たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

Philosophy

売れる「教養書」

春休みになったので本屋をぶらついて平積みになっている本のなかから、ちょっと面白そうな本を買ってみた。


kyoyosho


『世界のエリートが学んでいる教養書 必読100冊を1冊にまとめてみた』
(永井孝尚 (2023), KADOKAWA)


題名だけで内容の要旨が分かる。世界の名著100冊の内容を端的に説明し、それを現代社会の問題を考察するための武器として使うにはどう考えればよいか、という指針をまとめたものだ。
大著であり、労作であることは間違いない。古今東西の名著を100冊も読破するだけで大変な労力だろう。紹介する本のジャンルも「西洋哲学」「政治・経済・社会学」「東洋思想」「歴史・アート・文学」「サイエンス」「数学・エンジニアリング」と多岐に渡る。これだけ異なる読み方を要求されるジャンルの本を幅広くカバーするだけでも大変だろう。

100冊の本の選択もまぁまぁ知見に富んだチョイスとなっており、納得できる選択だ。現代書だけに留まらず、古典の名作も多く選択しており、なかなか僕の趣味に合う。僕はここで紹介されている100冊すべてを読んだことがあるわけではないが、自分の専門に絡む本も紹介されており、わりと本気で原著を読み通した本も多く紹介されている。この本で紹介されている内容理解の精度はなかなか高く、まずもって「よくこんなに多くの本を理解し通したな」という印象が強い。結構な本を出したものだ。

もちろん、煩いことを言えば批判などいくらでもできる。例えばジャンル分けにしても、厳密な学問領域の区分とはかなり異なる。たとえば「政治・経済・社会学」も「数学・エンジニアリング」も「歴史」も、どれも本当は「サイエンス」の一分野なのだが、この本ではそういう区分には沿っていない。この本が章として採用している「サイエンス」という括りは、一般読者の漠然としたイメージの「なんか理系っぽい分野」程度の雑な意味で使われている。

また、現在ではその価値に賛否両論ある危険な作品もとり上げられている。たとえば『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)が「環境汚染を世界で初めて告発した『環境問題のバイブル』」として紹介されているが、現在の環境科学の検証では『沈黙の春』で引用されている例は勇み足が多く、事実認識の歪みが多数紛れていることが明らかになっている。現在の環境保護団体もこの本を大々的に喧伝するようなことはしていない。
『沈黙の春』はそういう欠点のある問題作ではあるが、紹介の名目となっている「環境汚染を世界で初めて告発した」という部分は間違いではない。当時、環境汚染という認識がまったく無かった時代にその危険性を啓発したという役割を果たしたのは本当だ。ただしその内容に誤謬があったために現在では無批判にとり上げるわけにはいかない、というやっかいな本だ。『沈黙の春』だけでなく、まぁ言ってみればどの本でも賛否両論は必ずあるものだ。毛沢東の『抗日遊撃戦争論』など現代の道義的な観点からみれば危険書以外の何物でもないが、この本を読まずして現在の中国共産党の基本理念は理解できない。そういう本でも、知らないよりは知っていたほうがいい。

僕がこの本を読んで最も強く感じたのは、「あぁ、ビジネス書ってこういう感じなんだなぁ」ということだ。
僕は普段、学術書や論文ばかり読んでいるので、自己啓発やらマーケティング論やらいわゆる「役に立つ」本をあまり読まない。この本は、徹頭徹尾ビジネスマンにとって「役に立つ」ように書かれている。

この本は「教養書」と銘打ってはいるが、その内容と編集の仕方は「教養」とは正反対だ。そもそも題名からして「世界のエリートが学んでいる…」。この部分だけを見ても「教養」とはかけ離れた姿勢と断じて良い。しかし、だから悪いと言っているのではなく、「ビジネスの世界と『教養』というものを折り合わせるのは、一般にうまく訴求する形でまとめるのは難しい」ということだと思う。そこには、「教養」というものに対する世間一般の大きな誤解があるような気がする。そして、その難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題だろう。


「教養」とは何だろうか。
世間一般によく使われる言葉であり、漠然とひとの知力を示すバロメーターとしてイメージされている概念だろう。だが、その本当の意味を理解している人はそれほど多くないような気がする。

たとえば、大学で身につける能力は「教養」だろうか。
世の中の知見を広く身に付けよう、世の中に出て役に立つ知識を身につけようとして意気揚々と大学に入学してみても、実際に専門のゼミで行うのは退屈な論文を延々と読まされる原典講読だったり、何の役に立つかも分からないような基礎実験だったり。それらのどこが「教養」なのだろうか。
こういう「いままで自分が持っていた『教養』のイメージ」と「大学で実際に行われる知的活動」のギャップに苦しみ、「大学教育なんて何の役にも立たない」と判断して授業に出てこなくなる学生は多い。なかには大学教育に一切の価値を見いだせなくなり、中退する学生もいる。

教養は一般的に「頭の中に蓄積されている知識量」というイメージで認識されていることが多いだろう。教養のある人というのは、いろいろなことをいっぱい知っている人。物知りな人。「歩く辞典」のような人。クイズや問題にたちどころに正解できる人。
この本でもそのような「教養」観が強く前提となっている。本の一番最初の「はじめに」の箇所でも、「脳内にある知識が教養なのだ」と断言している。

実際には、この本ではさらにそこから一歩進んで、教養を「単なる知識」に留まらず、「実際の問題を解決する武器として使えるかどうか」まで意識している。単なる「あらすじを覚えましょうね」的な紹介文ではなく、現代のビジネス界で生じているさまざまな困難に立ち向かうために、100冊の知見をどのように適用し応用するか。そういう知力の「使い方」まで指南してある。『マッキンダーの地政学』をウクライナ侵攻に絡めて「大国の思惑を読み解いて、したたかにビジネスの先手を打て」という指針につなげる。ヒュームの『人性論』で説かれている経験論における因果律から「帰納法の限界がわかれば『AIの限界』も理解できる」と謳う。
僕がこの本を「ビジネス書ってこういう感じなんだなぁ」と感じたのは、ここの部分だ。

僕は寡聞にしてビジネスの世界の現状を知らないが、漠然と「成果を出せない努力は無意味」という価値観が席巻する世界なのだろう、という見当はつく。だから世界の名著100冊の内容を覚えているだけでは不十分で、「それを今のビジネス社会にどうやって活かせるのか」まで伸ばせなくては意味がない。知識は使ってなんぼ。古い革袋に新しい酒を入れるが如く、古今東西の名著を今この現代の問題を解くための知見として使えるようになってようやく「教養」。そんな「教養」観が見える。

情報の丸暗記を「教養」と勘違いしている軽薄な暗記主義よりは、実践に則した姿勢だろう。筆者は研究畑の人間ではなく、IBMの戦略マーケティングマネージャー、人材育成責任者などを歴任した、バリバリのビジネスマンだ。日々実務に携わっている身でありながら古今東西の名著を読み解し、内容を理解するのみならずそれを実践として活かす方法まで考える、というだけで相当に「教養」ある生き方だ。この筆者自身が「教養」の深い人物であることは間違いなかろう。
しかし、どうして著書で読者に訴求する「教養」は、それとは全く違ったものになってしまっているのだろうか。


僕の考え方だが、「教養」というのは、「自分の中にある静的な知的蓄積物」ではなく、「自分の外にある未知の世界に対する姿勢」のことだと思う。「既存のものを理解する」のが教養なのではなく、「新しいものを創造する礎になるもの」が教養だろう。

