たくろふのつぶやき

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天皇陛下心臓手術執刀医・天野篤医師の意外な経歴

日大医師

天皇陛下 心臓冠動脈バイパス手術 執刀した順大・天野医師


執刀の中心となった順天堂大の天野篤医師(56)は、心臓を動かしたまま迂回(うかい)用の血管をつなぐオフポンプ術式の冠動脈バイパス手術の第一人者だ。東大の医師団から請われる形で、天皇陛下の手術に参加した。各病院を渡り歩いて“武者修行”を重ね、評価を得てきた異色の経歴の持ち主といえる。  

手術後の記者会見では、「今、成功と言うのは尚早。治療は続く。陛下が日常のご公務を取り戻すのが成功といってもよい時期」と慎重な姿勢を示した。  

平成3年に新東京病院(千葉県松戸市)で天野氏を指導した順天堂大客員教授の須磨久善医師(61)は「天野君は誰よりも向上心が強かった。手術を重ねるうちにみるみる上達した。スポンジが水を吸うようだった」と話す。  

同病院のほか、バイパス手術の受け入れが多い亀田総合病院(千葉県鴨川市)などで経験を積み、14年に順天堂大の教授に就任。18~22年の間に約3000件の手術を手がけ、世界最高水準の医師が集まる米国胸部外科学会の正会員になった。  

医師仲間の評価は「情熱があり、粘り強い男」。3年浪人して日大医学部に入った。高校時代に父親が心臓弁膜症の手術を受けたのが、心臓外科医を志すきっかけだったという。  

同じ心臓外科医で20年以上の親交がある南淵(なぶち)明宏・大崎病院東京ハートセンター長(53)は「石橋をたたいても渡らないぐらい慎重なタイプ」と指摘する。東大病院の手術室で、患者は天皇陛下。普段とは大きく違う環境だが、南淵さんには手術前に「アウェーでやることには慣れています」とメールを送った。心臓医療を身近なものにしようと、テレビの医療番組にも積極的に出演。心臓外科医を主人公にした映画「チーム・バチスタの栄光」やテレビドラマで医療シーンの指導も行った。



こういう人は、大学入試で3年浪人したくらいのことは、挫折のうちには入っていないんだろうな。



宮内庁も東大病院も人を見る目があると見える

英作文の勉強方法

The moonlight was so bright that we didn't need a flashlight.
「月明かりがとても美しい。懐中電灯を使うのは野暮というものだ」   


単純な英訳和訳としては誤訳だろうが、しょうがない、この文の出典となる小説の場面では、こう訳すしかない場面なのだ。
状況から切り離した文がいかに命を失うか、という例で、僕がよく使う例文だ。


閑話休題。今回の話は「月が綺麗ですね」と言われて赤面しないような女の子は女子力が全然足りない、という話ではなく。
上の英文に出て来た、所謂「so-that構文」、ちゃんと読めたでしょうか。

so-that構文。英語構文の横綱級の大物表現だろう。
誰もが学校で必ず習っている、定番中の定番。この表現が問われる定期テストを誰もが経験しているだろう。
構文としては簡単だ。so A that B の形で、「すげぇAだから、B」と訳す。僕はものぐさで暗記が嫌いだから、この構文の意味を「A→B」と覚えている。Aには形容詞や副詞、Bには文が入る。

論理接続の文章のなかではどちらかというと感性に属する表現ではないので、英語の論文や専門書に出てくる構文ではない。どちらかというと、日常表現や小説などの、やわらかい文体に使われる表現ではなかろうか。書き言葉で、会話ではあまり使われない。
僕がこの表現を最も目にするのは、Reader's Digestのコラム記事だ。日常的な小さなトピックに関するあるあるネタのような記事を読んでいるときに、よく出てくる。

