たくろふのつぶやき

お出かけの時には保冷剤を持つのだ

Philosophy

EU内格差

スペインの有名な車メーカーといえば、何だろう。


ヨーロッパといえば先進的な地域だというイメージがあるが、その内部では思わぬ格差が生じている。一般に、経済が潤っている金持ちの国は、イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギーなど。逆に経済が停滞し生活が苦しいのは、スペイン、イタリア、フランスなど。地図上で言うと、おおよそ北部のほうが金持ちで、南部のほうが貧乏、という格差がある。

身も蓋もないことを言ってしまえば、「ヨーロッパでは地下資源が北部に集中しているから」なのだが、それだけが理由ではない。経済格差の分布は、そのまま宗教上の分布と一致する。金持ち国の多くはプロテスタントで、貧乏国の多くはカトリックだ。
マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通称『プロ倫』)で、その宗教上の分布と経済力の分布が一致するしくみを説いている。

もともとキリスト教というのは原始的共産主義で、財産はすべて共同体の共有だった。個人の蓄財は認められず、個人の経済活動はすべて「共同体への奉仕」だった。そこから「清貧」という道徳律が生まれ、財産の貯蓄を蔑む価値観が生まれた。

その伝統的道徳律が、宗教改革を機に一転する。 カルヴァンは「予定説」を唱え、「神の救済対象はあらかじめ決まっており、個人の努力では変えられない」と主張した。神が救済の対象とするものは、現世での行いとはまったく関係ない。悪いことをしても「救われることになっている人」かもしれないし、良いことをしても「ハズレ」かもしれない。

これは仏教的な「因果律」(善行に励めば救われる)とは対極の考えであり、このままでは道徳律に結びつきにくい教義だった。現世での行いが救済に関係ないのであれば、悪いことをしても構わないじゃないか、というモラルにつながる。

そこでカルヴァンは理屈をひねる。人は神の意思を知ることはできない。しかし「神によって選ばれた人間であれば、人はその意思に沿った行いをするはずだ」と唱えた。これは「善行→救済」ではなく、「救済→善行」というベクトルに因果関係を逆転させた考え方だ。思考の逆転換と言ってよい。

このカルヴァンの説によって、労働とは「金儲け」ではなく、「禁欲的で真摯な奉仕」である、という道徳律が完成した。労働の結果として得られる対価は単なる結果論に過ぎず、労働とはもともと「宗教的な使命感」で行なうべきものである。しかし、結果として得られた対価は「自分がどれだけ神に真摯に向かい合ったか」を示すバロメータなので、肯定的に捉えてもよい。

実際のところカルヴァン主義というのはやたらと禁欲的で、言葉の上では個人の蓄財を否定するものだった。プロテスタントではあるが、カトリックと同じく「人が苦しい思いをすることを良いことだと考える宗教」であったことには変わりない。しかし理屈の上では紆余曲折しているが、カルヴァンの説はつまるところ「金儲けに励んで蓄財をしても良い」ということだ。露骨にそうは言っていないが、結果としてはそういうことになる。これは従来のキリスト教の価値観とは正反対の考え方だ。

従来のキリスト教では、日が昇ったら労働し、おしゃべりしながら適当に働き、お昼になったら昼寝をし、夕方になったら仕事を終える、というのんびりしたものだった。今でもスペイン、フランス、イタリアなどのカトリックの国ではそうした労働観が生きている。こうした労働のあり方というのは、人間性にとっては非常によいものではあり昨今の日本は見習うべきところでもあろうが、生産性は低い。爆発的な経済発展にはつながらない。

一方、カルヴァンの予定説を演繹すると、「働け働け、それが神の意思に沿って生きることだ」となるため、この道徳律は結果として、人類の中に眠っている莫大な生産性を引き出した。ドイツ、イギリスなどのプロテスタントの国々が「勤勉に働く国民性」というイメージがあるのは、そのためだ。その宗教的観念が、現代的な資本主義の精神的な礎となった・・・というのがマックス・ヴェーバーの説だ。

実際には、『プロ倫』の理屈は現実を反映していないところもあり、批判は数多い。またプロテスタントの中でもカルヴァン主義はきわめて少数派であり、影響力という点でも疑わしいところがある。しかし、そういう難点を差っ引いても、『プロ倫』の問題意識の持ち方と、思考の方向を裏返す発想のユニークさは、充分に面白い。「宗教」と「経済」という、まったく関係なさそうなふたつの現象を結びつける発想は、現代的な観点から見ても感心する。


翻って昨今、EUによってヨーロッパの経済は統合に向かっている。域内の関税は撤廃され、ヒト、モノ、サービスの流動性が高まり、経済が一国単位では成り立たなくなっている。
そこまでは常識の範疇だろうが、このEU統合の流れは、これまで分断されていたカトリック、プロテスタントという両宗派の統合をもたらす、ということに注目していない人は多い。

もし『プロ倫』の考え方が正しいとすると、宗教のあり方は経済のあり方に影響する。そこに経済のほうを統合してしまうと、根っこになっている宗教が、対立要素を残したまま統合の必要性に直面する。現在のEUは、その経済的な効果のほうが喧伝されているが、その根っこになっている宗教観や道徳律まで、統合に向かっているのだろうか。


表3-1は、EUの加盟国であるドイツ、フランス、スペインについて、2011年時点でのEU域内相手とEU域外相手に分けた貿易額、および、各国のEU域内相手とEU域外相手を含めた輸出上位品目を示している。なお、貿易収支はそれぞれの輸出と輸入の差額である。

(1)スペインとフランスはいずれも貿易収支が赤字であるが、フランスでは、その赤字の多くがEU域内との貿易で生じている。フランスの貿易で、EU域内との貿易赤字が最も大きいのは機械類や輸送用機器であるが、これらもEU域外との貿易収支は黒字となっている。こうした現象が起こる理由として考えられることを、2行以内で述べなさい。

(2)スペインには、世界的に知られている自動車のブランドが見られないのに、自動車が輸出第1位となっている。その理由を、スペイン国内外の状況にふれながら、3行以内で述べなさい。


euro




東京大学2014年、地理の問題。
表に出ている国のうち、設問対象になっているフランス、スペインと比較の対象として挙げられているのが、プロテスタントのドイツ。明らかに、『プロ倫』で説かれている経済格差を下敷きにした設問だ。

問題そのものは難しくない。問(1)では親切すぎるヒントが与えられているし、問(2)もスペインの雇用状況や移民問題などを知っていれば演繹的に解ける。 ともに、「知らなくても、考えれば分かる問題」だ。

問(1)では、わざわざ問題文に「フランスの貿易で、EU域内との貿易赤字が最も大きいのは機械類や輸送用機器であるが」と書いてある。ヒントとして、わざとらしい。
フランスで機械類や輸送用機器、とあれば、フランスが誇る輸送用旅客機の巨大メーカー、エアバス社を想起するのは簡単だ。アメリカのボーイング社とともに世界の旅客機のシェアを二分している。エアバスの本社は、フランスのトゥールーズにある。

エアバス社は、フランスだけでなく、ドイツ、イギリス、スペインのメーカーで共同出資する国際企業だ。EUの4カ国が集まったのは、そうしないと莫大な資金力を誇るアメリカのボーイング社に対抗できないからだ。もともとエアバス社は、経済規模からしてボーイング社には到底及ばず、そのまま戦えば生産競争に負けるのは目に見えていた。そこで各国のメーカーがそれぞれの飛行機部品を開発し、それをフランスに持ち込み、組み立てるという分業体制で生産を行なっている。域内関税が撤廃されたEUだから可能なやり方だ。

つまり、フランスが輸入している機械類というのは、「各国で作った飛行機部品をエアバス本社に持ち込んでいる」ということだ。別にフランス国民が消費するための機械類ではない。それをフランス国内で組み立て、EU域外の国々に売る。日本の航空会社もエアバス社の飛行機を買っている。

