たくろふのつぶやき

食欲の秋の季節がやってまいりました!o(^▽^)o

Philosophy

国立科学博物館特別展「深海」2017

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国立科学博物館の特別展「深海2017~最深研究でせまる”生命”と”地球”~」に行ってきました。


前からずっと行きたかった特別展なんですよね。最近、地震やら何やらで日本近海の海底調査が進んでいるって聞いていたので、どういう研究が進んでいるのか非常に興味がありました。
7月から始まってる特別展で、10月1日(日)まで開催しています。もうすぐ終わるじゃん。危ねぇ〜。

秋になって校外学習の季節らしく、平日にも関わらず、上野公園には団体の小中学生の姿も見えました。なんか学校から課題が出ているらしく、懸命にメモをとりながら展示を廻っていました。


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やったなぁ、こういう校外学習。


メディアなどでも紹介されている特別展ですが、ほとんどの人が「深海展」だと思ってるんですよね。おどろおどろしい深海魚に期待して来る人が多いみたい。最近、「へんないきもの」だの「ダイオウイカ特集」だの変なブームのせいで、深海魚を恐いもの見たさで珍しがる風潮があるような気がします。
ま、この特別展もそういう世の動向を十分に把握した陳列になってはいました。

展示は主に「深海魚」「地質調査」「地下資源」に分かれています。やっぱり一般受けしやすいのは深海魚のコーナーのようで、いちばん最初にもってきてお客さんを引きつけています。深海魚のコーナーはさらに「発光生物」「巨大生物」「超深海生物」に分かれています。世のニーズをよく分かっておる。 


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ベニオオウミグモ。いっちょまえに肺呼吸するんだって。


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頭が透明な深海魚、デメニギスの標本。
発光するそうだが何のために。


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ダイオウホウズキイカの足だけ。全長は14mもあるんだって。


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お前か。お前なんだな。


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オンデンザメの液浸標本。体長3m、体重300kg。でかい。


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くらえ!ダイオウイカ


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お前はいらん。


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みんな大好き、ダイオウグソクムシ


僕が今回、特別に興味あったのはそこではなく、最近の日本をとりまく深海環境に対する調査の進捗状況です。この特別展は、別に深海魚だけではなく、近年の日本の深海に関するあらゆる調査の成果を公表する目的で行なわれています。地政学的、地質学的、材料工学的、海洋生物学的、さまざまなアプローチの仕方で「深海」を研究して公表しています。

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これこれ。こーゆーのが見たいの。
世界最深撮影に成功した4Kカメラ。NHKスペシャルの映像にも使われてましたよね。 


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ビバ、科学技術。


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「しんかい」のコクピット復元展示。
普通とは違って、実物の1.5倍の大きさ。

 
近年、日本の深海調査が進展している理由は主に、地震による影響と、地下資源の開発のふたつがある。
日本は地震が多いので、地殻変動が地震に及ぼす影響を調べる必要性が高い。2011年の東日本大震災でも、日本近海の地勢は大きく変化した。その変化がどのようなものか、どういう原理で変化したのか、どの程度変化するのか、それを実際に調べる必要がある。

また、日本近海の地下資源の開発は、資源を大きく輸入に依存している日本にとっては喫緊の問題だ。日本は国土面積こそ世界で62位だが、排他的経済水域を含む領域面積にすると世界で6位という広大な水域を範囲としている。中国や韓国が領海侵犯まで犯して領土拡張を目論むのは、それらの国の水域が日本列島によってかなり制限されているからだ。そういう環境にある日本が、海底からレアアースをはじめとして地下資源を確保する重要性が増している。


僕としては今回の展示の大きな目玉は、地球深部探査船「ちきゅう」の掘削記録が見られることだ。
2005年に就航した、海洋研究開発機構が誇る世界最大の科学採掘船。巨大な「海の研究所」だ。2011年の東日本大震災のあと、すぐに「東北地方太平洋沖地震調査掘削プロジェクト」(Japan Trench Fast Drilling Project, JFAST)が始動した。海底採掘を行なって地殻変動の影響を調査し、そのときの記録が公開されている。


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ここを掘る重要性は言わずもがな


「ちきゅう」は、東北地方三陸海岸沖の、北米プレートと太平洋プレートの境目となる日本海溝を掘削した。海上から海溝底までは約7000メートル。そこから約800メートルを掘り下げ、地質調査を行なっている。

つまり「ちきゅう」は、海面から海底まで、富士山ふたつ分の長さの掘削パイプを下し、そこからさらに800メートルを掘り下げたことになる。24時間態勢で地質サンプルを摂取し、すぐに船内の研究区画に運ばれ、即時分析される。まさに「海の研究所」だ。


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これだけの水深下で採掘作業をしたことになる。


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富士山ふたつ分の水深をつないだ掘削パイプの一部


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日本は伊達に地震大国ではないのだよ


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この船体模型だけでごはん3杯はおかわりできます


海底資源についても調査結果が公開されていた。日本が近海資源として重視しているのは、石油とレアアースだ。特にレアアースは「21世紀のダイアモンド」とも呼ばれ、コンピュータ産業に欠かせない希少鉱物の奪い合いが世界中で行なわれている。

日本は現在、レアアースのほとんどを中国からの輸入に頼っている。中国は本土でレアアースが採取される以外に、レアアースの宝庫であるアフリカ各国に眼をつけ、設備投資をじゃんじゃん行なって利権の独占を計っている。最近、アフリカ各国と中国の結びつきが強いのはそのためだ。日本も、中国との貿易関係に対してチャイナリスクを意識し、単独でアフリカ各国との貿易に着手している。

2011年、東日本大震災のための近海底調査の副産物として、太平洋の広範囲にわたってレアアースが濃集した深海泥の分布していることが判明した。日本の排他的経済水域には、メタンハイドレート、熱水鉱床、マンガンクラスト、レアアース泥などが分布していることが分かっている。その調査結果が公開されていた。


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日本でも石油とれるって知ってました?


