たくろふのつぶやき

秋はやきいも ほくほくしてうまし。

2018年02月

折田先生像2018

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京大入試恒例の「折田先生像」、今年はリセットさん

国公立大学の2次試験が25日、府内でも始まった。保護者らの激励を受けて試験会場に入る受験生らの姿もみられた。  

約7600人が受験した京都大吉田キャンパス(左京区)では、恒例の「折田先生像」が登場。京大の前身、旧制三高の校長・折田彦市の胸像にいたずらが相次ぎ、撤去されてからは毎年違うハリボテ像が作られるようになった。  

今年は、人気ゲーム「どうぶつの森」シリーズの「リセットさん」というキャラクターに。ゲームで失敗した時などにリセットボタンを押すと登場するといい、途中でリセットできない入試に挑む受験生たちの緊張を和らげていた。


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新傾向は自作の警告文。

もし樹木が喋ったら

次の文章は、島崎藤村の「樹木の言葉」の一節である。これを読み、感じたこと、考えたことを、160字以上200字以内で記せ。句読点も1字として数える。


[シュロ(棕櫚)] 萩もどうしたろう。

[ツツジ(躑躅)] あの友達は去年の暑いさかりにこの庭から移されて行った。裏の石垣の上で、暑熱のために枯れた。

[シュロ] ここにはもう菊の芽も見えない。

[ツツジ] 菊も萩と一緒に捨てられた仲間だ。

[シュロ] みんな沈黙の中に死んで行ったのか。

[ツツジ] それほど私達は無抵抗だ。けれども私たちは人間のように焦らない。人の生涯はなんという驚くべき争闘の連続だろう。彼等が焦りに焦るのは、そうしてこの世を急ごうとするのだろう。それに比べると、私たちはもっと長い生命のために支度をせねばならない。私達の仲間には何百年もかかって静かにこの世を歩いて行くものすらもある。

[シュロ] そろそろ生温かい、底に嵐を持ったような風が吹いて来た。紅い芍薬の芽がもはや三四寸も延びた。あの芽の先に開きかけた若葉は焔のように見える。

[ツツジ] どんな嵐が先の方で私達を待ち受けていることか。それを通り越さないかぎり、私達の花咲く時も来ないのか。私はもう春を待つ心には耐えられないような気もする。私は嵐そのものよりも、それを待ち受ける不安に耐えられない。

[シュロ] 私達が春を待ち受ける心は、嵐を待ち受ける心だ。


樹木が喋る、という奇怪な世界観をもとに文章能力を問う問題。
別にどこかの妄想話コンテストの問題ではなく、東京大学1981年の現代文[二]の問題だ。

1999年まで、東大現代文には「死の第二問」と呼ばれる作文問題があった。何が正解なのか、どう答えればいいのか、受験生を悩ます難問とされていた。
この作文問題は、受験生にとって難問という意味で「死の第二問」だったが、それ以外にもその呼称の理由がある。出題のテーマにことごとく「死」の概念が含まれていたからだ。今回とりあげた1981年の問題でも、樹木が死について語り合い、ため息をついている。

僕はこの東大の「死の第二問」が大好きで、ことあるごとに趣味として解いている。なんというか、学問をする姿勢をためす問題として、非常に良問だと思うのだ。2000年を境にこの作文問題は廃止されたが、おそらく正答率が極端に低かったのだろう。いくら良問であろうとも、受験生が全滅であれば、選抜試験の役に立たない。惜しい問題を失くした感がある。

いままでも僕はこのBlogで「死の第二問」を取り上げたことがる。金子みすゞの詩の問題や、国木田独歩の手紙の問題は、それぞれに狙いがわかりやすくて解きやすい。
今回の島崎藤村も、東大の狙いははっきりしていて、書けばいいことは比較的わかりやすい。 「死の第二問」のなかでは、難易度は低い問題だろう。

東大の意図は単純だ。この問題を通して、学問を修めるために必須の能力を見ようとしている。決して、人生経験豊富な、人格高潔な人間を見極めようとしているのではない。いくら「いい人」であっても、学問的には資質のない者であれば、入学を許可しない。大学入試の本義に照らし合わせて考えてみると、当然だろう。

ところが、どうして受験参考書の類いは、この手の問題を解説するときに、「いい人争い」をさせようとするのだろうか。
教学社出版の過去問集(いわゆる「赤本」)は、この問題にこのような解説を載せている。

