次の文章は「啓蟄」という季語について解説したものである。これを読み、後の例句の中から一句を選んで、感じたこと考えたことを、160字以上200字以内で記せ(句読点も一字として数える)。なお、解答用紙の指定欄に、選んだ俳句を記入せよ。
注意:採点に際しては、表記についても考慮する。

二十四節気の一つ。陽暦三月六日ごろで、大陽黄経は三百四十五度。このころになると、めざとい人なら、冬眠からさめた昆虫やヘビ、トカゲ、カエルなどを見つけるが、だれの目にもふれるというわけではない。虫とは限らず、ヒベリのさえずりもこのころから聞こえてくる。虫出しの雷ということばもある。大陸から南下する寒冷気団の先頭にある寒冷前線が通るときに鳴る春雷のことだが、啓蟄のころには南からの暖気も強まりかけているので、雷声もひときわ大きくなりやすい。

例句
 啓蟄の虫におどろく緑の上
 啓蟄に伏し囀(さえづり)に仰ぎけり
 啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く



東京大学 1989年入試問題(国語)第二問の問題。


東大は1999年まで「死の第二問」と呼ばれる作文問題を出題していた。「作文」という採点基準がよく分からない問題で、受験参考書や予備校はその指導の仕方に四苦八苦していた。

この、通称「死の第二問」がそう呼ばれているのは、勉強のしかたがさっぱり分からないということ以外に、問題のテーマとしてよく「死」が取り上げられる、という理由があった。1981年の「樹木の言葉」、1982年の「国木田独歩の手紙」、1985年の「金子みすゞの詩」、1987年の「夏の風景」などの問題はよく知られている。

その第二問が、1989年に「俳句」という前代未聞の出題を行い、受験業界の度肝を抜いた。高校の現代文の授業で、俳句というのは、まぁ、「受験に関係ない単元」として飛ばされることが多い。高校生としても、俳句がまさか東大入試に出題されるとは思わなかっただろう。この出題からは、東大が世間で最も注目される入試としての自覚をもち、文部省(現・文部科学省)が策定した指導要領を遵守しようという基本姿勢が見える。「 高校で習ったことなら、入試に出る」という、当たり前のことを当たり前に実行している。長らく出題されていた東大国語第二問のなかでも、この1989年の問題は別格の「伝説の問題」とされている。

僕はいままで受験参考書でいろいろと、この問題に対する解説を読んだが、すべて見当違いのものだった。おおむね書いてあることは「東大の受験勉強に没頭するあまり、日常生活から自然を感じる感性が失われていないだろうか。教育を受けた大人として、知識を覚える勉強ばかりでなく、自然に目を向ける感性が必要である。この問題からは、東大が要求する成熟した人間像が見えてくる」のような寝言ばかりだ。

(よくある誤答例)
「啓蟄の虫におどろく緑の上」

毎日を勉強ばかりしていると、世の中や自然に対する感性が鈍ってしまう。受験生は勉強ばかりしていればよいというわけではなく、自然に対する柔軟な感性をもち、自分をとりまく環境に感謝しつつ生活すべきだ。この句は、普段意識していない自然がいきなり自分の目の前に飛び出してきて、虚を突かれた狼狽を表している。この句のように自然と隔絶された生活を送ってはならず、余裕をもった精神生活を送ることが必要であろう。
(197字)


まぁ、0点だろう。東大を舐めるなと言いたい。東大が入試で問うているのは、東大に入って学問を修める資質が備わっているかどうかだけだ。自然に興味があろうとなかろうと一切関係ない。東大は「成熟した大人」「自然に関心がある『いい人』」を採ろうとしているわけではないのだ。

勘違いする人が多いが、この東大の入試問題の答えが、俳句の書評として優れたものである必要はない。これはあくまでも大学入試問題であって、俳句の書評コンテストではないのだ。その両者では、求められる資質が全く違う。世の中には「東大入試の正解」であれば、どんな場に出しても「正しいもの」と考える安直な人がいるが、そんなことは全くない。ここで書かなければならないのは「入試問題に対する正解」であって、「俳句を通して深く世の中を洞察する世界観」などでは無い。

