たくろふのつぶやき

お鍋には熱燗をつけてくれたまへ。

カテゴリ: Education

G7 伊勢志摩サミットと前後して、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問することが話題になっている。
もし現職の大統領が原爆被害地を訪れれば、史上初のこととなる。

広島では原爆被害者の関係者が、謝罪の言葉を求める動きがある。原爆被害を受けた国民感情として、謝罪の言葉を要求する気持ちは分からないではない。折しも沖縄で元アメリカ海兵隊員の男による20歳の女性の死体遺棄事件が発生し、オバマ大統領は立場を危うくしている。難しいタイミングで厄介な事件が起きた、という実感だろう。多くの日本人が、アメリカとオバマ大統領について、難しい距離感を感じているようだ。

しかし、今回のサミットでその謝罪要求をすることが、本当によいことなのかどうか、多くの日本人は判断ができていないような気がする。
ちょっと考えれば、アメリカ大統領という公職にある者が、公式に謝罪をすることなどほとんど不可能だ、ということくらい、すぐ分かるはずだ。オバマは個人的には、人道的観点に基づいて謝罪をしたい気持ちがあるのかもしれないが、それを公人として謝罪するわけにはいくまい。公に謝罪をしてしまえば、それは個人としての見解に留めることはできない。賠償請求、国家間のパワーバランス、今後の交渉事など、さまざまな面に影響を及ぼす。
マキャベリは「個人としての人格と、国家としての人格は、別問題だ」ということを歴史上初めてはっきり言った人物だが、このマキャベリの言わんとしていることを理解していない人が多すぎる。

それとは別に僕は、今の日本人が、原爆に対してその背景と要因をきちんと理解しているとは思えない。それはひとつには「被害者感情ありきの原爆史教育」に原因があるだろうし、ひとつには日本の歴史教育のレベルがそこまで高くないことが原因でもあるだろう。

原爆教育というのは、悲惨な写真や映像を見せて「二度とこんなことを繰り返さない」と情緒に訴えることだけではあるまい。アメリカがなぜ原爆を使用せざるを得なかったのか。原爆使用に至るにはどのような背景があったのか。それをしっかりと把握することが、今後の予防につながる。原因をしっかり理解していない者が、再発を防げるわけがない。

たとえば、広島の原爆が8月6日だったことを知っている日本人は多いが、なぜ8月6日であるのか、理由を知っている人は少ない。
もし当時、世界情勢を正しく認識している者が日本政府の中枢にいたならば、原爆は予知できたはずだ。

広島原爆が8月6日である理由は、簡単だ。

ナチスドイツの無条件降伏が、5月7日だったから。


この理由を理解するには、まず第二次世界大戦時にいったい何が起きていたのかを理解する必要がある。
まず、そもそも日本はどこの国に負けたのか。

ほとんどの日本人が、先の大戦は「アメリカに負けた」と思っている。中国やソ連に負けた、と思っている日本人はほとんどいないだろう。
しかし、連合国はアメリカだけでなく、中国、ソ連、イギリス、フランスなど、様々な国を含んでいる。その中で、日本人がアメリカだけを「敗戦の相手」だと思っているのは、なぜなのか。

原爆こそ、その理由だろう。広島と長崎に原爆を落とされ、日本は無条件降伏した。つまり裏を返せば、アメリカが原爆を落としたのは、「日本人に『アメリカに負けた』と思わせるため」だった。世界史の教科書的に言えば、「戦後の日本の占領政策で、他国よりも優位な立場に就くため」だ。

第二次世界大戦の連合国は決して一枚岩ではなく、お互いに戦後の支配圏拡大を目論むための駆け引きの場だった。普通に考えれば、1917年のロシア革命以来、共産主義国と資本主義国が手を結ぶことなど、あり得ない。それがあり得たのは、第一次世界大戦後のベルサイユ体制が破綻し、ドイツやイタリアなどで全体主義国が台頭し、共産主義国よりも脅威となったからだ。伝統的にヨーロッパの大戦には不干渉主義を貫いてきたアメリカが第二次世界大戦に参戦したのも、戦後の影響力を考えてのことに過ぎない。決してアメリカは人道主義的な理由から参戦したのではない。

アメリカは日本を攻撃するにあたって、兵士の負担と犠牲をなるべく少なくしたい、と考えていた。アメリカはいつでも、戦争で多大な死傷者を出した大統領は、歴史の後々まで長きにわたって非難される。当時の大統領ルーズヴェルトは異例の4選を果たした長期政権であり、勇退後に自分の名を汚すような犠牲は避けたかっただろう。

そこでルーズヴェルト大統領は、日本を攻撃するときにソ連の力を利用することを考えた。日本はアメリカが単独で攻撃するのではなく、南の硫黄島・沖縄からアメリカ軍が、北の樺太からソ連軍が、挟み撃ちにする。そのプランに基づいて、ルーズヴェルトはソ連に対日参戦を要求する。
ソ連のスターリンは、それを承諾するかわりに、見返りとして千島・樺太の領土を要求した。ルーズヴェルトは、その程度ならお安い御用、とばかりにその要求を呑む。

ソ連の対日参戦は、ヨーロッパでの戦争の終結、つまりドイツの降伏から数えて3ヶ月後、と決まった。この密約を「ヤルタ密約」という。この密約は、本当に「密約」で、ルーズヴェルト、スターリン、チャーチルの3人しかほぼ知らなかったと言われている。

ところが戦争途中でルーズヴェルトが没し、後任の大統領にトルーマンが就いてから、状況が変わってくる。トルーマンはヤルタ密約のことを知らされておらず、大統領就任後に密約の内容を知らされて仰天した。トルーマンはすでに日本など敵ではなく、ソ連を始めとする共産主義国こそが戦後の相手になる、と睨んでいた。日本は極東の安全保障のためには最も重要な拠点となる。そこに、わずかなりともソ連の影響力を引き込むとは言語道断。
ルーズヴェルトにとっては、ソ連への千島・樺太の譲渡など「お安いもの」であったが、それはトルーマンにとってはちっともお安いものではなかった。

焦るトルーマンのもとに、朗報が入る。アメリカ国内で秘密に進んでいた「マンハッタン計画」から、原爆実験成功の知らせが入った。原爆が使用可能になれば、ソ連軍の力を借りなくとも、アメリカ単独で日本を無条件降伏に追い込める。

トルーマンはさっそく手を打った。対日降伏文書の「ポツダム宣言」から、ソ連を除外する工作をした。ポツダム宣言は、ソ連との事前連絡なしで文書が作成されている。宣言の署名欄には、アメリカ、イギリス、中国(中華民国)のサインだけがあり、ソ連のサインはない。

