こないだ、Twitterにこんなことを呟きましてね。


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そしたら意外に反響が多くて、中には「詳しく説明してくれ」なんてコメントまで入れる人がいる始末。


はぁ?


大学進学率が57.9%に達する現在、日本で普通に中学、高校まで勉強していれば、「大学とは何をしに行くところなのか」くらい分かっていそうなものなのですが、大学がどういう所なのか分かっていない人が多いようです。大学で教えていても、分かっていない大学生が多いような気がします。

まぁ、上に挙げたすべてについてくどくど話していると愚痴話になってしまうので、一番勘違いの多い

・有用な勉強とは「日常の役に立つこと」である

だけについて話をしましょうかね。


僕は大学の授業で、毎学期、初回の授業で学生にアンケートをとる。
その中に必ず「中学・高校で習った教科のうち、必要ないと思う教科は何ですか」という質問を入れている。

不人気教科はおおむね日本史、世界史、数学、物理、化学、古典、漢文といった辺り。理由はすべて同じで「日常生活で使わないから」「役に立たない知識だから」というものだ。
学生はとにかく「役に立つ勉強」が大好きだ。ところが一歩突っ込まれて訊かれると、己の知見の脆弱さを簡単に露呈する。僕の経験からすると、「役に立つ科目」を優先して勉強しようとする学生に、優秀な学生はいない

件の命題を盲信している学生の共通点は、ことばを雑に扱い、「理解したつもりになっている」ことだ。
「有用な勉強とは『日常の役に立つこと』である」という命題には、その意味をよく考えなければならない言葉がふたつある。
「日常」と「役に立つ」のふたつだ。

まず、僕がいつも不思議に思うことがある。


なぜ学生は、そんなに「日常」が好きなのだろうか?


「日常の役に立つ」ということは、「毎日毎日、当たり前に過ごしている生活」を軸として知的活動を捉えている、ということだろう。ところが、そういう学生に限って、退屈な「日常」を忌避し、「すばらしくワクワクする非日常」に惹かれる傾向がある。具体的に言うと、大学の授業に出席することが当たり前の大学生活に嫌気が差し、授業をサボって遊びに行く、という行動をとることが多い。

旅行が好きな人は多いだろう。旅行というのは、繰り返される、決まりきった退屈な日常生活から「逸脱」し、非日常の世界を体感させてくれるものだ。毎日毎日、決まった日課の毎日を過ごしているからこそ楽しい。多くの人は、日常生活にありふれている身近なことよりも、旅行で体感できる珍しい体験のほうが、ワクワクするものではあるまいか。

ところがそれを、知的生活に置き換えて感じることができない学生が多い。
極論してしまえば、大学で学ぶ学問のほとんどは、日常生活には全く関係ないものばかりだ。惑星の周期計算をする天文学だって、微生物の特徴を研究する生物学だって、人間の経済活動の一般法則を導く経済学だって、物体の動きを定式化する物理学だって、すべて「日常生活」とは全く関係ない。

そして、学問というのは「日常生活とは全く関係ないからこそ楽しい」のだ。「日常生活」なる身近なものに近しい分野であれば、何の楽しいことがあろうか。
大学で学ぶ学問分野というのは、いってみれば知的な「旅行」に相当する。日常生活に退屈を感じたときに知らない土地に旅行するのが楽しいように、日常生活にまったく関係ない世界を知る知的興奮こそが、大学で学ぶことの本質なのだ。

「◯◯◯という分野は日常生活の役に立たない」などと嘯く学生に限って、大学の授業に意義を見いだせなくなり、大学に来なくなる。では大学に来ずに何をやっているのかというと、別に何もやっていないのだ。日常に埋没し、生活に退屈を感じるようになり、無気力な毎日を過ごすようになる。
中には「自分の知見を広げるために日本一周の旅に出ます」などという本末転倒の学生もいる。「日常から離れた、自分の知らない世界を見たい」と口で言っておきながら、「日常から離れた、自分の知らない分野について学びたい」とは思わない。

