漢字の成り立ちを6種類に分類したものを「六書」という。


象形・指事・形声・会意・転注・仮借の6通りのことを指す。実際にはこの6つは同等の分類ではなく、最初の4つ(象形・指事・形声・会意)は漢字の成り立ちを示し、あとの2つ(転注・仮借)は文字の応用方法を指す。まぁ、いかんせん提案されたのが121年の『説文解字』(許慎)によるものなので、現代的な漢字の実情には合っていない面もある。むしろ2000年以上も前の分類がいまだに生き残っていることのほうが驚異だろう。

この六書、漢字という基本的な表記体系に関することでありながら、ほとんどの日本人がはっきりとは知らない。高校の漢文の授業で若干習う程度だろう。僕もこの六書について調べるときは、自分の仕事や授業の必要上、漢字の歴史や背景について詳しく知る必要があるときくらいに限られる。

そのときにいつも疑問に思うことがある。
この六書、なぜ「りくしょ」と読むのだろう?

数字の「六」は、ふつう「ろく」と読む。ところがこういう、なんか中国っぽい古典的な文脈に出てくるときは「りく」と読むことが多い。
それは知っている人が多いだろうが、なぜそうなのか、理由をきちんと説明できる人は少ないのではないか。

漢字に多くの読み方があるのは、日本語を勉強する外国人がいつも嘆息するポイントのひとつだ。漢字を習いたての小学生も、漢字の違う読み方に混乱することがある。
多くの人が知っているのは「音」と「訓」のちがいだろう。ざっくり言って、中国語読みとやまとことば読みの違いだ。もともと日本語には漢字はなく、中国から輸入してきた漢字をむりやり従来の単語に割り当てたため、本来の中国語読みと日本語読みの両方が共存することになった。

ところが、ひとつの漢字に複数の音読みがあるケースが多い。たとえば「行」という漢字は、「コウ(行動)」、「ギョウ(行間)」、「アン(行脚)」という3つの音読みがある。これらの読みがぜんぶ「音読み」とされている、ということは、漢字の「出元」の中国では、いくつもいくつも読み方があったことになってしまう。

調べてみたらこの考え方は、半分正しくて、半分まちがっているらしい。日本に導入された音読みは多岐にわたるが、本場の中国でもいくつも読み方があったわけではなかったらしい。だから中国人がひとつの漢字を見たら、読み方がいくつもあって混乱する、ということはない。

ただし、中国は広くて歴史が長いので、地域的・時代的な違いはあったらしい。「日本は漢字を中国から輸入した」と簡単に言うが、その輸入の時期には時代的なずれがあったようだ。その時代ごとのずれが、違った音の導入になった原因だそうだ。

最初に日本が漢字を輸入したのは奈良時代のことで、中国では三国時代から六朝にかけての読み方が伝わった。日本の奈良時代といえばすでに中国では唐の時代だが、リアルタイムの漢字が輸入されたわけではなく、ちょっと「型落ち」の漢字が輸入されたらしい。この最初期に輸入された漢字の読み方を「呉音」という。

この時代の読み方をなぜ「呉」音というのはよく分かっていないが、勘では当時の日本が関係した地域が華南中心だったからではないか。当時の遣隋使、遣唐使などの海上ルートを調べてみると、中国大陸のやや南よりに漂着するケースが多い。この地域に、三国志時代の「呉」の国で使われた漢字を輸入したのではないか。

のちに遣唐使がバンバン派遣され、「型落ち」の漢字ではなく、最新の漢字が輸入されるようになった。唐の都は北のほうにある長安なので、呉音が使われていた華南の地域とはことばが違う。遣唐使で派遣された日本の留学生は、日本で習ってきた漢字と、長安での漢字では、読み方が違うことに戸惑った。そこで彼らは「長安の漢字こそ標準語。いままで習ってきた呉音は『方言』に過ぎない」と考えた。帰国後、遣唐使の帰国組は最新の「標準語」を大いに宣伝した。この時代にもたらされた長安の最新の読み方を「漢音」と呼ぶ。

いわば、時代と地域が違うふたつの読み方が日本国内で共存することになり、当時の飛鳥朝廷ではかなり混乱したらしい。そこで朝廷は、時代がやや古い呉音を廃止し、「長安の最新の言葉」である漢音を使うように制度をつくった。そのための勅令が何度か出されている。

しかし、いくらお上が「この漢字はこう読め」と言ったところで、すでに呼び方として定着しているモノの名前が簡単に変えられるわけはない。たとえば「屏風」を「びょうぶ」というのは古い呉音の読み方で、漢音では「へいふう」と読むが、勅令が出たからといって「そこの『へいふう』を立てかけてくれ」などと言い換えができるようになるわけはあるまい。日常生活に支障を来す。

