たくろふのつぶやき

お鍋には熱燗をつけてくれたまへ。

カテゴリ: Linguistics

音楽ショップや楽器屋さんで、よく「No Music, No Life」という標語を見かける。


もともとはタワーレコードが作った標語だそうで、「音楽なくして人生なし」という意味。
厳密には、この標語は誰もが勝手に使っていいわけではない。タワーレコードはこの標語の商標権を取っている。しかし、実際には様々なアーチストがこの標語を使用し、タワーレコードも直接の商用ではない限り黙認している、というのが現状のようだ。


しかしこの標語、なぜ「音楽なくして人生なし」という意味になるのだろうか。


命題論理では、ふたつの命題の間の関係は「条件」だけではない。
機械的には、様々な論理関係が成り立つ。

「音楽がない。そして人生もない」(順接)
「音楽がない。しかし人生もない」(逆接)
「音楽がないので、人生がない」(理由)
「音楽がない。なぜなら人生がないからだ」(結果)
「音楽がないとき、かつそのときのみ、人生がない」(必要十分条件)
「音楽をなくすために、人生をなくす」(目的)
「音楽がないとき、人生がない」(時間)
「音楽がないと同時に、人生がない」(付帯状況)

このうち、なぜ「条件」の「音楽がないとすれば、人生もない」という意味になるのか。
この標語がプリントされているTシャツを着てる高校生あたりは、ちゃんと説明できるのだろうか。


学校文法の範疇では、この表現は現在分詞の副詞的用法に属する。
動詞が、ある形態変化を伴って他の品詞に変換されることを「準動詞」という。準動詞の種類には3種類あって、変化できる品詞も三種類ある。

(1) 不定詞 … 名詞、形容詞、副詞に変化。
(2) 現在分詞 … 名詞、形容詞、副詞に変化。
(3) 過去分詞 … 形容詞、副詞に変化。

(1)〜(3)の準動詞のうち、過去分詞だけは名詞にはなれない。
また、現在分詞の名詞用法は、一般的な慣習として「動名詞」と呼ばれている。
現在分詞と過去分詞の副詞用法が使われる構文は、ふたつまとめて「分詞構文」と呼ばれている。

品詞のうち、英語で修飾語になれるものは形容詞と副詞だけだ。形容詞は名詞を修飾し、副詞は名詞以外のすべて(動詞、形容詞、副詞、節、文全体など)を修飾する。
つまり、副詞は「それ以外」の修飾語なので、用法と意味が雑多でごちゃまぜになっている。不定詞の副詞用法と、現在分詞および過去分詞の副詞用法(分詞構文)は、それぞれ意味が多岐にわたる。

・不定詞の副詞用法 … 時、理由、目的、結果、付帯状況
・分詞構文(現在分詞・過去分詞の副詞用法) … 目的、理由、条件、譲歩、感情の原因、判断の根拠

分詞構文のうち、be動詞が分詞になるときは、省略してもいいことになっている。

Written in a clear hand, this report is easy to read.
(きれいな字で書かれているので、このレポートは読みやすい)


つまり、No Music, No Life の節のつながりは、Being No Music, No Life のように、be動詞の過去分詞が省略された分詞構文、と考えられる。
すると意味としては、「目的」「理由」「条件」「譲歩」「感情の原因」「判断の根拠」のどれか、ということになる。

このうちのどれを意味にとるかは、意味上の主語、意味上の目的語、文脈の組み合わせで決まる。
分詞構文の場合、分詞が「主節の主語とは異なる主語」をとる場合、分詞の主語を明記しなくてはならない。しかし No Music, No Life の場合、そもそもの主節に主語がついていない。
よって主節は主語のない「一般概念」。分詞の主語についてもそれと同じ、ということになる。

特定の主語がいないのだから、主観的な意味を表す「目的」「理由」「感情の原因」「判断の根拠」の可能性が消える。
残る意味は「条件」「譲歩」だけだが、「譲歩」というのは論理接続ではなく、文体論的な接続に過ぎない。「条件」に比べると論理性の「強さ」で劣る。言い替えると、「条件」のほうが、適用される現実世界の有様が多く、普遍性が高い。
よって、「条件」の意味を優先的に採ることになる。