ソ連のスターリンは、それを知って激怒した。アメリカは明らかに、戦後の日本における影響力からソ連を排除しようとしている。
スターリンはもともと、人道的な理由や国の防衛のために第二次世界大戦に参戦したのではない。旧ロシア帝国の領土復活がスターリンの目的だった。ソ連は、日露戦争、第一次世界大戦で失った旧ロシア帝国の領土を奪うために、第二次世界大戦を利用したに過ぎない。そもそもそれが目的だったのだから、日本から千島・樺太を奪えなくなるポツダム宣言は、断固容認せざる内容だった。

ヤルタ密約によると、ソ連の対日参戦はドイツ降伏の3ヶ月後。スターリンはすでにその日程で対日参戦の準備を進めていた。そしてドイツが5月7日に降伏。そこからちょうど3ヶ月後の8月7日には、ソ連が日本に参戦してしまう。アメリカとしては、なんとしてもその前日までに阻止する必要があった。

つまりアメリカが8月6日に原爆を落としたのは、ソ連軍の介入を妨げ、アメリカが単独で日本を降伏させるための、ギリギリのタイムリミットだったのだ。そして、その日程の決定に深く関わっていたのは、日本ではなくソ連だった。広島の原爆投下は、当事国の日本などまったく蚊帳の外で、戦後の米ソの冷戦構造の前段階こそが本当の背景だった。

結局、ソ連の対日参戦は8月9日と決まる。それを知ったアメリカは、その日に長崎にもう一発原爆を落とした。あくまでもソ連の参戦を封じて、日本を速やかに降伏させるための駄目押しだった。長崎の原爆投下でも、アメリカの目線の先にあったのは、ソ連であって日本ではない。

結局、日本はアメリカの圧力に屈する形で、無条件降伏をした。多くの日本人は、戦後の占領時の印象を、マッカーサーに代表される進駐軍を思い浮かべるだろうが、それは「アメリカ単独での日本占領」というトルーマンの目論みが成功したからだ。
もし原爆が投下されず、ソ連が対日参戦し、日本がアメリカとソ連の勢力争いの場になったとしたら、どうなっていただろうか。


おそらく、日本はいまの朝鮮半島のようになっていただろう。


日本に対する影響力を封じられ、極東地域への拡大策の変換を迫られたスターリンは、その力を朝鮮半島に向けた。朝鮮戦争の勃発だ。朝鮮戦争は単に同じ民族間の内戦ではなく、アメリカとソ連に代表される二大陣営の「代理戦争」だった。

日本において原爆を語る時には、いつも被害者として、受けた被害の甚大さを訴える論調が支配的になる。しかし世界の歴史の中で、被害を受ける者の苦痛の訴えが、戦争の惨禍を食い止めた例など無い。広島や長崎を中心とした現在の原爆教育のやり方で、今後の世界から核の脅威を廃絶できると、本当に思っているのだろうか。

被害の悲惨さを語り継ぐことは大切だ。しかし、それは必要条件であって、十分条件ではない。それさえやっていれば大丈夫、というものではないのだ。
原爆や核兵器は、人道的に、断固使ってはならない。しかし、戦争というのはもともと、人道的な観点を越えたところで発生するものなのだ。人間が人道的な道徳律を常に守れるようなものであれば、そもそも戦争など発生し得ない。人道主義や道徳観に基づいた核兵器の非難は、それを越えた状況ではまったく通用しない。単なるお題目と化す。

だからこそ、核兵器を語る時には、人道主義以外の方法によって使用を封じる方策が必要となる。歴史教育というのは、そのような必要性のために行うものだろう。
原爆被害者の関係者が謝罪を求め、仮にもしオバマ大統領が謝罪したとしたら、被害者および関係者の「感情」は満たされるだろう。しかし、厳しいことを言うようだが、感情が満たされる代償として失われるものを、本当に冷静に理解しているのだろうか。もし原爆被害者が、己の「感情」のためだけに謝罪を要求し、それによって引き起こされる更なる惨禍など知ったこっちゃない、という態度であるのであれば、それは真摯に恒久の平和を希求する態度とは言えない。歴史教育がしっかり行われていれば、「感情」と「理性による判断」の間にきっちり線を引くことの重要性が、理解されているはずだ。



誰もが納得できる落としどころなど無い。

「なぜ勉強しなければならないの?」という、学生がよく発する質問がある。


僕は勉強が好きなので、勉強する理由など考えたこともないが、学生はそのように思うことが多いようだ。特に学期末の試験期間直前になると、この疑問が湧くことが多いらしい。

正直、僕は学生にこの質問をされるたびに、腹立たしく感じることが多い。それは別に、自分が価値を感じていることを軽んじられたとか、自分の価値観を否定された気がするだとか、そういう理由ではない。僕が勉強が好きなのは、あくまで僕自身の価値観であって、世界の誰もが同じ価値観をもつべきだとは全く思っていない。勉強が好きな人も嫌いな人もいるだろう。そういう人の価値観を否定するつもりは全くない。

僕が腹立たしく感じるのは、入学試験を受けて、学費を払って、大学に所属している立場の学生が、この質問を発するからだ。
例えて言えば、自分が文房具屋さんの店員だったとしよう。そして、ホッチキスを買うお客さんがいたとする。お金を払って、会計を終えてから、そのお客さんに「で、このホッチキスってのは一体何の役に立つんですか?」「私はこのホッチキスを使って、一体何をやればいいんですか?」と聞かれたら、どう答えればいいのだろうか。
自分がもし車販売のディーラーだったら。車を購入した客がいきなり「で、私はこの車でどこに行けばいいんですか?」と訊いてきたら、どうすればいいのか。

つまり、僕が学生に「勉強が一体何の役に立つんですか?」と聞かれて腹が立つのは、「そんなこと知らねぇよ」という気分になるからだ。学生は、学びたいから大学に入ってきているはずだ。そもそも学ぶ意義などというものは人によって異なるし、なぜ学びたいのかという理由はこちらは関知しない。大学教師の仕事はただ、学びたい学生に、その機会と方法論を与えることなのだ。
大学生は、学費という対価を払って、学問を身につけるために大学に入学する。自らそれを希望して入学してきたはずだ。それなのに、自分が金で買った学問の機会を「何の役に立つの?」とは、どういう了見なのだろうか。勉強が役に立たないと思ったら、さっさと退学すればよいのだ。

僕は、勉強が嫌いであれば、義務教育が修了した中学卒業と同時に、さっさと就職して働けばいいと思う。そうすれば学校の勉強なんて一切やらなくて済む。それなのに、わざわざしなくてもいい高校進学、大学進学をしたのであれば、それは本人が望んで学ぶ機会を求めたからだろう。ホッチキスを買おうとしたのは、学生本人のはずだ。

進学の道を自ら断ち切って、中学卒業と同時に就職した人から「勉強が一体何の役に立つの?」と聞かれたら、その質問の意図は納得できるし、尊重できる。そういう立場の人からそう聞かれたら、僕だって正直に「立ちません」と答える。価値観の違う人に、自分の価値観を押し付けるつもりはさらさらない。

