たくろふのつぶやき

夏の雲が大好き。

Linguistics

ルーン文字石碑の碑文

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日比谷公園のルーン文字石碑を見てきました。


こないだ、まぁ、不要不急の遠足などやってきたわけですが、本当の目的はこの石碑を見ることだったわけです。日比谷公園を入って、大噴水から右、日比谷通りに面した、心字池という日本庭園っぽい池のほとりにあります。
ルーン文字の石碑、というわけのわからないものが東京のど真ん中に鎮座ましましておるとは、ほとんどの人は知りますまい。

日比谷公園には、「なんか珍しいものだけど、博物館に入れるほどのものではない」というものが、わりと雑に置いてあります。あちこちに「なんだこれ」というものが陳列してあります。
このルーン文字石碑もそのうちのひとつでしょう。もともと北欧と日本の航路が北極経由で開拓されたことを記念して寄贈されたもののようです。碑文の単語からして、おそらく寄贈したのはスウェーデンでしょう。


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だそうです。


ルーン石碑というのは、北欧のヴァイキングが各地に遠征して征服行為をした時、その成果として記念に建立する石碑のこと。北欧各地に6千ほどの石碑が発見されている。700年から1100年ごろに建てられたものが多い。その性質上、内容としては「何年何月、誰々がここの地を征服した」のようなものが多い。

ルーン文字というのは言語学的にちょっと特殊な文字で、その文字資料がほとんど石碑にしか残っていない。文字の形を見れば分かるが、ほとんどが直線で形成されており、最初から石に刻むための文字として作られたことが分かる。

ルーン石碑の特徴は「書いてある内容よりも、『どこに残っているのか』のほうに価値がある」ということだ。なにせ残存している文字資料は征服記念の石碑しかないものだから、どの石碑も内容は似たり寄ったり。だからルーン石碑というのは言語学的にはたいした価値はない。

しかし、歴史学的には価値が高い。ルーン石碑が残っているということは「むかしヴァイキングがここまで勢力を伸ばしていた」という証拠に他ならず、彼らの行動範囲と交易圏を特定するための根拠になる。北欧言語の分布と変遷を研究すると、いろんなところにこのルーン文字というものが出てくる。


ルーン文字は死滅文字のひとつだが、わりと現在でもいろんなところで使われている。

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最も有名なルーン文字は「Bluetooth」のロゴだろう。
電子デバイスの無線通信規格として、現在最も流通しているものだ。しかし、どうして無線規格が「青い歯」という名称なのか知っている人は少ないだろう。

Bluetoothは最初、エリクソン、インテル、IBM、ノキア、東芝の5社がプロモーターとなって策定された。この中で北欧企業(スウェーデン)のエリクソン社の技術者が、伝説のデンマーク王、ハーラル・ブロタンの名前を冠した「H・B」を名称として使用した。Bluetoothのロゴは、長枝ルーン文字の「H」と「B」を併せた合字だ。

このハーラル・ブロタンという王は、当時抗争に明け暮れていたノルウェーとデンマークを、はじめて交渉によって無血統合した「平和の王」として名高い。この王は、歯が青かったという伝説があり、「青歯王」という別名でも呼ばれている。これにちなみ、「いろいろと規格が入り乱れている通信無線規格を、平和のうちに統合したい」という願いをこめ、ハーラル・ブロタンの青い歯(Bluetooth)を名称として使用することにした。


ルーン文字は、小説「ハリー・ポッター」シリーズにも出てくる。
ホグワーツ魔法学校には3年時から「古代ルーン文字学」(Ancient Runes)という選択授業があり、ハーマイオニーがこの授業を履修している。リドルの日記を盗まれたハリーが慌ててグリフィンドール寮の談話室に駆け込んでくると、ハーマイオニーは『古代ルーン語のやさしい学び方』(Ancient Runes Made Easy)という本を読んでいた。

