たくろふのつぶやき

海行くぞ、海。

Philosophy

俳句についてどう答えるか

次の文章は「啓蟄」という季語について解説したものである。これを読み、後の例句の中から一句を選んで、感じたこと考えたことを、160字以上200字以内で記せ(句読点も一字として数える)。なお、解答用紙の指定欄に、選んだ俳句を記入せよ。
注意:採点に際しては、表記についても考慮する。

二十四節気の一つ。陽暦三月六日ごろで、大陽黄経は三百四十五度。このころになると、めざとい人なら、冬眠からさめた昆虫やヘビ、トカゲ、カエルなどを見つけるが、だれの目にもふれるというわけではない。虫とは限らず、ヒベリのさえずりもこのころから聞こえてくる。虫出しの雷ということばもある。大陸から南下する寒冷気団の先頭にある寒冷前線が通るときに鳴る春雷のことだが、啓蟄のころには南からの暖気も強まりかけているので、雷声もひときわ大きくなりやすい。

例句
 啓蟄の虫におどろく緑の上
 啓蟄に伏し囀(さえづり)に仰ぎけり
 啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く



東京大学 1989年入試問題(国語)第二問の問題。


東大は1999年まで「死の第二問」と呼ばれる作文問題を出題していた。「作文」という採点基準がよく分からない問題で、受験参考書や予備校はその指導の仕方に四苦八苦していた。

この、通称「死の第二問」がそう呼ばれているのは、勉強のしかたがさっぱり分からないということ以外に、問題のテーマとしてよく「死」が取り上げられる、という理由があった。1981年の「樹木の言葉」、1982年の「国木田独歩の手紙」、1985年の「金子みすゞの詩」、1987年の「夏の風景」などの問題はよく知られている。

その第二問が、1989年に「俳句」という前代未聞の出題を行い、受験業界の度肝を抜いた。高校の現代文の授業で、俳句というのは、まぁ、「受験に関係ない単元」として飛ばされることが多い。高校生としても、俳句がまさか東大入試に出題されるとは思わなかっただろう。この出題からは、東大が世間で最も注目される入試としての自覚をもち、文部省(現・文部科学省)が策定した指導要領を遵守しようという基本姿勢が見える。「 高校で習ったことなら、入試に出る」という、当たり前のことを当たり前に実行している。長らく出題されていた東大国語第二問のなかでも、この1989年の問題は別格の「伝説の問題」とされている。

僕はいままで受験参考書でいろいろと、この問題に対する解説を読んだが、すべて見当違いのものだった。おおむね書いてあることは「東大の受験勉強に没頭するあまり、日常生活から自然を感じる感性が失われていないだろうか。教育を受けた大人として、知識を覚える勉強ばかりでなく、自然に目を向ける感性が必要である。この問題からは、東大が要求する成熟した人間像が見えてくる」のような寝言ばかりだ。

(よくある誤答例)
「啓蟄の虫におどろく緑の上」

毎日を勉強ばかりしていると、世の中や自然に対する感性が鈍ってしまう。受験生は勉強ばかりしていればよいというわけではなく、自然に対する柔軟な感性をもち、自分をとりまく環境に感謝しつつ生活すべきだ。この句は、普段意識していない自然がいきなり自分の目の前に飛び出してきて、虚を突かれた狼狽を表している。この句のように自然と隔絶された生活を送ってはならず、余裕をもった精神生活を送ることが必要であろう。
(197字)


まぁ、0点だろう。東大を舐めるなと言いたい。東大が入試で問うているのは、東大に入って学問を修める資質が備わっているかどうかだけだ。自然に興味があろうとなかろうと一切関係ない。東大は「成熟した大人」「自然に関心がある『いい人』」を採ろうとしているわけではないのだ。

勘違いする人が多いが、この東大の入試問題の答えが、俳句の書評として優れたものである必要はない。これはあくまでも大学入試問題であって、俳句の書評コンテストではないのだ。その両者では、求められる資質が全く違う。世の中には「東大入試の正解」であれば、どんな場に出しても「正しいもの」と考える安直な人がいるが、そんなことは全くない。ここで書かなければならないのは「入試問題に対する正解」であって、「俳句を通して深く世の中を洞察する世界観」などでは無い。

