たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

Education

パワハラ的指導の是非

次の二種類の教師は、どちらが「優秀」だろうか。


(A) 過酷なまでに厳しく怒鳴り散らし、罵詈雑言は当たり前、時には人格否定を含む暴言を吐く。授業についていけない脱落者は数知れず。しかし実力は確かで、課される試練を越えれば確実に世界の一流になれる教師

(B) 穏やかな人格者で朗らかな佇まいで、常に生徒に丁寧に寄り添い、励まし、親身に接し、脱落者を出さずにすべての生徒を優しく導く。そのかわり生徒の実力の伸びは並みレベルしか期待できず世界のトッププロを狙うには物足りない教師


どちらのタイプもよくいる教師像だろう。(A)のような昭和的スポ根指導者も、(B)のような友達感覚指導者も、どの年齢層、どの教育段階においても見られる二極区分だと思う。
はたして自分なら、どちらの指導者に教わることを希望するだろうか。



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『セッション』(Whiplash, 2014)


アメリカ最高峰の音楽学校、シェイファー音楽院を舞台としたヒューマンドラマ。ジャズに打ち込む音楽院の学生とそれを指導する厳格な教師の物語だ。発表当時から芸術性と出演者の演技が高く評価されており、第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、編集賞・録音賞・助演男優賞の3部門を受賞。原題の”Whiplash”は「ムチ打ち症」という意味で、ジャズの名曲の題名でありつつジャズドラマーの職業病でもある。

主人公のアンドリューは音楽院の生徒で、偉大なジャズドラマーになることを夢見ている。一人でドラムの稽古をしていると、学校最高の指導者と謳われる教師フレッチャーに目をかけられ、いきなり最上級クラスに引き抜かれる。最上級クラスは半端ないプレッシャーの中で行われ、常にフレッチャーの怒号が飛び交う恐怖のクラスだった。アンドリューは必死に授業にくらいつき、徐々にバンド内での地位を上げていく。

重要なコンペティション演奏会の日、アンドリューは不運と事故が重なり、集合時間までに会場に着けなくなってしまう。なんとか会場には辿り着くものの、事故による怪我の影響でろくに演奏ができず、ついには握力が効かなくなりスティックを落としてしまう。フレッチャーは曲の途中で演奏を止め、冷酷に「お前は終わりだ」とアンドリューに宣告する。いままで耐えてきたプレッシャーと理不尽への怒りが爆発したアンドリューは壇上でフレッチャーに殴り掛かり、音楽院を退学処分になってしまう。

単に音楽ものの映画ではなく、ひとりの人間の成長物語という体裁をとっている。その中心的なモチーフは「狂気」だろう。フレッチャーはもともと才能のみに価値を置く厳格な教師だが、その授業に必死でくらいつくアンドリューが次第に世間的な常識を失っていき、狂気に取り憑かれていく様子が描かれている。ガールフレンドに「一流のドラマーになるためにはもっと練習しなければならない、その為には君は邪魔だ」と一方的に別れを宣言する。帰省して家族と会った時も、スポーツで実績を挙げている兄弟たちと比べて音楽をやっている自分が軽んじられていると感じ、挑発的な言動を繰返し夕食の場を台無しにする。

作品の最後にアンドリューは、恩讐が絡まり関係が泥沼化したフレッチャーと再会し、彼に請われてフレッチャー率いるバンドのドラマーとして急遽演奏することになる。これは自身のパワハラを密告され学院から解雇されたフレッチャーが、アンドリューを音楽界から完全に葬り去るべく仕掛けた罠だった。カーネギー・ホールで批評家やスカウトの眼が注目する中、アンドリューはフレッチャーの仕掛けた罠にはまり悲惨な演奏をしでかしてしまう。一度は壇上を降りて涙ながらに立ち去ろうとしたが、意を決したように再び壇上に戻り、フレッチャーの指揮を無視してドラム独奏を叩き始める。その気迫はバンドメンバーはおろかフレッチャーすら圧倒し、アンドリューは演壇上の主導権を完全に奪い取る。フレッチャーはためらいながらアンドリューのドラムに合わせて指揮をとったが、完全に才能に覚醒し魂の演奏を見せるアンドリューを見て、フレッチャーは満足そうに笑みの表情を見せる。


まぁ、パワハラの被害に遭ったことのある人や、厳格な教師がトラウマになっている人は観ない方がいい映画だろう。教師フレッチャーを演じるJ・K・シモンズの演技は鬼気迫るものがあり、作品の厳格な雰囲気をつくり出している。この演技でJ・K・シモンズはアカデミー助演男優賞を受賞している。

この映画が作られたのは2014年。いまから10年前だが、この10年で「パワハラ」をとりまく世界的な環境は大きく変わった。おそらくいま現在この映画が発表されたら、社会的に問題ありということでアカデミー賞には一切ノミネートされないのではあるまいか。パワハラによる訴訟が社会問題となっている昨今では、もうすでにひとむかし前の時代の作品、という感がある。

物語に登場する教師フレッチャーは、間違いなく(A)のタイプの教師だ。最高を追い求め、生徒にそれを要求し、一切の妥協を許さない。自分の求めるレベルに達しない生徒は「無能」と切り捨て、生徒に罵声を浴びせ怒鳴り続ける。ただしフレッチャーの要求に応えたバンドはアメリカ最高の水準であり、出場するコンテストやコンペティションですべて優勝を勝ち取っている。

この作品が発表された当時から、フレッチャーの教師像に関しては賛否両論があった。「最高を目指すなら厳しくなるのは当然」「フレッチャーは目標のために必要な指導をしているに過ぎない」という擁護論から、「いくら指導のためでも人格否定は許すまじ」「音楽家として以前に人としてどうなの」という批判論まで、賛否両論が渦巻いた。教育業界がこの作品を題材に小論文を書くように課されたら、どう書くだろうか。

実は作品の中で、フレッチャーに対する否定的な見解は明確に示されている。アンドリューが上級クラスに参加した初日、「音を何回も外した」という理由で太っちょメガネの学生がその場でクラスを追放されたが、実はこれは冤罪だった。実際に音を外していたのはその隣の白人学生で、フレッチャー自身がそれを認めている。
また作品の終盤で、フレッチャーは「交通事故で死んだ」ことになっている学生が、実は自身のパワハラが原因で鬱病を発症し自殺に追い込まれたことを暴かれている。遺族である両親は退学処分を課されたアンドリューに接触し、「フレッチャーを学院から追い出すために彼のパワハラを証言してくれ」と依頼する。結局この一件が理由でフレッチャーは学院を追われることになる。


「優秀な教師」の条件というのは様々あろうが、僕の考えでは、だいたい次の3つだと思う。

(1)「夢中」になれる環境をつくること
(2)「自己教育力」を得る機会を与えること
(3) 「内」と「外」の調整力を養うこと

教師が暴力行為やパワハラのような不適切指導に堕す原因のほとんどは、「焦るから」だ。パワハラのような激烈なしごきを行う教師というのは大抵、体育会系に多い。体育会でこのような強権的指導が横行する理由は、雇われコーチは成果を出さないとクビになってしまうからだ。勝たないといけない、全国大会に出場しないといけない、全国優勝しないといけない。特に私立学校は学校の知名度を上げ受験者数を増やす手段としてスポーツを利用する。だから勝たないと意味がない。勝てないコーチは無価値なのだ。だから結果しか求められていないコーチは「人間形成」などと悠長なことを言っていられず、とにかくその時その場で「勝てる」ように短絡的なしごきに走る。

このような努力も、努力には違いない。しかし、嫌な指導者に暴力で練習を強制されるような「努力」は、その道を楽しみ主体的に熱中している者には勝てない。「努力」は、絶対に「夢中」には勝てない。たとえ同じ「1日10時間の練習」をするにしても、暴力で脅されて無理やりやらされている10時間と、夢中になってそれにのめり込み「あ、気がついたらもうこんなに経ってる」という10時間とでは、継続力が違う。

努力を強制された生徒は、そのコーチの指導を外れた途端に努力をしなくなるだろう。少なくとも、それまでの努力の質と量を維持することはできない。あくまでもその努力は「やらされていたもの」であり、「自分でつくりあげたもの」ではない。しかし、本当にその道の魅力に気付き、自ら率先して主体的に練習をする生徒は、いつまででもそれを続けることができる。人は、つらいことをいつまでも続けられるようにはできていない。理不尽に努力を強要し続けていると、いずれ人を壊す。

「勉強しなさい」「練習しなさい」と口にする時点で、指導者としては0点だ。「勉強しなさい」と言う、ということは、生徒はそもそも勉強をやりたがっていない。「夢中になる」どころか、学ぶことの魅力にすら気付いていない。「勉強しなさい」という小言は、「勉強する分野の魅力に気付かせる」という最低条件すら満たしていないくせに、形だけの行動を強制する意味のない行為だ。

だから教師の仕事というのは、安心して生徒がその精進に集中できるように環境を整えてやることだろう。まず生徒にその分野の魅力を語り、それにのめり込ませ、集中してそれに没頭できるように環境を整えること、それが教師の仕事ではないか。


「自己教育力」というのは、簡単に言うと、「教え込む」のではなく「自立させる」ということだ。教師の仕事は、「教えること」ではない。教えることが教師の仕事であるならば、生徒はその教師から離れたら学ぶことができなくなる。教師の仕事は、「自分から離れても、自分がいなくなっても、生徒が自分の力で自分の能力を伸ばしていける方法を身につけさせる」ことだ。その教師のクラスから離れても、学校を卒業しても、どんな時でもどんな分野でも、自分の能力を自分の力で伸ばす方法さえ会得していたら、人は成長できる。