落とし穴は「嵐」を「通り過ぎないかぎり、私達の花咲く時も来ないのか」である。この部分を、努力してつらい時期を通り越さないと希望は実現しない、だからどんな苦しい試練にも立ち向かっていかねばならないというように理解してはならない。むしろ、シュロにせよツツジにせよ、受け身で「無抵抗」な形で嵐に翻弄され、それをなんとか乗り切れる力があれば翌年を迎えられるという話である。決して積極的な内容ではない。しかも、その「不安」にも「耐えられない」とツツジは言っている。ツツジはもう命を終わろうとしているのである。

東大受験生の少なくとも半分くらいは小学生の頃から「焦りに焦」ってひたすら東大に入るために頑張って来たにちがいない。しかし、人生という長いスパンでみれば小学生の頃思いっきり野原を駆け回ることもせずただひたすら勉強してきたことがよいことなのだろうか、ゆったりとした心で文学を楽しむということもせずに二等辺三角形の面積や因数分解や果ては微分・積分などに追い立てられた学校生活を送ったことが本当によかったことなのか。そのような問いを出題者は突きつけている


また、齋藤孝は『齋藤孝の読むチカラ』でこの問題を取り上げ、次のように解説している。

問題文中に「人の生涯はなんという驚くべき争闘の連続だろう。彼等が焦りに焦るのは、そうしてこの世を急ごうとするのだろう」とあります。これは、出題者から受験生への問いかけでしょう。「受験勉強を一生懸命やってきたと思いますが、焦りに焦った人生は、それで良かったのですか」と問いかけているように思います。




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赤本も齋藤孝も、どちらもとてもいいことを言っている。
いいことを言ってはいるが、答案としては無価値だ。おそらく0点だろう。

繰り返すが、東大は「いいことを言え」という問題を出しているのではない。受験生の人生を評価しようとしているのでもない。東大にとっては、受験生が勉強ばかりの必死な受験生活を送っていようが、そのために生き生きとした子供時代を犠牲にしようが、そんなことはどうでもいいのだ。東大が見ているのはただ一点、「いま現在、どれだけ学問を修めるに足りる能力があるのか」だけだ。それまでの人生などは一切関係ない。

ちなみに東大の先生や学生というのは、世間で思われているような「勉強ばっかりしてきた、社会不適応の頭でっかち」はほとんどいない。その程度のキャパシティーしかない人は、どうせ学問をしてもいずれ潰れる。僕が個人的に知っている東大の先生の中にも、子供の頃からずっとガキ大将だったり、高校の時にインターハイに出場していたり、学会をさぼって飲みに出かけてばっかりだったり、フルマラソンで3時間を切って完走したり、いろんな人がいる。


現代文という、あまり科学に関係のなさそうな科目であっても、そこで問われているのは学問に必須の科学的思考能力だ。学問に必須の能力の基本は、なんといっても客観的な現状把握にある。目の前にある事象に対して、「自分がどう感じるか」を一切封じ、客観的に事実の把握に務める。その段階がいいかげんだと、その先の段階すべてが水泡に帰す。

東大の「死の第二問」が難問とされていたのは、そこで問われている能力が、学校で習う「作文」の授業とまったく正反対だからだ。まぁ、学校で書かされる作文の最たるものは読書感想文だろう。本を読んで、自分がどう感じたか、を書かなければならない例のやつだ。
「自分でどう感じたか」というのは要するに主観なので、学問に必須な科学的思考法とは対極にある。「自分がどう感じたか」は、学問の世界では絶対に表に出してはいけないものなのだ。要するに学校で書かされる読書感想文というのは、「大学に入ったら絶対にやってはいけないこと」を延々とやらせていることになる。

学問に客観性が必要なのは、それがなければ「観察」ができないからだ。科学的方法論はすべて、事実の観察が出発点となる。その観察の段階で「もう少し朝顔の芽が伸びてほしい」「ひまわりの花はこっち側を向いてほしい」「STAP細胞が実在してほしい」などという主観が混じっていると、純粋な事実を記述できなくなる。「観察者の存在が対象に影響を与える」という量子力学が科学にとっての大問題なのは、そのためだ。

科学では、観察によって得られた「事実」をもとに、その体系のしくみを構築していく。しかし、神の視点のように「世界の全体像」がいきなり手に入るわけではない。そこで方法論として、個別事象に対する「疑問点」をつくりあげ、それに対する「仮説」をたてていく。こうした「疑問」→「仮説」という細かいドットで世界を埋め尽くしていくことによって、全体像に迫る。それが科学という営みだ。

