たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

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ロシア、ウクライナ侵攻

「ウクライナ危機 秩序を壊す侵略行為だ」
(2022年2月23日 朝日新聞社説)
「『独立国家』承認 国際秩序を壊すロシアの暴挙」
(2022年2月23日 読売新聞社説)
「露のウクライナ派兵命令 世界秩序揺るがす暴挙だ」
(2022年2月23日 毎日新聞社説)
「ウクライナ危機 露の侵略は許されない 日本も強い制裁を発動せよ」
(2022年2月23日 産経新聞社説)
「独立承認は国際秩序を踏みにじる行為だ」
(2022年2月22日 日本経済新聞社説)


朝日社説:
「国連安全保障理事会の常任理事国が、自ら国連憲章を踏みにじってどうすんだ」

読売社説:
(特に読む価値なし)

毎日社説:
「『ミンスク合意』違反だろ」

産経社説:
「長期計画的。クリミヤ併合の時と使ってる手が同じ」

日経社説:
「世界がこれを認めたら、たぶん中国は台湾を武力併合する」



日経の勝ち。日付に注意。

「感想」と「提言」の違い

「岸田政権、継続へ 真価問われる『丁寧な政治』」
(2021年11月1日 朝日新聞社説)
「自民単独過半数 緊張感持ち政権の安定を図れ」
(2021年11月1日 読売新聞社説)
「衆院選で自民過半数 首相は謙虚な政権運営を」
(2021年11月1日 毎日新聞社説)
「岸田首相の続投 安定勢力で成果を挙げよ 対中抑止に本腰を入れる時だ」
(2021年11月1日 産経新聞社説)
「政権は民意踏まえ課題を前に進めよ」
(2021年11月1日 日本経済新聞社説)


締まりのない選挙だった。
「他に入れるところがないからしょうがなくここに入れる」という感じの選挙。

今回の選挙は、いわば「コロナ禍対策の『採点』」という趣きが濃かった。しかし、口ではいろいろ言っていながら、みんな心の底では分かっているのだろう。コロナ禍はいわば天災であって、どの政党が政権を担当しても100%誰もが納得する施策など打ちようがないのだ。みんな自分の生活が思うようにいかない苛々を誰かにぶつけたくて、政治に八つ当たりをしていたに過ぎない。マスコミは必死になって現政権の失策をあげつらうネガティブキャンペーンを展開したが、蓋を開けてみれば自民党の単独過半数。大山鳴動鼠一匹の感が拭えない。

それを報道する新聞各社にもそれぞれの色がはっきりと出た。
まず、例によっていつもの通り朝日新聞は論外だ。安倍憎し、自民党憎し、日本憎しの朝日新聞は相変わらず政権を貶める工夫に余念がない。明確な偏向報道だ。

有権者の審判は政権の「継続」だったが、自民党は公示前の議席を減らし、金銭授受疑惑を引きずる甘利明幹事長が小選挙区で落選した。首相や与党は重く受け止める必要がある。「1強」体制に歯止めをかけ、政治に緊張感を求める民意の表れとみるべきだ。
(朝日社説)
9年近く続いた安倍・菅政治の弊害に正面から向き合い、政治への信頼を回復する。議論する国会を取り戻し、野党との建設的な対話を通じて、直面する内外の諸課題への処方箋を探る
(同上)
国政選挙で6連勝した安倍長期政権の終焉、新型コロナ対応に失敗した菅政権の1年余りでの退場を経た今回、自民党はある程度の減少は織り込み済みだった。しかし、派閥の領袖や閣僚経験者が小選挙区で相次いで落選するなど、不人気の菅首相を直前に交代させ、新しい顔で臨んだにしては、国民の期待を糾合することはできなかった
(同上)
新しく選ばれた465人の衆院議員には、安倍・菅政権下で傷つけられた国会の機能を立て直す重い責任がある。憲法の規定に基づく臨時国会の召集要求に応じない。論戦の主舞台となる予算委員会の開催を拒む。質問をはぐらかし、正面から答えない。「虚偽」答弁が判明しても深く反省しない。議論の土台となる公文書を改ざん・廃棄する。過去の国会答弁を無視し、一方的に法解釈を変更する――。政府が説明責任を軽んじ、国会の行政監視機能を掘り崩す行為が、何度繰り返されたことか。特定秘密保護法や安保法制など、意見の割れる重要法案を、与党が「数の力」で押し切る場面も少なくなかった。
(同上)

「角度をつける」のも、ここまでやれば大したものだ。朝日社説が論じているのは「今回の選挙の総括」では全くない。「安倍・菅政権の悪口」だけだ。朝日社説は必死に無視しているが、事実として自民党は単独過半数を獲得して野党を退けている。いわば野党の完敗だ。それを何とかして「自民党はしくじった」「国民は自民党を見限った」という印象を植え付けようとしている。朝日社説は、自民党や旧安倍政権が嫌いで嫌いで仕方ない人が、ストレス発散のために読むものだ。便所の落書レベルのものだろう。

朝日と並んだ左派系の毎日新聞も、今回の選挙そっちのけで「安倍・菅政権の悪口」を並べている。

安倍晋三政権からの9年間では、政治に対する国民の信頼が損なわれる事態が相次いだ。コロナ対応では失政が続いた。経済活動の再開に前のめりになり、感染拡大を防げなかった。病床の確保が追いつかず、自宅で亡くなる人も出た。生活困窮者や休業を余儀なくされた飲食店への支援も十分に届かなかった。経済政策では格差拡大を招いた。成長と効率を重視するアベノミクスで富裕層は潤ったが、非正規労働者が増えた。異論を認めず、国会を軽視する姿勢も目立った。「政治とカネ」の問題では説明責任を果たそうとしなかった。安全保障関連法など世論が割れる政策を、「数の力」で強引に進めた
(毎日社説)

