「東京五輪閉幕 混迷の祭典 再生めざす機に」
(2021年8月9日 朝日新聞社説)
「東京五輪閉幕 輝き放った選手を称えたい」
(2021年8月9日 読売新聞社説)
「東京五輪が閉幕 古い体質を改める契機に」
(2021年8月9日 毎日新聞社説)
「東京五輪閉幕 全ての選手が真の勝者だ 聖火守れたことを誇りたい」
(2021年8月9日 産経新聞社説)
「「コロナ禍の五輪」を改革につなげよ」
(2021年8月9日 日本経済新聞社説)


日本人にとっては総括が難しいオリンピックだったと思う。東京五輪招致が決定した時には、日本人の誰もがバラ色の2020年を夢見ていた。前回の東京大会の成功体験が大きい世代も存命している。コロナウィルスという全世界的な危機的状況でオリンピックを迎えることになるとは誰も思っていなかった。

今回の五輪開催には反対意見も多かった。災害復興を謳った五輪にもかかわらず、伝染病拡大という「災害」の最中に開催を強行する、という矛盾した図式が一番の理由だが、それだけではあるまい。開催直前になっての大会役員・企画参与者の不適切な言動が国民の神経を逆撫でした、という「人災」の面も多かろう。

開催をめぐる駆け引きの中で、IOCの態度も日本国民の感情を逆撫でした。かねてから指摘されていたことだが、今のオリンピックは金がかかりすぎている。余計なところに金をかけ過ぎ、開催のハードルは回を追うごとに膨らみ続けている。今回の開催強行に際してのIOCの独善的な姿勢、かつ責任は一切取らないという一方的な構造は、オリンピックのあり方がすでに限界に近づいていることを世界中に露呈した。少なくとも多くの日本人はIOCに対して良い感情を持たなかった。

こうした国民感情を受け、マスコミは五輪前、開催に否定的な意見が多かった。それがいざ実際に開幕してみると、日本勢のメダルラッシュを受けて手のひらを返したように五輪絶賛に論調を変えた。
これに対してマスコミの姿勢を非難する声が多いが、マスコミとて理念と現実の突き合わせに苦悩する毎日だっただろう。開催前であれば、中止を求めるのはやむを得ない面がある。コロナウィルスの感染状況とは別に、実際問題として各種イベントをはじめ、学校行事、集会、催し物はことごとく中止に追い込まれていたのだ。それなのに五輪だけ特別扱いして開催というのは筋が通らない。国民感情に合わない。

しかし、だからといって開催が強行されてからも「五輪断固反対」を叫び続けるのは、現実問題として何も生むまい。五輪開催前の日本のニュースは、不愉快なことばかりだった。その主な理由が五輪運営側の不手際や不祥事とあれば、なおさらだ。五輪開催前の日本は、すでに日本国内だけの力で、国民の意識を上向かせるだけの良いニュースを生み出す力を失っていた。誰もが誰かを非難し、他人の非を責めることにより鬱憤を晴らす、ぎすぎすした嫌な感情が国中に渦巻いている感じだった。

そこへ来ての日本選手の大活躍だ。開催前に「五輪反対を叫んでいた」という理由だけで、開催後も五輪に批判的な論調を繰り返すのでは、いま唯一日本に与えられている「明るいニュースで世の中を上向かせる」という機会を、自ら逸してしまうことになろう。マスコミの「手のひら返し」を批判する人達は、五輪開催前の「ぎすぎすした世の中」が延々と続くことがお望みだったのだろうか。

マスコミの側にも問題はある。マスコミが延々と五輪反対キャンペーンを打っていたのは、政権批判のためだ。五輪批判の論調は、必ず着地点として「都政」「国政」の失策をあげつらっていた。マスコミにとって五輪批判はいわば「目的ありきの手段」だったため、簡単に方向転換ができる代物ではなかった。マスコミが政治と関係なく、本当にコロナウィルス感染拡大と開催リスクだけを問題にしていれば、開催後の方針転換も容易だったはずだ。マスコミの報道姿勢が叩かれたのは、かねてから五輪の論じ方が歪んでいたため、そのツケを自ら払わされたという面がある。

今回の日本代表選手団は、過去最高のメダル数を獲得し、躍進した。これはいわば「不幸中の幸い」だ。確かに日本は連日メダルラッシュに沸いた。良いニュースで国民の精神的健康も上向いた。しかし、感染拡大に関する五輪前の「課題」は何ひとつ解決しておらず、却って悪化している。五輪という夢から醒めたら、日本はまた以前と同じ課題に向き合わなければならなくなる。

まとめると、今回の五輪に関する良し悪しは、こんなところだろう。
よいところ
・日本人選手がめちゃくちゃ活躍した
・新競技おもしろかった
・日本で久々の大規模イベントに参加できた感

