たくろふのつぶやき

秋はやきいも ほくほくしてうまし。

Education

東京大学入試問題・国語1(評論)

今年の東京大学入学試験・国語の第一問(評論)に、内田樹の「日本の反知性主義」の一部が使用された。
これを受けて、「東大は『知的』な人間を入試で排除するのか」「『反知性主義』の何が悪いんだ」といった批判が沸き起こっている。

僕もそれらの批判のすべてを見たわけではないが、どうも批判のほとんどが的外れのような気がする。
僕は個人的に内田樹の著作は眉唾ものが多いと見ており、正直なところ話半分に読む程度がいちばん良い距離感だろうと思ってはいるが、この東大入試に使用された文章を読む限り、それほど支離滅裂なことは言っていない。むしろ、東京大学がこの文章を評論文の読解問題に使用した意図がよく分かる。

あまり重視されていないことだが、大学入試の国語の問題を解く際には、重要なルールがある。
どの大学の、どの問題にも、冒頭には異口同音に必ずこう書いてある。

次の文章を読んで、後の設問に答えよ


つまり、文章に書いていない知識を勝手に動員して、文章の「枠」の外から解答してはいけない、というルールだ。この問題を解く際にも、そもそもホーフスタッターが提唱している「反知性主義」とはどういうものなのか、バルトが「無知」についてどう言っていたのか、著者の内田樹がどういう信条・主張の持ち主なのか、そういう知識は一切必要ない。むしろ、そういう「文章外の知識」を使って、問題を解いてはいけない。

一般的によく誤解されているが、やたらと知識を頭に詰め込んでいる「歩く辞典」のような人が、東京大学の入試に合格するわけではない。大学全入の時代となり、大学で学んだ経験をもつ人が多くなってきたこのご時世に、そんな誤解がいまだに流布しているのもいかがなものかと思うが、テレビのクイズ番組などで「東大芸人」「京大卒タレント」などと喧伝する時には、おおむね「いろんな知識をよく知っている」というイメージで「学力観」をでっちあげていることが多いようだ。

しかし実際のところ、東大入試に合格するためには、漢検一級で出題されるような難解な漢字を知っている必要はないし、アフリカの小国で使われている貨幣通貨の名前を覚えている必要もない。必要なのはただひとつ、「高校までの範囲で習う知識をきちんと身につけ、その知識をもとに思考する能力をもつこと」だけだ。東大に限らず、国立大学であれば、入試合格に必要なのは高校の教科書に載っている情報だけといってよい。

国語の入試というのは、与えられた文章がいわばひとつの「土俵」であり、その土俵の外から考察を加えるのは御法度なのだ。だから、今回の出題箇所を批判するときに「そもそも反知性主義というのはそういう信条ではない」「内田樹は反知性主義を間違って理解している」という批判は、ことごとく筋違いだ。
仮に著者の内田樹が反知性主義について間違った解釈のうえで文章を書いていたとしても、入試の問題を解く際には、著者の言っていることをそのまま解釈して問題を解かなければならない。

だから今回の入試問題を解く際には、「俺、『反知性主義』だったら知ってるぜ、もともとの意味はそういうことじゃなくて〜」のような態度が、真っ先に不合格になる。おそらく、多少なりとも「反知性主義」という言葉を「知っている」人であれば、左翼系の政治主張に絡めて内田樹の論旨を批判するだろう。そして、そう感じた時点で、「入試の基本的なルール」から逸脱している。
ちなみに東京大学の現代文は、そうした「知ってるぜ知ってるぜ」のような人間をふるい落とすために、用語の意味が一般的な定義や理解とは異なる使い方をされている文章をよく使用する。

もともと反知性主義というのは、主に独裁国家において愚民政策として採られた政策の通称だ。例えば、伝統的に中国は、体制維持のためにこの愚民政策=反知性主義を好み、「国民を賢くさせてはならない」という国策を採り続けている。
明代には、国民から「思考する力」「判断する力」を奪い、優秀な頭脳をことごとく「暗記マシーン」にするために、膨大な四書五経を丸暗記する「科挙」を課した。毛沢東は本人が読書好きだったにも関わらず、「本を読むほど馬鹿になる」と言い放ち、国民に読書を禁止している。現在でも中国はインターネットに制限をかけ、共産党に都合の悪い情報を遮断している。

のちに西洋社会では、この反知性主義という言葉がひとり歩きし、キリスト教に基づく「教養」と「道徳律」の概念混同から、「教育を受けてないからといって人間として価値が低いのか」という文脈に使われるようになった。無教育上等、むしろ本来の人間の平等の前では、教育の多寡など瑣末な要素に過ぎない。そう主張し、「教育的特権階級(=エリート)」から政治権力を奪還するための理論的背景になった。その考えが適用される場面は、軍隊による反シビリアンコントロール(文民統制)から共産主義革命まで、幅広い。現在行われているアメリカ大統領選挙で、共和党候補者を争っているドナルド・トランプの言説も、この反知性主義を下敷きにしている。

そして、そのような余計な知識をつけている人ほど、今回の東大入試は解けない。文章中で引用されているホーフスタッターも、著者の内田樹も、「反知性主義」という言葉をそのような辞書的な意味では使っていない。
そもそもこの出題文は、反知性主義について書いたものではない。「知性とはどのようなものか」について、著者の独自の見解を述べたものだ。だから、反知性主義に関するありとあらゆる「前提知識」が、著者の内田樹の論旨に噛み合ない、ということを以て「内田樹の言っていることは論旨が破綻している」ということを根拠に、今回の東大入試の問題を批判するのであれば、そうした批判はすべて的外れだ。

