たくろふのつぶやき

秋はやきいも ほくほくしてうまし。

Linguistics

非制限関係代名詞

(A)「彼女は金髪だから、好きというわけではない」
(B)「彼女は、金髪だから好き、というわけではない」

ふたつの文は、音にすれば同じ読みだが、意味が正反対になる。
(A)は「彼女が嫌い」という意味。その理由は「金髪だから」。おそらく黒髪フェチの発言だろう。
一方(B)は「彼女が好き」という意味だ。彼女のことが好きなのだが、その理由は別に彼女が金髪だからというわけではなく、他にもいろいろと理由がある、という意味。こちらのほうは(A)と違い、金髪萌えの発言になる。

文をどこで切るのか、によって意味が変わってしまうことがある。
英語に「非制限関係代名詞」(non-restrictive relative clauses)というのがある。文法用語が理解を妨げている最たる例で、この文法用語を正しく理解している学生は少ない。

中学3年生で関係代名詞を導入するとき、「ふたつの文をひとつに合わせる用法」と教える教師がいる。例えば

I met the girl yesterday.
The girl is my cousin.

というふたつの文を出し、それを

The girl [ who I met yesterday ] is my cousin.

というふうに繋げる用法、と教える。

個人的には、そういう教師は教員免許を返上して退職してほしい。関係代名詞なんて、放っておけば高校生や大学生になってからも理解があやふやな学生が多い。その根源を辿ってみると、そもそも「なんのための用法だか分からない」という、最初の段階でつまずいている学生がまことに多いのだ。関係代名詞を最初に導入する中学の英語教師は、ことの深刻さを理解しているのだろうか。

「I met the girl yesterday」と「The girl is my cousin」というふたつの文を合わせた意味を伝えたければ、単純に「I met my cousin yesterday」と言えば済む話なのだ。それを「The girl [who I met yesterday] is my cousin」などと、もって回った表現をさせようとするから、わけが分からなくなる。僕も中学時代、英語の先生に「こう言えばいいだけの話じゃないですか」と質問して、えらく怒られたことがある。

つまり、関係代名詞を理解していない学生の根源的な理由は、「なぜそんな言い方をしなければならないのか分からない」というところにある。もっと簡単な言い方ができるなら、そうすればいいじゃないか、という、至極もっともな理由だ。この学生の疑問にきちんと答えられなければ、英語教師として失格だろう。


意味論的には、関係代名詞節というのは「ふたつの述語表現の交わりを表現するもの」だ。
正確には、「個体変項をとる集合同士の共通部分に属する領域を示すもの」だ。

「女の子」という表現を考えると、この意味するところは、「世の中に存在する女の子の集合」にあたる。その集合に属する「誰か」の話をしたいが、このままでは集合がでかすぎるので、特定の女の子を示すために集合を「絞る」必要がある。

そのために、「私が昨日会った人」という別の集合をかぶせる。すると「女の子の集合」と「私が昨日会った人の集合」の共通部分が抽出される。それが特定可能な個人であれば、冠詞のtheがつけられる。

この「集合を『絞る』」という意味操作を、文法用語で「制限」(restriction)という。「女の子」の集合の要素から、「『私が昨日会った』女の子」に、集合を「制限」するわけだ。
これが、いわゆる「普通の関係代名詞」、正確には「制限関係代名詞」(restrictive relative clauses)の意味機能だ。

まずこれが分かっていないと、「制限関係代名詞」が分からない。非制限関係代名詞のほうは、別に集合を絞る意味操作をするのではなく、単純に文をつなげる接続詞としての役割を果たす。「集合を『制限する』のではない」から「非制限」だ。

(C) I talked to a girl in the cafeteria who I have loved so long.
「カフェで、長いこと心を寄せている女の子に話しかけた」
(D) I talked to a girl in the cafeteria, who I have loved so long.
「カフェである女の子に話しかけたのだが、私はその子のことがずっと好きなのだ」