朝日新聞も毎日新聞も、安倍政権の悪口を言うときには必ず「『数の力』で強引に進める」という文言を使う。しかし、議院制民主主義に基づく政党政治はそもそも「数の力」を採択原理としたものだ。政治の原理原則を真っ向から否定して、何を主張したいのだろうか。数の力で勝てないから、数の力を貶めているに過ぎない。旧民主党が政権を取ったとき、強行採決を敢行した数はそれまでの自民党政権よりもはるかに多かった。そういう時には朝日も毎日も「数の力」云々などおくびにも出さず、「民意の反映」などと嘯く。自分達の都合によって言い方を変える論説は信用に値しない。

ただ、毎日新聞は朝日に比べて若干冷静に、今回の選挙全体の趨勢についても論じている。

野党第1党の立憲民主党は、共産党、国民民主党などと小選挙区の7割以上で候補者を一本化し、野党5党による共闘態勢で臨んだ。前回、野党第1党の民進党が分裂したことを教訓にしたものだ。今回は1対1の構図を作ることはできたが、政権交代への期待を高めるまでには至らなかった。政治の現状に対する国民の不満が高まっているにもかかわらず、民意を受け止めきれなかった。立憲は、共産との選挙協力の戦術を含め検証を迫られる。「改革」を訴えた日本維新の会が大きく議席を伸ばし、自民、立憲に対する批判の「受け皿」となった形だ。
(毎日社説)

今回の野党敗北の原因を一刀両断にしている。今回の選挙は「与党が勝った」のではない。「野党が負けた」に過ぎない。朝日新聞が喚き倒しているように、本当に国民が自民党に愛想を尽かしたのであれば、単独過半数など到底無理だろうし、野党5党の連合は軒並み議席数を伸ばしたはずだ。しかし、実際にはそうはなっていない。

自民党が前回よりも議席数を減らした事実を見ても、コロナ禍対策に対する自民党の政策に有権者が厳しい目を向けているのは確かだろう。しかし野党5党の連合に対しては「だからといってお前らじゃない」という断を有権者は下したことになる。有権者に厳しい評価を下されたのは、野党5党も同じなのだ。朝日新聞は必死に「自民党1悪」の構図を吹聴したがっているが、その点、毎日新聞のほうがやや冷静に事実を俯瞰している。

一方、保守系の読売新聞や産経新聞は、選挙の争点を内政から外交にずらすことによって自民党政権の失点をごまかす書き方をしている。自民党政権、特に旧安倍政権の一番の強みは、外交と安全保障対策だ。反対に今回の野党5党の連合が惨敗を喰らった原因は、その件に関して連合間の調整がうまくいかず、ごまかすしか仕方なかったからだ。特に立憲民主党と共産党という、安全保障に関して正反対の主張をする党同士が連合しても、矛盾しか生じない。

日本は今、新型コロナウイルス流行だけでなく、本格的な経済再生や、人口減少への対応など、困難な課題に直面している。軍事・経済両面で台頭する中国は国際ルールを無視した行動が目立ち、米国など民主主義国との対立が深まっている。
(読売社説)
北朝鮮のミサイル発射や、中国による一方的な海洋進出により、日本の安全保障環境は一段と厳しくなっている。ミサイル攻撃に対する抑止力の強化について、早急に方針をまとめるべきだ。 (同上)
立民は「現実的外交」を掲げるが、日米安保条約廃棄を主張する共産と連携して、どのような政権を目指すのか。それが不明確だったのが敗北の要因だろう。政権批判票の受け皿とならなかったことを、野党第1党として深刻に受け止めねばなるまい。共産との協力には、民間労組の一部からも反発を招いた。立民が政権交代を目指すのなら、安保関連法廃止などを訴えるのではなく、現実の脅威に対して具体的な外交・安保政策を掲げたうえで、経済や社会保障政策などで与党との違いを明確に打ち出すべきではなかったか。
(同上)

朝日新聞が一切無視している部分だ。コロナ禍対策の内政問題を突くか、外交と安全保障対策の不備を突くか。左派系と右派系の新聞で論点がはっきり分かれている。

同様の指摘は、同じく保守系の産経新聞も行っている。しかし、読売新聞とはちょっと書き方が異なる。産経新聞は、外交問題の不備を野党5党の惨敗理由とするだけでなく、自民党が議席を減らした原因としても見ている。

外交安全保障は大きな争点にならなかった。4年前の衆院選で北朝鮮の核・ミサイル問題が国難とされたのとは対照的だ。だが、今回衆院選の公示日には北朝鮮が日本海へ向けて潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を発射した。選挙期間中には中国とロシアの合同艦隊10隻が日本を周回した。この艦隊は伊豆諸島付近でヘリを発艦させる演習を実施し、航空自衛隊の戦闘機が緊急発進(スクランブル)した。日本へのあからさまな威嚇である。
 日本をとりまく安全保障環境は厳しい。台湾危機や北朝鮮による拉致、核・ミサイル問題などへの対応を、与野党はもっと語るべきだった。立民や共産党などは、安全保障関連法の「違憲部分」廃止を唱えた。集団的自衛権の限定行使容認の道を閉ざすもので、日米同盟を機能不全に陥れる政策だ。この政策の危うさや厳しい国際情勢を、岸田首相や与党は具体的に指摘し、対中抑止や防衛力の強化の必要性を訴えるべきだった。そこに力を入れなかった点は、自民の議席減の理由の一つであろう。岸田政権が、防衛力充実や経済安全保障を推進し、対中抑止を強化しなくては平和は守れない。
(産経社説)

そこじゃないだろう、という気もする。自民党が今回議席を減らした一番の原因は、やはりコロナ禍対策の失策が第一だろう。それを「外交・安全保障問題に関する野党の不備をもっと攻撃すれば、議席はもっと取れたはずだ」というのは、敗因を正しく汲み取っていない提言かもしれない。
しかし、今回の社説で「建設的な提言」をしているのは唯一、産経新聞だけであることも確かだ。

他の新聞は、自民党の今後に対して「コロナ禍を防ぐためにちゃんとしなければならない」「落ち込んだ経済状態を上向かせるためにちゃんとしなければならない」「安倍政権時の弊害を取り除くためにちゃんとしなければならない」と、漠然とした掛け声に終止している。具体的な提言は一切無しだ。どうすればコロナ禍を防げるのか、どうすれば経済が良くなるのか、安倍政権時の弊害は具体的にどういう所に顕在化しているのか、明確な言及を放棄している。曖昧な批判と文句を並べているだけで、読者の「印象」に訴えかけることしかしていない。