百科事典を全冊暗記したところで、そんなものは「教養」とは言わない。それは単なる「脳内の情報処理」であって、覚えること自体を目的とした行為からは何も新しいものは出てこない。そういう「歩く辞典」から、世の中を動かす新たなイノベーションは生まれてこない。
暗記すること、情報を覚えること、というのは「手段」であって「目的」ではないのだ。新たなものを創造しようとするとき、無からは絶対に何も生まれない。先人の努力を知り、先例を知り、そこから法則を仮定し現実に適用することで、新たな「知」は創造される。

教養ある態度というのは、未知のものに対する畏敬の念をもち、新たな世界を知ることを厭わない知的な姿勢のことだと思う。「それ知らないから興味ない」ではなく、「それ知らないから面白そう」という態度だ。自分の知らない世界を拒絶せず、自らを閉じてしまわず、未知のものを取込んで自分の生き方に変える能力のことだ。端的に「知的好奇心」と言っても良い。
一般的に「教養」というのは、「1の知識を10000まで伸ばすこと」というイメージで捉えられていると思う。しかし実際の「教養」とは、「0を1にする力」のことではあるまいか。

では、そういう能力はどうやったら身に付くのか。ビジネスの世界で、いままで誰も作り得なかった新たな価値を生み出すために求められる力は何なのか。
そういう「未知への挑戦」というと、やたらと「創造的活動」「イノベーション」「革新的な発想」のようなイメージに取り憑かれて、それまで自分の中になかった「新たな何か」にすがろうとする人が多い。しかし実際のところ、そういう発想力、目的到達能力、創造性といった能力は、過去の事例を丁寧に辿り、人間の知の総和から学んでいくしか方法がない。その点では、この本は王道を辿っていると言える。

しかし、この本で紹介されている100冊の本の内容を理解し、さらにその内容を現在のビジネスに活かす方策を「覚えた」ところで、それは本当の「教養」なのだろうか。それは百科事典を全冊暗記する行為と何が違うのだろうか。

どんなに本書の内容を理解したところで、その応用のしかたを知ったところで、それは所詮、著者の仕事の枠内から出たことにはならない。教養というのは「既存の知識の敷衍」ではなく、「それを基として枠の『外』に出ること」だ。創造的に本書を利用し自分の創造的知的活動につなげられない限り、教養など皆無な姿勢と断じて良い。
さきほど「難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題」と書いたのは、そういう意味だ。この本そのものの欠点なのではなく、これを読む読者の側は、それをちゃんと弁えて読めるのだろうか。

そして気になるのは、筆者自身が教養を「既存の知識を敷衍すること」という段階の認識に留まっているような気がすることだ。もちろん筆者もこの本を読んだだけでは理解に不十分であるということは十分に認識している。「はじめに」の中で「もしかしたら本書を読んで『原著が完璧に分かった』と思うかもしれない。残念だが、それは幻想だ」と警告している。この本はあくまでも「紹介本」であって、この本をガイドに原著にあたるのが正しい読書の仕方だろう。とかくビジネスマンは御用とお急ぎの方が多く、「細かいことはいいから簡単に内容だけ教えてくれ」のような軽薄な知的態度の人が多いのだろう。そういう態度を戒めることを忘れてはいない。

しかし、本書であらすじを知った後、原著を読んで自分で理解しようとする姿勢まで達すればそれが「教養」かというと、それでも足りない。そういう姿勢は、いってみれば学校で出してもらった宿題を家でやっているのと大差ない。「何を読むべきか」が他人から与えられており、自分の判断で「これは読む価値がある」と判断したわけではない。それまで自分の知らなかった世界を自分の中に取込む、という一番最初の段階を、本書に頼ってしまっている。

この本を読んで身につけるべき本当の「教養」は、「100冊の内容と使い方を覚えること」ではない。「100冊の原著に挑戦すること」でもない。
自分の力で101冊めを見つけること」ではあるまいか。

新しい創造の際に必要な能力のひとつに、価値判断がある。「これは挑戦するに値する」「これは新たな価値を生む」という、自分の挑戦することに対する価値の見分けが必要となる。端的に言うと、自分が全く知らなかったことに対して「これ、おもしろそうだぞ」という嗅覚だ。この能力がないと、つまらない瑣末なことに莫大な労力とかける無駄を生み出すことになる。

教養のある人は、「多くの人が名著として絶賛する本をすべて網羅している人」ではない。「誰もが見向きもしないものに『これ、おもしろいんじゃないか?』と価値を見いだせる人」だ。「すでに知っている世界、馴染みのある世界で、既存の価値観の枠内で甘んじて生きる人」ではない。「知らない世界・未知の世界の魅力、まだ存在しない価値に最初に気付ける人」が本当の「教養のある人」ではないか。
グラミー賞ヴァイオリニストのジョシュア・ベルの演奏会にチケットを買って聞きに行く人と、彼がストラディバリウスの名器を携えワシントン中心部の駅構内で路上ライブをやった時に誰もが目もくれず通り過ぎる中ただひとり足をとめてじっと聞き入った少年と、どちらが「教養」があるだろうか。
イギリスの無名のシングルマザーが書いた童話の翻訳出版の持ち込みを冷淡に断った大手出版社と、その価値を見いだし『ハリー・ポッター』シリーズの全版権を独占して買い取った静山社と、どちらのほうが「教養」があるだろうか。

そういう「教養」、なかんずく「未知の価値に気付ける能力」は、どうやって身に付くのだろうか。
未知の世界は広大だ。分野によってもアプローチの仕方が異なる。無限の世界が広がっている。そういう世界を相手にするときに、「こたえ」を求めるような姿勢では太刀打ちできない。未知の世界では、問題は同じでも答えのほうが日々変わる。静的で確立した「正解」を覚えていても意味がないのだ。だから「既存の知識に頼らず、その時その場で必要な『知』を自ら編み出していく能力」が必要となる。教養とは、「有限の情報の静的な蓄積」ではなく、「無から『知』を生み出す動的な態度」なのだ。

そういう動的な能力を身につけるためには、欲張ってはいけない。ひとつの分野だけでもいい。ひとつのテーマだけでもいい。誰にも頼らず、自分だけの力で、ともかくも一定に見解に至る経験を踏むことが必要だ。
登山に例えると、100名山の特徴と景観を全部暗記したところで、登山の能力などなにひとつ身に付かない。近所の裏山ひとつ登れるようにはならない。どんな山にもどんな状況でも頂上を極められる「万能の登山能力」を身につけるためには、まずひとつの山をちゃんと定め、自力で頂上まで登り切る経験から入らなくてはならない。ひとつの山にもいろいろと登山のルートがあるが、ここでも欲張ってはいけない。ひとつのルートだけに特化してよい。そのルートを選択する段階からすでに勝負は始まっている。

そうやって、細いルートを辿って、ともかくも自力で頂上まで達する経験を積むと、山に取り組むアプローチの仕方が分かってくる。10の山に自力で登れば、11個めの山にも自力で登れるようになる。いつまでもガイドブック頼り、ネットの情報頼り、情報の暗記ばかりに拘泥していると、いつまでも未知の山を克服する能力は身に付かない。

それを「教養」という知的活動に置き換えると、どういう努力が必要なのかは明らかだ。
漠然と「教養」という広い知的世界を想像するから努力の仕方が分からない。まずひとつの山を目標として定めるべきなのだ。火星の運行現象でもいい。古代バビロニアの政治形態でもいい。絶滅言語の修復でもいい。有毒物質を中和する物質の開発でもいい。なにかひとつ絞ったテーマを定め、過去の研究事例をじっくりと辿り、それに自分の発想を上乗せしていくしかない。

