たくろふのつぶやき

海行くぞ、海。

Education

大学に向かない人々

こないだ、Twitterにこんなことを呟きましてね。


twitter


そしたら意外に反響が多くて、中には「詳しく説明してくれ」なんてコメントまで入れる人がいる始末。


はぁ?


大学進学率が57.9%に達する現在、日本で普通に中学、高校まで勉強していれば、「大学とは何をしに行くところなのか」くらい分かっていそうなものなのですが、大学がどういう所なのか分かっていない人が多いようです。大学で教えていても、分かっていない大学生が多いような気がします。

まぁ、上に挙げたすべてについてくどくど話していると愚痴話になってしまうので、一番勘違いの多い

・有用な勉強とは「日常の役に立つこと」である

だけについて話をしましょうかね。


僕は大学の授業で、毎学期、初回の授業で学生にアンケートをとる。
その中に必ず「中学・高校で習った教科のうち、必要ないと思う教科は何ですか」という質問を入れている。

不人気教科はおおむね日本史、世界史、数学、物理、化学、古典、漢文といった辺り。理由はすべて同じで「日常生活で使わないから」「役に立たない知識だから」というものだ。
学生はとにかく「役に立つ勉強」が大好きだ。ところが一歩突っ込まれて訊かれると、己の知見の脆弱さを簡単に露呈する。僕の経験からすると、「役に立つ科目」を優先して勉強しようとする学生に、優秀な学生はいない

件の命題を盲信している学生の共通点は、ことばを雑に扱い、「理解したつもりになっている」ことだ。
「有用な勉強とは『日常の役に立つこと』である」という命題には、その意味をよく考えなければならない言葉がふたつある。
「日常」と「役に立つ」のふたつだ。

まず、僕がいつも不思議に思うことがある。


なぜ学生は、そんなに「日常」が好きなのだろうか?


「日常の役に立つ」ということは、「毎日毎日、当たり前に過ごしている生活」を軸として知的活動を捉えている、ということだろう。ところが、そういう学生に限って、退屈な「日常」を忌避し、「すばらしくワクワクする非日常」に惹かれる傾向がある。具体的に言うと、大学の授業に出席することが当たり前の大学生活に嫌気が差し、授業をサボって遊びに行く、という行動をとることが多い。

旅行が好きな人は多いだろう。旅行というのは、繰り返される、決まりきった退屈な日常生活から「逸脱」し、非日常の世界を体感させてくれるものだ。毎日毎日、決まった日課の毎日を過ごしているからこそ楽しい。多くの人は、日常生活にありふれている身近なことよりも、旅行で体感できる珍しい体験のほうが、ワクワクするものではあるまいか。

ところがそれを、知的生活に置き換えて感じることができない学生が多い。
極論してしまえば、大学で学ぶ学問のほとんどは、日常生活には全く関係ないものばかりだ。惑星の周期計算をする天文学だって、微生物の特徴を研究する生物学だって、人間の経済活動の一般法則を導く経済学だって、物体の動きを定式化する物理学だって、すべて「日常生活」とは全く関係ない。

そして、学問というのは「日常生活とは全く関係ないからこそ楽しい」のだ。「日常生活」なる身近なものに近しい分野であれば、何の楽しいことがあろうか。
大学で学ぶ学問分野というのは、いってみれば知的な「旅行」に相当する。日常生活に退屈を感じたときに知らない土地に旅行するのが楽しいように、日常生活にまったく関係ない世界を知る知的興奮こそが、大学で学ぶことの本質なのだ。

「◯◯◯という分野は日常生活の役に立たない」などと嘯く学生に限って、大学の授業に意義を見いだせなくなり、大学に来なくなる。では大学に来ずに何をやっているのかというと、別に何もやっていないのだ。日常に埋没し、生活に退屈を感じるようになり、無気力な毎日を過ごすようになる。
中には「自分の知見を広げるために日本一周の旅に出ます」などという本末転倒の学生もいる。「日常から離れた、自分の知らない世界を見たい」と口で言っておきながら、「日常から離れた、自分の知らない分野について学びたい」とは思わない。

繰り返すが、大学で学ぶ学問分野は、日常とはかけ離れた、毎日の生活には関係ないものばかりなのだ。そういう「未知の世界」を存分に学べる環境に身を置いておきながら、「授業が退屈なので未知の世界に旅に出ます」という、矛盾した行動をとっている。僕は個人的に、そういう学生は、たとえ世界一周の旅をしたとしても、得るものなど何もないと思う。

大学で研究をしている研究者のほとんどは、「日常生活なんて知らねぇよ」と思っている。毎日繰り返される日常生活よりも、自分が夢中になっている分野のほうに心を惹かれる、いわば社会的不適格者の集まりだ。
よくある大学教授のステレオタイプとして、「自分の専門分野については物凄く詳しいが、一般的な常識でも知らないことがある」というのがあるが、さほど間違ってはいない。専門分野の研究者にとっては、「日常」という場でうだうだと管を巻いているよりも、自分が専門としている「非日常」の世界で遊んでいるほうが、楽しいのだ。

大学の学問の意義についての話になると、学生はやたらと「日常生活」「日常生活」と繰り返す。そんなに日常生活が大好きなら、お前ら今後一切旅行に行くなと言いたくなる。


もうひとつの言葉、「役に立つ」にも、学生が暗黙のうちに無視している意味がある。
「役に立つ」というのは、どういう意味なのだろうか?

誰でも家族は大切だろう。親友がいる人もいるだろう。
では、なぜ家族は大切なのか?なぜその人はあなたの親友なのか?


「役に立つ人」だから大切なのか?


「役に立つ」というのは、もともと「道具」に対して使う言葉だ。「本質」に対して使う言葉ではない。
人間が生きていくうえで大切なことは数多あろうが、「なぜ、それが大切なのか?」というのは、言葉では説明できないことばかりなのだ。「役に立つ」から両親が大切なのではない。「役に立つ」から自分の子供を慈しむのではない。「役に立つ」から親友は親友であるわけではない。

つまり、何かに「役に立つのか」という価値基準をあてはめた時点で、それを「道具」として見なしていることになる。
新学期、新しいクラスになって、いままで知らない生徒と一緒になる経験は誰でもあるだろう。この中から誰と誰が自分と友達になってくれるのか、誰を仲良くなれるのか、ドキドキした経験は誰にでもあるだろう。
そのとき、「仲良くなれる友達」の基準として、「誰が自分にとって役に立ちそうな人間なのか」という価値観でクラスメートを値踏みしていただろうか。「役に立ちそうな生徒とは付き合う」「役に立ちそうもない奴は切り捨てる」という態度で、クラスメートに接していただろうか。

かように「役に立つ」「役に立たない」という価値観でなにかに接することは、下品なのだ。ものの本質を見ようとせず、「自分にとって使える道具か否か」という視点しかない。そういう見方で森羅万象、あらゆることを理解しようとする姿勢は、廻り廻って自分の視野を狭め、生きる楽しみを失わせることになる。

