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冬休みに嫁さんといくつか映画を観ましてね。
年末年始はテレビが特番ばっかりで面白くないし、普段よりも時間があるので、映画館に観に行ったりDVDを借りてきたりして、いくつか映画を見ました。
僕ものんびり映画を観れる時期はそれほど多くないので、いいですねたまには、映画。
僕は映画の好みとしては比較的雑食で、どんなジャンルも観る。まぁ、若い頃はアクション映画一辺倒だったが、最近は年をとったのか、脚本の良し悪しや俳優さんの演技力みたいなところを観てしまう傾向がある。そういう眼で最近の映画を観ると、なんか昔の映画とは軸が違ってきているような気がする。
大学院に進んだ頃、1950年代から80年代までの昔の映画ばかり観ていた。当時住んでた部屋の近所にリバイバル専門の小さな映画館があったこともある。しかし、毎日勉強ばかりしていた当時の生活環境では、撃ち合いや爆発だらけのアクション映画よりも、人生の一端を垣間見せてくれる「大人の世界」を描いた映画のほうが、なんとなく心の琴線に触れた。ちょうど人生のうちでそういうものを求める時期だったのかもしれない。
昔の映画と今の映画で違うのは、映像芸術というものに対する「アプローチの違い」だと思う。
最近の映画はグラフィック技術が物凄い早さで進化しており、CGを使った迫力ある映像が満載だ。すでに3Dを使った立体映像も実現している。しかし、テレビゲームでも映画でも言えることだが、グラフィックが凄ければ面白い、というわけではない。もし今の映画の映像技術が凄くても、20年経ったら古い技術になってしまうだろう。もし今の映画の凄さがグラフィック技術に依存しているものだとしたら、それは20年後にも残る映画ではない。映画の良し悪しは、「映像技術を差し引いてもなお残っている部分」で決まると思う。
久しぶりに映画を観て思ったことだが、「迫力ある映像」はたくさんあるが、「美しい映像」が少なくなった。そのシーンを繰り返し観たくなるような、印象深い陰影を纏った映像が少ない。
映画における「美しい映像」というのは、写真や絵画のそれとはちょっと違う。映画の映像の良し悪しは、単純に視覚的な効果だけで決まるものではない。
写真や絵画と異なり、映画にはストーリーがある。そのシーンに登場する主人公たちの心の揺れようが、映像を観る側の印象に深く影響する。映画のシーンの美しさは、「映像そのものの美しさ」だけでなく、「そのシーンにおける登場人物の心模様」によって決まるものだ。
映像技術そのものに関しては、今の映画のほうが格段に上だろう。しかし、映像の質が粗いモノクロの時代の映画のほうが美しい映像が多いのは、どういうことだろうか。
それが如実に反映されているのが、ラストシーンの印象度だ。
最近の映画は、やたらめったらハッピーエンドに終わった登場人物の笑顔ばかり使う。ハリウッドの映画は特にそうだ。アメリカ人の国民性で、映画はハッピーで終わらないと売れないらしい。だから必ず最後は笑顔で終わる。だから、どの映画も同じようなエンディングで終わる。
それに比べて昔の映画は、とにかくラストシーンが上手い。その映画の命が、ラストシーンに込められていると言っても過言ではない。その映像の美しさと印象度が、映画の中核になっている。
僕が個人的にそれを一番感じた映画は、『第三の男』(1949年、英米合作)だ。
主人公のマーチンスと親友のライム、ライムの恋人のアンナ。ライムは表と裏の顔があり、裏では非合法活動を行っている犯罪者。事実のすべてを知ったマーチンスはライムを逮捕すべく警察に協力し、最後は下水道での銃撃戦でライムを射殺する。
ライムを取り巻く謎をひとつづつ解いていく推理小説的なプロットが面白い。偽装の葬式、ライムの登場シーン、観覧車でマーチンスとライムが対峙するシーンなど、印象的な映像技術が随所に使われている。
しかしこの映画の白眉は、アンナとマーチンスが登場するラストシーンだろう。ライムの本当の葬儀後、アンナを愛しているマーチンスは、並木道でアンナを待つ。しかしライムを裏切ったマーチンスを許せないアンナは、一瞥することなくマーチンスの前から立ち去る。
この物言わぬラストシーンに、登場人物の心模様とその交錯ぶりが、余す所無く描かれている。並木道の物淋しさ、アントン・カラス奏する音楽が相まって、映画史に残るラストシーンを描き出している。僕は煙草を吸わないが、このシーンのような使い方ができるなら、一度煙草というものを持つのも悪くない。