初級文法,かつ簡単な割に、この表現、ちゃんと使える学生が少ない。
英文読解の読書会のときに、この表現が出てくると、例外なく学生の訳が止まる。すらすら読んでいた英文が「うっ」と一旦止まる。
英語読解力に自信のない学生は、端的に言うと語彙力に自信がない。だから、訳の分からない難単語にビクビクしながら英語を読む。そういう単語ばかりにビビり過ぎているから、soなどという「ザコっぽい」単語を飛ばして読んでしまう。かくして構文が取れず、誤訳する。
規範的な構文の形で使われたら読める学生も、倒置や省略などでちょっとひねられると、手も足も出ない。応用技に対処できないのは、基礎が身についていないからだ。


中学の頃から何回も教わっている構文なのに、なぜ学生はこの表現を読み解くのが下手なのか。
何度も何度も習っているのに、どうして一向に身についていないのか。


話は全然変わるが、僕の研究室の卒業生の中に、ひとり破天荒なのがいた。
大学1年の頃から海外研修や留学で外国を渡り歩き、僕のインターンのトレーニングも受けた。4年生になってからも、廻りの同期がみんな就職学生をしているのを知らん顔して、奨学金つきの留学プログラムに選抜され、アメリカに1年間行ってしまった。帰国してからは、高倍率の難関で知られる教員採用試験に楽勝で合格。来年春からの赴任が決まっている。

英語はもちろん相当できる学生だったが、勉強ばかりしている頭の固い奴ではなく、剣道でも剛の者として知られている。大学4年間を体育会の剣道部で通し、対抗戦では選手として活躍していた。
ふつうの大学生2, 3人分の充実っぷりだろう。

その学生と研究室で飲んだ時、剣道の強さのコツとして、面白い話を聞いたことがある。


「なんて言うんですかね、分かるんですよ、相手が何を打ってくるのか。面なのか胴なのか小手なのか突きなのか、打ってくる前に分かるんですよね。だいたいそういう奴は、最初に立ち会ったときに『勝てる』って分かります。見切れるわけですから。
で、どうして見切れるかというと、まぁ経験ってことになるんでしょうけど、その経験にもちゃんと形があると思うんですよ。だいたい『こういう時、俺だったらこうするだろうな』という手を打ってくる奴は、だいたい見切れます。自分ができる技は、見切れるんですよ。だからきれいに一本とられる時っていうのは、自分がまだ身につけていない型か、自分にはできない技を使ってくる奴ですね」

「よく武道って『いろんな技をいいかげんに覚えるよりも、ひとつの技を究極まで練り上げろ』って言うじゃないですか。あれ、半分本当で、半分間違ってると思うんです。俺、いまでも新しい型の攻め方を覚えるために練習しますけど、それって攻撃のためだけじゃないんです。攻める時のバリエーションはもちろん増えますけど、相手がその型で攻めてきたときに見切れるようになるんです。自分でその型を練習すると、分かるんですよね、その型の出しどころが。だから試合で負けた後は、ビデオ見て、一本取られたときの相手の型を覚えて練習しますよ」

「よく『経験値』っていう言葉がありますけれど、同じ型を丹念に練り上げるような練習は、『熟練度』は上がるけど、『経験値』は増えない、と思うんです。経験っていうのは要するに『いままで自分になかったものをどれだけ取り入れて来たか』ってことじゃないですか。同じことばかりやってるんだったら、そんなの経験でも何でもないですよ。攻めの練習をやってるときに、攻めのことしか考えてない奴は、たいした事ない奴だと思いますね」



こういう考え方ができる奴だからこそ、いろんなプログラムの倍率をものともせず突破し、軽々と道を拓くことができるのだろう。自分の目線だけで物事を考えるのではなく、相手側の視点で自分を冷静に見る「客観力」が備わっている。そりゃ教員採用試験だって独学で受かるわけだ。
なるほどねぇ、と僕が感心していたら、「いや、そういう物の考え方は、たくろふ先生に教わったんですよ」と苦笑していた。