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中学生にはちょっと分子構造は難しいかな

 
まぁ、一般客にとってはダイオウイカみたいなへんないきものが面白いのでしょうが、ワタクシみたいな科学マニアにとっては、こういう科学技術の粋を結集した成果のほうが面白いですな。


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もちろんミュージアムショップも充実。


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お、おう。


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嫁に所望されるも華麗に無視。


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個人的にイチ押しのおみやげ。国立科学博物館特製フィールドノート。 
無駄に冒険の旅に出たくなる。 



楽しかったです!o(≧∇≦)o

切断する流れ

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。


鴨長明『方丈記』の書き出し。有名な文章なので、誰でも一度は読んだことがあるだろう。
しかしなぜか、その続きを読んだことがある人は少ない。


たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかになひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。


簡単にまとめると、「昔と今は違ってしまうことが多いから、世の中は虚しいね」。
簡単にまとめすぎて身も蓋もないが、言っていることはそういうことだ。

『方丈記』の下敷きが仏教の概念に依拠していることは常識の範疇だが、僕はかねてからそれに対して疑問を持っている。
なぜ、連続概念に対する現実への写像が離散対象なのだろう。

『方丈記』の根底にあるのは仏教概念の「無常観」だ。これは輪廻転生に代表される仏教の世界観のひとつだ。つまり、時の流れの中では等しく変わらないものなど何もない。世の中はすべて繋がっており、現世と来世は連続してつながっている。この「連続概念」が世界観の根底にある。

しかし、鴨長明がそれを表すのに使ったのは、「ある時点を切り取った情景」に過ぎない。人の棲家、人の出で立ち、朝顔の露、すべて「ある時点でそうだったもの」だ。これは時空を越えて連続した実態ではなく、時間を離散的に切り取った表象に過ぎない。
根底概念として「連続」を念頭に置きながら、表象としては「離散」を描く、というのは矛盾ではないのか。

おおむね人間というものは、時間を離散的な概念で再構築するものらしい。
たとえば、子供の頃のことを思い出してみる。頭に思い描くのは「夏休みにキャンプに行ったこと」「クリスマスに贈り物をもらったこと」など、ひとつのイベント、単一の出来事だ。そういうイベントを積み重ねたものが「過去の思い出」を構成している。

それは、履歴書でも同じことだ。教育歴や職歴を書くときには「xxxx年、○○高校を卒業」「xxxx年、△△社に入社」など、時間の一部を切り取って書き並べる。これも、ひとつひとつの経歴を「切り取って」自分史を構成している。


なんてくだらないことを考えている昨今ですが。


数学では、「連続」「離散」という概念を区別する。連続というのは、間に切れ目がない一連の過程のことを指す。対して離散というのは、まぁ、「連続の反対」で、個々の要素がぶつ切りで並んでいることを指す。デジタル時計は離散で、アナログの針時計は連続だ。
自然数は離散概念だ。1, 2, 3, 4, … という自然数の並びに、「その間」は存在しない。ひとの人数を数えるときには「1人」「2人」「3人」という数え方はあっても、「2.4人」「√5人」という数え方はない。

算数と数学は何が違うのか。
一言で言うと、「離散」の概念に留まっているのが算数、それを「連続」に拡げたのが数学だ。小学校の算数の過程では、分数や「分数化できる小数」(いわゆる有理数)は習うが、無理数や虚数は習わない。ひと頃、円周率πを「3」と教えるゆとり教育の弊害が取沙汰されたが、あれも根底にあったのは小学校の算数課程を「離散」の枠に押し込め、無理数を排除しようとした強引な姿勢だろう。

話を実数に限ると、事実として実数は連続している。
これは公理として使われることがあるが、証明可能な定理でもある。ドイツの数学者、リヒャルト・デデキントが証明した。


すべての実数は、実数線の上のどこかの位置に配置される。
話を簡単にするために、0から1までの間の線分図を考える。この0と1の間の実数線を、どこか適当なところで切断してみる。
すると、切断の両端には「一番大きな有理数a」と「一番小さな有理数b」が現れる、と仮定する。

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実は、そんなことはありえない。aとbというふたつの有理数の間には、必ず(a+b)/2 という「もうひとつの有理数」が現れてしまう。
これは矛盾。よって、切断の両端に「最大・最小の有理数」が現れることは、あり得ない。

すると考えられるパターンは、
(1)最大の有理数aだけが存在する
(2)最小の有理数bだけが存在する
(3)a, b両方とも存在しない
の3通りになる。

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実際には、(1)と(2)は交換可能(a=b)なので、パターンとしては
(A) どちらかの端に有理数がある
(B) 両端どちらにも有理数が現れない
のどちらか、ということになる。

実数線のなかで、「有理数ではないもの」というのは要するに「無理数」なので、(A)の片方と、(B)の両端には、無理数が現れる。これを言い替えると、実数というものは「ところどころにある有理数」と、「隙間を埋める無理数」が連続しているもの、ということになる。
この考え方は、提唱者の名前をとって「デデキントの切断」と呼ばれている。