僕は長いこと大学にいるが、断言してもいい。大学で「自分の分野は世の中の役に立つ」と思って研究している者など一人もいない
大学の研究者がその分野を研究している理由はただひとつ、「面白そうだったから」なのだ。

誰でも、なにか好きな分野があるだろう。別に学問分野でなくてもいい。漫画でもゲームでもアイドルタレントでも何でもいい。いま自分が夢中になっているものをひとつ挙げてほしい。
その「自分の好きなもの」について、週に1回、90分、一年で30回、50人くらいを前に、その魅力を延々と話し続けることができるだろうか。

大学の講義というのは、つまるところ「日常生活にまったく関係のないひとつの分野に取り憑かれた変態が、1年間で30回、毎回90分、その分野の面白さを好き勝手に喋っている場」なのだ。シェイクスピアについて、ウナギの生態について、国際紛争の解決方法について、目を輝かせながら延々と喋り続ける変態、それが大学教員だ。

ただ「好き」というだけでは、そんなに話のネタは続かない。ものを好きになるにも、その深さを極めるための方法論があるのだ。大学教授と呼ばれる人種は、その深さを延々と掘り続けているような人々だ。決して、高い山に登ろうと決意して着々と努力し続けた人ばかりではない。むしろ「きれいなチョウチョを追いかけて走り回ってたら、いつのまにか山の頂上にまで行き着いてしまった人々」と言った方が実情に近い。

誰でも子供のころに熱中したものがあるだろう。電車が大好きで、路線の駅を全部暗記した子供もいるだろう。ポケモンが大好きで登場キャラと出現分布をすべて覚えてしまった子供もいるだろう。毎日ゲームばかりやり続け、ネット対戦で軒並みハイスコアを更新し続けた子供もいるかもしれない。
では、はたしてそういう経験は、その後の人生において、いったい何の役に立っただろうか

人が何かに熱中するとき、その根本原理は「楽しいから」だけだ。役に立つかどうかなんて知ったこっちゃない。知ることが好きで、覚えることが好きで、新しい技術を身につけることが好き。それが役に立とうが立つまいが関係ない。人生において、心から楽しめることのほとんどは、役に立たないもののほうが多い
大学での学問も、基本的にはそれと同じことなのだ。役に立つかどうかなんて知ったこっちゃない。自分の日常とは関係ない所に、こんなに広く深い世界がある。その未知の世界に足を踏み入れる知的興奮が全てと言ってよい。

世間一般にあまりこういうことが話されないのは、大学で教えている立場であれば、そういう事は口に出して言うべきことではない、と誰もが知っているからだ。本音としては自分の専門分野を「楽しいから」という理由で研究している研究者も、大学や国から研究費をもらっている。税金をいただいて研究をさせていただいている身としては、ありのままに「役になんて立たないっす。面白いからやってるだけっす」と放言するのは、モラルとして許されない。だから誰もが方便として「こんなに人間の集合知に対して貢献しているんですよ」というおためごかしを用意している。大学人であれば最初に身につけるべき「社会的常識」だ。


そういう変態が集まって好き勝手なことを喋りまくっている大学という魔窟で、学生としてはいったい何を学ぶべきか。
卒業するときに、「教養」が身に付いていれば、ある程度大学でちゃんと勉強をしたのではないかと思う。

「教養」という言葉は、一般的に「いろんな知識が頭に入っている」というイメージで捉えられていると思う。しかし、僕は逆だと思う。「教養」というのは「頭の中に詰め込まれた知識」に関する概念ではなく、「まだ頭の中に入っていない知識に対する敬意」のことだ。

「教養のある人」というのは、日常生活に例えれば、「旅行が好きな人」に相当すると思う。決まった場所、決まったお店、決まった行動範囲だけを惰性で繰り返すのではなく、新しい所に行きたがる。知らない世界に興味をもつ。それと同じことで、「教養ある人」というのは、自分の知っている分野、すでに知っている知識だけに捉われず、常に新しい知的体験を求める。

つまり「教養」というのは、端的に「知的好奇心」と言い換えてもよい。「この分野、よく知らないからパス」ではなく、逆に「よく知らないから、もっとたくさん知りたい」という姿勢のことだ。だから教養のある人というのは、人の話をよく聞く。自分のまだ知らないことを、貪欲に吸収しようとする。

先ほども言ったように、大学で教えている先生というのは、根本的には「あるひとつの分野の研究に、一生を捧げようと覚悟した人たち」なのだ。つまり大学で学ぶどの分野も、ひとりの人間を一生虜にするだけの魅力がある。その魅力を感じ取り、その分野がなぜそんなに面白いのか、それを知ろうとする大学生活を送れば、一生退屈しないだけの「教養」が身に付くと思う。

日本は平均年齢が伸びすぎ、定年退職後の生き方について、道を見失う人が多い。何を生き甲斐にして生きればいいのか、毎日何のために生きればいいのか、燃え尽き症候群のようになる人が多いそうだ。
体力とお金があれば、旅行をするのも良かろう。いままで行きたかったけど行けなかった場所に、のんびりと旅をするのはよい老後のすごし方だと思う。しかし、そこまで体力とお金に余力のある人というのは、それほど多くあるまい。

しかし、大学教育で身につけた「教養」を下敷きとした「知的な旅」ができれば、お金も体力もいらない。いままで知らなかった分野を勉強し、いままで知らなかった世界の広がりを感じて、知的興奮を楽しむ能力があれば、毎日家にいながらにして新しい世界への旅が経験できる。大学教授の変態っぷりでも分かる通り、学問というのは、分野の数だけそれぞれの興奮がある。それを体感できれば、生きることも楽しくなる。

文部科学省はそういう知的生活のことを「生きる力」という言葉で表現している。曖昧すぎて一般には理解されていないだろう。しかし、「知ること」「学ぶこと」が自力でできることは、子供がわくわくしながら電車の駅名を覚えるのと、根本的には同じことなのだ。毎日の生活で確かな成長を感じることができ、自分の世界がどんどん広がっていく実感がある。
つまり、大学で学ぶべきことをしっかりと学び取った人というのは、「一生、退屈しないで暮らしていける人」と言える。

もちろん、すべての人がこのような恩恵にあずかれるわけではない。大学教育というのは、基本的には「経済力と能力のある人だけが許される『贅沢』」なのだ。そこのところを誤解している人が多いと思う。
大学の勉強というのは、基本的には日常的に何の役にも立たない。そのような「役に立たない勉強」に熱中する人だけが、大学に入ればいい。だから、「この分野は何の役にも立たないから勉強する意味がない」と嘯く人は、そもそも大学という場に用がない人達なのだ。役に立つ勉強がしたければ、さっさと大学なんて役に立たないところは退学して、専門学校に行けばいい。「役に立つこと」を、たくさん教えてくれる。教育を受けるということがどれほど贅沢なことなのかを分かっていない人が、大学で学んでも意味がない。