だからこの問題の合格答案を作りたければ、そもそも「大学で学問をするために必要な資質」が分かっていれば、そこから逆算して考えればよい。
従来、「死の第二問」では、「死」にまつわる問題が頻出した。それは別に東大が「死」を好んでいるわけではなく、「『死』というテーマは、主観と客観を排して考えるのが難しい」というだけの理由だ。つまり東大が何年も繰り返し「死」について問うていたのは、要するに「『主観』と『客観』をきちんと分けて考えることができるか」ということを問うていたに過ぎない。

だから、それを問う他の題材があれば、別に「死」に関したものでなくても構わない。ここで俳句という題材を出してくる東大も東大だが、「問われている内容は以前と同じ」ということが分かっていれば、別に俳句の嗜みなど無くても合格答案は書ける。

解答を作る際、句の前にある歳時記的な説明文は使う必要がない。この説明箇所は、要するに「『啓蟄』っていう言葉は大丈夫ですか、こういう意味ですよ」という注釈に過ぎない。個人的には東大を受験しようとするほどの学生であれば啓蟄くらい知ってて当たり前だと思うので、この説明部分は不要だと思うのだが、この問題は「国語」の問題であって「理科」「一般常識」の問題ではない。句には3つとも「啓蟄」という言葉が使われているので、念のためその意味を書いてあるだけだ。啓蟄について「冬眠してた虫や動物が出てくる時期」程度のことを知っていれば、それで事足りる。

3つの句を見比べてみると、ひとつだけ種類の違う句がある。
「啓蟄の虫におどろく緑の上」「啓蟄に伏し囀に仰ぎけり」のふたつには、句の中に作者が登場している。「おどろく」主体は作者だし、「伏し」「仰ぎ」しているのも作者だ。このふたつの句の中は、純粋に描かれる客観世界ではなく、作者が登場することによって主体的な体験・主観的な情感が詠われている。

一方、「啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く」の句には、作者が登場しない。これは世界を純然と客観視しているだけに過ぎず、物理現象を淡々と記述しているだけだ。それについて「こう思う」「こう感じる」という、筆者の主観は一切混じっていない。


haikunochigai
要するにこういう違い。


で、学問をするときに必要な姿勢はどちらか。
明らかに後者だ。学問をする際に必要なのは「対象を客観視すること」だ。現象を観測する時点で、個人的な感情や先入観が入っては絶対にいけない。論文を書くときに、内容に「筆者」という存在が登場してはいけないのだ。

この国語の問題は、その姿勢を問うだけのものに過ぎない。つまり、この問題は最初から「啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く」の句を選べるかどうかが重要なのであって、他の2句を選んだ時点で0点確定だろう。その理由として、学問を修めるに必要な「主観・客観の区別」ということが書けていれば、合格答案としては十分だろう。

(解答例)
「啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く」

他の2句では主体的存在として句の作者が存在しており、「おどろく」「伏し」「仰ぎ」などの行為を行なっている。これらの句では、句中に登場する作者が主体的に行為を行い、その目を通して自然現象を主観的に描いている。ところが「ふりそそぐ矢の如く」の句では内容に作者が存在せず、自然現象を客観的に記述している。主観を廃し、作者をとりまく自然を客観的に描こうとしている点で、他の2つの句とは異なる。
(195字)


まぁ、入試問題の答えとしてはこんなところだろうが、もしこの答案で俳句コンテストに応募したら落選間違いないだろう。そりゃそうだ、大学入試問題と俳句コンテストでは、求められているものが違う。東大入試の正解であれば世の中のどんな文脈であっても正しい、というわけではないのだ。

ましてや、東大は「受験勉強ばかりではなく、自然に対する憧憬が深く、生物に対する慈愛の心をもち、俳句を嗜む風流な学生」を合格させたいのでもない。そんなことは、大学で学問をする際には全く関係ない。東大の過去問の解説書は、やたらと「いい人競争」をさせようとする答案を「正解」として載っけているが、おそらく出題者の先生はそんな正解例を見て笑い転げているだろう。少なくとも、僕が個人的に知っている東大の先生で、俳句の心得がある先生など一人もいない。



人間性を問うているわけではないと何度言ったら

国の主権を担う者

太平洋戦争がもう1年続いていたら、日本で革命は起きていただろうか。


「主権在民」「民主主義」という言葉がある。誰でも聞いたことはあるし、意味も知っているが、その意義を実感してはいないだろう、という言葉だ。日本では、主権は国民にある。憲法にもちゃんと書いてある。しかし、「国民が主権をもつ」ということが一体何を意味しているのか、日常のなかで実感している人はそう多くはないのではないか。

