たくろふのつぶやき

夏の雲が大好き。

Education

コロナによる大学閉鎖

「コロナ下の大学 学生の意欲そがぬように」
(2020年8月8日 毎日新聞社説)
「コロナと大学 対面授業の実施へ知恵を絞れ」
(2020年8月16日 読売新聞社説)
「コロナと大学 『学費返せ』の不満解消を」
(2020年8月23日 産経新聞社説)


大学のコロナ対策としてのキャンパス閉鎖が叩かれている。
一読して、マスコミはとにかく「理に適っているかどうか」など一切関係なく、世の中が不安定になるように世論をかき乱したいだけなのだな、ということがよく分かる。人は社会不安になると、情報を求める。そういう原理で自分達の利益をあげることしか考えていない。

僕の教えている大学でも、秋以降の後期授業が原則としてリモート授業になることが決まった。各社説が言っている通り、今年から大学に入った1年生の中にはまだキャンパスに足を踏み入れていない学生も多く、気の毒というほかはない。学費を払っているのに、それに見合ったサービスを受けられていない、と感じるのももっともだろう。

しかし、その非は大学に負わせるべきものなのか。
コロナウィルス禍は、一種の災害だ。大学はそれに対処しているだけであって、そもそもの原因が大学にあるわけではない。いわば「誰のせいでもない事態」「しかたがない事態」なのだ。一般読者もそんなことはよく分かっているだろう。しかし、やるせない。誰かのせいにして責めたい。そんな稚拙な市民感情を汲み取って発散させ、溜飲を下げることだけを目的にした愚劣な社説だ。

各社説では、勉強の環境を害された学生の苦悶の声を挙げている。

「しかし、教師や友人と顔を合わせて議論を交わしながら、学問を身につけていくのが学生の本来の姿だ。芸術系の大学などではとりわけ高度な実技指導が欠かせない」
(毎日社説)

「大学の学生アンケートでは、遠隔授業について「自分のペースで勉強できた」と評価する声がある一方、「集中できない」「質が低い」との不満も出ている。学習意欲の低下につながることが懸念される」
(読売社説)

「萩生田光一文科相は今月中旬の会見で『学生が納得できる質の高い教育を提供することは必要不可欠』とし、それができない場合、『授業料の返還を求める学生の声が高まることも否定できない』と厳しく指摘した」
「文部科学省は大学に対し、後期から対面授業の実施を促す通知を出した。萩生田文科相は『小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか』と苦言を呈した」
(産経社説)


こういう社説を読んで非常に違和感を感じるのは、大学生は普段からそんなに勉強に熱心なのだろうか、ということだ。社説ではやたらと「勉強したくてしたくて仕方がない学生が、その機会を奪われて憤懣やる方ない」という論調だが、コロナ禍になる前の大学では、そんなに勉強熱心な学生ばっかりだったのだろうか。

読売新聞ではリモート授業の弊害として「学生アンケート」なるものを根拠にしているが、そもそも読売新聞がどうやってそんな資料を閲覧できたのだろうか。大学が実施している学生アンケートは、教員の能力査定に直結するため、どの大学でも秘中の秘だ。僕の授業のアンケート集計結果も、取扱注意の朱書きつきの封筒に厳封されて書留郵便で届く。

大学が対面授業を再開しない理由は簡単だ。100%間違いなくクラスターが発生するからだ。
しかも、大学が懸念しているのはクラスターそのものではない。クラスター発生に対する一般世論の反応だ。

コロナ禍で社会の閉塞感が蔓延し、ストレスがたまった人達がでている。そういう人達は、学校のような集団で感染者が発生すると、まるで社会の害悪のように罵声を浴びせ非難する。感染者が出た学校に対する中傷や脅迫は、もはや社会問題になっている。

『日本から出て行け』『学校つぶせ』…部活クラスターで中傷電話、生徒の写真も拡散
(2020年8月23日 読売新聞オンライン)

高校の部活動などで新型コロナウイルスの集団感染が相次ぎ、生徒らがネット上などで誹謗中傷される事態になっている。学校側には十分な感染対策が求められるが、批判にさらされる生徒には精神面の悪影響も懸念される。専門家は、コロナ禍で不安や不満を募らせた大人が、生徒らをスケープゴートにしないよう呼びかける。

 「日本から出て行け」「学校をつぶせ」
 9日以降、サッカー部員らの感染者が約100人に上った松江市の私立立正大淞南(しょうなん)高校では、学校の批判に加え、生徒を中傷するような電話が80件を超えた。

 集団感染は、部員の大半が寮で共同生活していたことが原因とみられ、同校は記者会見で「学校側の対策が十分ではなかった」と謝罪。そのうえで「生徒に落ち度はない」と強調したが、ネット上では、生徒の活動を紹介する同校の公式ブログも標的となった。

 7~8月に行われた島根県の独自大会で準優勝した野球部の部員を、屋外でサッカー部員らが祝福する写真に対しては、「マスクも着けずにコロナをばらまいている」との批判が殺到。同校は「生徒個人が特定される」として写真を削除したが、テレビの情報番組などが取り上げたこともあり、さらに拡散。島根県は8月21日、写真が転載された十数件のサイトについて「人権侵害の恐れがある」として松江地方法務局に通報し、削除要請を依頼する異例の対応を取った。

 生徒の心身の不調を懸念した同校は、島根県臨床心理士・公認心理師協会に協力を依頼。約50人から「寝られない」などの相談が寄せられているという。

 学校関係の集団感染は、天理大ラグビー部や日本体育大レスリング部、福岡県大牟田市の私立大牟田高などでも起きている。

 児童生徒を中傷や人権侵害から守るため、独自の取り組みを行うのは三重県教育委員会。5月中旬から新型コロナの感染者らを中傷するインターネット上の書き込みなどについて専門業者に委託してパトロールしている。公立小中学校や県立学校の校名が書かれた中傷などの書き込みがあれば県教委が各校に連絡して対応を依頼する。これまでに「感染者が出た学校に近くて怖い」といった書き込みが確認されており、県教委は「早期に学校などと連携し、児童生徒を中傷などから守っていきたい」としている。