また、ふくろう試験(Ordinary Wizarding Levels Test, OWL試験)を受験したハーマイオニーが、食堂でのんびりチェスをしていたハリーとロンのところに来ると、不機嫌そうに「古代ルーン文字の試験がめちゃめちゃだった。ひとつ訳し間違えた」と言い、ロンが驚いて「たった1カ所!?」と驚くシーンがある。

物語の終盤、ダンブルドア校長はハリー、ロン、ハーマイオニーの3人に形見を贈る。ハーマイオニーに贈られたのは『吟遊詩人ビードルの物語』(The Tales of Beedle the Bard)。魔法界ではよく知られた伝説や童話を編纂した書物で、3つの「死の秘宝」の正体を3人に知らせるためのものだ。この物語、表紙の題名が古代ルーン文字で書かれている。また、物語中の吟唱詩のいくつかはルーン文字で書かれている。ハリーとロンはルーン文字の授業を履修していないため、この本はハーマイオニーしか読むことができない。


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マグル育ちはそんな童話を知らず、ロンだけが知っていた。


「ハリー・ポッター」シリーズの魔法学校の授業として使われているように、ルーン文字というのは欧州文化圏の人々にとって「なんか古代っぽい、ミステリアスな文字」という印象のあるものらしい。言語的にはルーン文字はアルファベットと同じ表音文字だが、それぞれの文字に意味がこめられている。ルーン文字のアルファベットを、最初の6文字をとって「フサルク」というが、それぞれのフサルクには発音の他に、名称と意味が設定されている。 その神秘的なイメージから、神託や占いにもよく使われていたらしい。ルーン文字の「ルーン」の語源は、ルーナ(runa)。「秘密」という意味だ。


まぁ、ハーマイオニーほど勉学に勤勉ではない僕も、一応、言語学者の端くれ。ルーン文字の解読くらいはできるかな、と思って日比谷公園の石碑を解析してみた。
まず石碑に書かれているルーン文字を単語ごとに区切って転写してみると、次のようなものになる。


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なんかシャーロック・ホームズの「踊る人形」みたいな作業。


この文字列をラテン文字(アルファベット)に変換すると、次のようになる。どうやらスウェーデン語らしい。ちなみに角カッコ [  ] の表記は現代スウェーデン語の正書法。


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これでOWL試験もばっちり。


なかにローマ数字(XXIV「24」、MCMLVII「1957」)が使われており、これはそのまま読める。また、skandinaverは「スカンジナビア」、japanは「日本」、europaは「欧州」、nordpolenは「北極」、februariは「2月」だろう。このくらいの見当はつく。

でも僕はスウェーデン語が読めないので、辞書と参考文献を借りようと思って国立国会図書館に行ってみた。日比谷公園から外務省横の坂を上って、国会議事堂を過ぎたところに国立国会図書館がある。便利な場所だ。

ところが国会図書館がまさかの新型コロナウィルス流行に際し臨時休館


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そ、そりゃそうですよね・・・。


仕方ないので、近くにある某大学図書館に足を運び、参考図書を借りた。
そこでスウェーデン語を調べながら訳してみると、石碑に書いてあったのは

スカンジナビアの人々が、1957年2月24日、日本とヨーロッパ間に北極経由の航路を開き、その10年後に記念としてこの石碑を建てた

という内容。



特に新しい情報はありませんでしたね。
(な、泣いてないっす・・・)



でも、内容と石碑の存在意義が噛み合ってない気がする。
もともとルーン石碑というのは、北欧のヴァイキングの方々が「征服の証」として残していたものだ。これを日本に置いたというのは、日本は北欧諸国の軍門に下った、という意味になりはしないか。文面に書いてあるような、友好の証としてルーン石碑を使うというのはいかがなものか。

まぁ、そこまで固く考えることもあるまい。現在、北欧諸国ではルーン文字は一種の文化遺産扱いをされており、占いでも使われている。日本とスカンジナビアの友好の証として、なにか置物か記念物を、と考えて「いかにもスカンジナビアっぽいもの」と考えた時、ルーン石碑はどうだろうか、という感じだったのだと思う。まぁ、一種のジョークと考えればよいものだろう。