(C)が制限、(D)が非制限の用法だ。
わかりやすく対称性を考えると、(C)ではカフェに何人かの女の子がいたが、(D)では彼女ひとりしかいなかった、とすると分かりやすい。(C)では「女の子」といっても何人かの可能性があるので、それに「私がずっと好きな人」という情報をかぶせて、女の子の範囲を「制限」している。「この女でもあの女でもなく、『私が好きな女の子』に話しかけた」という意味だ。
ところが(D)ではそういう「集合の絞り込み(制限)」をしているわけではなく、単に「ひとりの女の子」のことを話題にしている。それに接続詞のように文をつなげて文を続けているだけだ。


(E) There were few passengers who escaped the accident.
「事故から逃れた乗客は、ほとんどいなかった」
(F) There were few passengers, who escaped the accident.
「乗客はほとんどおらず、彼らは事故を免れた」

(E)は大惨事、(F)は幸運だ。
ふたつの文では、fewが修飾している名詞句が違う。(E)では、「事故を逃れた乗客」がほとんどおらず、(F)では単に「乗客」がほとんどいない。カンマひとつで、文全体の意味が正反対になる。


(G) They are not patriots who agree with nuclear weapon.
「彼らは『核兵器に賛同する愛国者』ではない」
(H) They are not patriots, who agree with nuclear weapon.
「彼らは愛国者ではない。なにせ核兵器に賛成しているのだ」

(G)では核兵器に反対、(H)では核兵器に賛成している。
これらの文では、notが否定している名詞句が異なる。(G)では「核兵器に賛同する愛国者」を否定しており、(H)では単に「愛国者」を否定している。


カンマひとつで文の意味が変わってしまうことは、『ゴルゴ13』77巻の『隠されたメッセージ』という話に使われている。

アラブ諸国に武力行使したいアメリカは、イスラエルに核保有させることを目論む。当然、国際世論の反発が予想されるため、アメリカとイスラエルは形式上、「イスラエルの核保有を凍結する」という和平協定を結ぶ。ところが協定の条文には、内容が真逆に解釈できるような文法上のトリックが埋め込まれており、協定締結後にイスラエルの核保有が可能である仕掛けになっている。
その阻止を依頼されたゴルゴ13は、「内容が真逆になる文法上のトリック」が、ひとつのカンマにあることを突き止め、条約締結の直前に文書のカンマひとつを撃ち抜き、協定を無効化する。


golgo13camma


書くときにはカンマひとつの違いだから分かりにくいが、話すときには文が一旦切れるのであまり間違えることがない。文法事項の中でも「聞くよりも読むほうが難しい」という、珍しい例だろう。
「制限」「非制限」という文法用語は、語弊があることは確かだが、無意味につけられた用語ではない。「文法を理解する」ということは、その意味はもとより、使う状況や文脈までも包括して覚えなければ「使える知識」には昇華しないだろう。 



日本語には関係代名詞がないからねぇ

分詞構文の副詞用法

音楽ショップや楽器屋さんで、よく「No Music, No Life」という標語を見かける。


もともとはタワーレコードが作った標語だそうで、「音楽なくして人生なし」という意味。
厳密には、この標語は誰もが勝手に使っていいわけではない。タワーレコードはこの標語の商標権を取っている。しかし、実際には様々なアーチストがこの標語を使用し、タワーレコードも直接の商用ではない限り黙認している、というのが現状のようだ。


しかしこの標語、なぜ「音楽なくして人生なし」という意味になるのだろうか。


命題論理では、ふたつの命題の間の関係は「条件」だけではない。
機械的には、様々な論理関係が成り立つ。

「音楽がない。そして人生もない」(順接)
「音楽がない。しかし人生もない」(逆接)
「音楽がないので、人生がない」(理由)
「音楽がない。なぜなら人生がないからだ」(結果)
「音楽がないとき、かつそのときのみ、人生がない」(必要十分条件)
「音楽をなくすために、人生をなくす」(目的)
「音楽がないとき、人生がない」(時間)
「音楽がないと同時に、人生がない」(付帯状況)