だから大学では、まず基礎文献をみっちりと読み込むことが必要なのだ。基礎実験を繰り返してデータを丹念に積み上げていかなければならないのだ。ひとつの分野の、ひとつのテーマについて、細い道を地道に、自らの力で一歩一歩進んでいかなければならない。
そうして長い年月をかけ、小さくてもいいからひとつの山の頂上に自力で辿り着いた人は、「未知の山への挑み方」を会得できる。違う山であっても、その山の特徴を調べ、過去の経験から必要なところは再利用し、未知の部分は新たに創造し、頂上に挑むことができるようになる。

こうした大学の基礎演習を「退屈だ」「何の役に立つんだ」と切り捨てる人が多い。そういう人たちは、そこで学んでいる「内容」自体にしか興味がない。その地道な演習の積み重ねによって身につけられる能力にまで思いが至らない。登山に例えると、「こんなルートを地道に登ったところで、こんな道はこれからの人生で二度と登ることはないんだから、歩くだけ無駄だ」という態度だ。決して未開の世界を切り拓く能力など身に付かないだろう。

つまり「教養」というのは、ちっとも華やかではない代物なのだ。少なくとも世の中の多くの人が無邪気に憧れているような煌びやかなものではない。毎日地道に少しずつ、地を這うようなスピードで、ゆっくり着実に一歩ずつ前へ進むような、地味な作業の繰返し。毎日毎日、そういう繰返しを膨大な数だけ積み重ねていく。その果てに「真理」という分厚い岩盤にわずかながら小さな穴を開ける。それが「教養」というものの実態だ。世の中の人は、そういう「教養」を本当に欲しているのだろうか。そういう知的な積み重ねの毎日を、本当に「何かの役に立つ」とでも思っているのだろうか。

この本を読む限り、「与えられた既存の知識体系」「100冊の本の内容と実践への活かし方」を覚えることを「教養」と銘打っているような気がしてならない。しかし、そんなものは単なる「情報の記憶」であって、そこから何か新しいものが生まれてくるとは思えない。
この本を読んで原著をすべて理解した気になるのは論外だ。そんなのは、他人の登山経験談を聞いただけで自分も登った気になってる勘違い野郎と同じだ。しかし、この本で紹介されている100冊の本の原著を読んでみる、というだけの姿勢も五十歩百歩だ。「100名山で紹介されている山を、紹介されている装備で、紹介されているルート通りに辿ってみた」という程度のものでしかない。その人は101個めの山を自力で登頂できるのだろうか。そもそも、挑むべき101個めの山を自分で定めることができるのだろうか。

そういう動的・創造的な「教養」にフォーカスを当てず、既存の知識の敷衍とその応用だけに留まっている点は、筆者の落ち度ではないと思う。なにせこれだけの知的領域を克服した筆者だ。実際のところ、本当の教養とはどういうものかを十分に分かった上で、(本当の語義は違うが)確信犯的に敢えてこのような編集形態の本にしたのではないか、と個人的には疑っている。

本当の「教養」というのは、売れないのだ。本当の教養は「ひとつの分野を、じっくりと腰を据えて細い道を辿る」という地道な積み重ねしか生まれない。そしてそういう地道な努力は、嫌われる。それは、大学の授業を「退屈」「意味がない」「世の中に出ても使えない」と低く見下げている人の多さからも容易に分かる。本にしたところで、ろくに売れないだろう。かように、「ビジネスの世界と『教養』というものを折り合わせるのは、一般にうまく訴求する形でまとめるのは難しい」のだ

だから時間がなく忙しいビジネスマンには、このような「100冊全部分かりますよ!」「知識の使い方まで載っていますよ!」という、安直な「こたえ」が書いてある本のほうが重宝される。「こたえ」が与えられるのだから、自分の力で解答に達しようとする本当の「教養」とは正反対だ。僕が「この本は『教養書』と銘打ってはいるが、その内容と編集の仕方は『教養』とは正反対だ」と書いたのは、そういう事情に拠る。

本は、書けばいいというものではない。売れなければ意味がない。この本の筆者は相当なキャリアを積んだビジネスマンだから、その辺の事情はよく分かっているのだろう。馬鹿正直に「教養とは何ぞや」という正論を大上段に構えたところで、誰も見向きもしない。世の中は、「正しいこと」が「良いこと」とは限らないのだ。「正しいが売れない本」と「間違っているが売れる本」とでは、後者のほうがビジネスの世界では絶対正義だ。ましてやこの本は学術書ではなくビジネス書だ。売れないビジネス書など、矛盾以外の何物でもない。だからこの本は根本的に難点を抱えているが、「難点はこの本そのものの欠点というよりは、この本を読む読者の側に問われる問題」なのだろう。


ビジネスの常套手段として、この本でもあちこちに「権威による箔付け」が利用されている。例えばレイチェル・カーソンが「1999年、『TIME』誌の『20世紀の最も重要な人物100人』では、その一人に選ばれている」という箔付けが紹介されている。
しかし本当の「教養」ある態度というのは、TIME誌ごときの権威を盲信せず、「だから何だ?」「『TIME』誌の『20世紀の最も重要な人物100人』って、本当に妥当なの?」「選者は誰なの?」「目的ありきで偏向していない?」と疑いの眼をもち、自分の考えで価値を判断できる人のことだろう。



役に立てよう立てようとして必死な印象。

100年前の東大数学入試問題

この夏、本屋でめっちゃくちゃ面白い本を見つけましてね。


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『100年前の東大入試数学 ディープすぎる難問・奇問100』
(林俊介、KADOKAWA 2022)


著者の人はユーチューバーだそうで、数学や物理の問題を動画でアップしている人のようです。こういう面白いYouTubeだったら見てみたいなぁ。

僕はもともと大学入試問題を解くのが趣味です。その中でも東大入試はやはり良問が多く、世間の注目度が一番高いこともあってしっかり問題を作っています。というか単純に面白い問題が多い。受験者をふるい落とすことを目的とした私立大学の重箱の隅を突つくような瑣末な知識を問う入試問題に比べると、面白さが雲泥の差です。

その中でも、100年以上前の東大入試を見てみると、「指導要領なんて知ったこっちゃない」「高校までの学習内容なんて知らん。大学で学問したいならこれくらい解いてこい」という東大の気骨が感じられます。手加減一切なし。いいなぁこういう姿勢。受験生時代はそういう血も涙もない出題に「勘弁してくれよ」という感じだったんですが、いざ大学で本気で研究活動をすると、そもそも研究って血も涙もないものですからね。


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入試数学の中でも僕が特に好きな「1行出題」。このぶっきらぼうなところがたまらない。
これまでも「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」(2003年東京大学)「tan1°は有理数か」(2006年京都大学)、「1000以下の素数は250個以下であることを示せ」(2021年一橋大学)などの「名作」があったが、さすが昭和初期の東大入試はひと味違う。

まず、問題文が読めない人が多いのではないかと思う。xxxは「xのx乗のx乗」ではない。正しくは「xのxのx乗乗」だ。わかりやすく書くと「xの『xのx乗』乗」。xの何乗かなんだけど、その「何乗」にあたるものが「xのx乗」、という関係になっている。「3の3乗の3乗」は273だから19683だが、「3の『3の3乗』乗」は327だから7625597484987になる。 全然違う。

