「コロナ下の大学 学生の意欲そがぬように」
(2020年8月8日 毎日新聞社説)
「コロナと大学 対面授業の実施へ知恵を絞れ」
(2020年8月16日 読売新聞社説)
「コロナと大学 『学費返せ』の不満解消を」
(2020年8月23日 産経新聞社説)


大学のコロナ対策としてのキャンパス閉鎖が叩かれている。
一読して、マスコミはとにかく「理に適っているかどうか」など一切関係なく、世の中が不安定になるように世論をかき乱したいだけなのだな、ということがよく分かる。人は社会不安になると、情報を求める。そういう原理で自分達の利益をあげることしか考えていない。

僕の教えている大学でも、秋以降の後期授業が原則としてリモート授業になることが決まった。各社説が言っている通り、今年から大学に入った1年生の中にはまだキャンパスに足を踏み入れていない学生も多く、気の毒というほかはない。学費を払っているのに、それに見合ったサービスを受けられていない、と感じるのももっともだろう。

しかし、その非は大学に負わせるべきものなのか。
コロナウィルス禍は、一種の災害だ。大学はそれに対処しているだけであって、そもそもの原因が大学にあるわけではない。いわば「誰のせいでもない事態」「しかたがない事態」なのだ。一般読者もそんなことはよく分かっているだろう。しかし、やるせない。誰かのせいにして責めたい。そんな稚拙な市民感情を汲み取って発散させ、溜飲を下げることだけを目的にした愚劣な社説だ。

各社説では、勉強の環境を害された学生の苦悶の声を挙げている。

「しかし、教師や友人と顔を合わせて議論を交わしながら、学問を身につけていくのが学生の本来の姿だ。芸術系の大学などではとりわけ高度な実技指導が欠かせない」
(毎日社説)

「大学の学生アンケートでは、遠隔授業について「自分のペースで勉強できた」と評価する声がある一方、「集中できない」「質が低い」との不満も出ている。学習意欲の低下につながることが懸念される」
(読売社説)

「萩生田光一文科相は今月中旬の会見で『学生が納得できる質の高い教育を提供することは必要不可欠』とし、それができない場合、『授業料の返還を求める学生の声が高まることも否定できない』と厳しく指摘した」
「文部科学省は大学に対し、後期から対面授業の実施を促す通知を出した。萩生田文科相は『小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか』と苦言を呈した」
(産経社説)


こういう社説を読んで非常に違和感を感じるのは、大学生は普段からそんなに勉強に熱心なのだろうか、ということだ。社説ではやたらと「勉強したくてしたくて仕方がない学生が、その機会を奪われて憤懣やる方ない」という論調だが、コロナ禍になる前の大学では、そんなに勉強熱心な学生ばっかりだったのだろうか。

読売新聞ではリモート授業の弊害として「学生アンケート」なるものを根拠にしているが、そもそも読売新聞がどうやってそんな資料を閲覧できたのだろうか。大学が実施している学生アンケートは、教員の能力査定に直結するため、どの大学でも秘中の秘だ。僕の授業のアンケート集計結果も、取扱注意の朱書きつきの封筒に厳封されて書留郵便で届く。

大学が対面授業を再開しない理由は簡単だ。100%間違いなくクラスターが発生するからだ。
しかも、大学が懸念しているのはクラスターそのものではない。クラスター発生に対する一般世論の反応だ。

コロナ禍で社会の閉塞感が蔓延し、ストレスがたまった人達がでている。そういう人達は、学校のような集団で感染者が発生すると、まるで社会の害悪のように罵声を浴びせ非難する。感染者が出た学校に対する中傷や脅迫は、もはや社会問題になっている。

『日本から出て行け』『学校つぶせ』…部活クラスターで中傷電話、生徒の写真も拡散
(2020年8月23日 読売新聞オンライン)

高校の部活動などで新型コロナウイルスの集団感染が相次ぎ、生徒らがネット上などで誹謗中傷される事態になっている。学校側には十分な感染対策が求められるが、批判にさらされる生徒には精神面の悪影響も懸念される。専門家は、コロナ禍で不安や不満を募らせた大人が、生徒らをスケープゴートにしないよう呼びかける。

 「日本から出て行け」「学校をつぶせ」
 9日以降、サッカー部員らの感染者が約100人に上った松江市の私立立正大淞南(しょうなん)高校では、学校の批判に加え、生徒を中傷するような電話が80件を超えた。

 集団感染は、部員の大半が寮で共同生活していたことが原因とみられ、同校は記者会見で「学校側の対策が十分ではなかった」と謝罪。そのうえで「生徒に落ち度はない」と強調したが、ネット上では、生徒の活動を紹介する同校の公式ブログも標的となった。