繰り返すが、大学で学ぶ学問分野は、日常とはかけ離れた、毎日の生活には関係ないものばかりなのだ。そういう「未知の世界」を存分に学べる環境に身を置いておきながら、「授業が退屈なので未知の世界に旅に出ます」という、矛盾した行動をとっている。僕は個人的に、そういう学生は、たとえ世界一周の旅をしたとしても、得るものなど何もないと思う。

大学で研究をしている研究者のほとんどは、「日常生活なんて知らねぇよ」と思っている。毎日繰り返される日常生活よりも、自分が夢中になっている分野のほうに心を惹かれる、いわば社会的不適格者の集まりだ。
よくある大学教授のステレオタイプとして、「自分の専門分野については物凄く詳しいが、一般的な常識でも知らないことがある」というのがあるが、さほど間違ってはいない。専門分野の研究者にとっては、「日常」という場でうだうだと管を巻いているよりも、自分が専門としている「非日常」の世界で遊んでいるほうが、楽しいのだ。

大学の学問の意義についての話になると、学生はやたらと「日常生活」「日常生活」と繰り返す。そんなに日常生活が大好きなら、お前ら今後一切旅行に行くなと言いたくなる。


もうひとつの言葉、「役に立つ」にも、学生が暗黙のうちに無視している意味がある。
「役に立つ」というのは、どういう意味なのだろうか?

誰でも家族は大切だろう。親友がいる人もいるだろう。
では、なぜ家族は大切なのか?なぜその人はあなたの親友なのか?


「役に立つ人」だから大切なのか?


「役に立つ」というのは、もともと「道具」に対して使う言葉だ。「本質」に対して使う言葉ではない。
人間が生きていくうえで大切なことは数多あろうが、「なぜ、それが大切なのか?」というのは、言葉では説明できないことばかりなのだ。「役に立つ」から両親が大切なのではない。「役に立つ」から自分の子供を慈しむのではない。「役に立つ」から親友は親友であるわけではない。

つまり、何かに「役に立つのか」という価値基準をあてはめた時点で、それを「道具」として見なしていることになる。
新学期、新しいクラスになって、いままで知らない生徒と一緒になる経験は誰でもあるだろう。この中から誰と誰が自分と友達になってくれるのか、誰を仲良くなれるのか、ドキドキした経験は誰にでもあるだろう。
そのとき、「仲良くなれる友達」の基準として、「誰が自分にとって役に立ちそうな人間なのか」という価値観でクラスメートを値踏みしていただろうか。「役に立ちそうな生徒とは付き合う」「役に立ちそうもない奴は切り捨てる」という態度で、クラスメートに接していただろうか。

かように「役に立つ」「役に立たない」という価値観でなにかに接することは、下品なのだ。ものの本質を見ようとせず、「自分にとって使える道具か否か」という視点しかない。そういう見方で森羅万象、あらゆることを理解しようとする姿勢は、廻り廻って自分の視野を狭め、生きる楽しみを失わせることになる。

僕は長いこと大学にいるが、断言してもいい。大学で「自分の分野は世の中の役に立つ」と思って研究している者など一人もいない
大学の研究者がその分野を研究している理由はただひとつ、「面白そうだったから」なのだ。

誰でも、なにか好きな分野があるだろう。別に学問分野でなくてもいい。漫画でもゲームでもアイドルタレントでも何でもいい。いま自分が夢中になっているものをひとつ挙げてほしい。
その「自分の好きなもの」について、週に1回、90分、一年で30回、50人くらいを前に、その魅力を延々と話し続けることができるだろうか。

大学の講義というのは、つまるところ「日常生活にまったく関係のないひとつの分野に取り憑かれた変態が、1年間で30回、毎回90分、その分野の面白さを好き勝手に喋っている場」なのだ。シェイクスピアについて、ウナギの生態について、国際紛争の解決方法について、目を輝かせながら延々と喋り続ける変態、それが大学教員だ。

ただ「好き」というだけでは、そんなに話のネタは続かない。ものを好きになるにも、その深さを極めるための方法論があるのだ。大学教授と呼ばれる人種は、その深さを延々と掘り続けているような人々だ。決して、高い山に登ろうと決意して着々と努力し続けた人ばかりではない。むしろ「きれいなチョウチョを追いかけて走り回ってたら、いつのまにか山の頂上にまで行き着いてしまった人々」と言った方が実情に近い。