もっと支障を来すのは仏典や経文の読み方だ。奈良時代に大量に輸入された経典は、すべて呉音で読まれていた。それをお上の命令でいきなり漢音に置き換えろと言われても、坊さんたちは困るだろう。「極楽」は今日から「ごくらく」ではなく「きょくらく」ですよ、というわけにはいかない。「阿弥陀経」は「あみだきょう」ではなく「あびたけい」と読みなさい、と言われても困るだろう。

面白いのは、宗教や学問が輸入された時期によって、呉音と漢音が使い分けられていることだ。仏教は奈良時代が輸入ラッシュのピークだったので、当時の読み方であった呉音で読まれている漢字が多い。ところが、それより少し時代が経ってから輸入された儒教では、漢音で読む漢字が多い。たとえば「経」という漢字は、仏教では「きょう(経文)」と呉音で読むのに対して、儒教では「けい(経書)」と漢音で読む。

平安時代から室町時代にかけて、どうも日本人の意識的には「呉音は古い読み方だから、できるだけ新しい漢音で読もう」という努力が行われていたらしい。儒教の教典を「六書(りくしょ)」と読むのは、どうもこの時代の努力の名残のようだ。まぁ、儒教の教典だから漢音で読む、という傾向はあったにせよ、仏教的な慣習の縛りがない分野では、できるだけ漢音で読もうとしていたようだ。

それが江戸時代になると、儒教が官学になり、仏教よりも儒教のほうが地位が高くなる。それに伴い、「漢音読みこそが正統」として呉音を排する運動が起きた。その一番の急先鋒が本居宣長だった。宣長は「呉音は古い読み方で単なる方言に過ぎない。漢字はすべて漢音に統一すべきだ」という論文を書いた。世間一般のイメージとは違い、かなり過激な主張をする人だったようだ。

当時の儒教の特徴は「正統」「邪道」という正誤の判断で世の中すべてを断罪する、という極端な正統主義にあるだろう。お上にとって使い勝手のいい道徳律なので、官学になるのも分かる。
しかし、ことばというものは生き物だから、「こっちのほうが正統。いままでの使い方は間違っている。だから今後はこっちを使え」と強制したところで定着するものではない。本居宣長は儒教思想にどっぷり浸りながら国学を大成し、日本人と日本文化の背骨をブチ建てようと苦心していた学者だ。その意気や良し、しかし現実と理想の齟齬を埋められるほど実務的な人ではなかった。

ちなみに漢字の読み方は「呉音」「漢音」で終わりではない。その後の時代の読み方の「唐宋音」というものがある。
中国では唐が崩壊し、統一王朝が一旦途絶える。一般的にはその後の時代を「五代十国時代」と称するが、要するに各地域に豪族が擁立される混乱期だ。その後、北宋が一応統一の体裁をとるが、すぐに南宋に分離し、さらに征服王朝の金に華北を乗っ取られる。

時代が乱れただけあって、この時代の「ことばの乱れ」は相当なものだったようで、各自の方言や外国語が入り乱れ、漢字の読み方も派手に変化した。この時代の漢字の読み方は、鎌倉・室町期に輸入されるが、すでに日本では呉音と漢音の並立状態にあった。新しい唐宋音はすでに日本に入り込む隙が残されておらず、わずか例外的に採用されるに過ぎなかった。「和」を「お(和尚)」、「子」を「す(椅子)」、「頭」を「じゅう(饅頭)」などと読むのは、すべてこの時代に輸入された唐宋音だ。「行脚(あんぎゃ)」に至っては二字とも唐宋音で読んでいる。

感覚では、「和尚」「椅子」「饅頭」「行脚」などの読み方は、より古い読み方のような気がする。しかし実際には、こちらの読み方のほうが新しいのだ。この読み方が日本に入ってきたときには、すでにそれぞれの漢字の読み方が定着していたために、日本では定着しなかった、というのが実情らしい。

こうした事情が重なって、現在の日本の漢字には複数の音読みがある。通常、3つの異なる音読みがある場合、それは「呉音」「漢音」「唐宋音」の3つであることが多い。

「行」
「ぎょう」(改)・・・呉音
「こう」(動)・・・漢音
「あん」(脚)・・・唐宋音

「明」
「みょう」(灯)・・・呉音
「めい」(治)・・・漢音
「みん」(朝体)・・・唐宋音

「請」
「しょう」(起文)・・・呉音
「せい」(要)・・・漢音
「しん」(普)・・・唐宋音

一般的に「漢字は中国から輸入された」と簡単に言うが、輸入元の中国の広さと、輸入された時代の幅を勘案しないと、どうして漢字が現在のような面倒な読み方をするのか分からなくなる。そういう時に時代背景と導入時の事情を調べてみると、どうしてそういうことになっているのか、ある程度わかるものらしい。



漢検1級の勉強してたらこういう脇道に逸れまして