春休みになったので本屋をぶらついて平積みになっている本のなかから、ちょっと面白そうな本を買ってみた。
題名だけで内容の要旨が分かる。世界の名著100冊の内容を端的に説明し、それを現代社会の問題を考察するための武器として使うにはどう考えればよいか、という指針をまとめたものだ。
もちろん、煩いことを言えば批判などいくらでもできる。例えばジャンル分けにしても、厳密な学問領域の区分とはかなり異なる。たとえば「政治・経済・社会学」も「数学・エンジニアリング」も「歴史」も、どれも本当は「サイエンス」の一分野なのだが、この本ではそういう区分には沿っていない。この本が章として採用している「サイエンス」という括りは、一般読者の漠然としたイメージの「なんか理系っぽい分野」程度の雑な意味で使われている。
また、現在ではその価値に賛否両論ある危険な作品もとり上げられている。たとえば『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)が「環境汚染を世界で初めて告発した『環境問題のバイブル』」として紹介されているが、現在の環境科学の検証では『沈黙の春』で引用されている例は勇み足が多く、事実認識の歪みが多数紛れていることが明らかになっている。現在の環境保護団体もこの本を大々的に喧伝するようなことはしていない。
『沈黙の春』はそういう欠点のある問題作ではあるが、紹介の名目となっている「環境汚染を世界で初めて告発した」という部分は間違いではない。当時、環境汚染という認識がまったく無かった時代にその危険性を啓発したという役割を果たしたのは本当だ。ただしその内容に誤謬があったために現在では無批判にとり上げるわけにはいかない、というやっかいな本だ。『沈黙の春』だけでなく、まぁ言ってみればどの本でも賛否両論は必ずあるものだ。毛沢東の『抗日遊撃戦争論』など現代の道義的な観点からみれば危険書以外の何物でもないが、この本を読まずして現在の中国共産党の基本理念は理解できない。そういう本でも、知らないよりは知っていたほうがいい。
僕がこの本を読んで最も強く感じたのは、「あぁ、ビジネス書ってこういう感じなんだなぁ」ということだ。
僕は普段、学術書や論文ばかり読んでいるので、自己啓発やらマーケティング論やらいわゆる「役に立つ」本をあまり読まない。この本は、徹頭徹尾ビジネスマンにとって「役に立つ」ように書かれている。
この本は「教養書」と銘打ってはいるが、その内容と編集の仕方は「教養」とは正反対だ。そもそも題名からして「世界のエリートが学んでいる…」。この部分だけを見ても「教養」とはかけ離れた姿勢と断じて良い。しかし、だから悪いと言っているのではなく、「ビジネスの世界と『教養』というものを折り合わせるのは、一般にうまく訴求する形でまとめるのは難しい」ということだと思う。そこには、「教養」というものに対する世間一般の大きな誤解があるような気がする。そして、その難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題だろう。
「教養」とは何だろうか。
世間一般によく使われる言葉であり、漠然とひとの知力を示すバロメーターとしてイメージされている概念だろう。だが、その本当の意味を理解している人はそれほど多くないような気がする。
たとえば、大学で身につける能力は「教養」だろうか。
世の中の知見を広く身に付けよう、世の中に出て役に立つ知識を身につけようとして意気揚々と大学に入学してみても、実際に専門のゼミで行うのは退屈な論文を延々と読まされる原典講読だったり、何の役に立つかも分からないような基礎実験だったり。それらのどこが「教養」なのだろうか。
こういう「いままで自分が持っていた『教養』のイメージ」と「大学で実際に行われる知的活動」のギャップに苦しみ、「大学教育なんて何の役にも立たない」と判断して授業に出てこなくなる学生は多い。なかには大学教育に一切の価値を見いだせなくなり、中退する学生もいる。
教養は一般的に「頭の中に蓄積されている知識量」というイメージで認識されていることが多いだろう。教養のある人というのは、いろいろなことをいっぱい知っている人。物知りな人。「歩く辞典」のような人。クイズや問題にたちどころに正解できる人。
この本でもそのような「教養」観が強く前提となっている。本の一番最初の「はじめに」の箇所でも、「脳内にある知識が教養なのだ」と断言している。
実際には、この本ではさらにそこから一歩進んで、教養を「単なる知識」に留まらず、「実際の問題を解決する武器として使えるかどうか」まで意識している。単なる「あらすじを覚えましょうね」的な紹介文ではなく、現代のビジネス界で生じているさまざまな困難に立ち向かうために、100冊の知見をどのように適用し応用するか。そういう知力の「使い方」まで指南してある。『マッキンダーの地政学』をウクライナ侵攻に絡めて「大国の思惑を読み解いて、したたかにビジネスの先手を打て」という指針につなげる。ヒュームの『人性論』で説かれている経験論における因果律から「帰納法の限界がわかれば『AIの限界』も理解できる」と謳う。