「自分が教えてるときは成長させられるけど、自分から離れたら生徒は何も学ばなくなる」というのでは、教師の仕事としては3流だろう。教師の本当の仕事は、生徒が卒業してから後に発揮されるものではあるまいか。学生に与える影響力が直接学生に接している期間に限られる教師というのは、たいした教師ではないと思う。

僕自身も大学で語学や専門分野を教えているが、教えている科目の「知識」を教えているわけではない。教えている科目を通して「知力を身につけるとはどういうことか」を体感させているだけだ。早い話が、教える科目は何でもいいのだ。言語学だろうと論理学だろうと日本語だろうと英語だろうとラテン語だろうと、どの科目を担当しようと、教えることはすべて同じ。「どうすれば、こういう知識体系を自分の力で身につけられるか」。教えている科目名など「ただの一例」に過ぎない。

大谷翔平が「世界一の野球選手」になったのは、高校時代に「世界一のコーチ」に教わったからではない。もちろん感謝に足る出会いはあっただろうが、おそらくどんなコーチ、どんな監督に育てられても、大谷翔平は大谷翔平になっただろう。大谷翔平が高校時代、日ハム時代に身につけたのは、コーチや監督に習ったことを逐一なぞるような「教えてもらったことの習得」ではなく、「いかなる能力でも身につけたいときに自分で身につけられる方法論」だったのではないか。


「内」と「外」の調整力を養うこと、というのはちょっと抽象的な話になるが、簡単に言うと「人としての生き方をちゃんと作れること」だ。
僕は、映画「セッション」にまつわる教師論の一番のポイントは、ここだと思う。

どんなに専門分野で一流を目指しても、どんなにプロとして厳しい世界に身を置いても、我々は所詮ひとりの人間として世の中を生きていかなければならないのだ。自分が集中して極めようとしている分野で血の滲むような研鑽を積んでいても、毎日ごはんは食べなければいけないし、関わる人々への感謝の心を忘れてはいけない。そういう「専門分野での研鑽」とは別に「普通の人としての日常生活」を両立させられないのでは、たとえ専門分野で一流であったとしても、人としてはしょせん3流だ。

映画の中でアンドリューは、ライバルの出現によって精神的な余裕を無くし、ドラムの練習だけに時間を費やさなければならないという強迫観念に駆られ、恋人に別れを告げる。世の中にもこれとよく似た物言いとして「今はこれこれに集中しなければならないから、結婚などしている場合ではない」というのがある。仕事としてプロとして極めるべきことと、人としての生き方を同じ軸としてしか扱えない生き方だ。
そう言う人の両親は、ヒマだったから結婚したのだろうか。ヒマだったから当人を産んだのだろうか。人はどんな時でも、常にやるべきこと・極めるべきことに駆り立てられて生きている。それを言い訳にして人としての生き方を犠牲にするのは、要するに器が小さいのだ。経験上、そういう小さい生き方をしている人が、なにか特定の分野で一流になった試しはない。

数学で定理を証明するとき、その命題内の妥当性を立証するだけでは十分性を満たしたに過ぎない。「たまたまそうだった」という可能性を排除できない。証明をする際には、その命題の「外側」、つまり他の理論体系と齟齬なく整合性を保つことを示してはじめて必要性が満たされる。
政治の世界でも同様だ。ある懸案事項について対策を立てなければならない事態になったとする。そのときある提案を採用すれば問題が解決できても、その提案によってそれまで円滑に進んでいた他の事案に支障が出てしまったら、その提案は妥当とは言えない。
かように物事には「内側の妥当性」と「外側の整合性」がバランス良く満たされてなければならない。

これを人の生き方に準えると、プロとして専門分野では優秀であっても社会不適格者であっては、人として優秀とは言えない。スペシャリストとして世界一の技能をもっていても、我が強く常に仕事上の人間関係でトラブルばかり起こしているような人を「一流」とは言わない。
学校でも、成績さえ良ければ良い生徒、というわけではない。するべき課題をクリアすることと共に、人と軋轢を起こさず、課題以外のところで人としてのしっかりとした生き方を真っ当する、ということが必要になる。

ちょっと分かりにくいが、映画「セッション」の中でもこのことは示唆されている。鬼教師フレッチャーは、目指すべき「天才」の例として、頻繁に“バード”ことチャーリー・パーカーの名前を挙げ、そのエピソードを学生に語っている。確かにジャズの世界ではチャーリー・パーカーは神格化されており、「一流」を目指す音楽院の学生にとっては憧れの的だろう。
しかし史実として、チャーリー・パーカーは人間としては破滅的な人生を送っており、トラブルメーカーとして悪名を馳せていた。麻薬とアルコールに溺れ、心身を病み精神病院への入院を繰返し、34歳で早世した。決して生き方の手本にできる人間ではない。「内」なる演奏技術は素晴しかったのだろうが、「外」たる人としての生き方は最悪といってよい。 映画でチャーリー・パーカーが頻繁に引用されるのは、フレッチャーの浮世離れした異常な感覚を際立たせるための演出だろう。


そう考えると、映画「セッション」の教師フレッチャーは、すべて教師としての資質から外れている。

(1’) ひたすら「根性の修練」を課す
(2’) 「言われた通りにしろ」と主体性を奪う
(3’)  演奏技術が全て。それがない者に価値などない。

映画を丁寧に観れば分かるが、フレッチャーは決して理想の教師としては描かれていない。生徒の両親を貶す罵声や、椅子を投げ危害を加えかねない暴力行為、チャーリー・パーカーを理想として挙げる言動、など映画の端々に確信犯的にフレッチャーを否定する要素が散りばめられている。
こういう教師像が批判の対象であることは、映画が作られた2014年においてすら折込み済みだった、ということだろう。映画批評の中にはこのような失格教師のキャラ付けをもって「最低の映画だ」という論評も多かった。しかしそれは「事実」と「物語」を混同した筋違いな批評だろう。この映画の素晴らしいところは「そういうクズのような教師」をクズとして余す所なく描き切った所にある。もし描く対象の道徳的適否をもって映画の価値を論じるのであれば、戦争を題材とした記録映画はすべて「最低の映画」ということになる。

実際のところ、現在の価値観としてはフレッチャー的な(A)タイプの教師は否定されている。それは道義的な主観や個人的感想によるものではなく、きっちりと法で定められている判断だ。パワーハラスメントが社会問題となり、たとえ「崇高な目的」であったとしても手段が暴力的であれば、それを排除する方向で法律は整備されている。

医学の分野では、たとえ医学的進歩が見込まれるとしても、人体実験は絶対に許されていない。おそらくコロナ禍のとき、人体実験を行っていれば、人類はもっと早く治療方法を発見できただろう。しかし人類は過去の反省から、人体実験を封印する道を選んだ。たとえコロナによる犠牲者が大量に発生しても、それでもなお人体実験は許されない。被験者本人が希望し立候補しても、許されない。それが人類が行った「選択」なのだ。
教育の分野でもそれと同じことが起きている、というだけの話だ。人格を否定し、罵詈雑言で追い込み、狂気の努力を課せば、才能は開花するかもしれない。それによって生まれる「天才」もいるかもしれない。しかし、人類はそれを封印する道を選んだのだ。たとえその分野で素晴しい成果が上がるとしても、後世に残る才能が見いだされたとしても、暴力で指導することは許されない。

「パワーハラスメント」というのはすでに人口に膾炙し、かなり耳慣れた感がある。圧力感のある言葉ではなく、すでに日常語になってしまっている。しかしもともとは、そういう人類全体の「選択」、それをすれば得られるはずの成果よりも大切なものがある、という判断が含まれる、とても重い言葉だ。それを実感し日常の職務に反映させている教師が、一体どれだけいるのだろうか。



最後の9分の演奏ですべてをチャラにするには虫が良過ぎる映画。

「古典は役に立たないから無駄」論。

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2月25日、カンニング竹山が『ドーナツトーク』(TBS系)に出演。古典の授業は「役に立ったことが1回もない」と話したことが物議を醸している。

番組後半では、「無くしたムダな時間」というテーマでトークを展開。現役の女子高生がムダな時間として「古典の授業」をあげると、竹山は「めっちゃわかる。高校生のときから思ってた」と共感。

「今年で53歳のおじさんだけど、いまだ古典が役に立ったなと思ったことが1回もない」と述べ、スタジオの笑いを誘った。さらに竹山は「大学受験に古典が関係なかったら、0点でもいいんだよ」と発言。


まぁ、「そう思うんなら勉強しなければいいんじゃない」としか。


「学校でこんなこと勉強して何の役に立つんだ」という問い。学校教育から脱落した低能層からよく出てくる「疑問」だ。
むろん、当人たちの目的はその「疑問」について妥当な答えを得ることではない。その「疑問」を楯に、「勉強すること」から逃避するもっともらしい言い訳を手に入れることが本当の目的だ。その「疑問」を口にする時点で、既に「逃げの姿勢」と断定してよい。 自己弁護と自己正当化しか頭にない。

そもそもそんな疑問が出てくること自体、学校教育で要求される最低限の能力を身につけていないことの証左だ。
学校教育の目的は知識や思考能力を身につけることではない。そんなことは最低限以前の必要性に過ぎない。問題は「知識や思考能力を身につけることで一体何ができるようにならなければならないか」だ。