解答(1)
飛行機部品の組立て工場がEU加盟国に分散し、分業で生産した機械部品を輸入しており、完成品の旅客機をEU域外に多く輸出しているため。



問(2)を見て、「はて?」と首をひねった受験生も多いのではないだろうか。多くの受験生は、まずスペインが自動車輸出のトップランクに位置することを知らなかったのではないか。ヨーロッパの自動車メーカーといえば、ドイツのベンツ、BMW、アウディ、フォルクスワーゲン、イギリスのロールスロイス、ベントレー、ランドローバー、フランスのルノー、シトロエン、プジョー、イタリアのフィアット、フェラーリ、ランボルギーニ、アルファロメオなどが思い浮かぶが、スペインの自動車メーカーと言われても「知らんなぁ」という人がほとんどではないか。

有名なメーカーがない、ということは、スペインのメーカーが作っているのではなく、国外の企業の受注で作っている、ということだ。問題文にもご丁寧に「スペイン国内のメーカーのことを考える必要はありませんよ」という趣旨のヒントが書いてある。
スペインという国は、『プロ倫』でマックス・ヴェーバーが予測した通り、EU内では「Bランク」に相当する経済国だ。ドイツ、イギリスなどの「Aランク」国よりも、経済格差がついている。

つまり、「Aランク国」からしてみれば、Bランクのスペインは、人件費が安い。スペインは地域的に対岸のアフリカに近く、安い労働力となる移民が多い国でもある。
自国よりも安い人件費で安価に組み立て作業ができ、かつ関税がかからないのであれば、組立て工場はスペインに作ったほうが安い。EU域内だけでなく、アメリカや日本の自動車メーカーもスペインに工場を作り、そこで生産した製品を関税なしでEU域内で売りさばいている。

解答(2)
スペインでは賃金水準が低く人件費が安いため、諸外国が自動車メーカーが進出し生産工場を作り、EU枠内に無関税で売っている。他に特筆すべき産業が少ないため、結果として自動車メーカーが輸出額上位になる。


状況は、今の中国と似たようなものだろう。中国が経済大国となったことは疑いないことだろうが、では中国で有名なブランドは何があるか、と言われると返答に窮する。中国は別に自国でブランドを立ち上げて自国製品を売っているわけではない。安価な労働力に目をつけた先進各国に工場を作られ、他国の製品を作らされているだけだ。

「形を変えた植民地化」だと思う。帝国主義時代の植民地は、産業革命を達成した国による現材料調達と売り込み市場の必要性と、産業革命以前の国による軍事的な膨張政策の、いずれかが背景にあった。現在では、経済格差から人件費に格差が生じ、他国製品を作らされる工場の立地となる。「グローバリズム」と言えば聞こえは良いが、「関税を撤廃して売りさばきやすくする」「現地国の産業育成を阻害して、自国製品を流通させる」という点では共通だ。

この時代の流れに、元祖・植民地大国のイギリスが離脱したのは、面白いというか、皮肉に見える。自国の地理的ハンデを植民地政策で補い、大国にのし上がったイギリスが、こういう方法を取れない「EU離脱」に舵を切った。実際のところ、イギリスがEUを離脱した国民感情の大部分は「充実した社会保証に群がる移民に対する嫌悪感」であって、こうした経済的なメリットを勘案して判断した国民はそれほど多くなかろうが、国民投票前にもこういう経済面でのデメリットは主張されていた。

こういうEU域内の「格差」は、EU拡大に従って循環的に派生するものだろう。例えば2004年の第五次拡大で、東欧諸国が大挙してEUに加盟した。その中には、自動車産業の大国チェコが含まれている。安価な労働力だけでなく、蓄積した技術力と販売網、安価な製品価格によって競争力を増し、旧西側諸国に市場を拡大している。自動車メーカーも、スペインよりも安価な人件費で済む東欧諸国は、企業進出先の候補として魅力的だろう。もし各国メーカーがスペインを切って東欧に拠点を移した場合、はしごを外されたスペインに残る産業はなにもない。

こうした歪みは、マックス・ヴェーバーの時代とはまた違った形での経済格差を生み出すことになるだろう。プロテスタントとカトリックという違いでの経済格差は、EUの統合によって均一に均されているかと思いきや、それとはまた違う軸で経済格差が生じている。人件費の高低というのは、経済学上では何の疑いもなく使われているが、冷静に考えてみれば「人の価値に値段をつけている」ということだ。EUのように、制度上、機械的に統合をすれば、その中の状況までが均一になるわけではない。スペインの場合、「関税の撤廃」という一見平等に見える制度が、却って域内格差を広げる原因になっている。

今のヨーロッパは、今や新しい『新・プロ倫』で捉え直すべき局面にさしかかっているのだと思う。地理的に遠いので生活実感としては薄いが、数字だけを見ても、今のヨーロッパは「統合」「グローバル化」の大合唱のもと、こうした「大企業にとって都合の良い不均衡」がひそかに蓄積してはいないか。ヴェーバーが「信仰」と「蓄財」の関係をひっくり返したように、現在のEUでも「統合」と「経済」の関係が逆転するような何かが出てくるような気がする。



これを2014年の時点で出題する先見性。

『応仁の乱』に見る歴史学の姿

最近、巷の本屋さんで頻繁に取り上げられている本を読んでみた。


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『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』
(呉座勇一著、中公新書)


出版は2016年10月25日だが、発売して半年程度の2017年5月15日の時点で、第19版という、とても信じられない重版を繰り返している。堅実に歴史ものを出版する中公新書が、ここまで売れる本を出すのも珍しい。

一読して感じたこととしては、「日本ってすごい国だな」ということ。書いてある内容のことではなく、このような本がベストセラーとなってよく売れる、ということ自体がすでに凄い。欧米では、売れる本といえば、ほとんどが同時代的な政治・経済ものの「役に立つ本」であって、歴史本、特にこの本のような「世間に一切媚びない本」が売れる、というのは、世界的に珍しい現象なのではないか。

日本には数多の歴史ファンがいるが、僕はその風潮に懐疑的なところがある。
自分の趣味として歴史探訪を楽しむ分には、何の問題もない。趣味というのはそもそも自己完結的なものであり、自分で楽しければそれでいい。
ところが、中には「歴史というのは高尚な趣味」「最近の若者はマンガばかり読んでけしからん、司馬遼太郎を読め」などという勘違いをしている輩がいる。『こち亀』の大原巡査部長のように、歴史趣味の価値を絶対化し、他人に押しつけ強要する手合いがいる。

ところが、そういう「歴史趣味伝導師」の話を聞いてみると、実は「歴史好き」なのではなく、単なる「歴史を題材にした『つくり話』好き」に過ぎないことが多い。歴史小説にかぶれて歴史好きを自称して憚らない人というのは、なんのことはない、著者のつくり話に夢中になっているだけだ。

例えば、司馬遼太郎は数多の歴史的偉人を題材にとっているが、司馬は実際にそれらの人物に会ったことがあるわけではない。その作品で描かれている世界も、「実際の世の中はこうだった」という、事実の描写ではない。司馬に限らず、歴史小説というものは、人物や題材こそ実話に近しいものであったが、その話の内容や詳細は作者が描きたいことを描いたにすぎず、所詮「作り話」の域を出ないものなのだ。司馬遼太郎は歴史小説作家として精力的な活動を行なったが、彼の示した世界が歴史学会で認められているわけではないし、彼自身が歴史研究家として名を成しているわけでもない。

つまり、「歴史小説が好き」という趣味も、「マンガを読むのが好き」という趣味も、ともに「作り話が好き」という同種のものに過ぎない。片方が他方を貶してよい関係ではあるまい。
そう言われると、「自称歴史好き」はすぐに反論する。曰く「いや、歴史小説はすべてが作り話ではない。そこで起きている事件や登場人物は実際に即している場合が多く、そういう物語を読むことで歴史の知識が身につく」・・・だそうだ。多くの人が「マンガよりも歴史小説のほうが高尚な趣味」と思い込んでいる原因も、おそらくそんなところだろう。
僕は、こういう言い方をする大人がいること自体が、日本の歴史教育の大失敗を示しているような気がする。

「自称歴史好き」の自己弁護の着地点は、つまるところ「歴史の知識を身につけることができる」ということだ。つまり、知識を覚えることが歴史の勉強だと思っている。人名を覚えて、事件を覚えて、年号を覚えることが、歴史の勉強だと思っている。