僕がこの本を「ビジネス書ってこういう感じなんだなぁ」と感じたのは、ここの部分だ。
僕は寡聞にしてビジネスの世界の現状を知らないが、漠然と「成果を出せない努力は無意味」という価値観が席巻する世界なのだろう、という見当はつく。だから世界の名著100冊の内容を覚えているだけでは不十分で、「それを今のビジネス社会にどうやって活かせるのか」まで伸ばせなくては意味がない。知識は使ってなんぼ。古い革袋に新しい酒を入れるが如く、古今東西の名著を今この現代の問題を解くための知見として使えるようになってようやく「教養」。そんな「教養」観が見える。
情報の丸暗記を「教養」と勘違いしている軽薄な暗記主義よりは、実践に則した姿勢だろう。筆者は研究畑の人間ではなく、IBMの戦略マーケティングマネージャー、人材育成責任者などを歴任した、バリバリのビジネスマンだ。日々実務に携わっている身でありながら古今東西の名著を読み解し、内容を理解するのみならずそれを実践として活かす方法まで考える、というだけで相当に「教養」ある生き方だ。この筆者自身が「教養」の深い人物であることは間違いなかろう。
しかし、どうして著書で読者に訴求する「教養」は、それとは全く違ったものになってしまっているのだろうか。
僕の考え方だが、「教養」というのは、「自分の中にある静的な知的蓄積物」ではなく、「自分の外にある未知の世界に対する姿勢」のことだと思う。「既存のものを理解する」のが教養なのではなく、「新しいものを創造する礎になるもの」が教養だろう。
百科事典を全冊暗記したところで、そんなものは「教養」とは言わない。それは単なる「脳内の情報処理」であって、覚えること自体を目的とした行為からは何も新しいものは出てこない。そういう「歩く辞典」から、世の中を動かす新たなイノベーションは生まれてこない。
暗記すること、情報を覚えること、というのは「手段」であって「目的」ではないのだ。新たなものを創造しようとするとき、無からは絶対に何も生まれない。先人の努力を知り、先例を知り、そこから法則を仮定し現実に適用することで、新たな「知」は創造される。
教養ある態度というのは、未知のものに対する畏敬の念をもち、新たな世界を知ることを厭わない知的な姿勢のことだと思う。「それ知らないから興味ない」ではなく、「それ知らないから面白そう」という態度だ。自分の知らない世界を拒絶せず、自らを閉じてしまわず、未知のものを取込んで自分の生き方に変える能力のことだ。端的に「知的好奇心」と言っても良い。
一般的に「教養」というのは、「1の知識を10000まで伸ばすこと」というイメージで捉えられていると思う。しかし実際の「教養」とは、「0を1にする力」のことではあるまいか。
では、そういう能力はどうやったら身に付くのか。ビジネスの世界で、いままで誰も作り得なかった新たな価値を生み出すために求められる力は何なのか。
そういう「未知への挑戦」というと、やたらと「創造的活動」「イノベーション」「革新的な発想」のようなイメージに取り憑かれて、それまで自分の中になかった「新たな何か」にすがろうとする人が多い。しかし実際のところ、そういう発想力、目的到達能力、創造性といった能力は、過去の事例を丁寧に辿り、人間の知の総和から学んでいくしか方法がない。その点では、この本は王道を辿っていると言える。
しかし、この本で紹介されている100冊の本の内容を理解し、さらにその内容を現在のビジネスに活かす方策を「覚えた」ところで、それは本当の「教養」なのだろうか。それは百科事典を全冊暗記する行為と何が違うのだろうか。
どんなに本書の内容を理解したところで、その応用のしかたを知ったところで、それは所詮、著者の仕事の枠内から出たことにはならない。教養というのは「既存の知識の敷衍」ではなく、「それを基として枠の『外』に出ること」だ。創造的に本書を利用し自分の創造的知的活動につなげられない限り、教養など皆無な姿勢と断じて良い。
さきほど「難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題」と書いたのは、そういう意味だ。この本そのものの欠点なのではなく、これを読む読者の側は、それをちゃんと弁えて読めるのだろうか。
