日本経済新聞「大機小機」2017年9月2日国語で「こういう書き方は厳禁」と習うやつ。

2017年09月12日

社説で書くべきこと

絶えない部活動の体罰 意識改革まだまだ足りぬ
(2017年9月7日 毎日新聞社説)
わいせつ教員 情報共有はあたりまえだ
(2017年9月7日 産経新聞社説)


夏休みが終わり秋になって、学校が始まる季節になった。
だいたいの学校では、生徒を夏休みロスの気分から抜くために、この秋口の季節にイベント的な学校行事を置いている。夏の厳しい暑さが和らぎ、生徒の集中力を高めやすい時期になる。9月に文化祭が行なわれる学校が多いのはそのためだ。
そんな時期の2社の社説。それぞれ切り口は違うが、「学校に関する社説」という点で比較してみたい。

結論を先に言うと、産経の社説には意味があり、毎日の社説には意味がない。
そもそも、社説というのは何を書くべき場なのか、という「社説の意義」に立ち返って考えると、そういう評価になる。

産経の社説は、子供にわいせつ行為をはたらいて処分された教員に対する警鐘だ。
毎日新聞がとりあげたいじめ問題とならんで、学校現場での不祥事のトップ2だろう。

子供にわいせつ行為をして処分された教員について都道府県の教育委員会が情報共有するシステムが検討されている。処分歴を隠して他の地域で教壇に立ち、事件を繰り返す例が後を絶たないためだ。子供を守る、あたりまえの情報共有がなされていない現状にこそ驚く。早急に改善策を講じるべきだ。

今年発覚した例でも、女子児童への強制わいせつ容疑で逮捕された愛知県の公立小の臨時講師は、埼玉県内の小学校教諭時代に、児童ポルノ事件で停職処分を受けたことを隠していた。


社説の役割のひとつは、「社会で生じている諸問題を広く知らしめること」だ。その事件が広く知られているか否かは関係ない。世間の耳目を集める大事件であっても、「問題の本質は、世間で思われているのとは違う」ということもあり得る。

わいせつ行為をした教員が処罰されるところまではよく報道されるが、その処罰された教員がその後どうなっているのかまでは、あまり知られていないだろう。産経新聞はここで驚くべき事実を公表している。懲戒免職になった教員は、その後、免許失効期限が切れるのを待って、よその地域で知らん顔して教員に復帰している、というのだ。 問題提起としてはかなりの衝撃だろう。

社説の役割のふたつめは、「現行の施策に対して適切な評価をすること」だ。問題が起きた。それに対する世の中の動きがあった。その動きは正しいのか間違っているのか。それを適切に評価しなくてはならない。

 懲戒免職処分や禁錮以上の刑を受けた教員の免許は失効し、官報に掲載される。システムにも登録されるが、検索方法が複雑で、氏名を入力しただけでは失効状況や理由がすぐ分からないという。また、現行では官報に載らない停職以下の処分については、自己申告頼みだという。免許が失効しても3年たてば再交付可能で、他の教委で採用される例がある

教職員らのわいせつ事件をめぐっては、学校や教委が情報を得ながら警察の捜査が及ぶまで調査を行わない例がある。問題ある教員を教壇に立たせず、研修などを行う制度も適用例がわずかだ。


産経新聞は、現行のしくみに対して「ダメ」、という評価を下している。教員現場の不祥事は、扱う対象が児童であるため、情報の公開ができず、過去の問題事例も不透明になる傾向がある。その目的は児童を擁護することにあるのだが、それが悪いほうに働き、教員の不祥事が隠蔽されやすい仕組みになっている。

社説の役割のみっつめは、「具体的な解決案・代案を提示すること」だ。文句ばかり言っているだけではいけない。マスコミとしての社会的責任を果たすには、最低限の解決案は示さねばなるまい。
この点に関して、産経新聞は文部科学省の小さな動きに注目した。

文部科学省が来年度予算の概算要求に「教員免許管理システム」改修の関連経費を盛り込んだ。

13歳未満の児童を対象とした性犯罪について法務、警察両省庁が情報共有するなど、再犯防止を強化する流れにある。教育界も真剣に取り組むべきだ。

 児童生徒へのわいせつ行為は、教職者の立場を利用した卑劣な犯罪と銘記すべきだ。停職など極めて重い処分の情報共有をためらうべきではない。個人情報を名目に子供が危険にさらされている


要するに産経新聞の提案は、「犯罪履歴の登録をシステム化しろ」「警察案件にしろ」という2点だ。現行のやり方では、問題教員がいかようにも過去の履歴をごまかせる。だから、そのごまかしが効かないように情報登録と管理の方法を根底から変えろ、ということだ。