 7~8月に行われた島根県の独自大会で準優勝した野球部の部員を、屋外でサッカー部員らが祝福する写真に対しては、「マスクも着けずにコロナをばらまいている」との批判が殺到。同校は「生徒個人が特定される」として写真を削除したが、テレビの情報番組などが取り上げたこともあり、さらに拡散。島根県は8月21日、写真が転載された十数件のサイトについて「人権侵害の恐れがある」として松江地方法務局に通報し、削除要請を依頼する異例の対応を取った。

 生徒の心身の不調を懸念した同校は、島根県臨床心理士・公認心理師協会に協力を依頼。約50人から「寝られない」などの相談が寄せられているという。

 学校関係の集団感染は、天理大ラグビー部や日本体育大レスリング部、福岡県大牟田市の私立大牟田高などでも起きている。

 児童生徒を中傷や人権侵害から守るため、独自の取り組みを行うのは三重県教育委員会。5月中旬から新型コロナの感染者らを中傷するインターネット上の書き込みなどについて専門業者に委託してパトロールしている。公立小中学校や県立学校の校名が書かれた中傷などの書き込みがあれば県教委が各校に連絡して対応を依頼する。これまでに「感染者が出た学校に近くて怖い」といった書き込みが確認されており、県教委は「早期に学校などと連携し、児童生徒を中傷などから守っていきたい」としている。


つまり、大学としては学生感情を考慮して対面授業を再開したくても、世の中がそれを受け入れるだけの許容性が無いのだ。特に都心部の大学が再開すると、大学構内だけの人的密集だけでなく、電車やバスなどの公共交通機関や店舗などの人が集まる場所の密集度合いが一気に高くなる。若い世代はとにかく移動範囲が広く活発なので、大学が再開することによって都心の人的な流動性が段違いに高くなる。それはコロナ発生の危険性に直結する。

また、産経社説が引用している通り、「小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか」という文句をいう人もいる。そういう人は、学校という場所がもつ機能を甘くみている。

学校というのは、勉強を教えるだけの場所ではない。情報として勉強内容を伝達するだけであれば、わざわざ皆が同じ場所に行って、同じ時間に、同じ内容を学ぶ必要など全くない。学校というのは学習内容の習得以外にも、人が集まる場所で集団に属し、適切な社会性を育む場所でもある。正課としての授業だけでなく、委員会活動、部活、課外活動など、様々な機会を通じて「集団における自分の位置づけ方」を身につける場所でもある。

そのような「社会性」の機能は、初等教育ほど重要性が大きい。非常事態宣言下で最初に学校再開の必要性が叫ばれていたのが、大学でも高校でも中学高でもなく「小学校」だったのは、そのためだ。小学校の機能は、勉強を教えることだけではない。児童はまだ地力で自分のあり方をアップデートする能力が身に付いていない。他者と接し、集団に属することでしか自分のあり方を確立することができない。リモート授業で勉強するべき「情報」だけを与えればこと足りる、というわけではないのだ。

それが大学になると事情が大きく異なる。基本的に大学生というのは、すでに自分の力で自分のアップデートをする能力を持つものだけが入学を許されるべき場所なのだ。初等・中等教育を通して、自分の適切なあり方を確立する社会性も、ある程度は身につけていることが要求される。そういう「大人」が集まるのが大学なので、大学の授業としてはリモート授業で代替できる部分が大きい。それが小学校との大きな違いだ。 「小学校が再開しているのに大学が再開しないのはおかしい」という主張は、「大学生の能力は、小学生の能力と同等だ」と主張しているに等しい。

新聞社説に掲載される大学生の不満は、主に「リモート授業の質が低い」という形で報じられることが多い。勉強意欲が猛烈に高いお利口な大学生が学ぶ機会を奪われている、という論調が多い。しかし本当のところ、大学生が不満を感じているのは、リモート授業そのものではなく、学校という枠組みがもつ「社会性」という機能を享受できないことではないか。友達と会えない、知らない人と知り合う機会がない、人から刺激を受けて自分を変えていく機会がない、そういう「社会性」の欠如が、学生の不満の根源だと思う。

しかし、それを言葉にすると「人と会えなくて寂しい」という、自分のパーソナリティの欠落を訴えるような不満に聞こえてしまう。堂々と主張するには恥ずかしい。だから不満の出し方としては「リモート授業の質が低い」という言い方にならざるを得ない。
つまり、大学生の不満というのは、「現在の生活から社会性が欠落している不満」を「授業の質の不満」にすり変えていることに他ならない。

