たくろふのつぶやき

BBQ強化月間。

Education

大人の勉強のしかた

文房具が趣味で、いろいろと試してみては使っている。


文房具が趣味、という人が行き着く先は、万年筆だ。
まさしく「キング・オブ・文房具」。値段と価値が比例する、珍しい商品だと思う。高価な万年筆ともなれば、まさしくクラフトマンシップの結晶。その書き心地は素晴らしい。

趣味に昂じる人の陥りやすい罠は、「単なるコレクター」になってしまうことだ。万年筆が趣味、という人でも、その実は単なる万年筆コレクター、という人は珍しくない。
人は誰でも、子供の頃から何かを集めることを趣味にしたことがあるだろう。そして、本人は熱中しているつもりでも、たまにふっと「集めること自体が目的化していること」の空しさを感じたことがあると思う。

僕は経験上、そういう陥穽に嵌らないための、自分なりの方法を持っている。
つまり、「その分野の最高のものを持つこと」。

「欲しい」という欲求は、つまるところ「満たされていない」という感情が原因だ。だから一番欲しいものを手にしてしまえば、それ以上欲しいものはなくなる。
僕はそれを直感的に悟って、まだ学生の頃に世界最高の万年筆を買った。これを買うために、1年くらいせっせとバイトをしてお金を貯めた。
このご加護かどうか知らないが、今でも僕は「要らないのに、単に集めるためだけに欲しい」ということがまったくない。

今でも僕は、自分の勉強をする時には万年筆を使っている。気に入っている道具を使うのが楽しい、ということもあるが、もっと実際的な理由がある。
子供の頃から体育会系だった僕は、筆圧が強い。シャープペンや油性ボールペンを使っていると、筆圧の強さが筆記の疲れに直結し、わずかな勉強量で疲れてしまう。頭の疲れではなく、手首の筋力的な疲れなのだが、子供の頃にはそれを大雑把に「勉強疲れ」と認識してしまっていた。
万年筆を使うと、力を入れなくても、わずかな筆圧でくっきりと字が書ける。長時間書き続けていても、全然疲れない。万年筆を使うことの利点には、そのような勉強疲れを軽減する効果があるだろう。


話はまったく変わるのだが、大学で教えていると、よく学生から「こんな分野を勉強していて、いったい何の役に立つんですか」と訊かれることがある。
また文部科学省は教育の根本理念として、馬鹿の一つ覚えのように「生涯教育」「生きる指針」というお題目を掲げている。

両者とも、言葉だけがひとり歩きして、その実体には誰も踏み込もうとしない、不思議な現象だ。
学生は誰でも、勉強はしなければならないものだと分かっている。分かった上で、「なぜ自分が」その分野を勉強しなければならないのか、と文句を言っている。また、目先のものしか見えない視野狭窄に陥って、短期的に成果の上がるものにしか優先的な価値を見いだせなくなっている。
一般社会人にしても、一生勉強を続けるほうが「豊かで実りある生活」を送れることなど、よく分かっている。分かってはいるが、週末や休日には、ゆっくり寝てテレビを見て酒を飲むほうが、優先順が先になる。生涯教育を続けるほど、自分の中に「学ぶ土台」が出来上がっていない。

あまり知られていないことだが、大学というものは生涯教育のための市民講座や夜間授業を頻繁に開催している。僕が勤務している大学も、社会人対象の公開講座を無料で開講している。昨今では大学というものの存在意義が大きく変わっており、大学は学生相手だけではなく、一般市民の知への貢献度も評価の対象となるご時世なのだそうだ。
それ自体はいいことだと思うのだが、開講されている講座の内容や、受講しているお客さんの層を見る限り、僕はあまり建前を具現化しているような試みには見えない。誰でも、大学で開講する講座に飛び込むのは、勇気のいることだろう。なにか難しそうな内容を、必死に勉強しなければならない、というイメージで公開講座を見ている人が多いような気がする。

だいたいそういう市民講座は、教える側も、大学事務局から頼まれて嫌々引き受けているケースが多い。だから手加減なしの授業を行う。「これくらいのことは分かっているでしょ」という前提知識のもとに、大学とはこのような場所でございます、とばかりに最先端の内容を講義する。こんな講座の開き方で、一般市民の生涯教育が啓発できるとは、とても思えない。
つまるところ、大学の公開講座というものは、「10の知識を100にする」という感じで行われている。僕が考えるに、本当に必要なのは「0の知識を1にする」ことの必要性と方法論を教えることではあるまいか。

大きな本屋さんに行くと、最近は社会人向けの「やりなおし学習」のための本がよく売っている。数学、歴史、理科、政治経済などの「学校で習ってはいたけど、もう一度勉強し直したい」という分野を、やさしく解説している本だ。
僕もそういう本をよく読むが、その手の本を読んで、改めて勉強が好きになる社会人はいないと思う。そういう本の共通点は、要するに「その分野を分かりやすく解説している」だけの、ただの教科書なのだ。自身が中学・高校時代に使っていた教科書と、構成も内容も何も変わらない。むしろ内容が簡単になった分だけ、その質は薄っぺらくなっている。

そういう本の前提として、「学ぶ側が何かの必要性に駆られて必死で勉強するはずだ」という思い込みがあるような気がする。必要があるから勉強し直すのであって、純粋に楽しむために勉強をするようには編集されていない。ああいう本を読んで「なるほど数学は楽しいな」と感じたとしたら、それはまるで使いもしない万年筆をずらっと買い揃え、悦に入っているような趣味と、たいして変わらないのではあるまいか。本人は「楽しい」と思い込んでいるのだろうが、それは本当に優れた逸品を鑑賞し、その価値を味わう姿勢なのだろうか。

大人の趣味が子供と違う点は、「それを使って何をするのか」以前に、「そのモノ自体に価値を見いだす」という、視点の違いだと思う。
子供のおもちゃというものは、それを使って「何かができる」ように作られている。おもちゃを渡されたら、子供はそれがどんなものであろうと、それを使って「何か」をするように行動する。それは勉強するときの態度にも反映され、ある分野を勉強する時には「それを学んだら、何ができるようになるのか」という、具体的な成果を欲しがる。

一方、大人の視点では、それを使うことに興味はなく、そのモノ自体を鑑賞することに意義がある。だから実利的には全く価値のない、盆栽や切手などを収集することで十分に楽しめる。本来は筆記用具である万年筆をやたらに集めるコレクターも、それと同じような心情だろう。100本の万年筆を集めている人に、「で、この万年筆で一体何を書くんですか?」と訊くのは、大人の趣味・嗜好を理解しているとは言えない。