この問題ではさらにこれを微分しろと来る。累乗が面倒くさいときの微分はひっくり返して対数をとるのが定石だから、この問題も f(x):=xx とおくと、両辺の自然対数をとれば logf(x)=xlogx となって両辺を微分しやすくなる。見た目は恐ろしいが、アイデア一本のスルーパスを出せれば敵陣をあっさり突破できるタイプの問題だろう。


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昔の問題は英語の出題もいつくかある。この問題は要するに「イギリスの小包の取り決めによると、小包の長さと周の合計が6フィートを超えてはいけないのだという。このとき、許されるもののうち最も退席が大きい円筒形の小包の長さおよびその体積を求めよ」ということ。要は体積の最大・最小問題だから円筒形の体積を文字式で表し、その関数をグラフで表し増減表を見れば機械的に解ける。円筒の底円周と長さの合計が6フィートと決まっているから、体積に必要な変数はひとつで済むというところがポイントだろう。

思うに、なんで英語なんだろう。たしか東大数学教室は昭和初期までドイツに留学している人が多かったはずだ。矢野健太郎氏のエッセイにも、中川銓吉教授にドイツ語の発音を何度も直され、肝腎の数学の議論がまったく進まずに困った、という話が載っていた。森鴎外の『舞姫』に出てくる無節操野郎・太田豊太郎だって高校卒業までには英語・ドイツ語・フランス語をマスターしていた。東大入試だってドイツ語の出題でもよかったはずだが、明治39年の段階ですでに学術外国語として英語を選択していた東大の意図を知りたい。



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追跡セヨ」って、一体なにをすりゃいいの。
本書の解説を読んでみたら、どうやら「曲線の概略を求めよ」ということらしい。たぶん”trace”の直訳だろう。「追いかける」という意味のほかに、「図面を引く」という意味がある。 こういう出題の古めかしい日本語を見ているだけでもかなり面白い。

問題そのものは猛烈に難しい。関数だけいくら眺めていても概形すら想像できない。当然、式を変形しなければ処理できる形に持ち込めないが、その最初の砦がやけに堅い。現在の東大入試よりも明らかに難易度がかなり高い。


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出たな逆三角関数
現在では指導要領から外れていたため出題は御法度になっているが、大学に入ってからちゃんと数学を勉強するとむしろよく逆三角関数なしで問題なんて解いてたな、という印象のほうが強い。

今ではsin-1xと表記することが多いが、もともと半径rの円周上に取ったθラジアンの角度は、長さがrθの弧(arc)に対応する。だからarcsin(x)という表記になっているのだろう。逆三角関数というのは要するにx軸とy軸で90度回転したグラフになるので、三角関数の最も大きな特徴「周期性がある」という点では変わらない。周期性があるので区間を区切って考えるわけだが、ふつう-1から1までのところを正弦の逆関数の場合は-π/2からπ/2とおかなければならない。


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こういう、数値も数式も一切出てこない問題というのがわりと多くて面白かった。「紙の上に描かれた放物線がある。定規とコンパスを用いてその軸を求める方法を述べよ」という問題。方法を具体的に述べるだけでは十分条件を満たすだけなので、ちゃんとその方法で作図できる理由を証明しなければならない。2段構えになってる問題だろう。放物線なので話はそれほどややこしくなく、作図そのものは難しくない。難しいのはその方法が普遍的であり得る証明のほうだ。これを最後までぶち抜ける学生がはたしてどれほどいたのだろうか。

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「幾何學的意義ヲ説明セヨ」などと仰せられましても

「大変に興味深いです」とか書けばいいの?



昔の高校生のほうが間違いなくよく勉強してたと思う。

客観性を失う呪い

伊集院光のラジオで昔、妙に心に引っかかる話を聞いたことがある。


伊集院光が子供の頃の思い出をしている内容だ。
昭和の昔、給食の牛乳はビンに入っていた。その紙蓋を専用の錐のような道具で開けるタイプだった。

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こーゆーの。


子供たちはいつの頃からか、その紙蓋を集めるようになった。少しでも珍しい紙蓋を集めようと、駅の牛乳スタンド近くのごみ箱を漁ったり、週末や連休で学校が休みのはずの日付が押してある紙蓋を収集したり、とにかく「珍しい紙蓋」を集めるのに熱中していたそうだ。珍品の紙蓋を持っている子供は「偉い」という位置づけになり、子供内での存在感が増した。

そのうち、その紙蓋がいつからか「通貨」のような役割を果たすようになった。珍しい紙蓋ひとつと普通の紙蓋10枚を交換したり、特殊な紙蓋ひとつを「支払って」掃除当番を替わってもらったり、紙蓋ブームが加熱した。伊集院光はその頃の熱中度合いを「インフレみたいなものだった」と説明している。

ある日、小学生時代の伊集院光は、手持ちの紙蓋を全部処分し、それ相応の利益を得た上で、「俺は今後一切、紙蓋なんか知らない!」と一方的に撤退を宣言した。それを見た他の子供たちは困惑し、次々に紙蓋集めをしなくなり、急に憑物が落ちたように紙蓋交換をしなくなった。伊集院光は当時のことについて「なんていうのかな、急にバブルがはじけたような感じ。凄い紙蓋をたくさん持っている奴が、その価値が急に暴落して呆然としてた」と語っていた。

なんとなく身につまされる話だ。具体的にはよく思い出せないが、僕も子供の頃、なんかそういう「仲間内だけで妙な価値観が流通し、交換の原則で取引をしていた」という記憶がある。メンコだったこともあるし、ポテトチップスのおまけについている野球カードだったこともある。実際の社会経済に参入していない子供でも、そういうモノを使って「商取引」をした経験は、わりと誰にでもあるものではないか。僕は世代的にはずれているが、僕よりも後の世代では、ポケモンカードとかトレーディングカードなど、その役割を担うことを想定した商品が意図的に作られている。

このような「通貨の替わりになるような取引媒体」に共通している特徴は、「取引の対象となるモノそれ自体には何の価値もない」ということだ。少なくとも、それが交換により取引されるときに負うことになる価値を越えるほどの重要性は、モノそのものには無い。牛乳の紙蓋は単なる紙蓋に過ぎず、普通の状況ではただのゴミだ。「それの取引が流行っている小学校」という文脈を外してしまえば、紙蓋にはなんの価値もない。普通の状況でいきなり牛乳の紙蓋を渡されて「これあげるから、掃除当番替わって」と頼んでも、「は?何言ってんだバカ」と断られるのが落ちだろう。

そのような「異様な価値をもつようになるモノ」というのは、それが通用する特殊な状況が構築されて、はじめて価値をもつ。小学校の子供の仲間うちだけで牛乳の紙蓋が価値をもつことがあるように、世の中には「それ自体には何の価値もないものが、閉鎖的な環境の内部においては異様な価値をもつようになる」ということがあり得る。その価値は、その環境の内部だけで通用する価値なので、少年時代の伊集院光のように「俺もう知ーらね」と離脱すれば、価値は一瞬で水泡と化す。ものの価値というものはどのように決まるものなのだろうか。なんか「相対的に決まる不安定な価値のあり方」を示唆しているようで面白い。


閑話休題。
ニュースを見ていたら、よく分からない事件が報じられていた。

歌舞伎町『トー横の王』、女子中学生への淫行容疑で逮捕
(1/28 金 朝日新聞)