かくしてNo Music, No Lifeの意味は、「音楽がなければ、人生もない」という条件節の解釈、ということになる。
この用法は別にタワーレコードが作った造語用法というわけではなく、No pain, no gain (虎穴に入らずんば虎児を得ず)のような文でも使われている。



「音楽でも生き物でもない」と訳したい。

dokidoki



文末の「や」は、感動詞、間投助詞、係助詞がある。
感動詞は体言接続ではなく単独で使われるので、ここでは助詞。

間投助詞の用法は、詠嘆、呼応、列挙、切れ字。
係助詞の用法は、疑問、反語、応答。

この場合は間投助詞の詠嘆用法(〜だなぁ・〜なことよ)。
なんか据わりが悪く聞こえるのは、現代日本語文法からやや逸脱した古典文法を使っているせい。

助詞というのは本来、名詞につくものだが、この場合は用言連体形に接続している。
間投助詞「や」は、古典文法では用言連体形に普く接続していたが、現代日本語では、「や」のつく用言連体形はほぼ形容詞だけに限られる(「暑いや」「思い出せないや」など)。動詞・形容動詞に接続することはほとんどなくなった。
それが、この文が文語的に聞こえる理由。



一瞬「ん?」ってなったけど、ニュアンスは分かる。

なぜ古典文法の過去には、「き」「けり」のふたつの助動詞があるのか。


教科書的には、「き」は直接体験過去、「けり」は伝聞過去、ということになっているらしい。
「昔、男ありき」と言ったら、「昔、男がいた(そして私はそいつのことを知っている)」という意味で、「昔、男ありけり」と言ったら、「昔、男がいたそうだ(直接は知らんが)」という伝聞の意味になる。
『竹取物語』の出だしは「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」。これは「そういう爺さんがいたそうだ」という伝聞の意味になる。また『伊勢物語』ではほとんどの話が「むかし男ありけり」で始まっているが、これは直接体験ではなく伝聞の集成という体裁をとっているためだ。

「き」と「けり」の違いは、それだけではない。おおむね「けり」のほうが、余計な意味がついている。
古典の教科書には、「けり」は非体験過去だけでなく、やれ「伝来」だの「詠嘆」だの、プラスアルファの意味がついている。どうして「けり」だけ、こんな余計な意味がついているのか。

神代より 言い継ぎけらく 父母を 見れば貴く 妻子見れば かなしくめぐし うつせみの 世の理と かくさまに 言いけるものを ・・・
(万葉集 巻18 4106)


大意としては「神の時代から言い伝えられてきていることには、『父母を見ると尊く思われ、妻子を見ると切なく愛しく思われる。これが世の道理である』と、このように言い伝えられてきているのに・・・」くらいの意味だ。
ここで「けり」が、両方とも「・・・されてきている」と訳されている。これは単なる過去形ではなく、ヨーロッパ諸語で言うところの完了形に近い。これを古典文法や国文法では「伝来」と呼んでいる。

物思ふと 隠らひ居りて 今日見れば 春日の山は 色づきにけり
(万葉集 巻9 2199)


この「けり」は、俗に「詠嘆」と呼ばれている用法だ。「物思いをしてじっと引きこもっていて、今日見たら、春日山は紅葉で色づいていることだなぁ」などと訳す。
高校で古典文法を習うときには、過去の「けり」なのだから、「色づいていたそうだ」と訳したくなる。どういう時に過去で訳し、どういう時に詠嘆で訳すのか、一貫した説明を受けた覚えがない。

受験テクニック的には、「和歌の終わりに出てきたら詠嘆で訳せ」のように教えるらしい。しかし、それはたまたま和歌が内容的に詠嘆が多いというだけの十分性であり、必要性ではないだろう。もし和歌ではない普通の文で詠嘆の「けり」を使いたい場合、内容に齟齬は生じないのだろうか。