大人の趣味がそのようなものである以上、社会人になってからの勉強の仕方というのも、それに沿ったもののほうが啓発の余地が大きいのではないかと思う。
別に入学試験のために勉強するのではないのだから、大人にとっては学んだ知識が何の役に立たなくても、別に知ったこっちゃないのだ。知識の価値それ自体を楽しみ、自分の知の体系を「作り込む」ような学びの方法を教えるほうが、大人にとっては楽しめる勉強の仕方だと思うのだ。

たとえば、「役に立たない分野」の最高峰と目されやすい数学。
誰でも、ax2+bx+c=0 (a,b,cは0でない数)の2解が、

解の公式


であることを「知っている」。
しかし、なぜ2解がそのような数になるのか説明できる人は、あまりいないだろう。

学校で二次方程式を習う時には、具体的に「答え」を出さないとテストで点をもらえない。だからこの方程式を解き、具体的な2解を出すことが「絶対的な目標」になる。
こういう価値観で勉強をしていれば、次なる疑問として「で、この答えを出したところで、それが何に使えるの?」となるのは自明だろう。「その知識を使って、一体何ができるのか」という姿勢が、学習の基本指針になってしまう。「数学が得意な人」というのは、入試問題に代表されるような「他人に出された問題の、正解を出せる人」という学力観が、支配的だと思う。

実際のところ、二次方程式の解の公式は、平方完成すれば簡単に導ける。それまで自分が「覚えている」だけだった知識に、「どうしてそうなっているのか」という原理原則を理解することが、本当の「勉強」だと思う。その知識が何の役に立つかなど知ったこっちゃない。「なるほど、そうなっているのか」という知的興奮を求めることが、大人の勉強の仕方ではないか。

前の項に一定の数を掛けた数列のことを、等比数列という。初項をa, 公比をrとすると、等比数列は

a, ar, ar2、ar3, …, arn-1

と表せる。

このa1からanまでを全部足した等比数列の和Snは、

等比数列の和

として求められる。学校の数学では、これを公式として「覚えろ」と言われることが多い。
では、等比数列の和は、なぜこの公式で求められるのか。

等比数列の和の公式は、別に根性で暗記しなくても、簡単に求められる。
Snのほかに、公比を一回掛けたrSnというものを用意し、後者から前者を引き算すれば、初項と末項以外の、間にある項はすべて全滅して求められる。
ただ覚えているだけだった知識に、「なぜ、そうなっているのか」という原理原則から始めて、自ら知を形作る方法論こそが、勉強の本当の面白さなのではあるまいか。

市販されている「やりなおし数学」があまり面白くない理由は、そこのところの面白さを啓発するように書かれていないからだ。社会人対象のやりなおし教科書でも、その目標とするところが、学生時代に教室で叩き込まれていた勉強と、まったく同じなのだ。そんな勉強に対しては、学生時代と同じ感情を抱いてしまうのも無理はない。

僕は個人的に、大人になってから数学を勉強し直す際には、学生時代に暗記させられていた公式を全部証明していくだけで、十分に楽しめると思う。
万年筆を楽しむときには、「それで何を書くのか」は問題にならない。万年筆という道具自体を楽しみ、その構造や精密性を味わうだけで、十分楽しめる。それと同様に、数学の知識を使って何をするかなど知ったこっちゃなく、既存の知識のしくみを知り、その精巧さに驚嘆する、というのは、思いがけないほど「凄いこと」なのだ。

別にそれは数学に限ったことではない。歴史を勉強する際にも、学生時代の呪縛から外れて、知識を精密化し再構築していけば、十分に楽しい。
例えば、誰でも「幕府」という用語を知っている。しかし、本当に幕府が何であるのかを知っている人は、思いのほか少ない。たとえば、「いま自分で幕府を作ろうと思ったら、必要なことは何か」という問いに答えれる大人は、あまりいないだろう。

幕府というのは、もともと征夷大将軍に与えられた行政権を指す。京都におわします天皇から遠く離れた「夷人」を征伐する際に、その責任者である頭領に全権を与えたのが始まりだ。京都から遠くなればなるほど、夷人を征伐するためには、様々な事業が必要になる。前衛基地としての都市を作る必要もあろうし、膨大な人員を統括するための立法機能も必要になる。そういうときにいちいち京都にお伺いを立てていたのでは小回りが効かないから、「必要なことは全部そっちで勝手に決めてくれ」という全権委任が、幕府の前段階となる概念だ。

時代が下って武家政権の世の中になると、いっそのこと国の政治全部を武士の頭領に委譲したほうが話が早い、ということになった。それが制度化したものが幕府だ。
つまり幕府というものの存在の前提として、「行政権を朝廷が握っている」という背景がある。それを譲渡したものが幕府だ。江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜は、委譲された政治権限を朝廷に返納している。俗にいわれる「大政奉還」だ。

だから、朝廷(天皇)が行政権を握っていない現在の日本では、幕府というものは原理的に成立し得ないことになる。もし今の日本で、誰かが幕府を開こうとしたら、行政権を一旦日本国政府から天皇に戻し、その上で天皇から行政権を委譲してもらう必要がある。

戦国時代、各地に割拠した戦国武将は、みな「京都を目指せ」と上洛を目指した。幕府の何たるかを知らないと、なぜ戦国武将が京都を目指したのか、その理由が理解できない。
戦国武将の究極の目的は「全国を自分の支配下に入れること」。そのためには、朝廷から「お前が武士の頭領だ」というお墨付きである征夷大将軍に任じられることが、必要かつ十分な条件だ。

鎌倉幕府は、行政府が鎌倉という辺境の地に置かれた事情から、原始的な「征夷大将軍」のイメージに近い幕府の開かれ方だった。その時代の朝廷はまだ実質的な力を失っておらず、純粋に権力を「委譲」しているだけだったので、朝廷は何かにつけて幕府に目を光らせ、武家政権に偏った政策には介入を行った。
ところが戦国時代になると、朝廷は単独で行政を敷けるほどの地盤と背景を失う。建武の新政に失敗して以来、朝廷は武士の助力なくして行政権を安定させることが事実上不可能だった。つまり、室町時代以後、征夷大将軍に任じられることは、同時に行政権のすべてを掌握することを意味する。