小学校の「算数」では有理数しか扱わないので、その構成は「離散」になる。「みかんが4つ、りんごが2つあります。合計でいくつあるでしょう」で表されるように、数がとびとびの個体を表している。
ところが中学校になって「数学」になると、無理数が登場して、数学体系がいきなり「連続」になる。それまで「物の個数」を表すものだった数の概念が、一次関数の登場によって突如として連続体として目の前に現れる。この変化に対応できない生徒が、数学嫌いになる。こと数概念に関しては、連続体系よりも離散体系のほうが「直感的に捉えやすい」のだろう。

しかし方丈記の例を持ち出すまでもなく、おおかたの人は時間を連続概念で捉えている。美空ひばりだって「ああ 川の流れのように いくつも時代は過ぎて」と歌っている。一方、過去の時間を思い出すときには、「夏休みのイベント」「冬休みの一日」のように、離散的に独立した時間の一瞬を切り取って認識している。
人はあたかも、実際には連続している実数の中で、離散的に存在する有理数だけを拾い上げて認識するように、過去の記憶を形作っている。実数の連続性と、人の時間の記憶のあり方が一致しているのは、偶然なのだろうか。


現代数学では、離散数学のほうが重視されている傾向がある。確率論、グラフ理論、プログラミング、アルゴリズムなどは、すべて離散数学で構成されている。だいいち、コンピューターが離散体系だ。すべての計算を「0」と「1」の組み合わせで行なっている。

現代数学の最重要課題は「未来予測」だが、その基礎となる原理はすべて離散数学を使っている。統計的な未来予測では確率論を使い、経済学や政治学での未来予測ではマルコフ連鎖を使い、社会学ではゲーム理論を使う。それらの基礎はすべて離散数学だ。
かくいう僕も専門が理論言語学なので、記号論として言語現象を扱うときには離散数学の体系で数概念を捉えることが多い。

雑に言ってしまえば、「離散数学は、役に立つ」のだ。大学の工学系学部では、1年のうちから「離散数学」が必修で、基礎理論をみっちり学ぶ。内容は要するに「すごく高度な算数」だ。理論的に原理を掘り下げるよりも、それを応用して実践に活かすほうに重点が置かれる。

しかし、「役に立つ」ことと、「世の中の事実がそうなっている」ことの間には、関連性はない。工学系の嗜好としては、役に立つもの、成果を出せるものが「面白い」のだろうが、そういう方針に過度に向き過ぎる傾向と、いわゆる「数学嫌い」とは、同じ根によるものではないか。離散概念が連続概念に拡張され、「算数」が「数学」になった時点で数概念を嫌うようになるのは、「数学なんて何の役に立つんだ」というよくある文句によく表れている。

高校数学の範囲で連続体を構成する操作は積分だが、過去から現在の変化率を積分したとしても、未来が予測できるわけではない。そんなアルゴリズムは原理的に存在しない。
連続概念が「何の役にも立たない」、離散体系が「役に立つ」、という区分けは、表立って表明するかどうかは別として、多くの人が朧げながらに感じていることのようだ。切りがよく、バラバラの数が規則正しく並んでいる離散概念のほうが、認識的にしっくりするという直感を持っている人が多い。

しかし、そういう傾向をもつ人でも、「時は流れるもの」という一般通念をもっている。よく実態が分からない「時間」「時の移ろい」というものに対して、同じくよく分からない「連続」という概念に依存して、分かったつもりになっている。

鴨長明が『方丈記』の書き出しで連続概念を示しておきながら、その具体的な描写として離散的な「時の一点」を書き並べているのは、日本人のそうした傾向が太古の昔から連綿と続いていることを示しているような気がしてならない。ドラえもんのタイムマシンだって、時間移動の本質は「到着地点の時間」ではなく、移動中の「連続した時間帯」にあるにも関わらず、そこにタイムマシンの本質を見いだす人は少ない。

時間をどのように捉えるのかは認識論の問題だが、もし時間を連続した流れとして捉えるのであれば、そこには日常の感覚とは乖離した連続概念がある。そういう感覚で時間を考えると、一瞬を積み重ねたものとしての時間とは、別の時間の捉え方があるような気がする。


最後にまったく関係のない話ですが。
東京大学の医学部を受験するには、かなり数学を勉強しなければならない。塾や予備校では「東大医学部コース」なるものを設けて、その受験用の対策をみっちり行なうのだそうだ。
人呼んで、「理III数学」。数列や確率などの離散数学だけでなく、関数や微積分などの連続概念もちゃんと扱うらしい。



お後がよろしいようで。

日本経済新聞「大機小機」2017年9月2日

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いつか使うことになる予感がする文章なので貼っとく。

スタンプラリーの目的は

この夏、東京の街を歩いていて気づいたことがふたつある。


ひとつは、夏休み中に電車に乗っている小学生あたりの子供がやたらに多いこと。
まぁ、夏休みだから子供が電車に乗っておでかけするのは当たり前なのだろうが、僕が子供の頃は夏休み中にそんなに電車に乗る機会などなかった。お出かけするときには車が多かったし、都内に出かけるほどの用事は子供にはない。先立つ資金力もない。今時分の子供達は、夏休みに電車に乗っていったいどこにでかけているのだろうか。

電車の子供達をよく見てみると、どうやら鉄道各社が実施しているスタンプラリーをやっているらしい。みなさんお揃いでスタンプ帳などを持参のうえで「次は○○○駅だね!」なんてやっている。
付き添いで付き合うお父さんお母さんはご苦労なことだ。


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ちょっとやそっとの根性で済むイベントではない。 


この鉄道スタンプラリー、最近では毎年当たり前のように行われるようになった。JRだけでなく、私鉄各社も競合するかのごとく右に倣えでスタンプラリーを実施している。
よく考えると、僕が子供のころはこんなイベントはなかった。このスタンプラリーというイベントが隆盛になっていたのは、ここ10年くらいのことだと思う。
いったいどうして、鉄道各社は夏休みにスタンプラリーをこんなに実施するようになったのだろう。