そんなことよりも、「ハリー・ポッター」シリーズの、『吟遊詩人ビードルの物語』(The Tales of Beedle the Bard)のほうが気になった。
この本は作中書物だが、スピンオフとして2008年に実際に出版されている。日本でも翻訳が出版されており、マニアには必須の本らしい。作中世界では、原著はルーン文字で書かれており、2008年にハーマイオニーが現代英語に翻訳した、ということになっている。

この物語は、イギリス魔法界に古くから伝わる寓話・童話を集めた作品集ということになっている。原題の「Bard」というのは吟遊詩人のことだが、一般的にはケルトの吟遊詩人のことを指す。おそらく、収録されている童話や寓話も、主にケルト民族の物語を下地にしているのだろう。


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OEDの記述。「ancient Celtic」と明記してある。


ところが、そう考えると時代が合わない。
ケルト文化というのは、現在のイギリス、フランス、ドイツ、東欧圏に広がっていたケルト人の活動領域に包括される文化を指す。古代ローマで「ガリア人」と称されていた民族ではないか、という説もある。現在のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォールあたりにケルトの文化遺産が残されている。

現在ではイギリス系の印象が強いが、ケルト語はインド・ヨーロッパ語族なので、ケルト人もおそらくは大陸由来だろう。ケルト文化がヨーロッパで発展したのは青銅器時代、およそ紀元前1200年くらいだ。かなり歴史の古い民族といえる。
それが、ローマ帝国、ゲルマン民族の侵攻を受け、衰退に向かったのが紀元前1世紀ごろ。紀元後になってからは、その文化は当時でもすでに歴史遺産と化していたと思われる。

一方、ルーン文字というのはゲルマン民族であるヴァイキングが使用した文字だ。ヴァイキングの活動時期は約800年から1000年ほどの間だ。航海技術や戦闘武器の発達を背景としているため、その時代はほぼ中世に近い。ルーン石碑も、その多くはその時代に建立されている。

つまり、『吟遊詩人ビードルの物語』の物語は、紀元前のケルト物語が、1000年ほど後に発達したルーン文字で書かれた物語ということになる。「ハリー・ポッター」シリーズで登場する「古代ルーン文字」というものは実際には存在しないが、相当に初期のルーン文字だって紀元200年よりも昔ということはない。なぜ古代ケルトの物語が、当時存在しなかったルーン文字で書かれているのだろうか。

また、ケルト民族にとってゲルマン民族は侵略民族にあたる。ケルト民族とヴァイキングは時代が合わないが、一応民族上、被征服者と征服者の関係にある。歴史の古いケルト文化の童話や物語を、征服者の言語であるルーン文字で書き残す、というのはどう考えても不自然だ。
日比谷公園の石碑だって、アルファベットに書き下したらスウェーデン語だった。『吟遊詩人ビードルの物語』は、記述文字としてはルーン文字で書いてあるとして、その文字はいったい何語を表記したものだったのだろうか。

この謎を解く鍵のひとつは、題名に使われている「Bard」(吟遊詩人)という単語だ。
ひとつの考え方だが、『吟遊詩人ビードルの物語』は古代ケルト文化を題材としていながら、本として編纂されたのはそれほど昔ではない、ということだろう。先に挙げたOEDの記載によると、現存している資料のなかで「Bard」という言葉の初出例は15世紀だ。しかも引用例を見てみると、17世紀中盤までは「Baird」「Barth」「Bardh」など、綴りが一定ではない。ようやく「Bard」に綴りが定まったらしい最初の例は、1627年の資料だ。もし『吟遊詩人ビードルの物語』の英語表記がThe Tales of Beedle the Bardだったとしたら、この物語は少なくとも17世紀以降に書かれたことになる。そうだとしたら、当時すでに死滅語となっていたルーン文字で記されていても、いちおう時代的な辻褄は合う。