古語辞典を調べてみると、助動詞の「けり」と並んで、自動詞としての「けり(来り)」というのが載っている。これはカ変動詞「く(来)」の連用形「き」と、ラ変動詞「あり」の複合動詞「きあり」が縮まったものらしい。意味としては「来ている・やって来た」ほどの意味を表す。

この、「やって来た」という意味が、完了形の「いままでずっと・・・という状態だった」という意味に重なる。こういう、意味的にも音声的にも重なっている語彙がある場合、その大元は同一のものではないかと疑うのは自然だろう。
動詞「来り」の用例を調べると、万葉集の例文しか載っていない。「玉梓の 使ひのければ嬉しみと」(万葉集 3957)というのは、「都から使者がやって来たので、うれしくて」というほどの意味だ。ここでは「やって来る」というのは、空間概念の移動を表している。

空間概念と時間概念の語彙が「絡まる」のは、世界中の言語でよく見られる現象だ。「長い・短い」というのは時間にも距離にも使われる形容詞だし、「流れる」という移動動詞は時間の推移についても使われる。一種の比喩なのだろうが、時間と空間の語彙は、相互に干渉し合う関係にある。

すると、空間移動を表す「来り」が、時間概念としての完了形に転化したとしても不思議はない。勘では、その「転移」が起きたのは、奈良時代後期から平安時代にかけてのことだろう。平安以降に書かれた文章では、もともとの意味で「来り」が使われている文献が残っていない。

動詞のような内容語と、助動詞のような機能語では、内容語のほうが派生が早いだろう。すると、助動詞の「けり」は、もともと動詞の「来り」から分化して発生したと考えるほうが自然だ。
そして、その完了形としての意味だけが遊離して助動詞として語彙化されたとしたら、「けり」は過去という時制を表すのではなく、アスペクトを表す語彙だと思う。

よく混同されがちだが、「テンス(時制)」と「アスペクト(相)」は異なる。テンス(時制)というのは、語彙の形態変化として表出される時間概念のことだ。英語では、過去は形態的に-edで活用するので時制だが、未来は助動詞willを使い、動詞そのものが変化するわけではないので時制ではない。
一般的に、動詞の活用として「未来形」をもつ言語は非常に少ない。ラテン語は未来形をもつ数少ない言語なので、ラテン語から派生したロマンス系諸語はもともと未来形をもっていた。しかし現在ではそのほとんどが失われている。ゲルマン系言語はそもそも未来系がなく、ドイツ語も未来を表すときには助動詞werdenを使う。英語もゲルマン系言語なので、助動詞を使うという点では同じだ。

一方、アスペクトというのは、動詞の意味に含まれる時間幅のことだ。動詞によって、瞬間動作を表したり、継続動作や状態を表したり、その意味の「時間幅」は異なる。その差異は、助動詞などの付加的な語彙によって変更されることがある。
わかりやすいアスペクトは、進行形と完了形だろう。「走る」という継続動作は、助動詞をつけると「走っている」という進行形になったり、「走っていた」という完了形になったりする。

そう考えると、「来り」から派生した「けり」は、時制ではなくアスペクトであると考えた方がいいと思う。ある動作が、ずっと継続されて現在まで「伝わって来た」というニュアンスだろう。

鶏が鳴く 東の国に 古に ありけることと 今までに 絶えず言ひける
(万葉集 巻9 1807)


「鶏が鳴く」というのは、「東」にかかる枕詞。「それくらいわけのわからない国」というくらいの意味だ。昔の京都の感覚だと、東というのはそういう未開の土地なのだろう。「東国で昔あったことだと、現在まで途絶えずに言い伝えている」という意味になる。ここで、「言い伝えられている」というのが、伝わっている感を表すアスペクトになっている。

僕の勘だが、この「時間的に伝わってきている」というのが、空間概念にも影響しているのではあるまいか。つまり「伝聞」の意味は、ここかに由来しているのだと思う。「空間的に伝わってきている」→「人から伝えられている」→「〜だったそうだ」という伝聞過去の意味になったのではないか。