歴史を紐解いてみると、「『国』の主権」というのは、要するに「国以外の単位」が生活単位として跋扈していた時代と区別をつけるためだったものが分かる。つまり、宗教。中世までのヨーロッパでは、「国」という単位よりも、「信仰する宗教」のほうが生活単位を形成していた。

ところが、絶対主義の時代になると事情が変わってくる。「宗教」よりも「国」のほうが単位として強くなる。歴史上、それが露呈したのは三十年戦争(1618〜1648)だろう。もともと三十年戦争は、ベーメンの新教徒の反乱に端を発した、単なる宗教紛争だった。それがいつのまにか「国家間の戦争」に様変わりする。その契機となったのがフランスの参戦だ。カトリック国のフランスが、ハプスブルグ家打倒のために新教国側で参戦する、というおかしなことが起きた。これは、「宗教」よりも「国家」のほうが超越した存在になったということだ。

歴史資料を見れば分かるが、三十年戦争の講和条約のウェストファリア条約は、それまでの戦後の始末とは種類が異なる。条約適用の対象が明確に「国家」となっており、世の中が宗教ではなく「主権国家」を行政単位として再編成されていく過程が見て取れる。絶対王政が隆盛を極める過程で、主権国家の存在が確立し、主権国家間の調整による国際秩序が求められる時代になった。

しかし絶対王政の当時は、国の主権は国王にあり、それが国民に移るのはもう少し時間がかかる。一番分かりやすいのはフランス革命だろう。国王が握っていた主権を、国民が奪う、という最も分かりやすい形での主権委譲だ。

僕は従来、フランス革命を「迷走した挙句、矛盾した結果になった、単なる笑い話」程度の認識しかしていなかった。王制打倒を唱えて、革命戦争を繰り返した挙句、軍事権をひとりに委譲し、そいつが皇帝を名乗る、という本末転倒ぶりはまるで落語のようだ。フランス人は革命をえらく誇らしげに祝うが、なぜあんなに大失敗に終わった革命を誇るのか分からなかった。

しかし考えてみれば、一握りの権力が独占していた「国の主権」を、一般国民が持つようになる歴史の移行など、一回でうまくいくはずがないのだ。フランス革命は確かに失敗したが、そもそも「国民が主権を持つ」というチャレンジを行なった最初の挑戦だった。他の国はすべて、国民が主権を握るようになる過程で、フランスの失敗例をしっかり見据えて主権譲渡を行なってきた。その前例となったという意味で、フランス革命は歴史上の意義を保ち続けるだろう。

フランス革命は近隣の絶対主義諸国に衝撃を与えた。下手をすれば自分の国に革命が飛び火する。だから近隣諸国はフランスを包囲して革命の押さえ込みにかかった。ここで、果たしてナポレオンという軍事的天才がいなければ、革命は瞬時に潰されていただろうか。

そうは思わない。フランス革命以前と以後では、戦争のしかたが違うのだ。
フランス革命では、まがりなりにも「一般市民が主権を持つ」という段階を一応達成した。フランス革命戦争で周辺諸国と戦ったのは一般市民から募った義勇軍だが、その戦意は中世までの戦争とは段違いだっただろう。なにせ、それまでの「王様に徴兵されて嫌々戦う」のではなく、「自分の国のために、自分の力で戦う」のだ。こうしたナショナリズムに基づいた義勇軍は、徴兵制によって常時戦力が補充できる国民軍の編成を可能とした。

これは裏を返せば、戦争が長期化することを意味する。国民主権を達成したことによって、「自分たちの国のために戦う」「決して諦めない」という強い動機付けが生まれる。フランス革命以降、戦争は主権者の一存で終結するのではなく、終戦の判断が合議に委ねられる形態に変化した。

そうした挙国一致体制は第一次世界大戦でも継続したが、その理由はちょっと異なる。第一次大戦の場合、兵器の技術が上がって犠牲者数が激増したため、徴兵制で国民を総動員しないと戦争が継続できなかったのだ。終戦のための講和会議も、莫大な犠牲に見合うだけの成果を得なくては国民世論が納得しないため、戦争が泥沼化した。敗戦国ドイツには1320億金マルクという非現実的な賠償金がで懲罰的に突きつけられた。実際問題として経済が破綻したドイツにこんな莫大な賠償金を支払う能力はなく、踏み倒す以外に道はない。かくして「ベルサイユ条約体制破棄」を唱えるナチスの台頭を招いた。