そして気になるのは、筆者自身が教養を「既存の知識を敷衍すること」という段階の認識に留まっているような気がすることだ。もちろん筆者もこの本を読んだだけでは理解に不十分であるということは十分に認識している。「はじめに」の中で「もしかしたら本書を読んで『原著が完璧に分かった』と思うかもしれない。残念だが、それは幻想だ」と警告している。この本はあくまでも「紹介本」であって、この本をガイドに原著にあたるのが正しい読書の仕方だろう。とかくビジネスマンは御用とお急ぎの方が多く、「細かいことはいいから簡単に内容だけ教えてくれ」のような軽薄な知的態度の人が多いのだろう。そういう態度を戒めることを忘れてはいない。
しかし、本書であらすじを知った後、原著を読んで自分で理解しようとする姿勢まで達すればそれが「教養」かというと、それでも足りない。そういう姿勢は、いってみれば学校で出してもらった宿題を家でやっているのと大差ない。「何を読むべきか」が他人から与えられており、自分の判断で「これは読む価値がある」と判断したわけではない。それまで自分の知らなかった世界を自分の中に取込む、という一番最初の段階を、本書に頼ってしまっている。
この本を読んで身につけるべき本当の「教養」は、「100冊の内容と使い方を覚えること」ではない。「100冊の原著に挑戦すること」でもない。
「自分の力で101冊めを見つけること」ではあるまいか。
新しい創造の際に必要な能力のひとつに、価値判断がある。「これは挑戦するに値する」「これは新たな価値を生む」という、自分の挑戦することに対する価値の見分けが必要となる。端的に言うと、自分が全く知らなかったことに対して「これ、おもしろそうだぞ」という嗅覚だ。この能力がないと、つまらない瑣末なことに莫大な労力とかける無駄を生み出すことになる。
教養のある人は、「多くの人が名著として絶賛する本をすべて網羅している人」ではない。「誰もが見向きもしないものに『これ、おもしろいんじゃないか?』と価値を見いだせる人」だ。「すでに知っている世界、馴染みのある世界で、既存の価値観の枠内で甘んじて生きる人」ではない。「知らない世界・未知の世界の魅力、まだ存在しない価値に最初に気付ける人」が本当の「教養のある人」ではないか。
グラミー賞ヴァイオリニストのジョシュア・ベルの演奏会にチケットを買って聞きに行く人と、彼がストラディバリウスの名器を携えワシントン中心部の駅構内で路上ライブをやった時に誰もが目もくれず通り過ぎる中ただひとり足をとめてじっと聞き入った少年と、どちらが「教養」があるだろうか。
イギリスの無名のシングルマザーが書いた童話の翻訳出版の持ち込みを冷淡に断った大手出版社と、その価値を見いだし『ハリー・ポッター』シリーズの全版権を独占して買い取った静山社と、どちらのほうが「教養」があるだろうか。
そういう「教養」、なかんずく「未知の価値に気付ける能力」は、どうやって身に付くのだろうか。
未知の世界は広大だ。分野によってもアプローチの仕方が異なる。無限の世界が広がっている。そういう世界を相手にするときに、「こたえ」を求めるような姿勢では太刀打ちできない。未知の世界では、問題は同じでも答えのほうが日々変わる。静的で確立した「正解」を覚えていても意味がないのだ。だから「既存の知識に頼らず、その時その場で必要な『知』を自ら編み出していく能力」が必要となる。教養とは、「有限の情報の静的な蓄積」ではなく、「無から『知』を生み出す動的な態度」なのだ。
そういう動的な能力を身につけるためには、欲張ってはいけない。ひとつの分野だけでもいい。ひとつのテーマだけでもいい。誰にも頼らず、自分だけの力で、ともかくも一定に見解に至る経験を踏むことが必要だ。
登山に例えると、100名山の特徴と景観を全部暗記したところで、登山の能力などなにひとつ身に付かない。近所の裏山ひとつ登れるようにはならない。どんな山にもどんな状況でも頂上を極められる「万能の登山能力」を身につけるためには、まずひとつの山をちゃんと定め、自力で頂上まで登り切る経験から入らなくてはならない。ひとつの山にもいろいろと登山のルートがあるが、ここでも欲張ってはいけない。ひとつのルートだけに特化してよい。そのルートを選択する段階からすでに勝負は始まっている。
そうやって、細いルートを辿って、ともかくも自力で頂上まで達する経験を積むと、山に取り組むアプローチの仕方が分かってくる。10の山に自力で登れば、11個めの山にも自力で登れるようになる。いつまでもガイドブック頼り、ネットの情報頼り、情報の暗記ばかりに拘泥していると、いつまでも未知の山を克服する能力は身に付かない。
それを「教養」という知的活動に置き換えると、どういう努力が必要なのかは明らかだ。
漠然と「教養」という広い知的世界を想像するから努力の仕方が分からない。まずひとつの山を目標として定めるべきなのだ。火星の運行現象でもいい。古代バビロニアの政治形態でもいい。絶滅言語の修復でもいい。有毒物質を中和する物質の開発でもいい。なにかひとつ絞ったテーマを定め、過去の研究事例をじっくりと辿り、それに自分の発想を上乗せしていくしかない。