大学で教育をきちんと受けた人がこの文書を読めば、話の筋は科学論だとすぐに分かる。
世の中の真理を探求する方法として、人間は「宗教」「哲学」「科学」という三つの方法を編み出した。そのうち、現在の大学教育で採用されている方法論は(一部の大学、一部の学部を除き)科学である。「人文科学」「社会科学」というよく分からない区分用語は、扱う対象の分野に必要な特異性と、科学という一般的な方法論の、齟齬を埋めるために用いられている便宜上の呼称だ。

「信じること」を方法論とする宗教と、「疑うこと」を方法論とする哲学・科学の違いは、一般的によく知られているだろう。ところが、「哲学」と「科学」の違いについて明確に定義できる人は少ない。
端的に言うと、「哲学」は個人的な職人芸でも構わないが、「科学」は継続性がなくてはならない。科学においては、自分ひとりが世の中の真理に到達できたところで、それを他者と共有し、追体験できなくては意味がない。いくら「STAP細胞を発見した」と主張しても、他者にも同様にその発見が確認できなければ、科学的な事実とは認められない。科学が、真実を記述する際の言語として、誰にでも追体験と確認ができる「数値」を使用するのは、そのためだ。
そして科学は、そのように「いつでも、どこでも、誰にでも」真実であると確認できる事柄しか扱わない。

東大の出題文で内田樹が言っている「知性」というのは、この科学論の考えに沿ったものだろう。単に個人ひとりとしていくら頭が良くても、それが人類が蓄積してきた知識の総体に対してなんら寄与しないものであれば、知性とは呼ばない。既存の知識をやたらに記憶しているだけの「歩く辞書」は、人類が積み重ねている知の総体にとっては何のプラスにもならないのだ。過去から継承されてきた知の総体をきちんと継承するのは確かに必要だが、それは継承自体が目的なのではなく、その先のプロセスに対して必要な基礎だからだ。そうした知識の総体にわずかなりともプラスを加え、人類の知を前進させることが、「知性」の正しいあり方である。

少なくとも、東京大学は受験者にそのような「知性」を求めている。設問(四)は、そういった東京大学の要求を問題文から正しく読み取れなければ答えられない。
東大の態度は明確だ。大学で行われる知的活動がすべて「科学」の方法論に根ざしたものである以上、「科学」の定義における「知」のあり方を正しく認識していない者は、入学を許可できない。東大は、自己の中だけで完結し、他者と互換できないひとりよがりな「知性」など、要らないのだ。この程度の文章からその要求が読み取れないようであれば、科学を研究する態度としては失格だろう。

毎年、東京大学の国語入試問題の隠しテーマとして、「自己と他者」の対比、というものがある。これは国語教育の業界では常識とされている東大入試の傾向で、東大はこのテーマに根ざした出題をもう30年以上続けている。
今回の評論文も、「知性とは自分だけの中に存在するのではなく、それを一般性の高い方法で開示し、他者と共有し前進させることができなくてはならない」という、知識に関する「自己」と「他者」の距離感に話を落とし込んでいる。その点、東京大学が求めている「学力観」と、「知性のあり方」に対する姿勢が、とても分かりやすい問題と言えるだろう。その分、入試問題としては難易度が低くなってしまったのは残念だが、東大が学生の入学を許可する条件を問う問題としては良問の部類に属するだろう。


たとえ百科事典の内容を全部暗記したとしても、東京大学の入試には受からない。人間が協力してつくりあげてきた「知識の総体」を前進させるためには、既存の知識に新しいなにかを足し加える必要があり、言い替えればそれは「新しい知を創造する」ことである。暗記ばかりしている人は、古い知識には強いかもしれないが、自分で何かを新しく考え出すことはできないだろう。
巷ではやたらに情報を覚えている人を「頭のいい人」とみなす傾向があり、勉強といえば「暗記すること」と思っている中高生も多い。東京大学の入試問題は、そういう思い込みに対して「大学の学問ってのは、そういうことじゃないぞ」という、冷徹な姿勢を突きつけている。



ほとんが「反知性主義」という名称に脊髄反射しただけの批判だったけどね。

文章力とは何ぞや

せんだい



大学院時代、仙台に住んでいた。


通っていた大学は仙台市の真ん中に聳える青葉山のてっぺんにあったため、雨の日などはバスで通っていた。
大学院生というものは基本的に鬱屈しているもので、それが雨でも降ろうものなら、勉強などする気が途端に失せてしまう。容易に失せる。

仙台駅からバスに乗り、大学行きのバスに乗ると、七夕祭りで有名な青葉通りを進む。広瀬川を渡って青葉山に入ってしまうと、もう大学の敷地のようなものなので、後戻りはできない。
「今日の読書会、出ようかな、さぼろうかな」などと逡巡しながらバスに乗り、青葉通りを4分の3ほど進んだあたりで「えーい、今日はさぼってしまえ」と意を決する。
そういう時、だいたいバスを降りるのが「晩翠草堂前」というバス停だった。

