たくろふのつぶやき

お鍋には熱燗をつけてくれたまへ。

カテゴリ: Education

「5月病」というのはよく知られているが、「11月病」というのはあまり知られていない。


そりゃそうだろう。僕が勝手に名付けた症状だからだ。
僕の感覚では、5月病など屁のようなものだが、11月病は下手をすると大学生の一生を狂わせる。

11月病というのは、よくある大学生の戯れ言「自分とは何者なのか」という人生の迷いを指す。命名通り、11月あたりに発症する学生が多い。夏の浮かれた時期が過ぎ、涼しさから寒さへと気候が変わる頃になると、「いまやっていることが本当に自分のやりたいことなのか分からなくなってきたんです」のような、わけの分からないことをほざき出す。

大学生の5月病なんぞ、一種の燃え尽き症候群であることが多い。大学受験のストレスから解放され、勉強という「毎日やらなければならないこと」がなくなる。一人暮らしをはじめてする学生も多い。そういう時期、誰もいない部屋に帰ってひとり、何をすればいいのか分からくなってしまう。
まぁ、僕の感覚では、受験のための勉強など遊びのようなもので、大学に入ってからが本当の勉強の始まりだ。だから「毎日勉強しなくてもよくなった」というのは単なる学生の勘違いなのだが、まぁそれは言うまい。

その手の5月病は、夏が近づけば大抵は良くなる。6, 7月くらいになれば大学で友達もできてくるし、サークルや部活など自分の居場所がみつかる。「5月病が原因で大学をやめました」という学生は非常に稀だ。
基本的には11月病もそれと似たようなものだ。僕も11月病にかかった学生から相談を受けることがあるが、基本的に放っておく。年末が近づき、クリスマス特需で恋人ができ、冬休みに帰省して大学に戻ってくると、けろっと治っていることが多い。

ところが5月病と違って、11月病の自然治癒率は6割程度といったところだろう。1月末の期末試験が終わって、春休みが近くなっても、相変わらず生気のない目で相談に来る学生がいる。ここまでこじらすと、むしろ春休みは危険だ。大学は、夏休みよりも春休みのほうが長い。その春休みの間に11月病を悪化させ、4月になっても大学に戻ってこなくなる学生がいる。
お決まりの「自分探しの旅」にお出かけなのだ。

なぜだか知らないが、僕はこの11月病に対処する名人という評価をいただくことが多い。僕に相談しに来ると、人生の迷いが晴れるという評判が学生に回っているらしい。
迷惑千万だ。そんなくだらん評価のせいで、学生応対に時間をとられ、したい勉強もたまった仕事も削られる。我ながら「自分は教師に向いていないな」と実感する。

教師の側としてみれば、そういう学生への対処に方法には、ある程度の「定番のテクニック」はある。今では僕は、学生応対がどんなに面倒くさくても、作り笑いなど0.5秒で作れる。ひたすら聞き役に徹すること、学生に多く話させること、感情を否定せず、正論をぶつけず、共感に徹すること。昨今では大学教員はカウンセリングの研修が義務化されていることが多いので、どこかの段階でそういう対処の仕方を教わっている。

要するに「頷き魔になれ」ということなのだが、単なる首振り人形ではなく、学生が安心して相談できる教師になるためには、その根底で「自意識というのはいったい何なのか」ということを教師なりに理解している必要があると思う。それを直接的に学生に言うかどうかは別として、自分なりの「答え」として、「自意識」というものを形として掴んでおく必要があると思う。


「自意識とは何ぞや」という議論は、哲学や社会倫理学の分野では正体不明の議論が飛び交っているようだが、僕の考えでは、自意識の正体は時代によって変化しているものだと思う。


昔の日本は、「その人が何者であるのか」は、その人の外側で勝手に決められていた。両親は誰か、祖父母は誰か、祖先は誰か、どこの家の子供なのか、家業は何なのか、住んでいるのはどこなのか。こうした「血縁」「地縁」という因習によって、その人という存在は決まっていた。

アメリカ人は自由奔放、個人主義、能力主義に見えるが、実はそういう血縁や地縁を非常に重んじる。アメリカ人の男の子の名前の付け方に「(父親の名前) Jr.」という名前の付け方があるが、日本人は絶対にしない名前の付け方だ。日本では、父親の名前をそのまま息子に名付ける親はいないだろう。もともと移民の国で、全員がよそ者だった国だからこそ、「自分は何者なのか」を確立するためには「誰々の息子」という血縁にすがりたいのだろう。

現在でも、地縁や血縁によって自意識をつくる輩はいる。『ハリー・ポッター』に出てくる敵役ドラコ・マルフォイは、作品を一貫して「マルフォイ家のお坊ちゃん」という自意識に揺るぎがない。自分の内側に誇るものがなく、自分が何者であるのかを構成している要素がすべて「本人の外側」にあるものだ。
そういう自意識は現代では嫌悪される傾向にあるが、少なくともドラコ・マルフォイは作品中、「自分は何者なのだろうか」「自分はどう生きるべきなのだろうか」などという悩みは微塵も持っていない。蓋し、地縁や血縁という因習は、現在どう評価されているかは別として、揺るぎない自意識を提供してくれるものなのだろう。言ってみれば、そういう因習は、「自意識」という生きるうえで邪魔なものを、くるんで隠してくれる一種の社会装置だったのだろう。

現在では、そういうものはほとんど残っていない。生まれたときから両親との核家族で、祖父母とは夏休みに年に一回会うか会わないか。祖先の墓参りをすることもないだろうし、家業を継がなければならない学生など皆無に等しい。地縁や血縁によって自我を確立している若者は、今や絶滅危惧種だろう。