女子中学生とわいせつな行為をしたとして、警視庁は、住居不定、無職水野泰宏容疑者(24)を東京都青少年育成条例違反の疑いで逮捕し、28日発表した。

水野容疑者は、東京・歌舞伎町の中心部の「トー横」と呼ばれる場所に集まる少女たちから人気があったといい、若者の間で「トー横の王」と呼ばれていたという。

少年育成課によると、逮捕容疑は昨年12月~今年1月、歌舞伎町のホテルで、18歳未満と知りながら都外の中学1年生の少女(13)とみだらな行為を繰り返したというもの。容疑を認めているという。

2018年ごろから歌舞伎町の複合施設「新宿東宝ビル」横の路上や広場に居場所をなくした若者たちが深夜に集まるようになり、周辺は次第に「トー横」と呼ばれるようになった。集った少女たちがわいせつ被害に遭うなどの事件が相次ぎ、警視庁は昨年6月から補導活動を強化している。

水野容疑者は18年ごろから「雨宮ただくに」と名乗って「トー横」で踊る様子などをSNSで投稿し、若者の人気を集めていたという。今回被害に遭った少女もSNSを通じて水野容疑者と知り合い、「有名人だったのでアイドルと同じ感覚であこがれを持った。優しくされて好きになり、断れなくなった」と話しているという。

水野容疑者は少女について「交際相手ではない」と話しているという。同課はほかにも多数の少女とわいせつな行為をしていた疑いがあるとみて調べている。


繁華街にたむろってる不良共がお互いに喰い合いをした、というだけのつまらない事件だ。「被害者」とされている中学1年生の少女なるものも、制御する能力もないくせにSNSなどを振り回し、挙句は本人の実態も知らないくせに「有名人だったのでアイドルと同じ感覚であこがれを持った」など軽薄な価値観で衝動的に動いている。喰い物にされて当たり前だ。加害者、被害者ともにレベルが低く、同情の余地など無い。「中学生だから」という理由で一方的に被害者扱いされているが、SNSというのは「ソーシャル」、つまり社会的な媒体だ。使用するには権利だけではなく義務も伴う。それを使用した以上は、それに伴う結果についての責任も負わなくてはならない。

僕がこの事件について興味をもったのは、容疑者の「雨宮ただくに」こと水野泰宏が、近隣に屯す少年たちに「トー横の王」と呼ばれていた、というくだりだ。住所不定・無職の輩が「王」とは大したもんだ。その「王」という称号は、何を元手として得られた称号なのだろうか。

単純に考えれば「金」だろうが、住所不定無職の輩にそれだけの資金力があったとは思えない。被害少女は容疑者のことをSNSで知ったそうだ。記事にも「『トー横』で踊る様子などをSNSで投稿し、若者の人気を集めていたという」とある。だからおそらくSNSに動画を配信して、それが人気を博していた、という程度のことではあるまいか。

すると「王」という称号の根拠となるものは、「SNSのフォロワー数」「動画のアクセス数」ということになるだろう。どれだけフォロワーがいるか、どれだけアクセスを稼いでいるか、という「数字」が、トー横なる界隈では「力」に直結する尺度として通用しているのだろう。その「数字」が一人歩きをした価値をもち、その界隈の「存在感」に昇華し、「トー横の王」なる珍妙な存在をつくり出したのだろう。

しかしその力の根源は、トー横からちょっと外れて世の中を客観的に見れば、一切価値のない単なる数字に過ぎない。フォロワーが多かったら、何だというのだろうか。SNSのフォロワー数も動画のアクセス数も、その世界とは関係ない者にとっては「牛乳の紙蓋」と大差ない。フォロワー数の数字を競っているのも牛乳の紙蓋を見せびらかすのも、本質的には対して変わりはあるまい。「トー横の王」というのは、そのような虚構の上に作られた「まやかしの価値」に過ぎない。トー横あたりに群がってる頭の悪い若者にふさわしい価値尺度と言えるだろう。

結局、そういう若者達というのは、実力主義の世界に生きていないのだと思う。そのような若者は、競技の勝ち負け、試験の点数、売り上げの金額、勝ち取った契約数といった「客観的に価値が保証される絶対的尺度」を嫌う。それに直面することを極度に嫌がる。己の無価値を突きつけられるのが怖いのだ。だから「試験の点数で人の価値が決まるのか」などと喚き、試験の点数そのものを忌避する。

しかしそれは単に、直面すべき絶対価値から逃げているに過ぎない。そういう主張をする輩は例外なく、試験の点数が取れない手合なのだ。課される絶対的尺度をクリアした上で価値に疑問を呈するなら良い。しかしそれができないくせに「そんなものに価値など無い」というのは、負け犬の遠吠えに過ぎない。

「トー横の王」という呼称からは、そのような卑俗で軽薄な価値観でコミュニティを形成する愚かさが、にじみ出ている。集まってる人間がそもそも、誰もが「絶対的な価値尺度」から逃げてきた輩ばかりなので、「絶対的な価値尺度」も無しにひとりの人間を「王」などと軽薄に崇め奉る。自分の生き方が自分の世界の見方を歪めている典型的な事例だ。 自業自得と吐き捨てて良い。

だから、そういう輩は突然「絶対的な価値尺度」を突きつけられると世界があっさり崩壊する。どんなにSNSでフォロワーがいようとも、根拠のない存在感で一目置かれていようとも、「法律に違反した」という圧倒的な判断尺度の前では意味がない。逮捕されたことで「王」の権威は失墜したことだろう。根拠のない価値観は、ある日いきなり崩れ去る。小学生の紙蓋のように「俺、もうやーめた」と宣言できる若者であれば、自らを閉鎖的な価値観から解放できるだろうが、まぁそこまで理性と知性のある輩がトー横界隈に群がってるとは思えない。それができないからこそ、いつまでもあの辺で構築される閉鎖的な価値観の中で生きているのだろう。トー横では今日も、牛乳の紙蓋を必死に集めている若者が屯っているのだろう。


京極夏彦の小説に『絡新婦の理』という作品がある。本というよりもキューブ型の直方体をしているので本屋ですぐに分かる。
その中に、聖ベルナール女学院という学校の経営者一族である「織作家」という名家が出てくる。

織作家には紫、茜、葵、碧という4人の娘がいる。話が進むうちに、同時期に起きた連続殺人犯「目潰し魔」の事件、聖ベルナール女学院内の悪魔崇拝、売春などの事件のいくつかに、織作家が深く関わっているらしいということが分かる。折しも学園理事長の織作是亮が絞殺される。

織作家は旧家独特の謹厳実直な雰囲気があり、家族内でも緊張感が絶えない。特に三女の葵は女性の権利向上の為の活動をしており、発言は常に論理的で厳しく、男尊女卑を匂わせる発言をした人間には高圧的な態度をとる。事件の関係者のひとり今川は、諸事件の根本には織作家の旧態依然とした家風があると考え、主人公の中禅寺秋彦に織作家の憑物落しを依頼する。中禅寺秋彦は単なる古本屋だが、憑物落しを本業とする陰陽師でもある。
その憑物落しの場面が面白い。

憑物落しをするにあたり、中禅寺秋彦は三女の葵にこのように話す。

「葵さん、あなたがどうお考えになっているのか僕には解りませんが、いずれ平野は吐く。そううればあなたは確実に失脚します。あなたは事実上の織作家当主となり、柴田グループの重職にも就いたのでしょう。自首するならまだ救いはある」