だからこの問題の合格答案を作りたければ、そもそも「大学で学問をするために必要な資質」が分かっていれば、そこから逆算して考えればよい。
従来、「死の第二問」では、「死」にまつわる問題が頻出した。それは別に東大が「死」を好んでいるわけではなく、「『死』というテーマは、主観と客観を排して考えるのが難しい」というだけの理由だ。つまり東大が何年も繰り返し「死」について問うていたのは、要するに「『主観』と『客観』をきちんと分けて考えることができるか」ということを問うていたに過ぎない。

だから、それを問う他の題材があれば、別に「死」に関したものでなくても構わない。ここで俳句という題材を出してくる東大も東大だが、「問われている内容は以前と同じ」ということが分かっていれば、別に俳句の嗜みなど無くても合格答案は書ける。

解答を作る際、句の前にある歳時記的な説明文は使う必要がない。この説明箇所は、要するに「『啓蟄』っていう言葉は大丈夫ですか、こういう意味ですよ」という注釈に過ぎない。個人的には東大を受験しようとするほどの学生であれば啓蟄くらい知ってて当たり前だと思うので、この説明部分は不要だと思うのだが、この問題は「国語」の問題であって「理科」「一般常識」の問題ではない。句には3つとも「啓蟄」という言葉が使われているので、念のためその意味を書いてあるだけだ。啓蟄について「冬眠してた虫や動物が出てくる時期」程度のことを知っていれば、それで事足りる。

3つの句を見比べてみると、ひとつだけ種類の違う句がある。
「啓蟄の虫におどろく緑の上」「啓蟄に伏し囀に仰ぎけり」のふたつには、句の中に作者が登場している。「おどろく」主体は作者だし、「伏し」「仰ぎ」しているのも作者だ。このふたつの句の中は、純粋に描かれる客観世界ではなく、作者が登場することによって主体的な体験・主観的な情感が詠われている。

一方、「啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く」の句には、作者が登場しない。これは世界を純然と客観視しているだけに過ぎず、物理現象を淡々と記述しているだけだ。それについて「こう思う」「こう感じる」という、筆者の主観は一切混じっていない。


haikunochigai
要するにこういう違い。


で、学問をするときに必要な姿勢はどちらか。
明らかに後者だ。学問をする際に必要なのは「対象を客観視すること」だ。現象を観測する時点で、個人的な感情や先入観が入っては絶対にいけない。論文を書くときに、内容に「筆者」という存在が登場してはいけないのだ。

この国語の問題は、その姿勢を問うだけのものに過ぎない。つまり、この問題は最初から「啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く」の句を選べるかどうかが重要なのであって、他の2句を選んだ時点で0点確定だろう。その理由として、学問を修めるに必要な「主観・客観の区別」ということが書けていれば、合格答案としては十分だろう。

(解答例)
「啓蟄や日はふりそそぐ矢の如く」

他の2句では主体的存在として句の作者が存在しており、「おどろく」「伏し」「仰ぎ」などの行為を行なっている。これらの句では、句中に登場する作者が主体的に行為を行い、その目を通して自然現象を主観的に描いている。ところが「ふりそそぐ矢の如く」の句では内容に作者が存在せず、自然現象を客観的に記述している。主観を廃し、作者をとりまく自然を客観的に描こうとしている点で、他の2つの句とは異なる。
(195字)


まぁ、入試問題の答えとしてはこんなところだろうが、もしこの答案で俳句コンテストに応募したら落選間違いないだろう。そりゃそうだ、大学入試問題と俳句コンテストでは、求められているものが違う。東大入試の正解であれば世の中のどんな文脈であっても正しい、というわけではないのだ。

ましてや、東大は「受験勉強ばかりではなく、自然に対する憧憬が深く、生物に対する慈愛の心をもち、俳句を嗜む風流な学生」を合格させたいのでもない。そんなことは、大学で学問をする際には全く関係ない。東大の過去問の解説書は、やたらと「いい人競争」をさせようとする答案を「正解」として載っけているが、おそらく出題者の先生はそんな正解例を見て笑い転げているだろう。少なくとも、僕が個人的に知っている東大の先生で、俳句の心得がある先生など一人もいない。



人間性を問うているわけではないと何度言ったら