そういう時代では、「自分は何者なのか」が勝手に決まってくれないので、自分でそれを作らなくてはならない。その元手になるのが「能力」だ。自分はなにができる人間なのか。自分はいままで何を成し遂げてきたのか。そういう「自分の内側にあるもの」しか、自分という存在をつくりあげる材料がない。

能力によって自分が定まるということは、言い換えれば「他人の評価でしか自分が決まらない」ということだ。多くの場合、若者の能力というのは、他人に評価されて初めて存在することになる。「ルービックキューブで6面を揃えられます」などという、誰も褒めてくれない能力を持っていたとしても、「自分は何者であるのか」を確立する役には立たない。

他人の評価の最たるものが「就職活動」だ。能力を下地として、自分の価値が、他人に容赦なく判断される。お祈りメール一本で就活が刎ねられるということは、大学生にとって「お前には価値がない」という非情な宣告だ。そのため今の大学生は、日々、自分の価値を作り出すことに必死になっている。血縁によって家業を継いでいた時代には必要のなかった努力だ。

つまり、「自分が何者なのか分からない」という11月病の根っこをよくよく調べてみると、ほとんどの場合が「就職活動に対する潜在的な恐怖感」であることが多い。就職のために何か能力を身につけなければならない。他の人にはないオリジナリティーを身につけなければならない。大学生活のすべての努力、すべての生活が、「自分にしかない価値」を作るための競争と化している。ご苦労なことだ。

その努力に疲れた学生の行き着く先が「自分探し」だ。要するに、自分の能力を肯定的に評価できなくなっているのだ。「自分探し」をしている学生の多くは、本当の自分を探そうとしているのではなく、能力の不足から「本当になりたい自分」になれず、妥協できる落としどころを探しているに過ぎない。基本的な姿勢は「逃げ」なのだ。厳しく聞こえるだろうが、ほとんどの学生がやっていることは、要するにそういうことだ。

そういう学生が不真面目というわけではない。むしろ、11月病にかかる学生は、とても真面目な優等生が多い。
優等生ということは、言い換えれば、それまでの18年たらずの人生を「他人に評価されるために頑張ってきた若者」だ。両親の期待に応えたい。先生に褒められたい。友達に一目置かれたい。そのために努力を惜しまない。そういう一生懸命な学生が、大学後の進路に「いい子として頑張るだけではどうにもならない現実」が待ち構えていることに薄々気づきはじめ、それまでの努力の仕方が通用しなくなることに絶望し、11月病に陥る。

僕はそういう11月病患者の学生の話を聞く時に、必ず子供の頃からの趣味を聞く。子供の頃、楽しかった思いでは何か。なにか集めていたものはないか。何をしていた時に一番時間を忘れて熱中していたか。
子供の頃からの話を聞くのは、そういう学生は、いま現在、なにも趣味を持っていないことが多いからだ。「それさえしていれば人生は楽しい」という時間をもたない。ひどいのになると、「いまはそういう趣味に熱中している場合ではないから、封印しています」という学生もいる。

本末転倒だと思う。そういう学生は、自分の生き方を「なにをしたいか」ではなく、「なにをしなければならないか」だけでつくりあげている。就職活動という恐怖に立ち向かうために、それに役に立たないものは、趣味だろうが大学の授業だろうが、容赦なく切り捨てる。よく「こんな学問、なんの役に立つんですか」という質問をする学生がいるが、その「役に立つ」とは、多くの場合「私の就職活動に」という前提が隠れている。自分の将来、自分の進路、自分のいまの必要性、という狭い価値観でしか、世の中を見られなくなっている。

そりゃ、生きるのがつまらなくもなるだろう。酷なようだが、そういう学生は、人生がつまらないのではなく、自分で自分の人生をつまらなくしているのだ。
そういう学生だって、子供の頃からそういう価値観だったわけではない。それまでのどこかの時期には、「人生の何の役にも立たないこと」に熱中していた時期があるはずなのだ。そういう生き方を取り戻す以外に、11月病から立ち直る方法はないと思う。

僕に言わせれば、大学教師なんて全員、好きなことだけに熱中して、世のため人のため役に立つことなど知ったこっちゃない社会不適格者ばかりだ。僕も一応、研究者の端くれだが、自分の研究が世の中のために役に立つと思ったことなど一度もない。自分の研究が何の役に立つのか、と学生に訊かれたら、僕はいつも「役になんて立たないよ」と即答している。僕が自分の研究を続けているのは、それが役に立つからではない。単純に、自分の研究分野が好きだからだ。

日本は、どんな分野にでも、どんな対象にでも、それを専門に研究している学者がいる。そのひとりひとりをよく見てみれば、その分野に熱中している5歳児に過ぎない。駅の名前をひたすら覚えていたように、怪獣の人形をいじって遊んでいたように、化学式を覚えたり数式をいじったりしているに過ぎない。そのような熱中のしかたではなく、義務感と使命感だけで、数10年にわたる研究生活の集中力を保つことなど、人間にはできない。

11月病にかかった学生に応対するときには、最終的には「すべての人の期待に応えることなど、そもそも不可能だ」ということを悟ってもらうことになる。自分に肯定的な評価をする人がいれば、必ず否定的な評価をする人もいる。好きになってくれる人がいる代わりに、必ず誰かには嫌われる。進路を決める段階で、両親の期待とは違う道に進むこともあるだろう。「この子はできる学生だ」と評価してくれている先生の期待を裏切ることもあるだろう。僕なんてそんなことはしょっちゅうだった。

言葉にすると、「他人の評価を気にすることなく、自分が本当に熱中できることを見つけなさい」ということなのだが、そんなに簡単なことではない。18年以上の人生を他人の評価で塗りつぶしてきた真面目な若者にとっては、生き方を正反対にするほどの困難を伴うものだ。人はそんなに簡単に自分勝手にはなれない。サルトルの言う「自由という鎖」は、思いのほか現代の学生をきつく縛っているものなのだ。