だから大学では、まず基礎文献をみっちりと読み込むことが必要なのだ。基礎実験を繰り返してデータを丹念に積み上げていかなければならないのだ。ひとつの分野の、ひとつのテーマについて、細い道を地道に、自らの力で一歩一歩進んでいかなければならない。
そうして長い年月をかけ、小さくてもいいからひとつの山の頂上に自力で辿り着いた人は、「未知の山への挑み方」を会得できる。違う山であっても、その山の特徴を調べ、過去の経験から必要なところは再利用し、未知の部分は新たに創造し、頂上に挑むことができるようになる。
こうした大学の基礎演習を「退屈だ」「何の役に立つんだ」と切り捨てる人が多い。そういう人たちは、そこで学んでいる「内容」自体にしか興味がない。その地道な演習の積み重ねによって身につけられる能力にまで思いが至らない。登山に例えると、「こんなルートを地道に登ったところで、こんな道はこれからの人生で二度と登ることはないんだから、歩くだけ無駄だ」という態度だ。決して未開の世界を切り拓く能力など身に付かないだろう。
そういう動的・創造的な「教養」にフォーカスを当てず、既存の知識の敷衍とその応用だけに留まっている点は、筆者の落ち度ではないと思う。なにせこれだけの知的領域を克服した筆者だ。実際のところ、本当の教養とはどういうものかを十分に分かった上で、(本当の語義は違うが)確信犯的に敢えてこのような編集形態の本にしたのではないか、と個人的には疑っている。
だから時間がなく忙しいビジネスマンには、このような「100冊全部分かりますよ!」「知識の使い方まで載っていますよ!」という、安直な「こたえ」が書いてある本のほうが重宝される。「こたえ」が与えられるのだから、自分の力で解答に達しようとする本当の「教養」とは正反対だ。僕が「この本は『教養書』と銘打ってはいるが、その内容と編集の仕方は『教養』とは正反対だ」と書いたのは、そういう事情に拠る。
本は、書けばいいというものではない。売れなければ意味がない。この本の筆者は相当なキャリアを積んだビジネスマンだから、その辺の事情はよく分かっているのだろう。馬鹿正直に「教養とは何ぞや」という正論を大上段に構えたところで、誰も見向きもしない。世の中は、「正しいこと」が「良いこと」とは限らないのだ。「正しいが売れない本」と「間違っているが売れる本」とでは、後者のほうがビジネスの世界では絶対正義だ。ましてやこの本は学術書ではなくビジネス書だ。売れないビジネス書など、矛盾以外の何物でもない。だからこの本は根本的に難点を抱えているが、「難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題」なのだろう。
ビジネスの常套手段として、この本でもあちこちに「権威による箔付け」が利用されている。例えばレイチェル・カーソンが「1999年、『TIME』誌の『20世紀の最も重要な人物100人』では、その一人に選ばれている」という箔付けが紹介されている。
しかし本当の「教養」ある態度というのは、TIME誌ごときの権威を盲信せず、「だから何だ?」「『TIME』誌の『20世紀の最も重要な人物100人』って、本当に妥当なの?」「選者は誰なの?」「目的ありきで偏向していない?」と疑いの眼をもち、自分の考えで価値を判断できる人のことだろう。
『世界のエリートが学んでいる教養書 必読100冊を1冊にまとめてみた』
(永井孝尚 (2023), KADOKAWA)
(永井孝尚 (2023), KADOKAWA)
題名だけで内容の要旨が分かる。世界の名著100冊の内容を端的に説明し、それを現代社会の問題を考察するための武器として使うにはどう考えればよいか、という指針をまとめたものだ。
大著であり、労作であることは間違いない。古今東西の名著を100冊も読破するだけで大変な労力だろう。紹介する本のジャンルも「西洋哲学」「政治・経済・社会学」「東洋思想」「歴史・アート・文学」「サイエンス」「数学・エンジニアリング」と多岐に渡る。これだけ異なる読み方を要求されるジャンルの本を幅広くカバーするだけでも大変だろう。
100冊の本の選択もまぁまぁ知見に富んだチョイスとなっており、納得できる選択だ。現代書だけに留まらず、古典の名作も多く選択しており、なかなか僕の趣味に合う。僕はここで紹介されている100冊すべてを読んだことがあるわけではないが、自分の専門に絡む本も紹介されており、わりと本気で原著を読み通した本も多く紹介されている。この本で紹介されている内容理解の精度はなかなか高く、まずもって「よくこんなに多くの本を理解し通したな」という印象が強い。結構な本を出したものだ。