この夏に気づいたもうひとつの点は、外国人観光客が多くなっていることだ。アジア圏だけでなく、欧米系の観光客も多い。増加している外国人観光客は、夏の東京にいったい何をしに来ているのだろうか。

僕に言わせれば、夏の東京なんて、世界で最も観光旅行に向かないところだと思う。なにせ暑い。暑いだけでなく、湿気があり風通しが悪いので、暑さの質が違う。夏休みに海外に避難したいと思うことはあっても、夏休みの東京を満喫しよう、という感覚は、当の日本人には薄い。

国土交通省の管轄内にある観光庁は、2020年の東京オリンピックまでに、外国人観光客4000万人を目標に『明日の日本を支える観光ビジョン構想会議』を策定した。同時に、文化庁も外国人観光客に向けての他言語情報発信の施策(「文化財の多言語解説等による国際発信力強化の方策に関する有識者会議」)を立ち上げた。日本政府は、外国人観光客を誘致する活動を活発化させる方針で一致している。

しかし、たとえば東京に限って観光客誘致のプロジェクトを組むとしたら、具体的には何をすればいいのだろうか。日本の都市開発や都市運営の目標として「外国人観光客誘致」を掲げるとしても、いったいどうすれば日本への観光客を増やすことができるのだろうか。


僕がこの夏気づいた点、
(1)スタンプラリー、増え過ぎじゃないか?
(2)外国人観光客、何しに来るんだ?
のふたつを、同時に説明できる「何か」が、いま東京で起こっていると思う。


外国人観光客はさておき、東京近郊に住む日本人は、夏休みにどこに遊びにいくのだろうか。国内旅行で各地に出かけるのはともかくとして、東京近郊の中でレジャー需要を満たすとしたら、どういう所に遊びに行くだろうか。

レジャー需要の高い高校生・大学生の目線で考えてみると、東京近郊で遊べるところといえば、としまえん、西武園、東京ディズニーランド&シーなどの「遊園地」、上野動物園、多摩動物園、東武動物公園などの「動物園」、サンシャイン水族館、葛西臨海水族館、しながわ水族館、八景島シーパラダイスなどの「水族館」などがあるだろう。

これが、もう少し経済力がついた社会人になると、お金を使った遊び方が増えてくる。ディズニーリゾートに隣接したイクスピアリ、お台場海浜公園、横浜みなとみらい21など、東京湾岸に相次いで建設されたリゾート施設で遊ぶことが多いだろう。

これらの「日本人向けレジャー施設」の共通点は、都心から一段離れた「周辺地」に建設されていることだ。都心にある新興施設としては東京スカイツリーがあるが、あれはもともと公共設備としての役割をもつ電波塔であって、レジャー機能は付加的なものに過ぎない。
東京のレジャー施設が都心からやや離れた近郊地帯にあるのは、そもそもの東京の都市構造に原因がある。

東京は世界でも珍しいほど一極集中型の都市なので、域内に居住空間が充分ではない。そこで都心で働く労働者は、都心からやや離れたところに住むしかない。行政が主導して、ベッドタウンとして住宅団地を相次いで建設した。東は千葉県柏市・松戸市・市川市、北は埼玉県戸田市・越谷市、西は練馬〜所沢、多摩川流域、横浜市港北区などが該当する。これらの町はすべて「都心で働く人のための住居」のために作られたものだ。

これらの地域から都心に通勤するためには、交通の足が必要だ。そのため、これらのニュータウン開発は、私鉄各社が主導して行った。千葉県西部では京成電鉄、東京都西部は西武鉄道、埼玉県越谷市〜草加市は東武鉄道、多摩川流域・横浜市東部地域は東急鉄道が、それぞれ地域開発を担った。日本の鉄道会社が不動産業務を兼業していることが多いのは、そのためだ。

これらの周辺地域にニュータウンを建設したら、移住してくる世代は若年層が中心になる。そのため、若年層や子供の需要を満たすため、レジャー施設が必要となる。これらを建設するためには、土地の制約上、都心側には作れないため、さらに「外側」に建設することになる。
つまり、東京近郊の都市構造は、「都心」ー「ニュータウン」ー「レジャー地域」のように、放射状に広がり、それらを鉄道がつなぐ構造となっている。

問題は、このように作られた「日本人向けレジャー施設」は、外国人に対する訴求力がないことだ。日本に訪れた外国人観光客は、別に水族館や遊園地で遊ぶために来るわけではあるまい。お台場のショッピングモールに行っても、そこに入っているのは自国にもあるショップばかりだ。
日本を訪れる外国人観光客は、「他の国では味わえない、日本だけにあるもの」を楽しみに来日する。その多くは歴史遺産だ。寺社仏閣、歴史的建造物、歌舞伎・相撲などの伝統的日本文化が目当てだ。

そして、そういう伝統的日本文化の表象は、多くが都心に存在する。多くが山手線の内側にある。夏休みに、都心の地下鉄をうろうろする外国人観光客が多いのは、そのためだ。日本人であれば「あることは知っているが、一度も行ったことがない」というところが目当てになる。
外国人向けに発行されている外国語の日本ガイドブックを見てみると、浅草寺、泉岳寺、明治神宮などの寺社仏閣や、迎賓館、浜離宮庭園、国会議事堂、築地市場などの施設が中心に紹介されている。最近では、秋葉原のアニメショップや、神田神保町の古書店街も人気がある。日本では物議を醸すことが多い靖国神社も、外国人観光客にとっては歴史遺産として紹介されていることが多い。