しかし産経新聞は、「自民党の議席が減った」ということに対して、唯一具体的で現実的な方策を提言している。外交や安全保障は、野党がみんな口を濁して明言を避け続けた問題だ。その不備を突くことで相対的に議席増が見込めたのではないか、という提言は、合っているか間違っているかは別として、具体性がある。正しいか間違っているかの検証ができる。つまり検討に値する。印象操作に終止し、イメージを喚起するためのふわふわした文言を並べているだけの他紙に比べれば、論述の方法として一段高いところにある。

その正反対が日本経済新聞だ。朝日新聞とは別の意味で、読むに値しない。
日経の記事は、とにかく「正しいことを書こう」としているように見える。「正しければそれが一番良いことだ」という考えが透けて見える。

自民党は単独で安定多数を確保したものの選挙前からは議席を減らし、選挙区で落選した甘利明幹事長が辞意を示す事態となった。政権はこの結果を真摯に受け止め、新型コロナウイルス対策や経済再生など直面する課題に取り組み、着実な成果によって信頼を得るよう全力をあげてもらいたい
(日経社説)
野党がより大きな塊となり、「1強多弱」といわれた状況が変われば、政治に緊張感が生まれ、政権や与党は丁寧な運営を心がけなければならなくなる。そのためには経済や外交・安全保障など国の根幹にかかわる政策を擦り合わせることが避けて通れない。政権選択の名に値するような器を整えてもらいたい
(同上)
重要なのはコロナの感染状況が落ち着いている間に「第6波」への備えを固めるとともに、経済再生への具体策を示すことだ。コロナ禍で困窮している人たちや企業への支援は重要だが、一律給付のようなばらまき政策は効果が不明だし、厳しい財政状況を考えればとるべき選択肢ではない。経済成長と財政再建を果たしていく中長期のビジョンを打ち出すことが肝要だ
(同上)
来年夏には参院選が控え、首相はすぐに成果を問われることになる。政権の求心力維持には、指導力を発揮して実績を積み上げていくことこそが王道だ。それが国民の負託にこたえる道でもある。
(同上)

要するに、どれも「ちゃんとしてください」と言っているだけのことに過ぎない。「成果によって信頼を得ろ」「器を整えろ」「ビジョンを打ち出せ」「指導力を発揮して実績を積み上げろ」などということは、小学生にでも言える。問題は、「どのようにそれをしなければならないのか」という具体的な方策の切り口を示すことだろう。産経新聞は、合っているか間違っているかはともかく、それをしっかり書いた。日経は「間違い」の提言をすることを恐れているのか、美辞麗句を並べることが社説の品格だと勘違いしているのか、中身が全くない曖昧な理想論で最初から最後までを埋め尽くしている。

日経のような「きれいすぎる社説」が無価値なのは、そこから生み出されるものが何もないからだ。抽象的な提言からは、抽象的な方策しか出てこない。抽象的な方策からは、何も出てこない。単なる掛け声だ。業績を上げるための指示が「がんばりましょう」、国民の信を得るための提言が「しっかりしましょう」、選挙の総括が「ちゃんとしましょう」。

どれも正しい。絶対に正しい。どんな状況であっても間違っていることなど絶対に有り得ない。だからこそ、何の意味もない。現実に落し込んで考えるときに、誰にも、何をしろとも、どうしろとも言っていない。反証可能性がゼロなので、検証にも値しない。盛り盛りの角度をつけまくってプロパガンダに終止している朝日新聞よりはマシだが、人に読ませる文章という観点からすれば五十歩百歩だ。
最近、日経の社説にはこういうのが増えてきた。単なる感想文や作文に等しい。こういう社説を書いているうちは、日経の社説など読む価値はあるまい。


一言でいうと、「勝者のいない選挙」だったと言えるだろう。自民党は単独過半数を保持したが、岸田首相が息巻いたように「国民の信を得られた」わけではない。他の野党がもっとひどいので、仕方なく自民党に票を入れざるを得ない有権者が多かっただけのことだろう。各紙が指摘しているとおり、与党にも野党5党連合にも与せずに独自路線を敷いた日本維新の会が大きく議席を伸ばしたのは、その証左だろう。

今回の選挙は、夜の選挙速報がやたらと時間がかかった。深夜になってもまだ当確が出ない選挙区が相次いだ。それだけ接戦が続いたということだ。コロナ禍という未曾有の事態にあって、現政権に厳しい目を向けながらも、「だからといって変に八つ当たりをしたらもっとひどいことになる」という有権者の学習が結果に表れた、そんな選挙に見える。



選挙行ったあと外食しました。
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特殊性を捨象する一般化は危険だと思う。

「池袋暴走に実刑 判決を高齢事故減の機に」
(2021年9月3日 産経新聞社説)
「多面的な高齢運転者対策を」
(2021年9月3日 日本経済新聞社説)


痛ましい事件だった。遺族の心痛を思うと遣り切れない。
2019年4月19日、池袋の路上を暴走し、2名を殺し、10名の負傷者を出した飯塚幸三に対する判決が東京地裁で行われた。禁固5年の実刑判決。事件の重大さを考えると軽過ぎる判決だろう。

この判決に関して社説を載せたのは産経と日経の2紙だが、両方とも言っていることはおおむね同じ。犯行の悲惨さを訴えた末、「本当の問題はこのような高齢者による交通事故をいかにして防いでいくかだ」という、万人受けする着地点に無難にまとめている。
しかし今までこの件が世間で騒がれていたことから分かるように、この一件は単に「よくある高齢者事故」で片付けるには異様な点が多過ぎる。安易に一般化できるほど瑣末な事例ではない。両紙とも、その辺の特殊性を一切捨象している点が腑に落ちない。