「自分が使える技は、見切れる」というあたり、剣道に限らず、どんなことでも同じことではあるまいか。
英文読解で学生がso~that構文を見抜けないのは、学生がその構文を使えないからだと思う。英作文でその構文を自然に使って英文を書ける学生は、ほとんどいない。会話で使える学生となると全滅だろう。
自分で使えないから、その構文の「使いどころ」が分からない。構文のもつ「空気」が読めない。だから自分の知らない型に翻弄され、きれいに一本を取られて負ける。

「英文読解」と「英作文」を、違う能力だと思っている学生が多い。しかし実際のところ、そのふたつの能力は車の両輪のようなもので、どちらか一方しか鍛えていないと、歪んだ英語能力になる。
特に英語が書けない学生が多い。英作文ができない学生の共通点は明らかだ。まず、英語を読んでいない。英語に触れている絶対量が足りない。
仮に英文読解に時間をかけている学生がいても、大抵、「読解のための読解」をやっている。覚えた単語、表現、構文を、「使ってみよう」という意識がない。「英作文難民」の学生のほとんどは、読解と作文を頭の中で切り離し、別々の能力を身につけようとしているのだ。「今日は読解の勉強をしよう」「いまは英作文の勉強をしている」と、どちらか一方にしか意識が働いていない。攻めの練習をしているときに、攻めのことしか考えていない。

英文読解で新たな表現を覚えたら、それを使って実際に英文を書いてみればいいのだ。そのために書く英文はなんでもいい。英語を書くチャンスがあれば、何でも利用すればいい。読解の問題集の答えの和訳を見ながら逆に英訳し直したっていいし、英語で日記をつけてもいい。よく「英作文ができるようになるには、日記をつければいいんですか」と訊いてくる学生がいるが、知るかそんなこと。少なくとも、僕は英語で日記をつけたことなんて無い。書きたい英文、使ってみたい表現があるんだったら、日記でもBlogでもなんでも使えばいいだろう。しかし「最初に日記ありき」というのは、順序が違う。手段であって、目的ではない。

英会話の基本は「話してみたい」という欲求だ。英文読解の基本は「読んでみたい」という欲求だ。だったら英作文の基本が「書いてみたい」という欲求であることは、誰だって分かるだろう。知ってる英語を使ってみたい。覚えた構文を使ってみたい。そういう根源的な「欲求」の裏付けがなく、義務感だけで英作文を勉強して、できるようになるわけがない。「英作文のテキストか何かを使って、機械的に翻訳し、添削してもらいさえすれば、いつか英語が書けるようになる」と思い込んでいる、人頼りの「優等生」が多過ぎる。僕が一番嫌いな類いの学生だ。そういう学生の英作文は、「書きたい」「書けるようになりたい」というギラついた意欲がない。悲壮な義務感だけが溢れてる。だから添削していて面白くない。うんざりする。

英作文の訓練のために割く時間の大部分は、英文を読んで覚えた表現を、実際に使ってみるチャレンジに充てるべきなのだ。英作文のテキストなどというものは、そういう努力の積み重ねを土台として、埋まっていない穴を体系的にふさぐ、落ち穂拾い的な段階になってから使うものだ。意欲満々ではあるが歪なままの能力の、形をきれいに刈り込む「仕上げ」に使うものだ。だから、英作文のテキストを読んで新しい知識を仕入れているようでは、努力量が絶対的に足りない。普段、英語を書くチャレンジを続けている中でいつも感じる「ああ、いつもここ分からないんだよな」「この表現、いつも書くときに迷うんだよな」という経験に対し、「あるある」の感覚で足りないものを埋めていく。それが英作文のテキストの使い方だ。