もちろん、そういう「覚えて覚えて覚えて」が大好きというのであれば、自分の趣味の範囲で充分に楽しめばいい。どんな趣味でも、個人が楽しむ範囲であれば良いも悪いもない。しかし、そういう「知識を増やすことが歴史の勉強」と思っているのであれば、他人に向かって偉そうに「歴史を学ぶ意義」を吹聴する資格はない、と僕は思う。


今でこそ日本の歴史は各時代の詳細が明らかになっているが、なぜそんな昔のことまでが明らかになっているのだろうか。平清盛が何を考えて権力を掌握したのか、徳川家康が幕府を作ったときに何に苦労したのか、明治新政府を作った時にどういういざこざがあったのか、いま現在の我々が知り得る「歴史の事実」というのは、どのようにして再現されたのだろうか。

歴史家というものは、別にタイムマシンを持っているわけではない。学校で使った歴史の教科書に書いてあることは、誰かが実際に「見てきたこと」ではないのだ。歴史学という概念が発生し、同時代の記録を後世に残す意義が理解され、方法論が確立されたのは、19世紀になってからのことだ。それまでの時代を生きた市井の人々は、国の通史はおろか、ほんの100年前に起こった出来事すらよく知らなかったに違いない。

では、歴史研究者はどのようにして太古の出来事を現代に再現しているのか。
特別な方法などない。文献に書かれていることを丹念に読んでいるだけなのだ。一字一句を精読し、複数の文献を比較し、地を這うような地道な作業を繰り返し、その時代の「事実」を明らかにする。現存している資料だけを頼りに、その針の穴から小さく見える世界だけを頼りに、その時代の様子を描いている。

以前、中島敦の『文字禍』を題材に、「歴史とは何か」について書いたことがある。そこで中島敦の「歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌しるされたものである」「書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ」という文言を挙げた。乱暴に聞こえるが、実際の歴史学研究というのは、そんなものなのだ。

実際には、文書に記されなかった「事実」もたくさんあるだろう。しかし、そういう「沈黙の事実」は、歴史学という研究活動が対象にしない(できない)ものだ。歴史学というのは、過去に起きたすべての事実を網羅しようとする試みではない。限られた資料から、可能な限り、継続性のある客観的な方法論で、事実のかけらを細々と紡いでいく行為なのだ。

当然、間違いもある。ある時代には歴史の事実だと思われていたことが、新しい証拠の発見によって覆ることもある。学問である以上、そうした誤謬はいわば必然であり、避けられない。
つまり「歴史を学ぶ」ということで得られる最大の福音は、研究の結果として出てくる「知識」ではなく、それを導くための「方法論」のほうにある。研究結果としての「知識」は、間違っているかもしれないのだ。「どこかの歴史家がそう言っているから」「この本にそう書いてあるから」という、いわば「他力本願」の知識をいくら集めても、そんなものは一夜にして覆る可能性がある、脆弱なものなのだ。

歴史の知識をひけらかす人というのは、ほぼ例外なく、「根拠」を知らない。「今川は武田を孤立させるために通商路を遮断したけど、困窮した武田に塩を送ったのが上杉なんだぜ」などという「知識」を披露した人に、「出典は?」「何に載っているの?」と聞くと、ほとんど答えられない。
出典を答えられない、ということは、知識の確実性を自分で理解していない、ということでもある。なにか新しい証拠が出てきたときに、比較ができない。それまでの常識を疑い、新たな知見を導くことができない。つまり、自分自身の力で、自分の知識を改訂していくことができない。

そういう人は、いつまでも「誰々がこう言っているから」「何々の本にこう書いてあるから」と、他人の言説を鵜呑みにして盲信していくだけだろう。覚えるだけで、自分の頭で考えていない。信じやすく、騙されやすいだけの人だ。いくら歴史についていろいろ「知って」いても、その根拠がただの作り話の歴史小説であれば、たいした信憑性はない。 
もし歴史小説に書いてあることが歴史そのものであるならば、逆に歴史をでっちあげたければ歴史小説を書けばいい、ということになる。自分たちの得心のいくストーリーを勝手にこね上げて、国民こぞって熱狂し、いつのまにかそのストーリーを歴史上の「事実」だと思い込む、という無知蒙昧な行為が幅を利かせることになる。日本が、そんな歴史教育が皆無などこかの国のようになってもいいのだろうか。

つまるところ、歴史を学ぶ意義というのは、「証拠に基づく」「問いをたてる」「仮説を導く」「信頼性を検証する」「予測を検証する」という、一連の思考過程を鍛えるところにある。それは歴史に限らず、科学一般の方法論、およびそれがもたらす意義と、なんら変わらない。歴史学が「人文科学」というわけの分からない名称で括られているのは、それが生み出す「知識」が同質なものだからではなく、それが基づく「方法論」が同一だからだ。


この『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』という本は、そのあたりの「歴史を学ぶということは、一体どういうことなのか」を理解していない人が読んでも、まったく面白くない本だと思う。
応仁の乱。戦国時代を招いた大戦乱。誰でも名称くらいは知っているだろう。しかし、「何が原因で、誰が関わって、結局どういうことになったの?」と改めて聞かれると、答えられる人は少ないだろう。

この本を読めばよく分かることだが、結局、応仁の乱というのは、決まった原因がない。誰かひとりの意思によって始まった戦乱ではなく、室町時代という構造のねじれが溜まりに溜って、抑え切れなくなって一気に噴出したのが応仁の乱なのだ。そこには多くの人間の利益関係が複雑に絡まっている。
また本書の評によると、応仁の乱には「ただの一人の勝者もいない」。つまり全員が痛み分けだったのであり、勝者と敗者の二項区分で分けられるような、単純な結果ではない。

要するに、応仁の乱という事件は、「自称歴史好き」が大好きな、「固定化した知識を覚える」という作業に、最も向かない事件なのだ。勝者がいないから、ヒーローもいない。それぞれの利益に関する駆け引きが同時進行するから、TVドラマで分かりやすく描けるストーリーでもない。結果として「覚えにくい」「よく分からない」「面白くない」事件、という理解のされ方になる。

そういう「インチキ歴史好き」の好みなど一切顧みず、この本は淡々と歴史的検証を積み重ねる。
ふつう戦乱を描くとなれば、武将が主人公になると思うだろう。しかしこの本の主人公は、経覚と尋尊という、奈良・興福寺の2人の高僧だ。なぜ京都の戦乱を描くための主人公が、奈良の坊主なのか。

その人物設定は、べつに著者が奇をてらったわけでも、ストーリー的に新機軸を打ち出そうとしたわけでもない。単に、応仁の乱を検証するための重要な文書資料が『経覚私要鈔』『大乗院寺社雑事記』という文献であり、その著者がふたりの坊主、というだけの理由だ。文献資料の著者を主役に据える、という、当然すぎる理由だ。

当然、文献の信憑性を検証するためには、ふたりの坊主の置かれた環境や経歴を知る必要がある。この本のはじめには、そういう必要な情報を怠ることなく、丹念に紹介する章が設けられている。業火の中で刀を斬り合う決闘を期待して読んだ人は、本の最初のほうで延々と奈良の坊主について説明されて、戸惑うことだろう。この本で行なっているのは「文献を丁寧に読み解いて、時代の姿を再現する」という歴史学の検証であって、「見てきたように嘘を言う」という歴史小説の記述ではない。物語性の高いドラマチックな展開だけを期待するインチキ歴史好きの手合いが読んで、面白いと思う類いのものではあるまい。

文献を読みとくと、いままで学校で習った「応仁の乱」観が、わりといいかげんなものだったことが分かる。僕はこの本を読むまで、応仁の乱の原因は、子がいなかった足利義政が、弟の足利義視に将軍職を譲ろうとしたが、実子の義尚を将軍にしたい日野富子が対立し、それに細川勝元、山名宗全らの権力争いが絡んだもの・・・という理解をしていた。しかし文献をひとつひとつ紐解くと、そういう「常識」とは異なる事実がいろいろと分かる。

たとえば、実は足利義視と日野富子は個人的に親しい良好な関係だったこと(日野富子の妹が義視の妻なので、両者は義理のきょうだいの関係にある)。細川勝元と山名宗全は「不倶戴天の敵」ではなく、むしろ20年以上の長きにわたって苦楽をともにした盟友だったこと。東軍から総大将に祭り上げられた足利義視が、いつのまにか西軍側の大将になっていたこと。京都の戦乱が各地に拡大した理由は「補給路を潰した結果」であり、その中継地となった奈良のほうがむしろ物騒になり、坊主が記録を残す理由になったこと。城にめぐらせた堀は攻め込まれないための施設だが、市街戦になると単なる塹壕となり、戦乱が長期化する原因になったこと。