もちろん、煩いことを言えば批判などいくらでもできる。例えばジャンル分けにしても、厳密な学問領域の区分とはかなり異なる。たとえば「政治・経済・社会学」も「数学・エンジニアリング」も「歴史」も、どれも本当は「サイエンス」の一分野なのだが、この本ではそういう区分には沿っていない。この本が章として採用している「サイエンス」という括りは、一般読者の漠然としたイメージの「なんか理系っぽい分野」程度の雑な意味で使われている。
また、現在ではその価値に賛否両論ある危険な作品もとり上げられている。たとえば『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)が「環境汚染を世界で初めて告発した『環境問題のバイブル』」として紹介されているが、現在の環境科学の検証では『沈黙の春』で引用されている例は勇み足が多く、事実認識の歪みが多数紛れていることが明らかになっている。現在の環境保護団体もこの本を大々的に喧伝するようなことはしていない。
『沈黙の春』はそういう欠点のある問題作ではあるが、紹介の名目となっている「環境汚染を世界で初めて告発した」という部分は間違いではない。当時、環境汚染という認識がまったく無かった時代にその危険性を啓発したという役割を果たしたのは本当だ。ただしその内容に誤謬があったために現在では無批判にとり上げるわけにはいかない、というやっかいな本だ。『沈黙の春』だけでなく、まぁ言ってみればどの本でも賛否両論は必ずあるものだ。毛沢東の『抗日遊撃戦争論』など現代の道義的な観点からみれば危険書以外の何物でもないが、この本を読まずして現在の中国共産党の基本理念は理解できない。そういう本でも、知らないよりは知っていたほうがいい。
僕がこの本を読んで最も強く感じたのは、「あぁ、ビジネス書ってこういう感じなんだなぁ」ということだ。
僕は普段、学術書や論文ばかり読んでいるので、自己啓発やらマーケティング論やらいわゆる「役に立つ」本をあまり読まない。この本は、徹頭徹尾ビジネスマンにとって「役に立つ」ように書かれている。
この本は「教養書」と銘打ってはいるが、その内容と編集の仕方は「教養」とは正反対だ。そもそも題名からして「世界のエリートが学んでいる…」。この部分だけを見ても「教養」とはかけ離れた姿勢と断じて良い。しかし、だから悪いと言っているのではなく、「ビジネスの世界と『教養』というものを折り合わせるのは、一般にうまく訴求する形でまとめるのは難しい」ということだと思う。そこには、「教養」というものに対する世間一般の大きな誤解があるような気がする。そして、その難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題だろう。
「教養」とは何だろうか。
世間一般によく使われる言葉であり、漠然とひとの知力を示すバロメーターとしてイメージされている概念だろう。だが、その本当の意味を理解している人はそれほど多くないような気がする。
たとえば、大学で身につける能力は「教養」だろうか。
世の中の知見を広く身に付けよう、世の中に出て役に立つ知識を身につけようとして意気揚々と大学に入学してみても、実際に専門のゼミで行うのは退屈な論文を延々と読まされる原典講読だったり、何の役に立つかも分からないような基礎実験だったり。それらのどこが「教養」なのだろうか。
こういう「いままで自分が持っていた『教養』のイメージ」と「大学で実際に行われる知的活動」のギャップに苦しみ、「大学教育なんて何の役にも立たない」と判断して授業に出てこなくなる学生は多い。なかには大学教育に一切の価値を見いだせなくなり、中退する学生もいる。
教養は一般的に「頭の中に蓄積されている知識量」というイメージで認識されていることが多いだろう。教養のある人というのは、いろいろなことをいっぱい知っている人。物知りな人。「歩く辞典」のような人。クイズや問題にたちどころに正解できる人。
この本でもそのような「教養」観が強く前提となっている。本の一番最初の「はじめに」の箇所でも、「脳内にある知識が教養なのだ」と断言している。
実際には、この本ではさらにそこから一歩進んで、教養を「単なる知識」に留まらず、「実際の問題を解決する武器として使えるかどうか」まで意識している。単なる「あらすじを覚えましょうね」的な紹介文ではなく、現代のビジネス界で生じているさまざまな困難に立ち向かうために、100冊の知見をどのように適用し応用するか。そういう知力の「使い方」まで指南してある。『マッキンダーの地政学』をウクライナ侵攻に絡めて「大国の思惑を読み解いて、したたかにビジネスの先手を打て」という指針につなげる。ヒュームの『人性論』で説かれている経験論における因果律から「帰納法の限界がわかれば『AIの限界』も理解できる」と謳う。
僕がこの本を「ビジネス書ってこういう感じなんだなぁ」と感じたのは、ここの部分だ。