つまり、大学としては学生感情を考慮して対面授業を再開したくても、世の中がそれを受け入れるだけの許容性が無いのだ。特に都心部の大学が再開すると、大学構内だけの人的密集だけでなく、電車やバスなどの公共交通機関や店舗などの人が集まる場所の密集度合いが一気に高くなる。若い世代はとにかく移動範囲が広く活発なので、大学が再開することによって都心の人的な流動性が段違いに高くなる。それはコロナ発生の危険性に直結する。

また、産経社説が引用している通り、「小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか」という文句をいう人もいる。そういう人は、学校という場所がもつ機能を甘くみている。

学校というのは、勉強を教えるだけの場所ではない。情報として勉強内容を伝達するだけであれば、わざわざ皆が同じ場所に行って、同じ時間に、同じ内容を学ぶ必要など全くない。学校というのは学習内容の習得以外にも、人が集まる場所で集団に属し、適切な社会性を育む場所でもある。正課としての授業だけでなく、委員会活動、部活、課外活動など、様々な機会を通じて「集団における自分の位置づけ方」を身につける場所でもある。

そのような「社会性」の機能は、初等教育ほど重要性が大きい。非常事態宣言下で最初に学校再開の必要性が叫ばれていたのが、大学でも高校でも中学高でもなく「小学校」だったのは、そのためだ。小学校の機能は、勉強を教えることだけではない。児童はまだ地力で自分のあり方をアップデートする能力が身に付いていない。他者と接し、集団に属することでしか自分のあり方を確立することができない。リモート授業で勉強するべき「情報」だけを与えればこと足りる、というわけではないのだ。

それが大学になると事情が大きく異なる。基本的に大学生というのは、すでに自分の力で自分のアップデートをする能力を持つものだけが入学を許されるべき場所なのだ。初等・中等教育を通して、自分の適切なあり方を確立する社会性も、ある程度は身につけていることが要求される。そういう「大人」が集まるのが大学なので、大学の授業としてはリモート授業で代替できる部分が大きい。それが小学校との大きな違いだ。 「小学校が再開しているのに大学が再開しないのはおかしい」という主張は、「大学生の能力は、小学生の能力と同等だ」と主張しているに等しい。

新聞社説に掲載される大学生の不満は、主に「リモート授業の質が低い」という形で報じられることが多い。勉強意欲が猛烈に高いお利口な大学生が学ぶ機会を奪われている、という論調が多い。しかし本当のところ、大学生が不満を感じているのは、リモート授業そのものではなく、学校という枠組みがもつ「社会性」という機能を享受できないことではないか。友達と会えない、知らない人と知り合う機会がない、人から刺激を受けて自分を変えていく機会がない、そういう「社会性」の欠如が、学生の不満の根源だと思う。

しかし、それを言葉にすると「人と会えなくて寂しい」という、自分のパーソナリティの欠落を訴えるような不満に聞こえてしまう。堂々と主張するには恥ずかしい。だから不満の出し方としては「リモート授業の質が低い」という言い方にならざるを得ない。
つまり、大学生の不満というのは、「現在の生活から社会性が欠落している不満」を「授業の質の不満」にすり変えていることに他ならない。

新聞社説はやたらとリモート授業の質の低さを糾弾しているが、そういう新聞社は実際の大学のリモート授業をどれほど見たことがあるのだろうか。
一般的に、対面で人に直接話すよりも、出版物やリモート授業で情報を流すほうが、情報量は多くなる。大学の授業は一般的に1コマが90分〜100分ほどだが、もしリモート授業で90分も一方的に喋ったら、おそらく対面授業3回分くらいの情報量になる。大学側もリモート授業実施当初からそのことには気付いており、事前に録画した内容を流すオンデマンド形式の授業を流す場合、90分の時間枠に対して授業動画は60分程度に抑え、のこりの30分は「能動的な演習問題」を課すように要請している。

実際にリモート授業を実施して僕が驚いたことは、普段の授業よりも脱落者が少ないことだ。
30〜50人くらいの講義の場合、だいたい毎学期ごとに10人程度の脱落者が出る。課題を出さない、試験を受けない、という単位の落し方もあるが、一番多いのは、そもそも教室に来なくなることだ。ところが今回、リモート授業を実施したら、授業登録者はすべて最後まで授業を受けて、課題を出し、試験を受けた。こんなことは初めてだ。

新聞社説は、暗黙のうちに「最新機器に疎い大学教授のオッサン達がつくるリモート授業なんて、どうせ質が低くて、面白くないものに違いない」という思い込みで書かれているように見える。特に産経社説は「大学が『レジャーランド』などと言われて久しいが、行かずともいいような大学には退場願いたい」など、もはや本筋とは関係ない中傷の仕方に帰着している。
大学教員を舐めてもらっては困る。自分が専門としている分野のことであれば、どんな形式であれ、その分野のことを語り尽くすくらいの能力など、どの教員にもある。それについて外野から質の低さを糾弾される程度の授業などやっていない。

学校教育が語られるたびに、「実際に学校に通う必要などない。不登校上等。勉強などネットで十分。家でひとりで勉強すればそれでいいはず」などと嘯く輩が必ずいる。そういう輩に限って、今回のコロナ禍で「大学が閉鎖しているのはけしからん」などという自己撞着を振り回している気がする。学校の機能を「勉強を教えるところ」程度にしか考えていないから、そういう筋違いな主張を散蒔くことになる。安易に学校を叩くのは、容易に潰れることがない学校という機関の堅牢性に甘ったれているからだ。大学のコロナ閉鎖を非難している人も、大学授業が再開してクラスターが発生したら、手のひらを返して前以上に非難することになる手合いだろう。