付け焼き刃ではなく、自分の一生を支えてくれる本当の「自意識」というのは、「何ができるのか」という能力主義では身に付かないと思う。そういう能力主義は義務感に直結して、「しなければならないこと」で毎日を埋め尽くす苦難の道をつくりだす。
朗らかに充実した毎日を送るためには、「何をしたいのか」「何が好きなのか」で自分自身を作りだすほうが王道だと思う。学生は、したくもない努力を耐え忍んで褒められるよりも、本当に自分のしたいことをしている時のほうが、いい顔をするものだ。

そういう生き方をするために、具体的に何をすればいいのか。
それを訊かれたら、僕は「勉強しろ」と返事をすることにしている。大学生である以上、いま一番したいことは「勉強」であるはずだ。その言い方で語弊があるなら、「いま一番やりたいことが勉強である人だけが、高校卒業後の進路に大学を選ぶ」というのが本来あるべき大学進学のあり方だと思う。

「何の役に立つのか」などというくだらないことを考えず、将来につながる能力など関係なく、単純に、学んで面白い分野を自分勝手に勉強する。それが世の中の何の役に立つのか、自分の進路にどう利用できるのか、などのきれいごとは一切禁止。
目的のある勉強など、本当の勉強ではない。本来の勉強というのは、知ることを楽しみ、考えることを楽しみ、それまで知らなかった世界がどんどん広がっていくことを実感する知的興奮を味わうことだ。

「ただひたすらに勉強する」という、実際にやることは変わらない。しかし、「いい成績をとっていい就職をするために勉強する」という他人に評価されるための勉強と、「自分勝手に好きなことを学び散らかす自由奔放な勉強」とでは、それに向かう姿勢はまったく違う。
「一生懸命に勉強する」というのは、ちょっと違う。鉄道好きな子供が駅名をひたすら覚えることを「一生懸命」とは言わないだろう。


頭と尻尾だけをとってみれば、大学の授業に価値を見いだせなくなった学生に、「勉強に熱中しろ」と言っているわけだから、結論だけ聞きたい学生にとっては雲をつかむような話だろう。我ながら、禅問答に近いと思う。
青い鳥の話ではないが、本当に自分にとって必要なものは、意外に自分にいちばん近いところにある。勉強に迷う学生の解決策は、勉強にこそあるのではないか。もちろん、「嫌なものに立ち向かうことでしか困難は解決できない」のような、体育会系的で短絡的な考え方ではない。そんな安直な根性論では、長く続く人生を支えてくれる「自我の確立」など、とうてい無理に相違ない。



大学生たち!勉強はいいぞ!勉強は楽しいぞ!

math



現実的には、高校生は勉強の目的をどちらかに絞ったほうがいいよ。
「大学入試に合格する」か、「原理原則を徹底して理解する」か。



後者は大学入って以降の楽しみにとっときな。

大学入試問題を見ていたら、変な英文を見つけた。


To succeed financially without inheritance or advantages in an economic meritocracy lent individuals a sense of personal achievement that the nobleman of old, who had been given his money and his castle by his hater, had never been able to experience. But, at the same time, financial failure became associated with a sense of shame that the peasant of old, denied all chances in life, had also thankfully been spared.
(一橋大 2010年)


経済的能力主義のなかにあって、相続財産も有利な条件もなしに経済的に成功することによって、個人ひとりひとりは、父親から財産や城を譲り受けた昔の貴族では決して経験しえなかったような個人的な達成感を得られるようになった。しかし同時に、経済的な失敗は、人生におけるあらゆる機会を奪われていた昔の農民がありがたいことに感じずにいられていた、恥の意識と結びつけて考えられるようになった


まぁ、構文と文法の知識がない人が、単語だけのイメージから文の意味を理解しようとしても、決して読めない類いの英文だろう。
いまの高校では、ちゃんとこの文が読めるようになる程度の英語の授業を行なっているのだろうか。

この文を読むために知らなければいけない文法事項はふたつある。まずひとつめは、動詞denyとspareの語法だ。
これらの動詞を覚えるときに、安易に単語帳に頼って、「deny: 拒否する」「spare: 〜なしで済ます」と覚えているだけでは、この英文はまったく手も足も出ない。

一橋大学がこの英文読解を課した意図は、おそらく「動詞はちゃんと構文まで含めて覚えていますか」ということだろう。動詞を覚えるときには、単語単独で切り離した「意味」だけでなく、文のなかでどのように使われるかという「構文」まで覚えていなくては、実際には使えない。

denyとspareは、両方とも第4構文(SVOO)がとれる。第4構文をとる動詞は、通称「授与動詞」といって、意味はおおむね「誰かに、何かを、渡す」という意味になることが多い。「渡す」のニュアンスには「伝える」「知らせる」「もたらす」など様々なバリエーションがあるが、ふたつの目的語にヒトとモノをとり、何かを相手に渡す、という意味になることには変わりない。

denyとspareはそれが否定になった語だ。だからdenyは「誰かに、何かを、与えない」、spareは「誰かに、なにか嫌なことを、押し付けない」という意味になる。ともに目的語としてヒトとモノをとり、その授与がブロックされる、というイメージをもつことが大事になる。
ここまでが、一橋大学が受験生に要求している「あたりまえの知識」に相当する。

ところがこの英文ではこれらの動詞のとる構文に、若干の変化が加えてある。一橋大学が要求している知識のふたつめ、「受身(受動態)というのは一体何なのか」という根本的な理解だ。

大学生に「受身って一体何なのか、説明しなさい」と問うと、ほとんどの学生が「何々されること」のように答える。要するに、意味を答えようとする。
受身というのは文の構造を変化させる文法事項だから、受身を定義するときは、文の構造に基づいた答えをしないと、その本質を理解したことにならない。

