭脳で理解できるというレベルで止める」ことなのだ。具体的には、「こうこうしなさい」ではなく、「わかるよ、つらいね」と言ってあげる、というだけのことに過ぎない。

生徒は、自分の悩みを開示する時点で、かなり教師に信頼を置いている。その信頼を裏切ったり撥ね返したりするような対応は論外だが、親身になればそれでいい、というわけではない。生徒が、自分の心を開示して見せるときの、心理状況をよく理解しておく必要がある。


小泉八雲の怪談に、「雪女」という作品がある。
村に、茂作という老人と巳之吉という若者の、2人の樵が住んでいた。ある冬の日、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寝泊まりすることになる。その夜、寒さに巳之吉が目を覚ますと、白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。女が茂作に白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。女は巳之吉を見つめた後、「おまえも殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと、女は吹雪の中に去っていった。
それから数年経ったある雪の夜、巳之吉は「道に迷ったので泊めてください」という白くほっそりとした美女の来訪を受ける。女はお雪と名乗った。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけ,静かに針仕事をしていたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのだろうか。」
お雪は突然立ち上り、言った。「とうとう話してしまいましたね。私はあのときあなたに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言いました。でも、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしてもあなたのことは殺せません。どうか子供達をよろしくお願いします」
そういい残して、お雪の姿は消え、それきり、お雪の姿を見た者は無かった。


確か小学校の頃、国語の感想文で「女というものは、人間でも幽霊でも、若いイケメンには甘い」などと書き、先生に呼び出された記憶がある。
それはともかく、巳之吉は、なぜ妻に、雪女の話をしてしまったのだろうか。

一般的にこの話は悲哀物語とされているが、僕はこの話に少し違った見方をしている。
自分のなかに秘密を作らず、すべて相手に心のうちをさらけ出す行為を、心理学用語で「自己開示」という。自己開示は、「相手との距離を近づけたい」という、一種の承認欲求の現れと見ることができる。

おそらく巳之吉は、結婚して子供ができながらも、お雪に一定の距離を感じていたのではなかったか。雪の夜にふらっと現れた以外、お雪の過去は何も知らない。お雪のことをもっと知りたい、お雪との距離を縮めたい。そういう巳之吉の欲求が、「自分のことの包み隠さず話す」という行為につながったのだと思う。

巳之吉が最大の秘密をお雪に打ち明けたのは、そういう親密感への渇望と、愛情が表れたものだろう。だから、巳之吉が雪女のことを話してしまった瞬間が、はじめてふたりが心の底から通じ合った瞬間なのではなかったか。おそらく、話した巳之吉も、聞いたお雪も、あの瞬間だけが、ふたりの心が通い合い、心の奥底深くを共有していた時間だったのだと思う。
小泉八雲の他の作品を調べると、外国人の八雲は、そのへんに日本の「情愛」のかたちを見て取った気がする。

これによく似た話は、旧約聖書にもある。
「士師記」に登場するサムソンは、怪力の偉丈夫。自慢の腕力で、敵対する勢力をなぎ倒す豪傑だった。ところがサムソンには弱点があり、髪を切ると力が出なくなってしまう。
サムソンに手を焼いていた相手方のペリシテ人は、色仕掛けでサムソンを倒そうと、美女デリラを送り込む。サムソンは、デリラが敵の手の者であることを悟っていながら、寝物語のうちに髪の秘密を打ち明けてしまう。デリラはすぐにこの秘密をペリシテ人に報告し、サムソンの髪を切る。無力化したサムソンは遭えなくペリシテ人の捕虜となり、目を抉られて牢につながれ、粉を挽かされることになる。

まぁ旧約聖書だから、最後は髪が伸びたサムソンが力を取り戻し、ペリシテ人に復讐して皆殺しにし「イスラエルに正義あり」のような終わり方になっている。
問題は、ここでもなぜサムソンが、敵と分かっているデリラにみすみす弱点を話してしまったのか、だ。