この晩翠草堂という建物、文学者の土井晩翠の晩年の生家跡を、仙台市が一般公開しているものだ。学部生時代に僕が所属していた研究室の先生が土井晩翠の子孫だった縁もあり、大学院をさぼる時には、なにか先生に叱られている気がしたものだ。

土井晩翠は晩年、東北帝国大学(現・東北大学)の講師を勤め、退官後も仙台に居住していた。一度住んだ人なら分かるが、仙台というのは非常に住みやすい。よい街だ。
大学院をさぼった僕は、晩翠草堂で座禅を組むようなことはせず、一番町や国分町で遊び回り、住み良い街を存分に堪能していた。

土井晩翠の残した仕事のうち、最も有名なのが、滝廉太郎作曲「荒城の月」の作詞だろう。
あまり知られていないが、実はこの歌は四番まである。

春高楼の花の宴 巡る盃影さして
千代の松が枝分け出でし 昔の光今いづこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照り沿ひし 昔の光今いづこ

今荒城の夜半の月 変はらぬ光誰がためぞ
垣に残るはただ葛 松に歌ふはただ嵐

天上影は変はらねど 栄枯は移る世の姿
映さむとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月


擬古文で書かれた、格調高い詩だ。世の栄枯盛衰を朗々と吟じ、情景と心情描写の移ろいを高らかに謳いあげて間然とするところが無い。
昔の文学者は、漢学の素養が高かったことが伺える。

この歌詞は、それぞれが四節から成っており、五言絶句の体を成している。
四番までの歌詞は、それぞれが起承転結を成しており、これもまた絶句の体裁だ。

一番の歌詞は、春の歌。のべて日本の歌は春を「起」の題にすることが多い。
二番の歌詞は、秋の歌。春とくれば、次に秋が来ることは常識だ。春という起題を受けた「承」にあたる。
三番の歌詞で、話がいきなり「ところで昨今は」と話が現実に引き戻される。「転」の部分だ。
最後の四番は、それまでの歌を「結」び、普遍的な無常観を謳う。

きわめて文学的、漢詩の要素をふんだんに散りばめた、秀逸な歌と評してよかろう。
日本の文学において、漢詩の基本体裁である「起承転結」が、きわめて大きい影響力を持っていたことを示している。
黒澤明監督の作品の脚本を担当していた脚本家の小国英雄は、映画の筋を考えるときに起承転結を旨としていた。また現在でも、新聞に掲載される四コママンガなどは、この構造が王道とされている。

現在、日本の初等教育でも、作文作法として起承転結の構造を教えることが多い。子供は文章の骨組みを全体的に見通す俯瞰力に欠けるから、それぞれの単文がまったく関連をもたない、脈絡のない作文を書く。文章の「外枠」として起承転結を教えることには、一定の効果があるだろう。


閑話休題。現在、夏休みが近づき、各出版社が「夏の文庫本フェア」のような催しをやっている。読書の夏だ。
僕は毎年、この文庫フェアが好きで、夏に入る前に文庫本をまとめ買いする。今年は角川文庫はブックカバー、集英社文庫はシリコン製の栞をくれる。新潮文庫はなにもくれない。

近年、この夏の文庫本フェアに、「作文を上手に書く方法」のようなハウツー本が必ず入るようになった。さもしいと言えばさもしいが、正直に言って、中高生が文庫本を読む一番の理由は、学校で課される読書感想文の宿題に対処するためなのだろう。自発的な理由でなく本を読むことが苦痛なのは、誰もが経験している実感だ。そういう悩める中高生のために、出版社側もあらかじめ救いの手を差し伸べているつもりなのだろう。商魂たくましい。

僕も一応、そういう「文章作法」の本を読んでみるが、その内容に感心したことは一度もない。実感で言うと、あの手の本を読んで、実際に文章力が上がることは決してないだろう。
その理由は、日本の初等教育における「文章力」というものが、一体何を指しているのか、はっきりしないことだ。

中高生が書く文章というものは、大きく分けて、随筆と論説に分かれる。 随筆というのは、いわゆるエッセイのことで、ものを見たり聞いたりしたときに感じたことをそのまま書く文章のことだ。文科省の指導要領では、厳めしく「生活文」などという言葉で導入してある。夏休みの読書感想文は、この範疇に入る。
一方、論説というのは、読んで字のごとく論によって説を組み立てる、論理的な文章だ。夏休みに自由研究を行うのであれば、その文章は論説の体裁で書かなくてはならない。

ところが、学校の国語の授業では、「このふたつの文章形態は、それぞれ違った書き方をしなくてはならない」ということを、きちんと教えていないのではないか、という気がする。「文章力」という言葉で、このふたつの範疇をごちゃごちゃに混ぜてしまい、そのふたつの範疇を超えた、文章を書く際の「底力」のようなものをイメージして、作文指導をしているような気がする。

随筆というのは、つまるところ「作品」だ。だから随筆を書く時には、読む側を惹き付けるような技術が必要になる。読書感想文とて、作品を読んだ人の内的世界を、他者に開示するためのものだ。
僕は「読書感想文コンクール」のような催しの意図が、まったく分からない。感想に優劣をつけて、どうしようというのだろう。