その過渡期にある室町幕府が、あまり一般的に「幕府」としてのイメージが薄いのは、地理的理由と背景的理由のふたつがある。
室町幕府は、京都に開かれている。つまり、朝廷のお膝元で開かれているわけで、これは原始的な「征夷大将軍」の必要性からすれば、本末転倒と言える。つまり、朝廷としては単独で行政権を執行したいものの、時代の変化によって武士がもつ軍事力に依存しなければその実現が不可能になっていたのだ。そこで、建前的には武士に政権を委譲するものの、「それを委譲しているのは朝廷だからな」と面子を保とうとした苦肉の策が、室町幕府なのだ。その時代では武士のほうでも朝廷の威光は利用価値があったので、その体制のもとでの自己の権威付けに利用した。

その体制が崩壊したのは、「もう朝廷の威光に頼るだけで軍事力のない勢力などものの数ではない」と価値観をがらっと転換した織田信長が、室町幕府を滅ぼした時だ。織田信長が凄かったのは、単に「朝廷にお墨付きをもらっている」という室町幕府の形骸化を見抜き、「それよりも力のある勢力があれば、朝廷はそちらに権力を委譲するはずだ」という時代の流れを正確に掴んでいたことだ。

このように、「幕府とは一体何なのか」という原理原則を知るだけで、鎌倉・室町・戦国時代という時代がひとつにつながり、「朝廷と武士の関係」というひとつの横糸で歴史が見えるようになる。一般的に室町時代は「つなぎの時代」と見なされ、歴史ファンにも人気が薄い。その一般的なイメージに乗っかるだけでなく、「なぜそういう時代だったのか」「何と何をつないでいた時代なのか」を自分で再構築するだけで、歴史を見る目が変わってくる。

それを考え、自分で答えに至ったところで、別に入試問題が解けるようになるわけではない。目的のために勉強するのではなく、既存の知識を、自分の中で「作り込む」作業をすることで、見えるものが違ってくる。
勉強というのは本来、自分の知らなかった世界を見るためにするものだ。凡人には、盆栽の何が楽しいのか、万年筆の何がそんなに面白いのか、理解できない向きもあろう。しかし、そういうものの中に独自の価値観を見いだし、モノそのものに価値を見いだすようになると、かなり楽しい時間が送れるようになる。それが一般的に認められる価値であろうとなかろうと、知ったこっちゃない。自分だけが楽しめればいいのだ。「知的に充実する人生」とは、そういう経験を自分の中だけでじっくり熟成させる生き方のことではあるまいか。

一般的には、「知識をいっぱい知っている人」を「頭のいい人」という学力観があると思う。しかし、その知っている知識なるものを、ただ知っているだけの人は、100本の万年筆を集めているコレクターと変わりない。自分の気に入った知識を、微に入り細を穿ち作り込み、丹念に鍛え抜いてこそ、その知識の本当の「使い方」が分かる。知識というものは、持っている量よりも、それをどれだけいじり回して楽しい時間を過ごせるか、のほうに価値の基準があると思う。


大学の公開講座や市民講座は、何かにつけて「○○○に役立つ歴史講座」「すぐに活かせる○○○授業」など、実利や効能を謳い過ぎる。個人的には、何かに役に立つ勉強など、全くつまらないと思う。端から見ればつまらないものに、それ独自の価値を見いだすことが、本当に熱中に値する行いではあるまいか。役に立つことを求めて、せっせと知識の暗記に精を出す勉強など、学生時代の呪縛の中に再び足を突っ込もうとする、愚かな行為に見える。



「ダンゴムシの生態」という公開講座はなかなか面白かった。

偽りの優等生

二十歳過ぎればただの人(3)
 
偽りの優等生のほとんどは女の子です。男の子でこのタイプは少ないですし、居ても外見上、優等生に見えなかったりします。というのは、このタイプの優等生であり続ける為には、驚異的な暗記能力が要るからです。  

思うに、このタイプの優等生と言うのは小学校高学年での優等生グループの生き残りです。中学校に入ると、小学校とは全く異なる資質が優等生について要求されます。その要求に応えられる子どもは中学校でも優等生ですし、それに応えられない子どもは劣等生または普通の子のグループに転落します。ところが、中には中学校での要求に応えられない部分を、驚異的な記憶力でカバーしながら、優等生であり続けようとする子どもが居るのです。  

彼女達は、中学校での学習内容を全て丸暗記していきます。英文とその訳を対訳形式で覚え込みます。英単語や英熟語なども、意味と一緒に丸暗記です。数学なども、例題の解答法を丸暗記していきます。国語は、先生の板書を写したノートの内容を覚えます。

こうして、偽りの優等生達は授業嫌い、勉強嫌いの大人に育っていきます。彼女達にとって、学校の授業は我慢大会に過ぎませんし、勉強は訳の分からないお経を延々と覚え続ける苦行のようなものです。勉強が何かの役に立つという実感もありません。実際、彼女の勉強方法では、何かに役立てる事の出来る知識など身に付けようもないのですから。  

困るのは、こういう女性が母となって子どもの勉強を見たり、短大で教職免許を取って小学校の先生になったりする事です。  

母親が教育熱心な家庭の男の子が成績不振になるケースで、母親が自分の勉強法を伝授しているケースがままあります。定期試験で悪い点を取って帰った息子に、自分がかつて点を稼いだやり方で良い点を取らせようとしたりするのです。ですが、一般的に男の子は女の子ほどの暗記能力はありませんから、成果は上がりません。論理的理解を拒絶している分、成績は逆に下がっていきます。

彼女達が小学校の教師になるのが困るというのは、学力の問題ではありません。何しろ、彼女達は自分が小学生だった頃は押しも押されもせぬ優等生だった訳ですから、今は四年制大学を出て威張っている男性連中も、小学生の頃は彼女達の足元にも及ばずに小さくなっていたりしたのです。その意味で、小学校での優等生が小学生の指導に当たる事に何の問題も無いように思えます。  

問題は、彼女達の中に根付いてしまった勉強嫌いの感覚です。勉強は面白くないもの、我慢して努力してやるもの、そういう大前提で教壇に立つ先生が多い、と私には思えます。  

そういう先生は、子どもが楽しそうに勉強したり、授業を受けたりしていると不安に思うようです。何か、大事な事を、子ども達が学んでいない、という気になるのです。そこで、授業中の私語を禁じたり、ごそごそ動く生徒に直立不動の姿勢を要求したり、少し難しめの問題で脅して、勉強は楽しいだけでは駄目なのだという事を分からせようとします。  

やがて、生徒達はかつての活力を失っていきます。授業中、横の生徒と話す事も無くなり、黙って先生の話を聞きながら、後どれ位で休み時間になるのだろうと時計を気にし出したりして初めて、この先生は良いクラス作りが出来たと安心するのです。  