僕のゼミナールでは、その「英語を実際に書いてみる」ためのチャレンジの場として、「論文執筆」というチャンスを与えている。英語の論文を読め。卒論を英語で書け。そのふたつの課題が、「攻撃」と「防御」が完全一体となった、同じ種類の努力としてひとつになっている学生が、どれほどいるだろうか。何人かの学生が英語で期末論文を書いてきたが、替わり映えのしない英語に終始している。どうせ、和英辞典を使って組み立てパズルのような作文をしているのだろう。せっかくたくさんの論文を読むチャンスを与えたのに、そこから書き方も、表現も、語彙も、何も盗んでいない。1年前のその学生が書く英文と比べて、何も進化してない。


僕は、ゼミの学生に「英文の読解力を上げるにはどうすればいいんですか」「英作文ができるようになるためにはどうすればいいんですか」と訊かれるたびに、「論文を、読んで書いてみな」とだけ答えている。条件は揃えてあげている。環境も整えてある。課題も出した。あとは、学生自身がそのチャンスを活かすかどうかだろう。
「もうちょっとちゃんと丁寧に説明してくれないと分からないですよー」などと泣き言を言う学生は、どうせちゃんと説明してあげても、やらない。何よりも、僕にそんな質問をしてくることなく、自分で考え、自力でその方法を編み出して、きちんと結果を出している卒業生が、実際にいる。



覚えるためだけの勉強ほど、つまらないものはないと思うのだが。

中学校武道必修化

武道必修化 柔道は延期すべきだ
(2012年2月12日 毎日新聞社説)
武道の必修化 「安全」に不安残る柔道の指導
(2012年2月5日 読売新聞社説)



平成24年度4月から、中学1, 2年の体育で武道が必修になる。
原則として柔道、剣道、相撲が対象。毎日社説によると、設備面や道具にかかる費用を考えると、6割ほどの学校が柔道を選択すると見られている。

これに対し、上掲の毎日、読売両社説は批判的だ。その論点は、安全面の確保に対する疑念にある。体育の先生全員が武道の経験があるわけではない。各地の教育委員会では今回の必修化を受けて泥縄式に指導者講習会を開いているが、その実体は、わずか数日間に講習で初段(黒帯)を認定するというお粗末なものだ。

時を同じくして、部活動の柔道で事故が相次いでいる。総数だけを見ても、中学・高校での柔道事故は過去28年間に死亡事故114件、重度の障害を負うものが275件。親がこの必修化に不安を感じるのも分かる。
この事件数を材料に、新聞では指導者や設備などの条件不備を指摘し、反対する姿勢をとっている。特に毎日新聞の反対意見はかなり強行な論調だ。


しかし、僕はこの武道必修化で問題にすべきは、そこではないような気がする。


過去、学校での柔道で何人ケガ人が出ていようと、それは極限まで本気で柔道をする部活動での話だ。先入観を排して各運動部を眺めても、柔道という運動はケガがつきものだ。本気で柔道をする部活動であれば、ある程度の事故やケガはあるだろう。
そういう本気の部活動と、体育の授業と混同するのは、論証として適切なのか。部活動での事故数を根拠として今回の武道必修化を批判するのは、いかにも説得力に欠ける。柔道がとりたてて危険だというのなら、他のスポーツと比べてどれほど危険なのか。器械体操、ラグビー、サッカーなど、他にケガしやすいスポーツと、事故数を比較する資料がなければ論旨の筋が通らない。

確かに現実問題として施行が決まっているのだから、その条件化での問題点として安全面を取り上げる気持ちは分かる。しかし、それでは今回の根源的な問題には行き着かない。
現在の日本中の学校に、すぐ武道必修化がスムースに施行できる条件が整っていないことくらい、文科省は百も承知だろう。なのになぜ、文科省はこんな施策に打って出たのか。

今回の武道必修化の骨子をつくったのは現民主党政権ではない。2006年に安倍政権が教育基本法を改正した。その中には「伝統と文化を尊重して郷土愛を育む」ことが盛り込まれている。
それを受け、文科省は2008年に学習指導要領を改訂した。その際、2012年度からの中学校体育の武道必修化が盛り込まれた。