本当のところ、受身というのは「行為者が不確定なときに、目的語を、主語の位置に移したもの」だ。中学で受身を習うときに、よく能動態を受動態に書き換えるような練習問題をする馬鹿な教師がいるが、両者の構文は発話状況がまったく違う。I ate the apple.と The apple was eaten.は、表している状況がまったく違う。

I ate the apple.という文の場合、リンゴを食べた人間がはっきりしている。だから「僕がそのリンゴを食べた」でよい。しかし、受身というのは「行為者が不確定のとき・わかっていないとき」に使う。そういう時には、文の主語がはっきり定まらない。そういう困った時に、目的語の「リンゴ」を主語にもってきたものが受身だ。だからThe apple was eaten.の正しい訳は、「誰かがこのリンゴを食べた」である。受身の意味上の主語を「by 誰々」と書くのは、「あいつでもない、こいつでもない、誰でもない、他ならぬ私によって食べられたのだ」のように、行為者を他と対比する、一種の強調構文だ。発話の状況を無視して乱雑に両者を書き替えるような授業をしておいて、「コミュニケーション重視の授業」が笑わせる。

My hat has been sat on. という文を学生に訳させると、「私の帽子が座られている」という答えが多い。自分で何を言っているのか分かっているのだろうか。
受身の本質「主語が不確定」ということがちゃんと理解できていれば、「誰かがぼくの帽子の上に座っている」と、きちんと訳せる。

A tree is know by its fruit. という英文は、いままで授業で誰一人きちんと訳せた学生がいない。おおむね「木はその果実によって有名になる」のような誤訳が多い。
これも文が受身になっている理由「主語が不確定」というニュアンスを汲み取れば、「(誰だか分からない不特定のヒト)が、木を知る。それは果実によってである」という意味から、「木は、果実を見れば名前が分かる」と訳せる。

この国ではフランス語を使っています」を英訳しろ、という程度の、簡単な英作文が書けない大学生が本当に多い。いちばんひどいのは This country uses French. というへんてこ英文。国が喋るものか。しかもuseは目的語に道具がくるもので、少なくとも目的語に言語をとれない。
たとえ英作文であっても、「行為者が不特定のときには受身を使う」という基礎的なことが分かっていれば、French is spoken in this country. と素直に英訳できるはずなのだ。

当該の入試英文では、denyとspareの両方が受動態で使われている。denyのほうは形容詞的過去分詞、spareのほうは分かりやすく受動態になっている。
これらの構文をもとに、denyとspareの、SVOO構文のふたつの目的語がどこに行ってしまったのか、きちんと復元できるかどうか。それが、一橋大学が問うている問題だ。

この文の主文そのものは簡単だ。
[financial failure] became associated with [a sense of shame]
という、単純な構文。「経済的な失敗は、恥という感覚に、結びつけられた」という意味。これで文は終わっている。これ以下の部分は、関係代名詞thatに導かれてshameという名詞を修飾し、どういう「恥」なのか、を延々と説明している部分になる。

そのうしろに the peasant of old 「昔の農民」という名詞が出ているが、はじめて出てくる言葉なのに冠詞のtheがついている。これは「後ろにちゃんと説明がありますよ」という、修飾節による説明をつけるときのtheだ。その説明が、denied all chances in life になる。

denyがSVOOの構文をとることを知っていれば、形容詞的過去分詞になったときに「目的語がひとつ抜けてるな」という構造が簡単に見抜ける。ようするにもとの文では

denied (the peasant of old) all chances
「昔の農民に、あらゆる機会を、与えない」

という構文だったことが分かる。そのうち、直接目的語のthe peasant of oldが被修飾節として飛び出してしまっただけだ。だからここまでの部分で「人生であらゆる機会を与えられていなかった昔の農民」という長い名詞句が完成する。

これだけでも充分に入試問題としては難問の部類に入るだろうが、一橋大の問題が鬼なのは、これにさらにもうひとつ受身の構文を重ねていることだ。先に完成した長い名詞句が主語となって、述語のspareがさらに受身になっている。この文はsparedで終わっているため、SVOO構文の目的語が、ふたつともどこかへ行ってしまっている。

目的語のひとつめを見つけるのは簡単だ。受身なのだから、文の主語がもともとの目的語だ。それがthe peasant of oldに相当する。
もうひとつの目的語を探すときには、この文がもともと関係節にあることが分かればいい。関係代名詞thatの節が修飾しているもの、つまりa sense of shameがもうひとつの目的語になる。
だからspareの構文を復元してみると

spare (the peasant of old) (a sense of shame)
「昔の農民に、恥の意識を、味あわせない」

という意味構造になる。これを関係詞節として修飾的に訳すと、

「人生であらゆる機会が与えられなかった昔の農民が、ありがたくも味あわなくて済んでいた、恥の意識」

という長い名詞句になる。
これが、主文の動詞 became associated with の目的語に相当する。


一橋大学がこのような英文解釈を出題しているということから、昨今流行りの「コミュニケーション重視の英語教育」なる代物に対する、一橋大学の明確な姿勢が見て取れる。一言で言えば、「そんなの知るか」だろう。
大学というのは、英会話学校ではないのだ。大学で英語が必要である理由は、日常会話や挨拶表現をするためではない。学問のために英語で論文を読み、論文を書くためだ。そのためには、英語という言語のシステムをきちんと体系的に理解し、それを使いこなせるレベルまで把握していなければならない。

車に例えると、大学の英語入試が要求していることは「車を上手に運転すること」ではない。「車をドライバー1本でバラバラにし、再度それを組み立て直せること」なのだ。知識として知っているだけでは何の役にも立たない。それを実践レベルまで昇華する「使える知識」として縦横無尽に駆使できなければ、知っているうちに入らない。