僕は寡聞にしてビジネスの世界の現状を知らないが、漠然と「成果を出せない努力は無意味」という価値観が席巻する世界なのだろう、という見当はつく。だから世界の名著100冊の内容を覚えているだけでは不十分で、「それを今のビジネス社会にどうやって活かせるのか」まで伸ばせなくては意味がない。知識は使ってなんぼ。古い革袋に新しい酒を入れるが如く、古今東西の名著を今この現代の問題を解くための知見として使えるようになってようやく「教養」。そんな「教養」観が見える。
情報の丸暗記を「教養」と勘違いしている軽薄な暗記主義よりは、実践に則した姿勢だろう。筆者は研究畑の人間ではなく、IBMの戦略マーケティングマネージャー、人材育成責任者などを歴任した、バリバリのビジネスマンだ。日々実務に携わっている身でありながら古今東西の名著を読み解し、内容を理解するのみならずそれを実践として活かす方法まで考える、というだけで相当に「教養」ある生き方だ。この筆者自身が「教養」の深い人物であることは間違いなかろう。
しかし、どうして著書で読者に訴求する「教養」は、それとは全く違ったものになってしまっているのだろうか。
僕の考え方だが、「教養」というのは、「自分の中にある静的な知的蓄積物」ではなく、「自分の外にある未知の世界に対する姿勢」のことだと思う。「既存のものを理解する」のが教養なのではなく、「新しいものを創造する礎になるもの」が教養だろう。
百科事典を全冊暗記したところで、そんなものは「教養」とは言わない。それは単なる「脳内の情報処理」であって、覚えること自体を目的とした行為からは何も新しいものは出てこない。そういう「歩く辞典」から、世の中を動かす新たなイノベーションは生まれてこない。
暗記すること、情報を覚えること、というのは「手段」であって「目的」ではないのだ。新たなものを創造しようとするとき、無からは絶対に何も生まれない。先人の努力を知り、先例を知り、そこから法則を仮定し現実に適用することで、新たな「知」は創造される。
教養ある態度というのは、未知のものに対する畏敬の念をもち、新たな世界を知ることを厭わない知的な姿勢のことだと思う。「それ知らないから興味ない」ではなく、「それ知らないから面白そう」という態度だ。自分の知らない世界を拒絶せず、自らを閉じてしまわず、未知のものを取込んで自分の生き方に変える能力のことだ。端的に「知的好奇心」と言っても良い。
一般的に「教養」というのは、「1の知識を10000まで伸ばすこと」というイメージで捉えられていると思う。しかし実際の「教養」とは、「0を1にする力」のことではあるまいか。
では、そういう能力はどうやったら身に付くのか。ビジネスの世界で、いままで誰も作り得なかった新たな価値を生み出すために求められる力は何なのか。
そういう「未知への挑戦」というと、やたらと「創造的活動」「イノベーション」「革新的な発想」のようなイメージに取り憑かれて、それまで自分の中になかった「新たな何か」にすがろうとする人が多い。しかし実際のところ、そういう発想力、目的到達能力、創造性といった能力は、過去の事例を丁寧に辿り、人間の知の総和から学んでいくしか方法がない。その点では、この本は王道を辿っていると言える。
しかし、この本で紹介されている100冊の本の内容を理解し、さらにその内容を現在のビジネスに活かす方策を「覚えた」ところで、それは本当の「教養」なのだろうか。それは百科事典を全冊暗記する行為と何が違うのだろうか。
どんなに本書の内容を理解したところで、その応用のしかたを知ったところで、それは所詮、著者の仕事の枠内から出たことにはならない。教養というのは「既存の知識の敷衍」ではなく、「それを基として枠の『外』に出ること」だ。創造的に本書を利用し自分の創造的知的活動につなげられない限り、教養など皆無な姿勢と断じて良い。
さきほど「難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題」と書いたのは、そういう意味だ。この本そのものの欠点なのではなく、これを読む読者の側は、それをちゃんと弁えて読めるのだろうか。
そして気になるのは、筆者自身が教養を「既存の知識を敷衍すること」という段階の認識に留まっているような気がすることだ。もちろん筆者もこの本を読んだだけでは理解に不十分であるということは十分に認識している。「はじめに」の中で「もしかしたら本書を読んで『原著が完璧に分かった』と思うかもしれない。残念だが、それは幻想だ」と警告している。この本はあくまでも「紹介本」であって、この本をガイドに原著にあたるのが正しい読書の仕方だろう。とかくビジネスマンは御用とお急ぎの方が多く、「細かいことはいいから簡単に内容だけ教えてくれ」のような軽薄な知的態度の人が多いのだろう。そういう態度を戒めることを忘れてはいない。