当時の安倍政権が最も腐心した問題点は何か。
団塊の世代が相次いで定年を迎え、定期的な労働収入がない高齢化世代が爆発的に増える。それを受けての年金政策が、安倍政権の最大の課題だった。
だとすれば、安倍政権時代に打ち立てられた政策のほとんどは、その問題に対する具体策と見るのが、ふつうの考え方ではないか。

つまり、定年退職者の再雇用。
今回、いきなり中学校で武道を必修化したのは、ありもしない人材雇用の必要性を強引に作り出すことにあるのではないか。ここ数年間で、大学や警察で武道の心得のある人材が大量に定年退職する。そういう人材に再雇用の機会を与えるのが、本当の目的ではないか。

文科省が発表している「中学校武道・ダンスの必修化関連予算」を見ると、3本柱のひとつに「指導者対応」の予算がある。ここには「地域スポーツ人材を活用した運動部活動等推進事業」「文部科学省等が実施する武道講習会」「都道府県教育委員会等が実施する武道講習会」などと謳われている。そのうち最後の項目は地方交付税での措置だ。「各地方が勝手にやれ」ということで、実際には各都道府県が独自に行う武道講習会の比率が高くなるだろう。

では、この「地域スポーツ人材」とは一体誰のことなのか。「武道講習会」と簡単に言うが、これを教えるのは誰なのか。これに対する規定は一切明記されていない。
実際のところ、こういう公教育に対する講習としては、やはり公の立場にあるものがあたることになるのだろう。警察や自衛官などの中から、武道で優秀な成績を修めた退職者に「ご褒美」として講習の仕事を割り当てるのではあるまいか。もっと露骨に手っ取り早く、武道経験者を講師として中学校の授業を丸投げすることもあり得る。

学校現場に身を置いていれば、こんな必修化、実際には非現実的であることくらい簡単に分かる。しかし、当時の野党もこの強引な施策に対して一切批判していない。高齢化社会への具体策はどの政党になってもマニフェストの柱になるべき大きな問題だ。それに迂闊に反対を唱えては、先々自分達の首を絞める。

そう考えると、この武道必修化がすんなり国会を通った経緯の説明がつく。
文科省としては、武道が実際に中学で教えられようと不可能だろうと、そんなことは一切知ったこっちゃないのだろう。とにかく施行することが先に決まっていて、現実的な条件面を後からその場凌ぎ的にでっちあげる、という順番ではあるまいか。

実際のところ文科省の願いとしては、「とにかく事故を出さないでくれ、死亡者などもってのほか」というところだろう。たとえ形だけの柔道ごっこだとしても、受け身ばかりであとはフォークダンスレベルの組み手だとしても、一向に構わない。ガチ柔道なんぞやられてケガ人が出ることだけが文科省の心配ではあるまいか。
だから文科省としては、「経験はないもののやる気満々な若手体育教師」が一番困ると思う。そういう教師は無茶をするから、授業でケガ人がでる可能性が高い。僕は文科省が提示している「武道講習会」 なるものの内容は、要約すると「本気で柔道なんてやらなくていい。『ごっこ』で構わないから、とにかくケガ人を出すな」という内容ではないかと睨んでいる。

いくら「なんちゃって柔道」だとしても、現場の先生にとってはかなりの負担になる。講習を受けなければならないことになれば、それにかかる手間も費用も相当なものだろう。
今回の武道必修化で最も問題にすべきは、現場の現状を無視し、目的のためには手段を選ばず政策としてゴリ押しする、文科省とその背後にある政権の基本姿勢ではあるまいか。

文科省の施策の打ち出し方には決まったやり方がある。ある教育政策に関して、それが現実的に可能か否かなど一切考慮しない。「最初から実施ありき」なのだ。その政策にはそれなりに大義名分があるのだろうが、あまりにも現実面での実現可能性を無視しすぎている。
それへの対応を強要される学校現場は混乱し、先生の負担が増え、ひいては教育の質の低下につながる。ゆっくり教育の地盤沈下が起きているような気がしてならない。