つまり、「日本人向けのレジャー施設」と、「外国人観光客向けの訪問先」は、相互に噛み合っていないのだ。休日の日本人と、外国人観光客は、動線が違う。大雑把に言って、山手線の内側の都心地域は外国人、周辺近郊は日本人、というように、遊ぶ場所の地域分けが明確になっている。

そして、政府は文化事業の方針として「外国人観光客の誘致」のほうを重視しているわけだ。日本人の内需拡大と消費増大を目指しているわけではない。外国人観光客の嗜好を理解したうえで、そこを強化して誘致をはかるためには、具体的にどのような施策を打てばいいのか。

外国人の目当てが歴史的建造物や伝統的文化だとしたら、インフラ整備や新規の建築事業で需要を拡大するのは現実的ではない。新しく何かハコモノを作ることによって誘致をはかるわけにはいかないのだ。方針としては「すでにあるものを有効利用する」しか方法がない。よって、誘致事業の軸は、建築などのインフラ整備ではなく、「内的要因」の充実しかない。
では、その「内的要因」とは何か。

顧客を増やすための鉄則は、「リピーターを増やすこと」だ。日本に何度も来たい、と外国人に思わせることが第一になる。
アジアの観光で日本とライバル関係にある韓国、中国、台湾、香港なども、近年になって外国人観光客が増加している。欧米のオリエンタル趣味を満たすための国としてこれらの国は魅力的らしいが、リピーター率を調べてみると、それらの国を抑えて、日本が最も多い。

日本交通公社が2016年に実施した「訪日外国人旅行者の意向調査」によると、「今後、旅行したい国はどこか」という問いに対して、日本は51%でトップを占めている。
これは、比較として韓国や中国を考えてみると分かりやすい。アジアからだけでなく、欧米からの観光客の意識調査を見てみると、旅行先として日本を希望している旅行者は30%代〜40%代を占めているのに対して、韓国を希望する旅行者は10%代、中国を希望する旅行者は20%代にとどまる。韓国では観光政策として日本をターゲットに定めており、「なぜソウルよりも東京のほうがリピーターが多いのか」という問題に国是として取り組んでいる。

東京が外国人観光客に人気なのは、大きく言えば治安とインフラ充実度が理由だ。東京では、財布を落としても交番に行けば返ってくる。携帯電話を紛失しても戻ってくる国は、世界で日本だけだそうだ。普通の店に入ればぼったくられる危険も少ない。犯罪に巻き込まれる可能性が少ないため、安心して夜遊びができる。ナイトライフが充実しており、深夜でも一人でコンビニまで買い物に行ける。

外国人観光客にとって都市のインフラとは「ホテルのベッドの寝心地」「移動の足が保証されていること」であることが多い。日本は高級ホテルからビジネスホテルまでランクの幅が多く、値段ごとに一定のサービスが保証されている。最近では「雑魚寝でもいいから安いほうがいい」という旅行者向けに、外国人向けのゲストハウスやホステルが多く作られている。「あしたのジョー」でお馴染みの東京都荒川区の泪橋周辺は、現在、ドヤ街用の安旅館が軒並み建て替えられ、外国人向けのゲストハウスが密集している。もともと家内制の零細宿泊業者が多かったことと、外国人向け観光地の目玉である築地市場まで近いことが背景にある。

このような東京の現状で、「さらなる招致誘因の充実を」と画策したときに、これ以上なにができるのか。
外国人向けの東京ガイドブックを読んでみると、かなりの長いページを割いて「交通機関の使い方」を説明している。

つまり、JR、私鉄、地下鉄と様々に分岐した鉄道網。外国人にとっては、悪夢のような地下迷宮に見えるらしい。目当ての場所に行くための一番の障害は、「どうやってそこまで行くのか」という鉄道路線の乗り継ぎだ。日本は世界の都市と比べてタクシー料金がダントツで高いため、外国人観光客は基本的に移動には電車を使う。

ガイドブックや地図だけを見て東京の複雑な路線を乗り継ぐのは、地方出身の日本人でも難しい。ましてや、日本は言語的に孤立した国で、基本的に日本語以外は通じない。職員に乗り換えを訊いたとしても、言葉が通じるとは限らない。東京が「旅行しやすい街」を目指すときには、外国人にとって電車の乗り換えがしやすい環境をつくらなくてはならない。端的に言うと、外国人に対する駅員の説明能力を上げる必要がある。

これは鉄道会社の側の立場にたってみると、改善の方法が見えてくる。外国人は日本に不慣れなので、土地勘がなく地名に疎い。だから駅員は、交通の理解度が低い相手に、丁寧に乗り継ぎを説明しなくてはならない。駅員はプロの専門家だから、乗り継ぎの方法を自分では理解しているが、それを「訳わかっていない聞き手に分かりやすく説明する」という説明の技術が必要になってくる。そのためには練習が必要だろうし、継続的で実習的な訓練も必要になる。

夏休みのスタンプラリーは、そのためのものではあるまいか。スタンプラリーに参加するのは、ほとんどが子供だ。ポケモンだの妖怪ウォッチだの、キャラクターのスタンプを使用しているのは、対象者を子供に絞って「地理的理解の低い乗客」を想定するためではあるまいか。子供は脳内に地図ができあがっていないので、たとえば池袋ー新宿ー渋谷の位置関係など理解できない。山手線のどっち側に東京駅があるのか、中央線と総武線の停車駅はどう違うのか、一切知らない。そういう「理解力の低い乗客」に丁寧に説明することで、土地勘がなく言葉が通じにくい外国人観光客に対する、駅員の説明力を高めようというのが、スタンプラリーの本当の目的ではあるまいか。 つまりスタンプラリーの本当の目的は「乗客・子供を引き込む利用者促進のため」ではなく、「駅員の訓練のため」と考えられる。