まぁ、いずれにしてもひとつ分かるのは、かようにヨーロッパ文化圏ではルーン文字は「神秘的な文字」という印象が強い、ということだ。ルーン文字の独特の雰囲気は、ハリー・ポッターシリーズの魔法界の印象を形づくるアイテムとして、重要な役割を果たしている。
ところが、謎の石碑、神秘的な古文書を、苦労して解読してみても、その内容は「そんなことは知ってるぞ」という程度のもの、ということは多い。まぁ、神秘というものは、暴いてみれば、そんなものなのだろう。


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外務省横の桜がきれいでした。



春休みの自由研究としては中級くらいの難易度だろうか。

気になるコトバ。

夏が近づき、出版各社が夏の文庫フェアを開始した。
その中のひとつ、集英社文庫の「ナツイチ」に採り上げられた、『言えないコトバ』(益田ミリ 著)を読んでみた。


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言葉に関するエッセイ集。単なるあるある話から、筆者が日頃から違和感を感じている言葉まで、言葉に関するあれこれを雑然と綴っている。
まぁ、読みやすい本。年配者による「最近の若者の言葉遣いはけしからん」的な、上から目線のダメ出しなどでは全然なく、筆者が肩肘張らずに言葉に関して思ったことをそのまま書いている観のある本。言語論ではなくエッセイとして、気軽に読める本だろう。暑い夏に読むための読書フェアに推されるのも、まぁ分からないではない。


しかし、言葉に関してエッセイを書いているにしては、この著者、ことばづかいが雑すぎるのが気になった。


まず、文章に「のである」がやたらに多い。
中・高の国語の授業であれば、無条件に削除するように添削される表現だ。

「試しに言ってみるのだが、今まで驚いてくれた人は、ひとりもいなかったのである

「どうも気後れして真似ができなかったのである

「想像したら、少し胸がキュンとしたのである


見開きの2ページだけで、「のである」が3例も出てきている。
一般的に「のである」は、単独で使われる時は削除しても意味が変わらない。「ひとりもいなかった」「真似ができなかった」「少し胸がキュンとした」と書くほうが簡潔で、意味も伝わりやすい。

「のである」が使われるのは、一度言ったことを、他の例を使ったり違う言葉を使ったりして、もう一度言い直すときだ。
本書の『パンツ』という項目で、筆者は「チョッキ」「トックリ」という言葉を最近使わなくなり「ベスト」「タートルネック」と言うようになったことを挙げて、こう書いている。

「わたしの父には、いいまだそれらは死語ではないし、このまま突き進むはずだ。ちなみにわたしの母は、わたしよりも、うんと長い時間がかかったものの、ベストやタートルに辿り着いている。オシャレへの関心の度合いによって、夫婦である父と母には若干のコトバの壁ができたのである。」


この箇所では、「父はこう」「母はこう」「要するにこう」と、前に挙げたことを他の表現でまとめているので、これは「のである」の正しい使い方だ。
しかし、この本ではあまりに「のである」が多用され過ぎているので、これはたまたま正しい用法で「のである」を使っていた箇所、というだけに過ぎないだろう。「濫発した中にたまたま正しい用法があった」という、単なる偶然だと思う。

そもそも、「のである」の正用法には、「伝えたいことを一文だけで伝え切れていない」という大前提がある。伝えきれないから、他の言い方で補完しなければならないのである。だからそもそも正用法といえども「のである」を多用するのは、上手な書き手ではない。


他にもこの本、言葉遣いが疑わしい書き方が多く見られる。

「どうやら、おもてなしをすることが流行っているような気がする」


典型的な文のねじれ。「どうやら」の後に句読点が打ってあるので、これは文全体を修飾する。すると被修飾語は文全体の述語になるので「気がする」ということになる。すると言っていることは「自分では意識していないが、どうやら私は・・・という気がしているようだ」ということになる。おそらく誤文だろう。