そういう文科省の強引政策として典型的なのが、「小学校英語必修化」と「教員免許更新制」だろう。
なにが「国際化に対応する人材づくり」だ。年35時間の英語の授業で「国際化」が笑わせい。その替わりに主要教科の時間枠を削るわけだから、子供の基礎学力が激落ちになるのは目に見えている。英語教育の成果はなく、子供は頭が悪くなる。本当に日本が国際化してほしいなら、自分の子供がどんな人種、どんな民族の人と国際結婚しても、それを平然と受け入れられるのか。
教員免許更新制にしたって、指導力不足のダメ教員は、知識だけが不足しているから学級崩壊が起こるわけではない。基本的な人間力に欠けているのだ。長い年月、子供相手で目線が下に向き、自身の向上心がなくなり、教室の権力者として君臨することに甘えた姿勢が、人間力の低下を招く。勉強が好きな人達でもあるまい。そんなダメ教員に免許更新講習を受けさせたところで、意欲満々の熱血教師に生まれ変わるものか。

英語必修にしても教員免許更新講習にしても、「誰がそれを教えるのか」という観点が論じられることはほとんどない。本当の目的としては、今回の武道必修化と似たようなものだろう。
大学教員だって定年退職はある。退職した大学教授ほど潰しがきかない人種はいない。だから英検や漢検などで雇用をつくりだす。大学で学生に「英検を受けなさい」と薦める教員は、英検の受験者が減ったら困る定年間際の世代だ。本当に学生の英語能力を考えている若手の教員は、みんなTOEIC受験を薦めている。

英語必修化、教員免許更新制、そして今回の武道必修化がすべて退職世代の再雇用のためだとしたら、政権が叩かれるべき点は「どうして公務員だけそんなに厚遇されるのか」ということになるだろう。教員、警察官、自衛官などの公務員に、再雇用の機会が偏っている。一般企業に務めているサラリーマンに及ぶ恩恵ではない。もっと幅広く、多くの人が享受できる政策を実施してこその高齢化対策だろう。

表層の現象だけに条件反射的に批判しているだけでは、その根っこにある本質的な要因には行き着かない。新聞社説のように「それを施行したらどうなるのか」だけをあれこれひねくって論じるのでは、良くて対処療法止まりだ。病巣は放っとかれたまま肥大を続ける。大切なのは、「なぜそんな政策を実施するのか」を考え、病理の大元を断つことではないか。



調べてるけど考えてない。学生のレポートと同じ。

教職失格

小学校教諭を逮捕=スカートの中のぞく―神奈川県警


駅のエスカレーターで女子高生のスカートの中を手鏡でのぞいたとして、神奈川県警海老名署などは14日、県迷惑行為防止条例違反の疑いで、海老名市立中新田小学校教諭の村本一輝容疑者(32)=横浜市旭区さちが丘=を現行犯逮捕した。同署によると、「スカートはめくったが、手鏡でのぞいてはいない」と供述しているという。  

逮捕容疑は14日午前7時半ごろ、小田急線海老名駅構内の上りエスカレーターで、横浜市に住む高校2年の女子生徒(17)の背後から、折りたたみ式の手鏡でスカートの中をのぞき見た疑い。



教職でありながらスカートの中身など覗きたがる馬鹿者がいるんですね。



「冗談」でも「出来心」でも済まされない。

ゼミナールで軽井沢

ずいぶん久しぶりの更新になりますね。
たくつぶ読者のみなさまにおかれましてはお元気でいらっしゃいますでしょうか。


そもそも学年末の大学というのは目の廻るような忙しさでありまして。
今年の成績処理、レポートや論文の添削、来年度のシラバス作成等の業務に加えまして、僕は教科主任をしているもので、他の先生方と来年度の授業内容の調整や教材の確認等の仕事があります。
本当の師走ってのは、大学に限っては12月じゃなくて2月じゃないですかね。