第一次大戦時に見られる傾向は、国民主権のもとで、「国民の意思で戦争を終結させる」という動きが出始めたことだ。ロシア革命、ドイツ革命は、総力戦への動員に疲弊した国民が、政権を奪い無理やり戦争終結を画策したものだ。

こうして見ると、「主権」というものの形成には、戦争が大きく関わっていることが分かる。国の主権のあり方は資料から直接観察できない類いのものだが、戦争のあり方を見れば、各時代の国家のあり方と密接に結びついていることが分かる。


翻って、日本ではどうだろう。
日本では、「主権」を獲得するための闘争を経験していない。封建制度の次がいきなり立憲民主制で、しかも「国の中枢にいる頭のいい人達が勝手に決めた憲法」によって、上から降ってきたものだ。大日本帝国憲法下では天皇にあった主権が国民に下りてきたのも、国民の苦闘によるものではない。アメリカによって作られた憲法によってそう決められたに過ぎない。

大日本帝国憲法が発布された時、「国の主権は天皇にある」ということの意味を理解していた国民がどれほどいたのだろうか。日本国憲法が発布された時、「これからは国の主権は国民がもつ」ということの意味を理解していた国民がどれほどいたのだろうか。
日本では、必然性もなく、「よその国がそうしているから」という理由で主権国家体制が固まった。国民による希求よりも制度のほうが先に出来てしまったため、いわゆる民主主義的な感覚が十分に育つまえに外枠が決まってしまった観がある。

日本は太平洋戦争で総力戦をはじめて経験したが、戦争があと数年続いたとしても、ドイツやロシアのように戦争継続に異を唱えて革命を起こし、主権のあり方を示すような行動をとれたとは思えない。教育勅語の賜物なのか、本当に最期の一兵まで戦おうとしただろう。決して、民主主義が成熟している国民のやることではない。

そして今、日本の民主主義の浸透度合いは、太平洋戦争当時からどれほど進歩しているのだろうか。政治を「一握りの政治家が勝手にやっていること」と思い込み、政治不正に文句を言って溜飲を下げているレベルに留まっていないか。国の主権を自分たちが握っているということが本当に分かっていれば、政治に対してそういう態度は絶対に取れないはずだ。

今年は夏に参議院選がある。衆議院を解散して衆参ダブル選挙になる可能性もある。
そういう時勢で、国の主権というのは何なのか、主権をもつ主体として国にどう関わるべきか、そういうことをきちんと学校で教えているのか、心配になる。



学生が「面倒だから選挙に行きたくない」とか抜かしていたので

なぜ「六」は「りく」なのか

漢字の成り立ちを6種類に分類したものを「六書」という。


象形・指事・形声・会意・転注・仮借の6通りのことを指す。実際にはこの6つは同等の分類ではなく、最初の4つ(象形・指事・形声・会意)は漢字の成り立ちを示し、あとの2つ(転注・仮借)は文字の応用方法を指す。まぁ、いかんせん提案されたのが121年の『説文解字』(許慎)によるものなので、現代的な漢字の実情には合っていない面もある。むしろ2000年以上も前の分類がいまだに生き残っていることのほうが驚異だろう。

この六書、漢字という基本的な表記体系に関することでありながら、ほとんどの日本人がはっきりとは知らない。高校の漢文の授業で若干習う程度だろう。僕もこの六書について調べるときは、自分の仕事や授業の必要上、漢字の歴史や背景について詳しく知る必要があるときくらいに限られる。

そのときにいつも疑問に思うことがある。
この六書、なぜ「りくしょ」と読むのだろう?