アスペクトを考えるときに大事なのは、境界線だ。動詞で表される行動やイベントが、どこから始まり、どこで終わるのか、という時間の境界線が重要になる。動詞によっては、その境界線をもたない動詞もある。
もし助動詞の「けり」が、複合動詞の「きあり」から派生したのだとしたら、アスペクトの重点は、「終点の境界線」にあるはずだ。なにせ「来た結果、ここに在る」という意味なのだから、結果状態に力点が置かれるだろう。

すると、「その結果、いまこういうことになっている」という状況認識の意味が加わるのではないか。状況の認識という意味が加わることによって、「そのことに今気づいた」という発見の意味になる。
俗に助動詞「けり」の詠嘆用法と呼ばれているものの正体は、この「発見」の意味にあるのではないか。「詠嘆」というのは結果論であって、より重要な意味は、その前段階の「そうだったのか、今気づいた」という「発見」のほうにあると思う。

先ほど引用した万葉集の「物思ふと 隠らひ居りて 今日見れば 春日の山は 色づきにけり」という歌は、「春日山は紅葉で色づいていたことだなぁ」ではなく、意味の重点は「紅葉で色づいているのか。いま気がついた」といったところではあるまいか。
そう考えると、助動詞の「けり」の意味は、「詠嘆」ではなく、「発見」とでもしたほうが、より正確な訳につながると思う。

この「過去から引っ張って来た状態から変化して、新しいことを発見する」という観点は、現代語にもその残滓がある。
よく物をなくして探し物をして、見つかったときに「あ、あった」などと言う。なぜここで過去形を使うのか。今その瞬間に「ある」のだから、文法的には「あ、ある」と言うのが適切なはずだ。

「あ、あった」と過去形を使う理由は、助動詞の「けり」が発見=詠嘆の意味をもつのと同じ理由だと思う。「いままで見つからなかった」という状態が、見つけたことによって変化し、「ある」という状態に変化する。そのときの「状態完了」が「発見」に転じた用法だろう。日本語には完了形がないが、この「あ、あった」というときの助動詞「た」は、過去というよりも完了形に近い意味をもつ用法だろう。「あった」を時制の「過去形」と考えれば謎になるが、もしこれがアスペクトの完了形と考えれば、「けり」が発見=詠嘆の意味をもつのと同じ理由と考えることができる。


もし、助動詞の「けり」が、動詞の「き+あり」から派生したのだとしたら、もうひとつ疑問がある。結果状態動詞の「あり」は、「来」以外の動詞と複合することはなかったのだろうか。

古文の教科書の助動詞活用表を見ると、ひとつ異様な接続をする助動詞がある。完了の「り」だ。
完了の助動詞は「つ」「ぬ」「たり」「り」の四つがある。「つ」「ぬ」「たり」の三つは、大雑把にすべての活用語の連用形につく。しかし「り」だけは特殊で、「サ変の未然形、四段の已然形」にくっつく、という特殊な接続をする。巷の高校生は、サー未、四ー已という語呂合わせで「さみしい『り』かちゃん」などと覚えるそうだ。

なぜ「り」だけがこんな面倒な接続をするのか。
この「り」は、「けり」と同じで、複合動詞の一部「あり」が縮まったものではないか。例えば四段活用接続の「咲けり」は、もともと「咲く+あり」で、これが縮まったのではないか。サ変接続の「せり」は、もともと「し+あり」だったのではないか。そして、もともとは動詞「あり」の一部であったものが、単独で遊離して「り」だけが助動詞として独立したと考えれば、説明がつく。