僕が国語の教師だったら、読書感想文というのは、「生徒はどういう分野に関心をもっているのか」「自分が感じたことを、どれだけ『作品』として書き上げることができるのかな」という程度のことを知る目的でしか使わないだろう。少なくとも、「文章力」を上げるための指導方法としては、効果があるとは思わない。
僕は中学時代にそう思い始め、それ以降は宿題の読書感想文に、電話帳だの地図帳だの料理本だの、ストーリーなどまるでない本ばかりを選んでいた。

感想文だって随筆だから、文章の構成は起承転結で良かろう。話の筋がはっきりして、書きやすいし読みやすい。
しかし、こうした文章の書き方を普遍的に捉え、「なるほど文章というのはこうやって書けばいいのか」と思い込んでしまうと、大学に入ってから地獄を見る。

大学に入って以降に書く文章は、すべて論説と言っていい。大学の先生は、学生に「作品」を書いてほしいわけではないのだ。大学で行っているのは研究なのだから、読書感想文のような書き方でレポートや論文を書かれても困る。大学の先生は、学生の心情的な揺れや、情緒的な内的世界などには興味がない。そんなことを、大学という場で書かれても困るのだ。

昨今、大学では1年生を対象に、必修科目として「スタディ・スキルズ」なる科目を設けているところが多い。大学での「研究」のしかた、文章やレポートの書き方などを教える科目だ。一昔前の世代の人からしてみれば、「そもそも、大学に入ってよいのは、すでにそういう能力を身につけた人だけなんじゃないの」という程度の内容だ。僕の勤務校でも、この科目は不要、と切って捨てる年配の先生もたくさんいた。

僕もこのスタディ・スキルズなる授業を何回か担当したが、試しにレポートを書かせてみると、見事に全員、感想文を書いてくる。「〜と思います」という文言が、非常に多い。
大学というのは基本的に、真実を探るための科学的手法を学ぶための場所であって、感想を言い合ってお互いの親睦をはかる場所ではない。レポートに感想文を書いてくる学生は、情緒豊かな学生ではあるのかもしれないが、学問を志す学生としては失格だ。

だから僕が担当するスタディ・スキルズの授業では、まず「中学校、高校で習った文章の書き方を、すべて忘れるように」という内容から入る。中学校、高校で習う文章作法は、読書感想文をはじめとして、すべて随筆の書き方だ。起承転結など言語道断。学術論文をそんな体裁で書いたら、まず書き直しを命じられると思って間違いない。

論説の基本構成は、「結論・根拠・議論」の三部構成だ。
まず「結論」をバンと書く。添削する教員の側から言うと、延々と事実や調査が列挙してあって、最後にようやく結論が出てくるレポートなど、落第点以外の何物でもない。結論が最初に示してあって、それを念頭に置きながら読み進めないと、事実が意味をもたない。
僕はアメリカの大学院で、論文を書く方法を学ぶ授業を受けた。そのときの先生は、文章を「アガサ・クリスティーの推理小説」と「刑事コロンボのTV作品」に例えていた。謎をたくさん散りばめて、最後の最後にどんでん返しの結末をもってくるクリスティー作品と、最初に犯行と殺人犯が明らかになり、コロンボがその謎をどう解くのか、を主眼とした倒叙構成であるコロンボ作品の違いだ。先生曰く、「学術論文は、すべてコロンボ形式で書け」とのことだった。

「根拠」の節は、レポートのもっとも中核的な部分になる。この部分を埋めるために、調査や実験が必要になる。学生はすぐにこの節を書くためにWikipediaに飛びつくが、根拠の内容には制限がある。「誰が書いたのか明記すること」「出典を明確にすること」だ。情報の信頼度は、ソースを辿って妥当性を検証できるものでなくてはならない。誰が書いたのか分からないWikipediaを根拠に使うということは、自説の信頼性を、誰だか分からない匿名の人に依存することになる。

「議論」の節は、自説から派生する可能性や、自説が間違っている可能性について論じる箇所だ。ここで「正解絶対説」に冒された学生の病巣が明らかになる。
学生は、どうやら「レポートというのは、『正解』を書かなければならない」と思い込んでいる節がある。中学・高校時代の定期テストのような感覚で、レポートを書くのだろう。しかし、大学で行われる学問が真実の探求である以上、一介の学生ごときが真実を見抜くことなど、ほぼ不可能なのだ。学生の書くレポートや論文で提示する結論は、ほぼ間違っていると断じてよい。

そして、間違ってもよいのだ。ここが、高校までの中等教育と、大学以上の高等教育の、大きな差であることが分かっていない。大学で学生が読む論文は、そのほとんどすべてが「仮説」に過ぎない。こう考えると事実がうまく説明できる、という程度問題でしかない。もし学問に「正解」があるのなら、今後の学問はすべて発展の可能性を無くし、意味を失うだろう。

僕の実感では、読書感想文や起承転結という「心情吐露」の技法ばかりを作文の書き方だ、と思い込んでいた学生が、きちんとした論説やレポートを書けるようになるまでには、みっちりした演習を繰り返して2年かかる。大学3年生になって卒論のテーマを決める段階で、この能力が身に付いていない学生は、手遅れと言っていい。