誰でも子供のころに熱中したものがあるだろう。電車が大好きで、路線の駅を全部暗記した子供もいるだろう。ポケモンが大好きで登場キャラと出現分布をすべて覚えてしまった子供もいるだろう。毎日ゲームばかりやり続け、ネット対戦で軒並みハイスコアを更新し続けた子供もいるかもしれない。
では、はたしてそういう経験は、その後の人生において、いったい何の役に立っただろうか

人が何かに熱中するとき、その根本原理は「楽しいから」だけだ。役に立つかどうかなんて知ったこっちゃない。知ることが好きで、覚えることが好きで、新しい技術を身につけることが好き。それが役に立とうが立つまいが関係ない。人生において、心から楽しめることのほとんどは、役に立たないもののほうが多い
大学での学問も、基本的にはそれと同じことなのだ。役に立つかどうかなんて知ったこっちゃない。自分の日常とは関係ない所に、こんなに広く深い世界がある。その未知の世界に足を踏み入れる知的興奮が全てと言ってよい。

世間一般にあまりこういうことが話されないのは、大学で教えている立場であれば、そういう事は口に出して言うべきことではない、と誰もが知っているからだ。本音としては自分の専門分野を「楽しいから」という理由で研究している研究者も、大学や国から研究費をもらっている。税金をいただいて研究をさせていただいている身としては、ありのままに「役になんて立たないっす。面白いからやってるだけっす」と放言するのは、モラルとして許されない。だから誰もが方便として「こんなに人間の集合知に対して貢献しているんですよ」というおためごかしを用意している。大学人であれば最初に身につけるべき「社会的常識」だ。


そういう変態が集まって好き勝手なことを喋りまくっている大学という魔窟で、学生としてはいったい何を学ぶべきか。
卒業するときに、「教養」が身に付いていれば、ある程度大学でちゃんと勉強をしたのではないかと思う。

「教養」という言葉は、一般的に「いろんな知識が頭に入っている」というイメージで捉えられていると思う。しかし、僕は逆だと思う。「教養」というのは「頭の中に詰め込まれた知識」に関する概念ではなく、「まだ頭の中に入っていない知識に対する敬意」のことだ。

「教養のある人」というのは、日常生活に例えれば、「旅行が好きな人」に相当すると思う。決まった場所、決まったお店、決まった行動範囲だけを惰性で繰り返すのではなく、新しい所に行きたがる。知らない世界に興味をもつ。それと同じことで、「教養ある人」というのは、自分の知っている分野、すでに知っている知識だけに捉われず、常に新しい知的体験を求める。

つまり「教養」というのは、端的に「知的好奇心」と言い換えてもよい。「この分野、よく知らないからパス」ではなく、逆に「よく知らないから、もっとたくさん知りたい」という姿勢のことだ。だから教養のある人というのは、人の話をよく聞く。自分のまだ知らないことを、貪欲に吸収しようとする。

先ほども言ったように、大学で教えている先生というのは、根本的には「あるひとつの分野の研究に、一生を捧げようと覚悟した人たち」なのだ。つまり大学で学ぶどの分野も、ひとりの人間を一生虜にするだけの魅力がある。その魅力を感じ取り、その分野がなぜそんなに面白いのか、それを知ろうとする大学生活を送れば、一生退屈しないだけの「教養」が身に付くと思う。

日本は平均年齢が伸びすぎ、定年退職後の生き方について、道を見失う人が多い。何を生き甲斐にして生きればいいのか、毎日何のために生きればいいのか、燃え尽き症候群のようになる人が多いそうだ。
体力とお金があれば、旅行をするのも良かろう。いままで行きたかったけど行けなかった場所に、のんびりと旅をするのはよい老後のすごし方だと思う。しかし、そこまで体力とお金に余力のある人というのは、それほど多くあるまい。