初等教育の目的は「自分の知らない世界を自分で切り拓く能力を養うこと」だ。
世の中には、ひとりの人間の直接体験ではカバーし切れないほどの広大な知的領域が広がっている。その全てがそのひと一人の人生にすべて関わってくるわけではない。しかし、本人の人生に直接関わってくる・こないに関わらず、「世の中にはこんな広い世界が広がっている」ということを見せてもらるかどうかだけで、その国の文化度は格段に違ってくる。

誰もが人生の中で、それまで自分が全く知らなかった世界に飛び込まざるを得なくなる。全く経験したことがないことに挑戦しなければならなくなる。それは学問研究のような勉学に関する分野だけでなく、新しいスポーツ、新しいゲーム、新しい友人関係のような卑近なものから、就職、結婚、新居購入のような人生の転機に関わるようなことも含まれる。そういう時に、「どうすれば『正解』の道を辿れるか」という絶対安全な道など無い。どんなときも、正解は自分で作らなければならないのだ。そのためにはまず、「自分の知らない分野に頭から突っ込んで行く勇気」が必要となる。

学校教育で、人生に全く必要のない知識体系を詰め込まれるのは、その「突っ込んで行く勇気」と「その方法」を先行体験しているだけなのだ。
三角関数という得体の知れないものに、なにか世の中の真実らしきものが含まれているらしい。何だろうかそれは。どうすればその真理を理解することができるのだろうか。
日本には1000年以上前に書かれた暇な女の日記が残されている。当時の日本人は一体何を考え、何のために生きていたのだろうか。

そういう「広大な知識領域」が眼前に広がっているときに、そこに踏み込む姿勢と能力を身につけることが、初等教育で最低限身につけるべき能力なのだ。誰だって、よく知っていることは出来る。知っている分野での振舞い方は分かる。しかし、全く新しい分野に踏み込む時に「知らないからできない」というのは、教育を受けた人間の姿勢ではない。知らない分野に踏み込むときは、いままで自分が経験してきた知的領域の征服方法を思い出し、自分なりの新しい方法論を自分の力で創り出さなければならないのだ。

だから「こんな分野、自分には一生関係ないから勉強する必要はない」という言い方は、要するに「私は今後一切、新しいことに取り組むことを拒否する」という姿勢に他ならない。学校教育の目的は「知の体系を身につける方法論を身につけ、今後それを自分で編み出せるようになること」であって、習う知識そのものではない。はっきり言ってしまえば、習う分野は何でも構わないのだ。その中で、特に汎用性が高く、日本という国で日本人という自己意識を確立するための助けになり、学校卒業後に新たな分野に挑む方法論を学ぶための参考になるような、よく練られた知識体系を選んで学んでいるに過ぎない。

「自分には必要ない」と思うのなら、学ばなければ良い。世の中には、人生に必要なものしか学ばせてもらえない国のほうが多い。そういう教育後進国のあり方をお望みなら、遠慮なくそうすればよい。自分の人生に必要なものだけに価値を認め、必要ないものはすべて切り捨てて価値を見下すような、そういう人間になりたければそれも良かろう。生きる世界を自分で狭めるのは、教育を軽視する人間の典型的な自業自得だ。日本という教育先進国に生まれた特権を自らドブに捨てて、自分の人生の役に立つものだけの世界を壁で囲って、その中で狭く生きていけばいい。馬鹿によくお似合いの生き方だ。


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社会学者の古市憲寿氏(39)が28日、自身のSNSを更新し、「古典の授業が無駄」という議論に対して私見を述べた。

古市氏は「『古典の授業が無駄』といった議論に反射的に反論するひとって、授業時間が有限だということを忘れがちだよね」とつづり、「そりゃ時間が無限にあれば古典でも何でもすればいいけど、それはたとえば外国語よりも有益なのか。あと反論するひとたちが、どれだけの古典に関する教養を持っているかを知りたいところ」とした。

また、「みんな教育に期待しすぎだと思う」とし、「この国の高校卒業率は約95%だけど、大人を含めてみんなで大学入学共通テストを受けてみたら、平均何点くらいになるのか。たぶん悲惨な結果になると思う。結局、日常的に使ってる知識以外は忘れていくし、逆に必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」と私見をつづった。


「馬鹿の言うことに対して、馬鹿がコメントをしている」という図式。もはや笑い話だ。学校で習うことを「役に立つ・立たない」「有益・無益」「覚えているか・忘れているか」という尺度でしか測ることができない。この程度の知的許容量しかない輩が「社会学者」とは恐れ入る。

「習ったものをすべて忘れたら、その教育は無駄」という、歪んだ知識偏重主義だ。実際のところ、学校教育で身につけるべきものは知識ではない。学校教育の本当の価値は、「習ったものをすべて忘れた後、それでも残っているもの」にある。残った知識が大事なのではなく、「かつてここまで覚えたことがある」という思考経験の絶対最大量をともかくも一度作っておくことが大事なのだ。

古市憲寿は「必要となれば何歳からでも新しいことは学べる」などと嘯いているが、自分が経験した初等教育の恩恵に甘ったれている笑止千万な言い方だ。新しいことを学ぶことができるのは、かつて学校で「学ぶ」という過程を一度辿ったことがあるからだ。「学び方の違う様々な分野を広く学ぶ」という行為を一度も行ったことがない人は、新たなことを学ぶための方法論を自分で編み出すことなどできない。自分の力で自分の能力を上げていく自己教育能力がない。簡単に「何歳からでも新しいことは学べる」なととほざいているが、堅固な初等教育で役に立たない知識をたっぷり吸収した恩恵を軽視しており、知的活動の源泉となる生き方を舐めている態度だ。

受ける教育のレベルを選ぶのは自分の勝手だ。「こんなこと学んでも役に立たないなら無駄だ」というなら、とっとと学校を退学すればよい。義務教育すら拒否して「人生は冒険だ!」などとほざき全国を車で乞食行脚の旅に出るのも良かろう。どれも個人の勝手だ。
しかし、その個人の価値観を社会全体の強制力に転化し、「だから学校教育からこの科目を削るべきだ」と主張するのは絶対に許されない。「教育を受けない自由」を、「他人の教育機会を剥奪する権限」と勘違いしてはいけない。他人が学ぶ邪魔までする権利はない。学校教育を拒否して無能低能に堕するのは手前が勝手にやるべきことであって、他人にまでそれを強制する権限など誰にもない。

この類いの教育批判は、誰もが抱いている教育劣等感に刺さる。簡単にウケる安易な方法だ。しかし、ことの本質は「古典は有益なのか無駄なのか」ではない。「『知識』そのものの有益・無益は教育の本質には一切関係ない」ということを知らない愚か者が後を断たないということが問題なのだ。日本では初等教育を受けられることが当然のことだと思われている。その価値と恩恵に気付かず、自らその価値を貶める言動をする輩など、教育を受けた人間とは言えない。

香港の街中には本屋が無い。イギリスに50年支配され、中国に引き渡された香港には、自分たちの物語を語る言語がいまだに確定していない。だから香港市民はみんな本ではなく中国語で書かれた新聞ばかり読んでいる。重厚な「物語」を語ることができず、薄っぺらい「情報」にしか知的生活の拠り所がない。香港以外でも、いま世界には自国語で書かれた本が出版されていない国のほうが多い。
ましてや「古典」が存在する国など限られている。そのことに激しい劣等感を抱いているアメリカは、千年以上にわたる文化遺産を有している日本が妬ましくて仕方ない。だからやたらと「古典は無駄だ」「英語こそ正義」という価値観を日本に押し付けてくる。彼らは日本人自らの手で日本の古典を捨てさせたいのだ。日本のもつ本当の価値に気付かず、豊富な古典遺産に対して嫉妬の感情をぶつけてくるアメリカの英語絶対主義に簡単に踊らされる軽薄な日本人が多い。

中国という国はやたらと政治・経済分野において日本に圧力をかけてくるが、古典教育・文化に関しては一切何も言ってこない。日本以上に雄大な知的文化遺産を有する中国にとって、日本の古典ごとき屁のようなものだろう。その辺は長大な歴史を誇る中国の、根源的な自尊心の表れだ。
ただし中国は一度、自国の誇る歴史遺産や文化遺産を自らの手で破壊したことがある。共産党以外の教義はすべて害悪。毛沢東の言説だけが正義で他は悪。古典・歴史はすべて無意味。古典はすべて焼き尽くし、歴史的建造物や寺社仏閣はすべて破壊すべし。文化大革命という愚かな行為は、自分の国がもつ本当の価値を中国国民自身が破壊した出来事に他ならない。カンニング竹山は、このようなあり方を日本の理想として提唱するつもりなのだろうか。


実際のところ、カンニング竹山も古市憲寿も、古典を学ぶ必要性も意義も十分に分かっていると思う。彼らがこのような言説を流布する目的はただひとつ、「目立つため」だろう。番組を盛り上げるため、構成作家の台本通りに、世の中を騒がすようなことをわざと言って数字を取ろうとする。普通に古典の意義を擁護するような言説を公表しても誰も注目してくれないから、逆張りをして注目を浴びる。彼らの価値観の中心は「Yahoo!ニュースのトップに載ること」であって、正論を発して世間を啓蒙することではない。そんなことは彼らにとって「何の役にも立たない」ことだ。目立たなければ全ては「無駄」なのだ。物事の正道など一切無視し、曲学阿世に堕する生き方が、果たしてどれほど「有益」な生き方なのだろうか。彼らにとって本当に大切なものとは、一体どこにあるのだろうか。



軽薄極まる。

タイパ重視の生き方

学生が論文を書けない。

本当に書けない。絶望的に書けない。高校までにちゃんと文章の書き方を習ってきているのかと思うくらい書けない。
思うに、いまの若い子たちは日常生活のなかで「長い文を書く」という体験が欠落しているのだろう。自分の考えていることを表出する能力が著しく不足している。