このような、大学で身につけるべき「知」のあり方は、小学校、中学校、高校までに求められる「知」と、根本的に違う。だから高校までの勉強のしかたと、大学から先の「知」が目指すものとのギャップに戸惑い、「勉強とはどういう営みなのか」が分からなくなる学生が多い。
学生が不満に思うのは、興味がある・無いに関わらず、勉強しなければならない科目を一方的に押し付けられることだろう。自分の興味のある分野を選んで学べばいい大学とは異なり、高校までの科目というのは基本的に自分では選べない。

高校までで習う科目というのは、端的に言うと「いままで人類が有史以来築き上げてきた『知の集積』の、ほんの上澄みの部分だけを、味見させてくれるもの」なのだ。「日常生活で使わないのに、漢文なんて習わなければならない」のではなく、「漢文を学べば、3000年以上前の時代に何が起こっていたのかを知ることができる」のだ。そういうことに全く興味を示さない人は、文字通り、学ぶ必要はない。前述の通り、「勉強とは贅沢なもの」だからだ。

ただし、そうやって興味のない科目をどんどん切り捨てていく人は、あとになって「自分には学ぶチャンスがなかった」などという泣き言を一切言う資格はなかろう。世界には、学びたくても学ぶ環境になり不幸な人達がたくさんいるのだ。自ら望んでそういう境遇に身を墜としたければ、構うことはない、学ぶことを止めてどんどん墜ちればいい。

高校までの授業でやっていることは、実は「勉強」とはとても呼べない程度の内容なのだ。あれは単なる「知識のサンプル」であって、本来の分野から言えばほんの小さな箱庭を覗かせてもらっている程度に過ぎない。大学に入ってから、本格的に知的好奇心を存分に発揮して「知の冒険」をするための、基本装備を身につけさせてもらっていると思えばいい。どんな教科も、大学に入ってから己の中に大きな建造物をつくるための「知識のレンガ」を、ひとつひとつ身につけている段階なのだ。例えば、大学に入ってから昆虫に興味をもって本格的に勉強しよう、とする可能性のために「そもそも世の中には昆虫というのがいる」ということを教えてもらっているに過ぎない。

ただし、ひとつだけ例外の科目がある。数学だ。
数学という科目だけは「箱庭程度の知識のレンガ」ではない。「そのレンガをどのように組み合わせればいいのか」という、知の体系を作るための方法論を学ぶ科目だ。数学という科目は、個々の具体的事象をどのように繋ぎ合わせ、どのように体系化すればいいのかを学ぶ科目だ。この方法論を身につけていないと、大学でどんなに勉強をしても、単発知識を数多く知っているだけの「雑学王」で終わってしまう。知識の網を張り巡らし、自分の中で体系化する能力が身に付かない。数学という科目だけは、初学者にわかりやすく事実をデフォルメする「理想化」が無いので、中学校でも、高校でも、大学でも、同じ原理・原則が通用する。数学だけは最初から「箱庭」ではなく「本物の世界」を相手にする科目なのだ。

マンガ『東京大学物語』の中に、矢野先生という怖い数学の先生が登場する。高校三年生の数学の授業で、矢野先生は卒業していく生徒を前に、最後の授業で「本当に人生に役立つ学問は、数学だけである」と言い放つ。

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矢野先生の言う通り、学校で習う学問分野の中で、数学だけが唯一、役に立つ。正確には、数学という学問だけが、「役に立つ」「役に立たない」という尺度で計ることができる。つまり、数学だけが「道具」として使える学問なのだ。その道具の汎用性は、ほぼ世の中の学問分野全てを網羅する。数学的な思考法と発想法がない人間が、大学に入ってから「知の冒険」を行おうとしても、剣をもたずにフィールドに踏み込むロールプレイングゲームの主人公の如し、ろくに戦えないだろう。理系分野に限らず、文学だろうと歴史学だろうと法学だろうと社会学だろうと経済学だろうと、数学を学んでいない生徒が丸腰で挑んでも、新しい「知の創出」はできない。数学を学んでいない人は、知識を体系化する方法論を持たない

ところが学生の多くは「学校の科目に数学はいらない。なぜなら日常生活で役に立たないから」と平気で口走る。大学というところはどういう所なのか、役に立たないとはどういう意味なのか、一切考えようとしない。そういう学生は、どんなに本人が真面目に勉強しているつもりであっても、大学で得られる一番大きなものを得ることなく、無為に4年間を送ることになるだろう。


学生に話を訊いてみると、彼らが言う「役に立つ勉強」というのは、つまるところ「就職活動に有利になる勉強」のことを指していることが多い。彼らは目先の就職活動に恐怖を感じるあまり、「就職の役に立たない勉強」をいっさい切り捨てにかかっているのだ。だから「授業に出ないで就活セミナーに参加する」という学費の無駄遣いをしても平気だ。学生の多くは「生涯にわたって知的興奮をもたらしてくれる知のあり方」などに興味はない。「内定を取れるために必要な知識」だけが欲しいのだ。彼らにとって、大学など「就職予備校」でしかない。

だから、一旦就職してしまえば、大学教育で得たものがすべて不要になってしまう。いい会社に就職できることが、大学受験の勉強を頑張ったご褒美だと思っている学生も多い。そんな人が就職したところで、会社と家を往復するばかりの毎日で、たまの週末には家でごろ寝するだけの退屈な生活を送るようになるのが落ちだろう。知的好奇心など皆無。知らない分野を新たに知ることなど、面倒なことこの上ない。
たまに旅行に出かけたとしても、未知の世界に踏み込む知的冒険を「無駄な勉強」と切って捨てる程度の人間が旅行で味わえるものなど、たかが知れている。ガイドブックに載っている場所を廻り、インターネットで評判の高いお店で食べ、みんなに好評を得られる景色を写真に撮りSNSにアップロードして「いいね!」を押してもらう。つまり、すべてが「他人によって決まる旅」でしか無いのだ。自分で「これが知りたい」「ここに足を踏み入れたい」という姿勢を常日頃からつくりあげていないと、その程度の体験しかできない。

僕は、普段の大学の授業では、学生に対してこういう話はしない。これは単に僕が考えている、僕の意見に過ぎないからだ。学生に押し付けるつもりは毛頭ない。役に立たない学問だと思うなら遠慮なく切り捨てればいい。大学教育が役に立たないと思うなら遠慮なく退学すればいい。就活に血道をあげる4年間がお好みならそれも良かろう。こちらとして出来ることは、学ぶ意欲がある学生に、自分が持っている興味関心の話をするだけなのだ。それを得るか捨てるかは、学生が各自で勝手に判断すればいい。