飯塚幸三が世間の非難を浴びているのは、事故そのものよりも、事故後の無責任な態度による。
事故発生の直後には、のんびり息子に電話をしており、自分が撥ねた被害者を一切無視している。119番通報すらしていない。明確な救護義務違反だ。しかも事故を起こした言い訳として「予約したフレンチに遅刻しそうだった」などと嘯いていた。

さらに、事故を起こした原因についても供述が二転三転する。事故直後、飯塚幸三は「ブレーキが利かなかった」と話していたが、実況見分後の事情聴取では「最初に接触事故を起こし、パニック状態になってアクセルとブレーキを踏み間違えた可能性もある」と供述を変えている。さらに起訴される直前には「自分は一切運転を謝誤っていない。プリウスが勝手に暴走した」と言い張り、自分には全く過失が無いという主張をするに至った。

この事件の審議が長引いた理由は、飯塚幸三が一切自分の非を認めず、ひたすら「トヨタのプリウスが勝手に暴走して人を轢いた」と主張していたからだ。これが被害者遺族の心情を逆撫でし、世間の反感を買った。
僕は個人的に、今回の事件で後世に残すべき教訓は、この飯塚幸三のような無責任な高齢者の態度に対する施策をシステム化することだと思う。産経と日経が謳ってるように「高齢者の事故」という枠でこの件を捉えることもできるだろうが、それでは話が大き過ぎる。一般化し過ぎて、この件の特異性が霞んでしまうように見える。

飯塚幸三は逮捕もされず在宅起訴で済まされており、「上級国民だからだ」と世間の反感を買った。飯塚幸三は元通商産業省官僚で、工業技術院長も務めている。瑞宝重光章も受勲している。
つまり、日本の工業技術を引き上げ、世界と競争できるレベルに押し上げる努力をする側の人間だ。その人間が、自分の事故の責任から逃れるために「プリウスが勝手に暴走した」と主張している。日本の工業技術を冒涜するにも程がある。当然ながら、技術を毀損されたトヨタは猛然と反発し、事故を起こした車に問題はなかったことを検分で明らかにしている。

高齢者の引き起こす事故というのは、かように当人のそれまでの人生をすべて覆してしまうものなのだ。これが、今回の事件で一番異様な点だと思う。生涯をかけて日本の工業技術の推進に努めて、叙勲までされて、その果てが日本の工業界を貶める最低の主張だ。

おそらく「プリウスが勝手に暴走」という主張は、事実ではないし当人自身の言葉でもあるまい。事故直後から供述が変わり過ぎている。弁護士から知恵をつけられたのかもしれないし、連帯非難を嫌った省庁から何らかの手回しがあったのかもしれない。しかし、当人の言葉だろうがそうでなかろうが、これまで積み重ねたキャリアをすべて裏切るような言動をせざるを得なくなるほど、今回の事故の重篤性が高いということだ。高齢者の事故は、当人にとっても失うものが多い。その事例として、今回の一件は特にその部分が肥大して異様な様相を呈しているように見える。

僕はこの一件に関する報道をずっと追っていて、飯塚幸三が一度も自分の言葉で喋っていないように感じた。なんというか、基本的な態度が「家臣になんでも責任を取らせる『殿』」なのだ。世間で言われている「上級国民」という非難とさほど違わない。

事故後に119番通報もせず、救護措置もとらず、のんびり息子に電話していたのは、通産省時代から「なんか問題が起きたら部下に丸投げ」という基本体質があったからではないか。明らかに、常日頃から自分の行いに自分で責任を負い続けてきた人間のすることではない。起訴に至るまでの供述の変遷も、「自分は何と言えばいいのか」を周りに吹聴され、それをそのまま口にしているだけのように見える。被害者遺族が憤るのも当然だ。

ただの老人であろうと、元高級官僚であろうと、法を犯せばその立場は変わらない。犯した罪の前では、それまでのキャリアも人生も一切関係ない。それが今回の一件では、警察や検察の扱いもおかしいし、本人の振舞いもおかしい。判決も軽過ぎる。

今回の事件は決して、よくある「ボケた高齢者が交通事故を起こした」というだけの一件ではない。飯塚幸三という犯人の経歴・特質に起因する特殊な要素が多過ぎる。その特殊な事例に対して、一般的な原理原則が貫けなくなっていることが、本当の問題ではないのか。産経と日経が唱えているように「だから高齢者事故が起きないようにしましょう」というだけでは、今回の事件の総括としては過大に不足だろう。



全て失った状態で獄中で死ぬことになるだろう。
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オリンピック閉幕

「東京五輪閉幕 混迷の祭典 再生めざす機に」
(2021年8月9日 朝日新聞社説)
「東京五輪閉幕 輝き放った選手を称えたい」
(2021年8月9日 読売新聞社説)
「東京五輪が閉幕 古い体質を改める契機に」
(2021年8月9日 毎日新聞社説)
「東京五輪閉幕 全ての選手が真の勝者だ 聖火守れたことを誇りたい」
(2021年8月9日 産経新聞社説)
「「コロナ禍の五輪」を改革につなげよ」
(2021年8月9日 日本経済新聞社説)


日本人にとっては総括が難しいオリンピックだったと思う。東京五輪招致が決定した時には、日本人の誰もがバラ色の2020年を夢見ていた。前回の東京大会の成功体験が大きい世代も存命している。コロナウィルスという全世界的な危機的状況でオリンピックを迎えることになるとは誰も思っていなかった。

今回の五輪開催には反対意見も多かった。災害復興を謳った五輪にもかかわらず、伝染病拡大という「災害」の最中に開催を強行する、という矛盾した図式が一番の理由だが、それだけではあるまい。開催直前になっての大会役員・企画参与者の不適切な言動が国民の神経を逆撫でした、という「人災」の面も多かろう。

開催をめぐる駆け引きの中で、IOCの態度も日本国民の感情を逆撫でした。かねてから指摘されていたことだが、今のオリンピックは金がかかりすぎている。余計なところに金をかけ過ぎ、開催のハードルは回を追うごとに膨らみ続けている。今回の開催強行に際してのIOCの独善的な姿勢、かつ責任は一切取らないという一方的な構造は、オリンピックのあり方がすでに限界に近づいていることを世界中に露呈した。少なくとも多くの日本人はIOCに対して良い感情を持たなかった。