しかし、大学教育で身につけた「教養」を下敷きとした「知的な旅」ができれば、お金も体力もいらない。いままで知らなかった分野を勉強し、いままで知らなかった世界の広がりを感じて、知的興奮を楽しむ能力があれば、毎日家にいながらにして新しい世界への旅が経験できる。大学教授の変態っぷりでも分かる通り、学問というのは、分野の数だけそれぞれの興奮がある。それを体感できれば、生きることも楽しくなる。

文部科学省はそういう知的生活のことを「生きる力」という言葉で表現している。曖昧すぎて一般には理解されていないだろう。しかし、「知ること」「学ぶこと」が自力でできることは、子供がわくわくしながら電車の駅名を覚えるのと、根本的には同じことなのだ。毎日の生活で確かな成長を感じることができ、自分の世界がどんどん広がっていく実感がある。
つまり、大学で学ぶべきことをしっかりと学び取った人というのは、「一生、退屈しないで暮らしていける人」と言える。

もちろん、すべての人がこのような恩恵にあずかれるわけではない。大学教育というのは、基本的には「経済力と能力のある人だけが許される『贅沢』」なのだ。そこのところを誤解している人が多いと思う。
大学の勉強というのは、基本的には日常的に何の役にも立たない。そのような「役に立たない勉強」に熱中する人だけが、大学に入ればいい。だから、「この分野は何の役にも立たないから勉強する意味がない」と嘯く人は、そもそも大学という場に用がない人達なのだ。役に立つ勉強がしたければ、さっさと大学なんて役に立たないところは退学して、専門学校に行けばいい。「役に立つこと」を、たくさん教えてくれる。教育を受けるということがどれほど贅沢なことなのかを分かっていない人が、大学で学んでも意味がない。

このような、大学で身につけるべき「知」のあり方は、小学校、中学校、高校までに求められる「知」と、根本的に違う。だから高校までの勉強のしかたと、大学から先の「知」が目指すものとのギャップに戸惑い、「勉強とはどういう営みなのか」が分からなくなる学生が多い。
学生が不満に思うのは、興味がある・無いに関わらず、勉強しなければならない科目を一方的に押し付けられることだろう。自分の興味のある分野を選んで学べばいい大学とは異なり、高校までの科目というのは基本的に自分では選べない。

高校までで習う科目というのは、端的に言うと「いままで人類が有史以来築き上げてきた『知の集積』の、ほんの上澄みの部分だけを、味見させてくれるもの」なのだ。「日常生活で使わないのに、漢文なんて習わなければならない」のではなく、「漢文を学べば、3000年以上前の時代に何が起こっていたのかを知ることができる」のだ。そういうことに全く興味を示さない人は、文字通り、学ぶ必要はない。前述の通り、「勉強とは贅沢なもの」だからだ。

ただし、そうやって興味のない科目をどんどん切り捨てていく人は、あとになって「自分には学ぶチャンスがなかった」などという泣き言を一切言う資格はなかろう。世界には、学びたくても学ぶ環境になり不幸な人達がたくさんいるのだ。自ら望んでそういう境遇に身を墜としたければ、構うことはない、学ぶことを止めてどんどん墜ちればいい。

高校までの授業でやっていることは、実は「勉強」とはとても呼べない程度の内容なのだ。あれは単なる「知識のサンプル」であって、本来の分野から言えばほんの小さな箱庭を覗かせてもらっている程度に過ぎない。大学に入ってから、本格的に知的好奇心を存分に発揮して「知の冒険」をするための、基本装備を身につけさせてもらっていると思えばいい。どんな教科も、大学に入ってから己の中に大きな建造物をつくるための「知識のレンガ」を、ひとつひとつ身につけている段階なのだ。例えば、大学に入ってから昆虫に興味をもって本格的に勉強しよう、とする可能性のために「そもそも世の中には昆虫というのがいる」ということを教えてもらっているに過ぎない。

ただし、ひとつだけ例外の科目がある。数学だ。
数学という科目だけは「箱庭程度の知識のレンガ」ではない。「そのレンガをどのように組み合わせればいいのか」という、知の体系を作るための方法論を学ぶ科目だ。数学という科目は、個々の具体的事象をどのように繋ぎ合わせ、どのように体系化すればいいのかを学ぶ科目だ。この方法論を身につけていないと、大学でどんなに勉強をしても、単発知識を数多く知っているだけの「雑学王」で終わってしまう。知識の網を張り巡らし、自分の中で体系化する能力が身に付かない。数学という科目だけは、初学者にわかりやすく事実をデフォルメする「理想化」が無いので、中学校でも、高校でも、大学でも、同じ原理・原則が通用する。数学だけは最初から「箱庭」ではなく「本物の世界」を相手にする科目なのだ。