数字の「六」は、ふつう「ろく」と読む。ところがこういう、なんか中国っぽい古典的な文脈に出てくるときは「りく」と読むことが多い。
それは知っている人が多いだろうが、なぜそうなのか、理由をきちんと説明できる人は少ないのではないか。

漢字に多くの読み方があるのは、日本語を勉強する外国人がいつも嘆息するポイントのひとつだ。漢字を習いたての小学生も、漢字の違う読み方に混乱することがある。
多くの人が知っているのは「音」と「訓」のちがいだろう。ざっくり言って、中国語読みとやまとことば読みの違いだ。もともと日本語には漢字はなく、中国から輸入してきた漢字をむりやり従来の単語に割り当てたため、本来の中国語読みと日本語読みの両方が共存することになった。

ところが、ひとつの漢字に複数の音読みがあるケースが多い。たとえば「行」という漢字は、「コウ(行動)」、「ギョウ(行間)」、「アン(行脚)」という3つの音読みがある。これらの読みがぜんぶ「音読み」とされている、ということは、漢字の「出元」の中国では、いくつもいくつも読み方があったことになってしまう。

調べてみたらこの考え方は、半分正しくて、半分まちがっているらしい。日本に導入された音読みは多岐にわたるが、本場の中国でもいくつも読み方があったわけではなかったらしい。だから中国人がひとつの漢字を見たら、読み方がいくつもあって混乱する、ということはない。

ただし、中国は広くて歴史が長いので、地域的・時代的な違いはあったらしい。「日本は漢字を中国から輸入した」と簡単に言うが、その輸入の時期には時代的なずれがあったようだ。その時代ごとのずれが、違った音の導入になった原因だそうだ。

最初に日本が漢字を輸入したのは奈良時代のことで、中国では三国時代から六朝にかけての読み方が伝わった。日本の奈良時代といえばすでに中国では唐の時代だが、リアルタイムの漢字が輸入されたわけではなく、ちょっと「型落ち」の漢字が輸入されたらしい。この最初期に輸入された漢字の読み方を「呉音」という。

この時代の読み方をなぜ「呉」音というのはよく分かっていないが、勘では当時の日本が関係した地域が華南中心だったからではないか。当時の遣隋使、遣唐使などの海上ルートを調べてみると、中国大陸のやや南よりに漂着するケースが多い。この地域に、三国志時代の「呉」の国で使われた漢字を輸入したのではないか。

のちに遣唐使がバンバン派遣され、「型落ち」の漢字ではなく、最新の漢字が輸入されるようになった。唐の都は北のほうにある長安なので、呉音が使われていた華南の地域とはことばが違う。遣唐使で派遣された日本の留学生は、日本で習ってきた漢字と、長安での漢字では、読み方が違うことに戸惑った。そこで彼らは「長安の漢字こそ標準語。いままで習ってきた呉音は『方言』に過ぎない」と考えた。帰国後、遣唐使の帰国組は最新の「標準語」を大いに宣伝した。この時代にもたらされた長安の最新の読み方を「漢音」と呼ぶ。

いわば、時代と地域が違うふたつの読み方が日本国内で共存することになり、当時の飛鳥朝廷ではかなり混乱したらしい。そこで朝廷は、時代がやや古い呉音を廃止し、「長安の最新の言葉」である漢音を使うように制度をつくった。そのための勅令が何度か出されている。

しかし、いくらお上が「この漢字はこう読め」と言ったところで、すでに呼び方として定着しているモノの名前が簡単に変えられるわけはない。たとえば「屏風」を「びょうぶ」というのは古い呉音の読み方で、漢音では「へいふう」と読むが、勅令が出たからといって「そこの『へいふう』を立てかけてくれ」などと言い換えができるようになるわけはあるまい。日常生活に支障を来す。

もっと支障を来すのは仏典や経文の読み方だ。奈良時代に大量に輸入された経典は、すべて呉音で読まれていた。それをお上の命令でいきなり漢音に置き換えろと言われても、坊さんたちは困るだろう。「極楽」は今日から「ごくらく」ではなく「きょくらく」ですよ、というわけにはいかない。「阿弥陀経」は「あみだきょう」ではなく「あびたけい」と読みなさい、と言われても困るだろう。

面白いのは、宗教や学問が輸入された時期によって、呉音と漢音が使い分けられていることだ。仏教は奈良時代が輸入ラッシュのピークだったので、当時の読み方であった呉音で読まれている漢字が多い。ところが、それより少し時代が経ってから輸入された儒教では、漢音で読む漢字が多い。たとえば「経」という漢字は、仏教では「きょう(経文)」と呉音で読むのに対して、儒教では「けい(経書)」と漢音で読む。