ですが、この子ども達の姿はかつてクラスの優等生として活き活きしていた自分の姿ではありません。中・高を通じて、息を殺すようにして自分の気配を消していた、勉強嫌いの頃の自分の姿なのです。その事に、この先生は気が付いているでしょうか。




自分の価値観に縛られた教師ほど有害なものは無い。

広島原爆の日

G7 伊勢志摩サミットと前後して、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問することが話題になっている。
もし現職の大統領が原爆被害地を訪れれば、史上初のこととなる。

広島では原爆被害者の関係者が、謝罪の言葉を求める動きがある。原爆被害を受けた国民感情として、謝罪の言葉を要求する気持ちは分からないではない。折しも沖縄で元アメリカ海兵隊員の男による20歳の女性の死体遺棄事件が発生し、オバマ大統領は立場を危うくしている。難しいタイミングで厄介な事件が起きた、という実感だろう。多くの日本人が、アメリカとオバマ大統領について、難しい距離感を感じているようだ。

しかし、今回のサミットでその謝罪要求をすることが、本当によいことなのかどうか、多くの日本人は判断ができていないような気がする。
ちょっと考えれば、アメリカ大統領という公職にある者が、公式に謝罪をすることなどほとんど不可能だ、ということくらい、すぐ分かるはずだ。オバマは個人的には、人道的観点に基づいて謝罪をしたい気持ちがあるのかもしれないが、それを公人として謝罪するわけにはいくまい。公に謝罪をしてしまえば、それは個人としての見解に留めることはできない。賠償請求、国家間のパワーバランス、今後の交渉事など、さまざまな面に影響を及ぼす。
マキャベリは「個人としての人格と、国家としての人格は、別問題だ」ということを歴史上初めてはっきり言った人物だが、このマキャベリの言わんとしていることを理解していない人が多すぎる。

それとは別に僕は、今の日本人が、原爆に対してその背景と要因をきちんと理解しているとは思えない。それはひとつには「被害者感情ありきの原爆史教育」に原因があるだろうし、ひとつには日本の歴史教育のレベルがそこまで高くないことが原因でもあるだろう。

原爆教育というのは、悲惨な写真や映像を見せて「二度とこんなことを繰り返さない」と情緒に訴えることだけではあるまい。アメリカがなぜ原爆を使用せざるを得なかったのか。原爆使用に至るにはどのような背景があったのか。それをしっかりと把握することが、今後の予防につながる。原因をしっかり理解していない者が、再発を防げるわけがない。

たとえば、広島の原爆が8月6日だったことを知っている日本人は多いが、なぜ8月6日であるのか、理由を知っている人は少ない。
もし当時、世界情勢を正しく認識している者が日本政府の中枢にいたならば、原爆は予知できたはずだ。

広島原爆が8月6日である理由は、簡単だ。

ナチスドイツの無条件降伏が、5月7日だったから。


この理由を理解するには、まず第二次世界大戦時にいったい何が起きていたのかを理解する必要がある。
まず、そもそも日本はどこの国に負けたのか。

ほとんどの日本人が、先の大戦は「アメリカに負けた」と思っている。中国やソ連に負けた、と思っている日本人はほとんどいないだろう。
しかし、連合国はアメリカだけでなく、中国、ソ連、イギリス、フランスなど、様々な国を含んでいる。その中で、日本人がアメリカだけを「敗戦の相手」だと思っているのは、なぜなのか。

原爆こそ、その理由だろう。広島と長崎に原爆を落とされ、日本は無条件降伏した。つまり裏を返せば、アメリカが原爆を落としたのは、「日本人に『アメリカに負けた』と思わせるため」だった。世界史の教科書的に言えば、「戦後の日本の占領政策で、他国よりも優位な立場に就くため」だ。

第二次世界大戦の連合国は決して一枚岩ではなく、お互いに戦後の支配圏拡大を目論むための駆け引きの場だった。普通に考えれば、1917年のロシア革命以来、共産主義国と資本主義国が手を結ぶことなど、あり得ない。それがあり得たのは、第一次世界大戦後のベルサイユ体制が破綻し、ドイツやイタリアなどで全体主義国が台頭し、共産主義国よりも脅威となったからだ。伝統的にヨーロッパの大戦には不干渉主義を貫いてきたアメリカが第二次世界大戦に参戦したのも、戦後の影響力を考えてのことに過ぎない。決してアメリカは人道主義的な理由から参戦したのではない。

アメリカは日本を攻撃するにあたって、兵士の負担と犠牲をなるべく少なくしたい、と考えていた。アメリカはいつでも、戦争で多大な死傷者を出した大統領は、歴史の後々まで長きにわたって非難される。当時の大統領ルーズヴェルトは異例の4選を果たした長期政権であり、勇退後に自分の名を汚すような犠牲は避けたかっただろう。

そこでルーズヴェルト大統領は、日本を攻撃するときにソ連の力を利用することを考えた。日本はアメリカが単独で攻撃するのではなく、南の硫黄島・沖縄からアメリカ軍が、北の樺太からソ連軍が、挟み撃ちにする。そのプランに基づいて、ルーズヴェルトはソ連に対日参戦を要求する。
ソ連のスターリンは、それを承諾するかわりに、見返りとして千島・樺太の領土を要求した。ルーズヴェルトは、その程度ならお安い御用、とばかりにその要求を呑む。

ソ連の対日参戦は、ヨーロッパでの戦争の終結、つまりドイツの降伏から数えて3ヶ月後、と決まった。この密約を「ヤルタ密約」という。この密約は、本当に「密約」で、ルーズヴェルト、スターリン、チャーチルの3人しかほぼ知らなかったと言われている。

ところが戦争途中でルーズヴェルトが没し、後任の大統領にトルーマンが就いてから、状況が変わってくる。トルーマンはヤルタ密約のことを知らされておらず、大統領就任後に密約の内容を知らされて仰天した。トルーマンはすでに日本など敵ではなく、ソ連を始めとする共産主義国こそが戦後の相手になる、と睨んでいた。日本は極東の安全保障のためには最も重要な拠点となる。そこに、わずかなりともソ連の影響力を引き込むとは言語道断。
ルーズヴェルトにとっては、ソ連への千島・樺太の譲渡など「お安いもの」であったが、それはトルーマンにとってはちっともお安いものではなかった。

焦るトルーマンのもとに、朗報が入る。アメリカ国内で秘密に進んでいた「マンハッタン計画」から、原爆実験成功の知らせが入った。原爆が使用可能になれば、ソ連軍の力を借りなくとも、アメリカ単独で日本を無条件降伏に追い込める。