ここで憑物落しが「失脚」という言葉を使っているのが僕にはどうにも気になった。「失脚」というのは一般的に、社会的に保証されている地位を追われることを意味する。しかし葵は物語中、一族が経営している会社や企業で何らかの役職についているわけではない。一族内での発言力はあるし影響力もあるが、なにか形式的に保証された「地位」についているわけではない。

物語では、中禅寺秋彦の憑物落しによって葵の誤謬と隠された真実が暴かれ、葵の権威は失墜する。それ以後は織作家内での立場が低下してしまう。社会的にはともかく、織作家内で確かに葵は「失脚」する。別に何らかの役職から追われるわけでもなく、減給や謹慎などの制度的な懲罰がなくても、「失脚」という概念は思いのほか世の中にあふれているものなのだろう。

似たようなことは、人が集まるコミュニティー内であれば、程度の差こそ有れどこにでもあるものだと思う。人が数名集まれば、その場を統括する「オピニオンリーダー」が必ず台頭する。場で「いちばん偉い人」が何となく決まる。他の人に対する影響力を公使するようになる。しかし、何をもって誰が「偉い人」になるのか、という客観的な基準は存在しない。「存在感」「影響力」という無形のものは、その場の人たちだけの中でしか通用しない限定的なものに過ぎない。状況と環境が替わってしまえば、その「偉い人」はただの人かもしれないのだ。 僕は「鯛の尾より鰯の頭」という慣用句はそういう意味だと思っている。

だから、ある日突然その地位から「失脚」してしまうこともあり得る。場にいる人の憑物が落ち、「…別にあの人、なにか根拠があって偉いわけじゃないよね」と全員が同時に気付いてしまうことがある。誰かが意図的に「俺、今日からやーめた」と宣言して場の価値観から離脱するという荒技を使うこともあるだろう。

『絡新婦の理』で行われている「憑物落し」というのは、実際には何をやっているのか。具体的には「価値観の解体」のことだ。葵の行動原理になっている主義主張、世界観、価値尺度をことごとく反駁し、その背後にあるのが単なる主観に過ぎないことを暴く。客観的に保証されない価値尺度を指摘し、それ自体には本質的には価値がないことを諭す。小学生の子供に「ただの牛乳の紙蓋だろ?」と言い放つに等しい。憑物落しの対象となる「呪い」の正体は、「閉鎖的な環境で流通している、根拠のない価値感」のことだ。

トー横あたりに群がる若者も、腕のいい憑物落しにかかれば「何をそんなに毎日、必死になっているのか」の馬鹿さ加減に気付いて、安定した価値尺度で世の中を計る世界に戻れるのかもしれない。しかし、今のところは彼ら自身がそんなことを望んでもいないだろうし、望んでいたとしてもそれを認めないだろう。よくスポーツの世界では「実力がすべての世界」という言葉が使われるが、世の中では逆に「実力とは関係ないものがすべての世界」ということのほうが多いのではないか。何の実力も価値もない人間が「トー横の王」などと祀られる界隈では、有無を言わさぬ「実力」など逆に歓迎されないだろう。

世の中の人々がどのような価値観で動いているのか。人と人の間の「序列」というのはどのように決まるものなのか。社会生活を営んでいる限り、誰もがどこかで漠然と感じることだろう。自分にとっては絶対的なものだと思っているものでも、ある日突然「俺、今日からやーめた」と宣言することで離脱でいる程度の呪いかもしれない。一言で言うと「客観性」というだけの能力なのだが、それを身につけて閉鎖的な価値観の縛りから自由でいられている人は割と少ないと思う。

いじめは、閉鎖的な学級でこそ起こる。そこには世の中の多くの人にとって理解不能な「その場限定の価値・原理」が同調圧力として働いているのだろう。自分を律している価値観は、本当に絶対的で不動のものなのだろうか。おそらく僕は一生関わることもないであろう「トー横」という界隈で起きた奇妙奇天烈な事件報道から、そんなことを考えた。



紙蓋集めに熱中してる輩の多いこと多いこと。

京都のややこしい住所

2


2021年5月13日放送の『秘密のケンミンSHOW極』(日本テレビ系列)で、面白い企画をやっていた。 「ヒミツのKYOTO 極 【京都府】 」と題して、京都の住所のわかりにくさの特集だ。

京都市内の住所は、一般的な区画制ではなく、碁盤目状に区切られた通りのタテ列とヨコ列の組み合わせ、さらにその交差点からどっちに入るのか、さらにその先にある町名、で構成されている。


1


だから京都市では、最後に記される「町名」にあまり意味がない。
京都市内の住所では、前半部分の「どの通りと、どの通りの交わりか」が重要であって、町名というのはその場所につけられた便宜上の符号でしかない。だから京都市内に同じ町名がたくさん重複している。


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「住所は亀屋町です」というと「どこのですか?」と訊かれる


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ピザ屋の配達も困るらしい


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プロのタクシードライバーにしてこの一刀両断


京都の住所がかようにややこしいのは、「町名」の区切り方が一般とは異なっていることに拠る。
ふつう「町」というのは、道路で区切られた区画のことを指す。ところが京都では、「町」の区画が道路によって区切られておらず、道路をまたいで同じ町が広がっている。町の区切りが目に見える道路ではないため、町の境目が分かりにくい。タクシードライバーが認識していないもの無理はない。


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普通はこう。


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京都はこう。 町名が通りを挟んでいる。

(資料は「山と終末旅」さまからお借りしました)


なぜ、京都ではこのように複雑な町名の付け方になっているのか。
それと全く同じ問いが、東京大学の入試問題、2020年の日本史[2]で問われている。

京都の夏の風物詩である祇園祭で行われる山鉾巡行は、数十基の山鉾が京中を練り歩く華麗な行事として知られる。16世紀の山鉾巡行に関する次の(1)〜(4)の文章を読んで、書きの設問に答えなさい。

(1)1533年、祇園祭を延期するように室町幕府が命じると、下京の六十六町の月行事たちは、山鉾の巡行は行いたいと主張した。
(2)下京の各町では、祇園祭の山鉾を確実に用意するため、他町の者へ土地を売却することを禁じるよう幕府に求めたり、町の十人に賦課された「祇園会出銭」から「山の綱引き賃」を支出したりした。
(3)上杉本「洛中洛外図屏風」に描かれている山鉾巡行の場面を見ると(図1)、人々に綱で引かれて長刀鉾が右方向へと進み、蟷螂(かまきり)山、傘鉾があとに続いている。
(4)現代の京都市街図をみると(図2)、通りをはさむように町名が連なっている。そのなかには、16世紀にさかのぼる町名もみえる。

設問
16世紀において、山鉾はどのように運営され、それは町の自治のあり方にどのように影響したのか。5行以内で述べなさい。

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教科書でしか日本史を勉強していない受験生にとっては「なんじゃこりゃ」という問題だろう。日本史の教科書には、祇園祭の山鉾巡行なんて出てこない。「なんでこれが日本史の問題なんだ」と訝る受験生も多いだろう。
しかしこの問題には、東大の「なぜ日本史を学ばなくてはならないのか」という基本姿勢が明確に打ち出されている。

まず東大の入試問題の常識として、設問のヒントに無駄な記述は一切ない。つまり合格答案は、与えられた条件をすべて使い切ったものでなければならない。4つのヒントと2つの図、それらをすべて汲み取った答案だけが、合格答案となる。