こうした国民感情を受け、マスコミは五輪前、開催に否定的な意見が多かった。それがいざ実際に開幕してみると、日本勢のメダルラッシュを受けて手のひらを返したように五輪絶賛に論調を変えた。
これに対してマスコミの姿勢を非難する声が多いが、マスコミとて理念と現実の突き合わせに苦悩する毎日だっただろう。開催前であれば、中止を求めるのはやむを得ない面がある。コロナウィルスの感染状況とは別に、実際問題として各種イベントをはじめ、学校行事、集会、催し物はことごとく中止に追い込まれていたのだ。それなのに五輪だけ特別扱いして開催というのは筋が通らない。国民感情に合わない。

しかし、だからといって開催が強行されてからも「五輪断固反対」を叫び続けるのは、現実問題として何も生むまい。五輪開催前の日本のニュースは、不愉快なことばかりだった。その主な理由が五輪運営側の不手際や不祥事とあれば、なおさらだ。五輪開催前の日本は、すでに日本国内だけの力で、国民の意識を上向かせるだけの良いニュースを生み出す力を失っていた。誰もが誰かを非難し、他人の非を責めることにより鬱憤を晴らす、ぎすぎすした嫌な感情が国中に渦巻いている感じだった。

そこへ来ての日本選手の大活躍だ。開催前に「五輪反対を叫んでいた」という理由だけで、開催後も五輪に批判的な論調を繰り返すのでは、いま唯一日本に与えられている「明るいニュースで世の中を上向かせる」という機会を、自ら逸してしまうことになろう。マスコミの「手のひら返し」を批判する人達は、五輪開催前の「ぎすぎすした世の中」が延々と続くことがお望みだったのだろうか。

マスコミの側にも問題はある。マスコミが延々と五輪反対キャンペーンを打っていたのは、政権批判のためだ。五輪批判の論調は、必ず着地点として「都政」「国政」の失策をあげつらっていた。マスコミにとって五輪批判はいわば「目的ありきの手段」だったため、簡単に方向転換ができる代物ではなかった。マスコミが政治と関係なく、本当にコロナウィルス感染拡大と開催リスクだけを問題にしていれば、開催後の方針転換も容易だったはずだ。マスコミの報道姿勢が叩かれたのは、かねてから五輪の論じ方が歪んでいたため、そのツケを自ら払わされたという面がある。

今回の日本代表選手団は、過去最高のメダル数を獲得し、躍進した。これはいわば「不幸中の幸い」だ。確かに日本は連日メダルラッシュに沸いた。良いニュースで国民の精神的健康も上向いた。しかし、感染拡大に関する五輪前の「課題」は何ひとつ解決しておらず、却って悪化している。五輪という夢から醒めたら、日本はまた以前と同じ課題に向き合わなければならなくなる。

まとめると、今回の五輪に関する良し悪しは、こんなところだろう。
よいところ
・日本人選手がめちゃくちゃ活躍した
・新競技おもしろかった
・日本で久々の大規模イベントに参加できた感

わるいところ
・オリンピック、金かかりすぎ
・IOCムカつく
・コロナの状況が依然として最悪
・性別、精神保全、SNS誹謗中傷など、オリンピックの新しい問題

各新聞の社説を見ると、これらを統括して全体をうまくまとめている社説は少ない。
まず読売新聞と産経新聞は論外だ。手放しの五輪讃歌。万々歳のハッピー論調。すごいぞ日本選手、すごいぞオリンピック。能天気にも程がある。一応ちょろっと「問題点」を書いてはいるが、単なる予防策に過ぎない程度の書き方であって、全体的な論調は「五輪大成功」だ。これでは今回の五輪を通して日本国民が学ぶべきことを啓発できまい。
これは純然たる「社の立場」だろう。例えば読売新聞は、「天皇」のナベツネをはじめ経営陣がすべて五輪利権を受ける側だから、五輪をゴリゴリ押すのは当たり前だ。今回の五輪の総括に関しては、読むに値しない社説と断じていい。

上に挙げた「よいところ」「わるいところ」をわりと万遍なく掬い取って総括しているのは朝日新聞と日本経済新聞だが、視点と文章力の両方の面で、朝日新聞のほうが上だろう。
朝日新聞は以前、五輪開催に反対していた。2021年5月26日の社説「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」では五輪中止を強く訴える意見を掲載している。今回の社説では、朝日新聞は「社会情勢としては五輪開催に反対」と「いざ五輪が始まったら日本人選手が大活躍」の報じ方に葛藤があることを正直に書いている。

朝日新聞の社説は5月、今夏の開催中止を菅首相に求めた。努力してきた選手や関係者を思えば忍びない。万全の注意を払えば大会自体は大過なく運営できるかもしれない。だが国民の健康を「賭け」の対象にすることは許されない。コロナ禍は貧しい国により大きな打撃を与えた。スポーツの土台である公平公正が揺らいでおり、このまま開催することは理にかなわない。そう考えたからだ
(朝日社説)

一方で、本来のオリンピズムを体現したアスリートたちの健闘には、開催の是非を離れて心からの拍手を送りたい。極限に挑み、ライバルをたたえ、周囲に感謝する姿は、多くの共感を呼び、スポーツの力を改めて強く印象づけた。迫害・差別を乗り越えて参加した難民や性的少数者のプレーは、問題を可視化させ、一人ひとりの人権が守られる世界を築くことの大切さを、人々に訴えた
(同)


こういう書き方を「矛盾だ」と非難する向きもあろう。多くの国民が、開催前の「五輪に対する嫌悪感」と、開催後の「日本バンザイ」の感情を自分の中にうまく落し込むことに苦心していたのではないか。
今回のオリンピックは、どのみち伝染病という惨禍の中での強行開催なので、国民全員が何らかの葛藤を抱えたまま実施を受け入れなければならない大会だったのだ。その葛藤を自分の中で消化する能力の無い者が、やたらと他人を批判の矛先として口汚く罵り合って憂さ晴らしをする。今回のオリンピックを自分なりに統括することは、日本人にとっては難しいことだが、いまの日本にはこういう能力が全体的に欠けていることが明らかになったと思う。