すべて、歴史にストーリー性を求めようとせず、文献から事実を丁寧に拾うようにする姿勢をもって、はじめて分かることだ。おそらく大河ドラマが応仁の乱を取り上げるとしたら、義視と富子は「不倶戴天の敵」として描かれるだろう。ドラマの視聴者は、「直感的には分かりにくい事実」よりも「面白くて分かりやすい嘘」のほうを好む。インチキ歴史趣味の好みも、似たようなものだろう。

そういう一般的な傾向に一切媚びることなく、淡々と文献から客観的根拠を拾い上げていく構成は、がっちりして弛みがない。足腰が盤石な、知的な堅牢さを感じる。物語性など関係ありません、ドラマチックな展開なんてありません、ただ単に歴史資料にはこのように書いてあります。そういう積み重ねでこの本は成り立っている。

構成と方法論がしっかりしているだけでなく、著者の文章力がなかなか高い。記述ひとつおろそかにせず、研究成果を余す所無く公表したい、という魂の込もった文章だ。いわゆる名文・美文の類いではないが、そもそも学問研究にはそんなものは必要ない。伝えたいことを過不足なく、わかりやすいように例えを入れ、簡潔かつ躍動感のある文章を綴る。機能美に溢れた文章とでも言おうか。


日本という国は長い歴史があるので、学校で日本史を学ぶのは大変だ。試験が嫌いなあまり「歴史なんて昔のことを暗記ばっかりして、いったい何の意味があるのか」と嘯く学生がいる。また先述の通り、歴史小説と歴史学習を混同し、ただの作り話に心酔することを「歴史を学ぶこと」と勘違いしている大人も多い。ともに、日本の歴史教育がきちんと目的を果たしていないことによる結果だろう。
この本の筆者が、歴史学の方法論を啓蒙する意図でこの本を書いたのかどうかは分からない。しかし、偶然かもしれないが、応仁の乱という題材そのものが、「歴史を学ぶということはどういうことなのか」を問うための、よい試金石だったのではないか。このような本が版を重ねているということは、日本人の知的レベルも、なかなか高いものなのだろう。 日本もまだ捨てたものではないのかもしれない。



堅実な中公新書らしい本といえば中公らしい。

書かれた記録

毎日、日記をつけている。


いままで、習慣として日記を書いていた時期はいくつかある。
子供の頃に書いていた日記は論外だ。あれは、学校によって宿題として課されていたものであり、書いていてちっとも楽しいものではなかった。確か「生活記録帳」とかいう名前で、提出が義務づけられていた。当然、先生が読むことを前提としている。だからいきおい、「先生に読ませるための日記」となる。僕はそういう理不尽に敏感なガキだったから、わざと事実無根の架空日記をつけて、先生を困らせていた記憶がある。

大学院のころに、このたくつぶを書き始めた。僕がいたアメリカの大学街は、まぁ、大学以外に何もない、陸の孤島みたいな所だった。当然、夜や週末にヒマを持て余す。そこでアメリカでの生活を日記のように書き綴るようになった。
思えば、たくぶつも途中から「人に読ませるための日記」になった感がある。当時、地球の反対側で遠距離恋愛をしていた今の嫁に、毎日の生活を知らせるための日記になった気がする。今でも、当時の日記記事を読み返すと、読まなければならない論文を放ったらかして、いそいそとBlogの更新をしていた頃のことを思い出す。

今でも、僕はたくつぶの他に日記をつけている。Blogではなく、紙の日記を書いている。たくつぶと違うことは、絵日記であること。僕は文房具好きなので、定評のある文房具をつい買ってしまう癖がある。世に好評の「ほぼ日手帳」(ほぼ日刊イトイ新聞刊)というものを買ってみたのだが、使い道がない。そこで落書きのように絵日記をつけはじめた。これがまた嫁に好評で、いつのまにか嫁に見せる絵日記になってしまった。僕の日記の宿命として、どうも「誰かに見せるもの」になってしまうらしい。


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日記帳として大変つかいやすい。 


嫁は僕の絵日記に、勝手に『トド記』と名付けて、年ごとに保存している。前のことを思い出そうとして絵日記を読み返すと、その日に何をやっていたのかを思い出してなかなかおもしろい。
しかし、その「おもしろさ」は、ちょっと普通の意味とは違う気がする。

絵日記に書いてないことを思い出そうとしても、なかなか思い出せない。昔のことを思い出そうとすると、自分の記憶にあることと、絵日記に描いてあることが、違うことがある。僕の記憶は、僕目線での、いわば「一人称」の記憶であるのに対し、絵日記に描いたのは、他者の目線で自分を描く「三人称」の記憶だ。その目線の違いがひきおこす記憶との齟齬が、なかなか面白い。これは、日記を描いている本人しか分からない面白さだろう。紙に記録として残したことは、あくまでも保存された情報であり、本当にあったこととは違うのが普通なのだろう。



話は突然変わるのだが、中島敦に『文字禍』、芥川龍之介に『西郷隆盛』という小説がある。


中島敦のほうは有名だろう。代表作のひとつに数えられることもある。
舞台は古代アッシリア。この設定だけでも尋常ではない。普通の日本人になじみのある生活感の設定ではない。主人公は、宮廷に仕える博学者のナブ・アヘ・エリバ。彼は粘土版に彫られた文字を研究しているうちに、文字が意味のない記号の連鎖に見えるような、奇妙な気分を体験する。もしかすると、これは「文字の霊」の仕業ではないか。

人に話を聞いてみると、文字を覚えた途端に人が能力を落とす事例が報告される。文字を覚えてから急に蝨を捕とるのが下手になった者、眼に埃ほこりが余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧くなくなったという者。文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。

中島敦の筆致は格調高く、特定の事件が起こる訳でもない抽象的な「感覚」を描いていながら、まったく澱みがない。おそらく中島敦は、文筆で生計を立てる身でありながら、文字に対して、かたちのない「畏敬の念」を持っていたのではないか。誰でもうっすら感じることなのだろうが、それをひとつの物語に結実させる創作能力は、感嘆に値する。同じ文字を繰り返し読み書きしているうちに、意味のない線のかたまりに見えてしまう現象は、現在の認知科学では「ゲシュタルト崩壊」としてよく知られている。しかし、そういう用語もなかったであろう時代に、そういう現象を拾い上げる感性は、並大抵のものではあるまい。

『文字禍』では、文字がもたらす惨禍の例として、「歴史」をとりあげている。
エリバ博士のもとに、歴史を学ぶことに疑問をもった若い歴史学者が尋ねてくる。

若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄ことがらをいうのであろうか?それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
 獅子狩りと、獅子狩の浮彫とを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌しるされたものである。この二つは同じことではないか。
 書洩らしは? と歴史家が聞く。
 書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。


エリバ博士の言は、乱暴のように聞こえるが、実際の歴史学はまさしくこの考え方を前提にしている。実証的な歴史学が根拠とするのは「過去の文字記録」だけである。今現在、世界史や日本史の教科書に「事実」として書いてある多くの事例は、すべて過去の記録に出典がある。文字記録に残されていないことを推測して書くのは、作り話であり、歴史的事実としては認められない。 中島敦は、文字がもたらす「実体験から遊離した仮想現実」の危うさを、エリバ博士の言を借りて言及している。

物語の最後で、エリバ博士は、「文字の霊」の呪いを受けて死んでしまう。具体的には、大地震の際に書架が倒れ、おびただしい数の粘土版の下敷きになって死ぬ。
この物語が、古代アッシリアなどという素っ頓狂な舞台設定になっているのは、この結末のための伏線だろう。中島敦は、「文字の呪いを受けて死ぬ」という出来事を、具体的な事例に落とし込もうとして、「粘土版の下敷きになる」というアイデアを思いつき、そこから逆算してアッシリアを舞台に設定したのではなかったか。