トルーマンはさっそく手を打った。対日降伏文書の「ポツダム宣言」から、ソ連を除外する工作をした。ポツダム宣言は、ソ連との事前連絡なしで文書が作成されている。宣言の署名欄には、アメリカ、イギリス、中国(中華民国)のサインだけがあり、ソ連のサインはない。

ソ連のスターリンは、それを知って激怒した。アメリカは明らかに、戦後の日本における影響力からソ連を排除しようとしている。
スターリンはもともと、人道的な理由や国の防衛のために第二次世界大戦に参戦したのではない。旧ロシア帝国の領土復活がスターリンの目的だった。ソ連は、日露戦争、第一次世界大戦で失った旧ロシア帝国の領土を奪うために、第二次世界大戦を利用したに過ぎない。そもそもそれが目的だったのだから、日本から千島・樺太を奪えなくなるポツダム宣言は、断固容認せざる内容だった。

ヤルタ密約によると、ソ連の対日参戦はドイツ降伏の3ヶ月後。スターリンはすでにその日程で対日参戦の準備を進めていた。そしてドイツが5月7日に降伏。そこからちょうど3ヶ月後の8月7日には、ソ連が日本に参戦してしまう。アメリカとしては、なんとしてもその前日までに阻止する必要があった。

つまりアメリカが8月6日に原爆を落としたのは、ソ連軍の介入を妨げ、アメリカが単独で日本を降伏させるための、ギリギリのタイムリミットだったのだ。そして、その日程の決定に深く関わっていたのは、日本ではなくソ連だった。広島の原爆投下は、当事国の日本などまったく蚊帳の外で、戦後の米ソの冷戦構造の前段階こそが本当の背景だった。

結局、ソ連の対日参戦は8月9日と決まる。それを知ったアメリカは、その日に長崎にもう一発原爆を落とした。あくまでもソ連の参戦を封じて、日本を速やかに降伏させるための駄目押しだった。長崎の原爆投下でも、アメリカの目線の先にあったのは、ソ連であって日本ではない。

結局、日本はアメリカの圧力に屈する形で、無条件降伏をした。多くの日本人は、戦後の占領時の印象を、マッカーサーに代表される進駐軍を思い浮かべるだろうが、それは「アメリカ単独での日本占領」というトルーマンの目論みが成功したからだ。
もし原爆が投下されず、ソ連が対日参戦し、日本がアメリカとソ連の勢力争いの場になったとしたら、どうなっていただろうか。


おそらく、日本はいまの朝鮮半島のようになっていただろう。


日本に対する影響力を封じられ、極東地域への拡大策の変換を迫られたスターリンは、その力を朝鮮半島に向けた。朝鮮戦争の勃発だ。朝鮮戦争は単に同じ民族間の内戦ではなく、アメリカとソ連に代表される二大陣営の「代理戦争」だった。

日本において原爆を語る時には、いつも被害者として、受けた被害の甚大さを訴える論調が支配的になる。しかし世界の歴史の中で、被害を受ける者の苦痛の訴えが、戦争の惨禍を食い止めた例など無い。広島や長崎を中心とした現在の原爆教育のやり方で、今後の世界から核の脅威を廃絶できると、本当に思っているのだろうか。

被害の悲惨さを語り継ぐことは大切だ。しかし、それは必要条件であって、十分条件ではない。それさえやっていれば大丈夫、というものではないのだ。
原爆や核兵器は、人道的に、断固使ってはならない。しかし、戦争というのはもともと、人道的な観点を越えたところで発生するものなのだ。人間が人道的な道徳律を常に守れるようなものであれば、そもそも戦争など発生し得ない。人道主義や道徳観に基づいた核兵器の非難は、それを越えた状況ではまったく通用しない。単なるお題目と化す。

だからこそ、核兵器を語る時には、人道主義以外の方法によって使用を封じる方策が必要となる。歴史教育というのは、そのような必要性のために行うものだろう。
原爆被害者の関係者が謝罪を求め、仮にもしオバマ大統領が謝罪したとしたら、被害者および関係者の「感情」は満たされるだろう。しかし、厳しいことを言うようだが、感情が満たされる代償として失われるものを、本当に冷静に理解しているのだろうか。もし原爆被害者が、己の「感情」のためだけに謝罪を要求し、それによって引き起こされる更なる惨禍など知ったこっちゃない、という態度であるのであれば、それは真摯に恒久の平和を希求する態度とは言えない。歴史教育がしっかり行われていれば、「感情」と「理性による判断」の間にきっちり線を引くことの重要性が、理解されているはずだ。



誰もが納得できる落としどころなど無い。

なぜ数学を勉強しなければならないの

「なぜ勉強しなければならないの?」という、学生がよく発する質問がある。


僕は勉強が好きなので、勉強する理由など考えたこともないが、学生はそのように思うことが多いようだ。特に学期末の試験期間直前になると、この疑問が湧くことが多いらしい。

正直、僕は学生にこの質問をされるたびに、腹立たしく感じることが多い。それは別に、自分が価値を感じていることを軽んじられたとか、自分の価値観を否定された気がするだとか、そういう理由ではない。僕が勉強が好きなのは、あくまで僕自身の価値観であって、世界の誰もが同じ価値観をもつべきだとは全く思っていない。勉強が好きな人も嫌いな人もいるだろう。そういう人の価値観を否定するつもりは全くない。

僕が腹立たしく感じるのは、入学試験を受けて、学費を払って、大学に所属している立場の学生が、この質問を発するからだ。
例えて言えば、自分が文房具屋さんの店員だったとしよう。そして、ホッチキスを買うお客さんがいたとする。お金を払って、会計を終えてから、そのお客さんに「で、このホッチキスってのは一体何の役に立つんですか?」「私はこのホッチキスを使って、一体何をやればいいんですか?」と聞かれたら、どう答えればいいのだろうか。
自分がもし車販売のディーラーだったら。車を購入した客がいきなり「で、私はこの車でどこに行けばいいんですか?」と訊いてきたら、どうすればいいのか。

つまり、僕が学生に「勉強が一体何の役に立つんですか?」と聞かれて腹が立つのは、「そんなこと知らねぇよ」という気分になるからだ。学生は、学びたいから大学に入ってきているはずだ。そもそも学ぶ意義などというものは人によって異なるし、なぜ学びたいのかという理由はこちらは関知しない。大学教師の仕事はただ、学びたい学生に、その機会と方法論を与えることなのだ。
大学生は、学費という対価を払って、学問を身につけるために大学に入学する。自らそれを希望して入学してきたはずだ。それなのに、自分が金で買った学問の機会を「何の役に立つの?」とは、どういう了見なのだろうか。勉強が役に立たないと思ったら、さっさと退学すればよいのだ。