このうち、なぜ「条件」の「音楽がないとすれば、人生もない」という意味になるのか。
この標語がプリントされているTシャツを着てる高校生あたりは、ちゃんと説明できるのだろうか。


学校文法の範疇では、この表現は現在分詞の副詞的用法に属する。
動詞が、ある形態変化を伴って他の品詞に変換されることを「準動詞」という。準動詞の種類には3種類あって、変化できる品詞も三種類ある。

(1) 不定詞 … 名詞、形容詞、副詞に変化。
(2) 現在分詞 … 名詞、形容詞、副詞に変化。
(3) 過去分詞 … 形容詞、副詞に変化。

(1)〜(3)の準動詞のうち、過去分詞だけは名詞にはなれない。
また、現在分詞の名詞用法は、一般的な慣習として「動名詞」と呼ばれている。
現在分詞と過去分詞の副詞用法が使われる構文は、ふたつまとめて「分詞構文」と呼ばれている。

品詞のうち、英語で修飾語になれるものは形容詞と副詞だけだ。形容詞は名詞を修飾し、副詞は名詞以外のすべて(動詞、形容詞、副詞、節、文全体など)を修飾する。
つまり、副詞は「それ以外」の修飾語なので、用法と意味が雑多でごちゃまぜになっている。不定詞の副詞用法と、現在分詞および過去分詞の副詞用法(分詞構文)は、それぞれ意味が多岐にわたる。

・不定詞の副詞用法 … 時、理由、目的、結果、付帯状況
・分詞構文(現在分詞・過去分詞の副詞用法) … 目的、理由、条件、譲歩、感情の原因、判断の根拠

分詞構文のうち、be動詞が分詞になるときは、省略してもいいことになっている。

Written in a clear hand, this report is easy to read.
(きれいな字で書かれているので、このレポートは読みやすい)


つまり、No Music, No Life の節のつながりは、Being No Music, No Life のように、be動詞の過去分詞が省略された分詞構文、と考えられる。
すると意味としては、「目的」「理由」「条件」「譲歩」「感情の原因」「判断の根拠」のどれか、ということになる。

このうちのどれを意味にとるかは、意味上の主語、意味上の目的語、文脈の組み合わせで決まる。
分詞構文の場合、分詞が「主節の主語とは異なる主語」をとる場合、分詞の主語を明記しなくてはならない。しかし No Music, No Life の場合、そもそもの主節に主語がついていない。
よって主節は主語のない「一般概念」。分詞の主語についてもそれと同じ、ということになる。

特定の主語がいないのだから、主観的な意味を表す「目的」「理由」「感情の原因」「判断の根拠」の可能性が消える。
残る意味は「条件」「譲歩」だけだが、「譲歩」というのは論理接続ではなく、文体論的な接続に過ぎない。「条件」に比べると論理性の「強さ」で劣る。言い替えると、「条件」のほうが、適用される現実世界の有様が多く、普遍性が高い。
よって、「条件」の意味を優先的に採ることになる。

かくしてNo Music, No Lifeの意味は、「音楽がなければ、人生もない」という条件節の解釈、ということになる。
この用法は別にタワーレコードが作った造語用法というわけではなく、No pain, no gain (虎穴に入らずんば虎児を得ず)のような文でも使われている。



「音楽でも生き物でもない」と訳したい。

間投助詞「や」

dokidoki



文末の「や」は、感動詞、間投助詞、係助詞がある。
感動詞は体言接続ではなく単独で使われるので、ここでは助詞。

間投助詞の用法は、詠嘆、呼応、列挙、切れ字。
係助詞の用法は、疑問、反語、応答。

この場合は間投助詞の詠嘆用法(〜だなぁ・〜なことよ)。
なんか据わりが悪く聞こえるのは、現代日本語文法からやや逸脱した古典文法を使っているせい。

助詞というのは本来、名詞につくものだが、この場合は用言連体形に接続している。
間投助詞「や」は、古典文法では用言連体形に普く接続していたが、現代日本語では、「や」のつく用言連体形はほぼ形容詞だけに限られる(「暑いや」「思い出せないや」など)。動詞・形容動詞に接続することはほとんどなくなった。
それが、この文が文語的に聞こえる理由。