しかし、勉強する機会を求めて大学に入ってきた学生が、その質問を発するのは矛盾している。この質問を発する学生からは、もともと自分で機会を求めて入ってきたくせに、それに対応できない能力の不足を、勉強そのものの価値の問題にすり替えて、精神的に逃避する甘ったれた考えが透けて見える。学ぶことの価値を疑わしく思うのであれば、それを振り捨て、さっさと退学して働けばいいものを、そうする度胸もないまま、大学にずるずる在籍したまま文句ばかり言っている。個人的に、「勉強が嫌いな大学生」というのは、「右に左折する」くらいの矛盾した言葉だと思っている。



閑話休題。
最近、ちょっと面白い本を読んだ。


数学が面白くなる 東大のディープな数学
(大竹真一、KADOKAWA出版)

東大数学


最近、類似した本がよく出ている。大学入試や高校入試の面白い問題を集めて、一般の読者にも分かりやすく解説してくれている。
そういう本が、受験参考書ではなく一般書として発行されているあたり、数学を「単に楽しむため」に勉強している層が増えている、ということなのだろう。いいことだと思う。

僕の感覚では、数学が嫌いな人ほど完璧主義者で、「数学の全てを学ばなければならない」と思い込んでいるような気がする。受験時代の呪いがまだ色濃く残っており、数学を「正解を出せなければ、それまでの過程がすべて無価値」と思い込んでいるのではないか。

実際のところ、数学の楽しみは、「答えを当てる」というところにはないと思う。本気で学問をすればすぐに分かることだが、学ぶことというのは、与えられた問題の答えを出すことではない。思考の過程で使う筋道を自ら作り出し、その発想を応用的に使えるまでに昇華させるのが、勉強の醍醐味だろう。正直なところ、僕が数学を勉強するときは、答えの数値が合っているか間違っているかは、わりとどうでもいい。その答えを導くための考え方のほうに興味がある。個人的には、自分の考え方が模範解答通りのときは、かえってがっかりする。

この本は、一応、模範解答を提示してはいるが、そこにはそれほど重点は置かれていない。高校数学の範囲から逸脱した解法さえ平気で載せている。むしろ重視しているのは、過去の東大の問題から、「東大はこの問題で学生に何を求めているのか」を深く掘り下げることだ。 

僕もこのBlogでたまに東大や京大の問題をとり上げることがあるが、それは別に東大、京大という名前の威を借りるためではない。単純に、東大や京大の入試問題には良問が多いのだ。世間からの注目度も高く、大学としても優秀な学生を見分ける必要性が段違いに高い。それだけ時間と人手をかけて問題をつくっているだろうし、よく練られている。

この本のはじめのほうに、まぁ、受験生向けの内容ではあろうが、「なぜ数学を学ぶ必要があるのか」についての記述がある。その内容がなかなか面白い。

昨今、理系離れがよく言われます。数学を何故勉強するのか、しなければならないのか、という若者たちへの返答として、世間には見当はずれなものがあまりにも多く、例えば

・世の中に数学は役に立っているから、数学を勉強しなければならない
・科学技術で立つ日本だから、その基礎となる数学ができることが必要である
・数学を学んだ人のほうが収入はよくなり、君の人生で得するよ

というようなものまであります。
数学が役に立つから勉強しろ、といのは、おそらく最も若者を見ていない教育でしょうね。


数学が社会の役に立つことぐらい、若者は誰でも分かっている


のです。わかった上で、何故(私が)数学を勉強するの?と聞いているのです。
蛍光灯も電子レンジも、新幹線も航空機も、コンピュータソフトも株式市場も、数学抜きでは全く成立しません。しかし、「数学が役に立つから」という理由では「数学は役に立つことは分かってるけど、それらに関わる人が勉強すればいいじゃない。私には関係ないもん」という反論に、論理的に答えることはできません。

数学に限ったことではありません。音楽や美術、生物学、それぞれ自分の気に入ったものを自分の尺度に合わせて懸命に勉強する、これはある意味で非常に個人的な行いだと思います。しかし、そのような個人的な行いなのですが、例えば、数学を勉強すれば、


数学的体験を通して、数学の歴史を追体験することになる


のです。数学は長い歴史をもった、人類の文化の一つだと、私は思っています。
高校レベルの数学でも、ほんの少し前には、最先端の数学であったわけですから。そうした歴史を背負った文化である数学を若い世代の諸君が学ぶことができることは、本人が意識するかどうかは別にして、


身震いしそうなぐらい、「すごいこと」なんです


よね。文化なんですから、もちろん強制し、強制されるものではありません。しかし、人類はこれまで次の世代に脈々と文化を伝えてきました。この大きな人類の歩みの中で、少しでも、人類文化の素敵さを次世代に伝えられたらと思います。

例えば、音楽が好きな人はいっぱいいますよね。絵が好きな人もいっぱいいます。クラシックの音楽をものすごく聞いて、いろんなころを知っている、絵を見てすごくいろいろ思っている、ようなその人は、「じゃあ絵を見て何の役に立つの」って言われたら、「音楽を聴いて何か得するの」って言われたら、どう答えるのでしょうか?
我々が生まれて言語を学び、音楽を奏でるあるいは鑑賞し、スポーツを楽しみあるいは観戦し、美術を創作しあるいは鑑賞する、こうしたことと同じように、数学を楽しみあるいは数学を鑑賞する、「人間になる」とはこういうことだと思います。それらの総体が文化ですね。もちろん、すべてをすべての人が強制されるものではありません。数学に向いていないというなら、別の分野でいいのです。楽しむことです。でも楽しめるかどうかは、しばらくはやってみないとわかりうものではありません。そうした観点からも、


数学は文化だから、一度はやってみる


のがいいのです。それにしても、数学を鑑賞する人が少ないですねぇ。


なかなか面白い考え方だと思う。この本の著者は予備校の講師だが、受験生に数学を教えることを飯の種にしている人とは思えないくらい、高い所から数学を俯瞰している。

僕は数学の先生に会う機会があるたびに、「もし生徒から『なんで数学を勉強しなければならないの』と訊かれたら、どう答えますか」と訊いている。おおむね、本職の中学、高校の先生ほど、きちんとした答えを持っている人は少ない。おそらく、「受験のため」「進学のため」という便利な方便があるため、根源的な解答をもつ必要性が薄いのだろう。

しかし、「受験のために勉強する」という狭いものの考え方では、受験が終わってしまえば勉強する理由がなくなる。それに比べて、「数学はひとつの文化だから、それを味わないのはもったいない」という考え方は、数学だけでなく、学校で学ぶすべての文化に共通したものだろう。