察するところ、正しい係り受けは「どうやら・・・流行っているようだ」だろう。「どうやら」は、係り受けとして「〜ようだ」「〜らしい」で受ける表現だ。上の文では、それが成り立っていない。いっそのこと「どうやら、」を削除して、単に「おもてなしをすることが流行っているような気がする」と書いたほうが誤解がない。

「デパートか、百貨店か。
口にする前に、毎度、
『どっちだっけ?』
と一瞬とまどうわたしがいる。」


どこかで見た歌の歌詞か、哲学的な思索に関する言及を、何の疑問もなく丸パクリして使ってる表現だろう。当該のエッセイは、筆者が「『デパート』という言葉は『パレード』に似てるから、ゴージャス感が凄すぎて、使うのをためらう」という内容だ。そんな瑣末なことを迷っているよりも、「一瞬とまどうわたしがいる」という表現を躊躇もなく使う感性のほうを疑ったほうがいいのではないか。

「〜しているわたしがいる」という表現は、主文の述語が「いる」という存在認識なので、その対称として「いない」(=「非存在」)の概念が前提となる。つまり「死」「無」「虚」の世界だ。無というのは、それ自体に概念を与えられないので、必然的に「有」と対称することでしか捉えることができない。そういう「無」に捉えられそうになったとき、自分の存在に立ち返る(つまり「我に返る」)ことによって「無」の認識に達するときの表現が、「〜するわたしがいる」という言い方だ。この表現はもともと日本語独特のものではなく、海外の認識論を翻訳する際に編み出された翻訳表現だ。僕の知る限り、最初に使ったのは確か堀口大學だったと思う。

当該の文は、そこまで意図してこの表現を使ってはいまい。おそらく「デパートか百貨店か、気づくと『どっちだっけ?』と迷っていることが多い」くらいの意味だろう。それを何やら歌の歌詞のように、もってまわった言い方で表している。決して、文章勘の成熟した大人が書く文章ではない。


かように突っ込みどころが満載の本なのだが、別に僕はそれが悪いと言っているわけではない。この本はエッセイなのだし、想定している読者もそれほどことばにうるさい人ばかりではなかろう。夏の暑いさかりに、時間つぶしに読書を、などという向きには読みやすい本だと思うし、その面では「仕事をしている本」だろう。

僕が思うのは、「この筆者、いままでの人生で、誰にも文章を直される経験がないままここまで来てしまったのだろうか」ということだ。
たとえば先に挙げた「〜のである」などは、中学生のうちに直されているはずの表現だ。昨今では国語の授業数が削減されて、作文の指導も十分ではないのかもしれない。中学、高校と、文章を添削される機会は数多あったはずなのだが、そのどの段階でも添削をすり抜けてここまで来てしまったのだろうか。

日本語の母語話者だからといって、日本語が上手とは限らない。特に思考を文章に著して、広く世の人々の目に触れるようになれば、そこには一応の文章訓練が必要だろう。僕の印象では、学校における国語教育を軽視する人ほど、そういう能力をきちんと身につけていない。

言葉に関するエッセイであれば、読者としては、自然と筆者の「日本語力」に注視しながら本を読み進める。どれだけ書いてある内容が面白かろうと、気楽に読める本だろうと、「本を書く」ということの一番の根幹を成す能力が疑わしければ、説得力が激減する。読んでいて興醒めする。

言葉についてあれこれと書いてあるエッセイなのだが、この本から僕が一番強い印象を受けたのは、そういう言葉の運用面に関することだった。まぁ、筆者の意図とは違うだろうが、ことばの使い方とその身につけかたについて、考えさせられる本だった。 



『言えないコトバ』と、なぜカタカナで表記してるんですかね。

単語の文字列

Aoccdrnig to a rscheearch at Cmabrigde Uinervtisy, it deosn't mttaer in waht oredr the ltteers in a wrod are, the olny iprmoetnt tihng is taht the frist and lsat ltteer be at the rghit pclae. The rset can be a toatl mses and you can sitll raed it wouthit porbelm. Tihs is bcuseae the huamn mnid deos not raed ervey lteter by istlef, but the wrod as a wlohe.