一方、芥川の『西郷隆盛』のほうは、お世辞にも小説として完成度が高いとは言えない。
テーマは同じく、「文字に書かれたことだけが歴史なのか」という問題だ。

物語は、筆者が「大学の友人の本間さん」という人に聞いた話、という体裁になっている。本間さんは、筆者と同じ大学で、歴史学を専攻している。そして「本当か嘘かは、聞いた人が判断してくれればいいよ」と言って、誰にでもこの話をしてくれる。筆者のまわりでは、この話は「本間さんの西郷隆盛」として有名なのだそうだ。

曰く、本間さんが京都旅行の際に夜行列車に乗ったときのこと。本間さんは窮屈な客車に音を上げて、食堂車に逃げ込んだ。そこで白ワインをちびちび飲んでいると、別のテーブルで、とある老紳士が杯を傾けている。本間さんはどこかでその老紳士を見たことがあるような気がした。するとその老紳士は、本間さんのテーブルに歩み寄り、話しかけてくる。暇を紛らわす話し相手くらいにはいいだろうと、本間さんはその老紳士と話しはじめる。

本間さんが、自分の専門は歴史学だ、という話をすると、老紳士は身を乗り出して語り出す。
君は歴史を学ぶときに書物を読むでしょう。しかし、そこに書かれていることが本当だと断ずることができますか?文字に書かれた記録なんて嘘だらけだ。実際、私はそういう歴史の誤謬を数多く知っている。

本間さんは、自分の歴史研究にケチをつけられたような気分になり、むきになって反論する。すると老紳士は笑いながら、驚くような話をする。
たとえば西郷隆盛。誰もが、彼は西南戦争で死んだと思っているでしょう。でも、もし彼が生きていたらどうします?

本間さんは唖然として、そんなことはあり得ない、と断言する。西郷が死んだことは記録にあるし、多くの人が彼の死体を目にしている。
すると老人は悠然と続けて、「僕はあらゆる弁護を超越した、確かな実証を持っている。君はそれを何だと思いますか。それは西郷隆盛が僕と一緒に、今この汽車に乗っていると云う事です。」

それから本間さんは老紳士に連れられて、一等客車に赴く。
そこで本間さんが目にしたのは、客車のカーテンに寄りかかり、居眠りをしている白頭の肥大漢。まさしく西郷隆盛その人だった・・・。

「君は今現に、南洲先生を眼のあたりに見ながら、しかも猶なお史料を信じたがっている。しかし、一体君の信じたがっている史料とは何か、それからまず考えて見給え。城山戦死説はしばらく問題外にしても、およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。誰でもある事実の記録をするには自然と自分でディテエルの取捨選択をしながら、書いてゆく。これはしないつもりでも、事実としてするのだから仕方がない。と云う意味は、それだけもう客観的の事実から遠ざかると云う事です。そうでしょう。だから一見当あてになりそうで、実ははなはだ当にならない。」


度肝を抜かれている本間さんを見て、老紳士は笑い、種明かしをしてくれる。
「あれは僕の友人ですよ。本職は医者で、かたわら南画を描く男ですが。」

西郷隆盛本人ではないのですね、と念を押す本間さんに、老紳士は「もし気に障さわったら、勘忍し給え。僕は君と話している中に、あんまり君が青年らしい正直な考を持っていたから、ちょいと悪戯をする気になったのです。しかしした事は悪戯でも、云った事は冗談ではない。僕はこう云う人間です。」と名刺を渡してくれる。肩書きも何も書いていない名刺を見て、本間さんは老紳士をどこで見たことがあるのかを思い出す。
「先生とは実際夢にも思いませんでした。私こそいろいろ失礼な事を申し上げて、恐縮です。」


なんじゃこりゃ、という感じの小説だ。
モチーフとなっているのは、文字がもたらす歴史の誤認。人間が実際に経験したことと、文字情報によって得た歴史認識は、まったく別物である。このモチーフ自体は優れた視点だ。芥川くらいの博学才穎であれば、この手の問題意識は持っていて不思議ではない。

しかし、それを小説として昇華させる腕前に、疑問を感じる。起こったことはなんということはない、「西郷隆盛のそっくりさんを見てびっくりした」というだけの話だ。物語として、それほど面白いものではない。老紳士の正体も、結局は最後まで明らかにされない。全体として、曖昧模糊とした印象のまま話が終わる。芥川の多くの作品に感じるような、すぱっと世の中を斬ったような読後感がない。

しかも芥川は、わざわざこの物語を、入れ子の構造にしている。筆者が「こういう経験をした」という一人称で話しているのではなく、わざわざ本間さんという登場人物を間に入れ、「彼からこういう話を聞いた」という体裁にしている。

この入れ子の構造は、19世紀に小説というものが書かれ始めたときに定番だった手法だ。嚆矢はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』とされている。この伝奇小説は、はじめから最後まで、「北氷洋で遭難していたところを助けられた学者が、死ぬ寸前に、どうしてそうなったのかの経緯を語った話」という体裁をとっている。 この手法には時代背景があり、当時は小説という「つくり話」を読み手が許容する土壌が育っていなかった。科学技術によって作られた人造人間、などという話を書いてしまうと、それを読んだ一般市民は「本当にそういうことがあったのか」と信じ込んでしまう危険がある。教育レベルがそれほど高くなく、無知蒙昧な伝説が闊歩する時代では、独創的なストーリーテラーは、不要な混乱を社会にもたらす危険があっただろう。それを避けるために、「・・・という話を誰々さんから聞いたの」という伝聞の体裁をとる。

しかし、芥川の『西郷隆盛』は、わざわざ入れ子の構造にする必然性が見えない。なにせ、語った事件自体が真に迫ったものではない。作中に登場する本間さんは「本当か嘘かは、聞いた人が判断してくれればいいよ」などともったいぶっているが、そもそも真偽を云々するほど、中身は大した話ではない。

芥川の小説は、時期によって書き方がかなり異なり、しかも劣化に向かっていったのは周知の事実だ。傑作は初期の作品に多い。しかしこの『西郷隆盛』が書かれたのは、初期の1917年。『鼻』『芋粥』が1916年、『蜘蛛の糸』『地獄変』『奉教人の死』が1918年だから、最も創作意欲が旺盛だった時期の作品といってよい。そんな時期の作品に、こんな駄作が紛れていること自体、ひとつの疑問になり得る。

おそらく、中島敦と芥川龍之介では、モチーフを形にするためのアプローチの仕方が、逆だったのではあるまいか。
中島敦の『文字禍』では、「文字とは何か」から話を始めている。文字が意味のない羅列に見える。文字(=間接体験)を覚えると、能力(=直接体験)が疎かになる。そういう話の筋で、文字がもたらす惨禍の最たるものとして、「歴史」を取り上げている。

ところが芥川の『西郷隆盛』では、最初のとっかかりが「歴史とは何か」だったのではないか。歴史とは事実として過去にあった全てのことなのか、現在の我々が資料から知り得るだけのものなのか。
そこでは、「文字」は、資料を残すための媒体としての位置しか占めていない。物語のなかで老紳士が疑義を呈しているのは「資料の信憑性」であって、「文字がもたらす情報形態」ではない。このふたつは、似ているようで異なる。資料の信憑性を論じるときには、調査方法、資料保存、執筆者の事情など、歴史に関わる「研究作業」が焦点になる。文字そのものの機能や存在意義に関してまで否定しているわけではない。

つまり中島敦と芥川では、どっちの端をスタートにして、どっちの端をゴールにするのか、線の引き方が逆なのだ。文字から始めて歴史を論じるのと、歴史から始めて文字資料を論じるのでは、話の奥行きが異なる。ともに歴史を捉える視点をもっていることは共通しているが、彫り方によって完成品の出来が大きく違ってしまった、ということだろう。


そこまでの話を是としても、まだ芥川には疑問がある。
芥川はモチーフの芽を嗅ぎ出して、それを作品に昇華する技としては、天才的な技能をもっていた。少なくとも初期の作品では、ただのお話に過ぎない昔の説話を、鮮やかな小説に作り変えている。
その芥川が、「歴史とは何か」という大きなテーマを扱う際に、料理の仕方を誤るようなヘマをするだろうか。