僕は別に、中等教育で読書感想文や随筆を書かせるのが悪いとは言わない。何も書かないよりははるかにましだろう。
しかし、「随筆」と「論説」はまったくの別物であること、目的によって書き方を分けなければならないことは、きちんと教えておくべきだと思うのだ。高校では、論文など書かないし、読まない。
野球を例にすると、「野球を教えてください」と言ってくる子供に実際に教える時には、バッティングと守備を分けて教えるだろう。そのふたつは別の練習が必要な違う資質であり、片方を教えればもう片方も自動的に上達する、というものではない。「随筆」と「論説」の違いも、それと同じことだ。

夏休みの文庫本フェアに出てくるような「作文の書き方入門」のような本を見るたびに、僕はそのふたつをきちんと分けているかどうかをチェックする。だいたい、分けていない。そりゃそうだろう。読者として想定している中高生は、なんとかして宿題の読書感想文を書き上げたいと思っているのだから、いきおい内容はその指南書と化す。大学に入ってから必要な論説の書き方など、知ったこっちゃない。だいたい、高校までの知的生活では、論説の構造や外枠を、きっちり学ぶ必要性も機会もないのだ。また世の中の人の多く、文庫本を手軽に読む一般の人の多くは、大学で課されるような論文を書く機会など無いだろう。

しかし、大学に入ってからのレポートや論文で、「荒城の月」のような朗々とした大河的作品を書かれても困るのだ。そんなことは求めていないし、必要でもない。僕が読んだことがある優れた論文の中でも、文章力そのものは下手な人はたくさんいる。「内容の妥当性」をとことん追求するのが論説であり、「使用する字句の洗練度を上げる」「内容の共感性を高める」ことを目的とする随筆とは、文章を書く目的がそもそも違うのだ。

そのずれが最も顕著になるのが、大学入試の小論文だろう。大学という学術研究機関に入るための選抜試験なのだから、入試の小論文は基本的に論説の作法で書かなくてはならない。しかし、随筆的な文章の書き方しか習っていない高校生は、求められているものを適切に把握できず、途方に暮れる。入試小論文の書き方で、起承転結を薦めている本があるが、滑稽千万だ。

全国読書感想文コンクールで最優秀賞をとった生徒に、プロの作家として大成した人はいないそうだ。随筆は「作品」であり、鑑賞に耐えうる質をもつべき「芸術」に近い。それと、学問に必要な再現性を備えた、無機質で機械的な論説を、同列に扱うほうがどうかしている。その両方を「文章力」という曖昧なカテゴリーでくるみ、あたかも同じ方法論で書ける、と言わんばかりの内容が満載の文章作法本など、何の役にも立たないと思う。語彙が多ければ人の心に残る名文を書けるわけではないように、「文章力」なるものを上げることと、大学以降で必要となる文章作法を学ぶことは、近いように見えて方法論は全く別なのだ。


土井晩翠は東北帝国大学で教えていたくらいだから、論説の構成くらいは身につけていたと思う。しかし、文学者として名を成した晩翠翁の書いた論文を読んだことがある人が、どれほどいるのだろうか。僕が読んだ限り、明治から昭和初期にかけて活躍した文学者は、おおむね論文を書くのが下手だ。筆致が滑り過ぎ、美辞麗句に埋もれて、話の要点が見えない。例外は森鴎外くらいのものだろう。学術論文は名人芸ではないので、誉れ高い文章力など要らない。まず「型」をしっかり身につけて、内容の妥当性を検証する思考能力のほうが必要だ。

日本の文芸は文学を軸として発展してきた。それはそれで誇るべき文化であり、継承していくべき資質ではあるだろう。しかし、それはそれとして、学問とは別に教え込む必要があるものだ。ましてや、次世代を担う子供に接する教師の側に、その境界線をはっきり見定める技量がなければ、到底無理だろう。



雨の日の一番街は出店が多いから買い食いが進むんです。

ブラインドウォーク

たまに大学で、異様な光景を目にする。
何かの授業を受けている学生たちが、二人一組になって、構内を歩き回っている。そのうち一人はアイマスクなどで目隠しをし、もう一人が案内役になって先導している。


ブラインド


なんの儀式だ。 


実はこれ、「ブラインドウォーク」という活動で、「ホスピタリティとは何か」を学ぶためのものだ。
大学でこれを行うということは、おそらく教員養成課程の授業だろう。学生指導やカウンセリングなどの手法を学ぶ授業で、「どうすれば生徒を安心させる接し方ができるのか」を実践するために行われる。
また、教員養成以外でも、「人に対する接し方」の基本を教える講習で取り上げられることが多い。お客様に対するホスピタリティを学ぶための訓練として、一般企業の初任者研修でも行われることがある。

眼を塞いで歩くのだから、被験者の行動は、すべて案内役に委ねられる。ルールとして、案内役は一言も言葉を発してはならない。ボディータッチだけで、段差や障害物などの危険を被験者に伝えなければならない。身体接触という非言語コミュニケーションだけで、相手に安心感を与える能力をつけるための活動だ。

被験者に対する共感性が高い人ほど、直面する危機を伝える能力が高いのだそうだ。逆に、作業的・機械的に被験者に触れているだけの人に案内役をされると、身体接触によって伝えられる情報が、どんな危険への警告なのかが分かりにくい。案内役の能力の高さによって、安心して歩ける場合と、不安に感じる場合がある。