「ケンブリッジ大学の研究によると、ひとつの単語における文字の順序は問題ではなく、唯一重要なのは最初と最後の文字が正しく書いてあることである。残りの部分の文字の順番はどうでもよく、何の問題もなく読める。その理由は、人間は一字一字を読んでいるのではなく、単語全体を認識しているからだ。」



(参考)
入れ替えても気づかれにくい単語

拶挨、螂蟷、蝣蜉、蛛蜘、蝠蝙、魎魍魅魑、躇躊、躅躑、蜴蜥、髏髑、萄葡、凰鳳、匐匍、蚓蚯、賂賄。




「ケンブリッジの研究」ってのはフェイクだけどね。

非制限関係代名詞

(A)「彼女は金髪だから、好きというわけではない」
(B)「彼女は、金髪だから好き、というわけではない」

ふたつの文は、音にすれば同じ読みだが、意味が正反対になる。
(A)は「彼女が嫌い」という意味。その理由は「金髪だから」。おそらく黒髪フェチの発言だろう。
一方(B)は「彼女が好き」という意味だ。彼女のことが好きなのだが、その理由は別に彼女が金髪だからというわけではなく、他にもいろいろと理由がある、という意味。こちらのほうは(A)と違い、金髪萌えの発言になる。

文をどこで切るのか、によって意味が変わってしまうことがある。
英語に「非制限関係代名詞」(non-restrictive relative clauses)というのがある。文法用語が理解を妨げている最たる例で、この文法用語を正しく理解している学生は少ない。

中学3年生で関係代名詞を導入するとき、「ふたつの文をひとつに合わせる用法」と教える教師がいる。例えば

I met the girl yesterday.
The girl is my cousin.

というふたつの文を出し、それを

The girl [ who I met yesterday ] is my cousin.

というふうに繋げる用法、と教える。

個人的には、そういう教師は教員免許を返上して退職してほしい。関係代名詞なんて、放っておけば高校生や大学生になってからも理解があやふやな学生が多い。その根源を辿ってみると、そもそも「なんのための用法だか分からない」という、最初の段階でつまずいている学生がまことに多いのだ。関係代名詞を最初に導入する中学の英語教師は、ことの深刻さを理解しているのだろうか。

「I met the girl yesterday」と「The girl is my cousin」というふたつの文を合わせた意味を伝えたければ、単純に「I met my cousin yesterday」と言えば済む話なのだ。それを「The girl [who I met yesterday] is my cousin」などと、もって回った表現をさせようとするから、わけが分からなくなる。僕も中学時代、英語の先生に「こう言えばいいだけの話じゃないですか」と質問して、えらく怒られたことがある。

つまり、関係代名詞を理解していない学生の根源的な理由は、「なぜそんな言い方をしなければならないのか分からない」というところにある。もっと簡単な言い方ができるなら、そうすればいいじゃないか、という、至極もっともな理由だ。この学生の疑問にきちんと答えられなければ、英語教師として失格だろう。


意味論的には、関係代名詞節というのは「ふたつの述語表現の交わりを表現するもの」だ。
正確には、「個体変項をとる集合同士の共通部分に属する領域を示すもの」だ。

「女の子」という表現を考えると、この意味するところは、「世の中に存在する女の子の集合」にあたる。その集合に属する「誰か」の話をしたいが、このままでは集合がでかすぎるので、特定の女の子を示すために集合を「絞る」必要がある。

そのために、「私が昨日会った人」という別の集合をかぶせる。すると「女の子の集合」と「私が昨日会った人の集合」の共通部分が抽出される。それが特定可能な個人であれば、冠詞のtheがつけられる。

この「集合を『絞る』」という意味操作を、文法用語で「制限」(restriction)という。「女の子」の集合の要素から、「『私が昨日会った』女の子」に、集合を「制限」するわけだ。
これが、いわゆる「普通の関係代名詞」、正確には「制限関係代名詞」(restrictive relative clauses)の意味機能だ。