イラついてるだけだろ。
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「論理国語」と「文学国語」

「高校の国語 文学と論理 境を越えて」
(2020年7月31日 朝日新聞社説)


朝日新聞という新聞社は、嘘はつくしデマはバラまくし捏造はするし、倫理観や社会的責任感は皆無だし、国を売り飛ばすような売国的な立場を貫くし、本当にどうしようもない新聞社だが、それでも出版界から葬り去るわけにはいかないのは、たまにこのような世の中の本質を問うような鋭い問題提起をすることがあるからだ。今回、全国紙5社のなかで、高校国語の新学習指導要領について触れた社説は朝日新聞だけだ。

22年度実施の新学習指導要領再編によって高校の国語は、論理的・実用的な文章を扱う「論理国語」と、文学的な文章を扱う「文学国語」という選択科目に分けられることになった。これに対して多くの作家や研究者が「文学軽視につながる」と異を唱えている、というのが問題提起の内容だ。その背景には、全体の授業時間の制約や受験への配慮などから「論理国語」が優先され、「文学国語」を採用する高校は少なくなるとみる予想がある。

日本の国語教育は、長らく「文学的素養」と「論理的思考能力」の区分を曖昧にし続ける方針をとって来た。その最たるものが読書感想文だろう。僕は中学時代、夏休みの読書感想文に、作品として作りが甘い箇所や表現が稚拙な箇所、話の流れが強引すぎて不自然すぎる箇所などを列挙した「批評」を提出したら、国語の先生にこっぴどく叱られた。どうやら日本の中等教育では、読書感想文というのは「人生の素晴しい面を新しく知って感動した」という内容でなければならないらしい。それ以降、僕は夏休みの読書感想文には、電話帳や地図帳や料理本など、物語性が皆無なものしか書かなくなった。

高校までの国語では、「文章を書く」という指導がほとんど読書感想文だけに限られる。しかも書かせっぱなしでフィードバックは無い。論理的思考能力に基づく文章を書く訓練をほとんど行わないので、大学に入ってから学生が困惑する。レポートや論文を「読書感想文をめちゃくちゃ長くしたもの」と思っている。現在の大学では、そういう学生に文章の書き方を一から教える不毛な授業が必修科目になっている。

現在の国語教育でも一応、読むほうでは「論理国語」に相当する論説文を扱っている。しかし書くほうとしては壊滅的な状態と言ってよい。今回の新学習指導要領再編は、「『文学国語』を弾く」というよりは、「『論理国語』を確保する」という側面のほうが大きかろう。はっきり言うと、文学なんて書けなくてもいいのだ。しかし論理的文章は、読めて書けなければならない。その質的・量的な区分けを明確にしようとする再編だろう。僕は個人的にこの再編は必要だと思う。

小説家というのは別に論理的な文章を書く必要はない。自分の内的世界を過不足ない形で表現すればいいだけだ。事実、小説家というのは世の中の事象について評論させると頓珍漢なことばかり言う人が多い。善悪の判断でさえ信頼できない人もいる。一般的に小説家というのは「文筆に関する職業」というだけの理由で「知的な人達」、と思われているようだが、本来的に小説と論理的思考能力は関係ない。小説を書くために必要な感覚的整合性と、緻密に理論を紡ぐ論理的思考能力は、もともと種類が違うものだ。小説家が査読に耐え得る学術論文を書けるわけではないし、研究者の誰もが売れる小説を書けるわけでもない。

ところが日本の国語教育ではその両方が混在しているので、子供はその境目が曖昧なまま文章生活を送る。「本を読む」という行いを「勉強する」という行いと同一視して忌避する子供が多いのは、その証左だろう。小説家の多くが今回の新学習指導要領再編に反対しているのは、何のことはない、いま小説が売れないからだ。学校教育で「文学」を国語教育の軸に据えていれば、まだ夏休みの読書感想文等で強制的にでも読ませることができる。しかしもし「論理国語」「文学国語」と明確に区分し、しかも大学入試では前者のほうが重視される、とされてしまえば、子供の文学離れが加速する。おそらくその程度の危機感ではないか。

はっきり言って、「文学国語」は無駄だ。無駄だからこそ、学校でしっかり教えなければならないものだと思う。文学国語に限らず、高校で習うほとんどの教科というのは、実生活では何の役にも立たない無駄なものばかりなのだ。無駄だから、学校を卒業した後に自分から身につけようとする機会がほとんどない。学校で習った内容だけが、一生を通してその人の知的財産に留まってしまう、という人は多いのではなかろうか。学校教育というのは、そういう無駄な知識を、いかにたくさん吸収する機会を提供できるかにその根源的な価値がある。そういう無駄なことをたっぷり教えることのできる時間、人材、教材、環境のゆとりを整えていることが、文明国としての指標だと思う。
小説だって、何の教養も無い人が素手で読めるものではない。段階を追って、徐々に読み方を身に付けなければならないものだ。それを発育段階に従ってしっかり教えることができるのは、学校教育以外には有り得ない。

ほとんどの人は、「読む」という行為を十把一絡げに考えていると思う。論理的に他者の論評を読むことと、楽しみのために小説を読むという行為には、違う能力が求められていることを知らない。どちらが大事か、という話ではない。生きていく上では両方無駄なことだ。無駄だからこそ、それをしっかり教える唯一の機会である学校教育を充実させねばなるまい。



朝顔、枯れちゃった・・・。
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「英語教育が改善された」という報道がない理由

「全国学力調査 格差解消につなげよう」
(2019年8月1日 朝日新聞社説)
「全国学力テスト 英語のデータをどう生かすか」
(2019年8月1日 読売新聞社説)
「英語での表現力不足 教師任せにしていいのか」
(2019年8月1日 毎日新聞社説)