実は、僕もこれを行ったことがある。
昨今の大学では、学生指導やカウンセリングの方法を身につけさせるために、教員に研修を行うことがある。僕も大学から派遣されてこのカウンセリング講習を受けた。3泊4日くらいの研修で、軽井沢の人里離れた研修所に監禁されて、朝から晩まで講習を受けた。その中で、このブラインドウォークをやったことがある。

正直に言うと、たいした効果を感じなかった。僕が実際にブラインドウォークの被験者になった時には、パートナーを変えて2, 3回歩いたが、すべて不安に感じた。
その原因は、組んだパートナーの案内役が、すべて講習を受けている受講者であったことだろう。まだその能力が身に付いていない受講者同士が組まされても、下手に決まっている。

だからこのブラインドウォークを効果的に行うためには、「上手な人と下手な人との差」を感じられるように行わなくては、意味がないと思う。要するに、ホスピタリティに優れ、被験者に共感する能力の高い人の、お手本を体感しなくては、凄さが分からない。「なるほど共感性の高い人に案内されると、何も不安なく歩けるんだな」ということを実感しなければ意味がない。

僕が受けたときの講習では、その辺の事情をうっすらと分かっているような感じだった。ブラインドウォーク実施時の目的として、「カウンセリングを受ける学生の、不安感を体験すること」とあったからだ。
本当は、下手な人と上手な人との差を認識して、共感力の腕前の差を知るに越したことはない。しかし実際問題として、受講生全員が「上手な案内役」を体感できるほど、人材を用意することができないのだろう。僕が受講した講習会は、60人ほどの新任の教職員が同時に研修を受けていた。その全員に「上手な案内役」を配するのは、現実的に不可能なのだろう。だから、「カウンセリング能力の違いを知る」ではなく、単に「下手な人にガイドされた時の不安を知る」というレベルに受講内容を止めている。

僕が受講した講習会では、最後にレポートを提出することが義務付けられていた。そのレポートの中で、僕はこのブラインドウォークの実施方法の問題点を指摘しておいた。講習会では、受講者60人がいくつかの少人数グループに分かれて講義を受けるが、時間割が固定されているため、ブラインドウォーク実施の時にも、すべてのグループが一斉に活動を行った。もし、受講の時間割をグループごとに組み替えて、少人数ごとに別々の時間にブラインドウォークを行えば、たとえ「お手本役」の講師が少人数でも、全員に能力の差が体感できる。

あとで聞いた話だが、僕が受講した次の年から、ブラインドウォーク活動の実施が、僕が提案した方法に変わったそうだ。60人全員にブラインドウォークを行う講師の方は、ご苦労様だ。大学というのは組織が大きいから、現場の実施方法を変えることはなかなか難しい。だから、わりと柔軟にフィードバックに対処するんだな、と少し驚いたことを覚えている。

いま大学でブラインドウォークを実施している学生たちを見ていると、40人ほどの学生が一斉に行っている。おそらく、同じ授業を受けている学生たちなのだろう。 大学の授業であれば、40人ほどの学生というのは適正人数の範囲だし、実施の現実性からしても仕方のない部分はあるだろう。

しかし、あの授業を受けている学生たちは、僕が実際に体験したような、「うん、確かに不安ですね」という程度の感想しか持たないと思う。学生同士が案内役と被験者をやるのだから、おそらく下手だろう。「上手なホスピタリティとは」を体感できないまま、授業を終えるのではないか。

僕が実際に受けたブラインドウォークはあまり効果がなかったが、説明を受けると、その目指すところと実際の効果は想像できる。下手な案内役だけでなく、上手な案内役に導かれたら、その差を体感することができたのだろうな、ということくらいは分かる。
しかし、それを想像するレベルであることと、実際に体感できることの間には、ものすごい差があると思う。せっかくの講習を効果的に行うためには、その凄さを体感するところまで実施に含めなければ、意味がない。

僕は大学でプレゼンテーションの方法を教える授業を受け持っているが、学生にプレゼンの方法を認識させ、やる気を出させるのは簡単だ。「上手なプレゼン」のお手本を、実際に見せればいい。もっと言うと、その過程を含めない授業は、すべて机上の空論なのだ。

ホスピタリティに限らず、受講者に「能力の差」を認識させ、その差を埋めるための努力を引き出すために最も必要なのは、「お手本」だと思う。今の自分の実力の無さを実感し、本当に巧い人の技術を目の当たりにし、その差を埋めるための具体的な努力の方法を提示すれば、あとは本人が勝手に努力する。その3つの条件を満たしていない講習は、無意味だと思う。

プレゼンテーションの方法を教える授業でも、知識としてやり方を教えるだけでは、決してプレゼンは上手にならない。お手本をしっかり見て、自分で実際にやってみて能力の不足を体感し、数限りない試行錯誤によって失敗を繰り返す、というサイクルを作らなくては、能力の向上は望めない。
その環境は、自力では作れない。だからその条件と環境を提供するのが、授業や講習会の役割ではないか。


いま大学の授業でブラインドウォークをやっている学生たちを見ると、「ああ、あれやってるんだ」という懐かしさを感じる。それと同時に、「本当にあのやり方で効果があるのかね」と、ちょっと冷めた目で担当教員を見ることが多い。



ジャージ姿の女子学生を拝めるので、まあ良しとしてるんだけど

リーダーの条件

「優れたリーダー」にはどんな性格が求められるのか?