このような営みを人類全体で遂行していくためには、それに参加する者全員に方法論が共有されている必要がある。細かく埋め尽くされたドットのどこかに、「ルール違反」のドットが混じっていれば、そこが世界の全体像の穴になってしまうのだ。東大をはじめとする諸大学が、入試で「ルール違反」を犯しかねない受験生を排除するのは、そのためだ。小学校から高校まで、12年も科学の方法論を習っておいて尚、科学的な思考法を身につけていないのであれば、それは学問を修める者として失格だろう。ましてや「理科なんて世の中で必要ないじゃん」などと嘯く者は、最初から論外だ。


なんかあれですな、たくつぶでは「科学的方法論とは何か」のようなことを言い出すと、話が長くなりますな。


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はいはい、わかったわかった。



さて問題の東大現代文ですが。
まぁ、テーマは「死」だろう。樹木の話のなかに直接出てきているので分かりやすい。東大が問うているのは、「『死』という重いテーマでも、主観を交えずに、客観的に考えることができるか」という問題だ。

ワレワレ人間にとっての「死」とは、すべての終わりを指す。死んでしまえばすべてが終わり。その後の世界はない。少なくとも、その後の世界を説得力のある形で示せる者はいない。
いわばワレワレの死生観においては、「生」とは直線的なものであり、その末端には終わりとしての「死」がある。

しかしそれはワレワレ人間にとっての話であって、植物にとってもそうであるのか、というと話が違う。問題文中で、シュロとツツジは「死」を決して「すべての終わり」とは捉えていない。


「けれども私たちは人間のように焦らない。… それに比べると、私たちはもっと長い生命のために支度をせねばならない。私達の仲間には何百年もかかって静かにこの世を歩いて行くものすらもある。」

「あの芽の先に開きかけた若葉は焔のように見える。」

「どんなが先の方で私達を待ち受けていることか。それを通り越さないかぎり、私達の花咲く時も来ないのか。」

「私達がを待ち受ける心は、を待ち受ける心だ。」


これらの樹木の言葉から分かるのは、植物は冬という「死の時期」をやり過ごしたら、春という「再生の時期」を迎える、という死生観をもっていることだ。冬にいったん葉を落として丸坊主になってしまっても、春になったらまた芽が吹いて再生する。「春を待ち受ける心」と「嵐を待ち受ける心」が同じ、ということは、「死」ですべてがおしまいなのではなく、「死」がそのまま「生」につながって、死と生が循環している、ということだ。人間と違って、植物の死生観は円のような循環構造をしている。

書かなければならないのは、それだけだ。
人間と植物では、死生観が違う。人間は直線的な死生観、植物は循環的な死生観。その対比をわかりやすく書けばいい。

ここで大切なことは、「植物が自身の死生観についてどのような感情をもっているか」を答案に書いてはならない、という点だ。問題文の前半部分を見ると、シュロもツツジも、死について暗鬱たる感情を持っているように読める。しかしこの文から読み取らなければならないのは「事実がどうであるか」であって、「それをどう感じているか」ではない。

人間と植物の死生観の対比は、「人間にとっての死」を絶対的な観念として思い込むような、主観的な姿勢からは出てこない。人間にとって死はすべての終わりだが、はたしてそれは世界のすべてにわたって普遍的な事実なのか。人間は死を恐れるが、人間以外の視点ではどうなのか。そういう「人間という主観的な立場」をいったん離れて、「死」を広く客観的に俯瞰する姿勢がないと、このような比較はできない。科学的方法論の大前提、「客観的なものの見方」を問う問題としては、良問と言えるだろう。

「死の第二問」として通してみて見ると、東大の好みがはっきり表れている。いままで僕がBlogで載っけてきた金子みすゞや国木田独歩の問題と同じく、「死」をテーマとしており、鍵となる発想法は「循環」という構造に気づくかどうか、だ。いわば東大はこの「死の第二問」で、同じ内容を違った形で何度も何度も問うているのであり、そこで必要な能力は変わらない。