他の項目についても気が向いたら書きますかね。

小言癖

『父は忘れる』
(リヴィングストン・ラーネッド)

坊や、きいておくれ。

おまえは小さな手に頬をのせ、
汗ばんだ額に金髪の巻き毛をくっつけて、
安らかに眠っているね。

お父さんは、ひとりで、
こっそりおまえの部屋にやってきた。

今しがたまで、
お父さんは書斎で新聞を読んでいたが、
急に、息苦しい悔恨の念にせまられた。
罪の意識にさいなまれておまえのそばへやってきたのだ。
  
お父さんは考えた。
これまでわたしは
おまえにずいぶんつらく当たっていたのだ。

おまえが学校へ行く支度をしている最中に、
タオルで顔をちょっとなでただけだといって、叱った。

靴をみがかないからといって、叱りつけた。

また、持ちものを床のうえに
放り投げたといっては、どなりつけた。

今朝も食事中に小言をいった。
食物をこぼすとか、丸のみにするとか、
テーブルにひじをつくとか、
パンにバターをつけすぎるとかいって叱りつけた。

それから、おまえは遊びに出かけるし、
お父さんは駅へ行くので、一緒に家を出たが、
別れるとき、おまえは振り返って手をふりながら、
「お父さん、行っていらっしゃい!」といった。
すると、お父さんは、顔をしかめて、
「胸を張りなさい!」といった。

同じようなことが
また夕方にくりかえされた。

わたしが帰ってくると、
おまえは地面にひざをついて、
ビー玉で遊んでいた。

ストッキングは
ひざのところが穴だらけになっていた。
お父さんはおまえを家へ追いかえし、
友だちの前で恥をかかせた。

「靴下は高いのだ。
おまえが自分で金をもうけて買うんだったら、
もっとたいせつにするはずだ!」

これが、お父さんの口から出たことばだから、
われながら情けない!

それから夜になって
お父さんが書斎で新聞を読んでいるとき、
おまえは、悲しげな目つきをして、
おずおずと部屋にはいってきたね。

うるさそうにわたしが目をあげると、
おまえは、入口のところで、ためらった。

「何の用だ」とわたしがどなると、
おまえは何もいわずに、
さっとわたしのそばにかけよってきた。

両の手をわたしの首に巻きつけて、
わたしにキスした。

おまえの小さな両腕には、
神さまがうえつけてくださった愛情がこもっていた。  

どんなにないがしろにされても、
決して枯れることのない愛情だ。  

やがて、
おまえは、ばたばたと足音をたてて、
二階の部屋へ行ってしまった。  

ところが、坊や、
そのすぐあとで、
お父さんは突然何ともいえない不安におそわれ、
手にしていた新聞を思わず取り落としたのだ。

何という習慣に、
お父さんは、取りつかれていたのだろう!  

叱ってばかりいる習慣…
まだほんの子供にすぎないおまえに、
お父さんは何ということをしてきたのだろう!

決しておまえを愛していないわけではない。

お父さんは、
まだ年端もゆかないおまえに、
むりなことを期待しすぎていたのだ。

おまえをおとなと同列に考えていたのだ。  

おまえのなかには、
善良な、立派な、真実なものがいっぱいある。  

おまえのやさしい心根は、
ちょうど山の向こうからひろがってくる
あけぼのを見るようだ。  

おまえがこのお父さんにとびつき、
お休みのキスをしたとき、
そのことが、お父さんにははっきりわかった。

ほかのことは問題ではない。  

お父さんは、おまえに詫びたくて、
こうしてひざまずいているのだ。  

お父さんとしては、
これが、おまえに対するせめてものつぐないだ。  

昼間こういうことを話しても、
おまえにはわかるまい。

だが、あすからは、
きっと、よいお父さんになってみせる。  

おまえと仲よしになって、
いっしょに喜んだり悲しんだりしよう。

小言をいいたくなったら舌をかもう。
そして、おまえがまだ子供だということを
常に忘れないようにしよう。  

お父さんはおまえを
一人前の人間とみなしていたようだ。

こうして、あどけない寝顔を見ていると、
やはりおまえはまだ赤ちゃんだ。

きのうも、お母さんに抱っこされて、
肩にもたれかかっていたではないか。

お父さんの注文が多すぎたのだ。




別に子供に対してだけのことじゃあるまい。

日大は何を考えているのか

日大アメフト部の反則行為の波紋が凄いことになっている。


関学大が怒りの会見を行い、反則を犯した学生選手が実名公表・顔出しの上で会見を行った。学生スポーツのあり方を考えると異様な出来事だ。
ここに至り、それまでひたすら事態を静観してきた日本大学が、ようやく重い腰を上げた。世間の非難に突き上げられて、しぶしぶ会見を開いた格好だ。



iatsuteki

手を後ろに組むのは相手を威圧する態度ですよ


この会見で内田正人前監督も井上コーチも、ひたすら責任回避のための自己正当化に終止した。あくまで「違反の指示はしていない」と言い通し、明確な責任を認めなかった。
また、威圧的な司会者が世間の反感を招いた。謝罪会見のくせに「もう終わりにします!」「打ち切りますよ!」など声を荒げ、「この会見は、みんな見てますよ」という声に対して「見てても見てなくてもいいんですけど。同じ質問を繰り返されたら迷惑です」と言い放った。「司会者のあなたの発言で、日大のブランドが落ちてしまうかもしれない」とまで言われたが、「落ちません!余計なこと言わず」と言い返す有様だ。

僕の見るところ、あの司会者は日大の広報あたりの人間だろうが、純粋な大学人ではないだろう。おそらくマスコミあたりで働いていたのを、横滑りか天下りで日本大学に入ってきた人間だと思う。日大は「元◯◯◯」という肩書きをもつ人材が大好きなので、マスコミの業界ではそこそこ名が知れている人かもしれない。そうでもなければ、若手記者も多かったマスコミ勢にあそこまで威圧的な態度はとれない。

ここまでの経過を見ると、日大が腐心しているのは「大学の体面を保つこと」「内田正人を庇うこと」のふたつだけだろう。日大の不可解な行動は、その2つだけが行動原理になっている。
当初、関学大があれだけ怒りのコメントを出していたのに、日大は動かなかった。問題の規模を希望的観測によって矮小化して捉えていたのだろう。大学ホームページに形だけの「おわび文」を掲載し、それですべてが幕引きにできる、と考えていたようだ。

日大は関学大の説明要求を受け、「意図的な乱暴行為を教えることはまったくない。ルールに基づいた指導を徹底しており、指導者の教えと選手の理解にかい離があった。指導方法について深く反省している」と答申した。要するに「選手が勝手にやったこと。内田正人は悪くない」ということだ。ここに至って日大はいまだに問題を小さいものと考えていたようだ。おそらく日大は、関学大からの説明要求を「形ばかりのもの」と考えていたのではあるまいか。交流戦の提携校として、一応やりとりの形を整えなければいけないが、形だけ整っていればなんとかごまかせる。日大はそのような「なぁなぁ」の関係を関学大に期待していたように見える。