まずこれが分かっていないと、「制限関係代名詞」が分からない。非制限関係代名詞のほうは、別に集合を絞る意味操作をするのではなく、単純に文をつなげる接続詞としての役割を果たす。「集合を『制限する』のではない」から「非制限」だ。

(C) I talked to a girl in the cafeteria who I have loved so long.
「カフェで、長いこと心を寄せている女の子に話しかけた」
(D) I talked to a girl in the cafeteria, who I have loved so long.
「カフェである女の子に話しかけたのだが、私はその子のことがずっと好きなのだ」

(C)が制限、(D)が非制限の用法だ。
わかりやすく対称性を考えると、(C)ではカフェに何人かの女の子がいたが、(D)では彼女ひとりしかいなかった、とすると分かりやすい。(C)では「女の子」といっても何人かの可能性があるので、それに「私がずっと好きな人」という情報をかぶせて、女の子の範囲を「制限」している。「この女でもあの女でもなく、『私が好きな女の子』に話しかけた」という意味だ。
ところが(D)ではそういう「集合の絞り込み(制限)」をしているわけではなく、単に「ひとりの女の子」のことを話題にしている。それに接続詞のように文をつなげて文を続けているだけだ。


(E) There were few passengers who escaped the accident.
「事故から逃れた乗客は、ほとんどいなかった」
(F) There were few passengers, who escaped the accident.
「乗客はほとんどおらず、彼らは事故を免れた」

(E)は大惨事、(F)は幸運だ。
ふたつの文では、fewが修飾している名詞句が違う。(E)では、「事故を逃れた乗客」がほとんどおらず、(F)では単に「乗客」がほとんどいない。カンマひとつで、文全体の意味が正反対になる。


(G) They are not patriots who agree with nuclear weapon.
「彼らは『核兵器に賛同する愛国者』ではない」
(H) They are not patriots, who agree with nuclear weapon.
「彼らは愛国者ではない。なにせ核兵器に賛成しているのだ」

(G)では核兵器に反対、(H)では核兵器に賛成している。
これらの文では、notが否定している名詞句が異なる。(G)では「核兵器に賛同する愛国者」を否定しており、(H)では単に「愛国者」を否定している。


カンマひとつで文の意味が変わってしまうことは、『ゴルゴ13』77巻の『隠されたメッセージ』という話に使われている。

アラブ諸国に武力行使したいアメリカは、イスラエルに核保有させることを目論む。当然、国際世論の反発が予想されるため、アメリカとイスラエルは形式上、「イスラエルの核保有を凍結する」という和平協定を結ぶ。ところが協定の条文には、内容が真逆に解釈できるような文法上のトリックが埋め込まれており、協定締結後にイスラエルの核保有が可能である仕掛けになっている。
その阻止を依頼されたゴルゴ13は、「内容が真逆になる文法上のトリック」が、ひとつのカンマにあることを突き止め、条約締結の直前に文書のカンマひとつを撃ち抜き、協定を無効化する。


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書くときにはカンマひとつの違いだから分かりにくいが、話すときには文が一旦切れるのであまり間違えることがない。文法事項の中でも「聞くよりも読むほうが難しい」という、珍しい例だろう。
「制限」「非制限」という文法用語は、語弊があることは確かだが、無意味につけられた用語ではない。「文法を理解する」ということは、その意味はもとより、使う状況や文脈までも包括して覚えなければ「使える知識」には昇華しないだろう。 



日本語には関係代名詞がないからねぇ

分詞構文の副詞用法

音楽ショップや楽器屋さんで、よく「No Music, No Life」という標語を見かける。


もともとはタワーレコードが作った標語だそうで、「音楽なくして人生なし」という意味。
厳密には、この標語は誰もが勝手に使っていいわけではない。タワーレコードはこの標語の商標権を取っている。しかし、実際には様々なアーチストがこの標語を使用し、タワーレコードも直接の商用ではない限り黙認している、というのが現状のようだ。