また教育現場では、教員・生徒の両方の立場に対して、警察権力の介入を忌避する傾向がある。学校内の問題は学校内で処理するというのが基本原則となり、あたかも不入権、治外法権かのごとく勘違いしている学校関係者もいる。
しかし、生徒によるいじめ(恐喝、暴行、強要)や、教員によるわいせつ事件などの不祥事は、本来的には警察に届けるべき「犯罪」だ。校則や服務規程の違反ではなく、刑法の違反だ。警察がそういう前科教員に関する情報にアクセスしやすくなることで、再犯を防止することができる。

産経新聞の真意を察すれば、おそらく本来の意図は「個人情報隠匿にまつわる危険性の警鐘」だろう。それも教師側ではなく、児童側のほうが発端だと思う。学校では児童の犯した不祥事は可能な限り隠匿することになっている。児童の出自などの個人情報も秘中の秘だ。それを強力に推進しているのが日教組だ。

日教組はもともと戦時中の学徒動員に反対する教職員組合だったが、「戦争反対」の部分だけが肥大化し、そのイデオロギーを朝鮮総連に利用される極左組織になり下がった。在日生徒の情報開示を頑に拒むのはそのためだ。
現在の小中学校では給食費の未納が相次いで社会問題化しているが、どの生徒、どの親が給食費を払わないのか、学校側は絶対に公表しない。日教組を中心とする勢力が「生徒の個人情報」を盾に、情報開示に反対しているからだ。だから、どういう出自の親が給食費の支払いを拒否しているのか、世間には一切知らされない。

産経はおそらく、わいせつ前科教員の問題を「社説の弾」として用意してあったのではなく、もともと用意してあったのは「教育現場の情報隠匿体質」のほうだろう。特に、日教組が子供の個人情報を秘匿したがることに、かねてから文句をつけたかったのだと思う。そこで「子供を保護するために情報秘匿を」という学校側の主張に対して、「情報秘匿のせいで子供が危機に晒されている」と、相手の主張を逆用して非難する方法をとったのだろう。

産経の社説が評価できるのは、「この提言が正しいから」ではない。正直に言うと、僕個人としてはこの産経の提案には反対だ。学校による情報秘匿をすべて一括して非難し、すべての情報を開示する、という方法は、やはり恩恵よりも弊害のほうが多い。教師の情報は公開し、児童の情報は秘匿する、という方策をとるにしても、教師はそもそも児童の情報を得られる立場にあり、その逆は成り立たない。情報上の立場が不可逆的である以上、片方だけを保護し他方を公開する施策は、無理が生じるだろう。
また、すべての問題教員が再犯を犯すわけではない。真摯に反省し、人生をやり直そうとする教員もいるだろう。過度な情報開示は、そういう人々の人生のやり直しを阻害してしまう恐れがある。社会復帰の道が断たれることで、わいせつ行為の隠匿が悪化し、犯罪がより凶悪化することだって考えられる。

産経社説の価値は提言内容の是非にあるのではなく、それが踏まえている方法論の的確さにある。少なくとも表面的にはこの社説は、社説が満たすべき「啓蒙」「評価」「代案」の3要件をきれいにクリアしている。内容の良し悪しよりも前に、社説の書き方として合格だろう。これらの要件が揃っている主張には、きちんとした反論ができる。発展した議論の足がかりにできる。

誤解されることが多いが、論説では「正しいか、正しくないか」という「内容の是非」よりも、「適切な方法論にのっとり、議論のルールを守っているか」という「方法の是非」のほうが、説得力に直結することが多い。内容さえ正しければいい、というのであれば、すべての社説に対して「我々ひとりひとりがしっかりと自覚して、よりよい世の中をつくっていくために努力していくべきである」とでも書いておけばいいのだ。正しいが、何の役にも立たない。主張の「方法」を無視した一般論というものは、かように無駄なものなのだ。

社説に必要な3要件のうち、「代案」に必要なルールは、「実際にそれを行なったか否かが、はっきりと分かる」という情報単位にまで落とし込んだ提案を行なうことだ。これを科学用語では「反証可能性」という。
たとえば、「どうすれば野球の守備がうまくなるか」という問題に対して、「1日100球のノックを課す」というのは反証可能だが、「ひとりひとりが集中して、最後まであきらめずに努力する」というのは反証可能ではない。やったか、やらなかったかが、客観的に判定できるものでなければ、提言としてはまったくの無価値なのだ。