僕は、勉強が嫌いであれば、義務教育が修了した中学卒業と同時に、さっさと就職して働けばいいと思う。そうすれば学校の勉強なんて一切やらなくて済む。それなのに、わざわざしなくてもいい高校進学、大学進学をしたのであれば、それは本人が望んで学ぶ機会を求めたからだろう。ホッチキスを買おうとしたのは、学生本人のはずだ。

進学の道を自ら断ち切って、中学卒業と同時に就職した人から「勉強が一体何の役に立つの?」と聞かれたら、その質問の意図は納得できるし、尊重できる。そういう立場の人からそう聞かれたら、僕だって正直に「立ちません」と答える。価値観の違う人に、自分の価値観を押し付けるつもりはさらさらない。

しかし、勉強する機会を求めて大学に入ってきた学生が、その質問を発するのは矛盾している。この質問を発する学生からは、もともと自分で機会を求めて入ってきたくせに、それに対応できない能力の不足を、勉強そのものの価値の問題にすり替えて、精神的に逃避する甘ったれた考えが透けて見える。学ぶことの価値を疑わしく思うのであれば、それを振り捨て、さっさと退学して働けばいいものを、そうする度胸もないまま、大学にずるずる在籍したまま文句ばかり言っている。個人的に、「勉強が嫌いな大学生」というのは、「右に左折する」くらいの矛盾した言葉だと思っている。



閑話休題。
最近、ちょっと面白い本を読んだ。


数学が面白くなる 東大のディープな数学
(大竹真一、KADOKAWA出版)

東大数学


最近、類似した本がよく出ている。大学入試や高校入試の面白い問題を集めて、一般の読者にも分かりやすく解説してくれている。
そういう本が、受験参考書ではなく一般書として発行されているあたり、数学を「単に楽しむため」に勉強している層が増えている、ということなのだろう。いいことだと思う。

僕の感覚では、数学が嫌いな人ほど完璧主義者で、「数学の全てを学ばなければならない」と思い込んでいるような気がする。受験時代の呪いがまだ色濃く残っており、数学を「正解を出せなければ、それまでの過程がすべて無価値」と思い込んでいるのではないか。

実際のところ、数学の楽しみは、「答えを当てる」というところにはないと思う。本気で学問をすればすぐに分かることだが、学ぶことというのは、与えられた問題の答えを出すことではない。思考の過程で使う筋道を自ら作り出し、その発想を応用的に使えるまでに昇華させるのが、勉強の醍醐味だろう。正直なところ、僕が数学を勉強するときは、答えの数値が合っているか間違っているかは、わりとどうでもいい。その答えを導くための考え方のほうに興味がある。個人的には、自分の考え方が模範解答通りのときは、かえってがっかりする。

この本は、一応、模範解答を提示してはいるが、そこにはそれほど重点は置かれていない。高校数学の範囲から逸脱した解法さえ平気で載せている。むしろ重視しているのは、過去の東大の問題から、「東大はこの問題で学生に何を求めているのか」を深く掘り下げることだ。 

僕もこのBlogでたまに東大や京大の問題をとり上げることがあるが、それは別に東大、京大という名前の威を借りるためではない。単純に、東大や京大の入試問題には良問が多いのだ。世間からの注目度も高く、大学としても優秀な学生を見分ける必要性が段違いに高い。それだけ時間と人手をかけて問題をつくっているだろうし、よく練られている。

この本のはじめのほうに、まぁ、受験生向けの内容ではあろうが、「なぜ数学を学ぶ必要があるのか」についての記述がある。その内容がなかなか面白い。

昨今、理系離れがよく言われます。数学を何故勉強するのか、しなければならないのか、という若者たちへの返答として、世間には見当はずれなものがあまりにも多く、例えば

・世の中に数学は役に立っているから、数学を勉強しなければならない
・科学技術で立つ日本だから、その基礎となる数学ができることが必要である
・数学を学んだ人のほうが収入はよくなり、君の人生で得するよ

というようなものまであります。
数学が役に立つから勉強しろ、といのは、おそらく最も若者を見ていない教育でしょうね。


数学が社会の役に立つことぐらい、若者は誰でも分かっている


のです。わかった上で、何故(私が)数学を勉強するの?と聞いているのです。
蛍光灯も電子レンジも、新幹線も航空機も、コンピュータソフトも株式市場も、数学抜きでは全く成立しません。しかし、「数学が役に立つから」という理由では「数学は役に立つことは分かってるけど、それらに関わる人が勉強すればいいじゃない。私には関係ないもん」という反論に、論理的に答えることはできません。

数学に限ったことではありません。音楽や美術、生物学、それぞれ自分の気に入ったものを自分の尺度に合わせて懸命に勉強する、これはある意味で非常に個人的な行いだと思います。しかし、そのような個人的な行いなのですが、例えば、数学を勉強すれば、


数学的体験を通して、数学の歴史を追体験することになる


のです。数学は長い歴史をもった、人類の文化の一つだと、私は思っています。
高校レベルの数学でも、ほんの少し前には、最先端の数学であったわけですから。そうした歴史を背負った文化である数学を若い世代の諸君が学ぶことができることは、本人が意識するかどうかは別にして、


身震いしそうなぐらい、「すごいこと」なんです


よね。文化なんですから、もちろん強制し、強制されるものではありません。しかし、人類はこれまで次の世代に脈々と文化を伝えてきました。この大きな人類の歩みの中で、少しでも、人類文化の素敵さを次世代に伝えられたらと思います。

例えば、音楽が好きな人はいっぱいいますよね。絵が好きな人もいっぱいいます。クラシックの音楽をものすごく聞いて、いろんなころを知っている、絵を見てすごくいろいろ思っている、ようなその人は、「じゃあ絵を見て何の役に立つの」って言われたら、「音楽を聴いて何か得するの」って言われたら、どう答えるのでしょうか?
我々が生まれて言語を学び、音楽を奏でるあるいは鑑賞し、スポーツを楽しみあるいは観戦し、美術を創作しあるいは鑑賞する、こうしたことと同じように、数学を楽しみあるいは数学を鑑賞する、「人間になる」とはこういうことだと思います。それらの総体が文化ですね。もちろん、すべてをすべての人が強制されるものではありません。数学に向いていないというなら、別の分野でいいのです。楽しむことです。でも楽しめるかどうかは、しばらくはやってみないとわかりうものではありません。そうした観点からも、