まぁ、いつの世の中でもそう言われてきたのだろう。僕もそう言われる側から言う側に回ってしまったというだけのことかもしれない。
しかし、なんというか、一般に思われている「最近の若い子はろくに文章も書けない」というのと、僕が言う「学生が論文を書けない」というのは、ちょっと問題の焦点が違う。

まずもって学生が「論文とは何ぞや」ということを理解していない、というのは仕方がない。高校までの日常生活で生徒が書く長い文章といえば、読書感想文が関の山だろう。しかも夏休みの宿題で嫌々書く程度のものだろう。さらに最近の学校の先生は忙しいから、それらの読書感想文にしっかり赤を入れて添削してフィードバックする、などということもあるまい。書いたら書きっ放し。これで文章力が上がるわけがない。
僕もいままでこのBlogで「感想文と論文は何が違うのか」についてつらつらと駄文を書いたことがあるが、最近僕が感じている学生の能力不足はそれとはちょっと違ってきている。

なんというか、「間違えることを極度に恐れている」ような気がするのだ。いや「恐れている」というよりは「嫌っている」というほうが近い。膨大な手間をかけ、入念に調査をし、幾重にも分析を重ねた先が「空振りでした」というのは研究ではよくあることなのだが、最近の若い子たちはそういう「無駄」を非常に嫌っているような気がする。学生は「正しい論文」を書かなければならない、という強迫観念に汲々としているように見える。

そもそも論文には「正しい論文」「間違った論文」というものはない。あるのは「面白い論文」「つまらない論文」という区分だけだ。もちろんデータ収集の段階で不正をしたり資料を改竄したりするのは「間違った論文」だが、ここではそういう話をしているのではない。彼らは中等教育を通して、学業の成果を「正解」「不正解」という分け方で評価され続けてきた。だから大学に入ってからの研究にも「正解」「不正解」があると思い込んでいる。そして、彼らは「不正解」の論文を書いたら成績を落とされる、と恐れている。
まぁ、「大学一年生」というよりは「高校四年生」なのだろう。思考の過程が高校生レベルに留まっており、高校までの「おべんきょう」と大学以降の「研究」の違いが分かっていない。

大学で行う研究というのは、例えて言えば「狩り」だ。自分で野山を歩き、獲物を見つけ、銃で仕留める。どこを歩こうが、どこを猟場にしようが、どんな獲物を狙おうが、各自の自由。自分で好きな所を歩き、好きな獲物を仕留めればいい。

一方、高校までに習ってきた「おべんきょう」というのは、言ってみれば「狩りをするために必要な個々の道具を磨くこと」だ。銃にはどんな種類があるのか、どうやって撃てばいいのか。どの山にはどんな獲物がいるのか。どうやって獲物の居場所を察知すればいいのか。
高校までの「おべんきょう」で優秀だった生徒というのは、要するに「銃の種類と名前をたくさん覚えている」というだけのことに過ぎない。それを撃つ腕前が確かかどうかは分からない。そもそも獲物がどこにいるのか探す能力があるとは限らない。むしろ、「自分はどういう獲物を仕留めたいのか」すら決めていない手合も多い。

高校を出たての大学一年生が論文を書けない理由はいろいろあるが、その一番最初の大きな壁は「研究テーマを決められない」ということだ。
僕は大学一年生対象の、基礎的な文章訓練の授業を担当している。大学なので当然、期末課題として論文の執筆を課すのだが、なかなかテーマを決められない学生が多い。「どんなことに興味があるの?」と水を向けても、口ごもる学生が多い。その「口ごもる」という理由が、僕が想像していたのとちょっと違う気がするのだ。

論文のテーマを決めるというのは、狩りに例えると「どの獲物を仕留めたいのか」を決めることだ。狙う獲物によって、使う道具が違ってくる。だから仕留めたい獲物が決まらないと、使う道具が決まらない。勉強や調査の仕方が決まらない。
だが学生は延々と「先生、テーマが決まらないんです」といつまでもぐずぐずしている。

僕は最初、学生がテーマを決められないのは、学術的な研究価値の判断能力がないために適切な問いを提示する能力が欠けているためだと思っていた。これは大学院を出ても研究者になっても常につきまとう問題で、この部分の能力は固定した知識を暗記していても意味がない。その時その場でどのような「問い」を発するかというのは、常に思考と発想が要求される動的なものだ。創造的になにかを「創り出す」能力なので、知識さえ身につければ使い回しで楽ができるという類いのものではない。

ところが今の若い子たちは、研究テーマについて相談に来る時、なんか「正解」を求めて探りに来ているような感触があるのだ。「このテーマで大丈夫ですか?間違いありませんね?これでやって問題ありませんね?」のように、やたらと「確約」を求めてくる。
研究テーマというのは要するに「仕留めたい獲物」なので、どのようなテーマを選ぼうがその学生の自由だ。合っているも間違っているもない。好きなことをすりゃいい。自分が追いたいテーマがあればそれがその学生にとって最良のテーマである、というだけのことに過ぎない。

しかし学生は、高校までに根強く染み付いた「正解病」のせいか、「研究テーマにも『正解』と『不正解』がある」と思っているらしいのだ。「正しいテーマ」を選んだら合格論文、「間違ったテーマ」を選んだら不合格、というイメージらしい。
実際のところ、論文のテーマとして「スジの良いもの・悪いもの」というものはある。スジの良い論文というのは、その論文自体が正しいか間違っているかで決まるものではない。「その論文を出発点として、様々な方向に議論が発展していく」というのが「スジの良い論文」だ。その論文自身が出している答えは、むしろ間違っていても構わない。科学というのは人類全体のチームワークなので、自分で書いた論文で仮説が間違っていても誰か他の人がもっと妥当な答えを出してくれる。アインシュタインだって自分が提唱した一般相対性理論の証明には自身で失敗している。

かように深く染み付いた学生諸君の「間違ってはいけない」「正解を出さないといけない」という強迫観念は何なのだろうか。僕が大学生の時代にもそういう「高校四年生」はいた。大学というのは「高校よりももっと難しい試験問題が出る場所」と本気で信じている学生もいた。しかし、最近の学生は僕の時代よりもその傾向により拍車がかかっているような気がするのだ。なぜ今の学生たちはそんなに「間違える」ことを恐れるのだろうか、僕はつねづね気になっていた。


sanmagoten


つい先日、『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系列、火曜午後8時)の放送を見た。
「受験戦争を勝ち抜いた有名人SP」(2024年2月6日放送)という企画で、「東大出身アイドル・慶応大出身お笑い芸人らが驚きの受験テクニックを紹介!」という触れ込みだ。受験期に入ってきたので、受験を勝ち抜いた芸能人たちに受験の思い出を語ってもらおう、という企画らしい。

その中で、芸人の水川かたまり(空気階段)が「地方の予備校で動画配信を見ていたので、いつも倍速で授業を聞いていた。上京後、その講師が普通に話しているのを聞いて『遅っ!』と思った」というエピソードを話していた。
MCの明石家さんまが驚いて「今の若い子は動画をぜんぶ倍速で見るんか〜っ!」と驚いていたら、東大出身の雲丹うに、河野玄斗らが頷いて
「ドラマもアニメも倍速で見る」
「音楽はイントロや間奏を飛ばす」
「新作は一旦ネットで調べて『◯話からが面白い』などの確証を得てからはじめて見る」
「小説はあらすじだけ最初に調べて、面白そうだったら読む」
「レビューや『いいね!』の数を見て読むかどうか決める」
「芸人さんの動画は再生回数を調べてから見るかどうか決める」
とコメントしていた。


uni

「だって12回見て面白くなかったら無駄じゃないですか」


tanaka

「お前らネット信じ過ぎなんだよ!」


どうも「時間をかけて自分で試してみて、結果が空振りだったら時間の無駄」という価値観らしい。最初から結論を知っていないと安心して入っていけない。「最後はこういう着地点になる」という確証がないと手をつけない。つまり、今の若い子たちは「試行錯誤」が嫌いなのだ。
それと同じようなことは日常生活の至るところに顕われているのだろう。食べにいく店を決めるときにはネットで評価を調べる。新作の映画を見るかどうかはネットの評判で決める。新しくできたアトラクションに行く前にまずネットの評価を調べる。

要するにどれも「他人の評価」「他人の仕事」に寄りかかっている態度だ。その根底にあるのは「失敗したら過程が全部ムダ」という考え方だろう。とにかく「ムダ」をしたくない。「空振り」をしたくない。効率よく、「正解」だけを掬い取って生きていきたい。
そして今の世の中は、ネットによって「正解」を掬い取れるような世の中になっている。再生回数、アクセス数、「いいね!」の数、レビューの星の数、など「世間の評判」が数値化して可視化されている。


この番組を見て、どうして最近の学生たちが研究テーマを決められないのか、なんとなく分かるような気がした。
彼らは「間違えるのが怖い」のではなく、「労力をかけた結果がムダになるのが嫌い」なのではなかろうか。

他人の評価、他人の意見によって「自分の見解」をつくる、ということは、どこまで行っても他人の影響から脱することはできない。他の人の価値観に縛られているうちは、自分だけの独自の見解をつくることは絶対にできない。