今の映画のラストシーンは笑顔ばかりで終わるが、それは俳優の演技力があまり問われない表情だからだと思う。
俳優の演技力がものを言うラストシーンの代表作は、なんといっても『卒業』(1967年、アメリカ)だろう。ダスティン・ホフマンの演技が凄過ぎる。完全に役になり切る完璧主義者として知られ、作品ごとに全く別人格が憑依しているかのごとく怪演をを見せる。『クレイマー・クレイマー』を見た人は彼を本当に冴えない中年男だと思うだろうし、まだ自閉症という症状があまり知られていない時代に『レインマン』で完璧にその役を演じ切った。
『卒業』は、「結婚式の最中に、花嫁を奪うシーン」ばかりが取沙汰されるが、この映画はその場面がエンディングではない。この映画のポイントはそこではない。
主人公のベンジャミンが幼なじみのエレーンを結婚式場の教会から奪い、逃走する。二人は長距離バスに乗り込み、どこかへと旅立っていく。
このバスのラストシーンで、ふたりの表情が微妙に変化する。最初は笑い合っていた二人だったが、すぐにその笑顔は消え、不安な表情に変わる。これからのふたりの人生がどうなっていくのか。決して幸せとは限らない。それぞれの両親と決別し、ふたりだけで生きていくことの重さを象徴するようなシーンになっている。
このラストシーンを名場面たらしめているのは、偏にダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスの演技力だろう。この表情をうまく引き出したマイク・ニコルズ監督の手腕と相まって、当時の映画技術の高さを物語る。「好きな女を奪って逃走」というアメリカ人好みのエンディングでありながら、必ずしも笑顔満面で終わるわけではない、というあたりに、当時のアメリカ映画の映像哲学が見える。昔はハリウッドもこういう映画を作れたのだ。
今の学生は本を読まない。映画も、最近の話題作しか観ない。その分、仮想体験できる人生観の経験値が絶対的に少ない。人間とは、人生とは、恋愛とは、そういうテーマに関する感性が、非常に薄っぺらい。
最近の話題作を悪いとは言わないが、たとえば恋人と週末の夜に一緒に観る映画として、最近の映画があまり適しているとは思わない。これから人生をつくっていく必要のある世代には、人生を考える契機になり得るような、味わい深い映画を観ることを薦めたい。
年末年始はテレビが特番ばっかりで面白くないし、普段よりも時間があるので、映画館に観に行ったりDVDを借りてきたりして、いくつか映画を見ました。
僕ものんびり映画を観れる時期はそれほど多くないので、いいですねたまには、映画。
僕は映画の好みとしては比較的雑食で、どんなジャンルも観る。まぁ、若い頃はアクション映画一辺倒だったが、最近は年をとったのか、脚本の良し悪しや俳優さんの演技力みたいなところを観てしまう傾向がある。そういう眼で最近の映画を観ると、なんか昔の映画とは軸が違ってきているような気がする。
大学院に進んだ頃、1950年代から80年代までの昔の映画ばかり観ていた。当時住んでた部屋の近所にリバイバル専門の小さな映画館があったこともある。しかし、毎日勉強ばかりしていた当時の生活環境では、撃ち合いや爆発だらけのアクション映画よりも、人生の一端を垣間見せてくれる「大人の世界」を描いた映画のほうが、なんとなく心の琴線に触れた。ちょうど人生のうちでそういうものを求める時期だったのかもしれない。
昔の映画と今の映画で違うのは、映像芸術というものに対する「アプローチの違い」だと思う。
最近の映画はグラフィック技術が物凄い早さで進化しており、CGを使った迫力ある映像が満載だ。すでに3Dを使った立体映像も実現している。しかし、テレビゲームでも映画でも言えることだが、グラフィックが凄ければ面白い、というわけではない。もし今の映画の映像技術が凄くても、20年経ったら古い技術になってしまうだろう。もし今の映画の凄さがグラフィック技術に依存しているものだとしたら、それは20年後にも残る映画ではない。映画の良し悪しは、「映像技術を差し引いてもなお残っている部分」で決まると思う。
久しぶりに映画を観て思ったことだが、「迫力ある映像」はたくさんあるが、「美しい映像」が少なくなった。そのシーンを繰り返し観たくなるような、印象深い陰影を纏った映像が少ない。
映画における「美しい映像」というのは、写真や絵画のそれとはちょっと違う。映画の映像の良し悪しは、単純に視覚的な効果だけで決まるものではない。
写真や絵画と異なり、映画にはストーリーがある。そのシーンに登場する主人公たちの心の揺れようが、映像を観る側の印象に深く影響する。映画のシーンの美しさは、「映像そのものの美しさ」だけでなく、「そのシーンにおける登場人物の心模様」によって決まるものだ。
