
母子殺害に死刑 少年法の適用年齢検討を
(2012年2月21日 産経新聞社説)
母子殺害事件―この先も考え続けたい
(2012年2月22日 朝日新聞社説)
光市母子殺害 残虐性を重く見た最高裁判決
(2012年2月21日 読売新聞社説)
光事件元少年死刑 判決が投げかけた意味
(2012年2月21日 毎日新聞社説)
冷静に議論を続けたい「少年と死刑」
(2012年2月21日 日本経済新聞社説)
この冬、また改めてドストエフスキーの『罪と罰』を読み返した。
僕の人生観を大きく決定付けた本のひとつだ。小学校6年のときに初めて読んで以来、いままで幾度となく読み返している。そして、読むたびに感想が違う。
最初にこの本を読んだ時には、「自分は明日から生きていていいのだろうか」とショックを受けたことを覚えている。
この本のテーマは「人の犯した罪は、心から悔い反省しているのなら、赦されるべきなのか」ということだ。個人的には、法に関わる人間でこの本を読んでいない人は、あまり信用していない。罪を犯すということと、それに対する償いの気持ちを、個人の中でどのように折り合いをつければいいのか。それを法はどのように裁くべきなのか。そういう極限のテーマを思い巡らすとき、人はふつう個人的な直接体験だけでは追い付かない。それを直視し、じっくり考える契機になり得る本は、あまり多くない。
1999年に起きた山口県光市母子殺害事件で、殺人などの罪に問われた福田(大月)孝行(当時18歳)に対する死刑判決が決定した。
配水管検査を装って上がり込んだアパートの一室で、23歳の主婦を絞殺し、殺害後に強姦。傍らで泣きじゃくる生後11か月の女児も殺害した。これで死刑にならなかったら、日本では何をしても死刑にならないだろう。最高裁判決の通り、「冷酷、残虐で非人間的」と断じていい。
この死刑判決を受け、NHKをはじめマスコミ各社は被告人の実名報道に踏み切った。社会的影響の大きさと「もはや更正の可能性が無くなった」との判断だ。
新聞各紙を読むとまず印象的なのが、どの新聞も今回の死刑判決に対して批判的ではない、ということだ。犯人は犯行時、18歳になって日が浅かった。一応、未成年ではある。更正の可能性云々から、今回の死刑判決を批判することもできただろう。
しかしどの新聞も、今後は裁判員制度導入によって市民がこういう事件を裁く側になることを提起し、「国民ひとりひとりが考えるべき問題だ」というところを落とし所にして、お茶を濁している。
「裁判員制度が導入された現在、この事件も裁判員裁判の対象となる。無期懲役と死刑の狭間で裁判所の量刑判断も揺れるような難事件を、市民はどう裁くか。裁判員の視点で考える契機としたい。」
(読売社説)
「刑事裁判や少年法の世界だけではない。大人と子どもの線をどこに引き、どんな権利や責任を分かち合い、成長の過程にある年代をどうサポートするか。それは、教育や福祉をはじめ様々な分野で、考えていかなければならない課題だ。視野を広げて議論を深めたい。」
(朝日社説)
「凶悪事件を起こした少年に対して社会がどう臨むのか。死刑制度の議論と併せ、国民一人一人が難しい問題に向き合う時代がきている。」
(毎日社説)
「23年の警察白書によると、少年犯罪の検挙件数は減少傾向にあるが、一方で少年による重大事 件も頻発しているのが現実だ。犯罪を防ぐ抑止力としての期待が厳罰化の流れを後押ししているといえる。法の規定が時代の 変化に追いついているかどうか、判決を機にさらなる検討が必要だ。」
(産経新聞)
「少年への刑罰はどうあるべきなのか。裁判員時代における、私たち一人ひとりの問題として考え続けていかなければならない。」
(日経社説)
どの新聞も雁首揃えて、結語がえらく曖昧だ。なにが「国民一人一人が向き合うべき問題」だ。何が争点かも明らかにしないで、自分が裁判員制度になった時の覚悟まで届くものか。「これは社会全体の問題だ」「私たち一人ひとりの問題として考えるべきだ」など、聞こえはいいが何も言っていないに等しい結語を弄して、何を世に問うているのだろうか。
これらの新聞社説を読んで、「なるほど、裁判員制度を引き受けるときには、こういう覚悟が必要なのか」と、きちんと自覚できる人がいるのだろうか。
論点のポイントを外している新聞が多い。
例えば、朝日、毎日、日経の3誌は、最高裁のなかで宮川光治裁判官だけが「死刑判決を破棄し、改めて審理を高裁に差し戻すべきだ」と死刑に反対したことに触れている。宮川裁判官の死刑反対の理由としては、「年齢に比べ精神的成熟度が低く幼い状態だったとうかがわれ、死刑回避の事情に該当し得る」(日経社説)とのことだ。
この宮川裁判官のくだりは、要するに「未成年に対する死刑判決は、難しいんですよ」と言いたいだけだ。そんなことは、当たり前だ。そんな誰でも分かるようなことにわざわざ具体例を挙げ、貴重な紙面を無駄にしている。今回の事件を論じるにあたっては、切り捨ててよい無駄な部分だ。
本当に論じるべきは、「なぜ難しいのか」の焦点をはっきり指摘し、それが今回の件ではどう作用したのか、をきちんと指摘することだろう。
新聞報道によると、各紙が今回の死刑判決に対し「まぁ、仕方ないか」という論調なのは、どうも弁護団側の失態によるものらしい。