平安時代から室町時代にかけて、どうも日本人の意識的には「呉音は古い読み方だから、できるだけ新しい漢音で読もう」という努力が行われていたらしい。儒教の教典を「六書(りくしょ)」と読むのは、どうもこの時代の努力の名残のようだ。まぁ、儒教の教典だから漢音で読む、という傾向はあったにせよ、仏教的な慣習の縛りがない分野では、できるだけ漢音で読もうとしていたようだ。

それが江戸時代になると、儒教が官学になり、仏教よりも儒教のほうが地位が高くなる。それに伴い、「漢音読みこそが正統」として呉音を排する運動が起きた。その一番の急先鋒が本居宣長だった。宣長は「呉音は古い読み方で単なる方言に過ぎない。漢字はすべて漢音に統一すべきだ」という論文を書いた。世間一般のイメージとは違い、かなり過激な主張をする人だったようだ。

当時の儒教の特徴は「正統」「邪道」という正誤の判断で世の中すべてを断罪する、という極端な正統主義にあるだろう。お上にとって使い勝手のいい道徳律なので、官学になるのも分かる。
しかし、ことばというものは生き物だから、「こっちのほうが正統。いままでの使い方は間違っている。だから今後はこっちを使え」と強制したところで定着するものではない。本居宣長は儒教思想にどっぷり浸りながら国学を大成し、日本人と日本文化の背骨をブチ建てようと苦心していた学者だ。その意気や良し、しかし現実と理想の齟齬を埋められるほど実務的な人ではなかった。

ちなみに漢字の読み方は「呉音」「漢音」で終わりではない。その後の時代の読み方の「唐宋音」というものがある。
中国では唐が崩壊し、統一王朝が一旦途絶える。一般的にはその後の時代を「五代十国時代」と称するが、要するに各地域に豪族が擁立される混乱期だ。その後、北宋が一応統一の体裁をとるが、すぐに南宋に分離し、さらに征服王朝の金に華北を乗っ取られる。

時代が乱れただけあって、この時代の「ことばの乱れ」は相当なものだったようで、各自の方言や外国語が入り乱れ、漢字の読み方も派手に変化した。この時代の漢字の読み方は、鎌倉・室町期に輸入されるが、すでに日本では呉音と漢音の並立状態にあった。新しい唐宋音はすでに日本に入り込む隙が残されておらず、わずか例外的に採用されるに過ぎなかった。「和」を「お(和尚)」、「子」を「す(椅子)」、「頭」を「じゅう(饅頭)」などと読むのは、すべてこの時代に輸入された唐宋音だ。「行脚(あんぎゃ)」に至っては二字とも唐宋音で読んでいる。

感覚では、「和尚」「椅子」「饅頭」「行脚」などの読み方は、より古い読み方のような気がする。しかし実際には、こちらの読み方のほうが新しいのだ。この読み方が日本に入ってきたときには、すでにそれぞれの漢字の読み方が定着していたために、日本では定着しなかった、というのが実情らしい。

こうした事情が重なって、現在の日本の漢字には複数の音読みがある。通常、3つの異なる音読みがある場合、それは「呉音」「漢音」「唐宋音」の3つであることが多い。

「行」
「ぎょう」(改)・・・呉音
「こう」(動)・・・漢音
「あん」(脚)・・・唐宋音

「明」
「みょう」(灯)・・・呉音
「めい」(治)・・・漢音
「みん」(朝体)・・・唐宋音

「請」
「しょう」(起文)・・・呉音
「せい」(要)・・・漢音
「しん」(普)・・・唐宋音

一般的に「漢字は中国から輸入された」と簡単に言うが、輸入元の中国の広さと、輸入された時代の幅を勘案しないと、どうして漢字が現在のような面倒な読み方をするのか分からなくなる。そういう時に時代背景と導入時の事情を調べてみると、どうしてそういうことになっているのか、ある程度わかるものらしい。



漢検1級の勉強してたらこういう脇道に逸れまして

勘定のしかた

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に、以下のような一節がある。

一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ


まぁ、利己的な僕としては、あまり宮沢賢治のよい読者ではない。そもそも、この詩は全体的にあまりピンとこない。
その中でも、この「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」という一節は、特に意味が分からない箇所だった。

