ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。


鴨長明『方丈記』の書き出し。有名な文章なので、誰でも一度は読んだことがあるだろう。
しかしなぜか、その続きを読んだことがある人は少ない。


たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかになひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。


簡単にまとめると、「昔と今は違ってしまうことが多いから、世の中は虚しいね」。
簡単にまとめすぎて身も蓋もないが、言っていることはそういうことだ。

『方丈記』の下敷きが仏教の概念に依拠していることは常識の範疇だが、僕はかねてからそれに対して疑問を持っている。
なぜ、連続概念に対する現実への写像が離散対象なのだろう。

『方丈記』の根底にあるのは仏教概念の「無常観」だ。これは輪廻転生に代表される仏教の世界観のひとつだ。つまり、時の流れの中では等しく変わらないものなど何もない。世の中はすべて繋がっており、現世と来世は連続してつながっている。この「連続概念」が世界観の根底にある。

しかし、鴨長明がそれを表すのに使ったのは、「ある時点を切り取った情景」に過ぎない。人の棲家、人の出で立ち、朝顔の露、すべて「ある時点でそうだったもの」だ。これは時空を越えて連続した実態ではなく、時間を離散的に切り取った表象に過ぎない。
根底概念として「連続」を念頭に置きながら、表象としては「離散」を描く、というのは矛盾ではないのか。

おおむね人間というものは、時間を離散的な概念で再構築するものらしい。
たとえば、子供の頃のことを思い出してみる。頭に思い描くのは「夏休みにキャンプに行ったこと」「クリスマスに贈り物をもらったこと」など、ひとつのイベント、単一の出来事だ。そういうイベントを積み重ねたものが「過去の思い出」を構成している。

それは、履歴書でも同じことだ。教育歴や職歴を書くときには「xxxx年、○○高校を卒業」「xxxx年、△△社に入社」など、時間の一部を切り取って書き並べる。これも、ひとつひとつの経歴を「切り取って」自分史を構成している。


なんてくだらないことを考えている昨今ですが。


数学では、「連続」「離散」という概念を区別する。連続というのは、間に切れ目がない一連の過程のことを指す。対して離散というのは、まぁ、「連続の反対」で、個々の要素がぶつ切りで並んでいることを指す。デジタル時計は離散で、アナログの針時計は連続だ。
自然数は離散概念だ。1, 2, 3, 4, … という自然数の並びに、「その間」は存在しない。ひとの人数を数えるときには「1人」「2人」「3人」という数え方はあっても、「2.4人」「√5人」という数え方はない。

算数と数学は何が違うのか。
一言で言うと、「離散」の概念に留まっているのが算数、それを「連続」に拡げたのが数学だ。小学校の算数の過程では、分数や「分数化できる小数」(いわゆる有理数)は習うが、無理数や虚数は習わない。ひと頃、円周率πを「3」と教えるゆとり教育の弊害が取沙汰されたが、あれも根底にあったのは小学校の算数課程を「離散」の枠に押し込め、無理数を排除しようとした強引な姿勢だろう。

話を実数に限ると、事実として実数は連続している。
これは公理として使われることがあるが、証明可能な定理でもある。ドイツの数学者、リヒャルト・デデキントが証明した。


すべての実数は、実数線の上のどこかの位置に配置される。
話を簡単にするために、0から1までの間の線分図を考える。この0と1の間の実数線を、どこか適当なところで切断してみる。
すると、切断の両端には「一番大きな有理数a」と「一番小さな有理数b」が現れる、と仮定する。

dedekint1


実は、そんなことはありえない。aとbというふたつの有理数の間には、必ず(a+b)/2 という「もうひとつの有理数」が現れてしまう。
これは矛盾。よって、切断の両端に「最大・最小の有理数」が現れることは、あり得ない。

すると考えられるパターンは、
(1)最大の有理数aだけが存在する
(2)最小の有理数bだけが存在する
(3)a, b両方とも存在しない
の3通りになる。

dedekint3



実際には、(1)と(2)は交換可能(a=b)なので、パターンとしては
(A) どちらかの端に有理数がある
(B) 両端どちらにも有理数が現れない
のどちらか、ということになる。

実数線のなかで、「有理数ではないもの」というのは要するに「無理数」なので、(A)の片方と、(B)の両端には、無理数が現れる。これを言い替えると、実数というものは「ところどころにある有理数」と、「隙間を埋める無理数」が連続しているもの、ということになる。
この考え方は、提唱者の名前をとって「デデキントの切断」と呼ばれている。