新聞社説はやたらとリモート授業の質の低さを糾弾しているが、そういう新聞社は実際の大学のリモート授業をどれほど見たことがあるのだろうか。
一般的に、対面で人に直接話すよりも、出版物やリモート授業で情報を流すほうが、情報量は多くなる。大学の授業は一般的に1コマが90分〜100分ほどだが、もしリモート授業で90分も一方的に喋ったら、おそらく対面授業3回分くらいの情報量になる。大学側もリモート授業実施当初からそのことには気付いており、事前に録画した内容を流すオンデマンド形式の授業を流す場合、90分の時間枠に対して授業動画は60分程度に抑え、のこりの30分は「能動的な演習問題」を課すように要請している。

実際にリモート授業を実施して僕が驚いたことは、普段の授業よりも脱落者が少ないことだ。
30〜50人くらいの講義の場合、だいたい毎学期ごとに10人程度の脱落者が出る。課題を出さない、試験を受けない、という単位の落し方もあるが、一番多いのは、そもそも教室に来なくなることだ。ところが今回、リモート授業を実施したら、授業登録者はすべて最後まで授業を受けて、課題を出し、試験を受けた。こんなことは初めてだ。

新聞社説は、暗黙のうちに「最新機器に疎い大学教授のオッサン達がつくるリモート授業なんて、どうせ質が低くて、面白くないものに違いない」という思い込みで書かれているように見える。特に産経社説は「大学が『レジャーランド』などと言われて久しいが、行かずともいいような大学には退場願いたい」など、もはや本筋とは関係ない中傷の仕方に帰着している。
大学教員を舐めてもらっては困る。自分が専門としている分野のことであれば、どんな形式であれ、その分野のことを語り尽くすくらいの能力など、どの教員にもある。それについて外野から質の低さを糾弾される程度の授業などやっていない。

学校教育が語られるたびに、「実際に学校に通う必要などない。不登校上等。勉強などネットで十分。家でひとりで勉強すればそれでいいはず」などと嘯く輩が必ずいる。そういう輩に限って、今回のコロナ禍で「大学が閉鎖しているのはけしからん」などという自己撞着を振り回している気がする。学校の機能を「勉強を教えるところ」程度にしか考えていないから、そういう筋違いな主張を散蒔くことになる。安易に学校を叩くのは、容易に潰れることがない学校という機関の堅牢性に甘ったれているからだ。大学のコロナ閉鎖を非難している人も、大学授業が再開してクラスターが発生したら、手のひらを返して前以上に非難することになる手合いだろう。



イラついてるだけだろ。



「コロナ下の大学 学生の意欲そがぬように」
(2020年8月8日 毎日新聞社説)
新型コロナウイルスの影響で、多くの大学の授業がオンライン中心となっている。学生たちはキャンパスへの立ち入りを制限され、不自由な大学生活を送っている。文部科学省の調査では、先月1日時点で全国の大学の2割強は授業がすべてオンライン方式だった。6割は対面式を併用していたものの、実験など一部の授業に限っているところが少なくない。ここに来て感染が再拡大の傾向を見せたため、秋からの後期の授業も原則オンラインとする方針も相次いで示されている。学内施設の利用が制限され、サークル活動などができないケースも生じており、学生からは不満の声が上がっている。

長期の休校措置がとられた小中高校では遅くとも6月には学校が再開された。小中高校と大学で対応が分かれたのには事情がある。大学のキャンパスには大勢の学生があふれる。大教室に何百人も詰めかけることも珍しくない。学生間では飲み会を含めさまざまな交流があり、一人一人の行動範囲は広い。感染拡大のリスクは小中高校と比べて大きいと言える。

しかし、教師や友人と顔を合わせて議論を交わしながら、学問を身につけていくのが学生の本来の姿だ。芸術系の大学などではとりわけ高度な実技指導が欠かせない。サークル活動や多くの交流も人間形成の一環であり、社会に出る準備となる。大学は人材育成を大きな役割としている。それを十分に果たせないのであれば、存在理由が問われるだろう。

文科省は先月、大学の質を確保するための最低ラインを定めた大学設置基準に基づき、秋以降の授業の留意点を各大学に通知した。まずは感染対策を講じたうえで対面による授業の実施を検討し、それが困難な場合はオンラインの活用を考えるよう求めた。コロナの収束が見通せない中で、各大学が長期的な視点に立ち、人材育成と感染防止を両立させる大学運営のあり方を探る必要があるのではないか。