僕が芥川の全作品を読んだ印象としては、時期によって出来・不出来の差があるのは確かとしても、全作品に共通する特徴がある。それは「人とは何か」「人は社会にどう関わればいいのか」という、人の内面や生き方を描いている点だ。問題作品として議論されることが多い『河童』などは、ほとんど告白小説に近い。

おそらく芥川は、自分の内面を堅固につくりあげることに苦心し続けた作家ではなかったか。そして、それに失敗して自ら命を断った。不安定な自己の内面に直面する努力を続け、それを描くことに創作能力の全てを注ぎ込んだ。

そういう「内面への視点」は、歴史学などという客観的記述を是とする思考作業とは、まったく思考回路が異なる。世の中を大きな流れとして捉え、自分をその流れをつくる要素のひとつとして適切に配置する。世の中における、そういう客観的な自己の置き方は、芥川のような孤高の巨星には、難しかったのだろう。

一方の中島敦は、幼少の頃から喘息を煩い、自分の命が長くないことを早くから悟っていた。「将来に対する漠然とした不安」を感じていた芥川とは異なり、自分の命と使命を早くから悟り、醒めた眼で己と世界を視ていた。そういう達観が、文字と歴史という大きなテーマを追求し切る客観性につながったのではないか。

中島敦は作品の絶対数が少ないが、芥川と同じように、人の内面を鋭く抉る傑作も書いている。『山月記』『李陵』などはそちら側の作品だろう。古典に題材を得ているところも芥川に通じるものがある。技法としては共通、技量としては互角、しかし、作家として書き切ることができる世界の幅が違かったのだろう。

いわば芥川は「ひとつのアプローチ法を突き詰めた一点突破の作家」であり、中島敦は「知的作業そのものに意義を見いだし、幅広い対象に興味を感じる作家」だったのではないかと思う。能力の差というよりは、タイプが違う作家だったのだろう。芥川は幅広い知識を誇り、食事の時でも本を読んでいるような勉強家だった。しかし、得た知識を作品に活かす段になると、その生き方と考え方が、己の作品の幅を狭めてしまった感が否めない。
芥川は終世、長編小説を書き上げることができなかった。その理由についてはいろんな人がいろんなことを言っているが、最も根源的な理由は、ひとの生き方を貫く大きな幹になるものが、自分自身の中に備わっていなかったからではないか。


記録されたことだけが事実なのか。文字がもつ力を人は使いこなせるのか。哲学的には面白いテーマだが、文人が小説にするには抽象的過ぎるテーマだろう。私小説が全盛だった時代に、このようなテーマに取り組むこと自体、ふたりの能力の特異性を示してあまりある。しかし、「記録された文書」と「現実世界」の遊離を描く際には、その一端である「現実世界」をどう生きたか、という作者の人生背景が色濃く影響を及ぼしているような気がしてならない。



なぜ僕の日記が嫁の本棚に並んでいるのだ。

例外的な革命家

革命に興味があって、世界史上の革命をいろいろと調べている。


革命というのは、既存の体制に不満をもった民衆が支配層を倒す、一種の下克上だ。ところが面白いことに、革命に成功して「自分たちの新政府」をたてたはずなのに、どう見ても以前よりも民衆が不幸になっているケースが多い。
一応、新政府を樹立できれば革命は「成功」ということになるのだろうが、現代的な観点からみて革命がマイナスに働いている事例が非常に多い。何が理由でそうなっているのだろうか。

思うに、その根本的な要因は「革命を成功させるための力と、新政府を運営する力は、別物である」ということを理解していない人が多かったからではないか。
革命の第一段階は旧体制の破壊だから、そこには暴力的なエネルギーが必要となる。軍事行動やゲリラ戦に長けている人間がリーダーになりやすい。ところが、革命に成功して新政府を樹立して以降は、そういう暴力エネルギーは不要どころか障害になる。新政府のリーダーに必要なのは、国内外の状況をうまく調整して冷静に事態を収束できる行政能力だ。

原始的な革命では、その暴力エネルギーの「熱冷まし」に苦慮し、自らの支持母体である一般市民を抑圧するような本末転倒な愚作を行なった。史上初めての市民革命であるイギリスの清教徒革命では、クロムウェルが独裁主義体制を布いたし、フランス革命ではロベスピエールが文句を言う反対勢力を皆殺しにした。いずれも、革命時に沸き起こした暴力エネルギーを持て余し、その矛先を間違えて発揮してしまった例だろう。

世界史上、「うまくいった革命」というイメージをもたれている革命は、すべてその暴力エネルギーを発散させるための場をもっていた。なければ強引にその場を作った。
清教徒革命の場合は、生贄としてアイルランドが標的にされ、いわれのない「征伐」を受けて虐殺や略奪を被った。フランス革命の場合は、革命が自国に飛び火することを怖れた各国が対仏大同盟を敷いたため、フランスは孤立無援に陥る。それを打ち破るために軍事力を発揮したナポレオンが権力を掌握したのは周知の事実だ。中国の辛亥革命の場合は、革命直後に世界大戦が起きた。また革命の主導的地位をめぐって国民党と共産党で内紛があったため、暴力エネルギーを冷ます暇がなかった。

中世における「王権から共和制への革命」と、現代のトレンドであった共産主義革命では、ともに「革命に必要な暴力的軍事能力」「革命後の社会をつくる行政能力」の両方を備え持つ指導者が少なかった、という共通点がある。現代の共産主義革命の場合は、それに加えて「諸各国に革命政府の承認を得る外交能力」も必要になる。大きく言って、「軍事力」と「行政力」のふたつを併せる指導者の不在は、その国がもともと持っていた教育力による所が多い。

中南米の多くの国は旧支配国からの独立を勝ち取るための革命を経験しているが、そのほとんどは強大な軍事力をもつ超大国に軍事的に対抗するためのゲリラ戦を基本戦略としていた。そういう革命のしかたで国を作ったら、そりゃ軍事政権しか樹立できなかろう。軍事によって作った国は、軍事によってしか維持できない。そういう国にそれぞれのガンディーがいなかったのは不幸だが、インドの場合は例外的な人材に恵まれた希有な例と言えるだろう。

ところが、世界史上の革命家のなかで、ひとりだけ例外がいる。
「軍事力と行政力の両方を兼ね備えていた革命家」ではない。そんな偉人は世界の歴史に存在しない。例外的なひとりとは、「軍事力を公使して革命を成功させたが、自分には行政力がないことを自覚しており、革命後の政権で権力をもつことを放棄した人」だ。




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ジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)。


めったに偉人を尊敬しないイタリア人から、「建国の三傑」のひとりとして尊敬されている。 世界史の教科書にも太字で載っているが、「イタリア統一戦争」という、わりと隙間の知識であることもあり、あまり知られている革命家ではないだろう。一般的には「Bマイナー程度の重要度」とされている人物ではあるまいか。

しかし、その軍事指導力とカリスマ性はかなりのものだったらしく、当時、諸国分立状態だったイタリア南部を豪腕でまとめあげている。千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助し、イタリア南部の両シチリア王国を滅ぼした。反対勢力をも味方に引き込むほどのカリスマ性があり、「戦うたびに味方が増える」という状況だった。当時、イタリア統一の主導的立場にあったサルディーニャ王国も、イタリア南部の民衆から圧倒的な支持を集めているガルバルディの影響力を無視できなかった。

世界史では俗に「ドイツの軍隊に敗北なし、イタリアの軍隊に勝利なし」と揶揄されるほど、とにかくイタリアの軍隊は弱い。ガリバルディも、何度も革命運動を鎮圧され、そのたびに逃亡を余儀なくされている。これは当時のイタリアに眼を光らせていたのがオーストリアとフランスという二大強国だったため、仕方ない部分もあるだろう。

ガリバルディは、秘密結社カルボナリに加入して共和制を求める反乱を起こしたが、失敗して南米に逃亡する。そこでゲリラ戦の能力を磨き、革命に必要な民衆操作の方法論を身につけた。のちに南米の革命児チェ・ゲバラは、ガリバルディのゲリラ戦術を学んで影響を受けている。
ガリバルディは幼い頃から海上貿易に従事しており、基本的な教育を受ける時期はなかっただろう。それに加えて諸国放浪でゲリラ戦を繰り返していたため、行政能力はほぼゼロだったと思われる。