全国学力調査で「生徒の英語力が低い」という社説。全国紙では朝日、読売、毎日の3紙が採り上げていた。
この手の話題では、絶対に揺るがない基本がふたつある。

ひとつは、学力調査の結果がどのようなものであるにしろ、マスコミが「日本人の英語力は伸びています。大丈夫です」と言うことは絶対に無い、ということだ。マスコミには、事実はどうであれ、「日本人の英語力は低くあらねばならない」という確固たる信念がある。その背後には、1000億円産業である英語教育業界・予備校業界から得られる広告費がある。読者に危機感を煽って、不安にさせて消費を引き起こそうとするのは、マスコミの基本原理と言ってよい。

多くの読者は、今回の学力調査の結果を自分で精査しようとはしない。今回のような社説を読んで、なんとなく「ああ、やっぱり日本人の英語力は低いのか」という印象を得るだけだ。マスコミが撒き散らす印象操作を鵜呑みにする読者がほとんどだろう。

しかし今回の調査結果を実際によく見てみると、読解力と作文力は伸びている。中学・高校での英語教育が本来的には「大学に入って学問研究を行なえること」、つまり「英語の論文を読めて、英語で論文が書けること」と考えると、今回の調査結果はかなり肯定的に読み取れる。

マスコミは事実に関係なく「日本人の英語力は弱い」という結論ありきで記事を書くから、その改善案も必然的にいいかげんになる。根本的な対策を立てられては困るからだ。毎日新聞などは露骨に無責任さを全開にしている。

教師は部活動や事務作業など授業以外の業務で忙しい。そのため、課題は分かっていても、一方的に知識を伝える昔ながらのスタイルを変えられないのではないかということも、これまで指摘されてきた。教師任せにするのでなく、地域と連携して外国人住民との交流の機会を増やすなど、英語に親しむ環境を授業以外にも広げていく仕組みを考えるべきだ。
(毎日社説)


そもそも全国学力調査は、学校教育の改善のために行なうものだ。その結果を受けて「学校に頼らず、その辺に住んでる外国人に任せたほうがいいんじゃね?」という、雑な提言だ。絵に描いたような本末転倒。もはや「提言」と呼ぶのもおこがましい。この毎日新聞の無責任極まりない書き方から、新聞各紙は本気でこの問題を解決しようという気などさらさら無い、ということがよく分かる。


もうひとつの基本事項とは、そもそも中・高の英語教育で「コミュニケーション能力」なるものが一向に改善されない理由だ。誰もが本当の理由などよく分かっている。はっきり書いてはいないが、読売新聞がそれをちらちら伺わせている。

生徒の英語力を高めるには、教員の指導力向上が不可欠だ。文科省は、公立中学校で英検準1級以上を持つ英語教員の割合を50%にする目標を掲げたが、まだ36%と伸び悩んでいる。教員の自己研鑽が欠かせない。英語のコミュニケーション能力を身につけられるよう、自治体は、研修の態勢を整えるべきだ。
(読売社説)


「英検の準1級も受からない人間が、教壇で英語を教えている」という事実。もはや説明は不要だろう。日本の学校で音声会話に基づく「コミュニケーション能力」なるものが鍛えられない理由は簡単だ。そもそも教える側の教師にその能力がないからだ。教える側ができないのに、習う側ができるようになるはずがない。

現在、教壇に立っている現役世代の英語教師は、「自分たちが生徒の時代に受けた英語教育」と「これからやっていかなければいけない英語教育」が全然違う。必要となる英語能力を身につけていないし、そもそも自分がそういうやり方で教わっていないので、教え方が分からないのだ。

街の英会話学校の講師と違って、学校の教師に必要なのは専門分野の技能だけではない。教員採用試験も、専門技能が高い人を優先的に合格させるようにはできていない。各都道府県の教員採用試験で、専門能力の低い者が不可解な優先合格を受けるのは、もはや公然の事実だろう。

つまり、根本の原因となる「教師が無能だから」を抜本的に改善しようと正論を振りかざすと、いろんな虎の尾を踏んでしまうのだ。僕は個人的に、全英語教師のTOEIC、TOEFL、英検のスコア・資格を公表するべきだと思っている。しかしそんなことを実行しようとしたら、現場は大混乱になり、資格が認められるべきではない不適格英語教員が大量に出てくるだろう。

今回に限らず、「日本の英語教育は」のような話題が出てくるとき、マスコミは本気でその問題を解決しようとは決して思っていない。むしろ解決されては困る場合が多い。しかし学生時代に英語に苦労したのは日本人全員に共通している原体験であり、記事として読者の目を引きやすい。「決して解決しないので、叩くだけ叩ける」「困ったときにはこの話題さえ出しておけば、注目を集められる」という、お得なトピックなのだ。

それが証拠に、同じ議論を何年も何年も繰り返し、提言の内容だけでなく、議論の仕方からして全く変わっていない。変える気が全くない。マスコミの意図通り、これから先も問題提起だけ頻繁に行なわれながら、一向に解決しないままだろう。



マスコミにとって「解決されたら困る問題」のひとつ。
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大学に向かない人々

こないだ、Twitterにこんなことを呟きましてね。


twitter


そしたら意外に反響が多くて、中には「詳しく説明してくれ」なんてコメントまで入れる人がいる始末。


はぁ?


大学進学率が57.9%に達する現在、日本で普通に中学、高校まで勉強していれば、「大学とは何をしに行くところなのか」くらい分かっていそうなものなのですが、大学がどういう所なのか分かっていない人が多いようです。大学で教えていても、分かっていない大学生が多いような気がします。

まぁ、上に挙げたすべてについてくどくど話していると愚痴話になってしまうので、一番勘違いの多い

・有用な勉強とは「日常の役に立つこと」である

だけについて話をしましょうかね。


僕は大学の授業で、毎学期、初回の授業で学生にアンケートをとる。
その中に必ず「中学・高校で習った教科のうち、必要ないと思う教科は何ですか」という質問を入れている。

不人気教科はおおむね日本史、世界史、数学、物理、化学、古典、漢文といった辺り。理由はすべて同じで「日常生活で使わないから」「役に立たない知識だから」というものだ。
学生はとにかく「役に立つ勉強」が大好きだ。ところが一歩突っ込まれて訊かれると、己の知見の脆弱さを簡単に露呈する。僕の経験からすると、「役に立つ科目」を優先して勉強しようとする学生に、優秀な学生はいない

件の命題を盲信している学生の共通点は、ことばを雑に扱い、「理解したつもりになっている」ことだ。
「有用な勉強とは『日常の役に立つこと』である」という命題には、その意味をよく考えなければならない言葉がふたつある。
「日常」と「役に立つ」のふたつだ。

まず、僕がいつも不思議に思うことがある。


なぜ学生は、そんなに「日常」が好きなのだろうか?