つまり、完了の助動詞は、「つ」「ぬ」「たり」の3つと、「り」は、出自が違う。「つ」「ぬ」「たり」は純粋な助動詞だったものだが、「り」だけは、もともと状態動詞「あり」の一部だったのではないか。
助動詞「けり」が「来+あり」由来だと考えれば、そのような変化が、動詞「来」だけに生じたと考えるのは、むしろ不自然だ。そういう複合は、他の動詞にも生じたと考えたほうがよい。そう考えると、「あり」が複合動詞としてくっついてから、助動詞として遊離した例として「り」を捉えると、サ変未然形・四段已然形という例外的な接続をすることの説明がつく。


これは単に僕が勝手に思っているだけのことだし、推測の域は出ない。この仮説を実証しようとしたら、実際に文献を調べてその妥当性を検証する作業が必要だ。しかし、仮説は別に真理の探求のためだけにあるのではない。こう考えれば、機械作業として覚えていた暗記の必要がなくなるのだ。古典文法なんて暗記教科の最たるものだと考えている高校生が多いだろうが、暗記というのは、もともと「思考」と「理解」を放棄した者の、罰だと思う。そんな頭の使い方はそりゃ面白くないだろうし、苦痛ですらあるだろう。しかし、自分の頭を使って「こういうことかな」と思いついたことは、いつでも頭の中で再生産できるので、覚えておく必要がない。
勉強というのは、こうやってやるべきものではあるまいか。



「きあり」だけに毒が抜けた気分だ。

僕は一応、言語学者ですので、日常使われている言葉で分からないものがあったら積極的に調べるようにしています。
そんな僕ですが、どうしても意味が分からなかった言葉がありまして。


「ポップでキッチュ」って、どういう意味?


昨日や今日の話じゃありません。僕が中高生の頃から使われている言葉なので、もうかれこれ20年ほど言葉の意味を追っていることになりますか。
僕が中高生の頃っていえばバブル景気の真っ最中ですので、その頃から使われている言葉ということになります。

この言葉を聞くのは、若年層の女の子の会話の中が多かったんですが、雑誌なんかでもよく見かける言葉です。
僕はこの言葉を耳にするたびに「それ、どういう意味?」と語義を訊いてみるのですが、誰一人としてその言葉を正確に定義できる女の子がいない、という謎の言葉です。「意味が分からないのに使う」という、言語的にとても不思議なことが起きています。
最近ではあまり口語でこの言葉を聞くことは少なくなりましたが、それでも雑誌媒体や週刊誌の広告などでたまに見かけます。

以来、女性諸氏(主に嫁)に聞き取り調査を継続し、自分なりになんとなく「こういう意味かな」という感じが掴めてきたような気がします。
合ってるか間違っているか分かりませんが。

まず「ポップ」ですが、これはどうやら「やたらに原色に近いカラフルさに溢れている」というくらいの意味らしいです。だから範疇としては「視覚に基づく色彩感覚の言葉」ということになります。
この言葉が難しいのは、どうやら単に「色が多けりゃいい」というわけではなさそうだ、という所です。色数の多さだけでなく、「かわいい色」である必要があるようなのです。イメージとしてはパステルカラーですかね。

次に「キッチュ」ですが、これはどうやら「親しみやすさ」「手に入りやすさ」「喪失感の薄さ」などを足して割ったような意味の言葉のようです。そう言うとなんとなく分かりにくいですが、ずばり言ってしまうと「安物っぽさ」を表しているようなのです。
だから、すごい高級感があって値段も高く、慎重に扱わなければならないような貴重品は「キッチュ」ではないようです。小銭程度で買えて、壊れたり無くしたりしたところで別に精神的なダメージを受けない、簡単に買い替えが効く、という程度の「日常品」的な感覚が、「キッチュ」の語義のようです。だから、「キッチュ」というのは視覚の用語ではなく、経済概念の用語に分類されると僕は見ています。まぁ、女の子は「服の色に合わせてカバンを変える」ということを頻繁になさるようなので、数が必要なのでしょう。そうなると必然的に、ひとつのものに高い金はかけられない、ということになるのだと思います。



僕は文房具が趣味なので、ペンを例にこれらの用語を分類してみます。
超高級筆記用具、たとえばモンブランの万年筆のようなやつは、色彩も単一ですし、高級感が全開です。こういうのは「どっちでもない」に分類できそうです。