当時のイタリアは諸国分裂状態だったが、その中で最もイタリア統一に意欲的だったのは、サルディーニャ王国だった。国王のカルロ=アルベルトは自由主義的な国王で、在位中に憲法を制定している。わりと「庶民寄りの国王」と言ってよい。
その子であるヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は、宰相にカヴールを重用し、北部イタリアを外交政策によって統一することを目論んでいた。

だから、南部で武力蜂起をおこして両シチリア王国を征服したガリバルディの勢力は、サルディーニャ王国にとって脅威だったはずだ。下手をすれば、イタリアが南北に分裂する危機だった。
しかもガリバルディは、サルディーニャ王国宰相カヴールを、個人的に憎んでいた。カヴールは第二次イタリア独立戦争の際に、フランスの支援を取り付ける密約(プロンビエール密約)を結び、その見返りにサヴォイアとニースを割譲した。ニースはガリバルティの故郷だ。自分の故郷をフランスに売り渡したカヴールは、ガリバルディにとって嫌悪の対象だった。しかもフランスのナポレオン三世は密約を無視し、単独でオーストリアと和平協定を結んでしまう。サルディーニャ王国は、いわばサヴォイアとニースを「取られ損」したことになる。

こうした背景から、北部のサルディーニャ王国と、南部のガリバルディ軍は、いわば水と油の関係だったといえる。統一どころか、支配権力をめぐって武力衝突をしてもおかしくない状態だっただろう。
ところが、ガリバルディは、武力によって制圧した南部イタリアを、あっさりとサルディーニャ王国に「献上」してしまう。革命勢力を動員して打ち立てた新体制を、あっさりと他者に譲り渡す。世界史上の革命において、ほぼ唯一の例外といってもいい行為だ。

1860年、ガリバルディはヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会談する。握手を交わし、自分の軍勢に向かって「ここにイタリア国王がおられるのだ!」と叫んだ。また国王に服従の言葉を誓い、軍職を含む一切の役職や報償を辞した。
もしここでガリバルディが、自力でイタリアを統一することに固執し、サルディーニャ王国を滅ぼす方向に動いていたら、イタリア全土を巻き込む大内乱につながっていただろう。当然、イタリア統一は大きく遅れることになったはずだ。ガリバルディが、自力によるイタリア統一を放棄し、サルディーニャ王国にそれを委ねたのは、いかなる判断によるものなのか。

様々な要因があろうが、一番大きなものは、「自分はゲリラ屋であって、政治家ではない」という判断ではあるまいか。もしサルディーニャ王国と一戦交えて、よしんば滅ぼしたとしても、旧サルディーニャ王国の領域を含む広大なイタリア全土を統治する力は、自分にはない。軍事力を行使して戦争に勝つことはできても、その後の統治ができない。そういう客観的な自己評価が、権力放棄の基本原理ではなかったか。

ガリバルディは、敗走を重ねゲリラに身を投じた経験から、客観的に現状を把握する能力に優れていた。両シチリア王国を滅ぼしたときに、王国を支配していたのはブルボン家だったが、ガリバルディは国王フランチェスコ2世を処刑せず、身柄を保証している。イタリア南部は伝統的に王政が敷かれていた時期が長く、ガリバルディの軍に合流した義勇軍も多くは元王党派だった。そういう民衆感情を汲み取った処置だ。

ガリバルディにとって、故郷を売り渡したカヴールは確かに憎かったが、半面、そういう冷静な措置がとれるカヴールの外交能力を認めてもいたのではないか。当時、イタリアはフランスとオーストリアから圧力を受けており、新興のプロイセンも勢力を拡大していた。イタリアが統一されたら、そういう軍事大国と互角に渡り合う外交能力が必須となる。そして、自分にはその能力がない。この「坊主憎いけどその袈裟なかなかいいじゃん」的な判断は、なかなかできることではあるまい。

現在、カヴールは、ガリバルディ、青年イタリア発起人のマッツィー二と並んで「イタリア統一の三傑」に数えられている。のちのイタリア市民は、カヴールの現実的な外交能力を高く評価しているのだ。ガリバルディは、自分の故郷という個人的な要因に惑わされることなく、「イタリア統一に必要なものは何か」を冷静に、客観的に、判断する能力があったのだろう。

ガリバルディの人徳とカリスマ性は、イタリアのみならず各国でも高く評価されていた。アメリカ南北戦争のときには、リンカーン大統領に北軍の司令官就任を打診されている。
何度敗走しても、民衆からの支持を失わない。それは行動にぶれがなく、信念が揺れていないからだろう。また「革命家が良い政治家とは限らない」ということを自覚しており、自分にできない仕事は請け負わない。いわば「プロの革命家」であり、力を発揮する場と引くべき場を弁えていた人物といえるだろう。


世界史では、わりと早い時期から文民統治(シビリアン・コントロール)の制度が発明されている。しかし、こと革命に関しては、「軍事力、即、権力」となりやすい。革命には民衆をまとめるカリスマが必要だろうし、そういうカリスマは革命後もお役御免というわけにはいかないのだろう。その結果、行政能力が皆無な人物が国の最高権力者の座に就き続けることになる。ゲリラ戦と対国民党軍事行動で辣腕を振るった毛沢東だって、国の政治をさせたら大躍進運動の醜態を晒す有様だった。

それに比べて考えてみると、日本にはわりと軍事力と行政力を兼ね備えた人材が多かったように見える。
誰でも知ってる織田信長。その業績を問うと、多くの人は馬鹿の一つ覚えのように「楽市・楽座」と答える。戦国武将でありながら、後世に伝わっている業績は、行政に関するものなのだ。
日本では三回、幕府が開かれたが、その開祖となった源頼朝、足利尊氏、徳川家康は、いずれも軍事力・行政力ともに高かった。共通点は、幼少期に人質や蟄居などの要因で、学問に励まざるを得ない環境にあったことだ。そういう時に、学ぶべきことをしっかり学んでいたことが、のちの行政力を発揮する際の下地になっていたのではないか。

日本で唯一、「革命」と呼んでもよい政治的転機は明治維新だっただろうが、その際にも明治新政府の指導者の多くは軍事力と行政力を兼ね備えていた。中には西郷隆盛のような武力馬鹿もいたが、そうした人間は日本史上、時代の流れに従って自然に淘汰されている。西郷隆盛はあくまでも「武士の棟梁」であって、「明治新政府を担う政治家」ではあり得なかっただろう。


革命は、旧体制を倒した時点では、道半ばの折り返し点に過ぎない。国を倒すことと、国をつくることは、同様に重要でありながら必要な能力がまったく違うのだ。革命であまり高い理想を掲げ過ぎると、のちにそのハードルが高すぎて自らの首を絞める。革命政権の多くがのちに恐怖政治を敷くのはそのためだ。
そんな中、「自分にできる仕事とできない仕事を見切る」というのは、なかなかできることではあるまい。そういう「歴史に埋もれた事例」を探して、革命史を掘り起こしている。



春休みの自由研究的なおべんきょうで。

カレー屋さんの看板

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近所に、おいしいインド料理のお店があるんですけどね。


外でカレーを食べるときは、本格派のインド料理店に限ります。日本のカレーとはまたひと味違ったカレーが楽しめます。
店員さんもインド人。カレー以外にも、現地の本格インド料理が多種多様に楽しめます。


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僕のお気に入りはチキンキーマカレー。 


本場のインド料理屋さんでカレーを食べるときは、ライスではなくナンでいただきます。これが本格的な竃で焼き上げるふっくらしたナンで、たいへんにおいしい。
このお店に行くときはいつも


カレーといっしょに食べるとおいしいものはなんでしょうか?

「うん、そうだよ」

いや、だから、なんでしょうか?