数学は文化だから、一度はやってみる


のがいいのです。それにしても、数学を鑑賞する人が少ないですねぇ。


なかなか面白い考え方だと思う。この本の著者は予備校の講師だが、受験生に数学を教えることを飯の種にしている人とは思えないくらい、高い所から数学を俯瞰している。

僕は数学の先生に会う機会があるたびに、「もし生徒から『なんで数学を勉強しなければならないの』と訊かれたら、どう答えますか」と訊いている。おおむね、本職の中学、高校の先生ほど、きちんとした答えを持っている人は少ない。おそらく、「受験のため」「進学のため」という便利な方便があるため、根源的な解答をもつ必要性が薄いのだろう。

しかし、「受験のために勉強する」という狭いものの考え方では、受験が終わってしまえば勉強する理由がなくなる。それに比べて、「数学はひとつの文化だから、それを味わないのはもったいない」という考え方は、数学だけでなく、学校で学ぶすべての文化に共通したものだろう。

高校を卒業してしばらく経つと分かるが、高校までで習った知識というのは、「その分野を学ぶ機会は、高校時代が人生で唯一、最初で最後だった」という分野が少なくない。物体の落下運動の法則も、夜空に見える星座も、三角形の形状を決定する関数も、平安時代に書かれた文学も、すべて高校までに習った「知識の貯金」で、その後の人生を生きていく人がほとんどだろう。

そして、その貯金の価値を自覚していない人がほとんどなのだと思う。学校教育がきちんと制度化していない発展途上国では、いまだに病気の発生を「神の怒り」だと思っている地域もあるだろう。違う言語を話す人を「よそ者」として排除し、意思の疎通に嫌悪感を示す人もいるだろう。20世紀になってから革命で国が成立したため、その国で生まれた文学が皆無な国だってあるだろう。

その国の文化レベルは、初等教育・中等教育の教科書を見ればすぐに分かる。学校という学ぶ場所は、そのような文化的な礎を作り、後世に残し、発展させていくための最も基本となるものなのだ。日本は、その環境に恵まれている国のひとつだ。その国に生まれて、学校で学ぶことの意義を否定するのは、例えて言えば、金持ちの家に生まれたバカ息子が、「財布が重くなる」というだけの理由で紙幣を嫌うようなものだと思う。価値に囲まれ過ぎているために、自分のもっているものの本当の価値が、分からなくなっているのだろう。

学生は、発展途上国の恵まれない子供たちに慈善活動をするのが大好きだ。簡単にいいことをした気分になれるし、活動を通して学生同士の団結めいた雰囲気を味わうこともできる。
しかし、本当に発展途上国の恵まれない子供たちのことを理解しているのなら、まず自分が置かれている教育的環境に感謝し、まず己が学ぶ姿勢が生まれてしかるべきだろう。個人的に、ろくに勉強もせずに慈善活動に打ち込んでいる学生から、生産的で継続性のあるものなど何も生まれないと思う。

数学を「入試のために勉強するもの」と思うのであればそれで良い。そう思うのであれば、入試によって大学進学の道が自力で開ける国がどれだけあるのか、よく知った上でそう思うべきだろう。そのことを知っていれば、学校で数学を勉強できることがどれだけのことなのか、考えれば分かるだろう。それはすなわち、人類が積み重ねて来た叡智、すなわち「文化」に触れる機会に他ならない。その知見に自ら達し得ない者は、高校、大学という場で学ぶ資格がない。
資格がないというよりも、むしろそういう人は、自ら学ぶ機会を捨てて平気な人なのだろう。



そして東大の入試はそれが分かってるかどうかを問うてくるぞ。

東京大学入試問題・国語1(評論)

今年の東京大学入学試験・国語の第一問(評論)に、内田樹の「日本の反知性主義」の一部が使用された。
これを受けて、「東大は『知的』な人間を入試で排除するのか」「『反知性主義』の何が悪いんだ」といった批判が沸き起こっている。

僕もそれらの批判のすべてを見たわけではないが、どうも批判のほとんどが的外れのような気がする。
僕は個人的に内田樹の著作は眉唾ものが多いと見ており、正直なところ話半分に読む程度がいちばん良い距離感だろうと思ってはいるが、この東大入試に使用された文章を読む限り、それほど支離滅裂なことは言っていない。むしろ、東京大学がこの文章を評論文の読解問題に使用した意図がよく分かる。

あまり重視されていないことだが、大学入試の国語の問題を解く際には、重要なルールがある。
どの大学の、どの問題にも、冒頭には異口同音に必ずこう書いてある。

次の文章を読んで、後の設問に答えよ


つまり、文章に書いていない知識を勝手に動員して、文章の「枠」の外から解答してはいけない、というルールだ。この問題を解く際にも、そもそもホーフスタッターが提唱している「反知性主義」とはどういうものなのか、バルトが「無知」についてどう言っていたのか、著者の内田樹がどういう信条・主張の持ち主なのか、そういう知識は一切必要ない。むしろ、そういう「文章外の知識」を使って、問題を解いてはいけない。

一般的によく誤解されているが、やたらと知識を頭に詰め込んでいる「歩く辞典」のような人が、東京大学の入試に合格するわけではない。大学全入の時代となり、大学で学んだ経験をもつ人が多くなってきたこのご時世に、そんな誤解がいまだに流布しているのもいかがなものかと思うが、テレビのクイズ番組などで「東大芸人」「京大卒タレント」などと喧伝する時には、おおむね「いろんな知識をよく知っている」というイメージで「学力観」をでっちあげていることが多いようだ。

しかし実際のところ、東大入試に合格するためには、漢検一級で出題されるような難解な漢字を知っている必要はないし、アフリカの小国で使われている貨幣通貨の名前を覚えている必要もない。必要なのはただひとつ、「高校までの範囲で習う知識をきちんと身につけ、その知識をもとに思考する能力をもつこと」だけだ。東大に限らず、国立大学であれば、入試合格に必要なのは高校の教科書に載っている情報だけといってよい。

国語の入試というのは、与えられた文章がいわばひとつの「土俵」であり、その土俵の外から考察を加えるのは御法度なのだ。だから、今回の出題箇所を批判するときに「そもそも反知性主義というのはそういう信条ではない」「内田樹は反知性主義を間違って理解している」という批判は、ことごとく筋違いだ。
仮に著者の内田樹が反知性主義について間違った解釈のうえで文章を書いていたとしても、入試の問題を解く際には、著者の言っていることをそのまま解釈して問題を解かなければならない。