高校を卒業してしばらく経つと分かるが、高校までで習った知識というのは、「その分野を学ぶ機会は、高校時代が人生で唯一、最初で最後だった」という分野が少なくない。物体の落下運動の法則も、夜空に見える星座も、三角形の形状を決定する関数も、平安時代に書かれた文学も、すべて高校までに習った「知識の貯金」で、その後の人生を生きていく人がほとんどだろう。

そして、その貯金の価値を自覚していない人がほとんどなのだと思う。学校教育がきちんと制度化していない発展途上国では、いまだに病気の発生を「神の怒り」だと思っている地域もあるだろう。違う言語を話す人を「よそ者」として排除し、意思の疎通に嫌悪感を示す人もいるだろう。20世紀になってから革命で国が成立したため、その国で生まれた文学が皆無な国だってあるだろう。

その国の文化レベルは、初等教育・中等教育の教科書を見ればすぐに分かる。学校という学ぶ場所は、そのような文化的な礎を作り、後世に残し、発展させていくための最も基本となるものなのだ。日本は、その環境に恵まれている国のひとつだ。その国に生まれて、学校で学ぶことの意義を否定するのは、例えて言えば、金持ちの家に生まれたバカ息子が、「財布が重くなる」というだけの理由で紙幣を嫌うようなものだと思う。価値に囲まれ過ぎているために、自分のもっているものの本当の価値が、分からなくなっているのだろう。

学生は、発展途上国の恵まれない子供たちに慈善活動をするのが大好きだ。簡単にいいことをした気分になれるし、活動を通して学生同士の団結めいた雰囲気を味わうこともできる。
しかし、本当に発展途上国の恵まれない子供たちのことを理解しているのなら、まず自分が置かれている教育的環境に感謝し、まず己が学ぶ姿勢が生まれてしかるべきだろう。個人的に、ろくに勉強もせずに慈善活動に打ち込んでいる学生から、生産的で継続性のあるものなど何も生まれないと思う。

数学を「入試のために勉強するもの」と思うのであればそれで良い。そう思うのであれば、入試によって大学進学の道が自力で開ける国がどれだけあるのか、よく知った上でそう思うべきだろう。そのことを知っていれば、学校で数学を勉強できることがどれだけのことなのか、考えれば分かるだろう。それはすなわち、人類が積み重ねて来た叡智、すなわち「文化」に触れる機会に他ならない。その知見に自ら達し得ない者は、高校、大学という場で学ぶ資格がない。
資格がないというよりも、むしろそういう人は、自ら学ぶ機会を捨てて平気な人なのだろう。



そして東大の入試はそれが分かってるかどうかを問うてくるぞ。

今年の東京大学入学試験・国語の第一問(評論)に、内田樹の「日本の反知性主義」の一部が使用された。
これを受けて、「東大は『知的』な人間を入試で排除するのか」「『反知性主義』の何が悪いんだ」といった批判が沸き起こっている。

僕もそれらの批判のすべてを見たわけではないが、どうも批判のほとんどが的外れのような気がする。
僕は個人的に内田樹の著作は眉唾ものが多いと見ており、正直なところ話半分に読む程度がいちばん良い距離感だろうと思ってはいるが、この東大入試に使用された文章を読む限り、それほど支離滅裂なことは言っていない。むしろ、東京大学がこの文章を評論文の読解問題に使用した意図がよく分かる。

あまり重視されていないことだが、大学入試の国語の問題を解く際には、重要なルールがある。
どの大学の、どの問題にも、冒頭には異口同音に必ずこう書いてある。

次の文章を読んで、後の設問に答えよ


つまり、文章に書いていない知識を勝手に動員して、文章の「枠」の外から解答してはいけない、というルールだ。この問題を解く際にも、そもそもホーフスタッターが提唱している「反知性主義」とはどういうものなのか、バルトが「無知」についてどう言っていたのか、著者の内田樹がどういう信条・主張の持ち主なのか、そういう知識は一切必要ない。むしろ、そういう「文章外の知識」を使って、問題を解いてはいけない。

一般的によく誤解されているが、やたらと知識を頭に詰め込んでいる「歩く辞典」のような人が、東京大学の入試に合格するわけではない。大学全入の時代となり、大学で学んだ経験をもつ人が多くなってきたこのご時世に、そんな誤解がいまだに流布しているのもいかがなものかと思うが、テレビのクイズ番組などで「東大芸人」「京大卒タレント」などと喧伝する時には、おおむね「いろんな知識をよく知っている」というイメージで「学力観」をでっちあげていることが多いようだ。

しかし実際のところ、東大入試に合格するためには、漢検一級で出題されるような難解な漢字を知っている必要はないし、アフリカの小国で使われている貨幣通貨の名前を覚えている必要もない。必要なのはただひとつ、「高校までの範囲で習う知識をきちんと身につけ、その知識をもとに思考する能力をもつこと」だけだ。東大に限らず、国立大学であれば、入試合格に必要なのは高校の教科書に載っている情報だけといってよい。

国語の入試というのは、与えられた文章がいわばひとつの「土俵」であり、その土俵の外から考察を加えるのは御法度なのだ。だから、今回の出題箇所を批判するときに「そもそも反知性主義というのはそういう信条ではない」「内田樹は反知性主義を間違って理解している」という批判は、ことごとく筋違いだ。
仮に著者の内田樹が反知性主義について間違った解釈のうえで文章を書いていたとしても、入試の問題を解く際には、著者の言っていることをそのまま解釈して問題を解かなければならない。

だから今回の入試問題を解く際には、「俺、『反知性主義』だったら知ってるぜ、もともとの意味はそういうことじゃなくて〜」のような態度が、真っ先に不合格になる。おそらく、多少なりとも「反知性主義」という言葉を「知っている」人であれば、左翼系の政治主張に絡めて内田樹の論旨を批判するだろう。そして、そう感じた時点で、「入試の基本的なルール」から逸脱している。
ちなみに東京大学の現代文は、そうした「知ってるぜ知ってるぜ」のような人間をふるい落とすために、用語の意味が一般的な定義や理解とは異なる使い方をされている文章をよく使用する。

もともと反知性主義というのは、主に独裁国家において愚民政策として採られた政策の通称だ。例えば、伝統的に中国は、体制維持のためにこの愚民政策=反知性主義を好み、「国民を賢くさせてはならない」という国策を採り続けている。
明代には、国民から「思考する力」「判断する力」を奪い、優秀な頭脳をことごとく「暗記マシーン」にするために、膨大な四書五経を丸暗記する「科挙」を課した。毛沢東は本人が読書好きだったにも関わらず、「本を読むほど馬鹿になる」と言い放ち、国民に読書を禁止している。現在でも中国はインターネットに制限をかけ、共産党に都合の悪い情報を遮断している。