たとえば狩りにおいて「鹿は金になるからいい獲物らしいよ」という評判が流れたとする。その評判を鵜呑みにして、千人のハンター全員が鹿を仕留めてきたら、当然ながら鹿の価値は暴落する。
大学の研究において、最後にものを言うのは「オリジナリティー」だ。世の中の誰もが気付かなかった謎、誰もが見過していた穴を、最初に見つけた研究が最も「おもしろい研究」だ。誰も彼もが鹿を仕留めてくる中で「なんか変な動物がいたぞ」と誰もが見たことも聞いたこともない珍獣を仕留めてくるのが、狩りの醍醐味なのだ。

そしてそういう能力は、自分で試みるよりも「他人の評価」「世の中の評判」「ネタばらし」を先行させるという生き方からは、絶対に身に付かない。
テーマを選ぶときにはまず最初にデータを見るわけだが、そのときには独自の「嗅覚」が働く。研究を長く続けていると分かるが、「これは面白そうな獲物だぞ」という勘が働く。その勘は「他人の評判を横目に見ながら自分の身の振り方を決める」という生き方をしているうちは、絶対に身に付かない。自分で決め、自分で狙いを定め、自分で進む生き方をしない限り身に付かない。

当然、空振りはある。やってみたけどムダだった、という経験は枚挙に暇がない。しかしその「ムダ」な体験をただムダとして切り捨てるか、自分の能力を身につけるための段階と捉えるか、によってその人の能力の限界値は決まる。
高校までの「おべんきょう」と違って、大学から先の「研究」では、失敗もひとつの成果なのだ。科学というのは人類全体のチームワークなので、ある方策で研究した結果が無駄に終わったら、「この先は進んでも行き止まりですよ」と世の中の人に広く告知することができる。失敗を共有することも研究の意義のひとつなのだ。失敗を「無駄」「不正解」と切り捨てる硬直した態度では、大学以降の研究を志しても心が折れて終わるだろう。

学生がしつこく研究テーマの妥当性にこだわるのは、この「失敗」ということに対する異様なまでの嫌悪感が原因なのではあるまいか。失敗をしたくない。ムダをしたくない。失敗は単なるムダだ。他人の評価だけで自分の世界観をつくりあげているから、論文を書くときも他人(=先生)の評価しか気にすることができない。その研究が自分にとって楽しいものであるかどうかなど一切関係なく、「評価されるかどうか」しか考えていない。そんな姿勢で大学生活を続けても、楽しいことなどひとつもあるまい。

若者世代の「労力をかけた結果ムダをしたくない」という価値観を「タイパ(タイムパフォーマンス)」というのだそうだ。コストパフォーマンスからの類語だろう。いまの若い人は、誰もがこの「タイパ」の奴隷と化している。「かけた時間だけ見返りを得られる」という確証がない限り、手をつけようとしない。浅ましい価値観だと思う。そういう生き方をしている限り、決して自分の深淵までに達する「本物」を掴むことはできないだろう。どこまでいっても、どんなもの見ても、必ず「他人」が介在する程度のものにしか達しない。少なくとも、誰もが思いつかなかった仰天するような研究は彼らから出てくることはないだろう。


件の番組に出ていた河野玄斗という出演者は東大医学部卒業で、医師国家試験・司法試験・公認会計士試験に合格したという大変な秀才なのだそうだ。しかし、医師国家試験に合格して、いま何をしているのだろう。司法試験に合格したら何なのだろう。公認会計士試験に合格したのが今にどうつながっているのだろう。「他人の仕事」「他人の評判」に寄りかかって生きて、「自分の生き方」はどうやってつくっているのだろう。結婚相手を見つけるときはネットで相性を試すのだろうか。仕事相手の人物評価はネットで検索するのだろうか。
難関試験に次々に合格している、ということは「他人に出される問題」に答える能力は高いのだろう。しかし人生は、他人からの問いに答えるためのものではない。自分の中に自分だけの何かを造り、世の中に誰も気付いていない何かを新たに見いだし、自ら何かを発信する能力はあるのだろうか。そういう眼は開いているのだろうか。



高校14年生くらいの印象。

芸能人の大学受験挑戦


juken

タレントの小倉優子(39)が大学受験に挑戦し、白百合女子大学に合格、学習院女子大学に補欠合格した。
巷ではわりと話題になっているらしく、この挑戦というか企画というか、試みに賛否両論らしい。

僕個人の感想としては、誰がどの大学を受験しようと勝手なので、「批判」する人の意図がよく分からない。主に「この程度の学力で早稲田志望なんて、受験を舐めてんのか」という批判が多いらしい。

早大挑戦の小倉優子は「受験を舐めてる」...批判にSNS猛反論 育児・仕事しながら勉強2000時間「尊敬に値する」

 小倉さんの受験企画をめぐり、SNSでは否定的な反応も一部で上がった。
「受験を舐めてるとしか言いようがない。芸能人がこうやって冷やかし半分で受験するのマジでやめてほしい」「これで早稲田とか本気なのかな」とするツイートなどだ。なかには、30万回以上表示されるなど拡散した投稿もあった。

こういう批判を見るたびに疑問に思うことなのだが、こういう人たちは小倉優子が大学入試に挑戦することで、なにか実害を被っているのだろうか。小倉優子は誰かになにか迷惑でもかけているのだろうか。

「他人のやってることによって自分が貶められる」という感覚自体、他人と比べることで自分の人生を作り上げようとしていることに他ならない。ひとりの存在として自立しておらず、他との比較によってしか自意識をつくることができない。どうせろくに大学教育を受けてない手合いだろう。

また、こういう挑戦に対しては必ず「舐めるな」という批判をする人がいるが、ろくに挑戦をしないまま安穏たる人生を送ってきた臆病者だろう。現状の自分よりもはるか高みを目指すときには、ある程度対象を「舐めてかかる」ことも必要なのだ。ビビって何もしないよりは遥かに前進できる。

大学側の立場からすると、芸能人のこういう大学入試受験は「どうぞどうぞ、どんどんやってください」という感じだろう。決して「大学を舐めるな」的な批判はしない。なにせ、受験料というのは入学金・学費と並んで大学の数少ない貴重な収入源なのだ。

現在、私立大学の受験料は3万5千円くらい。大学入試共通テストの受験料が1万8千円。だから小倉優子は今回の受験で、受験料だけで22万8千円を使っていることになるのだ。シングルマザーで子供3人を育てている身には安くない出費だろう。大学入試を舐めた態度で払える金額ではない。

ことの適否はさておき、日本というのは高等教育が手に届きやすい国なのだな、と感じる。日本以外の国で、こうやって芸能人が大学に戻って勉強しようという挑戦が可能な国がそれほどたくさんあるとは思えない。しかも今回、小倉優子が行った受験は、芸能人だからといって特別枠で優遇される自己推薦入試やAO入試ではない。純粋に学力だけで勝負する一般入試だ。早稲田、津田塾、学習院、成蹊の4大学はそれを公平に採点し、不合格を出した。名前が知られている芸能人が一般人として実力だけで勝負し、大学側も公平にそれを査定する。こういうことが普通にできる国は、学業文化のレベルが高いと言ってよいと思う。


僕は大学で教えているので、また春から新学期が始まったらどういう学生が入ってくるのか、受験生の動向にはそりゃ興味がある。そういう目線で今回の小倉優子の受験を見たので、ちょっと普通の視聴者とは見方も感じ方も違うと思う。そんな僕が今回の小倉優子の受験挑戦を見てて思うのは、「そりゃ受からんだろう」と、「大学に入ってからえらい苦労するだろうな」ということだ。

番組で小倉優子の勉強方法についてはあまり詳細に説明されていなかったが、使っている参考書や問題集の跡を見る限り、基本的な勉強方法は「暗記」だったようだ。知識量ゼロから受験をするとなると、知識の絶対量がなくては話にならないので、監修した指導陣もとりあえず情報を覚え込むところから勉強させたのだと思う。

受験校を見てみると、小倉優子が受験したのはすべて私立大学で、国公立大学は受験していない。国公立の1次試験である大学入試共通テストの点数(日本史31点(100点満点)、英語89点(200点満点)、国語97点(200点満点))を勘案すると、たぶん受けても受からないと思うが、それでも勉強の方法が受験校を狭めた印象は否めない。

センター試験の世代の方々はあまり想像できないかもしれないが、いまの大学入試共通テストの問題は難しい。少なくともセンター試験に比べると格段に難しい。数学なんて難度が一気に激化した。その難しさは、「教科書に載っていない細かい知識まで問われる」という難しさではない。「身につけた知識をどのように使うか」という調整能力がないと解けない類いの難しさだ。

丸暗記一辺倒の問題に対する批判を受けて、文部科学省は威信をかけて国公立大学1次試験の改革を行った。実際のところ僕はセンター試験への批判は、問題そのものに対するものというよりも、試験の利用方法に起因するものだったと思う。要するに、私立大学が参加し過ぎたのだ。センター試験は国公立大学の1次試験だったのに、受験者の拡大と受験料収入を狙った私立大学が悪用し過ぎた。そりゃ、東大・京大のような難関校を受験する一次試験と、定員割れするような就職支援校が同じ試験問題を使うのだから、歪みも出る。

むかしの国公立受験は、1次用のセンター試験対策と、2次試験対策は違う種類の努力が必要だった。しかし公平に見て、現在の大学入試共通テストは、国公立大学の2次試験に必要な資質がある程度問われる問題になっている。覚えるだけではなく、知識を使いこなせないと正答を出せない。だから全般的に問題の場面設定が複雑になり、問題文が長くなっている。国語力が弱い受験生などは、問題文の状況を理解するだけでかなり頭に負荷がかかるだろう。数学の難問化は、問われる問題そのものが難しくなったわけではない。答える問題の質が変わり、「どの知識を使わなければならないのか」から見定める必要が生じたためだ。