そこで翻って、毎日の社説を見てみる。
呆れるほどに社説に必要な要件を満たしていない。3要件のすべてが全滅だ。

(1)啓蒙
「部活動で体罰が行なわれている」 ←誰でも知ってる。

(2)評価
「体罰はいけないのである」 ←あたりまえ。

(3)代案
「指導者は意識を変えていかねばならない」 ←反証可能ではない。



小学生にでも書ける。



読者の知らない新しい事態を知らしめているわけでもない。良し悪しを判断するのに独自の視点が必要な問題ですらない。それに対する提案が「意識を変えること」と来る。社説として云々以前に、学校教育を受けたはずのまともな社会人が書いた文章とは思えない。

だいたい、社説の題名にしてからが「意識改革まだまだ足りぬ」。足りる、足りぬの問題ではなく、「意識改革」などという出発点が間違っている。「意識」などという計量不可能な概念に対して、「足りぬ」という計量的な判定。自分で何を言っているのか分かっていないのだと思う。毎日新聞は、「意識が十分」という理由で成功を評価できる段階を、どのように定義しているのだろうか。


毎日はどういう書き方をしなければならなかったか。
もし毎日の社説が僕の学生のレポートで、それに手直しをしなければならないとしたら、「問題指摘のポイント」から基礎工事をやり直さなくてはいけないだろう。

レポートの良し悪しを決めるのは、端的に言って「問いは何か」だ。答えは何か、ではない。「間違った答えを出したくない」というのであれば、反証不可能な言説を並べておけば間違えようがない。「みんなで頑張ればいいと思います」は、間違ってはいないが、決して評価される提案ではない。

その眼で毎日社説を眺めると、「問い」と呼べる問題提起がまったくない。ところがその芽まで皆無かというと、そうではない。惜しいところを何度も素通りしている。

2012年12月、大阪市立桜宮(さくらのみや)高校バスケットボール部の主将が顧問の教諭から日常的に体罰を受け、自殺した事件を契機に、部活動の暴力的な指導が次々と表面化した。
 文科省の調査では、中学・高校の部活動での体罰は減少傾向にあるが、15年度でも195件発生した。体罰全体の約3割が部活動中だ。発生件数というが、認知できた数と取るべきで実際はもっと多いだろう

 桜宮高の事件以降、自治体やさまざまな競技団体が「暴力根絶」を宣言したが、現場には浸透していないとしか思えない


いじめの発生件数が下がったら警戒しろ、というのは学校現場の常識だ。おおむね、いじめが減ったからではなく、単に隠匿が増えて報告回数が減っただけ、という理由であることが多いからだ。いじめの件数が0件と報告されて無邪気に喜ぶのは、よほど間抜けな教育関係者だろう。

社説には「大阪市立桜宮高校バスケットボール部の体罰自殺以来、暴力的な指導が次々に表面化した」とある。毎日新聞はこれを否定的に捉えているが、本当にそう捉えるべきだろうか。いままで隠匿されていた体罰が明るみになったということは、自浄作用が増し、情報の透明度が上がったということでもある。いままで隠匿されていた要因は何なのか。その問いから始まって、学校現場の情報開示に対する具体的提言にもっていく書き方だってできるだろう。

自治体や競技団体が「暴力根絶」を宣言しても無駄っぽい、と言うのであれば、それらの宣言の実効性を数値的な件数で公表してもいいだろう。暴力根絶宣言は、体裁を繕うだけの単なる題目と化してはいないか。それが現場の改善に結びつかない要因は何か。必要な措置と現実の間には、どういうギャップがあるのか。そういう提言をして、はじめて反証可能性が保証された具体的な提言になり得る。

毎日新聞は、なぜこんな無意味な社説を書いたのか。
要因を端的に言うと、「ネタ切れ」だろう。新聞は社説を毎日載せなければならないが、世の中にはそうそう大事件が頻発するわけではない。書くことがない、という日だってある。
 
そういう日のために、新聞社は常々、「隠れた事案」に対するアンテナを張り巡らし、提言のストックをたくさん用意しておかねばならない。緊急の事案ではないが、長期的な視野での提言が必要なことだってあるだろう。そういう「持ち弾」の多寡が、新聞社としての基礎体力を決める。

毎日新聞には、そうした「貯め」がないように見える。社説の内容を日々のビッグニュースに依存し、泥縄式に社説を書き飛ばしてはいないか。だから何も起こらなかった日は、「体罰」という、特に何が起こったわけでもなく、世間的な評価も当たり前、提言など皆無、という安易な記事しか書けないのだと思う。どうせこんな屑のような社説を書いたところで、読者はその屑さ加減など分からないだろう、という舐めた態度も垣間見える。


社説に限らず、物事に対する提言というのは「合っている」「間違っている」という二極分化でばっさり分けられるものではない。どの主張にも、それなりの背景と思惑と正義がある。だから論説の是非を決めるのは「方法論」だ。何を主張するのか、ではなく、どうやって主張するのか、が論説全体の是非を決める。そこらへんを理解していない社説は、単なる印象のばら撒きに過ぎない。