この方法を人間の性格に適用するうえでは、「性格」をどのように測るかが大きな課題だ。この課題に最初に取り組んだのは、進化論で有名なダーウィンのいとこにあたる遺伝学者ゴールトンだ。彼は1884年に、人間の性格を表す英語表現を約1000個選び出した。  

この研究は心理学者に引き継がれ、1936年には4504語の性格用語が整理された。そして、これらを要約する研究が始まった。類似の性格用語をまとめた上で、それぞれの性格特性を被験者の自己評価や他者評価によって数値化し、その数値を要約する研究が続けられた。その結果、1990年代になって、人間の性格は5つの基本要素(ビッグファイブ)に要約できるという点で、研究者の間の意見が一致した。そのビッグファイブとは、外向性・開放性・協調性・良心性・情緒安定性の5つだ。  

外向性とは行動的な積極性であり、外向性が高い人は精力的で、冒険的だ。また、そのような行為を評価されたいという報酬感受性が高い。
 これに対して、開放性は認知的な積極性であり、開放性が高い人は好奇心が強く、思慮深く、創造的だ。報酬にはとらわれない。
 協調性は他者に協力的な性質であり、協調性が高い人は世話好きで、他人を信じやすい。
 良心性とは、責任感、勤勉性、計画性に関係しており、良心性が高い人は規則や計画を守り、任務をしっかりまっとうしようとする。
 情緒安定性は感情の制御に関係しており、情緒安定性が低い人は感情的であり、神経質で、緊張しやすい。  

優れたリーダーには、外向性・開放性・協調性・良心性・情緒安定性が高いことが求められる。ただし、これらが極端に高すぎる人は、リーダーには適さない。あまりに冒険的で創造的な人物は組織を危機に陥れがちだし、協調性が高すぎる人は決断を躊躇しがちだ。規則に忠実すぎると危機に柔軟に対応できないし、情緒安定性が高すぎる人は人間関係の機微に気付けない。行き過ぎない程度に、外向性・開放性・協調性・良心性・情緒安定性が高いことが、優れたリーダーの条件だ。  

ここで、これら5つの基本要素(ビッグファイブ)は、互いに相関がないことを条件として要約された因子であることに注意してほしい。例えば、外向性が高いからといって、開放性が高いわけではない(精力的な人が創造的であるとは限らない)。同様に、協調性が高いからといって情緒が安定しているわけでもない。このため、ビッグファイブ全てにおいて秀でた人は、希少な存在となる。


ビッグファイブ全てに優れ、なおかつ、能力も高い人の割合はさらに小さい。人間にはさまざまな能力があるが、その中で一般的な認知能力は「知能」と呼ばれる。知能とは、高度な記憶力や知的集中力によって、たくさんの情報を迅速かつ正確に処理する能力である。

ビッグファイブの中で、知能と関係しているのは、開放性である。好奇心が強く考えるのが好きな人ほどさまざまな知識を得やすいので、知能を高める機会が増える。

実際に両者には相関があることが分かっている。しかし、両者の相関は必ずしも強くなく、両者に関与する脳の領域は異なっている。知能には、その人の脳が持つ潜在的な演算能力と、学習や経験を通じて得られる知識量(学力)の両方が関わっていると考えられる。




漠然と思っていたことを書かれた感じ。

求められる答え

次の数字は、ある規則性に基づいて並んでいます。(   )にあてはまる数を書きなさい。

 5, 9, 13, (   ), 21

(お茶の水女子大学付属中学校)



別にお茶大付属を受験しようとする幼女の努力をあざ笑おうというわけではないのだが、こういう間抜けな出題をする学校に、本当に入りたいのだろうか。
「規則性」という言葉の意味を、本当に分かっていて出題しているのだろうか。中学入試であることを差っ引いても、かなりの悪問だ。

一見して気づくのは、これらの数列の差がすべて4になっていることだ。だから公差4の等差数列とみなして、17を答えとする・・・のが正解に見える。

しかし、本当にそうだろうか。5, 9, 13, (   ), 21、という数値をとる規則性は、本当に公差4の等差数列だけなのだろうか。

入試問題である以上、正解というものは、問題文の要求を満たすための、必要かつ十分な条件を備えなければならない。「この答えは正解になり得る」だけでは不十分で、「この答え以外は正解になり得ない」ことを示さなくてはならない。
つまり、この正解を「17」としてしまうことは、「この数列では、17以外の数が入る『規則性』は存在しない」ということを宣言するに等しい。

この問題を、xy軸を使った座標平面にプロットしてみると、1項めは5, 2項めは9, ・・・とやっていくわけだから、下図のような点の関係になる。


グラフ1


この問題の答えとして、4項めに「17」を入れることを正答とし、他の解答を一切正解として認めない、というのであれば、この4点をつなぐ「規則性」とやらを、直線だけに限定しているということになる。
ところが、「規則性」というのは直線だけとは限らない。曲線だって、立派な「規則性」だ。

たとえば、この問題の答えを「5」と答えたとする。するとこの問題は、「5, 9, 13, 5, 21という数列が満たす法則性を述べよ」という問題に還元される。
代数的にこの問題を解くと、この問題は
f(x) = ax4 + bx3 + cx2 + dx + e とおき、
 f(1) = 5
 f(2) = 9
 f(3) = 13
 f(4) = 5
 f(5) = 21
を満たすa, b, c, d, eを求めればよい。
数値をぶち込んで連立方程式を解くと、

f(x) = 2x4 - 22x3 + 82x2 -118x + 61

となる。

グラフ2


立派な「規則性」だろうがよ。 


答えとなり得るのは、別に5だけではない。与えられた数を5, 9, 13, x, 21とすると、xにはどんな数だって入りうるのだ。言い方を変えれば、xにどんな数を入れようと、その5つの数を含む関数は存在し得る