今年の夏、鉄道各社が実施しているスタンプラリーのなかで、ひとつだけ東京メトロのスタンプラリーだけが異色だ。他の鉄道各社がポケモンなどの子供向けキャラクターを使用しているのに対し、東京メトロのスタンプラリーだけは、1980年〜1990年代の「往年の少年ジャンプのキャラクター」を使用している。「ドラゴンボール」「魁!男塾」「シティーハンター」「スラムダンク」「ろくでなしBLUES」「北斗の拳」「キャプテン翼」「キン肉マン」などの作品は、いまの子供にとってリアルタイムの作品ではなく、それほどテンションが上がるものではあるまい。使用しているキャラクターを見る限り、東京メトロのスタンプラリーの対象は、30代〜40代の大人だと考えてよい。

なぜ、東京メトロだけ大人を対象としたスタンプラリーを実施したのか。
説明の難易度の違いだろう。路線図で説明しやすいJRや、直線路線が多い私鉄各社とは異なり、複雑に入り組んだ東京メトロの乗り換え説明は、段違いに難しい。小学生の子供にいきなり大手町駅の乗り換えを説明するのは、ハードルが高すぎる。だから駅員の側が、段階的に説明力を上げていくためには、まず「ある程度の地理的感覚のある大人に説明する」という段階から入ったほうが現実駅だろう。駅員の側が、大人に説明できるようになってから、順次子供を対象とするように移行していくのだと思う。だから予測として、近年中、少なくとも2020年までには、東京メトロのスタンプラリーも、子供を対象としたものに変化していくと考えられる。

東京メトロは、2016年の秋にもスタンプラリーを実施している。その時に使用したキャラクターは「魔法つかいプリキュア」。期間は2016年9月17日から10月30日までで、これは夏休みが終わり、小中学校がすでに始まっている時期だった。
キャラクターから考えて、対象となるのは、小学生の女の子か、大きなお友達の方々だろう。男の子であれば友達同士でスタンプラリーをやるかもしれないが、小学生の女の子にとっては子供同士でスタンプラリーをするのはハードルが高かろう。週末をつかって、お父さんと一緒にやるだろう。また大きなお友達の客層は、アニメ好きと鉄道好きの分布が重なっている層がスタンプラリーに参加すると予測できる。どちらにしても、乗り換えを駅員に訊いてくるのは大人になる。いずれにしても、「乗り換えを、とりあえず大人にわかりやすく説明する」という目的に沿っている。

最近の外国人観光客の中には、東京のダンジョン的な地下鉄そのものを目的とする観光客が増えているのだそうだ。「路線の全線を制覇する」という剛の者もいる。どの国にも「鉄ヲタ」はいると見えて、東京の鉄道網はその趣味の方々にはたまらないらしい。最近の外国人向けガイドブックでも、東京の地下鉄は「迷う可能性がある」という否定的なニュアンスではなく、「挑戦してみよう!」のようなアグレッシブな書き方に変化している。

道に迷ったとき、外国人を見るや「知るか、自分で探せ」という素っ気ない対応をするのではなく、地図を示して懇切丁寧に説明してくれる駅員が増えれば、東京という街の印象がよくなる。そういう人的サービスの充実が、リピーターの増加につながる。海外旅行をしたとき、街の印象というのは、建物の印象ではなく、人の印象であることが多い。そういう「人的能力の育成」が、インフラ整備とは別に、東京の観光客誘致の根幹にあるような気がする。


スタンプラリーと外国人観光客、どっちもこの夏の東京でよく見かける光景だが、ある変化が起こるとき、そこにはだいたい共通の背景がある。そういう流れをよく見てみると、「いま何が起きているのか」「これからどうなっていくのか」が把握できる。



今年もやろうと思いつつもやらずに終わりました。

EU内格差

スペインの有名な車メーカーといえば、何だろう。


ヨーロッパといえば先進的な地域だというイメージがあるが、その内部では思わぬ格差が生じている。一般に、経済が潤っている金持ちの国は、イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギーなど。逆に経済が停滞し生活が苦しいのは、スペイン、イタリア、フランスなど。地図上で言うと、おおよそ北部のほうが金持ちで、南部のほうが貧乏、という格差がある。

身も蓋もないことを言ってしまえば、「ヨーロッパでは地下資源が北部に集中しているから」なのだが、それだけが理由ではない。経済格差の分布は、そのまま宗教上の分布と一致する。金持ち国の多くはプロテスタントで、貧乏国の多くはカトリックだ。
マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通称『プロ倫』)で、その宗教上の分布と経済力の分布が一致するしくみを説いている。

もともとキリスト教というのは原始的共産主義で、財産はすべて共同体の共有だった。個人の蓄財は認められず、個人の経済活動はすべて「共同体への奉仕」だった。そこから「清貧」という道徳律が生まれ、財産の貯蓄を蔑む価値観が生まれた。

その伝統的道徳律が、宗教改革を機に一転する。 カルヴァンは「予定説」を唱え、「神の救済対象はあらかじめ決まっており、個人の努力では変えられない」と主張した。神が救済の対象とするものは、現世での行いとはまったく関係ない。悪いことをしても「救われることになっている人」かもしれないし、良いことをしても「ハズレ」かもしれない。

これは仏教的な「因果律」(善行に励めば救われる)とは対極の考えであり、このままでは道徳律に結びつきにくい教義だった。現世での行いが救済に関係ないのであれば、悪いことをしても構わないじゃないか、というモラルにつながる。