日大にとって誤算だったのは、関学大の原因追及の姿勢が本気だったことと、被害者家族が予想以上に激怒していたことだろう。この頃になると世論が騒ぎ始め、トップニュースとしてこの件が取り上げられるようになる。日大の思惑と、世間の反応が大きく乖離しはじめたのは、この頃だっただろう。

内田正人本人が関学大に詫びを入れに行ったとき、空港の立ち話程度の会見で、口では「全責任は私にある」と言っていた。しかしその言葉は、のちの内田正人と井上奨コーチの会見内容と真逆といってよい。
会見で言っていたのは、要するに「悪いのは選手」ということだ。自分たちは真っ当な指導をしていた。言葉を誤解して選手が勝手に反則行為に走った。そういう言い分だ。ならば、どこが「全責任は私にある」のだろうか。会見で言っていた内容は「全責任は選手にある」だった。

日大の対応はすべて後手後手に廻っていたが、その理由はすべての姿勢が「もみ消し」だからだろう。早急に臭いものに蓋をしたい態度が丸見えだ。空港で内田正人が「全責任は私にある」と口にしたのは、「だからこれ以上騒ぐな」が本意だろう。

それは後日、内田と井上が行った会見での司会者の態度も同じだ。大学が開いた謝罪会見にも関わらず、マスコミの質問を遮り、威圧し、恫喝していた。「こっちは会見を開いてやったんだ。これ以上突っつき回すな」という大学側の姿勢が見える。
結局、「責任」「責任」と口では言っておいて、事実は一切明らかにしない。関学大や世間が何を求めているのかが分かっていない。

事態は、反則を犯した学生選手が会見を開いたときから一変する。学生選手の会見は、世の中が知りたいことをすべて明らかにする、とても分かりやすいものだった。マスコミはセンセーショナルな見出しに使える言質を引き出そうと醜い質疑を重ねていたが、そういう誘導には一切乗らなかった。ただひたすら「謝罪」と「事実説明」に終止し、その一線を超えなかった。

この会見で日大は慌てただろう。問題の構造が変わったからだ。
それまでは、問題の構図は「関学大 vs. 日大アメフト部」だった。関学大側が怒りの攻撃をかけてきて、それを日大アメフト部がのらりくらりとかわしていた。しかしこの学生選手の会見で、構図が「学生選手 vs. 日本大学全体」に変わってしまった。

ことの本質は、その構図のどちらにも内田正人が絡んでいることだ。内田正人は「アメフト部の監督」というだけではなく、「日大の常務理事」でもある。日本大学が必死になってかばおうとしていたのは、後者の「日大の常務理事」としての内田だろう。アメフト部の監督というのは、理事としての地位を裏付ける立場のひとつでしかない。事実、内田は関学大に詫びを入れに行ったときに、あっさりとアメフト部監督からの辞任を表明している。

日大と内田としては、「関学大に詫びを入れに行く」「アメフト部の監督を辞任する」という2枚のカードで、すべての問題を幕引きにできると踏んでいたのだろう。実態としては、日大は「アメフト部の監督としての内田」を切り離すことで、最低限「日大の常務理事の内田」を守ろうとしたのだと思う。日大の思惑としては、「日本一にまでなった偉大な監督が、わざわざ自ら辞任を表明するのだから、これで世間には納得してもらえるだろう」という、手前味噌的な過大評価があったのではないか。

学生選手が会見を開き自らの口で語ったことで、日大に対する世間の逆風が一気に高まった。慌てた日大は内田と井上のふたりを並べて急遽会見を開いた。この会見も、随所に日大の「できれば誰も見ないでくれ」「できるだけ早く蓋を閉めたい」という思惑が透けて見えた。会見を開いたのが、テレビで生放送が不可能な夜8時。しかもそれをマスコミに通知したのが、ほんの1時間前。司会者に威圧的な人間を配置し、可能なかぎり会見自体を潰そうとする態度。

日大は会見を開く前に、前日に行われた学生選手の会見に対する世間の反応を調べたのだろう。そこには「マスコミの質問がひどい」「監督に対する非難の言質を取ろうとしてばかりいる」という反応が多かった。日大は「これだ」と踏んで、「悪質な質問をし続けるマスコミ側を悪者にする」という作戦を練ったのではないか。あの司会者はそういう印象を視聴者に与える役割を課されていたように見える。

内田と井上の会見内容はひどかった。日本大学が会見を開いた目的は「責任をすべて井上コーチに押しつけ、すべての問題をそこで食い止めることで、常務理事としての内田の安全を確保する」というものだろう。会見で井上コーチは目線が虚ろで、言っていることが「言っていない」から「覚えていない」に変化するなど不安定だった。生け贄にされ、切り捨てられる犠牲者は、そういう精神状態にもなるだろう。ましてや隣では、自分に全責任を押し付けて、のうのうと生き延びようとしている御本尊が、平気な顔をして責任転嫁を繰り返しているのだ。これで怒りが湧かないほうが不思議だ。

僕が会見を見ていて不思議だったことがある。内田と井上曰く、反則を犯した選手は「闘志のなさを指摘され、反則後に泣いていたことを『優し過ぎる』と叱責されていたような選手」だった。そんな選手が、なぜ「言葉の取り違え」などという理由であんな暴力的な反則を犯すことになるのだろうか。闘志がない故にスタメンを外されるような選手が、何らかの強力な力が働くことなしに、あんなひどい反則を犯すものだろうか。

学生選手の会見と、内田と井上の会見は、内容が矛盾している。どちらかが正しくてどちらかが嘘をついているのは確かだ。ともに言葉だけなので正否を決める決定的な証拠は原理的に存在しない。しかし内容と事実の整合性は、圧倒的な精度で学生選手の言明のほうが高い。内田と井上の会見は、会見中の言葉だけでも辻褄が合わず、ましてや実際に起きた事実との整合性がまったくない。いまの段階では信憑性が皆無だ。

ことはアメフト部の枠を超えて、すでに日本大学全体の問題になってしまっている。内田正人の保身に固執したことで、日大の屋台骨が揺らぐ事態にまで発展した。端から見れば本末転倒なことをやっているが、日大としてみれば本望なのだろう。日本大学にとっては、大学の名誉が毀損され、積み重ねた実績と歴史がすべて灰燼に帰し、未来を担うことになる受験生にそっぽを向かれることになるよりも、それ以上に内田正人という人間ひとりが可愛いのだろう。それは日本大学の判断と選択であって、外の人間が非難する筋合いのことではないと思う。



そういう大学だとこちら側が認識していれば済む話。

施策の真意を読む

小学校の英語 授業の質と時間を確保したい
(2018年1月31日 読売新聞社説)