しかしこの標語、なぜ「音楽なくして人生なし」という意味になるのだろうか。


命題論理では、ふたつの命題の間の関係は「条件」だけではない。
機械的には、様々な論理関係が成り立つ。

「音楽がない。そして人生もない」(順接)
「音楽がない。しかし人生もない」(逆接)
「音楽がないので、人生がない」(理由)
「音楽がない。なぜなら人生がないからだ」(結果)
「音楽がないとき、かつそのときのみ、人生がない」(必要十分条件)
「音楽をなくすために、人生をなくす」(目的)
「音楽がないとき、人生がない」(時間)
「音楽がないと同時に、人生がない」(付帯状況)

このうち、なぜ「条件」の「音楽がないとすれば、人生もない」という意味になるのか。
この標語がプリントされているTシャツを着てる高校生あたりは、ちゃんと説明できるのだろうか。


学校文法の範疇では、この表現は現在分詞の副詞的用法に属する。
動詞が、ある形態変化を伴って他の品詞に変換されることを「準動詞」という。準動詞の種類には3種類あって、変化できる品詞も三種類ある。

(1) 不定詞 … 名詞、形容詞、副詞に変化。
(2) 現在分詞 … 名詞、形容詞、副詞に変化。
(3) 過去分詞 … 形容詞、副詞に変化。

(1)〜(3)の準動詞のうち、過去分詞だけは名詞にはなれない。
また、現在分詞の名詞用法は、一般的な慣習として「動名詞」と呼ばれている。
現在分詞と過去分詞の副詞用法が使われる構文は、ふたつまとめて「分詞構文」と呼ばれている。

品詞のうち、英語で修飾語になれるものは形容詞と副詞だけだ。形容詞は名詞を修飾し、副詞は名詞以外のすべて(動詞、形容詞、副詞、節、文全体など)を修飾する。
つまり、副詞は「それ以外」の修飾語なので、用法と意味が雑多でごちゃまぜになっている。不定詞の副詞用法と、現在分詞および過去分詞の副詞用法(分詞構文)は、それぞれ意味が多岐にわたる。

・不定詞の副詞用法 … 時、理由、目的、結果、付帯状況
・分詞構文(現在分詞・過去分詞の副詞用法) … 目的、理由、条件、譲歩、感情の原因、判断の根拠

分詞構文のうち、be動詞が分詞になるときは、省略してもいいことになっている。

Written in a clear hand, this report is easy to read.
(きれいな字で書かれているので、このレポートは読みやすい)


つまり、No Music, No Life の節のつながりは、Being No Music, No Life のように、be動詞の過去分詞が省略された分詞構文、と考えられる。
すると意味としては、「目的」「理由」「条件」「譲歩」「感情の原因」「判断の根拠」のどれか、ということになる。

このうちのどれを意味にとるかは、意味上の主語、意味上の目的語、文脈の組み合わせで決まる。
分詞構文の場合、分詞が「主節の主語とは異なる主語」をとる場合、分詞の主語を明記しなくてはならない。しかし No Music, No Life の場合、そもそもの主節に主語がついていない。
よって主節は主語のない「一般概念」。分詞の主語についてもそれと同じ、ということになる。

特定の主語がいないのだから、主観的な意味を表す「目的」「理由」「感情の原因」「判断の根拠」の可能性が消える。
残る意味は「条件」「譲歩」だけだが、「譲歩」というのは論理接続ではなく、文体論的な接続に過ぎない。「条件」に比べると論理性の「強さ」で劣る。言い替えると、「条件」のほうが、適用される現実世界の有様が多く、普遍性が高い。
よって、「条件」の意味を優先的に採ることになる。

かくしてNo Music, No Lifeの意味は、「音楽がなければ、人生もない」という条件節の解釈、ということになる。
この用法は別にタワーレコードが作った造語用法というわけではなく、No pain, no gain (虎穴に入らずんば虎児を得ず)のような文でも使われている。



「音楽でも生き物でもない」と訳したい。
ペンギン命

takutsubu

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