「日常の役に立つ」ということは、「毎日毎日、当たり前に過ごしている生活」を軸として知的活動を捉えている、ということだろう。ところが、そういう学生に限って、退屈な「日常」を忌避し、「すばらしくワクワクする非日常」に惹かれる傾向がある。具体的に言うと、大学の授業に出席することが当たり前の大学生活に嫌気が差し、授業をサボって遊びに行く、という行動をとることが多い。

旅行が好きな人は多いだろう。旅行というのは、繰り返される、決まりきった退屈な日常生活から「逸脱」し、非日常の世界を体感させてくれるものだ。毎日毎日、決まった日課の毎日を過ごしているからこそ楽しい。多くの人は、日常生活にありふれている身近なことよりも、旅行で体感できる珍しい体験のほうが、ワクワクするものではあるまいか。

ところがそれを、知的生活に置き換えて感じることができない学生が多い。
極論してしまえば、大学で学ぶ学問のほとんどは、日常生活には全く関係ないものばかりだ。惑星の周期計算をする天文学だって、微生物の特徴を研究する生物学だって、人間の経済活動の一般法則を導く経済学だって、物体の動きを定式化する物理学だって、すべて「日常生活」とは全く関係ない。

そして、学問というのは「日常生活とは全く関係ないからこそ楽しい」のだ。「日常生活」なる身近なものに近しい分野であれば、何の楽しいことがあろうか。
大学で学ぶ学問分野というのは、いってみれば知的な「旅行」に相当する。日常生活に退屈を感じたときに知らない土地に旅行するのが楽しいように、日常生活にまったく関係ない世界を知る知的興奮こそが、大学で学ぶことの本質なのだ。

「◯◯◯という分野は日常生活の役に立たない」などと嘯く学生に限って、大学の授業に意義を見いだせなくなり、大学に来なくなる。では大学に来ずに何をやっているのかというと、別に何もやっていないのだ。日常に埋没し、生活に退屈を感じるようになり、無気力な毎日を過ごすようになる。
中には「自分の知見を広げるために日本一周の旅に出ます」などという本末転倒の学生もいる。「日常から離れた、自分の知らない世界を見たい」と口で言っておきながら、「日常から離れた、自分の知らない分野について学びたい」とは思わない。

繰り返すが、大学で学ぶ学問分野は、日常とはかけ離れた、毎日の生活には関係ないものばかりなのだ。そういう「未知の世界」を存分に学べる環境に身を置いておきながら、「授業が退屈なので未知の世界に旅に出ます」という、矛盾した行動をとっている。僕は個人的に、そういう学生は、たとえ世界一周の旅をしたとしても、得るものなど何もないと思う。

大学で研究をしている研究者のほとんどは、「日常生活なんて知らねぇよ」と思っている。毎日繰り返される日常生活よりも、自分が夢中になっている分野のほうに心を惹かれる、いわば社会的不適格者の集まりだ。
よくある大学教授のステレオタイプとして、「自分の専門分野については物凄く詳しいが、一般的な常識でも知らないことがある」というのがあるが、さほど間違ってはいない。専門分野の研究者にとっては、「日常」という場でうだうだと管を巻いているよりも、自分が専門としている「非日常」の世界で遊んでいるほうが、楽しいのだ。

大学の学問の意義についての話になると、学生はやたらと「日常生活」「日常生活」と繰り返す。そんなに日常生活が大好きなら、お前ら今後一切旅行に行くなと言いたくなる。


もうひとつの言葉、「役に立つ」にも、学生が暗黙のうちに無視している意味がある。
「役に立つ」というのは、どういう意味なのだろうか?

誰でも家族は大切だろう。親友がいる人もいるだろう。
では、なぜ家族は大切なのか?なぜその人はあなたの親友なのか?


「役に立つ人」だから大切なのか?


「役に立つ」というのは、もともと「道具」に対して使う言葉だ。「本質」に対して使う言葉ではない。
人間が生きていくうえで大切なことは数多あろうが、「なぜ、それが大切なのか?」というのは、言葉では説明できないことばかりなのだ。「役に立つ」から両親が大切なのではない。「役に立つ」から自分の子供を慈しむのではない。「役に立つ」から親友は親友であるわけではない。

つまり、何かに「役に立つのか」という価値基準をあてはめた時点で、それを「道具」として見なしていることになる。
新学期、新しいクラスになって、いままで知らない生徒と一緒になる経験は誰でもあるだろう。この中から誰と誰が自分と友達になってくれるのか、誰を仲良くなれるのか、ドキドキした経験は誰にでもあるだろう。
そのとき、「仲良くなれる友達」の基準として、「誰が自分にとって役に立ちそうな人間なのか」という価値観でクラスメートを値踏みしていただろうか。「役に立ちそうな生徒とは付き合う」「役に立ちそうもない奴は切り捨てる」という態度で、クラスメートに接していただろうか。

かように「役に立つ」「役に立たない」という価値観でなにかに接することは、下品なのだ。ものの本質を見ようとせず、「自分にとって使える道具か否か」という視点しかない。そういう見方で森羅万象、あらゆることを理解しようとする姿勢は、廻り廻って自分の視野を狭め、生きる楽しみを失わせることになる。