2020年度に実施される次期学習指導要領は、小学5、6年生での英語の教科化が柱となる。それを見据えた措置だ。円滑な移行のため、英語学習を先行して充実させる狙いは妥当である。

 気がかりなのは、外国語活動を担う教員の水準が十分とは言えないことだ。英語の指導法を学んでいない学級担任による授業が基本となっているためだ。

 教育委員会は研修を行っているものの、英語力に不安を抱える教員は少なくない。英語を母語とする外国語指導助手(ALT)の配置も、自治体ごとにばらつきがある。授業の質に格差が生じる懸念は、かねて指摘されていた。



まぁ、現場に余計な負担をかけるだけの改悪になることは間違いあるまい。


教育に関する「改革」というものは、大体が目的のための手段ではないことが多い。表向きの目的とは別に、その施策を是が非でも実行しなければならない事情がある。

たとえば大失敗に終わった「ゆとり教育」。あれの本当の目的は、生徒にゆとりをもたせることなどではない。ゆとり教育の背景には、1970年代から80年代にかけての、生徒数の増加がある。

団塊世代の子供にあたる世代で生徒数が激増し、それに伴って学業成績が追いつかず、学校の授業からドロップアウトする生徒が増えた。この時期に荒れた中学・高校の数はかなりの数にのぼり、不良生徒の素行が社会問題となった。マスコミはこぞって「受験地獄」「詰め込み教育」「偏差値重視」「学歴偏重」などをキーワードに、当時の文部省の方針を批判した。教育現場では教師の負担が増加する一方だった。

そういう背景で、「ドロップアウトする生徒が多いなら、いっそのこと、最初から教える項目を少なくすればいいのではないか」という趣旨で導入されたのが、ゆとり教育だ。ゆとり教育は、決してそれが「教育のために効果がある」という意図で実施されたのではない。ゆとり教育が意図する救済の対象となっていたのは、実は教師の側なのだ。増える一方の生徒数によって学校機能がパンクした状態で、教師の側に「落ちこぼれ生徒の面倒を見る手間を減らす」という目的のために採られた方策だ。 教師のためのものであって、生徒のためのものではない。

ゆとり教育によって子供の学力が下がることなど、最初から分かっていたことだ。それでもゆとり教育を断行したのは、当時そうでもしなければ学校現場が成り立たない事情があったからだ。子供の学力低下と引き換えに、学校機能を少しでも回復させる便宜上の措置にすぎない。当時の文部省も、ゆとり教育が未来永劫継続すべき指針だとは露ほどにも考えていなかっただろう。ほんの一時的な「その場しのぎ」に過ぎない。

だから生徒数が減れば、ゆとり教育は不要となる。2000年代になって生徒数が激減し、生徒ひとりひとりに手間と時間をかけた指導が可能になると、ゆとり教育は弊害のほうが重くなってきた。そうなると文科省は軽やかにゆとり教育を捨て、従来の「詰め込み教育」に回帰する動きをみせている。

そういう視点でゆとり教育の是非を考えると、単純に「子供の頭が悪くなったからゆとり教育は失敗」と断じることはできない。ゆとり教育を評価するときには、表向きの看板「子供の学力のため」以外に、裏の真意「学校機能の回復のため」のほうも評価の対象にする必要がある。

そのような複眼的な視野でも、やはりゆとり教育は失敗に終わったというべきだろう。最初から犠牲にするつもりの学力は順調に下がり、かつ学校機能も回復どころか悪化の一途を辿っている。「リーゼント」「長ラン」「派手なシャツ」というクラシックな不良はいなくなったが、代わりに不登校や学級崩壊など違った種類の問題が発生している。「指導力不足」という信じられない教師まで出現するようになり、文科省はあわてて教員免許を更新制にして必死に体裁を取り繕っている。ゆとり教育で学校が良くなったことなど何もなく、生徒の質も教師の質も、ともに下がる一方だ。

ところで、ゆとり教育に特徴的な実施事項に「総合的な学習の時間」というのがある。その趣旨は「地域や学校、児童の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うものとする」。まったく訳が分からない内容だが、要するに「アタマで覚えることだけでなく、実際にその知識を生かして、何かできるようになれ」という無茶振りだ。覚える内容を減らし、覚えた内容で何か生産的なことをしよう、といういかにもお役所的な発想だ。

こんな総合学習が企画倒れに終わることなど見え見えだっただろう。なにせ、教師の側にそんな能力などなかろう。自分がやったこともなければ、それを教えることもできない。もし総合学習が謳うような能力が身に付いているような人材であれば、最初から教師になんてなるまい
学校現場も気の毒だ。いきなり「各自が工夫して授業をつくれ」なんて丸投げされても困るだろう。創意工夫や知的好奇心に長けた教師にとっては良いだろうが、学校の教師は決して創造的な頭脳活動が得意な人種ではない。

「総合的な学習の時間」は、ゆとり教育のカリキュラムが転換した今でも残っている。いわば大失敗に終わったゆとり教育の「負の遺産」であって、学校現場はそれをどうしたものか持て余している。
その受け口として新たに架け替える看板が「英語教育」だろう。ゆとり教育から完全撤退するためには、「総合的な学習の時間」を世間に悟られることなくフェイドアウトさせる必要がある。そのためには、必要性を論じる必要のない「英語教育」は絶好の身代わりだろう。

つまり、小学校の英語教育導入の目的は「生徒の英語力を伸ばすこと」ではない。「批判されることなく、完全にゆとり教育から撤退すること」だと思う。生徒のためではなく、文科省および学校現場の面子を保つためなのだ。ゆとり教育の象徴として具体的に残ってしまっている総合学習の時間を英語教育に振り替えることによって、他科目の授業数を増減させることなく、目立たずに総合学習の痕跡を消す。

かように教育に関する施策というのは、教育の対象となる生徒児童のためを思って実施されることなど皆無だ。施策の目的はすべて「大人側の事情」による。文科省はいまだにゆとり教育の失敗を公式には認めていない。文科省にとっては、面子を守り、体面に固執し、形だけ整えることが何よりも大事なのだ。そういう本質を知らずして、表面だけの「英語教育の是非」を論じても無駄だろう。最初から「そうしなければならない裏の事情がある」という問題に対して、表向きの取り繕った体裁だけ批判しても、方針など変わらない。



本気で潰したければ相手の弱いところを突かないと
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自分とは何者なのだろうか

「5月病」というのはよく知られているが、「11月病」というのはあまり知られていない。


そりゃそうだろう。僕が勝手に名付けた症状だからだ。
僕の感覚では、5月病など屁のようなものだが、11月病は下手をすると大学生の一生を狂わせる。

11月病というのは、よくある大学生の戯れ言「自分とは何者なのか」という人生の迷いを指す。命名通り、11月あたりに発症する学生が多い。夏の浮かれた時期が過ぎ、涼しさから寒さへと気候が変わる頃になると、「いまやっていることが本当に自分のやりたいことなのか分からなくなってきたんです」のような、わけの分からないことをほざき出す。