つまり、今の大学入試共通テストの傾向は、小倉優子の勉強方法には合わない。ひたすら知識量を積み上げるだけの暗記勉強では、大学入試共通テストは手も足も出ないだろう。小倉優子は津田塾大学の受験を大学入試共通テストの利用方式で受験しているが、これだったら一般受験のほうがまだ勝負になったのではあるまいか。

私立大学の入試問題が暗記問題中心に作られているのは、別に大学に入ってからその知識が重要だからではない。単純に、採点が面倒くさいためだ。1次試験で人数を絞ってから少人数に2次試験をする国立大学と違って、私立大学は一発勝負なので何千人の答案を短期間で採点しなければならない。だから当然、記述式の問題など出せず、マークシートで選ぶ客観問題しか出せない。

僕個人の考えだが、高校三年間の勉強を真っ当にやっていれば、間違いなく国公立大学のほうが受験しやすい。どう勉強すればそんな知識が身に付くのかわけ分からないような私立大学の問題とは異なり、国公立大学の問題は文部省の指導要領から一歩も外に出ない。東大や京大のようないわゆる難関校だって、問題は必ず高校の教科書から出る。ただし、機械的に情報を暗記するような手抜きの勉強方法では解けない。国公立大学の入試問題では、知識は手段であって目的ではない。既存の知識を組合せ、必要かつ十分な情報を取捨選択し、問われたことに最適解を出さなければならない。

国公立大学がそのような「考える問題」を問うのは、大学に入ってからの学問ではその能力が必須だからだ。真面目な高校生ほど勘違いしている人が多いが、大学というのは研究機関であって、教育機関ではない。教科書の情報を逐一暗記することを「勉強」だと思い込んでいる生徒が大学に入っても、ろくな研究はできまい。中等教育の間は「既存の知識体系を敷衍する」のが目的だが、高等教育の目的は「新たな知を創造する」ことが目的なのだ。

だから小倉優子のように、情報を暗記することを勉強としているようなやり方だと、大学に入ってからどんな能力が求められているのかすら分からないだろう。そんなのは大学1年生ではなく、高校4年生に過ぎない。よく真面目で高校時代よい成績をとっていた優等生が、大学に入ってから勉強の仕方が分からなくなり落ちこぼれていくことがあるが、大学という場でやるべきことを勘違いするとそういう羽目に陥りかねない。

大学教育で身につけるべきものは、静的で不変的な知識体系ではない。未知の問題に対して知恵を絞り最適解を生み出す動的な方法論だ。世の中では、問いのほうが変化するので、固定した答えだけを「暗記」していても役に立たない。自分自身の力で、自分をアップデートしていく能力が求められる。

今回の小倉優子の受験は番組の企画なので、受験をよく知ってる講師陣が手取り足取り勉強の仕方を教えてくれただろう。しかし、もし来年、第一志望の大学を再受験するべくもう一年勉強することになったら、果たして自分の力で最適な勉強の仕方を自分で編み出すことができるだろうか。「人から教えてもらったやり方で、情報をただひたすら暗記する」というやり方では、大学に入ってから身につけるべき能力が全然鍛えられない。大学に入ってから「自分は何をしなければならないのだろう」という自我崩壊に陥りかねない。 大学で必要な能力が身に付いていなければ、当然大学受験にも受からない。それだけの話だ。

小倉優子が1年間、あれだけ努力を続けられたのは、芸能界において「出身大学」という箔が収入に直結するからだろう。いい大学を出ることが金になるのであれば、そりゃ誰だって必死に勉強する。学生を受け入れる大学側としては、別に学生がどういうつもりで大学に入ってこようがそりゃ構わないが、一般的に大学という場は何をする所なのかが大きく勘違いされているような気がする。報道番組の「キャスター」「コメンテーター」、クイズ番組の「高学歴芸人」のようなポストを目指して大学に入るのであれば、きっとつまらない大学生活になるだろうな、という気がする。



ほとんどの学生はそんなことにも気付かないまま卒業するけどね。

ラグビーと大学教育

sw



昭和世代にはお馴染みの『スクール☆ウォーズ』(大映テレビ・TBS系列)というドラマがある。


荒廃した不良高校に体育教師として赴任した元ラグビー日本代表・滝沢賢治の奮戦記というドラマだ。体罰が普通であった昭和当時としても暴力描写が多く、相模一高に109-0の大敗を喫した際には部員全員を殴り飛ばすという、現在ではコンプライアンス的観点から地上波での再放送が絶望的ともいえる、いかにもアレなドラマだ。

今では問題作扱いされるドラマだが、決して暴力肯定一辺倒というわけではない。作品中、賢治が生徒に対して手を上げた後は、必ず何らかの形で賢治にペナルティが課されている。作品後半には賢治が厳しいだけの指導に行き詰まりを感じるようになる。そこで元ウェールズ代表候補のマーク・ジョンソンを紹介され、その全く異なるラグビー観に戸惑いながらも、「楽しむ」「自分で考える」という新しい軸を指導に取り入れていく過程が描かれている。娘が友達とやっている交換日記からヒントを得て練習日誌をつける習慣を取り入れたり、勉学一辺倒に偏る岩佐邦靖校長を決して悪者として描いていないなど、その時代としては先見の明がある教育観だろう。そのため、前半と後半でまるで別のドラマのように見える作品だ。しかし前半部分の体罰描写があまりにもインパクトが強く、今でも『スクール☆ウォーズ』といえば体罰作品、という印象をもつ人が多い。

このドラマの昭和当時の放映人気は凄まじく、ドラマ放映最終回の翌週には早くも再放送が始まった。夕方4時代の時間にはこの再放送を見るために街から不良の姿が消え、ゲームセンターは閑散たる状況だったという。このドラマに薫陶を受けた世代には「お前らゼロか!ゼロなのか!悔しくないのか!」「悔しいです!」「俺は今からお前らを殴る!」などの台詞がすっかりお馴染みだ。全国の中学校・高校のラグビーポールには必ず「イソップ」と書き込まれていた。昭和世代のほとんどは「この物語は、ある学園の荒廃に闘いを挑んだ熱血教師たちの記録である。高校ラグビー界において全く無名の弱体チームが、荒廃の中から健全な精神を培い、わずか数年で全国優勝を成し遂げた奇跡を通じて、その原動力となった信頼と愛を、余す所なくドラマ化したものである」を諳んじることができる。

僕ものちにラグビーをするようになったので、このドラマの印象は深い。今とはラグビー的に隔世の間があることも多く、当時は「プレイスキッカーがフランカーなのか…」と変な感想をもったことを覚えている。また県大会の決勝で、川浜高校のチーム統制が乱れていることを見て取った相模一高の勝又欽吾監督は作戦としてハイパントを指示するが、これは実際のセオリーとは逆だ。ハイパントは相手チームの統制が取れ過ぎて隙がないときにアンストラクチャーを生み出すために使うもので、相手の統制がとれていない時は普通モール・ラックを中心とした縦突破を使い陣形を崩し、外を余らせる。おそらくハイパントの処理のため上を向いてあたふたする川浜高校の選手を描くための演出的な描写だろう。

今でも様々な媒体でネタとしてとり上げられる名シーンが多いこのドラマだが、一応、教師という職に就いている僕は、このドラマを思い出すときに、普通ではあまりとり上げられない妙なシーンを思い出す。


川浜高校がまだ荒れていた頃、番長だった水原亮は賢治を敵視し、激高させ暴力行為によって辞職に追い込もうとあの手この手で嫌がらせをしてくる。そのすべてが空振りし、卒業を危惧する取り巻きが離れていく中、いよいよ自身が追い込まれた水原は、凶器を持って賢治と差しの勝負を挑む。そこで賢治に返り討ちにされ完全に叩きのめされ、逆に家で介抱される。


schoolwars


その時、水原が「なぁ、ラグビーってどういうところが面白いんだ?」と賢治に尋ねる。


その時、賢治は「そうだなぁ、いろいろあるが…」と三つの理由を説明する。
ひとつめは、ラグビーは1チーム15人と団体競技で最も人数が多く、皆で力を合わせないと勝てないこと。
ふたつめは、臆病者にはできないスポーツであること。コンタクトプレーが多く、相手にタックルするためには並々ならぬ勇気がいる。
みっつめは、ラグビーボールの特殊な形。どこへ転がるか分からないから、最後まで追い求める執着心が必要。途中で諦めた奴のところには決してボールは転がってこない。

一般的には「不良・水原改心のシーン」として名場面に括られることが多いが、僕は最近、このとき賢治が言っていた3つの理由をよく思い出す。



話は全く変わるのだが。
大学で教えていると、男子学生と女子学生の違いが如実に顕われることがある。特に大学に入ったばかりの学部1, 2年の基礎教育の段階でそれが顕著だ。昨今の風潮では「男子」「女子」という性別のくくりで物事を論じるのは良くないことなのだろうが、厳然たる事実として性差は存在する。学生の問題に対処する必要上、その違いを理解していなくては話にならない。

大学に入ったばかりの1年生の語学授業などを担当していると、間違いなく女子学生のほうが優秀だ。課題はちゃんとやってくる、小テストは満点をとる、提出物はきっちり守る、試験勉強をちゃんとやって点数を取る。言ったことを全部きっちりやってくる良い子が多い。教えてる側からしても非常に気分が良い。覚えがよろしい。