僕は長いこと大学にいるが、断言してもいい。大学で「自分の分野は世の中の役に立つ」と思って研究している者など一人もいない
大学の研究者がその分野を研究している理由はただひとつ、「面白そうだったから」なのだ。

誰でも、なにか好きな分野があるだろう。別に学問分野でなくてもいい。漫画でもゲームでもアイドルタレントでも何でもいい。いま自分が夢中になっているものをひとつ挙げてほしい。
その「自分の好きなもの」について、週に1回、90分、一年で30回、50人くらいを前に、その魅力を延々と話し続けることができるだろうか。

大学の講義というのは、つまるところ「日常生活にまったく関係のないひとつの分野に取り憑かれた変態が、1年間で30回、毎回90分、その分野の面白さを好き勝手に喋っている場」なのだ。シェイクスピアについて、ウナギの生態について、国際紛争の解決方法について、目を輝かせながら延々と喋り続ける変態、それが大学教員だ。

ただ「好き」というだけでは、そんなに話のネタは続かない。ものを好きになるにも、その深さを極めるための方法論があるのだ。大学教授と呼ばれる人種は、その深さを延々と掘り続けているような人々だ。決して、高い山に登ろうと決意して着々と努力し続けた人ばかりではない。むしろ「きれいなチョウチョを追いかけて走り回ってたら、いつのまにか山の頂上にまで行き着いてしまった人々」と言った方が実情に近い。

誰でも子供のころに熱中したものがあるだろう。電車が大好きで、路線の駅を全部暗記した子供もいるだろう。ポケモンが大好きで登場キャラと出現分布をすべて覚えてしまった子供もいるだろう。毎日ゲームばかりやり続け、ネット対戦で軒並みハイスコアを更新し続けた子供もいるかもしれない。
では、はたしてそういう経験は、その後の人生において、いったい何の役に立っただろうか

人が何かに熱中するとき、その根本原理は「楽しいから」だけだ。役に立つかどうかなんて知ったこっちゃない。知ることが好きで、覚えることが好きで、新しい技術を身につけることが好き。それが役に立とうが立つまいが関係ない。人生において、心から楽しめることのほとんどは、役に立たないもののほうが多い
大学での学問も、基本的にはそれと同じことなのだ。役に立つかどうかなんて知ったこっちゃない。自分の日常とは関係ない所に、こんなに広く深い世界がある。その未知の世界に足を踏み入れる知的興奮が全てと言ってよい。

世間一般にあまりこういうことが話されないのは、大学で教えている立場であれば、そういう事は口に出して言うべきことではない、と誰もが知っているからだ。本音としては自分の専門分野を「楽しいから」という理由で研究している研究者も、大学や国から研究費をもらっている。税金をいただいて研究をさせていただいている身としては、ありのままに「役になんて立たないっす。面白いからやってるだけっす」と放言するのは、モラルとして許されない。だから誰もが方便として「こんなに人間の集合知に対して貢献しているんですよ」というおためごかしを用意している。大学人であれば最初に身につけるべき「社会的常識」だ。


そういう変態が集まって好き勝手なことを喋りまくっている大学という魔窟で、学生としてはいったい何を学ぶべきか。
卒業するときに、「教養」が身に付いていれば、ある程度大学でちゃんと勉強をしたのではないかと思う。

「教養」という言葉は、一般的に「いろんな知識が頭に入っている」というイメージで捉えられていると思う。しかし、僕は逆だと思う。「教養」というのは「頭の中に詰め込まれた知識」に関する概念ではなく、「まだ頭の中に入っていない知識に対する敬意」のことだ。

「教養のある人」というのは、日常生活に例えれば、「旅行が好きな人」に相当すると思う。決まった場所、決まったお店、決まった行動範囲だけを惰性で繰り返すのではなく、新しい所に行きたがる。知らない世界に興味をもつ。それと同じことで、「教養ある人」というのは、自分の知っている分野、すでに知っている知識だけに捉われず、常に新しい知的体験を求める。

つまり「教養」というのは、端的に「知的好奇心」と言い換えてもよい。「この分野、よく知らないからパス」ではなく、逆に「よく知らないから、もっとたくさん知りたい」という姿勢のことだ。だから教養のある人というのは、人の話をよく聞く。自分のまだ知らないことを、貪欲に吸収しようとする。

先ほども言ったように、大学で教えている先生というのは、根本的には「あるひとつの分野の研究に、一生を捧げようと覚悟した人たち」なのだ。つまり大学で学ぶどの分野も、ひとりの人間を一生虜にするだけの魅力がある。その魅力を感じ取り、その分野がなぜそんなに面白いのか、それを知ろうとする大学生活を送れば、一生退屈しないだけの「教養」が身に付くと思う。

日本は平均年齢が伸びすぎ、定年退職後の生き方について、道を見失う人が多い。何を生き甲斐にして生きればいいのか、毎日何のために生きればいいのか、燃え尽き症候群のようになる人が多いそうだ。
体力とお金があれば、旅行をするのも良かろう。いままで行きたかったけど行けなかった場所に、のんびりと旅をするのはよい老後のすごし方だと思う。しかし、そこまで体力とお金に余力のある人というのは、それほど多くあるまい。

しかし、大学教育で身につけた「教養」を下敷きとした「知的な旅」ができれば、お金も体力もいらない。いままで知らなかった分野を勉強し、いままで知らなかった世界の広がりを感じて、知的興奮を楽しむ能力があれば、毎日家にいながらにして新しい世界への旅が経験できる。大学教授の変態っぷりでも分かる通り、学問というのは、分野の数だけそれぞれの興奮がある。それを体感できれば、生きることも楽しくなる。

文部科学省はそういう知的生活のことを「生きる力」という言葉で表現している。曖昧すぎて一般には理解されていないだろう。しかし、「知ること」「学ぶこと」が自力でできることは、子供がわくわくしながら電車の駅名を覚えるのと、根本的には同じことなのだ。毎日の生活で確かな成長を感じることができ、自分の世界がどんどん広がっていく実感がある。
つまり、大学で学ぶべきことをしっかりと学び取った人というのは、「一生、退屈しないで暮らしていける人」と言える。