のちに西洋社会では、この反知性主義という言葉がひとり歩きし、キリスト教に基づく「教養」と「道徳律」の概念混同から、「教育を受けてないからといって人間として価値が低いのか」という文脈に使われるようになった。無教育上等、むしろ本来の人間の平等の前では、教育の多寡など瑣末な要素に過ぎない。そう主張し、「教育的特権階級(=エリート)」から政治権力を奪還するための理論的背景になった。その考えが適用される場面は、軍隊による反シビリアンコントロール(文民統制)から共産主義革命まで、幅広い。現在行われているアメリカ大統領選挙で、共和党候補者を争っているドナルド・トランプの言説も、この反知性主義を下敷きにしている。

そして、そのような余計な知識をつけている人ほど、今回の東大入試は解けない。文章中で引用されているホーフスタッターも、著者の内田樹も、「反知性主義」という言葉をそのような辞書的な意味では使っていない。
そもそもこの出題文は、反知性主義について書いたものではない。「知性とはどのようなものか」について、著者の独自の見解を述べたものだ。だから、反知性主義に関するありとあらゆる「前提知識」が、著者の内田樹の論旨に噛み合ない、ということを以て「内田樹の言っていることは論旨が破綻している」ということを根拠に、今回の東大入試の問題を批判するのであれば、そうした批判はすべて的外れだ。

大学で教育をきちんと受けた人がこの文書を読めば、話の筋は科学論だとすぐに分かる。
世の中の真理を探求する方法として、人間は「宗教」「哲学」「科学」という三つの方法を編み出した。そのうち、現在の大学教育で採用されている方法論は(一部の大学、一部の学部を除き)科学である。「人文科学」「社会科学」というよく分からない区分用語は、扱う対象の分野に必要な特異性と、科学という一般的な方法論の、齟齬を埋めるために用いられている便宜上の呼称だ。

「信じること」を方法論とする宗教と、「疑うこと」を方法論とする哲学・科学の違いは、一般的によく知られているだろう。ところが、「哲学」と「科学」の違いについて明確に定義できる人は少ない。
端的に言うと、「哲学」は個人的な職人芸でも構わないが、「科学」は継続性がなくてはならない。科学においては、自分ひとりが世の中の真理に到達できたところで、それを他者と共有し、追体験できなくては意味がない。いくら「STAP細胞を発見した」と主張しても、他者にも同様にその発見が確認できなければ、科学的な事実とは認められない。科学が、真実を記述する際の言語として、誰にでも追体験と確認ができる「数値」を使用するのは、そのためだ。
そして科学は、そのように「いつでも、どこでも、誰にでも」真実であると確認できる事柄しか扱わない。

東大の出題文で内田樹が言っている「知性」というのは、この科学論の考えに沿ったものだろう。単に個人ひとりとしていくら頭が良くても、それが人類が蓄積してきた知識の総体に対してなんら寄与しないものであれば、知性とは呼ばない。既存の知識をやたらに記憶しているだけの「歩く辞書」は、人類が積み重ねている知の総体にとっては何のプラスにもならないのだ。過去から継承されてきた知の総体をきちんと継承するのは確かに必要だが、それは継承自体が目的なのではなく、その先のプロセスに対して必要な基礎だからだ。そうした知識の総体にわずかなりともプラスを加え、人類の知を前進させることが、「知性」の正しいあり方である。

少なくとも、東京大学は受験者にそのような「知性」を求めている。設問(四)は、そういった東京大学の要求を問題文から正しく読み取れなければ答えられない。
東大の態度は明確だ。大学で行われる知的活動がすべて「科学」の方法論に根ざしたものである以上、「科学」の定義における「知」のあり方を正しく認識していない者は、入学を許可できない。東大は、自己の中だけで完結し、他者と互換できないひとりよがりな「知性」など、要らないのだ。この程度の文章からその要求が読み取れないようであれば、科学を研究する態度としては失格だろう。

毎年、東京大学の国語入試問題の隠しテーマとして、「自己と他者」の対比、というものがある。これは国語教育の業界では常識とされている東大入試の傾向で、東大はこのテーマに根ざした出題をもう30年以上続けている。
今回の評論文も、「知性とは自分だけの中に存在するのではなく、それを一般性の高い方法で開示し、他者と共有し前進させることができなくてはならない」という、知識に関する「自己」と「他者」の距離感に話を落とし込んでいる。その点、東京大学が求めている「学力観」と、「知性のあり方」に対する姿勢が、とても分かりやすい問題と言えるだろう。その分、入試問題としては難易度が低くなってしまったのは残念だが、東大が学生の入学を許可する条件を問う問題としては良問の部類に属するだろう。


たとえ百科事典の内容を全部暗記したとしても、東京大学の入試には受からない。人間が協力してつくりあげてきた「知識の総体」を前進させるためには、既存の知識に新しいなにかを足し加える必要があり、言い替えればそれは「新しい知を創造する」ことである。暗記ばかりしている人は、古い知識には強いかもしれないが、自分で何かを新しく考え出すことはできないだろう。
巷ではやたらに情報を覚えている人を「頭のいい人」とみなす傾向があり、勉強といえば「暗記すること」と思っている中高生も多い。東京大学の入試問題は、そういう思い込みに対して「大学の学問ってのは、そういうことじゃないぞ」という、冷徹な姿勢を突きつけている。



ほとんが「反知性主義」という名称に脊髄反射しただけの批判だったけどね。

せんだい



大学院時代、仙台に住んでいた。


通っていた大学は仙台市の真ん中に聳える青葉山のてっぺんにあったため、雨の日などはバスで通っていた。
大学院生というものは基本的に鬱屈しているもので、それが雨でも降ろうものなら、勉強などする気が途端に失せてしまう。容易に失せる。

仙台駅からバスに乗り、大学行きのバスに乗ると、七夕祭りで有名な青葉通りを進む。広瀬川を渡って青葉山に入ってしまうと、もう大学の敷地のようなものなので、後戻りはできない。
「今日の読書会、出ようかな、さぼろうかな」などと逡巡しながらバスに乗り、青葉通りを4分の3ほど進んだあたりで「えーい、今日はさぼってしまえ」と意を決する。
そういう時、だいたいバスを降りるのが「晩翠草堂前」というバス停だった。

この晩翠草堂という建物、文学者の土井晩翠の晩年の生家跡を、仙台市が一般公開しているものだ。学部生時代に僕が所属していた研究室の先生が土井晩翠の子孫だった縁もあり、大学院をさぼる時には、なにか先生に叱られている気がしたものだ。

土井晩翠は晩年、東北帝国大学(現・東北大学)の講師を勤め、退官後も仙台に居住していた。一度住んだ人なら分かるが、仙台というのは非常に住みやすい。よい街だ。
大学院をさぼった僕は、晩翠草堂で座禅を組むようなことはせず、一番町や国分町で遊び回り、住み良い街を存分に堪能していた。