まず(1)の文から、当時の町民は、幕府の命令に対して平然と異を唱えるほど力をもっていたことが分かる。なにせ「祇園祭の延期」という幕府の命令に平然と楯突いたのだ。
ちなみに1533年の幕府の祇園祭禁止令は、比叡山延暦寺の働きかけによるものだった。もともと祇園祭は疫神による死者の怨霊を鎮めるための鎮魂祭(御霊会)だったが、その主体があちこち移った挙句、最終的に現在の八坂神社に落ち着いた。八坂神社は比叡山延暦寺の末寺だったため、「本家」の延暦寺の山王祭が行われない時は、右に倣えで祇園祭も中止になることが多かった。それに加えて1533年は応仁の乱の中断後という事情もあった。

山鉾巡行というのは、要するに祇園祭のアトラクションのひとつだ。鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じた。今でいう御神輿や山車の類いと思えば当たらずとも遠からず。その巡行を行うのは八坂神社の宮司ではなく、当時経済力をつけてきた町人だ。

つまり、祇園祭を中止にするというお達しがあったにも関わらず、(1)のように「山鉾の巡行はやらせてくれ」というのは、本来であれば本末転倒なのだ。お祭りが中止なのに御神輿だけが町を練り歩くことになる。つまり(1)の記述からは、16世紀にはすでに祇園祭が変質しており、鎮魂祭である祭りそのものよりも、町人が練り歩くアトラクションのほうが主体となっていたことが分かる。

(2)の記述からは、祇園祭のアトラクション・山鉾巡行によって、京都の町民がどのように団結していったのか、その仕組みが分かる。要するに人と人の結びつきの原理が「血縁」ではなく「地縁」だった、ということだ。農村のような血縁関係による家族的共同体構成ではなく、「その土地に住み着いた人達」が団結して共同体をつくる。だから「土地の売却」は、集団の秩序に反するものとして御法度となった。

その自治組織のメンバーから山鉾巡行の資金を徴収するということは、山鉾が「地縁」による結びつきを象徴し、強固にするための機能を果たしていたということを意味する。教科書的な記述では「経済力を強めてきた町人たちは、自分達で自治の費用を出し合って、自ら共同体の主体としての力を行使した」ということになる。ここに至って山鉾巡行は単なる祭りのアトラクションではなく、共同体存続のための重要な位置づけを占めるようになった。そりゃ幕府の禁止令にも背くわけだ。

資料(3)(4)は、図1,2と連動して読まなければならない。図2の現在の京都の地図を見ると、「傘鉾町」「蟷螂山町」「長刀鉾町」など、(3)の記述にある山鉾チームの名前がそのまま町名として確認できる。これは、町ひとつの共同体が、山鉾巡行を行う単位として現在に残っていることを示している。

また図1の山鉾巡行の様子をみると、まさに現在の山車と同じで、通りに沿ってワッショイワッショイと練り歩く様子が分かる。つまり山鉾巡行では「通り」が重要なのだ。図2の地図を見て分かる通り、現在の京都の町名は、通りをはさんでその両隣に広がっている。このような成り立ちの町を「両側町」という。このように山鉾巡行の路である「通り」を基体として、その両側に共同体としての「町」を構成した。

つまり、『秘密のケンミンSHOW極』の特集、「なぜ京都の住所はこんなに複雑なのか」という疑問に対して、東大入試の日本史の問題は「室町時代の祇園祭で行われた山鉾巡行の名残り」という答えを用意している。昔のことを紐解くと、なぜ今そうなっているのかが分かる。

(こたえ)
山鉾は町ごとに所有し町民が管理するものであり、自分達で費用を負担し自らを担い手として巡行が行われた。町の通りは山鉾の通路として重要な位置を占め、その通りを挟んで地縁による結びつきで住人が団結し、山鉾の名を冠する町名をつけるに至った。そうした町は共同体としての自治意識が高く、山鉾の費用徴収や土地売買の禁止により連携を強め、町組や惣町を形成していった。


「歴史なんて、今になっては関係ない知識なんだから、学校で習う必要はない」などと嘯く輩は多い。
また、昨今の東大生を回答者としたクイズ番組のブームによって、東大生を「普通の人は知らないような知識を記憶している『暗記お化け』」と思い込んでいる輩も多い。
この東大日本史の問題は、そういう傾向に対して「馬鹿じゃねぇの?」と挑発的に問題を突きつけているように見える。

この東大日本史の問題を見て、「そんなこと学校で習っていない」という文句を言う人もいるだろう。しかし、こうしたことが日本史の教科書に載っていないかというと、そんなことはない。ちゃんと書いてある。
16世紀の室町時代の世情について、歴史の教科書には「富裕な商工業者である町衆が自治の担い手となり、町を自治単位として独自の町法を定めた」というようなことが書いてある。

教科書のこうこう記述は、まぁ、だいたいの高校生が読み飛ばす。「単語」で「記憶」できる情報形態ではないからだ。
高校生の多くは、歴史の勉強を「情報を記憶すること」と思い込んでいる。聖徳太子といえば「十七条憲法」「冠位十二階」、織田信長といえば「楽市楽座」などの名称を覚える。彼らがその用語を暗記したがるのは、歴史上それらの概念が重要だからではなく、「名詞の用語として記憶できる便利な情報形態だから」に過ぎない。

だから、受験生の多くは経済史に弱い。経済史というのは「その時代の背景となる趨勢」のことであって、なにか特別の事件やできごとが起こるわけではない。つまり「用語一発で覚えることができない分野」なのだ。そういう時代の抽象概念を、現在につながる流れの一部として体系的に理解するには、相当に高度な思考作業が必要となる。

ところが高校生は「抽象概念を具体的事象に投影させて、さらにそれを再び抽象概念に一般化しなおすことによって概念への理解を深める」という思考作業を行う能力がない。刺激や情報に反応するだけなら猿でもできる。歴史の勉強といえば「単語頼りの暗記」一辺倒の高校生は、猿並みの進化段階と言える。

現役の東大生が出演しているクイズ番組が、あんなに「知識」「情報の暗記」にフォーカスを当てるのは、それが番組の構成にとって便利な情報形態だからだ。「問題です」と始め、問題文を読み上げ、回答者が早押しで「◯◯◯◯っ!」と短い単語を答える。非常にリズムがよい。見ている視聴者が飽きない。クイズ番組が描く「東大生」というのは、単に「情報形態としての『用語』をいっぱい暗記している学生」であって、東大入試が問う「論理を武器にして抽象的な概念を具体化する能力をもつ学生」ではない。そのほうが番組が作りやすいからだ。クイズ番組と東大入試では、求めているものがそもそも違う。

もちろんクイズ番組に出演している東大生は、東大の問う問題に合格しているのだから、東大入試とクイズ番組では求められている知識の質が違うということくらい百も承知だろう。そこを「いや、本当の勉強というのはこういうものじゃないんですよ」などと番組内で小賢しく高説を垂れない辺りは、彼等の頭の良さだろう。クイズ番組を単なるゲームとして割り切って、自分の知的領域の拡大とは別物として考える。東大生くらいならその程度の割り切りはできて当然だ。

普段から「日本史なんて現代では関係ない知識なんだから習っても無駄だ」などと嘯く輩に限って、今回のような東大日本史の問題を「学校ではこんなこと習ってない」と文句を言う。東大が問うているのは、「歴史というものは、何らかの形で現在に影響を及ぼしている。その変遷の筋道を辿ることができるのか」ということだ。「歴史不要」厨があまりにも歴史を「役に立たない」「役に立たない」と連呼するので、「じゃあ役に立つところを見せてやろうじゃないか」という挑発的な問題だ。東大の問題が解けないのであれば、「日本史の知識なんて役に立たない」のではない。人の側に「歴史の知識を役に立たせる程度の能力すら無い」のだ。