わるいところ
・オリンピック、金かかりすぎ
・IOCムカつく
・コロナの状況が依然として最悪
・性別、精神保全、SNS誹謗中傷など、オリンピックの新しい問題

各新聞の社説を見ると、これらを統括して全体をうまくまとめている社説は少ない。
まず読売新聞と産経新聞は論外だ。手放しの五輪讃歌。万々歳のハッピー論調。すごいぞ日本選手、すごいぞオリンピック。能天気にも程がある。一応ちょろっと「問題点」を書いてはいるが、単なる予防策に過ぎない程度の書き方であって、全体的な論調は「五輪大成功」だ。これでは今回の五輪を通して日本国民が学ぶべきことを啓発できまい。
これは純然たる「社の立場」だろう。例えば読売新聞は、「天皇」のナベツネをはじめ経営陣がすべて五輪利権を受ける側だから、五輪をゴリゴリ押すのは当たり前だ。今回の五輪の総括に関しては、読むに値しない社説と断じていい。

上に挙げた「よいところ」「わるいところ」をわりと万遍なく掬い取って総括しているのは朝日新聞と日本経済新聞だが、視点と文章力の両方の面で、朝日新聞のほうが上だろう。
朝日新聞は以前、五輪開催に反対していた。2021年5月26日の社説「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」では五輪中止を強く訴える意見を掲載している。今回の社説では、朝日新聞は「社会情勢としては五輪開催に反対」と「いざ五輪が始まったら日本人選手が大活躍」の報じ方に葛藤があることを正直に書いている。

朝日新聞の社説は5月、今夏の開催中止を菅首相に求めた。努力してきた選手や関係者を思えば忍びない。万全の注意を払えば大会自体は大過なく運営できるかもしれない。だが国民の健康を「賭け」の対象にすることは許されない。コロナ禍は貧しい国により大きな打撃を与えた。スポーツの土台である公平公正が揺らいでおり、このまま開催することは理にかなわない。そう考えたからだ
(朝日社説)

一方で、本来のオリンピズムを体現したアスリートたちの健闘には、開催の是非を離れて心からの拍手を送りたい。極限に挑み、ライバルをたたえ、周囲に感謝する姿は、多くの共感を呼び、スポーツの力を改めて強く印象づけた。迫害・差別を乗り越えて参加した難民や性的少数者のプレーは、問題を可視化させ、一人ひとりの人権が守られる世界を築くことの大切さを、人々に訴えた
(同)


こういう書き方を「矛盾だ」と非難する向きもあろう。多くの国民が、開催前の「五輪に対する嫌悪感」と、開催後の「日本バンザイ」の感情を自分の中にうまく落し込むことに苦心していたのではないか。
今回のオリンピックは、どのみち伝染病という惨禍の中での強行開催なので、国民全員が何らかの葛藤を抱えたまま実施を受け入れなければならない大会だったのだ。その葛藤を自分の中で消化する能力の無い者が、やたらと他人を批判の矛先として口汚く罵り合って憂さ晴らしをする。今回のオリンピックを自分なりに統括することは、日本人にとっては難しいことだが、いまの日本にはこういう能力が全体的に欠けていることが明らかになったと思う。

まず「わるいこと」だが、朝日新聞は全体としては五輪反対の論調なので、その詳細を主として論じている。

懸念された感染爆発が起き、首都圏を中心に病床は逼迫(ひっぱく)し、緊急でない手術や一般診療の抑制が求められるなど、医療崩壊寸前というべき事態に至った。

これまでも大会日程から逆算して緊急事態宣言の期間を決めるなど、五輪優先・五輪ありきの姿勢が施策をゆがめてきた。コロナ下での開催意義を問われても、首相からは「子どもたちに希望や勇気を伝えたい」「世界が一つになれることを発信したい」といった、漠とした発言しか聞こえてこなかった

今回の大会は五輪そのものへの疑念もあぶり出した。五輪競技になることで裾野を広げようとする競技団体と、大会の価値を高めたいIOCや開催地の思惑が重なって、過去最多の33競技339種目が実施され、肥大化は極限に達した

延期に伴う支出増を抑えるため式典の見直しなどが模索されたが実を結ばず、酷暑の季節を避ける案も早々に退けられた。背景に、放映権料でIOCを支える米テレビ局やスポンサーである巨大資本の意向があることを、多くの国民は知った。財政負担をはじめとする様々なリスクを開催地に押しつけ、IOCは損失をかぶらない一方的な開催契約や、自分たちの営利や都合を全てに優先させる独善ぶりも、日本にとどまらず世界周知のものとなった


どれも「そのとおり」と頷くしかない指摘だ。日本選手の活躍に喜ぶ感情とは別に、これらの問題は厳然として存在することは認めなくてはならない。これは五輪に限った問題ではなく、今後も日本におけるイベント開催、コロナとの付き合い方に直結する、普遍的な問題だ。