上の英文を解釈する際だって、言ってみれば必要な知識は「denyとspareの語法」「受身」のふたつだけといってよい。しかし、受身ひとつだけとっても、受身の構文をあいまいに理解したままでは決して解けない。「受身というのはどういう文か」だけでなく、「どういう時に受身は使われるのか」「受身になった時の構文の特徴は何か」というところまで、きっちり極めなくては「受身が分かった」とは言えない。

受身の構文は、Microsoft Wordなんかでは、うるさく赤い波線か何かがついて「受身が使われています」などと、まるで文法エラーのように指摘される。大きなお世話だ。大学に入ってからの英語力は、さらにその上のレベルが要求される。
普通に読めば、当該の入試英文は悪文中の悪文だ。一読して意味が分からない、というのは、悪文と断じて良かろう。問題は、筆者が敢えて、なぜそのような分かりにくい構文で英文を書いたのか、だ。 大学受験のレベルではそんなこと気にしなくてもよいが、大学に入ってからは、筆者がこういう小難しい文を書いた理由までが問題になる。

この英文は、文体論的な効果を狙って書かれている。下線部の前に、「親から財産や城を譲り受けた貴族」というのが出てくる。これと対比して「人生であらゆる機会を奪われていた農民」というのを出している。つまり対句になっている。
意味的な対句は、構文的にも対句にするのが英文の王道だ。貴族の箇所では、「貴族ー(修飾節述語)ー項が欠落している述語(関係節述語)」という構造になっている。下線部は、この構文を繰り返して対句の効果を出したものだ。
また、下線部の箇所にはassociated, old, denied, hadなど、意図的にーdの音で終わる音が多用されている。これに締めのsparedをもってきて、韻を踏む効果も狙っている。

大学では第二外国語を必修として課されることが多いが、そのように知識を体系立てて身につける習慣がついていれば、第二、第三の外国語の習得は簡単になる。僕が見るところ、第二外国語の授業の履修に苦労している学生というのは、その言語に限らず、既習のはずの英語や、はては母国語である日本語においても、知識が雑な学生が多い。


文科省が「コミュニケーション重視の英語」なる世迷い事を言い続けて、はや十年以上が経った。はたして、どれだけ今の若年世代が「英語のコミュニケーション能力」が上がったのだろうか。大学というのは観光地ではない。学問をするための場所だ。せめて英語で議論や喧嘩ができる程度の英語力は身に付いているのだろうか。一億歩譲って、そのような「コミュニケーション能力・括弧笑い」なるものが身に付いたとして、そんなものは大学では何の役にも立たないだろう。そういう「コミュ力お化け」が、英語で論文の一本も書けるのだろうか。

大学教育でいう「コミュニケーション能力」というのは、別に外国人観光客を案内したり、カフェでお茶を注文したり、電話でホテルの予約をしたりすることではない。論文を読んで、論文を書いて、研究会で発表することだ。それらが英語でできるようになることを、大学側は求めている。そのへんをきちんと理解せずに、やみくもに日常会話練習ばかりやっていても、少なくとも大学入試には受からないだろう。



高校ではちゃんと英語を教えているのだろうか

文房具が趣味で、いろいろと試してみては使っている。


文房具が趣味、という人が行き着く先は、万年筆だ。
まさしく「キング・オブ・文房具」。値段と価値が比例する、珍しい商品だと思う。高価な万年筆ともなれば、まさしくクラフトマンシップの結晶。その書き心地は素晴らしい。

趣味に昂じる人の陥りやすい罠は、「単なるコレクター」になってしまうことだ。万年筆が趣味、という人でも、その実は単なる万年筆コレクター、という人は珍しくない。
人は誰でも、子供の頃から何かを集めることを趣味にしたことがあるだろう。そして、本人は熱中しているつもりでも、たまにふっと「集めること自体が目的化していること」の空しさを感じたことがあると思う。

僕は経験上、そういう陥穽に嵌らないための、自分なりの方法を持っている。
つまり、「その分野の最高のものを持つこと」。

「欲しい」という欲求は、つまるところ「満たされていない」という感情が原因だ。だから一番欲しいものを手にしてしまえば、それ以上欲しいものはなくなる。
僕はそれを直感的に悟って、まだ学生の頃に世界最高の万年筆を買った。これを買うために、1年くらいせっせとバイトをしてお金を貯めた。
このご加護かどうか知らないが、今でも僕は「要らないのに、単に集めるためだけに欲しい」ということがまったくない。

今でも僕は、自分の勉強をする時には万年筆を使っている。気に入っている道具を使うのが楽しい、ということもあるが、もっと実際的な理由がある。
子供の頃から体育会系だった僕は、筆圧が強い。シャープペンや油性ボールペンを使っていると、筆圧の強さが筆記の疲れに直結し、わずかな勉強量で疲れてしまう。頭の疲れではなく、手首の筋力的な疲れなのだが、子供の頃にはそれを大雑把に「勉強疲れ」と認識してしまっていた。
万年筆を使うと、力を入れなくても、わずかな筆圧でくっきりと字が書ける。長時間書き続けていても、全然疲れない。万年筆を使うことの利点には、そのような勉強疲れを軽減する効果があるだろう。


話はまったく変わるのだが、大学で教えていると、よく学生から「こんな分野を勉強していて、いったい何の役に立つんですか」と訊かれることがある。
また文部科学省は教育の根本理念として、馬鹿の一つ覚えのように「生涯教育」「生きる指針」というお題目を掲げている。