大学生の5月病なんぞ、一種の燃え尽き症候群であることが多い。大学受験のストレスから解放され、勉強という「毎日やらなければならないこと」がなくなる。一人暮らしをはじめてする学生も多い。そういう時期、誰もいない部屋に帰ってひとり、何をすればいいのか分からくなってしまう。
まぁ、僕の感覚では、受験のための勉強など遊びのようなもので、大学に入ってからが本当の勉強の始まりだ。だから「毎日勉強しなくてもよくなった」というのは単なる学生の勘違いなのだが、まぁそれは言うまい。

その手の5月病は、夏が近づけば大抵は良くなる。6, 7月くらいになれば大学で友達もできてくるし、サークルや部活など自分の居場所がみつかる。「5月病が原因で大学をやめました」という学生は非常に稀だ。
基本的には11月病もそれと似たようなものだ。僕も11月病にかかった学生から相談を受けることがあるが、基本的に放っておく。年末が近づき、クリスマス特需で恋人ができ、冬休みに帰省して大学に戻ってくると、けろっと治っていることが多い。

ところが5月病と違って、11月病の自然治癒率は6割程度といったところだろう。1月末の期末試験が終わって、春休みが近くなっても、相変わらず生気のない目で相談に来る学生がいる。ここまでこじらすと、むしろ春休みは危険だ。大学は、夏休みよりも春休みのほうが長い。その春休みの間に11月病を悪化させ、4月になっても大学に戻ってこなくなる学生がいる。
お決まりの「自分探しの旅」にお出かけなのだ。

なぜだか知らないが、僕はこの11月病に対処する名人という評価をいただくことが多い。僕に相談しに来ると、人生の迷いが晴れるという評判が学生に回っているらしい。
迷惑千万だ。そんなくだらん評価のせいで、学生応対に時間をとられ、したい勉強もたまった仕事も削られる。我ながら「自分は教師に向いていないな」と実感する。

教師の側としてみれば、そういう学生への対処に方法には、ある程度の「定番のテクニック」はある。今では僕は、学生応対がどんなに面倒くさくても、作り笑いなど0.5秒で作れる。ひたすら聞き役に徹すること、学生に多く話させること、感情を否定せず、正論をぶつけず、共感に徹すること。昨今では大学教員はカウンセリングの研修が義務化されていることが多いので、どこかの段階でそういう対処の仕方を教わっている。

要するに「頷き魔になれ」ということなのだが、単なる首振り人形ではなく、学生が安心して相談できる教師になるためには、その根底で「自意識というのはいったい何なのか」ということを教師なりに理解している必要があると思う。それを直接的に学生に言うかどうかは別として、自分なりの「答え」として、「自意識」というものを形として掴んでおく必要があると思う。


「自意識とは何ぞや」という議論は、哲学や社会倫理学の分野では正体不明の議論が飛び交っているようだが、僕の考えでは、自意識の正体は時代によって変化しているものだと思う。


昔の日本は、「その人が何者であるのか」は、その人の外側で勝手に決められていた。両親は誰か、祖父母は誰か、祖先は誰か、どこの家の子供なのか、家業は何なのか、住んでいるのはどこなのか。こうした「血縁」「地縁」という因習によって、その人という存在は決まっていた。

アメリカ人は自由奔放、個人主義、能力主義に見えるが、実はそういう血縁や地縁を非常に重んじる。アメリカ人の男の子の名前の付け方に「(父親の名前) Jr.」という名前の付け方があるが、日本人は絶対にしない名前の付け方だ。日本では、父親の名前をそのまま息子に名付ける親はいないだろう。もともと移民の国で、全員がよそ者だった国だからこそ、「自分は何者なのか」を確立するためには「誰々の息子」という血縁にすがりたいのだろう。

現在でも、地縁や血縁によって自意識をつくる輩はいる。『ハリー・ポッター』に出てくる敵役ドラコ・マルフォイは、作品を一貫して「マルフォイ家のお坊ちゃん」という自意識に揺るぎがない。自分の内側に誇るものがなく、自分が何者であるのかを構成している要素がすべて「本人の外側」にあるものだ。
そういう自意識は現代では嫌悪される傾向にあるが、少なくともドラコ・マルフォイは作品中、「自分は何者なのだろうか」「自分はどう生きるべきなのだろうか」などという悩みは微塵も持っていない。蓋し、地縁や血縁という因習は、現在どう評価されているかは別として、揺るぎない自意識を提供してくれるものなのだろう。言ってみれば、そういう因習は、「自意識」という生きるうえで邪魔なものを、くるんで隠してくれる一種の社会装置だったのだろう。

現在では、そういうものはほとんど残っていない。生まれたときから両親との核家族で、祖父母とは夏休みに年に一回会うか会わないか。祖先の墓参りをすることもないだろうし、家業を継がなければならない学生など皆無に等しい。地縁や血縁によって自我を確立している若者は、今や絶滅危惧種だろう。

そういう時代では、「自分は何者なのか」が勝手に決まってくれないので、自分でそれを作らなくてはならない。その元手になるのが「能力」だ。自分はなにができる人間なのか。自分はいままで何を成し遂げてきたのか。そういう「自分の内側にあるもの」しか、自分という存在をつくりあげる材料がない。

能力によって自分が定まるということは、言い換えれば「他人の評価でしか自分が決まらない」ということだ。多くの場合、若者の能力というのは、他人に評価されて初めて存在することになる。「ルービックキューブで6面を揃えられます」などという、誰も褒めてくれない能力を持っていたとしても、「自分は何者であるのか」を確立する役には立たない。

他人の評価の最たるものが「就職活動」だ。能力を下地として、自分の価値が、他人に容赦なく判断される。お祈りメール一本で就活が刎ねられるということは、大学生にとって「お前には価値がない」という非情な宣告だ。そのため今の大学生は、日々、自分の価値を作り出すことに必死になっている。血縁によって家業を継いでいた時代には必要のなかった努力だ。

つまり、「自分が何者なのか分からない」という11月病の根っこをよくよく調べてみると、ほとんどの場合が「就職活動に対する潜在的な恐怖感」であることが多い。就職のために何か能力を身につけなければならない。他の人にはないオリジナリティーを身につけなければならない。大学生活のすべての努力、すべての生活が、「自分にしかない価値」を作るための競争と化している。ご苦労なことだ。

その努力に疲れた学生の行き着く先が「自分探し」だ。要するに、自分の能力を肯定的に評価できなくなっているのだ。「自分探し」をしている学生の多くは、本当の自分を探そうとしているのではなく、能力の不足から「本当になりたい自分」になれず、妥協できる落としどころを探しているに過ぎない。基本的な姿勢は「逃げ」なのだ。厳しく聞こえるだろうが、ほとんどの学生がやっていることは、要するにそういうことだ。