まず「わるいこと」だが、朝日新聞は全体としては五輪反対の論調なので、その詳細を主として論じている。

懸念された感染爆発が起き、首都圏を中心に病床は逼迫(ひっぱく)し、緊急でない手術や一般診療の抑制が求められるなど、医療崩壊寸前というべき事態に至った。

これまでも大会日程から逆算して緊急事態宣言の期間を決めるなど、五輪優先・五輪ありきの姿勢が施策をゆがめてきた。コロナ下での開催意義を問われても、首相からは「子どもたちに希望や勇気を伝えたい」「世界が一つになれることを発信したい」といった、漠とした発言しか聞こえてこなかった

今回の大会は五輪そのものへの疑念もあぶり出した。五輪競技になることで裾野を広げようとする競技団体と、大会の価値を高めたいIOCや開催地の思惑が重なって、過去最多の33競技339種目が実施され、肥大化は極限に達した

延期に伴う支出増を抑えるため式典の見直しなどが模索されたが実を結ばず、酷暑の季節を避ける案も早々に退けられた。背景に、放映権料でIOCを支える米テレビ局やスポンサーである巨大資本の意向があることを、多くの国民は知った。財政負担をはじめとする様々なリスクを開催地に押しつけ、IOCは損失をかぶらない一方的な開催契約や、自分たちの営利や都合を全てに優先させる独善ぶりも、日本にとどまらず世界周知のものとなった


どれも「そのとおり」と頷くしかない指摘だ。日本選手の活躍に喜ぶ感情とは別に、これらの問題は厳然として存在することは認めなくてはならない。これは五輪に限った問題ではなく、今後も日本におけるイベント開催、コロナとの付き合い方に直結する、普遍的な問題だ。

一方で朝日新聞は「よいところ」について、「新種目」と「選手の精神的衛生面」に関しておもしろいことを言っている。

選手の心の健康の維持にもかつてない注目が集まった。過度な重圧から解放するために、国を背負って戦うという旧態依然とした五輪観と決別する必要がある。10代の選手が躍動したスケートボードなどの都市型スポーツは、その観点からも示唆を与えてくれたように思う。

正直なところ、今回の各紙の社説で僕が朝日新聞が一番良いと思った根拠は、ここの部分だ。
五輪開催前、日本のテニス選手、大坂なおみが精神的状況を理由に全仏オープンの記者会見を拒否したことが問題になっていた。テニスの4大大会では選手のメディア対応はルール化された義務であり、これを拒否することはできない。大坂なおみはこれを拒絶し、批判されるや後出しの形で「鬱病」というカードで世論の非難をかわそうとする姿勢をとった。

それを受ける形で、五輪では女子体操の「絶対女王」シモーン・バイルスが「心の健康を何より優先するため」という理由で競技を棄権した。これは要するに、従来の言い方をすれば「プレッシャーに負けた」というだけのことだろう。しかし、こういう競技に対する姿勢は個人だけの問題ではなく、その国、その競技に関わる構造的な問題という面もあろう。競技の歴史が長い伝統的なものであればあるほど、そうした柵は大きいものとなる。

だから、10代の選手が朗らかに技を競う新競技がオリンピックに向かう選手のあり方そのものを変える契機になるかもしれない、という指摘は優れた視点だと思う。スケートボード、サーフィン、スポーツクライミングなどの新競技は、日本人が躍進したこともあり、注目を集めた。それらの競技で、試技が終わった選手に対して、国籍・チーム関係なく健闘を称え合う様子は、他の競技で見られないものだった。そこには「オリンピック新競技採用までの道のりをともに戦ってきた『仲間』」という意識もあったと思う。しかしそれ以前に、そういう競技ではそもそもお互いを「競技仲間」と考え、凄い技には無条件に敬意を払う、という文化が根ざしているように見える。

前回の東京オリンピックは露骨に国威発揚の場だった。選手は「お国のために」戦い、戦後でありながら戦時中であるような重苦しい悲壮感が漂っていた。男子マラソンで競技場のゴール直前に抜かれて3位になった円谷幸吉は、家族・国民・マスコミの集中砲火を受けて自殺に追い込まれている。
そういう「国威発揚型」の動機付けでは、もはや優れた成績を残すことはできない、ということだろう。国威発揚型の典型は、オリンピックの成績が生涯の保証につながった旧東欧諸国だが、そのような社会システムはすでに存在しない。スポーツで良い成績をあげ、長く競技を続けるために必要なものは何か、今回のオリンピックでは顕在化した感がある。

どの新聞もとりたてて指摘していないが、今回からオリンピックの新しい面として、視聴者にとって「ただ観るだけのもの」ではなく、「観る側の姿勢が問われるもの」という、双方向のものになったということが挙げられる。
つまり、SNSによる選手個人への誹謗中傷の攻撃。国によっては組織的と思われる大量の中傷コメントで、対戦国の相手を貶める行為が続発した。多くの選手がそうした個人的な中傷攻撃に対する抗議の声をあげている。

これは、今回の五輪開催に際して「開催するべきではないという社会情勢」と「開催後の興奮と喜び」をうまく自分の中で消化できない幼稚な精神性と、根が同じ問題だ。誰だって、応援している自国の選手が敗れれば面白くない。しかし、それを自分の中で消化できず、負の感情をそのまま相手にぶつける。幼稚というよりも粗野だ。人間社会で生活し、他人と共存する根本的な姿勢を根底から放棄している。
現在は情報技術が発達し、自分の思っていることを広く世に知らしめ、特定の個人に思いを届けることが簡単になっている。その情報技術を誤った方向に振りかざし、「自分がイヤだった」というだけの理由で他人を安易に傷つける行為は、罰則に値する愚行だろう。世の中には法整備によって実刑が課されないと行為の善悪が判断できない低俗な人間が多い。それらの行為を厳禁するルール作りは今後の課題だろう。