そこでカルヴァンは理屈をひねる。人は神の意思を知ることはできない。しかし「神によって選ばれた人間であれば、人はその意思に沿った行いをするはずだ」と唱えた。これは「善行→救済」ではなく、「救済→善行」というベクトルに因果関係を逆転させた考え方だ。思考の逆転換と言ってよい。

このカルヴァンの説によって、労働とは「金儲け」ではなく、「禁欲的で真摯な奉仕」である、という道徳律が完成した。労働の結果として得られる対価は単なる結果論に過ぎず、労働とはもともと「宗教的な使命感」で行なうべきものである。しかし、結果として得られた対価は「自分がどれだけ神に真摯に向かい合ったか」を示すバロメータなので、肯定的に捉えてもよい。

実際のところカルヴァン主義というのはやたらと禁欲的で、言葉の上では個人の蓄財を否定するものだった。プロテスタントではあるが、カトリックと同じく「人が苦しい思いをすることを良いことだと考える宗教」であったことには変わりない。しかし理屈の上では紆余曲折しているが、カルヴァンの説はつまるところ「金儲けに励んで蓄財をしても良い」ということだ。露骨にそうは言っていないが、結果としてはそういうことになる。これは従来のキリスト教の価値観とは正反対の考え方だ。

従来のキリスト教では、日が昇ったら労働し、おしゃべりしながら適当に働き、お昼になったら昼寝をし、夕方になったら仕事を終える、というのんびりしたものだった。今でもスペイン、フランス、イタリアなどのカトリックの国ではそうした労働観が生きている。こうした労働のあり方というのは、人間性にとっては非常によいものではあり昨今の日本は見習うべきところでもあろうが、生産性は低い。爆発的な経済発展にはつながらない。

一方、カルヴァンの予定説を演繹すると、「働け働け、それが神の意思に沿って生きることだ」となるため、この道徳律は結果として、人類の中に眠っている莫大な生産性を引き出した。ドイツ、イギリスなどのプロテスタントの国々が「勤勉に働く国民性」というイメージがあるのは、そのためだ。その宗教的観念が、現代的な資本主義の精神的な礎となった・・・というのがマックス・ヴェーバーの説だ。

実際には、『プロ倫』の理屈は現実を反映していないところもあり、批判は数多い。またプロテスタントの中でもカルヴァン主義はきわめて少数派であり、影響力という点でも疑わしいところがある。しかし、そういう難点を差っ引いても、『プロ倫』の問題意識の持ち方と、思考の方向を裏返す発想のユニークさは、充分に面白い。「宗教」と「経済」という、まったく関係なさそうなふたつの現象を結びつける発想は、現代的な観点から見ても感心する。


翻って昨今、EUによってヨーロッパの経済は統合に向かっている。域内の関税は撤廃され、ヒト、モノ、サービスの流動性が高まり、経済が一国単位では成り立たなくなっている。
そこまでは常識の範疇だろうが、このEU統合の流れは、これまで分断されていたカトリック、プロテスタントという両宗派の統合をもたらす、ということに注目していない人は多い。

もし『プロ倫』の考え方が正しいとすると、宗教のあり方は経済のあり方に影響する。そこに経済のほうを統合してしまうと、根っこになっている宗教が、対立要素を残したまま統合の必要性に直面する。現在のEUは、その経済的な効果のほうが喧伝されているが、その根っこになっている宗教観や道徳律まで、統合に向かっているのだろうか。


表3-1は、EUの加盟国であるドイツ、フランス、スペインについて、2011年時点でのEU域内相手とEU域外相手に分けた貿易額、および、各国のEU域内相手とEU域外相手を含めた輸出上位品目を示している。なお、貿易収支はそれぞれの輸出と輸入の差額である。

(1)スペインとフランスはいずれも貿易収支が赤字であるが、フランスでは、その赤字の多くがEU域内との貿易で生じている。フランスの貿易で、EU域内との貿易赤字が最も大きいのは機械類や輸送用機器であるが、これらもEU域外との貿易収支は黒字となっている。こうした現象が起こる理由として考えられることを、2行以内で述べなさい。

(2)スペインには、世界的に知られている自動車のブランドが見られないのに、自動車が輸出第1位となっている。その理由を、スペイン国内外の状況にふれながら、3行以内で述べなさい。


euro




東京大学2014年、地理の問題。
表に出ている国のうち、設問対象になっているフランス、スペインと比較の対象として挙げられているのが、プロテスタントのドイツ。明らかに、『プロ倫』で説かれている経済格差を下敷きにした設問だ。

問題そのものは難しくない。問(1)では親切すぎるヒントが与えられているし、問(2)もスペインの雇用状況や移民問題などを知っていれば演繹的に解ける。 ともに、「知らなくても、考えれば分かる問題」だ。

問(1)では、わざわざ問題文に「フランスの貿易で、EU域内との貿易赤字が最も大きいのは機械類や輸送用機器であるが」と書いてある。ヒントとして、わざとらしい。
フランスで機械類や輸送用機器、とあれば、フランスが誇る輸送用旅客機の巨大メーカー、エアバス社を想起するのは簡単だ。アメリカのボーイング社とともに世界の旅客機のシェアを二分している。エアバスの本社は、フランスのトゥールーズにある。

エアバス社は、フランスだけでなく、ドイツ、イギリス、スペインのメーカーで共同出資する国際企業だ。EUの4カ国が集まったのは、そうしないと莫大な資金力を誇るアメリカのボーイング社に対抗できないからだ。もともとエアバス社は、経済規模からしてボーイング社には到底及ばず、そのまま戦えば生産競争に負けるのは目に見えていた。そこで各国のメーカーがそれぞれの飛行機部品を開発し、それをフランスに持ち込み、組み立てるという分業体制で生産を行なっている。域内関税が撤廃されたEUだから可能なやり方だ。