土井晩翠の残した仕事のうち、最も有名なのが、滝廉太郎作曲「荒城の月」の作詞だろう。
あまり知られていないが、実はこの歌は四番まである。

春高楼の花の宴 巡る盃影さして
千代の松が枝分け出でし 昔の光今いづこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照り沿ひし 昔の光今いづこ

今荒城の夜半の月 変はらぬ光誰がためぞ
垣に残るはただ葛 松に歌ふはただ嵐

天上影は変はらねど 栄枯は移る世の姿
映さむとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月


擬古文で書かれた、格調高い詩だ。世の栄枯盛衰を朗々と吟じ、情景と心情描写の移ろいを高らかに謳いあげて間然とするところが無い。
昔の文学者は、漢学の素養が高かったことが伺える。

この歌詞は、それぞれが四節から成っており、五言絶句の体を成している。
四番までの歌詞は、それぞれが起承転結を成しており、これもまた絶句の体裁だ。

一番の歌詞は、春の歌。のべて日本の歌は春を「起」の題にすることが多い。
二番の歌詞は、秋の歌。春とくれば、次に秋が来ることは常識だ。春という起題を受けた「承」にあたる。
三番の歌詞で、話がいきなり「ところで昨今は」と話が現実に引き戻される。「転」の部分だ。
最後の四番は、それまでの歌を「結」び、普遍的な無常観を謳う。

きわめて文学的、漢詩の要素をふんだんに散りばめた、秀逸な歌と評してよかろう。
日本の文学において、漢詩の基本体裁である「起承転結」が、きわめて大きい影響力を持っていたことを示している。
黒澤明監督の作品の脚本を担当していた脚本家の小国英雄は、映画の筋を考えるときに起承転結を旨としていた。また現在でも、新聞に掲載される四コママンガなどは、この構造が王道とされている。

現在、日本の初等教育でも、作文作法として起承転結の構造を教えることが多い。子供は文章の骨組みを全体的に見通す俯瞰力に欠けるから、それぞれの単文がまったく関連をもたない、脈絡のない作文を書く。文章の「外枠」として起承転結を教えることには、一定の効果があるだろう。


閑話休題。現在、夏休みが近づき、各出版社が「夏の文庫本フェア」のような催しをやっている。読書の夏だ。
僕は毎年、この文庫フェアが好きで、夏に入る前に文庫本をまとめ買いする。今年は角川文庫はブックカバー、集英社文庫はシリコン製の栞をくれる。新潮文庫はなにもくれない。

近年、この夏の文庫本フェアに、「作文を上手に書く方法」のようなハウツー本が必ず入るようになった。さもしいと言えばさもしいが、正直に言って、中高生が文庫本を読む一番の理由は、学校で課される読書感想文の宿題に対処するためなのだろう。自発的な理由でなく本を読むことが苦痛なのは、誰もが経験している実感だ。そういう悩める中高生のために、出版社側もあらかじめ救いの手を差し伸べているつもりなのだろう。商魂たくましい。

僕も一応、そういう「文章作法」の本を読んでみるが、その内容に感心したことは一度もない。実感で言うと、あの手の本を読んで、実際に文章力が上がることは決してないだろう。
その理由は、日本の初等教育における「文章力」というものが、一体何を指しているのか、はっきりしないことだ。

中高生が書く文章というものは、大きく分けて、随筆と論説に分かれる。 随筆というのは、いわゆるエッセイのことで、ものを見たり聞いたりしたときに感じたことをそのまま書く文章のことだ。文科省の指導要領では、厳めしく「生活文」などという言葉で導入してある。夏休みの読書感想文は、この範疇に入る。
一方、論説というのは、読んで字のごとく論によって説を組み立てる、論理的な文章だ。夏休みに自由研究を行うのであれば、その文章は論説の体裁で書かなくてはならない。

ところが、学校の国語の授業では、「このふたつの文章形態は、それぞれ違った書き方をしなくてはならない」ということを、きちんと教えていないのではないか、という気がする。「文章力」という言葉で、このふたつの範疇をごちゃごちゃに混ぜてしまい、そのふたつの範疇を超えた、文章を書く際の「底力」のようなものをイメージして、作文指導をしているような気がする。

随筆というのは、つまるところ「作品」だ。だから随筆を書く時には、読む側を惹き付けるような技術が必要になる。読書感想文とて、作品を読んだ人の内的世界を、他者に開示するためのものだ。
僕は「読書感想文コンクール」のような催しの意図が、まったく分からない。感想に優劣をつけて、どうしようというのだろう。

僕が国語の教師だったら、読書感想文というのは、「生徒はどういう分野に関心をもっているのか」「自分が感じたことを、どれだけ『作品』として書き上げることができるのかな」という程度のことを知る目的でしか使わないだろう。少なくとも、「文章力」を上げるための指導方法としては、効果があるとは思わない。
僕は中学時代にそう思い始め、それ以降は宿題の読書感想文に、電話帳だの地図帳だの料理本だの、ストーリーなどまるでない本ばかりを選んでいた。

感想文だって随筆だから、文章の構成は起承転結で良かろう。話の筋がはっきりして、書きやすいし読みやすい。
しかし、こうした文章の書き方を普遍的に捉え、「なるほど文章というのはこうやって書けばいいのか」と思い込んでしまうと、大学に入ってから地獄を見る。

大学に入って以降に書く文章は、すべて論説と言っていい。大学の先生は、学生に「作品」を書いてほしいわけではないのだ。大学で行っているのは研究なのだから、読書感想文のような書き方でレポートや論文を書かれても困る。大学の先生は、学生の心情的な揺れや、情緒的な内的世界などには興味がない。そんなことを、大学という場で書かれても困るのだ。

昨今、大学では1年生を対象に、必修科目として「スタディ・スキルズ」なる科目を設けているところが多い。大学での「研究」のしかた、文章やレポートの書き方などを教える科目だ。一昔前の世代の人からしてみれば、「そもそも、大学に入ってよいのは、すでにそういう能力を身につけた人だけなんじゃないの」という程度の内容だ。僕の勤務校でも、この科目は不要、と切って捨てる年配の先生もたくさんいた。

僕もこのスタディ・スキルズなる授業を何回か担当したが、試しにレポートを書かせてみると、見事に全員、感想文を書いてくる。「〜と思います」という文言が、非常に多い。
大学というのは基本的に、真実を探るための科学的手法を学ぶための場所であって、感想を言い合ってお互いの親睦をはかる場所ではない。レポートに感想文を書いてくる学生は、情緒豊かな学生ではあるのかもしれないが、学問を志す学生としては失格だ。