つまり、この問題は、どんな数を(   )に入れようと、その数を含む「規則性」が存在することになる。だから、どんな数を入れても正答なのだ。
もし、この正解を「17」だけに限定するのであれば、出題者は、(   )に他の数値をとる関数が「規則性ではない」ということを証明しなくてはならない。

100000歩譲って、問題文の「ある規則性」という言い方が、「任意の規則性のもとで」という意味だと解釈し、その任意のひとつが公差4の等差数列である、と解釈したとしよう。
その場合、この問題文は「私(出題者)は、ある任意の規則性を頭に思い描いています。その規則性とは何でしょう」という問題になってしまう。


そんなこと知るか


手前が勝手に起想している規則を当てろ、という問題ならば、それは算数でも数学でもない。
「人の顔色を伺って、何を求めているのかを察知する能力」に過ぎない。

邪推すると、お茶大付属中は、「正論を振りかざすような、教師にとって面倒くさい学生」を排除するためにこんな問題を作ったのではないか、という気がする。何が正解か、何が真実かなど関係ない。生徒は教師の顔色を伺って、ひたすら先生のお気に召すような言動をすればよい、という入試問題に見える。「私は等差4の等差数列を考えてますよ。それを当てなさいね」などという問題が、本当に入試問題として適切なのか。


教師の中には、生徒に不必要な抑圧を加えるタイプがいる。そういう教師にとって、「正解」とは世の中に真実のことではなく、「自分が『正解』と認める答え」のことだ。

大学のゼミで、教員が学生にディスカッションをさせることがある。そういう輩は、学生がどんな結論を出しても仏頂面で黙り込み、批判を繰り返すのみ。学生がどんな論拠を出そうが、どんな根拠を出そうが、「違う」「そんなことは聞いていない」の一点張り。
かくしてゼミは冷めた雰囲気となり、場の収拾がつかなくなる。先生の機嫌はどんどん悪くなる。学生は困り果てる。

学生だってバカじゃない。そういう教員は「自分が『正解』と認める答えを出すまで許してくれない」ということが分かっている。だから、ゼミは途中から「『先生が言わせたい言葉』を当てるゲーム」と化す。
そんなものは、学問でも何でもない。単なる、先生のご機嫌取りだ。

僕は、ゼミというものは、最初に想定していた答えよりも、遥かに良い知見が出てこなければ、無意味だと思う。教師が用意していた答えが「絶対の正解」であるならば、それは単なる当てっこに過ぎない。
大学から上の「学問」というものは、高校までの「勉強」と違って、絶対的な正解など無い。あるのはすべて「仮説」であり、そう考えれば多くの事実が説明できる、という程度のものでしかない。そういう学問の場に、「これが絶対の答えだ」というものを振りかざすこと自体、学問の本質に反している。

残念ながら、小・中・高はおろか、大学においてでも、そういうタイプの教員は存在する。おそらく一般企業の「上司」に該当するポストにもいるだろう。
一言で言ってしまうと、度量が狭い人間なのだと思う。学生や部下から、自分が思いもつかなかったアイデアが出てくると、途端にうろたえる。自分が用意した「枠」に閉じ込めようとする。想定を超えた事態を、制御できる自信がないのだ。

教員がゼミで学生の論文を指導するときには、意図してそういう枷をはずそうと努めるようにするべきではないか。たとえ「通説」とされている仮説から外れた答えを学生が用意してきても、どちらが真実かなど分からないのだ。もしかしたら通説のほうが間違っていて、学生のアイデアのほうが正しいかもしれない。少なくとも、教員が想定してる仮説を「絶対的な正解」のように振りかざし、学生の発想の飛躍を妨げるようなことをしてはなるまい。

たかが中学の入試問題でそこまで考えることもないのかもしれないが、こういう入試問題が、将来の「数学嫌い」を増やす遠因になっているような気がしてならない。この問題に、素直に「17」と答える女の子よりも、「17以外の数が入ったら、関数として成立しない・・・というのは本当なのだろうか?」と考える女の子のほうが、数学的センスは優れている。僕がゼミ生として採るのであれば、迷い無く後者を採用する。

それを、「答えは17です」とぶっち切ることにより、その先にある深淵な「規則性」の本質を覗くことのないまま、「正解が出たから満足」という思考停止を生み出す。教師に顔色を伺って、ひたすら「求められている答え」を当てっこする能力ばかりを膨らませることになる。


僕はかつてこの問題を、自分のゼミ生を選抜するための試験問題に使っていたことがある。残念ながらみんな「17」と答えていた。
考える能力が、ないわけではないのだろう。しかし、公差が4であることくらい、小学生にでも分かる。その答えに満足しているようでは、中学受験をする小学生と知的レベルは変わらない。その先にある「一歩深い思考力」を求めている立場としては、非常につまらない思いをしたことを覚えている。



必要なのは「正解を出す」ことではなく「正解を疑うこと」だ。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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