京都の住所がわかりにくい、ということそのものは『秘密のケンミンSHOW極』のような卑近なバラエティ番組のネタにもなるような、面白い現象だ。だが、その根源をたどっていくと室町時代の山鉾巡行という、一見何の関係もなさそうな歴史的事実に突き当たる。その両端を埋めるための間の過程を推理し、それに象徴される時代の姿を想像すること、それが「歴史を勉強する」ということだ。決して、クイズ問題に答えるために歴史用語を頭に詰め込むことが「歴史の勉強」ではない。

大学全入時代となり、世間には大学を卒業している人も多くなった。しかし相変わらず、東大入試というと「百科辞典の隅から隅まで暗記していなければ答えられない超難問」のような勘違いをしている人が多い。知の体系の本質は、情報を溜め込むことにあるのではなく、自ら知を創り出すことにある。その辺を勘違いしている人が、自己啓発とやらの目的で「勉強」を始めたとしても、苦しいばかりで得られるものなど何もあるまい。



コロナのせいで2年連続で中止になりましたね。

矛盾しない方策

1000以下の素数は250個以下であることを示せ。

2021年、一橋大学の入試問題。ついこないだ出題されたばかりのホヤホヤ。
問題はたった1行。ぶっきらぼうにも程があるが、問題としてはなかなか面白い。

素数を手計算で簡単に並べ上げるアルゴリズムは無いから、余事象をとって「素数ではないものが750個以上ある」ことを示すことになる。
つまり、この問題は整数問題に見えて、実際のところは集合問題だ。余事象をとって、集合の積を排除して和集合の濃度を導く、という集合論の基本さえ身に付いていれば、機械的な計算で解ける。

この問題の面白いところは、「力技でしらみつぶしに調べ上げるとき、どの程度まで力を使う必要があるか」を見極めることができるかどうかによって、難易度が著しく変わることだ。
「素数ではないもの」、つまり素因数をもつ数を調べるのであれば、2の倍数、3の倍数、5の倍数、7の倍数、11の倍数… と素数の倍数を「1以上1000以下の数」から数え上げていけばいい。問題は、倍数を数え上げる素数をどの程度まで調べなくてはならないのか、だ。

素数2, 3, 5あたりに関しては簡単だから簡単に数え上げられる。
2の倍数は、1000÷2=500個
3の倍数は、1000÷3=333個
5の倍数は、1000÷5=200個
これだけで1033個。ここから「重なり」を引かなくてはならない。
6の倍数(2と3の公倍数)は、1000÷6=166個
10の倍数(2と5の公倍数)は、1000÷10=100個
15の倍数(3と5の公倍数)は、1000÷15=66個
さらにここから、「過剰に引いた分」を足し直す。
30の倍数(2と3と5の公倍数)は、1000÷30=33

よって、1以上1000以下の数のうち、2,3,5の倍数のものは
500+333+200-166-100-66+33=734
734個ある。 つまり、1以上1000以下の数で、2, 3, 5の倍数かつ素数でないものは、2, 3, 5(こいつらは素数)自身を除くから、
734-3=731個ある。

ここで話が終われば話は簡単なのだが、この数字では、欲しい数「750個」にちょっと足りない。
つまり題意を満たす「素数でない数」を求めるのに、2, 3, 5という素数の倍数だけでは足りず、その先までちょっと調べなければならない、というところが一橋大学の意地悪なところだろう。

ここで、「では7の倍数を調べよう」「それでも足りなければ11の倍数を調べよう」… と考えるのは、単純ではあるが思考力が足りない。面倒くさいからだ。
2, 3, 5の倍数でやった思考法を、7の倍数、11の倍数、13の倍数… と拡張していくと、その分だけ集合の交わりの部分を排除する処理が面倒になる。ここはひとつ、上で計算した「731個」(=2,3,5の倍数)という数をこれ以上操作することなく、楽に答えを導きたい。

5よりも大きい素数を調べると、7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, … と続く。これらの数同士を掛け合わせた数は、素数ではないし、2,3,5の倍数でもない(つまり「731個」に含まれない)。
上記7つの素数から任意のふたつを選んで掛け合わせた数は、7C2=21通り。これは先ほど求めた731個には含まれないので、足し合わせると752通り。つまり「1から1000までの数には、素数ではない数が752個は確実に存在する」。
余事象をひっくり返すと、1000以下の素数は1000-752=248個以下であり、題意の通り250個以下であることが示される。(Q.E.D.)


昨今、コロナ禍で行政の臨時措置や時限立法など、「その場限りの対処」が増えてきている。
その対処に四苦八苦し、特に飲食店が苦境に晒されているのは周知の事実だろう。

コロナ禍のような、単一の手法で解決案が見いだせない状況では、様々な手段を累積的に積み重ねなくてはならなくなる。複雑な問題を解決するときには、先に打った手が、後に打った手と矛盾してしまう、という混乱が生じることがある。
僕の印象として、そういう矛盾するような施策をとってしまう人というのは、いいかげんな人なのではなく、「愚直なまでに基本方針に忠実な人」に多いような気がする。

コロナ禍が一般市民に蔓延するのを防止する、という方針を真面目に突き詰めれば、ロックダウンのような強制封鎖が良いに決まってる。しかし、そうなれば飲食店や販売店は経営が立ち行かなくなる。どちらかを取ればどちらかが立たない、そういう矛盾した状況に対処しなければならない時は、どうすればいいのか。

非常事態宣言を出して一般市民の行動を制限しようとする政治家も、GoToキャンペーンのような人とモノの流通を促進する政策を打ち出す政治家も、ともに自らの「正義」に従って「信念」で行動しているのだと思う。世の中を悪くしようとしているのではなく、彼らは彼らなりに世の中を良くしようと思っているのだろう。
そして、そのような「信念」が固い人ほど、矛盾する状況があったり、問題が複雑になり過ぎて単一手法では解決し得なかったりする状況に弱い。「固い信念」は、時として柔軟性を損ない、現実に対処できなくなる危険性を孕んでいる。

上に挙げた一橋大の問題でも、単純に「2, 3, 5で行った演算を、そのまま7, 11, 13,…と拡げていけばよい」と考える人は、泥沼に嵌る。基本に忠実ではあるのだろうが、頭が固く、「一度うまくいったから」という硬直した思考回路から抜け出せない。
いちど上手くいった施策でも、後から追加手段を追い討ちする時には、「前に打った手段と矛盾しないように隙間を縫って手を打つ」という調整力が必要になる。

数学を学べばそのような能力が身に付く、という単純な話ではないが、昨今の世情を見てみると、あまりに理性に欠け、「信念」一本やりで行動している行政者が多過ぎる気がする。個人的には、固過ぎる信念に執着する政治家など、信用に値しない。状況が変化しても対処手段を変えることができず、しまいには「自分のとった方策が正しいことを示すことのみに血道を上げる」という本末転倒なことになる。

世の中の問題には、数学のような絶対解はない。どのみち、その場に居合わせた人々の最大公約数的な「最適解」を模索する以外にはない。
しかし、その「模索」する方法論を、安易に情緒や信念に頼り過ぎ、理詰めで考える方法論が放棄され過ぎているように見える。



指折って数えるだけで解けました。
ペンギン命

takutsubu

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