映像技術そのものに関しては、今の映画のほうが格段に上だろう。しかし、映像の質が粗いモノクロの時代の映画のほうが美しい映像が多いのは、どういうことだろうか。
それが如実に反映されているのが、ラストシーンの印象度だ。
最近の映画は、やたらめったらハッピーエンドに終わった登場人物の笑顔ばかり使う。ハリウッドの映画は特にそうだ。アメリカ人の国民性で、映画はハッピーで終わらないと売れないらしい。だから必ず最後は笑顔で終わる。だから、どの映画も同じようなエンディングで終わる。
それに比べて昔の映画は、とにかくラストシーンが上手い。その映画の命が、ラストシーンに込められていると言っても過言ではない。その映像の美しさと印象度が、映画の中核になっている。
僕が個人的にそれを一番感じた映画は、『第三の男』(1949年、英米合作)だ。
主人公のマーチンスと親友のライム、ライムの恋人のアンナ。ライムは表と裏の顔があり、裏では非合法活動を行っている犯罪者。事実のすべてを知ったマーチンスはライムを逮捕すべく警察に協力し、最後は下水道での銃撃戦でライムを射殺する。
ライムを取り巻く謎をひとつづつ解いていく推理小説的なプロットが面白い。偽装の葬式、ライムの登場シーン、観覧車でマーチンスとライムが対峙するシーンなど、印象的な映像技術が随所に使われている。
しかしこの映画の白眉は、アンナとマーチンスが登場するラストシーンだろう。ライムの本当の葬儀後、アンナを愛しているマーチンスは、並木道でアンナを待つ。しかしライムを裏切ったマーチンスを許せないアンナは、一瞥することなくマーチンスの前から立ち去る。
この物言わぬラストシーンに、登場人物の心模様とその交錯ぶりが、余す所無く描かれている。並木道の物淋しさ、アントン・カラス奏する音楽が相まって、映画史に残るラストシーンを描き出している。僕は煙草を吸わないが、このシーンのような使い方ができるなら、一度煙草というものを持つのも悪くない。
今の映画のラストシーンは笑顔ばかりで終わるが、それは俳優の演技力があまり問われない表情だからだと思う。
俳優の演技力がものを言うラストシーンの代表作は、なんといっても『卒業』(1967年、アメリカ)だろう。ダスティン・ホフマンの演技が凄過ぎる。完全に役になり切る完璧主義者として知られ、作品ごとに全く別人格が憑依しているかのごとく怪演をを見せる。『クレイマー・クレイマー』を見た人は彼を本当に冴えない中年男だと思うだろうし、まだ自閉症という症状があまり知られていない時代に『レインマン』で完璧にその役を演じ切った。
『卒業』は、「結婚式の最中に、花嫁を奪うシーン」ばかりが取沙汰されるが、この映画はその場面がエンディングではない。この映画のポイントはそこではない。
主人公のベンジャミンが幼なじみのエレーンを結婚式場の教会から奪い、逃走する。二人は長距離バスに乗り込み、どこかへと旅立っていく。
このバスのラストシーンで、ふたりの表情が微妙に変化する。最初は笑い合っていた二人だったが、すぐにその笑顔は消え、不安な表情に変わる。これからのふたりの人生がどうなっていくのか。決して幸せとは限らない。それぞれの両親と決別し、ふたりだけで生きていくことの重さを象徴するようなシーンになっている。
このラストシーンを名場面たらしめているのは、偏にダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスの演技力だろう。この表情をうまく引き出したマイク・ニコルズ監督の手腕と相まって、当時の映画技術の高さを物語る。「好きな女を奪って逃走」というアメリカ人好みのエンディングでありながら、必ずしも笑顔満面で終わるわけではない、というあたりに、当時のアメリカ映画の映像哲学が見える。昔はハリウッドもこういう映画を作れたのだ。
今の学生は本を読まない。映画も、最近の話題作しか観ない。その分、仮想体験できる人生観の経験値が絶対的に少ない。人間とは、人生とは、恋愛とは、そういうテーマに関する感性が、非常に薄っぺらい。
最近の話題作を悪いとは言わないが、たとえば恋人と週末の夜に一緒に観る映画として、最近の映画があまり適しているとは思わない。これから人生をつくっていく必要のある世代には、人生を考える契機になり得るような、味わい深い映画を観ることを薦めたい。
大学でそういう授業を持ってみたいなぁ。
俺様
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