オリンピックは終わった。普段の日常に戻った日本に残された現実は、悪化した感染拡大だ。日本と世界は根本的な問題を解決すること無しに、犠牲を承知の上で五輪を開催するという道を選んだ。選んだ以上は、その後に残されたものに適切に対処する義務がある。それを対処せずに放り出すような真似は許されない。そこまで含めて「五輪開催」の範疇だろう。どれほどの具体策を打てるのか、今後も注視する必要がある。



文句言いながら競技を観ても全然面白くなかろう。
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コロナによる大学閉鎖

「コロナ下の大学 学生の意欲そがぬように」
(2020年8月8日 毎日新聞社説)
「コロナと大学 対面授業の実施へ知恵を絞れ」
(2020年8月16日 読売新聞社説)
「コロナと大学 『学費返せ』の不満解消を」
(2020年8月23日 産経新聞社説)


大学のコロナ対策としてのキャンパス閉鎖が叩かれている。
一読して、マスコミはとにかく「理に適っているかどうか」など一切関係なく、世の中が不安定になるように世論をかき乱したいだけなのだな、ということがよく分かる。人は社会不安になると、情報を求める。そういう原理で自分達の利益をあげることしか考えていない。

僕の教えている大学でも、秋以降の後期授業が原則としてリモート授業になることが決まった。各社説が言っている通り、今年から大学に入った1年生の中にはまだキャンパスに足を踏み入れていない学生も多く、気の毒というほかはない。学費を払っているのに、それに見合ったサービスを受けられていない、と感じるのももっともだろう。

しかし、その非は大学に負わせるべきものなのか。
コロナウィルス禍は、一種の災害だ。大学はそれに対処しているだけであって、そもそもの原因が大学にあるわけではない。いわば「誰のせいでもない事態」「しかたがない事態」なのだ。一般読者もそんなことはよく分かっているだろう。しかし、やるせない。誰かのせいにして責めたい。そんな稚拙な市民感情を汲み取って発散させ、溜飲を下げることだけを目的にした愚劣な社説だ。

各社説では、勉強の環境を害された学生の苦悶の声を挙げている。

「しかし、教師や友人と顔を合わせて議論を交わしながら、学問を身につけていくのが学生の本来の姿だ。芸術系の大学などではとりわけ高度な実技指導が欠かせない」
(毎日社説)

「大学の学生アンケートでは、遠隔授業について「自分のペースで勉強できた」と評価する声がある一方、「集中できない」「質が低い」との不満も出ている。学習意欲の低下につながることが懸念される」
(読売社説)

「萩生田光一文科相は今月中旬の会見で『学生が納得できる質の高い教育を提供することは必要不可欠』とし、それができない場合、『授業料の返還を求める学生の声が高まることも否定できない』と厳しく指摘した」
「文部科学省は大学に対し、後期から対面授業の実施を促す通知を出した。萩生田文科相は『小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか』と苦言を呈した」
(産経社説)


こういう社説を読んで非常に違和感を感じるのは、大学生は普段からそんなに勉強に熱心なのだろうか、ということだ。社説ではやたらと「勉強したくてしたくて仕方がない学生が、その機会を奪われて憤懣やる方ない」という論調だが、コロナ禍になる前の大学では、そんなに勉強熱心な学生ばっかりだったのだろうか。

読売新聞ではリモート授業の弊害として「学生アンケート」なるものを根拠にしているが、そもそも読売新聞がどうやってそんな資料を閲覧できたのだろうか。大学が実施している学生アンケートは、教員の能力査定に直結するため、どの大学でも秘中の秘だ。僕の授業のアンケート集計結果も、取扱注意の朱書きつきの封筒に厳封されて書留郵便で届く。

大学が対面授業を再開しない理由は簡単だ。100%間違いなくクラスターが発生するからだ。
しかも、大学が懸念しているのはクラスターそのものではない。クラスター発生に対する一般世論の反応だ。

コロナ禍で社会の閉塞感が蔓延し、ストレスがたまった人達がでている。そういう人達は、学校のような集団で感染者が発生すると、まるで社会の害悪のように罵声を浴びせ非難する。感染者が出た学校に対する中傷や脅迫は、もはや社会問題になっている。

『日本から出て行け』『学校つぶせ』…部活クラスターで中傷電話、生徒の写真も拡散
(2020年8月23日 読売新聞オンライン)

高校の部活動などで新型コロナウイルスの集団感染が相次ぎ、生徒らがネット上などで誹謗中傷される事態になっている。学校側には十分な感染対策が求められるが、批判にさらされる生徒には精神面の悪影響も懸念される。専門家は、コロナ禍で不安や不満を募らせた大人が、生徒らをスケープゴートにしないよう呼びかける。

 「日本から出て行け」「学校をつぶせ」
 9日以降、サッカー部員らの感染者が約100人に上った松江市の私立立正大淞南(しょうなん)高校では、学校の批判に加え、生徒を中傷するような電話が80件を超えた。

 集団感染は、部員の大半が寮で共同生活していたことが原因とみられ、同校は記者会見で「学校側の対策が十分ではなかった」と謝罪。そのうえで「生徒に落ち度はない」と強調したが、ネット上では、生徒の活動を紹介する同校の公式ブログも標的となった。

 7~8月に行われた島根県の独自大会で準優勝した野球部の部員を、屋外でサッカー部員らが祝福する写真に対しては、「マスクも着けずにコロナをばらまいている」との批判が殺到。同校は「生徒個人が特定される」として写真を削除したが、テレビの情報番組などが取り上げたこともあり、さらに拡散。島根県は8月21日、写真が転載された十数件のサイトについて「人権侵害の恐れがある」として松江地方法務局に通報し、削除要請を依頼する異例の対応を取った。

 生徒の心身の不調を懸念した同校は、島根県臨床心理士・公認心理師協会に協力を依頼。約50人から「寝られない」などの相談が寄せられているという。

 学校関係の集団感染は、天理大ラグビー部や日本体育大レスリング部、福岡県大牟田市の私立大牟田高などでも起きている。

 児童生徒を中傷や人権侵害から守るため、独自の取り組みを行うのは三重県教育委員会。5月中旬から新型コロナの感染者らを中傷するインターネット上の書き込みなどについて専門業者に委託してパトロールしている。公立小中学校や県立学校の校名が書かれた中傷などの書き込みがあれば県教委が各校に連絡して対応を依頼する。これまでに「感染者が出た学校に近くて怖い」といった書き込みが確認されており、県教委は「早期に学校などと連携し、児童生徒を中傷などから守っていきたい」としている。