もちろん、すべての人がこのような恩恵にあずかれるわけではない。大学教育というのは、基本的には「経済力と能力のある人だけが許される『贅沢』」なのだ。そこのところを誤解している人が多いと思う。
大学の勉強というのは、基本的には日常的に何の役にも立たない。そのような「役に立たない勉強」に熱中する人だけが、大学に入ればいい。だから、「この分野は何の役にも立たないから勉強する意味がない」と嘯く人は、そもそも大学という場に用がない人達なのだ。役に立つ勉強がしたければ、さっさと大学なんて役に立たないところは退学して、専門学校に行けばいい。「役に立つこと」を、たくさん教えてくれる。教育を受けるということがどれほど贅沢なことなのかを分かっていない人が、大学で学んでも意味がない。

このような、大学で身につけるべき「知」のあり方は、小学校、中学校、高校までに求められる「知」と、根本的に違う。だから高校までの勉強のしかたと、大学から先の「知」が目指すものとのギャップに戸惑い、「勉強とはどういう営みなのか」が分からなくなる学生が多い。
学生が不満に思うのは、興味がある・無いに関わらず、勉強しなければならない科目を一方的に押し付けられることだろう。自分の興味のある分野を選んで学べばいい大学とは異なり、高校までの科目というのは基本的に自分では選べない。

高校までで習う科目というのは、端的に言うと「いままで人類が有史以来築き上げてきた『知の集積』の、ほんの上澄みの部分だけを、味見させてくれるもの」なのだ。「日常生活で使わないのに、漢文なんて習わなければならない」のではなく、「漢文を学べば、3000年以上前の時代に何が起こっていたのかを知ることができる」のだ。そういうことに全く興味を示さない人は、文字通り、学ぶ必要はない。前述の通り、「勉強とは贅沢なもの」だからだ。

ただし、そうやって興味のない科目をどんどん切り捨てていく人は、あとになって「自分には学ぶチャンスがなかった」などという泣き言を一切言う資格はなかろう。世界には、学びたくても学ぶ環境になり不幸な人達がたくさんいるのだ。自ら望んでそういう境遇に身を墜としたければ、構うことはない、学ぶことを止めてどんどん墜ちればいい。

高校までの授業でやっていることは、実は「勉強」とはとても呼べない程度の内容なのだ。あれは単なる「知識のサンプル」であって、本来の分野から言えばほんの小さな箱庭を覗かせてもらっている程度に過ぎない。大学に入ってから、本格的に知的好奇心を存分に発揮して「知の冒険」をするための、基本装備を身につけさせてもらっていると思えばいい。どんな教科も、大学に入ってから己の中に大きな建造物をつくるための「知識のレンガ」を、ひとつひとつ身につけている段階なのだ。例えば、大学に入ってから昆虫に興味をもって本格的に勉強しよう、とする可能性のために「そもそも世の中には昆虫というのがいる」ということを教えてもらっているに過ぎない。

ただし、ひとつだけ例外の科目がある。数学だ。
数学という科目だけは「箱庭程度の知識のレンガ」ではない。「そのレンガをどのように組み合わせればいいのか」という、知の体系を作るための方法論を学ぶ科目だ。数学という科目は、個々の具体的事象をどのように繋ぎ合わせ、どのように体系化すればいいのかを学ぶ科目だ。この方法論を身につけていないと、大学でどんなに勉強をしても、単発知識を数多く知っているだけの「雑学王」で終わってしまう。知識の網を張り巡らし、自分の中で体系化する能力が身に付かない。数学という科目だけは、初学者にわかりやすく事実をデフォルメする「理想化」が無いので、中学校でも、高校でも、大学でも、同じ原理・原則が通用する。数学だけは最初から「箱庭」ではなく「本物の世界」を相手にする科目なのだ。

マンガ『東京大学物語』の中に、矢野先生という怖い数学の先生が登場する。高校三年生の数学の授業で、矢野先生は卒業していく生徒を前に、最後の授業で「本当に人生に役立つ学問は、数学だけである」と言い放つ。

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矢野先生の言う通り、学校で習う学問分野の中で、数学だけが唯一、役に立つ。正確には、数学という学問だけが、「役に立つ」「役に立たない」という尺度で計ることができる。つまり、数学だけが「道具」として使える学問なのだ。その道具の汎用性は、ほぼ世の中の学問分野全てを網羅する。数学的な思考法と発想法がない人間が、大学に入ってから「知の冒険」を行おうとしても、剣をもたずにフィールドに踏み込むロールプレイングゲームの主人公の如し、ろくに戦えないだろう。理系分野に限らず、文学だろうと歴史学だろうと法学だろうと社会学だろうと経済学だろうと、数学を学んでいない生徒が丸腰で挑んでも、新しい「知の創出」はできない。数学を学んでいない人は、知識を体系化する方法論を持たない

ところが学生の多くは「学校の科目に数学はいらない。なぜなら日常生活で役に立たないから」と平気で口走る。大学というところはどういう所なのか、役に立たないとはどういう意味なのか、一切考えようとしない。そういう学生は、どんなに本人が真面目に勉強しているつもりであっても、大学で得られる一番大きなものを得ることなく、無為に4年間を送ることになるだろう。


学生に話を訊いてみると、彼らが言う「役に立つ勉強」というのは、つまるところ「就職活動に有利になる勉強」のことを指していることが多い。彼らは目先の就職活動に恐怖を感じるあまり、「就職の役に立たない勉強」をいっさい切り捨てにかかっているのだ。だから「授業に出ないで就活セミナーに参加する」という学費の無駄遣いをしても平気だ。学生の多くは「生涯にわたって知的興奮をもたらしてくれる知のあり方」などに興味はない。「内定を取れるために必要な知識」だけが欲しいのだ。彼らにとって、大学など「就職予備校」でしかない。