これも、自己開示による承認欲求のなせる業だろう。敵であるデリラに惚れてしまったサムソンは、その距離を縮めようと、自分の秘密を開示してしまった。デリラに、もっと自分の側に近づいてもらいたかったのだと思う。
名著『旧約聖書を知っていますか』を書いた阿刀田高氏は、「なぜサムソンは、デリラに秘密を打ち明けてしまったのか。分からない人は、まだ女性についての苦労が足りない人である。この方面に月謝の出し足りない人である」と断じている。的確な評だと思う。

雪女でも旧約聖書でも、共通していることは「自己開示には、それ相応の代償が伴う」ということだ。自己のすべてをさらけ出し、相手に自分のすべてを知ってもらうことは、気分がいい。しかしその行為は、相手を盲目的に信頼することが前提であり、相手にそれを受け止めることを強要する行為でもあるのだ。結婚してから、夫なり妻なりに、過去の恋愛遍歴を延々と話すような無邪気な自己開示は、単なる自分勝手だ。相手を思いやればこそ、自分の中に「壁」を作っておくことも、時には必要なのだ。

中・高生の段階では、その「壁」が、自分でまだうまく作れない。だから「全部隠す」か「全部話す」か、極端な態度になりがちだ。
だから教師の側が、「受け止め方」を技術として知っておかなくてはならない。なんでもかんでも心の奥底で共感してしまうような教師は、「いい人」ではあるのかもしれないが、「有能な教師」ではない。

教師というのは野球の捕手のようなもので、相談相手の投手がどんな荒れ球を投げようが、どんなスピードボールを投げようが、平然と受け止めなくてはならない。大切なのは、どんな時でもしっかり球を捕り、どんな投手の球でも変わらず同じように球を受けることなのだ。投手が肩を壊したら、おつきあいして一緒に肩を壊すことが、「いい捕手」ではない。

学生の相談を受けるときに、「むやみに解決案を提示せず、ひたすら共感してあげること」という技術を知っている人は多が、「なぜそうしなければならないのか」を知らない人は多い。
自己開示をするということは、生徒は全面的に教師を信頼している。つまり生徒は、教師に「味方になってほしい」のだ。頼れる人がいなくなり、自分を支えてくれる人が必要なのだ。だから「私はあなたの側にいるよ」ということを、態度と言葉で示してあげる必要がある。

改善案を提言するということは、要するに「今のままではあなたはダメだ」ということだ。少なくとも、精神力の消耗した生徒には、そう聞こえる。それは「味方」に与する立場ではなく、心情的に「そっち側の人」「敵」という対立関係を作ってしまう。

生徒はまだ精神的に未熟だから、結婚した夫婦が過去の恋愛遍歴をさらけ出すような、見当違いの自己開示だって平気でしてくる。そういう時には、「そんなことを聞かされて、私にどうしろって言うの」などと困惑せず、「ああ、この生徒は、私に『味方』になってほしいんだな」と思えばよろしい。そして、その渇望を受け止め、言葉にして手渡してあげれば、それでいい。

そういう対処は、「生徒は生徒、私は私」という、割り切った客観視が根幹になければ不可能だ。一般的に言われている「共感する」という相談作法は、そこのところの誤解が大きいと思う。必要なのは、心理的にべったり寄り添った「馴れ合い」などではなく、澄み切った感性で割り切った「対処」だろう。


真面目で熱血漢の教員志望の学生を見るたびに、「この子、こんなんで30年以上も勤め上げられるのだろうか」と心配になることがある。教師は、いわば生徒の生の魂を、素手で受け止めるのが仕事だから、自分の魂がすり減っていたら勤まらない。そういう「自衛」の手段を持たないような単純馬鹿は、プロとしての教師には不向きだと思う。



教採の面接でそう答えたら受かるかどうかは知らん。
ペンギン命

takutsubu

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