だから僕が担当するスタディ・スキルズの授業では、まず「中学校、高校で習った文章の書き方を、すべて忘れるように」という内容から入る。中学校、高校で習う文章作法は、読書感想文をはじめとして、すべて随筆の書き方だ。起承転結など言語道断。学術論文をそんな体裁で書いたら、まず書き直しを命じられると思って間違いない。

論説の基本構成は、「結論・根拠・議論」の三部構成だ。
まず「結論」をバンと書く。添削する教員の側から言うと、延々と事実や調査が列挙してあって、最後にようやく結論が出てくるレポートなど、落第点以外の何物でもない。結論が最初に示してあって、それを念頭に置きながら読み進めないと、事実が意味をもたない。
僕はアメリカの大学院で、論文を書く方法を学ぶ授業を受けた。そのときの先生は、文章を「アガサ・クリスティーの推理小説」と「刑事コロンボのTV作品」に例えていた。謎をたくさん散りばめて、最後の最後にどんでん返しの結末をもってくるクリスティー作品と、最初に犯行と殺人犯が明らかになり、コロンボがその謎をどう解くのか、を主眼とした倒叙構成であるコロンボ作品の違いだ。先生曰く、「学術論文は、すべてコロンボ形式で書け」とのことだった。

「根拠」の節は、レポートのもっとも中核的な部分になる。この部分を埋めるために、調査や実験が必要になる。学生はすぐにこの節を書くためにWikipediaに飛びつくが、根拠の内容には制限がある。「誰が書いたのか明記すること」「出典を明確にすること」だ。情報の信頼度は、ソースを辿って妥当性を検証できるものでなくてはならない。誰が書いたのか分からないWikipediaを根拠に使うということは、自説の信頼性を、誰だか分からない匿名の人に依存することになる。

「議論」の節は、自説から派生する可能性や、自説が間違っている可能性について論じる箇所だ。ここで「正解絶対説」に冒された学生の病巣が明らかになる。
学生は、どうやら「レポートというのは、『正解』を書かなければならない」と思い込んでいる節がある。中学・高校時代の定期テストのような感覚で、レポートを書くのだろう。しかし、大学で行われる学問が真実の探求である以上、一介の学生ごときが真実を見抜くことなど、ほぼ不可能なのだ。学生の書くレポートや論文で提示する結論は、ほぼ間違っていると断じてよい。

そして、間違ってもよいのだ。ここが、高校までの中等教育と、大学以上の高等教育の、大きな差であることが分かっていない。大学で学生が読む論文は、そのほとんどすべてが「仮説」に過ぎない。こう考えると事実がうまく説明できる、という程度問題でしかない。もし学問に「正解」があるのなら、今後の学問はすべて発展の可能性を無くし、意味を失うだろう。

僕の実感では、読書感想文や起承転結という「心情吐露」の技法ばかりを作文の書き方だ、と思い込んでいた学生が、きちんとした論説やレポートを書けるようになるまでには、みっちりした演習を繰り返して2年かかる。大学3年生になって卒論のテーマを決める段階で、この能力が身に付いていない学生は、手遅れと言っていい。

僕は別に、中等教育で読書感想文や随筆を書かせるのが悪いとは言わない。何も書かないよりははるかにましだろう。
しかし、「随筆」と「論説」はまったくの別物であること、目的によって書き方を分けなければならないことは、きちんと教えておくべきだと思うのだ。高校では、論文など書かないし、読まない。
野球を例にすると、「野球を教えてください」と言ってくる子供に実際に教える時には、バッティングと守備を分けて教えるだろう。そのふたつは別の練習が必要な違う資質であり、片方を教えればもう片方も自動的に上達する、というものではない。「随筆」と「論説」の違いも、それと同じことだ。

夏休みの文庫本フェアに出てくるような「作文の書き方入門」のような本を見るたびに、僕はそのふたつをきちんと分けているかどうかをチェックする。だいたい、分けていない。そりゃそうだろう。読者として想定している中高生は、なんとかして宿題の読書感想文を書き上げたいと思っているのだから、いきおい内容はその指南書と化す。大学に入ってから必要な論説の書き方など、知ったこっちゃない。だいたい、高校までの知的生活では、論説の構造や外枠を、きっちり学ぶ必要性も機会もないのだ。また世の中の人の多く、文庫本を手軽に読む一般の人の多くは、大学で課されるような論文を書く機会など無いだろう。

しかし、大学に入ってからのレポートや論文で、「荒城の月」のような朗々とした大河的作品を書かれても困るのだ。そんなことは求めていないし、必要でもない。僕が読んだことがある優れた論文の中でも、文章力そのものは下手な人はたくさんいる。「内容の妥当性」をとことん追求するのが論説であり、「使用する字句の洗練度を上げる」「内容の共感性を高める」ことを目的とする随筆とは、文章を書く目的がそもそも違うのだ。

そのずれが最も顕著になるのが、大学入試の小論文だろう。大学という学術研究機関に入るための選抜試験なのだから、入試の小論文は基本的に論説の作法で書かなくてはならない。しかし、随筆的な文章の書き方しか習っていない高校生は、求められているものを適切に把握できず、途方に暮れる。入試小論文の書き方で、起承転結を薦めている本があるが、滑稽千万だ。

全国読書感想文コンクールで最優秀賞をとった生徒に、プロの作家として大成した人はいないそうだ。随筆は「作品」であり、鑑賞に耐えうる質をもつべき「芸術」に近い。それと、学問に必要な再現性を備えた、無機質で機械的な論説を、同列に扱うほうがどうかしている。その両方を「文章力」という曖昧なカテゴリーでくるみ、あたかも同じ方法論で書ける、と言わんばかりの内容が満載の文章作法本など、何の役にも立たないと思う。語彙が多ければ人の心に残る名文を書けるわけではないように、「文章力」なるものを上げることと、大学以降で必要となる文章作法を学ぶことは、近いように見えて方法論は全く別なのだ。


土井晩翠は東北帝国大学で教えていたくらいだから、論説の構成くらいは身につけていたと思う。しかし、文学者として名を成した晩翠翁の書いた論文を読んだことがある人が、どれほどいるのだろうか。僕が読んだ限り、明治から昭和初期にかけて活躍した文学者は、おおむね論文を書くのが下手だ。筆致が滑り過ぎ、美辞麗句に埋もれて、話の要点が見えない。例外は森鴎外くらいのものだろう。学術論文は名人芸ではないので、誉れ高い文章力など要らない。まず「型」をしっかり身につけて、内容の妥当性を検証する思考能力のほうが必要だ。

日本の文芸は文学を軸として発展してきた。それはそれで誇るべき文化であり、継承していくべき資質ではあるだろう。しかし、それはそれとして、学問とは別に教え込む必要があるものだ。ましてや、次世代を担う子供に接する教師の側に、その境界線をはっきり見定める技量がなければ、到底無理だろう。