両者とも、言葉だけがひとり歩きして、その実体には誰も踏み込もうとしない、不思議な現象だ。
学生は誰でも、勉強はしなければならないものだと分かっている。分かった上で、「なぜ自分が」その分野を勉強しなければならないのか、と文句を言っている。また、目先のものしか見えない視野狭窄に陥って、短期的に成果の上がるものにしか優先的な価値を見いだせなくなっている。
一般社会人にしても、一生勉強を続けるほうが「豊かで実りある生活」を送れることなど、よく分かっている。分かってはいるが、週末や休日には、ゆっくり寝てテレビを見て酒を飲むほうが、優先順が先になる。生涯教育を続けるほど、自分の中に「学ぶ土台」が出来上がっていない。

あまり知られていないことだが、大学というものは生涯教育のための市民講座や夜間授業を頻繁に開催している。僕が勤務している大学も、社会人対象の公開講座を無料で開講している。昨今では大学というものの存在意義が大きく変わっており、大学は学生相手だけではなく、一般市民の知への貢献度も評価の対象となるご時世なのだそうだ。
それ自体はいいことだと思うのだが、開講されている講座の内容や、受講しているお客さんの層を見る限り、僕はあまり建前を具現化しているような試みには見えない。誰でも、大学で開講する講座に飛び込むのは、勇気のいることだろう。なにか難しそうな内容を、必死に勉強しなければならない、というイメージで公開講座を見ている人が多いような気がする。

だいたいそういう市民講座は、教える側も、大学事務局から頼まれて嫌々引き受けているケースが多い。だから手加減なしの授業を行う。「これくらいのことは分かっているでしょ」という前提知識のもとに、大学とはこのような場所でございます、とばかりに最先端の内容を講義する。こんな講座の開き方で、一般市民の生涯教育が啓発できるとは、とても思えない。
つまるところ、大学の公開講座というものは、「10の知識を100にする」という感じで行われている。僕が考えるに、本当に必要なのは「0の知識を1にする」ことの必要性と方法論を教えることではあるまいか。

大きな本屋さんに行くと、最近は社会人向けの「やりなおし学習」のための本がよく売っている。数学、歴史、理科、政治経済などの「学校で習ってはいたけど、もう一度勉強し直したい」という分野を、やさしく解説している本だ。
僕もそういう本をよく読むが、その手の本を読んで、改めて勉強が好きになる社会人はいないと思う。そういう本の共通点は、要するに「その分野を分かりやすく解説している」だけの、ただの教科書なのだ。自身が中学・高校時代に使っていた教科書と、構成も内容も何も変わらない。むしろ内容が簡単になった分だけ、その質は薄っぺらくなっている。

そういう本の前提として、「学ぶ側が何かの必要性に駆られて必死で勉強するはずだ」という思い込みがあるような気がする。必要があるから勉強し直すのであって、純粋に楽しむために勉強をするようには編集されていない。ああいう本を読んで「なるほど数学は楽しいな」と感じたとしたら、それはまるで使いもしない万年筆をずらっと買い揃え、悦に入っているような趣味と、たいして変わらないのではあるまいか。本人は「楽しい」と思い込んでいるのだろうが、それは本当に優れた逸品を鑑賞し、その価値を味わう姿勢なのだろうか。

大人の趣味が子供と違う点は、「それを使って何をするのか」以前に、「そのモノ自体に価値を見いだす」という、視点の違いだと思う。
子供のおもちゃというものは、それを使って「何かができる」ように作られている。おもちゃを渡されたら、子供はそれがどんなものであろうと、それを使って「何か」をするように行動する。それは勉強するときの態度にも反映され、ある分野を勉強する時には「それを学んだら、何ができるようになるのか」という、具体的な成果を欲しがる。

一方、大人の視点では、それを使うことに興味はなく、そのモノ自体を鑑賞することに意義がある。だから実利的には全く価値のない、盆栽や切手などを収集することで十分に楽しめる。本来は筆記用具である万年筆をやたらに集めるコレクターも、それと同じような心情だろう。100本の万年筆を集めている人に、「で、この万年筆で一体何を書くんですか?」と訊くのは、大人の趣味・嗜好を理解しているとは言えない。

大人の趣味がそのようなものである以上、社会人になってからの勉強の仕方というのも、それに沿ったもののほうが啓発の余地が大きいのではないかと思う。
別に入学試験のために勉強するのではないのだから、大人にとっては学んだ知識が何の役に立たなくても、別に知ったこっちゃないのだ。知識の価値それ自体を楽しみ、自分の知の体系を「作り込む」ような学びの方法を教えるほうが、大人にとっては楽しめる勉強の仕方だと思うのだ。

たとえば、「役に立たない分野」の最高峰と目されやすい数学。
誰でも、ax2+bx+c=0 (a,b,cは0でない数)の2解が、

解の公式


であることを「知っている」。
しかし、なぜ2解がそのような数になるのか説明できる人は、あまりいないだろう。

学校で二次方程式を習う時には、具体的に「答え」を出さないとテストで点をもらえない。だからこの方程式を解き、具体的な2解を出すことが「絶対的な目標」になる。
こういう価値観で勉強をしていれば、次なる疑問として「で、この答えを出したところで、それが何に使えるの?」となるのは自明だろう。「その知識を使って、一体何ができるのか」という姿勢が、学習の基本指針になってしまう。「数学が得意な人」というのは、入試問題に代表されるような「他人に出された問題の、正解を出せる人」という学力観が、支配的だと思う。

実際のところ、二次方程式の解の公式は、平方完成すれば簡単に導ける。それまで自分が「覚えている」だけだった知識に、「どうしてそうなっているのか」という原理原則を理解することが、本当の「勉強」だと思う。その知識が何の役に立つかなど知ったこっちゃない。「なるほど、そうなっているのか」という知的興奮を求めることが、大人の勉強の仕方ではないか。