間違っても、「植物が死をどのように恐れているのか」とか、「不安に耐えられないツツジの気持ちは」などと、同情的な「感想」を書き散らしてはいけない。科学的な視点には、決して主観的な感情を混ぜてはならない。いくら「STAP細胞があってほしい」と願っても、無いものは無いのだ。
ましてや、どこぞの本で解説しているように、「行き急いで何になる」とか「受験生としてそれでいいのか」などのような、有り難い人生訓など全く必要ない。べつに東大は受験生に、ひとの生き様を説教しようとしているわけではない。また、その資格のある東大の先生も少ないだろう


(解答例)
植物も人間と同じく生と死という概念をもつと思われるが、両者の死生観は性質が異なる。人間の死生観では生から死までが直線的であり、終末に死がありそこですべてが終わるが、それとは異なり、植物は死と生が隣接している円環的な死生観をもっている。植物にとっては「死」はすべての終わりではなく、それが「生」につながり、死と生が同一の時点として捉えられている。そのため「死」に対する捉え方が、人間と植物では異なる。(199字)




僕はよく鉢植えを枯らします。

平昌オリンピック開幕

「金正恩氏の妹 訪韓を説得の機会に」
(2018年2月9日 朝日新聞社説)
「平昌五輪開幕 「北」の政治宣伝は許されない」
(2018年2月9日 読売新聞社説)
「平昌冬季五輪きょう開幕 国家間競争超えた祭典に」
(2018年2月9日 毎日新聞社説)
「政治色のない平和の祭典に」
(2018年2月9日 日本経済新聞社説)
「平昌五輪開幕 異形の大会に誰がしたか」
(2018年2月10日 産経新聞社説)
「平昌五輪開幕 汚れなき舞台であれ」
(2018年2月9日 東京新聞社説)


平昌五輪、始まりましたね。
日本は金メダルこそ厳しいものの、次々とメダルを獲得。自己ベストを更新する選手も多く、今後の日程でも生き生きと競技してほしいですね。


ちょっと前の記事になるが、開会式に先立って各社新聞が社説で報じている。まぁ、どの新聞も渋い論調。今回のオリンピックを「マル」と採点している新聞は皆無。
理由は大きく分けて、北朝鮮問題と、ロシアのドーピング失格問題がある。

北朝鮮の問題は、今回の会場が韓国であることを考えると、どのみち起きたであろう必然的な問題だろう。現実問題として北朝鮮は、全包囲網を敷かれている現在の制裁状況で、使えるカードが無い。だから必死で、使えるものは何でも使う。同民族の隣国でオリンピック開催などというイベントがあれば、陰に日向に首を突っ込んでくるであろうことは目に見えている。

逆に言えば、今回の北朝鮮参加騒動は、それだけ北朝鮮が追いつめられて必死になっていることの左証だろう。北朝鮮に余裕があって、経済制裁など屁のようなものであれば、毅然としてオリンピックをボイコットしているはずだ。それを「合同チーム」などという不可思議な形態であっても参加することに拘泥しているということは、オリンピックを通して国際社会に「存在」をアピールせざるを得ない状況に追い込まれている、ということだ。開会式に序列ナンバー2、金正恩の実妹の金与正 を派遣したところからも、その焦りが見て取れる。

産経新聞をはじめ、ほとんどの新聞では今回の北朝鮮のオリンピック外交を「けしからん」という論調で報じ、それを助長する韓国の文在寅大統領の方針を批判している。しかし、前述のような北朝鮮の追い込まれっぷりを見れば、オリンピックをはずれて「いままでの対北朝鮮制裁は確実に効いている」ということが見て取れる。

オリンピックでの政治的活動は禁じられている。しかし今回のオリンピックに関しては、IOCのバッハ会長、開催国大統領の文在寅の二大巨頭が、進んでオリンピックを政治利用しているのだ。けしからんことをしている輩に対して「けしからんことをするな」と叱っても、意味がない。むしろ、「こいつらはこんなにけしからんことをやった」という事実を、今後のオリンピックの歴史に未来永劫残すことのほうが必要だろう。


もうひとつの問題、ロシアのドーピングによる参加禁止については、どの新聞もあまり効果的な批判を載せていない。けしからんことに対して「けしからんですね」と言うだけの、小学生でも書けるような内容に終止している。

ロシアのオリンピック委員会は、大会が開催された現在になっても尚、正式な事実公表や再発防止策をIOCに表明していない。このままロシア側がだんまりを決め込めば、2020年の東京オリンピックにも参加禁止措置が適用される。