つまり、フランスが輸入している機械類というのは、「各国で作った飛行機部品をエアバス本社に持ち込んでいる」ということだ。別にフランス国民が消費するための機械類ではない。それをフランス国内で組み立て、EU域外の国々に売る。日本の航空会社もエアバス社の飛行機を買っている。

解答(1)
飛行機部品の組立て工場がEU加盟国に分散し、分業で生産した機械部品を輸入しており、完成品の旅客機をEU域外に多く輸出しているため。



問(2)を見て、「はて?」と首をひねった受験生も多いのではないだろうか。多くの受験生は、まずスペインが自動車輸出のトップランクに位置することを知らなかったのではないか。ヨーロッパの自動車メーカーといえば、ドイツのベンツ、BMW、アウディ、フォルクスワーゲン、イギリスのロールスロイス、ベントレー、ランドローバー、フランスのルノー、シトロエン、プジョー、イタリアのフィアット、フェラーリ、ランボルギーニ、アルファロメオなどが思い浮かぶが、スペインの自動車メーカーと言われても「知らんなぁ」という人がほとんどではないか。

有名なメーカーがない、ということは、スペインのメーカーが作っているのではなく、国外の企業の受注で作っている、ということだ。問題文にもご丁寧に「スペイン国内のメーカーのことを考える必要はありませんよ」という趣旨のヒントが書いてある。
スペインという国は、『プロ倫』でマックス・ヴェーバーが予測した通り、EU内では「Bランク」に相当する経済国だ。ドイツ、イギリスなどの「Aランク」国よりも、経済格差がついている。

つまり、「Aランク国」からしてみれば、Bランクのスペインは、人件費が安い。スペインは地域的に対岸のアフリカに近く、安い労働力となる移民が多い国でもある。
自国よりも安い人件費で安価に組み立て作業ができ、かつ関税がかからないのであれば、組立て工場はスペインに作ったほうが安い。EU域内だけでなく、アメリカや日本の自動車メーカーもスペインに工場を作り、そこで生産した製品を関税なしでEU域内で売りさばいている。

解答(2)
スペインでは賃金水準が低く人件費が安いため、諸外国が自動車メーカーが進出し生産工場を作り、EU枠内に無関税で売っている。他に特筆すべき産業が少ないため、結果として自動車メーカーが輸出額上位になる。


状況は、今の中国と似たようなものだろう。中国が経済大国となったことは疑いないことだろうが、では中国で有名なブランドは何があるか、と言われると返答に窮する。中国は別に自国でブランドを立ち上げて自国製品を売っているわけではない。安価な労働力に目をつけた先進各国に工場を作られ、他国の製品を作らされているだけだ。

「形を変えた植民地化」だと思う。帝国主義時代の植民地は、産業革命を達成した国による現材料調達と売り込み市場の必要性と、産業革命以前の国による軍事的な膨張政策の、いずれかが背景にあった。現在では、経済格差から人件費に格差が生じ、他国製品を作らされる工場の立地となる。「グローバリズム」と言えば聞こえは良いが、「関税を撤廃して売りさばきやすくする」「現地国の産業育成を阻害して、自国製品を流通させる」という点では共通だ。

この時代の流れに、元祖・植民地大国のイギリスが離脱したのは、面白いというか、皮肉に見える。自国の地理的ハンデを植民地政策で補い、大国にのし上がったイギリスが、こういう方法を取れない「EU離脱」に舵を切った。実際のところ、イギリスがEUを離脱した国民感情の大部分は「充実した社会保証に群がる移民に対する嫌悪感」であって、こうした経済的なメリットを勘案して判断した国民はそれほど多くなかろうが、国民投票前にもこういう経済面でのデメリットは主張されていた。

こういうEU域内の「格差」は、EU拡大に従って循環的に派生するものだろう。例えば2004年の第五次拡大で、東欧諸国が大挙してEUに加盟した。その中には、自動車産業の大国チェコが含まれている。安価な労働力だけでなく、蓄積した技術力と販売網、安価な製品価格によって競争力を増し、旧西側諸国に市場を拡大している。自動車メーカーも、スペインよりも安価な人件費で済む東欧諸国は、企業進出先の候補として魅力的だろう。もし各国メーカーがスペインを切って東欧に拠点を移した場合、はしごを外されたスペインに残る産業はなにもない。

こうした歪みは、マックス・ヴェーバーの時代とはまた違った形での経済格差を生み出すことになるだろう。プロテスタントとカトリックという違いでの経済格差は、EUの統合によって均一に均されているかと思いきや、それとはまた違う軸で経済格差が生じている。人件費の高低というのは、経済学上では何の疑いもなく使われているが、冷静に考えてみれば「人の価値に値段をつけている」ということだ。EUのように、制度上、機械的に統合をすれば、その中の状況までが均一になるわけではない。スペインの場合、「関税の撤廃」という一見平等に見える制度が、却って域内格差を広げる原因になっている。

今のヨーロッパは、今や新しい『新・プロ倫』で捉え直すべき局面にさしかかっているのだと思う。地理的に遠いので生活実感としては薄いが、数字だけを見ても、今のヨーロッパは「統合」「グローバル化」の大合唱のもと、こうした「大企業にとって都合の良い不均衡」がひそかに蓄積してはいないか。ヴェーバーが「信仰」と「蓄財」の関係をひっくり返したように、現在のEUでも「統合」と「経済」の関係が逆転するような何かが出てくるような気がする。



これを2014年の時点で出題する先見性。
ペンギン命
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