しかし、本書であらすじを知った後、原著を読んで自分で理解しようとする姿勢まで達すればそれが「教養」かというと、それでも足りない。そういう姿勢は、いってみれば学校で出してもらった宿題を家でやっているのと大差ない。「何を読むべきか」が他人から与えられており、自分の判断で「これは読む価値がある」と判断したわけではない。それまで自分の知らなかった世界を自分の中に取込む、という一番最初の段階を、本書に頼ってしまっている。
この本を読んで身につけるべき本当の「教養」は、「100冊の内容と使い方を覚えること」ではない。「100冊の原著に挑戦すること」でもない。
「自分の力で101冊めを見つけること」ではあるまいか。
新しい創造の際に必要な能力のひとつに、価値判断がある。「これは挑戦するに値する」「これは新たな価値を生む」という、自分の挑戦することに対する価値の見分けが必要となる。端的に言うと、自分が全く知らなかったことに対して「これ、おもしろそうだぞ」という嗅覚だ。この能力がないと、つまらない瑣末なことに莫大な労力とかける無駄を生み出すことになる。
教養のある人は、「多くの人が名著として絶賛する本をすべて網羅している人」ではない。「誰もが見向きもしないものに『これ、おもしろいんじゃないか?』と価値を見いだせる人」だ。「すでに知っている世界、馴染みのある世界で、既存の価値観の枠内で甘んじて生きる人」ではない。「知らない世界・未知の世界の魅力、まだ存在しない価値に最初に気付ける人」が本当の「教養のある人」ではないか。
グラミー賞ヴァイオリニストのジョシュア・ベルの演奏会にチケットを買って聞きに行く人と、彼がストラディバリウスの名器を携えワシントン中心部の駅構内で路上ライブをやった時に誰もが目もくれず通り過ぎる中ただひとり足をとめてじっと聞き入った少年と、どちらが「教養」があるだろうか。
イギリスの無名のシングルマザーが書いた童話の翻訳出版の持ち込みを冷淡に断った大手出版社と、その価値を見いだし『ハリー・ポッター』シリーズの全版権を独占して買い取った静山社と、どちらのほうが「教養」があるだろうか。
そういう「教養」、なかんずく「未知の価値に気付ける能力」は、どうやって身に付くのだろうか。
未知の世界は広大だ。分野によってもアプローチの仕方が異なる。無限の世界が広がっている。そういう世界を相手にするときに、「こたえ」を求めるような姿勢では太刀打ちできない。未知の世界では、問題は同じでも答えのほうが日々変わる。静的で確立した「正解」を覚えていても意味がないのだ。だから「既存の知識に頼らず、その時その場で必要な『知』を自ら編み出していく能力」が必要となる。教養とは、「有限の情報の静的な蓄積」ではなく、「無から『知』を生み出す動的な態度」なのだ。
そういう動的な能力を身につけるためには、欲張ってはいけない。ひとつの分野だけでもいい。ひとつのテーマだけでもいい。誰にも頼らず、自分だけの力で、ともかくも一定に見解に至る経験を踏むことが必要だ。
登山に例えると、100名山の特徴と景観を全部暗記したところで、登山の能力などなにひとつ身に付かない。近所の裏山ひとつ登れるようにはならない。どんな山にもどんな状況でも頂上を極められる「万能の登山能力」を身につけるためには、まずひとつの山をちゃんと定め、自力で頂上まで登り切る経験から入らなくてはならない。ひとつの山にもいろいろと登山のルートがあるが、ここでも欲張ってはいけない。ひとつのルートだけに特化してよい。そのルートを選択する段階からすでに勝負は始まっている。
そうやって、細いルートを辿って、ともかくも自力で頂上まで達する経験を積むと、山に取り組むアプローチの仕方が分かってくる。10の山に自力で登れば、11個めの山にも自力で登れるようになる。いつまでもガイドブック頼り、ネットの情報頼り、情報の暗記ばかりに拘泥していると、いつまでも未知の山を克服する能力は身に付かない。
それを「教養」という知的活動に置き換えると、どういう努力が必要なのかは明らかだ。
漠然と「教養」という広い知的世界を想像するから努力の仕方が分からない。まずひとつの山を目標として定めるべきなのだ。火星の運行現象でもいい。古代バビロニアの政治形態でもいい。絶滅言語の修復でもいい。有毒物質を中和する物質の開発でもいい。なにかひとつ絞ったテーマを定め、過去の研究事例をじっくりと辿り、それに自分の発想を上乗せしていくしかない。
だから大学では、まず基礎文献をみっちりと読み込むことが必要なのだ。基礎実験を繰り返してデータを丹念に積み上げていかなければならないのだ。ひとつの分野の、ひとつのテーマについて、細い道を地道に、自らの力で一歩一歩進んでいかなければならない。
そうして長い年月をかけ、小さくてもいいからひとつの山の頂上に自力で辿り着いた人は、「未知の山への挑み方」を会得できる。違う山であっても、その山の特徴を調べ、過去の経験から必要なところは再利用し、未知の部分は新たに創造し、頂上に挑むことができるようになる。