モンブラン

ポップでもキッチュでもない 


一方、たとえばLAMYのサファリシリーズのような筆記用具は、カラフルなバリエーションで商品の躍動感を演出しています。しかし値段は4000円〜6000円くらいで、学生にとっては「買いやすい」とはとても言いがたい商品でしょう。
こういうのは、「ポップ」ではあるが「キッチュ」ではない、と分類できそうです。


ラミーサファリ

ポップではあるがキッチュではない 



お求めやすい文房具として地位を確立した無印良品はどうでしょう。これらは、ゲルインキボールペンなどはかなり色数のバリエーションが揃っています。しかし、女子中高生が熱中して集めるような「かわいい色」ではありますまい。値段は安いし、まとめ買いもできますが、色的にちょっと落ち着いた感じがあります。
こういうのは、「キッチュ」ではあるが「ポップ」ではない、と分類できそうです。


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キッチュではあるがポップではない 


大手の文房具屋で女子中高生が群がっているのは、やはり売れ筋商品の「安いボールペン」です。まぁ、お金がないからしょうがないですね。文房具メーカーでもその辺の層をターゲットに定めた薄利多売商品にも力を入れていて、「全色そろえよう!」のようなシリーズ展開を繰り広げています。
僕はこの手の文房具をあまり使わないんですが、最近ちょっとZEBRAの「Prefill」というシリーズを購入しました。ポイントごとに色を分ける筆記をする必要があるときは、やはり多色ボールペンは便利です。そのため、女子中高生に混じって文房具屋さんで「かわいい文房具」を買い求めました。最近の多色ボールペンは、自分で色を選んで組み合わせを作れるようになってるんですね。しかもペン軸が300円程度、リフィルの替芯が100円程度と、女子中高生の皆様にもお求めやすい価格になっています。


プレフィール


ポップであり、かつキッチュでもある 



僕の趣味は、基本的に基本色のモノトーンで、しかも「多少高くても良いもの」をひとつ持つ高級指向ですので、ポップでもキッチュでもないことになります。
コンピューターでも、Windowsマシンはカラーバリエーションが豊かで、たまにキッチュなものがありますが、Macは頑にポップでもキッチュでもない路線のような気がします。iPodなどの消耗機器でも、一応カラーバリエーションを揃えてはいますが、女子中高生がキャーキャー騒ぐような感じの軽い色彩ではなく、ポップさを抑えているカラーデザインになっているような気がします。

僕が日常的に接している大学生世代だと、この好みがはっきり分かれるのは、カバンですかね。
おシャレで「その年の流行」的なカバンは、おおむねキッチュです。はっきり言って安物感が全開です。一方、一生もので使えるような本革の鞄を使っている女の子もたまにいますが、僕としてはこちらのほうが趣味がよろしいと感じてしまいます。

まぁ、語義の掴みが合っているか間違っているかは分かりませんが、こう定義しておくと、とりあえず何を言っているのか分かるような感じです。



あ、これはどう?これって「キッチュ」?

「うーん、キッチュではないわね。ポップではあるけど。」

あ、じゃあこれは?これも「ポップ」でしょ

「あら、これはポップじゃないわよ。どっちかというとキッチュね。」

あの、思うんですけどね

「なあに?」

話をまとめますと、ポップでキッチュなものというのは、子供の使うものではないかと

「は?」

もうワレワレはいい大人ですから、ポップでもキッチュでもない、落ち着いたものを持つべきではありませんか

ハー「あのね、何を言っているの」

はぁ。

「『大人だから落ち着いたものを持つべき』ってのは、一面的な価値観なのよ」

はぁ。

「それぞれのカテゴリーを、場合と状況によって使い分けてこそのオトナなのよ」

はぁ。

「だから、大人だからってポップさやキッチュさを否定するべきではないのよ」

はぁ。

「だから、私が今年のカバンを買うのも、大人として当然のことなのよ」



ちょっと待て。

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