一瞬「ん?」ってなったけど、ニュアンスは分かる。

構成素

構成素




最近は「にせたぬきじる」じゃないのか

完了の助動詞

なぜ古典文法の過去には、「き」「けり」のふたつの助動詞があるのか。


教科書的には、「き」は直接体験過去、「けり」は伝聞過去、ということになっているらしい。
「昔、男ありき」と言ったら、「昔、男がいた(そして私はそいつのことを知っている)」という意味で、「昔、男ありけり」と言ったら、「昔、男がいたそうだ(直接は知らんが)」という伝聞の意味になる。
『竹取物語』の出だしは「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」。これは「そういう爺さんがいたそうだ」という伝聞の意味になる。また『伊勢物語』ではほとんどの話が「むかし男ありけり」で始まっているが、これは直接体験ではなく伝聞の集成という体裁をとっているためだ。

「き」と「けり」の違いは、それだけではない。おおむね「けり」のほうが、余計な意味がついている。
古典の教科書には、「けり」は非体験過去だけでなく、やれ「伝来」だの「詠嘆」だの、プラスアルファの意味がついている。どうして「けり」だけ、こんな余計な意味がついているのか。

神代より 言い継ぎけらく 父母を 見れば貴く 妻子見れば かなしくめぐし うつせみの 世の理と かくさまに 言いけるものを ・・・
(万葉集 巻18 4106)


大意としては「神の時代から言い伝えられてきていることには、『父母を見ると尊く思われ、妻子を見ると切なく愛しく思われる。これが世の道理である』と、このように言い伝えられてきているのに・・・」くらいの意味だ。
ここで「けり」が、両方とも「・・・されてきている」と訳されている。これは単なる過去形ではなく、ヨーロッパ諸語で言うところの完了形に近い。これを古典文法や国文法では「伝来」と呼んでいる。

物思ふと 隠らひ居りて 今日見れば 春日の山は 色づきにけり
(万葉集 巻9 2199)


この「けり」は、俗に「詠嘆」と呼ばれている用法だ。「物思いをしてじっと引きこもっていて、今日見たら、春日山は紅葉で色づいていることだなぁ」などと訳す。
高校で古典文法を習うときには、過去の「けり」なのだから、「色づいていたそうだ」と訳したくなる。どういう時に過去で訳し、どういう時に詠嘆で訳すのか、一貫した説明を受けた覚えがない。

受験テクニック的には、「和歌の終わりに出てきたら詠嘆で訳せ」のように教えるらしい。しかし、それはたまたま和歌が内容的に詠嘆が多いというだけの十分性であり、必要性ではないだろう。もし和歌ではない普通の文で詠嘆の「けり」を使いたい場合、内容に齟齬は生じないのだろうか。

古語辞典を調べてみると、助動詞の「けり」と並んで、自動詞としての「けり(来り)」というのが載っている。これはカ変動詞「く(来)」の連用形「き」と、ラ変動詞「あり」の複合動詞「きあり」が縮まったものらしい。意味としては「来ている・やって来た」ほどの意味を表す。

この、「やって来た」という意味が、完了形の「いままでずっと・・・という状態だった」という意味に重なる。こういう、意味的にも音声的にも重なっている語彙がある場合、その大元は同一のものではないかと疑うのは自然だろう。
動詞「来り」の用例を調べると、万葉集の例文しか載っていない。「玉梓の 使ひのければ嬉しみと」(万葉集 3957)というのは、「都から使者がやって来たので、うれしくて」というほどの意味だ。ここでは「やって来る」というのは、空間概念の移動を表している。

空間概念と時間概念の語彙が「絡まる」のは、世界中の言語でよく見られる現象だ。「長い・短い」というのは時間にも距離にも使われる形容詞だし、「流れる」という移動動詞は時間の推移についても使われる。一種の比喩なのだろうが、時間と空間の語彙は、相互に干渉し合う関係にある。