だから今回の入試問題を解く際には、「俺、『反知性主義』だったら知ってるぜ、もともとの意味はそういうことじゃなくて〜」のような態度が、真っ先に不合格になる。おそらく、多少なりとも「反知性主義」という言葉を「知っている」人であれば、左翼系の政治主張に絡めて内田樹の論旨を批判するだろう。そして、そう感じた時点で、「入試の基本的なルール」から逸脱している。
ちなみに東京大学の現代文は、そうした「知ってるぜ知ってるぜ」のような人間をふるい落とすために、用語の意味が一般的な定義や理解とは異なる使い方をされている文章をよく使用する。

もともと反知性主義というのは、主に独裁国家において愚民政策として採られた政策の通称だ。例えば、伝統的に中国は、体制維持のためにこの愚民政策=反知性主義を好み、「国民を賢くさせてはならない」という国策を採り続けている。
明代には、国民から「思考する力」「判断する力」を奪い、優秀な頭脳をことごとく「暗記マシーン」にするために、膨大な四書五経を丸暗記する「科挙」を課した。毛沢東は本人が読書好きだったにも関わらず、「本を読むほど馬鹿になる」と言い放ち、国民に読書を禁止している。現在でも中国はインターネットに制限をかけ、共産党に都合の悪い情報を遮断している。

のちに西洋社会では、この反知性主義という言葉がひとり歩きし、キリスト教に基づく「教養」と「道徳律」の概念混同から、「教育を受けてないからといって人間として価値が低いのか」という文脈に使われるようになった。無教育上等、むしろ本来の人間の平等の前では、教育の多寡など瑣末な要素に過ぎない。そう主張し、「教育的特権階級(=エリート)」から政治権力を奪還するための理論的背景になった。その考えが適用される場面は、軍隊による反シビリアンコントロール(文民統制)から共産主義革命まで、幅広い。現在行われているアメリカ大統領選挙で、共和党候補者を争っているドナルド・トランプの言説も、この反知性主義を下敷きにしている。

そして、そのような余計な知識をつけている人ほど、今回の東大入試は解けない。文章中で引用されているホーフスタッターも、著者の内田樹も、「反知性主義」という言葉をそのような辞書的な意味では使っていない。
そもそもこの出題文は、反知性主義について書いたものではない。「知性とはどのようなものか」について、著者の独自の見解を述べたものだ。だから、反知性主義に関するありとあらゆる「前提知識」が、著者の内田樹の論旨に噛み合ない、ということを以て「内田樹の言っていることは論旨が破綻している」ということを根拠に、今回の東大入試の問題を批判するのであれば、そうした批判はすべて的外れだ。

大学で教育をきちんと受けた人がこの文書を読めば、話の筋は科学論だとすぐに分かる。
世の中の真理を探求する方法として、人間は「宗教」「哲学」「科学」という三つの方法を編み出した。そのうち、現在の大学教育で採用されている方法論は(一部の大学、一部の学部を除き)科学である。「人文科学」「社会科学」というよく分からない区分用語は、扱う対象の分野に必要な特異性と、科学という一般的な方法論の、齟齬を埋めるために用いられている便宜上の呼称だ。

「信じること」を方法論とする宗教と、「疑うこと」を方法論とする哲学・科学の違いは、一般的によく知られているだろう。ところが、「哲学」と「科学」の違いについて明確に定義できる人は少ない。
端的に言うと、「哲学」は個人的な職人芸でも構わないが、「科学」は継続性がなくてはならない。科学においては、自分ひとりが世の中の真理に到達できたところで、それを他者と共有し、追体験できなくては意味がない。いくら「STAP細胞を発見した」と主張しても、他者にも同様にその発見が確認できなければ、科学的な事実とは認められない。科学が、真実を記述する際の言語として、誰にでも追体験と確認ができる「数値」を使用するのは、そのためだ。
そして科学は、そのように「いつでも、どこでも、誰にでも」真実であると確認できる事柄しか扱わない。

東大の出題文で内田樹が言っている「知性」というのは、この科学論の考えに沿ったものだろう。単に個人ひとりとしていくら頭が良くても、それが人類が蓄積してきた知識の総体に対してなんら寄与しないものであれば、知性とは呼ばない。既存の知識をやたらに記憶しているだけの「歩く辞書」は、人類が積み重ねている知の総体にとっては何のプラスにもならないのだ。過去から継承されてきた知の総体をきちんと継承するのは確かに必要だが、それは継承自体が目的なのではなく、その先のプロセスに対して必要な基礎だからだ。そうした知識の総体にわずかなりともプラスを加え、人類の知を前進させることが、「知性」の正しいあり方である。

少なくとも、東京大学は受験者にそのような「知性」を求めている。設問(四)は、そういった東京大学の要求を問題文から正しく読み取れなければ答えられない。
東大の態度は明確だ。大学で行われる知的活動がすべて「科学」の方法論に根ざしたものである以上、「科学」の定義における「知」のあり方を正しく認識していない者は、入学を許可できない。東大は、自己の中だけで完結し、他者と互換できないひとりよがりな「知性」など、要らないのだ。この程度の文章からその要求が読み取れないようであれば、科学を研究する態度としては失格だろう。

毎年、東京大学の国語入試問題の隠しテーマとして、「自己と他者」の対比、というものがある。これは国語教育の業界では常識とされている東大入試の傾向で、東大はこのテーマに根ざした出題をもう30年以上続けている。
今回の評論文も、「知性とは自分だけの中に存在するのではなく、それを一般性の高い方法で開示し、他者と共有し前進させることができなくてはならない」という、知識に関する「自己」と「他者」の距離感に話を落とし込んでいる。その点、東京大学が求めている「学力観」と、「知性のあり方」に対する姿勢が、とても分かりやすい問題と言えるだろう。その分、入試問題としては難易度が低くなってしまったのは残念だが、東大が学生の入学を許可する条件を問う問題としては良問の部類に属するだろう。


たとえ百科事典の内容を全部暗記したとしても、東京大学の入試には受からない。人間が協力してつくりあげてきた「知識の総体」を前進させるためには、既存の知識に新しいなにかを足し加える必要があり、言い替えればそれは「新しい知を創造する」ことである。暗記ばかりしている人は、古い知識には強いかもしれないが、自分で何かを新しく考え出すことはできないだろう。
巷ではやたらに情報を覚えている人を「頭のいい人」とみなす傾向があり、勉強といえば「暗記すること」と思っている中高生も多い。東京大学の入試問題は、そういう思い込みに対して「大学の学問ってのは、そういうことじゃないぞ」という、冷徹な姿勢を突きつけている。



ほとんが「反知性主義」という名称に脊髄反射しただけの批判だったけどね。
ペンギン命

takutsubu

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