はじめから目的ありきの文章ほど方法論を無視して書いている。





絶えない部活動の体罰 意識改革まだまだ足りぬ
(2017年9月7日 毎日新聞社説)

中学校や高校などの運動部活動指導者による体罰が再び目立ち始めている。「指導」と称した体罰や暴力とは即刻決別すべきだ。

東京都内のバスケットボール部や岐阜県内の野球部では「大きく成長させる」「気合を入れ直す」と、顧問らが長時間にわたるランニングを課し、部員が熱中症で倒れた。こうした懲罰的なしごきも体罰だ。
奈良県内ではサッカー部顧問が部員の顔を平手打ちする体罰や、至近距離から蹴ったボールを体で受け止めさせる監督の不適切な指導が発覚した。

文部科学省の運動部活動での指導のガイドラインでは、殴る蹴るはもちろんのこと、特定の生徒に対して執拗(しつよう)かつ過度に肉体的、精神的負荷を与えることなどを「許されない指導」としている。
東京都の事例は、都教委が「体罰に当たる」と認めた。その他もガイドラインに反した暴力的指導であることは明らかだ。

2012年12月、大阪市立桜宮(さくらのみや)高校バスケットボール部の主将が顧問の教諭から日常的に体罰を受け、自殺した事件を契機に、部活動の暴力的な指導が次々と表面化した。
文科省の調査では、中学・高校の部活動での体罰は減少傾向にあるが、15年度でも195件発生した。体罰全体の約3割が部活動中だ。発生件数というが、認知できた数と取るべきで実際はもっと多いだろう。
桜宮高の事件以降、自治体やさまざまな競技団体が「暴力根絶」を宣言したが、現場には浸透していないとしか思えない。

部活動は子どもたちが自発的に参加し、成功と失敗の実体験を重ねて人間形成に役立てていく場だ。暴力から生まれるのは指導者への恐怖心であり、本物の競技力が養われることはない。指導者は意識を変えていかねばならない。

スポーツ庁は部活動の指針作りを進めている。専門的な知識がなくとも子どもたちの自立心を養っている指導者を掘り起こし、研修などで広めれば意識改革につながるだろう。
暴力に頼った指導者の心理療法プログラムや会員制交流サイト(SNS)を使った子どもからの通報制度はできないか。求められるのは暴力根絶に向けた具体的な方策だ。



わいせつ教員 情報共有はあたりまえだ
(2017年9月7日 産経新聞社説)

子供にわいせつ行為をして処分された教員について都道府県の教育委員会が情報共有するシステムが検討されている。
処分歴を隠して他の地域で教壇に立ち、事件を繰り返す例が後を絶たないためだ。子供を守る、あたりまえの情報共有がなされていない現状にこそ驚く。早急に改善策を講じるべきだ。

文部科学省が来年度予算の概算要求に「教員免許管理システム」改修の関連経費を盛り込んだ。懲戒免職処分や禁錮以上の刑を受けた教員の免許は失効し、官報に掲載される。システムにも登録されるが、検索方法が複雑で、氏名を入力しただけでは失効状況や理由がすぐ分からないという。また、現行では官報に載らない停職以下の処分については、自己申告頼みだという。免許が失効しても3年たてば再交付可能で、他の教委で採用される例がある。

児童生徒へのわいせつ行為は、教職者の立場を利用した卑劣な犯罪と銘記すべきだ。停職など極めて重い処分の情報共有をためらうべきではない。個人情報を名目に子供が危険にさらされている。
今年発覚した例でも、女子児童への強制わいせつ容疑で逮捕された愛知県の公立小の臨時講師は、埼玉県内の小学校教諭時代に、児童ポルノ事件で停職処分を受けたことを隠していた。
13歳未満の児童を対象とした性犯罪について法務、警察両省庁が情報共有するなど、再犯防止を強化する流れにある。教育界も真剣に取り組むべきだ。

文科省調査で平成27年度に、痴漢やわいせつ事案で処分された公立学校の教職員は224人にのぼる。不祥事が「連日」報じられるという形容が大げさでない、嘆かわしい現状である。
教職員らのわいせつ事件をめぐっては、学校や教委が情報を得ながら警察の捜査が及ぶまで調査を行わない例がある。問題ある教員を教壇に立たせず、研修などを行う制度も適用例がわずかだ。事なかれの隠蔽(いんぺい)体質は問題解決にならず、被害を拡大するだけだ。

「聖職者」という言葉は死語になって久しいが、公教育を担う教員の重要性は変わらない。能力、資質を見極める教委の力はもちろん、教員の資質向上について養成、採用、研修それぞれの改善が喫緊の課題である。


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takutsubu at 13:24│Comments(0)News 

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