こうした大学の基礎演習を「退屈だ」「何の役に立つんだ」と切り捨てる人が多い。そういう人たちは、そこで学んでいる「内容」自体にしか興味がない。その地道な演習の積み重ねによって身につけられる能力にまで思いが至らない。登山に例えると、「こんなルートを地道に登ったところで、こんな道はこれからの人生で二度と登ることはないんだから、歩くだけ無駄だ」という態度だ。決して未開の世界を切り拓く能力など身に付かないだろう。
つまり「教養」というのは、ちっとも華やかではない代物なのだ。少なくとも世の中の多くの人が無邪気に憧れているような煌びやかなものではない。毎日地道に少しずつ、地を這うようなスピードで、ゆっくり着実に一歩ずつ前へ進むような、地味な作業の繰返し。毎日毎日、そういう繰返しを膨大な数だけ積み重ねていく。その果てに「真理」という分厚い岩盤にわずかながら小さな穴を開ける。それが「教養」というものの実態だ。世の中の人は、そういう「教養」を本当に欲しているのだろうか。そういう知的な積み重ねの毎日を、本当に「何かの役に立つ」とでも思っているのだろうか。
この本を読む限り、「与えられた既存の知識体系」「100冊の本の内容と実践への活かし方」を覚えることを「教養」と銘打っているような気がしてならない。しかし、そんなものは単なる「情報の記憶」であって、そこから何か新しいものが生まれてくるとは思えない。
この本を読んで原著をすべて理解した気になるのは論外だ。そんなのは、他人の登山経験談を聞いただけで自分も登った気になってる勘違い野郎と同じだ。しかし、この本で紹介されている100冊の本の原著を読んでみる、というだけの姿勢も五十歩百歩だ。「100名山で紹介されている山を、紹介されている装備で、紹介されているルート通りに辿ってみた」という程度のものでしかない。その人は101個めの山を自力で登頂できるのだろうか。そもそも、挑むべき101個めの山を自分で定めることができるのだろうか。
そういう動的・創造的な「教養」にフォーカスを当てず、既存の知識の敷衍とその応用だけに留まっている点は、筆者の落ち度ではないと思う。なにせこれだけの知的領域を克服した筆者だ。実際のところ、本当の教養とはどういうものかを十分に分かった上で、(本当の語義は違うが)確信犯的に敢えてこのような編集形態の本にしたのではないか、と個人的には疑っている。
本当の「教養」というのは、売れないのだ。本当の教養は「ひとつの分野を、じっくりと腰を据えて細い道を辿る」という地道な積み重ねしか生まれない。そしてそういう地道な努力は、嫌われる。それは、大学の授業を「退屈」「意味がない」「世の中に出ても使えない」と低く見下げている人の多さからも容易に分かる。本にしたところで、ろくに売れないだろう。かように、「ビジネスの世界と『教養』というものを折り合わせるのは、一般にうまく訴求する形でまとめるのは難しい」のだ
だから時間がなく忙しいビジネスマンには、このような「100冊全部分かりますよ!」「知識の使い方まで載っていますよ!」という、安直な「こたえ」が書いてある本のほうが重宝される。「こたえ」が与えられるのだから、自分の力で解答に達しようとする本当の「教養」とは正反対だ。僕が「この本は『教養書』と銘打ってはいるが、その内容と編集の仕方は『教養』とは正反対だ」と書いたのは、そういう事情に拠る。
本は、書けばいいというものではない。売れなければ意味がない。この本の筆者は相当なキャリアを積んだビジネスマンだから、その辺の事情はよく分かっているのだろう。馬鹿正直に「教養とは何ぞや」という正論を大上段に構えたところで、誰も見向きもしない。世の中は、「正しいこと」が「良いこと」とは限らないのだ。「正しいが売れない本」と「間違っているが売れる本」とでは、後者のほうがビジネスの世界では絶対正義だ。ましてやこの本は学術書ではなくビジネス書だ。売れないビジネス書など、矛盾以外の何物でもない。だからこの本は根本的に難点を抱えているが、「難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題」なのだろう。
ビジネスの常套手段として、この本でもあちこちに「権威による箔付け」が利用されている。例えばレイチェル・カーソンが「1999年、『TIME』誌の『20世紀の最も重要な人物100人』では、その一人に選ばれている」という箔付けが紹介されている。
しかし本当の「教養」ある態度というのは、TIME誌ごときの権威を盲信せず、「だから何だ?」「『TIME』誌の『20世紀の最も重要な人物100人』って、本当に妥当なの?」「選者は誰なの?」「目的ありきで偏向していない?」と疑いの眼をもち、自分の考えで価値を判断できる人のことだろう。
役に立てよう立てようとして必死な印象。