おおむね、「利己的な気持ちを捨て、他者に対する思いやりと博愛精神をもって」くらいの意味だと理解していたのだが、それにしてはこの「理想の人間像」、食べ過ぎだ。「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と言っているのだが、1日4合は食べ過ぎだろう。当時の農村の食生活は現在ほど副食や総菜が多くなく、大量の穀物を少量のおかずで食べていた、という時代背景はあっただろう。しかし戦前の食料事情にしては十分に過ぎ、豪勢といってもいい食生活だ。これで「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」も何もない。

さらに分からないのが、その直後にある「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」という箇所だ。
この詩の後の部分に「東ニ病気ノコドモアレバ・・・、西ニツカレタ母アレバ・・・、南ニ死ニサウナ人アレバ・・・、北ニケンクヮヤソショウガアレバ・・・」という、博愛精神てんこ盛りの箇所があるのはよく知られているが、この部分は「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」から直接つながってはいない。間に「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」という、いわば余計な文言が入っている。この部分を入れた宮沢賢治の筆遣いは、いったいどういうことなのか。

僕は普段、宮沢賢治については評論を避けることにしている。「良さが分からない」というよりは、僕自身が誤読をしている可能性が高い気がするのだ。この『雨ニモマケズ』にしても、平易な目で見ると、あまり感心する人間像だとはどうも思えない。少なくとも僕はこんな人間像など御免こうむりたい。あまり楽しくなさそうだ。
その誤読の原因が、どうもこの「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」という一節にあるような気がして、かねてからずっと気になっていた。


話は変わるのだが、井原西鶴の『世間胸算用』を読んでいたら、変な文章を見つけた。

またある子は、紙の余慶持ち来りて、紙つかひ過ごして不自由なる子供に、一日一倍ましの利にてこれを貸し、年中に積もりての徳、何程といふ限りもなし。

(口語訳)
またある子供は、紙を余分に持ってきて、紙を使いすぎて不自由している子供に、一日に倍増しの利子をつけてこれを貸し、一年で貯まった儲けは、どれほどとも言えないほどだ。


場面は書道の手習い所。ある商人が息子をそこに通わせていた。息子は日頃から、手習い所で他の子供が使い潰した筆の軸を集めており、まもなく自分で筆軸を細工して軸簾を作った。それを売り払って銀4匁5分を稼いだ。商人はそれを誇らしく思い、手習いの師匠に嬉々として報告した。すると意に反して師匠は渋い顔をして、息子と商人の心得違いを諭す、という話だ。

話の落ちは、「あなたは息子さんが賢く稼いだと思っているかもしれないが、それは息子さんの賢さというよりは、商人であるあなたの日頃の行いを真似しているだけだ。そういう子供が大成したためしはない。書道の手習いに通うのであれば、紙だの筆軸だのに気を取られるのではなく、一心不乱に書くことだけに専念するのがよい」という説教話。まぁ、江戸時代にはこういう「世間的な感覚とは逆振りした説教話」が通の嗜みだったのだろう。

変な箇所というのは、「一日一倍まし」という表現。
「一倍まし」であれば、数学的に、元値とまったく変わらないのではないか。

古語辞典を調べてみたら、「一倍」の意味は「二倍」ということらしい。そんな馬鹿な、という気がするが、複数の古語辞典にそう書いてあるのだから確かだろう。
「ひと一倍」という言葉があるが、これももともとは「ひとの二倍」という意味らしい。厳密に数学的に1倍なのであれば、ほかの人と何も変わらなくなってしまう。

どうやら古語の感覚としては、倍増分を計算するとき、元値からスタートするのではなく、元値から増幅した分だけをカウントするらしい。現在の数学的感覚とは違うが、どうもそういうことのようだ。だから「ひと一倍」という言葉の意味は、「まわりの人と同じ」ではなく「他の人の2倍くらい」ということになる。

ichibai

現在とは感覚が違う。


現代数学は純客観の公理によって構成されているので、「話し手の意識」なんてものは無い。「りんごが3つあります。それを2倍するといくつになりますか」という問題では、「最初のりんご3つが主人公で、そこから増える分が『他のりんご』で・・・」などという区別は無い。りんごは単なる数概念を投射した具象に過ぎず、客観的存在物としての「りんご」であって、そこに主観と客観の区別は無い。

ところが、日常的な感覚としては、「主人公となる主体(=わたし)」と、「異質の他者」の区別をするほうが普通なのだろう。世界中の言語で、人称代名詞は1人称とそれ以外の区別がある。数学的な感覚ではなく、言語に反映されている世界把握の認識としては、「わたし」と「他者」を区別するほうが普通なのかもしれない。