「いや、だから、そうでしょ?」


という、噛み合ない会話ごっこを嫁といっしょに楽しむのであります。
しかもこのお店、ナンがおかわりし放題なのです。量を重視するワタクシめにとって非常にポイントの高いところであります。


ところで、このお店の名前は「アグラ」。店の看板には世界遺産で有名なタージ・マハル廟が描かれていて、インドっぽさを醸し出しています。
まぁ、外国でインド人の方々がお店を出す時には、「インドのイメージ」としてそういう表象を使うものなんでしょうね。


こういうお店を見るたびに、僕は非常に不思議なんですが。
インドの人たちっていうのは、これで葛藤とかないんですかね。


まず基本的な知識として、インドは人口の80%以上がヒンドゥー教を信仰している。ヒンドゥー教人口は8.3億人もいて、日本の人口の約6倍だ。キリスト教、イスラム教について信者数は世界で3番目に多く、「世界三大宗教」の一端を担っている。

ところが、インドの象徴ともいえるタージ・マハール廟は、イスラム教の建築物だ。つまり多くのインド人にとっては「異教徒の建物」であり、あまり国民感情にフィットした表象ではありますまい。

しかも、店名の「アグラ」。これは首都デリーの南200Kmくらいに位置する都市の名前で、タージ・マハール廟がある街として世界中から観光客が訪れている。
このアグラという街、16世紀から19世紀にかけてインドを統一していた、ムガル帝国の首都だった。ムガル帝国はモンゴル騎馬民族の末裔で、イスラム教を国教としていた。当時の世界地図でいえば、ムガル帝国はイスラム勢力範囲の東の果てという位置づけだった。

ムガル帝国は、第5代皇帝シャー=ジャハーンの治世下で最盛期を迎える。タージ・マハル廟が作られたのもこの頃だ。愛妃ムムターズ・マハルが死去したことを悲しみ、総大理石の墓廟として建築した。たいした墓だ。タージ・マハルにはモスクや尖塔など、イスラム建築の基本をきちんと踏襲している。あくまでもイスラムの建築物だ。

つまりアグラというのは、歴史上「イスラム教の街」なのだ。ヒンドゥー教徒が大多数を占める現在のインドでは、宗教感情として「これぞインド」という街ではあるまい。
しかもムガル帝国というのは、インド人にとっては征服王朝であり、「よそ者に国を支配されていた王朝」だ。そういう時代の首都と建築物を、インドの表象として使うのは、インド人の国民感情として何の問題もないものなのだろうか。


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これイスラムっすけど、いいんすか


インドの歴史を紐解いてみると、思いのほかヒンドゥー教が政治史に果たしている役割は少ない。インドの歴史上、統一王朝として宗教をヒンドゥー教に定めたのは、グプタ朝(4世紀〜6世紀)しかない。インドの宗教はグプタ朝期を境に二分され、以前は仏教、以後はイスラム教が多い。

「以前」としては、例えばマウリヤ朝(前4世紀〜前1世紀)はアショーカ王が積極的に仏教を保護して信奉した。クシャーナ朝(1世紀〜3世紀)はもともとイランの王朝だが、インドに勢力を拡大した途端に仏教圏に取り込まれている。まぁ、それはそうだろう。今ではインドに仏教徒は1%もいないが、もともとインドは仏教の発祥地なのだ。またグプタ朝の時期は、まだマホメットによってイスラム教が興される前だ。
一方、「以後」としては、怒濤のようなイスラム勢力の東進に押される形で、地域分裂の形でイスラム圏に取り込まれた。小国分裂状態だったインドをようやく統一したのは、ムガル帝国(16世紀〜19世紀)の成立を待たなくてはならない。

ムガル帝国はイスラム教を基盤としていたが、その頃にヒンドゥー教などの土着宗教が衰退していたかというと、そういうわけではない。ムガル帝国は統一王朝ではあったが、成立の頃はまだ支配基盤が強固ではなかったようだ。第二代王のアクバルはイスラム以外の宗教にも寛容策を布いた。ムスリム以外に課せられる人頭税(ジズヤ)を廃止し、他宗教の活動を容認した。アクバルの妻は、ヒンドゥー教徒であるラージプート出身の女性だ。

世界史上、宗教王朝が他宗教に寛容な政策をとるときは、土地所有者である異宗教徒から地税を確保する必要性が理由であることが多い。ムガル帝国勃興時も、土地を所有していたのは現地人(ラージプート)の支配階層だった。アクバルは彼らを取り込むためにジズヤを廃止し、他宗教からも人材を登用した。
宗教寛容策が税収入のためであるならば、その基盤が確立し次第、寛容策をとる必要はなくなる。ムガル帝国も、アウラングゼーブ王の統治下で国の領域が最大に達すると、ジズヤを復活させている。

こうした歴史を眺めていると、インドの歴史において、ヒンドゥー教というのは「政治支配の基盤にはならないが、現地人にはしっかりと定着していた宗教」というものだったことが分かる。ヒンドゥー教によって国が成立することはないが、ヒンドゥー教によって王朝が終焉することはある。

ムガル帝国後期にイギリスに対して起きたインド大反乱(セポイの反乱、1859)も、きっかけとなったのは砲弾の薬包に牛脂が塗ってあったことだった。牛を神聖視するヒンドゥー教徒にとって、牛脂の塗られた薬包を噛み切るのは禁忌になる。

現在のインドでヒンドゥー教の影響力が強くなったのは、イギリスから独立するという目的上、インド人が何らかの精神的なつながりを必要としたからではなかったか。インドには東と西の両翼にイスラム教信者が多かったが、西はパキスタン、東はバングラディシュとして、それぞれ分離独立している。しかしイギリスから独立した後のインドが、ヒンドゥー教に基づく宗教国家をつくったかというと、そんなことはない。

おそらくヒンドゥー教というのは、「政治色の薄い宗教」なのではないか。知識として、ヒンドゥー教というものがあるということを知っている人は多いが、実際にヒンドゥー教の教義を知っている人は少ないだろう。
世界史では、キリスト教やイスラム教など、宗教が政治権力に介入して治世を敷くことが多い。しかし、そうでない宗教だってあるだろう。政治とは無縁のまま、宗教として宗教のみを目的として宗教のために宗教を執り行う宗教だって、広い世界のどこかにはあるだろう。ヒンドゥー教というのは、そういう宗教のひとつではないのか。

宗教も政治も、多種多様な人の思惑をとりまとめ、共同体を維持するという共通点がある。世界史上、政治力を公使する宗教が多いのはそのためだろう。しかし、政治を行なうためには、きれいごとばかり通すわけにはいかない。理想とは異なる現実的な施策を強いられることだってあるし、基本方針と矛盾する策を取らなければならないこともある。

ヒンドゥー教は、そういう政治的に必要とされる現実的な方策を、はじめから放棄しているのではないか。教義のために辻褄を合わせるとか、矛盾に関する論争とか、そういう面倒なことをすべて最初から放り投げているかのようだ。政治的な力がないというよりは、はじめから政治など関心がない宗教に見える。
海外に出たインド人が、イスラム教の建築物や都市の名前をインド料理店に掲げるのも、「だから何だ」という、理屈に合わせることに対する無関心によるものではあるまいか。政治的な感覚では、自分の属する立場に与しないものを掲げるのは、矛盾だろう。しかし、そういう現世的、政治的、理念的な「常識」が、世界のどこでも誰にでも、等しく通用するはずだと思うのは、一面的なものの見方でしかない。

僕はヒンドゥー教徒ではないし、ヒンドゥー教徒のものの考え方も知らない。しかし、インドの歴史から察するに、いわゆる西洋的な理念や常識がそのまま通用する観念ではないことは見当がつく。自分がどんな宗教を信奉していようとも、他宗教の表象を店の看板に使って、「それが何か?」で済ませる。考えてみれば、そういう柔軟性のある考え方のほうが、生きていくのは楽だろう。
日本人だって、人のことは言えない。寺社仏閣で初詣をし、クリスマスの時期には浮かれ騒ぎ、教会で結婚式を挙げることを夢見て、神頼みのためにおみくじを引き、葬式のために坊さんを呼ぶ。いったい何教だ。

宗教というものは、理屈や理論による統一性を指向するためのものではない。人のいない自然世界の真実を見るのが目的ではなく、あくまでも人がつくった、人のためのものなのだ。人が生きやすいような生き方を提供できていれば、宗教はいい仕事をしていると言える。信義や教義にがんじがらめになって「したくてもできない」という縛りが多くなるほうが、宗教としては本末転倒なのだろう。たかがカレー屋さんの看板ではあるが、そこから見える宗教の姿というのは、なかなか面白い。 



珍しいお茶も飲めるのでセットで頼むのだ。
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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