マンガ『東京大学物語』の中に、矢野先生という怖い数学の先生が登場する。高校三年生の数学の授業で、矢野先生は卒業していく生徒を前に、最後の授業で「本当に人生に役立つ学問は、数学だけである」と言い放つ。

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矢野先生の言う通り、学校で習う学問分野の中で、数学だけが唯一、役に立つ。正確には、数学という学問だけが、「役に立つ」「役に立たない」という尺度で計ることができる。つまり、数学だけが「道具」として使える学問なのだ。その道具の汎用性は、ほぼ世の中の学問分野全てを網羅する。数学的な思考法と発想法がない人間が、大学に入ってから「知の冒険」を行おうとしても、剣をもたずにフィールドに踏み込むロールプレイングゲームの主人公の如し、ろくに戦えないだろう。理系分野に限らず、文学だろうと歴史学だろうと法学だろうと社会学だろうと経済学だろうと、数学を学んでいない生徒が丸腰で挑んでも、新しい「知の創出」はできない。数学を学んでいない人は、知識を体系化する方法論を持たない

ところが学生の多くは「学校の科目に数学はいらない。なぜなら日常生活で役に立たないから」と平気で口走る。大学というところはどういう所なのか、役に立たないとはどういう意味なのか、一切考えようとしない。そういう学生は、どんなに本人が真面目に勉強しているつもりであっても、大学で得られる一番大きなものを得ることなく、無為に4年間を送ることになるだろう。


学生に話を訊いてみると、彼らが言う「役に立つ勉強」というのは、つまるところ「就職活動に有利になる勉強」のことを指していることが多い。彼らは目先の就職活動に恐怖を感じるあまり、「就職の役に立たない勉強」をいっさい切り捨てにかかっているのだ。だから「授業に出ないで就活セミナーに参加する」という学費の無駄遣いをしても平気だ。学生の多くは「生涯にわたって知的興奮をもたらしてくれる知のあり方」などに興味はない。「内定を取れるために必要な知識」だけが欲しいのだ。彼らにとって、大学など「就職予備校」でしかない。

だから、一旦就職してしまえば、大学教育で得たものがすべて不要になってしまう。いい会社に就職できることが、大学受験の勉強を頑張ったご褒美だと思っている学生も多い。そんな人が就職したところで、会社と家を往復するばかりの毎日で、たまの週末には家でごろ寝するだけの退屈な生活を送るようになるのが落ちだろう。知的好奇心など皆無。知らない分野を新たに知ることなど、面倒なことこの上ない。
たまに旅行に出かけたとしても、未知の世界に踏み込む知的冒険を「無駄な勉強」と切って捨てる程度の人間が旅行で味わえるものなど、たかが知れている。ガイドブックに載っている場所を廻り、インターネットで評判の高いお店で食べ、みんなに好評を得られる景色を写真に撮りSNSにアップロードして「いいね!」を押してもらう。つまり、すべてが「他人によって決まる旅」でしか無いのだ。自分で「これが知りたい」「ここに足を踏み入れたい」という姿勢を常日頃からつくりあげていないと、その程度の体験しかできない。

僕は、普段の大学の授業では、学生に対してこういう話はしない。これは単に僕が考えている、僕の意見に過ぎないからだ。学生に押し付けるつもりは毛頭ない。役に立たない学問だと思うなら遠慮なく切り捨てればいい。大学教育が役に立たないと思うなら遠慮なく退学すればいい。就活に血道をあげる4年間がお好みならそれも良かろう。こちらとして出来ることは、学ぶ意欲がある学生に、自分が持っている興味関心の話をするだけなのだ。それを得るか捨てるかは、学生が各自で勝手に判断すればいい。



他の項目についても気が向いたら書きますかね。