すると、空間移動を表す「来り」が、時間概念としての完了形に転化したとしても不思議はない。勘では、その「転移」が起きたのは、奈良時代後期から平安時代にかけてのことだろう。平安以降に書かれた文章では、もともとの意味で「来り」が使われている文献が残っていない。

動詞のような内容語と、助動詞のような機能語では、内容語のほうが派生が早いだろう。すると、助動詞の「けり」は、もともと動詞の「来り」から分化して発生したと考えるほうが自然だ。
そして、その完了形としての意味だけが遊離して助動詞として語彙化されたとしたら、「けり」は過去という時制を表すのではなく、アスペクトを表す語彙だと思う。

よく混同されがちだが、「テンス(時制)」と「アスペクト(相)」は異なる。テンス(時制)というのは、語彙の形態変化として表出される時間概念のことだ。英語では、過去は形態的に-edで活用するので時制だが、未来は助動詞willを使い、動詞そのものが変化するわけではないので時制ではない。
一般的に、動詞の活用として「未来形」をもつ言語は非常に少ない。ラテン語は未来形をもつ数少ない言語なので、ラテン語から派生したロマンス系諸語はもともと未来形をもっていた。しかし現在ではそのほとんどが失われている。ゲルマン系言語はそもそも未来系がなく、ドイツ語も未来を表すときには助動詞werdenを使う。英語もゲルマン系言語なので、助動詞を使うという点では同じだ。

一方、アスペクトというのは、動詞の意味に含まれる時間幅のことだ。動詞によって、瞬間動作を表したり、継続動作や状態を表したり、その意味の「時間幅」は異なる。その差異は、助動詞などの付加的な語彙によって変更されることがある。
わかりやすいアスペクトは、進行形と完了形だろう。「走る」という継続動作は、助動詞をつけると「走っている」という進行形になったり、「走っていた」という完了形になったりする。

そう考えると、「来り」から派生した「けり」は、時制ではなくアスペクトであると考えた方がいいと思う。ある動作が、ずっと継続されて現在まで「伝わって来た」というニュアンスだろう。

鶏が鳴く 東の国に 古に ありけることと 今までに 絶えず言ひける
(万葉集 巻9 1807)


「鶏が鳴く」というのは、「東」にかかる枕詞。「それくらいわけのわからない国」というくらいの意味だ。昔の京都の感覚だと、東というのはそういう未開の土地なのだろう。「東国で昔あったことだと、現在まで途絶えずに言い伝えている」という意味になる。ここで、「言い伝えられている」というのが、伝わっている感を表すアスペクトになっている。

僕の勘だが、この「時間的に伝わってきている」というのが、空間概念にも影響しているのではあるまいか。つまり「伝聞」の意味は、ここかに由来しているのだと思う。「空間的に伝わってきている」→「人から伝えられている」→「〜だったそうだ」という伝聞過去の意味になったのではないか。

アスペクトを考えるときに大事なのは、境界線だ。動詞で表される行動やイベントが、どこから始まり、どこで終わるのか、という時間の境界線が重要になる。動詞によっては、その境界線をもたない動詞もある。
もし助動詞の「けり」が、複合動詞の「きあり」から派生したのだとしたら、アスペクトの重点は、「終点の境界線」にあるはずだ。なにせ「来た結果、ここに在る」という意味なのだから、結果状態に力点が置かれるだろう。

すると、「その結果、いまこういうことになっている」という状況認識の意味が加わるのではないか。状況の認識という意味が加わることによって、「そのことに今気づいた」という発見の意味になる。
俗に助動詞「けり」の詠嘆用法と呼ばれているものの正体は、この「発見」の意味にあるのではないか。「詠嘆」というのは結果論であって、より重要な意味は、その前段階の「そうだったのか、今気づいた」という「発見」のほうにあると思う。