福田被告は裁判当初、殺意と強姦目的を認めていた。しかし最初の上告審で死刑廃止派の弁護士らに交代して以降、「甘えたい気持ちから抱きついた」と殺意否認に転じ、傷害致死罪の適用を求めた。「『乱暴したのは生き返りの儀式』などと、到底受け入れがたい主張も展開した」(産経社説)のだから、弁護団の作戦はお粗末と言うほかはない。
これが裁判所の心証を著しく害した。差し戻し審は「うその弁解は更生の可能性を大きく減らした」と断じ、最高裁も「被告は殺意や犯行態様について不合理な弁解を述べ、真摯な反省はうかがえない」と斬って捨てた。これについて読売社説は「弁護方針に問題はなかったろうか」と、弁護団の責任をピンポイントで指摘している。
つまり、今回の最高裁による死刑決定の理由は、「被告人が反省していない」、少なくとも、弁護団の作戦ミスで反省しているように見せかけるのに失敗したから、ということになる。
ならば、今回の判決から得られる死刑決断のポイントは、「被告人が反省していることを、どうやって汲み取るのか」という一点に尽きることになる。
まず、前提は間違っていないのか。
もし被告人が本気で反省していたら、死刑を免れるのだろうか。仮に今回の弁護士が「言い訳せずに罪を認めろ。死刑止むなしとして、おとなしく項垂れていろ。お前が反省している様子さえ見せていれば、なんとかしてやる」などと作戦を立てたら、死刑は回避された可能性があったのだろうか。
刑法は、犯した罪に対して適用されるのか、今後の更正の可能性について適用されるのか。どんなに反省していようといまいと、犯した罪の事実が変化するわけではない。
今回に限らず、少年に対する死刑判決の是非が紛糾するのは、「反省」「更正可能性」という、客観的に計量不可能なものが判決に大きく影響するからだ。2001年の附属池田小事件で犯人の宅間守の死刑執行に対してマスコミが何の非難もしないのは、宅間が全く反省する素振りを見せず、遺族に対する謝罪もなく、死刑を望む言動を繰り返していたからだ。
本当に悔い改めれば、人は赦されるのか。
この事件を論じるときにそのテーマを持ち出すのは、脱線だろう。話題が話題だけに、つい話が大きくなり、感情論と正義論を振りかざし、焦点が定まらないまま、何も言っていないに等しい論説が多すぎないか。
人ひとりの意見として、命の考え方として、「人は赦されるべきなのか」というテーマを考えるのは、別に構わない。むしろ、罪とそれに付随する罰について自分なりの知見に辿り着くのは、生きていく上で必要な魂の鍛錬だろう。
しかし、それと社会制度上の法に基づく議論とは、話が違う。法律は、人として生きる道を諭すためのものではない。裁判官は人としての生き方を説く人格者、聖職者ではない。犯罪者を裁くのは「正義」などという形のない幻ではない。
それを意識下で混同しているから、各紙社説のような煮え切らない論説になるのだと思う。
裁判員制度のもとで一般市民が認識しなければならないのは、「反省」だの「更正可能性」だのという、明文化も数値化もできないような曖昧な概念が、死刑判決では大きく幅を利かせている、という事実だ。もし自分が裁判員に招集されたとしたら、「被告の反省量をはかる」という、到底不可能な作業に直面せざるを得なくなる、ということだ。
人を何人殺したのか、どういう手段だったのか、犯罪時の心身耗弱状態は、などという「事実」だけを比較するなら、過去の判例は役に立つ。どういう事実に基づいてどういう判決になったのか、客観的に比較の対象になり得る。
しかし、「被告人がどれだけ反省していたのか」を基準に判決を左右するのであれば、判例はまったく役に立たない。それぞれの事件で、被告人がどれだけ反省していたかなど、記録に残せるほどの客観性が保証されないからだ。
結局は、「裁判官の主観」ということになる。そして裁判員制度となれば、その主観は裁判員の側の責任になる。「なにを基準に判断すればいいんですか」などと甘ったれたことは許されない。自分の判断が全てになる。「無」から判断しなければならない。裁判員制度というのは、そういうことなのだ。
今回の記事で、着地点を裁判員制度にもっていきたいのであれば、「国民ひとりひとりが、自分の眼で被告の『反省度』を判断しなければならない。頼れる客観的尺度など無い。自分で考えるしかない。自分の主観に責任をもち、自分で判断を下さなければならない」ということを読者に突きつける必要があるだろう。
誰もが、裁判員に選ばれたら「こういう時は、こう判断してください」という「手引書」がある、と思い込んではいないか。犯した罪とその償いについて、これを調べれば全部載ってるという「教科書」がある、と信じ込んではいないか。
死刑が適用される凶悪事件など、どれも「前例など無い」と思ったほうがいい。その時のケースごとに、新たに判断する必要に迫られる。人の犯した罪と、その赦しについて、自分なりの知見に辿り着いていない人に務まる仕事ではあるまい。
日常的にそんな人の罪について考える機会などそうはあるまい。だから文学作品の力を借りてもいい。こういう事件を契機にしてもいい。罪とは何か。それを償うとはどういうことなのか。常に考え、自分が下す判断に耐え得る強靭な魂を鍛えておくことをこそ訴えるべきではないか。
そんなこともできないくせに安易に死刑制度の是非を語るなど論外。
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