そういう学生が不真面目というわけではない。むしろ、11月病にかかる学生は、とても真面目な優等生が多い。
優等生ということは、言い換えれば、それまでの18年たらずの人生を「他人に評価されるために頑張ってきた若者」だ。両親の期待に応えたい。先生に褒められたい。友達に一目置かれたい。そのために努力を惜しまない。そういう一生懸命な学生が、大学後の進路に「いい子として頑張るだけではどうにもならない現実」が待ち構えていることに薄々気づきはじめ、それまでの努力の仕方が通用しなくなることに絶望し、11月病に陥る。

僕はそういう11月病患者の学生の話を聞く時に、必ず子供の頃からの趣味を聞く。子供の頃、楽しかった思いでは何か。なにか集めていたものはないか。何をしていた時に一番時間を忘れて熱中していたか。
子供の頃からの話を聞くのは、そういう学生は、いま現在、なにも趣味を持っていないことが多いからだ。「それさえしていれば人生は楽しい」という時間をもたない。ひどいのになると、「いまはそういう趣味に熱中している場合ではないから、封印しています」という学生もいる。

本末転倒だと思う。そういう学生は、自分の生き方を「なにをしたいか」ではなく、「なにをしなければならないか」だけでつくりあげている。就職活動という恐怖に立ち向かうために、それに役に立たないものは、趣味だろうが大学の授業だろうが、容赦なく切り捨てる。よく「こんな学問、なんの役に立つんですか」という質問をする学生がいるが、その「役に立つ」とは、多くの場合「私の就職活動に」という前提が隠れている。自分の将来、自分の進路、自分のいまの必要性、という狭い価値観でしか、世の中を見られなくなっている。

そりゃ、生きるのがつまらなくもなるだろう。酷なようだが、そういう学生は、人生がつまらないのではなく、自分で自分の人生をつまらなくしているのだ。
そういう学生だって、子供の頃からそういう価値観だったわけではない。それまでのどこかの時期には、「人生の何の役にも立たないこと」に熱中していた時期があるはずなのだ。そういう生き方を取り戻す以外に、11月病から立ち直る方法はないと思う。

僕に言わせれば、大学教師なんて全員、好きなことだけに熱中して、世のため人のため役に立つことなど知ったこっちゃない社会不適格者ばかりだ。僕も一応、研究者の端くれだが、自分の研究が世の中のために役に立つと思ったことなど一度もない。自分の研究が何の役に立つのか、と学生に訊かれたら、僕はいつも「役になんて立たないよ」と即答している。僕が自分の研究を続けているのは、それが役に立つからではない。単純に、自分の研究分野が好きだからだ。

日本は、どんな分野にでも、どんな対象にでも、それを専門に研究している学者がいる。そのひとりひとりをよく見てみれば、その分野に熱中している5歳児に過ぎない。駅の名前をひたすら覚えていたように、怪獣の人形をいじって遊んでいたように、化学式を覚えたり数式をいじったりしているに過ぎない。そのような熱中のしかたではなく、義務感と使命感だけで、数10年にわたる研究生活の集中力を保つことなど、人間にはできない。

11月病にかかった学生に応対するときには、最終的には「すべての人の期待に応えることなど、そもそも不可能だ」ということを悟ってもらうことになる。自分に肯定的な評価をする人がいれば、必ず否定的な評価をする人もいる。好きになってくれる人がいる代わりに、必ず誰かには嫌われる。進路を決める段階で、両親の期待とは違う道に進むこともあるだろう。「この子はできる学生だ」と評価してくれている先生の期待を裏切ることもあるだろう。僕なんてそんなことはしょっちゅうだった。

言葉にすると、「他人の評価を気にすることなく、自分が本当に熱中できることを見つけなさい」ということなのだが、そんなに簡単なことではない。18年以上の人生を他人の評価で塗りつぶしてきた真面目な若者にとっては、生き方を正反対にするほどの困難を伴うものだ。人はそんなに簡単に自分勝手にはなれない。サルトルの言う「自由という鎖」は、思いのほか現代の学生をきつく縛っているものなのだ。

付け焼き刃ではなく、自分の一生を支えてくれる本当の「自意識」というのは、「何ができるのか」という能力主義では身に付かないと思う。そういう能力主義は義務感に直結して、「しなければならないこと」で毎日を埋め尽くす苦難の道をつくりだす。
朗らかに充実した毎日を送るためには、「何をしたいのか」「何が好きなのか」で自分自身を作りだすほうが王道だと思う。学生は、したくもない努力を耐え忍んで褒められるよりも、本当に自分のしたいことをしている時のほうが、いい顔をするものだ。

そういう生き方をするために、具体的に何をすればいいのか。
それを訊かれたら、僕は「勉強しろ」と返事をすることにしている。大学生である以上、いま一番したいことは「勉強」であるはずだ。その言い方で語弊があるなら、「いま一番やりたいことが勉強である人だけが、高校卒業後の進路に大学を選ぶ」というのが本来あるべき大学進学のあり方だと思う。

「何の役に立つのか」などというくだらないことを考えず、将来につながる能力など関係なく、単純に、学んで面白い分野を自分勝手に勉強する。それが世の中の何の役に立つのか、自分の進路にどう利用できるのか、などのきれいごとは一切禁止。
目的のある勉強など、本当の勉強ではない。本来の勉強というのは、知ることを楽しみ、考えることを楽しみ、それまで知らなかった世界がどんどん広がっていくことを実感する知的興奮を味わうことだ。

「ただひたすらに勉強する」という、実際にやることは変わらない。しかし、「いい成績をとっていい就職をするために勉強する」という他人に評価されるための勉強と、「自分勝手に好きなことを学び散らかす自由奔放な勉強」とでは、それに向かう姿勢はまったく違う。
「一生懸命に勉強する」というのは、ちょっと違う。鉄道好きな子供が駅名をひたすら覚えることを「一生懸命」とは言わないだろう。


頭と尻尾だけをとってみれば、大学の授業に価値を見いだせなくなった学生に、「勉強に熱中しろ」と言っているわけだから、結論だけ聞きたい学生にとっては雲をつかむような話だろう。我ながら、禅問答に近いと思う。
青い鳥の話ではないが、本当に自分にとって必要なものは、意外に自分にいちばん近いところにある。勉強に迷う学生の解決策は、勉強にこそあるのではないか。もちろん、「嫌なものに立ち向かうことでしか困難は解決できない」のような、体育会系的で短絡的な考え方ではない。そんな安直な根性論では、長く続く人生を支えてくれる「自我の確立」など、とうてい無理に相違ない。



大学生たち!勉強はいいぞ!勉強は楽しいぞ!
ペンギン命

takutsubu

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