一方で朝日新聞は「よいところ」について、「新種目」と「選手の精神的衛生面」に関しておもしろいことを言っている。

選手の心の健康の維持にもかつてない注目が集まった。過度な重圧から解放するために、国を背負って戦うという旧態依然とした五輪観と決別する必要がある。10代の選手が躍動したスケートボードなどの都市型スポーツは、その観点からも示唆を与えてくれたように思う。

正直なところ、今回の各紙の社説で僕が朝日新聞が一番良いと思った根拠は、ここの部分だ。
五輪開催前、日本のテニス選手、大坂なおみが精神的状況を理由に全仏オープンの記者会見を拒否したことが問題になっていた。テニスの4大大会では選手のメディア対応はルール化された義務であり、これを拒否することはできない。大坂なおみはこれを拒絶し、批判されるや後出しの形で「鬱病」というカードで世論の非難をかわそうとする姿勢をとった。

それを受ける形で、五輪では女子体操の「絶対女王」シモーン・バイルスが「心の健康を何より優先するため」という理由で競技を棄権した。これは要するに、従来の言い方をすれば「プレッシャーに負けた」というだけのことだろう。しかし、こういう競技に対する姿勢は個人だけの問題ではなく、その国、その競技に関わる構造的な問題という面もあろう。競技の歴史が長い伝統的なものであればあるほど、そうした柵は大きいものとなる。

だから、10代の選手が朗らかに技を競う新競技がオリンピックに向かう選手のあり方そのものを変える契機になるかもしれない、という指摘は優れた視点だと思う。スケートボード、サーフィン、スポーツクライミングなどの新競技は、日本人が躍進したこともあり、注目を集めた。それらの競技で、試技が終わった選手に対して、国籍・チーム関係なく健闘を称え合う様子は、他の競技で見られないものだった。そこには「オリンピック新競技採用までの道のりをともに戦ってきた『仲間』」という意識もあったと思う。しかしそれ以前に、そういう競技ではそもそもお互いを「競技仲間」と考え、凄い技には無条件に敬意を払う、という文化が根ざしているように見える。

前回の東京オリンピックは露骨に国威発揚の場だった。選手は「お国のために」戦い、戦後でありながら戦時中であるような重苦しい悲壮感が漂っていた。男子マラソンで競技場のゴール直前に抜かれて3位になった円谷幸吉は、家族・国民・マスコミの集中砲火を受けて自殺に追い込まれている。
そういう「国威発揚型」の動機付けでは、もはや優れた成績を残すことはできない、ということだろう。国威発揚型の典型は、オリンピックの成績が生涯の保証につながった旧東欧諸国だが、そのような社会システムはすでに存在しない。スポーツで良い成績をあげ、長く競技を続けるために必要なものは何か、今回のオリンピックでは顕在化した感がある。

どの新聞もとりたてて指摘していないが、今回からオリンピックの新しい面として、視聴者にとって「ただ観るだけのもの」ではなく、「観る側の姿勢が問われるもの」という、双方向のものになったということが挙げられる。
つまり、SNSによる選手個人への誹謗中傷の攻撃。国によっては組織的と思われる大量の中傷コメントで、対戦国の相手を貶める行為が続発した。多くの選手がそうした個人的な中傷攻撃に対する抗議の声をあげている。

これは、今回の五輪開催に際して「開催するべきではないという社会情勢」と「開催後の興奮と喜び」をうまく自分の中で消化できない幼稚な精神性と、根が同じ問題だ。誰だって、応援している自国の選手が敗れれば面白くない。しかし、それを自分の中で消化できず、負の感情をそのまま相手にぶつける。幼稚というよりも粗野だ。人間社会で生活し、他人と共存する根本的な姿勢を根底から放棄している。
現在は情報技術が発達し、自分の思っていることを広く世に知らしめ、特定の個人に思いを届けることが簡単になっている。その情報技術を誤った方向に振りかざし、「自分がイヤだった」というだけの理由で他人を安易に傷つける行為は、罰則に値する愚行だろう。世の中には法整備によって実刑が課されないと行為の善悪が判断できない低俗な人間が多い。それらの行為を厳禁するルール作りは今後の課題だろう。

オリンピックは終わった。普段の日常に戻った日本に残された現実は、悪化した感染拡大だ。日本と世界は根本的な問題を解決すること無しに、犠牲を承知の上で五輪を開催するという道を選んだ。選んだ以上は、その後に残されたものに適切に対処する義務がある。それを対処せずに放り出すような真似は許されない。そこまで含めて「五輪開催」の範疇だろう。どれほどの具体策を打てるのか、今後も注視する必要がある。



文句言いながら競技を観ても全然面白くなかろう。
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