一方、男子学生は、まぁ、勉強をしない。全く勉強しない。特に一般教養科目や語学授業などはまず勉強しない。宿題はやらない、小テストはすっとばす、レポートは雑に書く、試験勉強をしない。白紙答案なんてものもザラだ。先生の言うことを全く聞かない。大学に入って羽目を外しているのかと思いきや、そうでもないので不思議だ。授業にはちゃんと来るのだが、そこでコツコツと努力をするということをしない。学期によっては成績順に並べると上半分が全員女子、下半分が全員男子、ということもあって困ることがある。

ところが、大学2年から3年にかけての時期に、逆転現象が起きてくる。男子学生がぐんぐん伸びて、女子学生がごぼう抜きされる。特に専門科目やゼミなど学習範囲が先鋭化してくると、その傾向が顕著になる。授業のレポートを読むと、優秀なレポートを書くのはほとんどが男子学生ばかりになる。女子学生の書くレポートは、誰かの研究をまとめただけにすぎなかったり、ただ資料を切り貼りしてきただけの形式的なものばかりだったりすることが多くなる。

背景としては、その頃になると女子学生の興味の中心はすでに「就職活動」に傾いており、就活に必要のない科目や授業をことごとく切り捨てていく傾向がある、ということがある。非常に現実的だ。就活に執心するならまだマシなほうで、重症になると勉強がとてもつまらないものに感じられてしまい、学習意欲がゼロになり、大学に来なくなる。「自分は何をしに大学に入ったのだろうか」と煩悶するようになり、目を背けるように学業以外のことに熱中するようになる。

このように男女が逆転する理由は明らかだ。女子学生は、本質的に「大学3年生」なのではなく「高校6年生」であることが多いのだ。勉強する目的・手段・動機付け・意義・価値、すべてにわたって「高校生」の感覚なのだ。大学に入ってからも、高校の頃と同じような感覚で勉強をしている。新しいステージに合わせるように自分をアップデートできていない。それは一言でいうと「他人から評価されるための勉強」と言ってよい。

女子学生の多くは、優秀な成績を取ることが重要だと思っている。「一生懸命勉強して、試験でいい点を取って、優秀な成績を積み重ねて、いい企業に就職する」。女子学生の「理想の大学生像」は、おおむねそんなところだ。だから先生の言うことにはきっちり従う。やらなければいけないことを全部やる。「『優』ばかり並んでいる成績表」が、女子学生の目指すところと言ってよい。

一方の男子学生が勉強しないのは、「なぜそれをしなければいけないのかが分からない」からだ。彼らは先生に突っかかっているわけでも反抗しているわけでもなく、心の底から「なんでそれを勉強しなければならないんですか?」と思っている。大学入試が終わってからも英語を勉強しなければいけない理由が分からない。自分の専門と関係のない一般教養を学ばなければならない理由が分からない。だから勉強しない。男子学生は、理由もなくいい成績をとるためだけに努力をする、という不毛なことを丹念に続けられるようにはできていない。意味がないと思えば、やらないのだ。

大学の勉強というのは、例えて言うと「刀を研ぐ作業」と「剣術を鍛える修行」のふたつがある。「刀を研ぐ」というのは、いわゆる「おべんきょう」のことだ。知識を身につける。語学能力を上げる。ひたすら努力する。高校までの中等教育が目的としているのは「既存の知識体系を敷衍して身につけること」だ。これは己の知的作業の武器を磨き上げることに他ならない。

一方、「剣術を鍛える修行」というのは、敵を倒すための動的作業だ。大学でいうと、これは自分の研究テーマとして狙い定めた謎を解くことに相当する。どんなに研ぎ澄まされた刀を身につけていても、それを使って敵を倒せなければ意味がない。高校まではひたすら刀を磨いていればよかったが、大学では刀を磨くのは「手段」であって、それ自体が「目的」ではない。

女子学生の多くは、刀を研ぐ作業に秀でている。そして、大学に入ってからも相変わらず延々と刀を研ぎ続けているだけなのだ。実際にその刀を使って何か謎に取り組み、斬りかかり、倒そうという気は全くない。そして大学3年くらいになってもひたすら刀を研ぎ続け、「私は大学で一体何をやっているのだろうか」と煩悶するようになる。つまり、やっていることが高校の頃と全く変わらない。

つまり女子学生は、刀を研ぐのは上手いが、その刀を実際に使うのが下手なのだ。自分が倒すべき敵さえ定められない女子学生も多い。女子学生はどんなに優秀な成績をとっていても「で、大学では何を研究しているんですか?」と訊かれると、答えに窮することが多い。それは「知識を身につけること」が教育の目的であると盲信し、そこから一歩も外に出られていないからだ。高校までは、ひたすら上手に刀を研げれば褒められた。いい成績がもらえた。だからいつのまにかそれを「至上の目的」としてしまい、「成績のために勉強する」、つまり「他人の評価のために勉強する」という姿勢が習い性になってしまう。

女子学生が「一生懸命勉強して、試験でいい点を取って、優秀な成績を積み重ねる」のは、別にそれが楽しいからではない。それが「いい企業に就職する」、つまり「他人に評価される」ために一番手っ取り早い方法だと思っているからだ。基本原理が「自分」ではなく「他人の評価」なので、自分のやっていることが他人からの評価につながらないと悟った瞬間、自己が崩壊する。

企業は、どんなに良い刀を研げても、それを使って問題を解決する能力が無い者は採用しない。剣術の腕前がなければ話にならない。女子学生が「優秀な成績」をとっていても就職活動に苦戦する理由はそこにある。就職活動の面接では必ず「で、大学では何を研究しているんですか?」と訊かれるが、女子学生はそれに対して自ら発する熱量をもって専門分野の魅力を熱く語ることができない。女子学生にとって大学の研究とは「成績のために仕方なくすること」でしかなく、良い成績さえ取ってしまえば研究内容などどうでもいいからだ。企業に研究内容について訊かれても、ただ就活のために用意した陳腐な文言しか並べることができず、それは企業の面接官に露骨に伝わる。

それは何も就活だけに限ったことではなく、大学の本分たる研究活動にも反映されている。女子学生は、男子学生と比べて圧倒的に大学院の進学率が低い。それは「女子には研究能力がない」からではなく、大学院に入ってまで「勉強」を続けようという意欲が湧かないからだ。大学院で行うのは「勉強」ではなく「研究」である、ということを根底から勘違いしている。女子学生が大学院に進学しないのは、要するに「これ以上、刀を研ぎ続けるのは嫌だ」というだけの理由に過ぎない。倒す敵もなく、使うつもりもなく、ひたすら刀を研ぎ続けるのはそりゃ苦痛だろう。学部で「よい成績」を取った女子学生が大学院に入って論文一本書けない、というのはよくある話だ。僕がアメリカの大学院にいた時も、飛び級で入学してきた20歳そこそこの「優秀」な女子学生が、タームペーパーの論文一本まともに書けず、1年で退学していった。彼女らは「知識を暗記する」「訊かれたことに答える」「試験で点をとる」ことを「知的活動の全て」と思い込んでおり、「自分から謎を発見する」「仮説を立てる」「持論の正しさを立証する」という「剣術の腕前」を疎かにしている。

一方、男子学生のほうは、ろくに刀を研ぎもしないでやたらに振り回そうとする。研究テーマを定め、取り組む問題を見つけ、解明のための筋道をつける能力はあるが、いかんせん知識がない。英語が読めない。敵を倒すためにいつまでも棒っきれを振り回して挑むような粗忽さがある。

だから、敵を倒すために必要な武器を調達する必要がある、と悟った時点から猛烈に刀を研ぐようになる。男子学生が「宿題はやらない、小テストはすっとばす、レポートは雑に書く、試験勉強をしない」のは、それをする必要性を感じないからだ。男子学生は、自分でしたくもないことを「他人に評価されるため」というだけの理由ですることを嫌う。だが一旦、倒すべき敵が明確になり、そのために勉強が必要だと悟ったら、猛烈に勉強をするようになる。大学入試のために英語を勉強する必要がなくなっても、「自分の論文は英語で書かないと世界中の人が読んでくれない」と分かると、途端に英語を猛勉強しはじめる。「世界の企業を相手に英語でスピーチをして自社製品の優秀さをアピールできないと仕事を取ってこれない」という将来像が明確になると、途端に英会話が上達しはじめる。男子学生は、先生の言うことを全く聞かない。だから先生の書いた論文にも臆することなく反論する。

大学における学習態度の男女差が最も顕著に表れるのは、授業中に挙手をさせて意見を述べさせる時だろう。
そういう時、女子学生はまず発言しない。女子学生の多くは理想の勉強の仕方を「家でひとり机に向かって、こつこつと努力すること」だと思っている。だから教室ではひたすら気配を殺して、他人の背後に隠れ、自分が目立つことを嫌う。当然、「議論」などという行為は最も女子学生が忌み嫌うところだ。女子学生は、議論を「他人の意見にケチをつけること」「意見の正しさの勝ち負けを競うこと」「自分の意見にダメ出しをされること」だと思っている人が多い。そのため議論をするたびに「自分は他人にどう思われているのだろうか」ばかりが気になり、無駄にメンタルが削られる。だから議論では絶対に発言したがらない。

こうした幼稚な態度は、高校までは通用しただろうが、大学よりも上の世界では単なる「無能」に過ぎない。その「無能」の正体は、意見の表出能力でも思考能力ではなく、そもそも「議論」というものは何のために行うのか、という一番根本の部分を誤解しているだけなのだ。そこが、女子学生が大学以降で伸び悩み、大学で学ぶ意義がわからなくなってしまう一番の原因だろう。高校生の感覚のまま大学生になり、議論の意義も目的も知らないまま「他の人に攻撃的になるのは嫌だ」という理由で意見を言いたがらない。