先ほど引用した万葉集の「物思ふと 隠らひ居りて 今日見れば 春日の山は 色づきにけり」という歌は、「春日山は紅葉で色づいていたことだなぁ」ではなく、意味の重点は「紅葉で色づいているのか。いま気がついた」といったところではあるまいか。
そう考えると、助動詞の「けり」の意味は、「詠嘆」ではなく、「発見」とでもしたほうが、より正確な訳につながると思う。

この「過去から引っ張って来た状態から変化して、新しいことを発見する」という観点は、現代語にもその残滓がある。
よく物をなくして探し物をして、見つかったときに「あ、あった」などと言う。なぜここで過去形を使うのか。今その瞬間に「ある」のだから、文法的には「あ、ある」と言うのが適切なはずだ。

「あ、あった」と過去形を使う理由は、助動詞の「けり」が発見=詠嘆の意味をもつのと同じ理由だと思う。「いままで見つからなかった」という状態が、見つけたことによって変化し、「ある」という状態に変化する。そのときの「状態完了」が「発見」に転じた用法だろう。日本語には完了形がないが、この「あ、あった」というときの助動詞「た」は、過去というよりも完了形に近い意味をもつ用法だろう。「あった」を時制の「過去形」と考えれば謎になるが、もしこれがアスペクトの完了形と考えれば、「けり」が発見=詠嘆の意味をもつのと同じ理由と考えることができる。


もし、助動詞の「けり」が、動詞の「き+あり」から派生したのだとしたら、もうひとつ疑問がある。結果状態動詞の「あり」は、「来」以外の動詞と複合することはなかったのだろうか。

古文の教科書の助動詞活用表を見ると、ひとつ異様な接続をする助動詞がある。完了の「り」だ。
完了の助動詞は「つ」「ぬ」「たり」「り」の四つがある。「つ」「ぬ」「たり」の三つは、大雑把にすべての活用語の連用形につく。しかし「り」だけは特殊で、「サ変の未然形、四段の已然形」にくっつく、という特殊な接続をする。巷の高校生は、サー未、四ー已という語呂合わせで「さみしい『り』かちゃん」などと覚えるそうだ。

なぜ「り」だけがこんな面倒な接続をするのか。
この「り」は、「けり」と同じで、複合動詞の一部「あり」が縮まったものではないか。例えば四段活用接続の「咲けり」は、もともと「咲く+あり」で、これが縮まったのではないか。サ変接続の「せり」は、もともと「し+あり」だったのではないか。そして、もともとは動詞「あり」の一部であったものが、単独で遊離して「り」だけが助動詞として独立したと考えれば、説明がつく。

つまり、完了の助動詞は、「つ」「ぬ」「たり」の3つと、「り」は、出自が違う。「つ」「ぬ」「たり」は純粋な助動詞だったものだが、「り」だけは、もともと状態動詞「あり」の一部だったのではないか。
助動詞「けり」が「来+あり」由来だと考えれば、そのような変化が、動詞「来」だけに生じたと考えるのは、むしろ不自然だ。そういう複合は、他の動詞にも生じたと考えたほうがよい。そう考えると、「あり」が複合動詞としてくっついてから、助動詞として遊離した例として「り」を捉えると、サ変未然形・四段已然形という例外的な接続をすることの説明がつく。


これは単に僕が勝手に思っているだけのことだし、推測の域は出ない。この仮説を実証しようとしたら、実際に文献を調べてその妥当性を検証する作業が必要だ。しかし、仮説は別に真理の探求のためだけにあるのではない。こう考えれば、機械作業として覚えていた暗記の必要がなくなるのだ。古典文法なんて暗記教科の最たるものだと考えている高校生が多いだろうが、暗記というのは、もともと「思考」と「理解」を放棄した者の、罰だと思う。そんな頭の使い方はそりゃ面白くないだろうし、苦痛ですらあるだろう。しかし、自分の頭を使って「こういうことかな」と思いついたことは、いつでも頭の中で再生産できるので、覚えておく必要がない。
勉強というのは、こうやってやるべきものではあるまいか。



「きあり」だけに毒が抜けた気分だ。
ペンギン命

takutsubu

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