心配なのは、学生が大学で学ぶ意味を見失い、学業を放棄するケースが出てこないかということだ。学生の健康を守りつつ、意欲をそがない対策が求められる。


「コロナと大学 対面授業の実施へ知恵を絞れ」
(2020年8月16日 読売新聞社説)
大学教育は、授業だけでなく、学生同士や教員との人格的なふれ合いも大切である。大学は工夫を凝らし、対面授業の再開を目指すべきだ。

新型コロナウイルスの流行で、大学はオンラインによる遠隔授業に軸足を置いてきた。最近の感染再拡大を受け、秋以降も遠隔を原則とする大学が相次いでいる。授業を再開させている小中高校とは異なり、大学は数百人が一室に集まる講義もある。アルバイトやサークル活動などで学生の行動範囲は広い。クラスター(感染集団)の発生を恐れ、対面授業をためらっているのだろう。

大学の学生アンケートでは、遠隔授業について「自分のペースで勉強できた」と評価する声がある一方、「集中できない」「質が低い」との不満も出ている。学習意欲の低下につながることが懸念される。教員がオンラインに適した授業方法や機器の操作にさらに習熟する必要がある。より深刻なのは、信頼できる先輩や友人を作れないまま、孤立を深めている学生が目立つことだ。一度も学校に通えず、ずっと自宅に籠もっている1年生もいる。大学が積極的に状況を聞き取り、不安の解消に努めてほしい。

実験や実技が必要な理工系や芸術系の学部では、対面での細やかな指導が不可欠だ。遠隔授業だけでは、評価や単位認定が難しいという問題も生じている。学生をグループ分けして、少人数での対面授業を実現している大学もある。大規模な授業は遠隔で行い、少人数で広い教室を使うといった工夫も考えられよう。各大学が規模や特徴を踏まえ、遠隔と対面の授業を上手に組み合わせたい。部活動やサークル活動がままならない状況も、できるだけ早い改善が望まれる。

文部科学省は大学に対し、後期から対面授業の実施を促す通知を出した。萩生田文科相は「小中学校も工夫している。大学だけがキャンパスを閉じているのは、いかがなものか」と苦言を呈した。施設を全面開放している大学は全体の15%にとどまる。図書館や食堂、自習スペースなどの感染対策を講じた上で、段階的に利用範囲を広げてほしい。学生に飲酒を伴う会食を控えるなど慎重な行動を呼びかけ、授業方針や奨学金の情報を適切に提供することも大学の役目である。今後も、感染状況の行方は予断を許さない。情勢の変化に応じて柔軟に対処できるよう準備を整えておくことが重要だ。


「コロナと大学 『学費返せ』の不満解消を」
(2020年8月23日 産経新聞社説)
新型コロナウイルスの影響で、キャンパスへの入構が制限され、対面授業の再開に二の足を踏む大学が目立つ。大学側がコロナ感染を恐れるためだが、学生からは「学費を返して」との不満も出ている。長期の感染対策が求められる「ウィズコロナ」時代の大学教育のさらなる工夫を求めたい。

入学式もオンラインで、春から一度もキャンパスに入れない学生もいるという。文部科学省のまとめでは施設を全面開放している大学は15%にとどまる。9月の後期・秋学期が迫るが、都市部の大規模大学では、オンライン授業を原則とする大学が少なくない。大学を感染拡大の場としない配慮と対策は当然必要である。しかし、小中高校が順次再開しているのに対し、なぜ大学のキャンパス再開が遠いのか、学生らの不満には耳を傾ける必要がある。

文科省は感染対策を講じ、対面授業を検討するよう求めてきた。萩生田光一文科相は今月中旬の会見で「学生が納得できる質の高い教育を提供することは必要不可欠」とし、それができない場合、「授業料の返還を求める学生の声が高まることも否定できない」と厳しく指摘した。学費が年間100万円を超える大学も少なくない。近年、高額化が指摘されてきた。大学側は施設充実や外国語教育など少人数教育のための設備に経費がかかることを挙げるが、それも学生確保のためだろう。キャンパスに入れないのでは、学生は充実した施設・設備を使いようがなく、コロナ下の学生の不満を放置する言い訳にならない。

大学によっては正門に検温所や発熱者検知システムを設けるほか実験・実習の授業や図書館の利用など、キャンパス入構を段階的に認める所もある。グループに分け少人数の対面授業を再開する所もある。参考にしたい。オンライン授業についても質向上へ検証を重ねてもらいたい。学生の不満は、授業がマンネリでつまらないからではないか。教授とともに質問役の大学院生が登場し、オンラインでも興味をひく授業をしている例もある。私大を含め国から多額の助成金が投じられている。大学が「レジャーランド」などと言われて久しいが、行かずともいいような大学には退場願いたい。