だから、一旦就職してしまえば、大学教育で得たものがすべて不要になってしまう。いい会社に就職できることが、大学受験の勉強を頑張ったご褒美だと思っている学生も多い。そんな人が就職したところで、会社と家を往復するばかりの毎日で、たまの週末には家でごろ寝するだけの退屈な生活を送るようになるのが落ちだろう。知的好奇心など皆無。知らない分野を新たに知ることなど、面倒なことこの上ない。
たまに旅行に出かけたとしても、未知の世界に踏み込む知的冒険を「無駄な勉強」と切って捨てる程度の人間が旅行で味わえるものなど、たかが知れている。ガイドブックに載っている場所を廻り、インターネットで評判の高いお店で食べ、みんなに好評を得られる景色を写真に撮りSNSにアップロードして「いいね!」を押してもらう。つまり、すべてが「他人によって決まる旅」でしか無いのだ。自分で「これが知りたい」「ここに足を踏み入れたい」という姿勢を常日頃からつくりあげていないと、その程度の体験しかできない。

僕は、普段の大学の授業では、学生に対してこういう話はしない。これは単に僕が考えている、僕の意見に過ぎないからだ。学生に押し付けるつもりは毛頭ない。役に立たない学問だと思うなら遠慮なく切り捨てればいい。大学教育が役に立たないと思うなら遠慮なく退学すればいい。就活に血道をあげる4年間がお好みならそれも良かろう。こちらとして出来ることは、学ぶ意欲がある学生に、自分が持っている興味関心の話をするだけなのだ。それを得るか捨てるかは、学生が各自で勝手に判断すればいい。



他の項目についても気が向いたら書きますかね。

小言癖

『父は忘れる』
(リヴィングストン・ラーネッド)

坊や、きいておくれ。

おまえは小さな手に頬をのせ、
汗ばんだ額に金髪の巻き毛をくっつけて、
安らかに眠っているね。

お父さんは、ひとりで、
こっそりおまえの部屋にやってきた。

今しがたまで、
お父さんは書斎で新聞を読んでいたが、
急に、息苦しい悔恨の念にせまられた。
罪の意識にさいなまれておまえのそばへやってきたのだ。
  
お父さんは考えた。
これまでわたしは
おまえにずいぶんつらく当たっていたのだ。

おまえが学校へ行く支度をしている最中に、
タオルで顔をちょっとなでただけだといって、叱った。

靴をみがかないからといって、叱りつけた。

また、持ちものを床のうえに
放り投げたといっては、どなりつけた。

今朝も食事中に小言をいった。
食物をこぼすとか、丸のみにするとか、
テーブルにひじをつくとか、
パンにバターをつけすぎるとかいって叱りつけた。

それから、おまえは遊びに出かけるし、
お父さんは駅へ行くので、一緒に家を出たが、
別れるとき、おまえは振り返って手をふりながら、
「お父さん、行っていらっしゃい!」といった。
すると、お父さんは、顔をしかめて、
「胸を張りなさい!」といった。

同じようなことが
また夕方にくりかえされた。

わたしが帰ってくると、
おまえは地面にひざをついて、
ビー玉で遊んでいた。

ストッキングは
ひざのところが穴だらけになっていた。
お父さんはおまえを家へ追いかえし、
友だちの前で恥をかかせた。

「靴下は高いのだ。
おまえが自分で金をもうけて買うんだったら、
もっとたいせつにするはずだ!」

これが、お父さんの口から出たことばだから、
われながら情けない!

それから夜になって
お父さんが書斎で新聞を読んでいるとき、
おまえは、悲しげな目つきをして、
おずおずと部屋にはいってきたね。

うるさそうにわたしが目をあげると、
おまえは、入口のところで、ためらった。

「何の用だ」とわたしがどなると、
おまえは何もいわずに、
さっとわたしのそばにかけよってきた。

両の手をわたしの首に巻きつけて、
わたしにキスした。

おまえの小さな両腕には、
神さまがうえつけてくださった愛情がこもっていた。  

どんなにないがしろにされても、
決して枯れることのない愛情だ。  

やがて、
おまえは、ばたばたと足音をたてて、
二階の部屋へ行ってしまった。  

ところが、坊や、
そのすぐあとで、
お父さんは突然何ともいえない不安におそわれ、
手にしていた新聞を思わず取り落としたのだ。

何という習慣に、
お父さんは、取りつかれていたのだろう!  

叱ってばかりいる習慣…
まだほんの子供にすぎないおまえに、
お父さんは何ということをしてきたのだろう!

決しておまえを愛していないわけではない。

お父さんは、
まだ年端もゆかないおまえに、
むりなことを期待しすぎていたのだ。

おまえをおとなと同列に考えていたのだ。  

おまえのなかには、
善良な、立派な、真実なものがいっぱいある。  

おまえのやさしい心根は、
ちょうど山の向こうからひろがってくる
あけぼのを見るようだ。  

おまえがこのお父さんにとびつき、
お休みのキスをしたとき、
そのことが、お父さんにははっきりわかった。

ほかのことは問題ではない。  

お父さんは、おまえに詫びたくて、
こうしてひざまずいているのだ。  

お父さんとしては、
これが、おまえに対するせめてものつぐないだ。  

昼間こういうことを話しても、
おまえにはわかるまい。

だが、あすからは、
きっと、よいお父さんになってみせる。  

おまえと仲よしになって、
いっしょに喜んだり悲しんだりしよう。

小言をいいたくなったら舌をかもう。
そして、おまえがまだ子供だということを
常に忘れないようにしよう。  

お父さんはおまえを
一人前の人間とみなしていたようだ。

こうして、あどけない寝顔を見ていると、
やはりおまえはまだ赤ちゃんだ。

きのうも、お母さんに抱っこされて、
肩にもたれかかっていたではないか。

お父さんの注文が多すぎたのだ。




別に子供に対してだけのことじゃあるまい。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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