つまり、大学としては学生感情を考慮して対面授業を再開したくても、世の中がそれを受け入れるだけの許容性が無いのだ。特に都心部の大学が再開すると、大学構内だけの人的密集だけでなく、電車やバスなどの公共交通機関や店舗などの人が集まる場所の密集度合いが一気に高くなる。若い世代はとにかく移動範囲が広く活発なので、大学が再開することによって都心の人的な流動性が段違いに高くなる。それはコロナ発生の危険性に直結する。

また、産経社説が引用している通り、「小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか」という文句をいう人もいる。そういう人は、学校という場所がもつ機能を甘くみている。

学校というのは、勉強を教えるだけの場所ではない。情報として勉強内容を伝達するだけであれば、わざわざ皆が同じ場所に行って、同じ時間に、同じ内容を学ぶ必要など全くない。学校というのは学習内容の習得以外にも、人が集まる場所で集団に属し、適切な社会性を育む場所でもある。正課としての授業だけでなく、委員会活動、部活、課外活動など、様々な機会を通じて「集団における自分の位置づけ方」を身につける場所でもある。

そのような「社会性」の機能は、初等教育ほど重要性が大きい。非常事態宣言下で最初に学校再開の必要性が叫ばれていたのが、大学でも高校でも中学高でもなく「小学校」だったのは、そのためだ。小学校の機能は、勉強を教えることだけではない。児童はまだ地力で自分のあり方をアップデートする能力が身に付いていない。他者と接し、集団に属することでしか自分のあり方を確立することができない。リモート授業で勉強するべき「情報」だけを与えればこと足りる、というわけではないのだ。

それが大学になると事情が大きく異なる。基本的に大学生というのは、すでに自分の力で自分のアップデートをする能力を持つものだけが入学を許されるべき場所なのだ。初等・中等教育を通して、自分の適切なあり方を確立する社会性も、ある程度は身につけていることが要求される。そういう「大人」が集まるのが大学なので、大学の授業としてはリモート授業で代替できる部分が大きい。それが小学校との大きな違いだ。 「小学校が再開しているのに大学が再開しないのはおかしい」という主張は、「大学生の能力は、小学生の能力と同等だ」と主張しているに等しい。

新聞社説に掲載される大学生の不満は、主に「リモート授業の質が低い」という形で報じられることが多い。勉強意欲が猛烈に高いお利口な大学生が学ぶ機会を奪われている、という論調が多い。しかし本当のところ、大学生が不満を感じているのは、リモート授業そのものではなく、学校という枠組みがもつ「社会性」という機能を享受できないことではないか。友達と会えない、知らない人と知り合う機会がない、人から刺激を受けて自分を変えていく機会がない、そういう「社会性」の欠如が、学生の不満の根源だと思う。

しかし、それを言葉にすると「人と会えなくて寂しい」という、自分のパーソナリティの欠落を訴えるような不満に聞こえてしまう。堂々と主張するには恥ずかしい。だから不満の出し方としては「リモート授業の質が低い」という言い方にならざるを得ない。
つまり、大学生の不満というのは、「現在の生活から社会性が欠落している不満」を「授業の質の不満」にすり変えていることに他ならない。

新聞社説はやたらとリモート授業の質の低さを糾弾しているが、そういう新聞社は実際の大学のリモート授業をどれほど見たことがあるのだろうか。
一般的に、対面で人に直接話すよりも、出版物やリモート授業で情報を流すほうが、情報量は多くなる。大学の授業は一般的に1コマが90分〜100分ほどだが、もしリモート授業で90分も一方的に喋ったら、おそらく対面授業3回分くらいの情報量になる。大学側もリモート授業実施当初からそのことには気付いており、事前に録画した内容を流すオンデマンド形式の授業を流す場合、90分の時間枠に対して授業動画は60分程度に抑え、のこりの30分は「能動的な演習問題」を課すように要請している。

実際にリモート授業を実施して僕が驚いたことは、普段の授業よりも脱落者が少ないことだ。
30〜50人くらいの講義の場合、だいたい毎学期ごとに10人程度の脱落者が出る。課題を出さない、試験を受けない、という単位の落し方もあるが、一番多いのは、そもそも教室に来なくなることだ。ところが今回、リモート授業を実施したら、授業登録者はすべて最後まで授業を受けて、課題を出し、試験を受けた。こんなことは初めてだ。

新聞社説は、暗黙のうちに「最新機器に疎い大学教授のオッサン達がつくるリモート授業なんて、どうせ質が低くて、面白くないものに違いない」という思い込みで書かれているように見える。特に産経社説は「大学が『レジャーランド』などと言われて久しいが、行かずともいいような大学には退場願いたい」など、もはや本筋とは関係ない中傷の仕方に帰着している。
大学教員を舐めてもらっては困る。自分が専門としている分野のことであれば、どんな形式であれ、その分野のことを語り尽くすくらいの能力など、どの教員にもある。それについて外野から質の低さを糾弾される程度の授業などやっていない。

学校教育が語られるたびに、「実際に学校に通う必要などない。不登校上等。勉強などネットで十分。家でひとりで勉強すればそれでいいはず」などと嘯く輩が必ずいる。そういう輩に限って、今回のコロナ禍で「大学が閉鎖しているのはけしからん」などという自己撞着を振り回している気がする。学校の機能を「勉強を教えるところ」程度にしか考えていないから、そういう筋違いな主張を散蒔くことになる。安易に学校を叩くのは、容易に潰れることがない学校という機関の堅牢性に甘ったれているからだ。大学のコロナ閉鎖を非難している人も、大学授業が再開してクラスターが発生したら、手のひらを返して前以上に非難することになる手合いだろう。



イラついてるだけだろ。
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ペンギン命

takutsubu

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