そう考えると、『雨ニモマケズ』の謎の箇所、「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」という意味が、なんとなく分かるような気がする。
「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」というのは、「自己犠牲の精神で」という意味ではなく、「主観を排して、客観的に世の中を見て」くらいの意味ではあるまいか。その時の自分の感情や、自分の好き嫌いで世の中を判断するのではなく、世事を離れた高いところから俯瞰する視点を持つ、という心構えを示しているのではないか。古語で「一倍」というのが自分を基準とした現代数学のかけ算ではなく、主体以外の増幅分をカウントするのと同じで、「自分」を基準点とはしない世界把握のしかたを言っているのではないか。

そう考えると、その直後に続く「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」の意味が分かる。世の中の人のために奔走する前に、まず冷静な目で世の中を客観視する。自分の感情で世の中を決めつけて見るのではなく、「主体としての自分を入れない世界観」を身につける。そうしたものの見方で世の中の必要性を見極めてはじめて、東西南北の必要性のために動く。

『雨ニモマケズ』は宮沢賢治自身が世間に公表した詩ではない。東北砕石工場の嘱託を務めていた賢治が病に倒れ、実家の花巻に帰省して闘病していた時代に手帳に書き記されていたのが、死後になって発表されたものだ。手帳の日付から、詩が作られたのは1931年と見られている。

この詩は、宮沢賢治が、他人に知られることなく「自分だけの心構え」としていたものを密かに書き記したものではないか。単純に「自己犠牲の権化」の行動として考えると、「東ニ病気ノコドモアレバ」「南ニ死ニサウナ人アレバ」、自分が食べる分の食べ物を提供してあげればいい。しかし宮沢賢治は冒頭で「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と、自分の食い分をしっかり確保している。

一般に思われているこの詩の印象とは違い、宮沢賢治は冷静に「まず自分の安全をしっかり確保してから、冷静に世の中を把握し、必要と余力があれば動く」というスタンスをつくっていたのだと思う。そりゃ、公表せずに手帳にひっそり書き記すに留めるだろう。
病に臥せっていた賢治は、「どんな偉そうなことを言っても、どんな高い理想を持っていても、自分の身が健康でなければ何もできない」という実感をもっていたのではないか。まず食べるものをしっかり食べる。健康を取り戻して確保する。私情や感情にながされずに客観的に世の中を見る。そしてできれば、ほかの人の助けになれるようなひとになりたい。そういう「病中の願望」を表した詩に思えてならない。

散文とは違い、詩というのはいろいろな読み方ができる。作者が意図しなかったような読み方をする人もいるだろう。ましてや、本人が望んで公表したものでなければなおさらだ。これだから詩は安易に批評できない。



4合っていったらお茶碗8杯分だぞ。

長続きする結婚

結婚は、何のために存在するのか

どうやら、人間の愛情というのは、結婚してから「3年」でなくなるらしい。

結婚して20年、30年続いている夫婦がいますが、この人たちがどうして長く続いているのかというと、結婚してから3年の間に、「愛情以外の別の概念」をつくり上げることができたからです。

愛情を永遠のものだと勘違いして、その愛情だけに寄りかかっていると、結婚生活は破綻をきたすらしい。

「いつまでもこの人を愛し続けよう」と思っても、「いつまでもこの人から愛され続けるだろう」と信じていても、生物学的に見ると、愛情は、「結婚後、3年で終わってしまう」ようです。

結婚すると、普通は「ゴールイン」といわれますが、じつは結婚した瞬間から、「3年間の執行猶予」がはじまります。

この執行猶予中に、「愛情以上の価値観=尊敬」をつくり上げることが「結婚生活」のようです。

では、どうすれば相手を尊敬できるようになるのでしょうか。

それは「常に相手のよい面を見つけること」です。

目の前の夫、目の前の妻を、自分の思い通りにつくり変えようとするのではなくて、「相手はこういう個性があって、自分とは違うものを持っているんだ」と、丸ごと全部受け入れる(感謝する)。

そして、相手のすばらしいところ、社会のよいところ、宇宙の楽しさを、自分の中で見出す訓練ができるようになると、あれこれと批判、論評をしなくなり、お互いを認め合うことができるようになります。




お互いに成長を止めた時が、関係の終わりの始まり。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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