前の項に一定の数を掛けた数列のことを、等比数列という。初項をa, 公比をrとすると、等比数列は

a, ar, ar2、ar3, …, arn-1

と表せる。

このa1からanまでを全部足した等比数列の和Snは、

等比数列の和

として求められる。学校の数学では、これを公式として「覚えろ」と言われることが多い。
では、等比数列の和は、なぜこの公式で求められるのか。

等比数列の和の公式は、別に根性で暗記しなくても、簡単に求められる。
Snのほかに、公比を一回掛けたrSnというものを用意し、後者から前者を引き算すれば、初項と末項以外の、間にある項はすべて全滅して求められる。
ただ覚えているだけだった知識に、「なぜ、そうなっているのか」という原理原則から始めて、自ら知を形作る方法論こそが、勉強の本当の面白さなのではあるまいか。

市販されている「やりなおし数学」があまり面白くない理由は、そこのところの面白さを啓発するように書かれていないからだ。社会人対象のやりなおし教科書でも、その目標とするところが、学生時代に教室で叩き込まれていた勉強と、まったく同じなのだ。そんな勉強に対しては、学生時代と同じ感情を抱いてしまうのも無理はない。

僕は個人的に、大人になってから数学を勉強し直す際には、学生時代に暗記させられていた公式を全部証明していくだけで、十分に楽しめると思う。
万年筆を楽しむときには、「それで何を書くのか」は問題にならない。万年筆という道具自体を楽しみ、その構造や精密性を味わうだけで、十分楽しめる。それと同様に、数学の知識を使って何をするかなど知ったこっちゃなく、既存の知識のしくみを知り、その精巧さに驚嘆する、というのは、思いがけないほど「凄いこと」なのだ。

別にそれは数学に限ったことではない。歴史を勉強する際にも、学生時代の呪縛から外れて、知識を精密化し再構築していけば、十分に楽しい。
例えば、誰でも「幕府」という用語を知っている。しかし、本当に幕府が何であるのかを知っている人は、思いのほか少ない。たとえば、「いま自分で幕府を作ろうと思ったら、必要なことは何か」という問いに答えれる大人は、あまりいないだろう。

幕府というのは、もともと征夷大将軍に与えられた行政権を指す。京都におわします天皇から遠く離れた「夷人」を征伐する際に、その責任者である頭領に全権を与えたのが始まりだ。京都から遠くなればなるほど、夷人を征伐するためには、様々な事業が必要になる。前衛基地としての都市を作る必要もあろうし、膨大な人員を統括するための立法機能も必要になる。そういうときにいちいち京都にお伺いを立てていたのでは小回りが効かないから、「必要なことは全部そっちで勝手に決めてくれ」という全権委任が、幕府の前段階となる概念だ。

時代が下って武家政権の世の中になると、いっそのこと国の政治全部を武士の頭領に委譲したほうが話が早い、ということになった。それが制度化したものが幕府だ。
つまり幕府というものの存在の前提として、「行政権を朝廷が握っている」という背景がある。それを譲渡したものが幕府だ。江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜は、委譲された政治権限を朝廷に返納している。俗にいわれる「大政奉還」だ。

だから、朝廷(天皇)が行政権を握っていない現在の日本では、幕府というものは原理的に成立し得ないことになる。もし今の日本で、誰かが幕府を開こうとしたら、行政権を一旦日本国政府から天皇に戻し、その上で天皇から行政権を委譲してもらう必要がある。

戦国時代、各地に割拠した戦国武将は、みな「京都を目指せ」と上洛を目指した。幕府の何たるかを知らないと、なぜ戦国武将が京都を目指したのか、その理由が理解できない。
戦国武将の究極の目的は「全国を自分の支配下に入れること」。そのためには、朝廷から「お前が武士の頭領だ」というお墨付きである征夷大将軍に任じられることが、必要かつ十分な条件だ。

鎌倉幕府は、行政府が鎌倉という辺境の地に置かれた事情から、原始的な「征夷大将軍」のイメージに近い幕府の開かれ方だった。その時代の朝廷はまだ実質的な力を失っておらず、純粋に権力を「委譲」しているだけだったので、朝廷は何かにつけて幕府に目を光らせ、武家政権に偏った政策には介入を行った。
ところが戦国時代になると、朝廷は単独で行政を敷けるほどの地盤と背景を失う。建武の新政に失敗して以来、朝廷は武士の助力なくして行政権を安定させることが事実上不可能だった。つまり、室町時代以後、征夷大将軍に任じられることは、同時に行政権のすべてを掌握することを意味する。

その過渡期にある室町幕府が、あまり一般的に「幕府」としてのイメージが薄いのは、地理的理由と背景的理由のふたつがある。
室町幕府は、京都に開かれている。つまり、朝廷のお膝元で開かれているわけで、これは原始的な「征夷大将軍」の必要性からすれば、本末転倒と言える。つまり、朝廷としては単独で行政権を執行したいものの、時代の変化によって武士がもつ軍事力に依存しなければその実現が不可能になっていたのだ。そこで、建前的には武士に政権を委譲するものの、「それを委譲しているのは朝廷だからな」と面子を保とうとした苦肉の策が、室町幕府なのだ。その時代では武士のほうでも朝廷の威光は利用価値があったので、その体制のもとでの自己の権威付けに利用した。

その体制が崩壊したのは、「もう朝廷の威光に頼るだけで軍事力のない勢力などものの数ではない」と価値観をがらっと転換した織田信長が、室町幕府を滅ぼした時だ。織田信長が凄かったのは、単に「朝廷にお墨付きをもらっている」という室町幕府の形骸化を見抜き、「それよりも力のある勢力があれば、朝廷はそちらに権力を委譲するはずだ」という時代の流れを正確に掴んでいたことだ。