雨の日の一番街は出店が多いから買い食いが進むんです。

たまに大学で、異様な光景を目にする。
何かの授業を受けている学生たちが、二人一組になって、構内を歩き回っている。そのうち一人はアイマスクなどで目隠しをし、もう一人が案内役になって先導している。


ブラインド


なんの儀式だ。 


実はこれ、「ブラインドウォーク」という活動で、「ホスピタリティとは何か」を学ぶためのものだ。
大学でこれを行うということは、おそらく教員養成課程の授業だろう。学生指導やカウンセリングなどの手法を学ぶ授業で、「どうすれば生徒を安心させる接し方ができるのか」を実践するために行われる。
また、教員養成以外でも、「人に対する接し方」の基本を教える講習で取り上げられることが多い。お客様に対するホスピタリティを学ぶための訓練として、一般企業の初任者研修でも行われることがある。

眼を塞いで歩くのだから、被験者の行動は、すべて案内役に委ねられる。ルールとして、案内役は一言も言葉を発してはならない。ボディータッチだけで、段差や障害物などの危険を被験者に伝えなければならない。身体接触という非言語コミュニケーションだけで、相手に安心感を与える能力をつけるための活動だ。

被験者に対する共感性が高い人ほど、直面する危機を伝える能力が高いのだそうだ。逆に、作業的・機械的に被験者に触れているだけの人に案内役をされると、身体接触によって伝えられる情報が、どんな危険への警告なのかが分かりにくい。案内役の能力の高さによって、安心して歩ける場合と、不安に感じる場合がある。

実は、僕もこれを行ったことがある。
昨今の大学では、学生指導やカウンセリングの方法を身につけさせるために、教員に研修を行うことがある。僕も大学から派遣されてこのカウンセリング講習を受けた。3泊4日くらいの研修で、軽井沢の人里離れた研修所に監禁されて、朝から晩まで講習を受けた。その中で、このブラインドウォークをやったことがある。

正直に言うと、たいした効果を感じなかった。僕が実際にブラインドウォークの被験者になった時には、パートナーを変えて2, 3回歩いたが、すべて不安に感じた。
その原因は、組んだパートナーの案内役が、すべて講習を受けている受講者であったことだろう。まだその能力が身に付いていない受講者同士が組まされても、下手に決まっている。

だからこのブラインドウォークを効果的に行うためには、「上手な人と下手な人との差」を感じられるように行わなくては、意味がないと思う。要するに、ホスピタリティに優れ、被験者に共感する能力の高い人の、お手本を体感しなくては、凄さが分からない。「なるほど共感性の高い人に案内されると、何も不安なく歩けるんだな」ということを実感しなければ意味がない。

僕が受けたときの講習では、その辺の事情をうっすらと分かっているような感じだった。ブラインドウォーク実施時の目的として、「カウンセリングを受ける学生の、不安感を体験すること」とあったからだ。
本当は、下手な人と上手な人との差を認識して、共感力の腕前の差を知るに越したことはない。しかし実際問題として、受講生全員が「上手な案内役」を体感できるほど、人材を用意することができないのだろう。僕が受講した講習会は、60人ほどの新任の教職員が同時に研修を受けていた。その全員に「上手な案内役」を配するのは、現実的に不可能なのだろう。だから、「カウンセリング能力の違いを知る」ではなく、単に「下手な人にガイドされた時の不安を知る」というレベルに受講内容を止めている。

僕が受講した講習会では、最後にレポートを提出することが義務付けられていた。そのレポートの中で、僕はこのブラインドウォークの実施方法の問題点を指摘しておいた。講習会では、受講者60人がいくつかの少人数グループに分かれて講義を受けるが、時間割が固定されているため、ブラインドウォーク実施の時にも、すべてのグループが一斉に活動を行った。もし、受講の時間割をグループごとに組み替えて、少人数ごとに別々の時間にブラインドウォークを行えば、たとえ「お手本役」の講師が少人数でも、全員に能力の差が体感できる。

あとで聞いた話だが、僕が受講した次の年から、ブラインドウォーク活動の実施が、僕が提案した方法に変わったそうだ。60人全員にブラインドウォークを行う講師の方は、ご苦労様だ。大学というのは組織が大きいから、現場の実施方法を変えることはなかなか難しい。だから、わりと柔軟にフィードバックに対処するんだな、と少し驚いたことを覚えている。

いま大学でブラインドウォークを実施している学生たちを見ていると、40人ほどの学生が一斉に行っている。おそらく、同じ授業を受けている学生たちなのだろう。 大学の授業であれば、40人ほどの学生というのは適正人数の範囲だし、実施の現実性からしても仕方のない部分はあるだろう。

しかし、あの授業を受けている学生たちは、僕が実際に体験したような、「うん、確かに不安ですね」という程度の感想しか持たないと思う。学生同士が案内役と被験者をやるのだから、おそらく下手だろう。「上手なホスピタリティとは」を体感できないまま、授業を終えるのではないか。

僕が実際に受けたブラインドウォークはあまり効果がなかったが、説明を受けると、その目指すところと実際の効果は想像できる。下手な案内役だけでなく、上手な案内役に導かれたら、その差を体感することができたのだろうな、ということくらいは分かる。
しかし、それを想像するレベルであることと、実際に体感できることの間には、ものすごい差があると思う。せっかくの講習を効果的に行うためには、その凄さを体感するところまで実施に含めなければ、意味がない。

僕は大学でプレゼンテーションの方法を教える授業を受け持っているが、学生にプレゼンの方法を認識させ、やる気を出させるのは簡単だ。「上手なプレゼン」のお手本を、実際に見せればいい。もっと言うと、その過程を含めない授業は、すべて机上の空論なのだ。

ホスピタリティに限らず、受講者に「能力の差」を認識させ、その差を埋めるための努力を引き出すために最も必要なのは、「お手本」だと思う。今の自分の実力の無さを実感し、本当に巧い人の技術を目の当たりにし、その差を埋めるための具体的な努力の方法を提示すれば、あとは本人が勝手に努力する。その3つの条件を満たしていない講習は、無意味だと思う。

プレゼンテーションの方法を教える授業でも、知識としてやり方を教えるだけでは、決してプレゼンは上手にならない。お手本をしっかり見て、自分で実際にやってみて能力の不足を体感し、数限りない試行錯誤によって失敗を繰り返す、というサイクルを作らなくては、能力の向上は望めない。
その環境は、自力では作れない。だからその条件と環境を提供するのが、授業や講習会の役割ではないか。


いま大学の授業でブラインドウォークをやっている学生たちを見ると、「ああ、あれやってるんだ」という懐かしさを感じる。それと同時に、「本当にあのやり方で効果があるのかね」と、ちょっと冷めた目で担当教員を見ることが多い。



ジャージ姿の女子学生を拝めるので、まあ良しとしてるんだけど

このページのトップヘ