そんな忙しい最中、今週はじめにはゼミナールの合宿を行いました。
真冬の軽井沢というなんとも勉強に適した環境で、3日間カンヅメになって研究発表三昧です。
学生さんたちは一年間の研究の成果を論文にまとめ、ひとり20分の発表+10分の質疑応答を行いました。学会と同じですね。
それを、朝から晩までぶっ通し。知恵熱が出た学生さんもいました。

僕も学生時代に覚えのあることですが、学生ってのは追い込んでみるもんですね。思いがけない能力に覚醒する学生さんがいます。20分の発表というのは学部学生にとってはかなりの仕事だと思いますが、皆それぞれにチャレンジしていました。失敗結構結構。最初から成功など求めず、自分の限界に挑む経験を積んでもらいたいもんですね。

僕は、人間っていうものは、プレッシャーがかからないといい仕事などできないと思う。乗り越えなければいけない高い壁を征服していく成功体験を繰り返していく以外、人が大きく成長する方法はない。
現時点での学生の能力のちょっと先あたりに越えるべき壁を設けて、それが過重負荷にならないように学生を励まし押し上げてあげることが、指導教員の仕事だろう。

ただ単に研究発表をさせるだけなら、別に合宿にする必要はない。1日通しで大学の教室を借り切れば事足りる。
合宿というのは、いわば1年間の研究を通して伸びてきた学生の能力を「かたち」にするものだ。入学式や卒業式と同じく、ひとつの節目をかたちとして自分の中に刻み込むための、儀式のようなものだ。合宿での研究発表を乗り越えた学生とそうでない学生とでは、これから先、自分の中に育む「自信」が大きく違ってくる。形を伴わない自信は、単なる過信か勘違いだ。

1日ぶっ通しで研究発表をした後は当然、みんなでお酒を飲む。世の中で一番おいしいお酒は、きつい仕事を無事に乗り切ったあと、仲間と一緒に飲む酒だ。だから、そういうおいしいお酒をしょっちゅう飲んでいる人というのは、それだけ積み重ねたものがある。
大学生であればもう大人の準備期間だ。おいしいお酒の飲み方くらい、ゼミナールでちゃんと教えておくべきだろう。

今回の合宿では、去年大学院に進学した卒業生を呼んで、研究発表をしてもらった。ゼミの学生が今現在行っている努力を続けたその先に、自分はどういう姿になり得るのか。そういう明確な行く末のあり方をビシッと示し、後輩の範となってくれる先輩というのは、ゼミに欠かせない。
その卒業生は、大学院に進んでから驚くほどの勉強量を積み重ねていたようだ。研究発表を聞いただけで、彼が1年間で積み重ねた勉強量の想像がつく。学部時代に僕が教えていた彼とは、まったく別の人間になっていた。努力が導く「自信」と、学べば学ぶほど知らないことが見えてくる「畏れ」が、ちょうどいいバランスで拮抗している。

そうした畏れは、人を謙虚にする。学部生の頃には尖ったような性格があった彼が、後輩に対してとても優しい、柔らかい人間性を身につけていた。知識ばかりを頭に叩き込む勉強マシンではなく、学ぶことを通して、人としてきちんと成長していた。
卒業生のそういう変化と成長を見ると、とても嬉しくなる。今後がとても楽しみだ。

ゼミ合宿の発表を通して、各自、春休みにするべき努力を掴んでもらった。大学の春休みは、夏休みよりも長い。その2ヶ月をどう使うかで、来年一年間の準備が大きく違ってくる。
学生が充実した春休みを送って、4月になったら更なるパワーアップを果たして、大学に戻ってきてほしい。



研究が楽しくなりますね。僕も気合入れて論文書こっと。
俺様
天気、時刻
Tokyo


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