大学で扱う「もんだい」というのは、大きく”problem”と”issue”に大別される。
Problemというのは、「確たる正解はないが、場の必要上、参画する人で一応の同意に達する必要がある問題」のことだ。環境問題、年金問題、税金問題、コロナ禍でのマスク可否問題、などがそれにあたる。「こうすればいい」という絶対的な正解などない。しかし、切羽詰まった現実に対処するために、その場にいる人で協力してとりあえずの合意をつくり、「最適解」をつくりだす営みだ。

一方、issueというのは「解くべき謎を見つけて、最も妥当と思われる仮説を提唱し、その妥当性を立証するべき問題」のことだ。人間はこのissueに対処する方法論として「科学」を創り出した。数学や論理学などの公理系をもつ形式科学はちょっと別だが、「自然とは何か」を模索する自然科学、「人間とは何か」を模索する人文科学、「社会はどうあるべきか」を模索する社会科学は、すべて共通した方法論をもつ。

人類は有史以来、「もんだい」を解決するために3つの方法論を編み出してきた。すなわち「宗教」「哲学」「科学」の3つだ。
宗教の方法論は単純で、「信じること」。今でも学生の中には先生の言った「こたえ」を盲信する者がいるが、それは科学でも何でもない、「先生教」という宗教に帰依しているだけの思考停止だ。
哲学と科学の方法論は共通して「疑うこと」。しかしそのふたつは取り組み方が異なる。「哲学」というのはいわば個人技の名人芸だが、「科学」というのは人類全体のチームワークだ。有史以来、数限りない哲学者が「この世の真実」に到達してきたのだろう。しかしその世界観は、他人が理解できない再現不可能なものだ。ある哲学者にとっての真実は、あくまでもその哲学者の中だけの真実であって、他人に共有できる種類のものではない。「それはあなたの感想ですよね?」というのは、哲学的手法を揶揄するためのものだ。

現在の大学教育は、「科学」の方法論に基づいて行われている。現在、世界中で広く行われている研究活動は科学の方法論に立脚しているので、それに基づくのは当然のことだろう。「科学」はひとりよがりの世界観ではなく、人類全体のチームワークで世界の謎を埋めていく作業なので、当然ながらルールがある。科学の作法を知らなければ、科学研究に参与することはできない。

「議論」というのは、要するにissueに対する仮説に対して、problemに対する提言に対して、その場にいる人間全員で最適解を導くための共同作業だ。そこではおかしいと思うことはおかしいと指摘し、より良い案があれば提案し、その場の「集合知」を少しでも上に押し上げる協力体制が必要となる。


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大学教育が行っていることを端的に例えると、映画『シン・ゴジラ』みたいなものだ。
東京の湾岸地域に得体の知れない生物が出現し暴れている。そこで「あれは何だ?」というissueが発生し、皆で知恵を絞って妥当な仮説を出し合う。試行錯誤の議論を経た後、「あれはどうやらゴジラというものらしい」という仮説に達する。
そうしたら次は「どうすれば倒せる?」というproblemに取り組む必要がある。自衛隊を動員して一斉射撃をするべきだ。いやいやそれだと地域住民が犠牲になる。では東京近郊で住宅が密集していない場所に生物を誘導すればいい。そんな場所あるか?ある。多摩川流域の河川敷なら一斉放射しても犠牲は少ない…


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皆で「議論」した末、とりあえず辿り着いた「最適解」。


ところが女子学生のほとんどは、「どうすればゴジラを倒せるか?」という問題であっても、議論であれば何でも「意見の優劣・勝ち負けを決めるための勝負」という観点しかない。誰かの意見に反論することを「その人に対する敵意」と思い込んでいる。だから意見を出したがらない。すぐ外でゴジラが暴れていようと多くの人が犠牲になっていようと、一切関係ない。女子学生にとっては、「家でひとり机に向かって、こつこつと努力すること」こそが勉強の理想形であり、人類全体で力を合わせて「集合知」をくみ上げていく共同作業など、知ったこっちゃない。要するに「自分さえ点数を取れればそれで良い」のだ。

だからその場にいる人の間で「集合知」をつくる作業には一切協力しない。ひたすら気配を殺して、他人の背後に隠れ、目立たないように振舞う。「意見を言う」という、目立つようなことは絶対にしない。教室という小さな場で「集合知」をつくるのに協力しない人間が、人類全体の「集合知」をつくるために貢献できるわけがない。普段から「目立たないように」を基本原理として行動している人間が、就職活動の面接という場で人の印象に残るわけがない。

実際のところ女子学生が教室で意見を言わないのは、そこまで悪意に満ちたものではなく、単純に「人前で話すのが怖い」という理由であることが多い。しかしその理由だって、大元を探ってみれば「失敗するのが怖い」、正確には「他人から『失敗した』と評価されるのが恥ずかしい」、要するに「他人の評価」によって自意識をつくりあげていることに起因している。

人前に立って自分の意見を話すことは、そりゃ誰にとっても怖いものなのだ。しかし、人類の「集合知」をつくることに協力し、より良い最適解を皆で作り上げるためには、ひとりひとりの協力が不可欠なのだ。皆で知恵を寄せ集めなければ、ゴジラの倒し方など誰にも分からない。「自分の意見は間違っているかもしれないが、全体の集合知を作り上げるために貢献できればそれでいい」という客観的なものの考え方をしなければ、意見など出せない。そして女子学生にはそれができない。

この世には絶対的な「真実」などなく、決まった方法論をとればいつも「正解」に辿り着ける、というものではない。問題ごとに最適解は異なるし、この世の中では問題そのものが常に変化する。決まったやり方を暗記しているだけでは何の役にも立たないのだ。「こう訊かれたら、こう考えて、こう答えればいい」という絶対正解が存在していた高校までの「おべんきょう」ではそれで何とかなったかもしれないが、世の中に出てから成果のないissueやproblemに取り組む時には、その時その時で頭を振り絞って、その場にいる全員で協力して、知恵を集めて最適解をつくる必要がある。


そう考えると、大学で学ぶべき知のあり方というのは、非常にラグビーに似ているような気がするのだ。
ラグビーは15人で行う競技で、団体競技で最も人数が多い。だから「個の力」だけでは勝てない。チーム全員が力を合わせて、「チームの総力」を組み上げるやり方を、各自が分かっていなければならない。それと同じで、「科学」という営みも、人類全体のチームワークなのだ。そのためには自分勝手なやり方では何の貢献もできない。科学のルールを守り、科学の方法論に従わなければ、人類の集合知を構築するための戦力にはなれない。ましてや「ひたすら目立たないように黙ってる」「家でひとり机に向かって、こつこつと勉強することこそ至上」「『議論』は他人に対する攻撃だから嫌だ」などという姿勢は、その共同作業に参加することを最初から放棄している。人類という「チーム」がどうなろうと知ったこっちゃない、という態度に他ならない。

もちろん、人前で意見を言うのは勇気がいる。僕は大学の英語の授業で1年生にも英語でのスピーチを課しているが、大学1, 2年生くらいの学生にとっては、人前に立って英語で発表をするというのはかなりハードルが高かろう。1年生対象の授業では、壇上に立った途端に目に見えて分かるほど足が震える女子学生もいる。ちょうどラグビーのタックルが怖いのと同じことだ。全力で突っ込んでくる相手FWにタックルに行くときの心境は、ちょうどそんなものだ。人前で自分の意見を発表するのも、突進してくる相手にタックルするのも、ともに勇気がいる。ラグビーも、科学研究への参与も、決して臆病者にはできない。

女子学生は試験の点数だけが気になるので、やたらと「それで先生、答えは何ですか?」と訊いてくる。要するに「こう答えればどんな時でもちゃんと評価されますよ」という絶対的な安心感を欲しがるのだ。しかし、大学より先の世界には、正解などない。issueにしてもproblemにしても、決まったやり方で答えれば常に正解が出せる、という甘いものではないのだ。ちょうどラグビーのボールのように、どちらに転ぶか全く分からない。時にはセービングのために身を投げ出し、体を張ってボールを確保しなければならない。途中で諦めた奴のところには決してボールは転がってこない。ラグビーのボールにしろ科学的探求にしろ、必要なのは「最後まで諦めずに追い求める執着心」なのだ。

他人に評価されるために勉強する女子学生と、他人の評価なんか知ったこっちゃなく自分の興味と関心を満たすためにしか勉強しない男子学生の違いは、早いと大学1年生の秋頃にはすでに出てくる。真面目に勉強するに越したことはないが、学生の多くは「真面目」のあり方を勘違いしている。高校までに良しとされてきた勉強の仕方をそのままずっと続ける、成績という他人の評価のためだけにひたすら頑張る、努力と勉強は「よりよい次の進路のため」と思い込み本質を見失う、というのは大学2年生までに学生が各自、自分の力で乗り越えなければいけない壁だ。

単なる高校4, 5, 6年生なのか、それとも晴れて「大学生」へと自らをアップロードできるのか。仕事柄、そのへんの事情を学生に説明することが多い。
そんなときは水原に「なぁ、ラグビーってどういうところが面白いんだ?」と尋ねられたときの滝沢賢治の返事を、最近よく思い出す。



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daitoyo


余談だが、土建屋のオヤジ・内田玄治が夜遊びしているキャバレー「大東洋」、いつも「大泉洋」に見える。



勉強の仕方を知らない学生など、しょせん雪で止まった新幹線。
ペンギン命

takutsubu

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バックナンバー長いよ。
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