小学校の「算数」では有理数しか扱わないので、その構成は「離散」になる。「みかんが4つ、りんごが2つあります。合計でいくつあるでしょう」で表されるように、数がとびとびの個体を表している。
ところが中学校になって「数学」になると、無理数が登場して、数学体系がいきなり「連続」になる。それまで「物の個数」を表すものだった数の概念が、一次関数の登場によって突如として連続体として目の前に現れる。この変化に対応できない生徒が、数学嫌いになる。こと数概念に関しては、連続体系よりも離散体系のほうが「直感的に捉えやすい」のだろう。

しかし方丈記の例を持ち出すまでもなく、おおかたの人は時間を連続概念で捉えている。美空ひばりだって「ああ 川の流れのように いくつも時代は過ぎて」と歌っている。一方、過去の時間を思い出すときには、「夏休みのイベント」「冬休みの一日」のように、離散的に独立した時間の一瞬を切り取って認識している。
人はあたかも、実際には連続している実数の中で、離散的に存在する有理数だけを拾い上げて認識するように、過去の記憶を形作っている。実数の連続性と、人の時間の記憶のあり方が一致しているのは、偶然なのだろうか。


現代数学では、離散数学のほうが重視されている傾向がある。確率論、グラフ理論、プログラミング、アルゴリズムなどは、すべて離散数学で構成されている。だいいち、コンピューターが離散体系だ。すべての計算を「0」と「1」の組み合わせで行なっている。

現代数学の最重要課題は「未来予測」だが、その基礎となる原理はすべて離散数学を使っている。統計的な未来予測では確率論を使い、経済学や政治学での未来予測ではマルコフ連鎖を使い、社会学ではゲーム理論を使う。それらの基礎はすべて離散数学だ。
かくいう僕も専門が理論言語学なので、記号論として言語現象を扱うときには離散数学の体系で数概念を捉えることが多い。

雑に言ってしまえば、「離散数学は、役に立つ」のだ。大学の工学系学部では、1年のうちから「離散数学」が必修で、基礎理論をみっちり学ぶ。内容は要するに「すごく高度な算数」だ。理論的に原理を掘り下げるよりも、それを応用して実践に活かすほうに重点が置かれる。

しかし、「役に立つ」ことと、「世の中の事実がそうなっている」ことの間には、関連性はない。工学系の嗜好としては、役に立つもの、成果を出せるものが「面白い」のだろうが、そういう方針に過度に向き過ぎる傾向と、いわゆる「数学嫌い」とは、同じ根によるものではないか。離散概念が連続概念に拡張され、「算数」が「数学」になった時点で数概念を嫌うようになるのは、「数学なんて何の役に立つんだ」というよくある文句によく表れている。

高校数学の範囲で連続体を構成する操作は積分だが、過去から現在の変化率を積分したとしても、未来が予測できるわけではない。そんなアルゴリズムは原理的に存在しない。
連続概念が「何の役にも立たない」、離散体系が「役に立つ」、という区分けは、表立って表明するかどうかは別として、多くの人が朧げながらに感じていることのようだ。切りがよく、バラバラの数が規則正しく並んでいる離散概念のほうが、認識的にしっくりするという直感を持っている人が多い。

しかし、そういう傾向をもつ人でも、「時は流れるもの」という一般通念をもっている。よく実態が分からない「時間」「時の移ろい」というものに対して、同じくよく分からない「連続」という概念に依存して、分かったつもりになっている。

鴨長明が『方丈記』の書き出しで連続概念を示しておきながら、その具体的な描写として離散的な「時の一点」を書き並べているのは、日本人のそうした傾向が太古の昔から連綿と続いていることを示しているような気がしてならない。ドラえもんのタイムマシンだって、時間移動の本質は「到着地点の時間」ではなく、移動中の「連続した時間帯」にあるにも関わらず、そこにタイムマシンの本質を見いだす人は少ない。

時間をどのように捉えるのかは認識論の問題だが、もし時間を連続した流れとして捉えるのであれば、そこには日常の感覚とは乖離した連続概念がある。そういう感覚で時間を考えると、一瞬を積み重ねたものとしての時間とは、別の時間の捉え方があるような気がする。


最後にまったく関係のない話ですが。
東京大学の医学部を受験するには、かなり数学を勉強しなければならない。塾や予備校では「東大医学部コース」なるものを設けて、その受験用の対策をみっちり行なうのだそうだ。
人呼んで、「理III数学」。数列や確率などの離散数学だけでなく、関数や微積分などの連続概念もちゃんと扱うらしい。



お後がよろしいようで。