このように、「幕府とは一体何なのか」という原理原則を知るだけで、鎌倉・室町・戦国時代という時代がひとつにつながり、「朝廷と武士の関係」というひとつの横糸で歴史が見えるようになる。一般的に室町時代は「つなぎの時代」と見なされ、歴史ファンにも人気が薄い。その一般的なイメージに乗っかるだけでなく、「なぜそういう時代だったのか」「何と何をつないでいた時代なのか」を自分で再構築するだけで、歴史を見る目が変わってくる。

それを考え、自分で答えに至ったところで、別に入試問題が解けるようになるわけではない。目的のために勉強するのではなく、既存の知識を、自分の中で「作り込む」作業をすることで、見えるものが違ってくる。
勉強というのは本来、自分の知らなかった世界を見るためにするものだ。凡人には、盆栽の何が楽しいのか、万年筆の何がそんなに面白いのか、理解できない向きもあろう。しかし、そういうものの中に独自の価値観を見いだし、モノそのものに価値を見いだすようになると、かなり楽しい時間が送れるようになる。それが一般的に認められる価値であろうとなかろうと、知ったこっちゃない。自分だけが楽しめればいいのだ。「知的に充実する人生」とは、そういう経験を自分の中だけでじっくり熟成させる生き方のことではあるまいか。

一般的には、「知識をいっぱい知っている人」を「頭のいい人」という学力観があると思う。しかし、その知っている知識なるものを、ただ知っているだけの人は、100本の万年筆を集めているコレクターと変わりない。自分の気に入った知識を、微に入り細を穿ち作り込み、丹念に鍛え抜いてこそ、その知識の本当の「使い方」が分かる。知識というものは、持っている量よりも、それをどれだけいじり回して楽しい時間を過ごせるか、のほうに価値の基準があると思う。


大学の公開講座や市民講座は、何かにつけて「○○○に役立つ歴史講座」「すぐに活かせる○○○授業」など、実利や効能を謳い過ぎる。個人的には、何かに役に立つ勉強など、全くつまらないと思う。端から見ればつまらないものに、それ独自の価値を見いだすことが、本当に熱中に値する行いではあるまいか。役に立つことを求めて、せっせと知識の暗記に精を出す勉強など、学生時代の呪縛の中に再び足を突っ込もうとする、愚かな行為に見える。



「ダンゴムシの生態」という公開講座はなかなか面白かった。

二十歳過ぎればただの人(3)
 
偽りの優等生のほとんどは女の子です。男の子でこのタイプは少ないですし、居ても外見上、優等生に見えなかったりします。というのは、このタイプの優等生であり続ける為には、驚異的な暗記能力が要るからです。  

思うに、このタイプの優等生と言うのは小学校高学年での優等生グループの生き残りです。中学校に入ると、小学校とは全く異なる資質が優等生について要求されます。その要求に応えられる子どもは中学校でも優等生ですし、それに応えられない子どもは劣等生または普通の子のグループに転落します。ところが、中には中学校での要求に応えられない部分を、驚異的な記憶力でカバーしながら、優等生であり続けようとする子どもが居るのです。  

彼女達は、中学校での学習内容を全て丸暗記していきます。英文とその訳を対訳形式で覚え込みます。英単語や英熟語なども、意味と一緒に丸暗記です。数学なども、例題の解答法を丸暗記していきます。国語は、先生の板書を写したノートの内容を覚えます。

こうして、偽りの優等生達は授業嫌い、勉強嫌いの大人に育っていきます。彼女達にとって、学校の授業は我慢大会に過ぎませんし、勉強は訳の分からないお経を延々と覚え続ける苦行のようなものです。勉強が何かの役に立つという実感もありません。実際、彼女の勉強方法では、何かに役立てる事の出来る知識など身に付けようもないのですから。  

困るのは、こういう女性が母となって子どもの勉強を見たり、短大で教職免許を取って小学校の先生になったりする事です。  

母親が教育熱心な家庭の男の子が成績不振になるケースで、母親が自分の勉強法を伝授しているケースがままあります。定期試験で悪い点を取って帰った息子に、自分がかつて点を稼いだやり方で良い点を取らせようとしたりするのです。ですが、一般的に男の子は女の子ほどの暗記能力はありませんから、成果は上がりません。論理的理解を拒絶している分、成績は逆に下がっていきます。

彼女達が小学校の教師になるのが困るというのは、学力の問題ではありません。何しろ、彼女達は自分が小学生だった頃は押しも押されもせぬ優等生だった訳ですから、今は四年制大学を出て威張っている男性連中も、小学生の頃は彼女達の足元にも及ばずに小さくなっていたりしたのです。その意味で、小学校での優等生が小学生の指導に当たる事に何の問題も無いように思えます。  

問題は、彼女達の中に根付いてしまった勉強嫌いの感覚です。勉強は面白くないもの、我慢して努力してやるもの、そういう大前提で教壇に立つ先生が多い、と私には思えます。  

そういう先生は、子どもが楽しそうに勉強したり、授業を受けたりしていると不安に思うようです。何か、大事な事を、子ども達が学んでいない、という気になるのです。そこで、授業中の私語を禁じたり、ごそごそ動く生徒に直立不動の姿勢を要求したり、少し難しめの問題で脅して、勉強は楽しいだけでは駄目なのだという事を分からせようとします。  

やがて、生徒達はかつての活力を失っていきます。授業中、横の生徒と話す事も無くなり、黙って先生の話を聞きながら、後どれ位で休み時間になるのだろうと時計を気にし出したりして初めて、この先生は良いクラス作りが出来たと安心するのです。  

ですが、この子ども達の姿はかつてクラスの優等生として活き活きしていた自分の姿ではありません。中・高を通じて、息を殺すようにして自分の気配を消していた、勉強嫌いの頃の自分の姿なのです。その事に、この先生は気が付いているでしょうか。




自分の価値観に縛られた教師ほど有害なものは無い。

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