単純に考えれば、ロシア側は意図的に声明を発していないのではなく、「出したくても出せない状態」なのだと思う。オリンピック参加禁止という重いペナルティーを課されて、現行のオリンピック委員会の人事が大混乱に陥っている。責任者が更迭され、利権を貪っていた既得権益の亡者狩りが行われ、誰が責任者となって誰がロシアのアスリート達のリーダーになっていくのか、まったくの空白状態になっているのだろう。

僕が今回のロシア問題で何か提言をするとしたら、このような混乱に陥ったロシアの状況をどうやって収拾するか、だろう。ロシア側の現状を見ると、明らかにロシアは自国内で今回の混乱を収拾する能力がない。すると外部からロシア・オリンピック委員会を再建するための助力が必要となる。
それを行えるのはIOCしかないだろう。バッハ会長は、北朝鮮の参加でご満悦になっている場合ではない。どの新聞もそのことを指摘していないが、崩壊したロシア・オリンピック委員会の再建に何らかの責任を負う立場として、その手腕が問われている状態だと思う。


まぁ、今回の社説はどの新聞も凡庸だが、ひとつ東京新聞が面白いことを言っている。
韓国で行われた前回の1988年のソウルオリンピックは、「東西の融和」が売りだった。モスクワでは西側諸国がボイコット、ロサンゼルスでは報復として東側諸国がボイコット。アメリカとソ連という二大勢力が奇しくも開催国となり、オリンピックに政治的圧力を持ち込んだ。ソウルオリンピックは、そういう冷戦下の政治的応酬に終止符を打つオリンピックとして位置づけられていた。

一方、ソウルでは物騒な問題も発生した。一番の衝撃は、陸上男子100Mのベン・ジョンソンのドーピング失格だろう。また、2大会ぶりに参加した東欧諸国の女子選手がことごとくインタビューを拒否し、「政治的なしこりが残っているのか」と話題になった。現在では、当時の東欧諸国の選手はほとんどがドーピングに染まっており、女子選手は大量の男性ホルモンを投与されていたため、声を出すとその低さで薬物投与がバレてしまうから、という理由が明らかになっている。旧ソ連(現ロシア)が主導し、メダル獲得を国威発揚に利用するため、東欧諸国のドーピング汚染は各競技に広まっていた。

北朝鮮も騒いでいた。隣国・韓国がオリンピック開催という存在感を国際社会に示すことを妬み、テロ行為を繰り返して妨害した。大韓航空機爆破事件はそういう妨害行為のひとつだ。現在とは北朝鮮をとりまく環境は異なるが、韓国が国際的に認められるとそれを妨害する、という図式は変わっていない。

ソウルオリンピックの30年前と、今回の平昌オリンピックでは、起きている問題が何も変わっていない。「オリンピックの政治利用」「ドーピング」「北朝鮮問題」「ロシア問題」という、ソウルオリンピックではじめて明るみに出たオリンピックの諸問題が、平昌でもそのまま残っている。 同じ韓国開催のオリンピックで、これらの問題が発生し、それがいまだに残っているのは、なんとなく皮肉なものだ。

東京新聞の社説が面白いのは、「今回の問題は、平昌だから起きたことなのか」という視点が入っていることだ。今回のオリンピックの諸問題を、北朝鮮が絡む政治問題を根拠にして「やっぱり韓国はオリンピック開催国としてふさわしくない」と批判することは簡単だ。しかし、現在オリンピックをとりまく問題は、はたして韓国だから、平昌だから起きたことなのか。

これらの例を挙げるだけでも、現在の五輪が曲がり角にきていることは明らかだ。韓国で五輪が開催されるのは三十年前のソウル夏季大会以来。前回は冷戦下で三大会ぶりに東西両陣営が顔をそろえた緊張感の中、陸上男子百メートルで世界記録を出したベン・ジョンソン(カナダ)のドーピング発覚に世界中が揺れた。 

今回は北朝鮮が参加表明し、女子アイスホッケーでは韓国との合同チームを急きょ結成した。選手の気持ちを考えればスポーツの政治介入に反対する声が出るのは当然だが、両国が緊張緩和に向けて前進するかにも関心が集まる。 

あれから五輪は何が変わり、何を変えていかなければならないのか、東京での夏季五輪を二年後に控えた今大会で問いただしたい。
(東京新聞社説) 


各社の社説のなかで、東京新聞だけ「オリンピック全体のあり方を見直す時期なのではないか」という意見を載せている。今回の社説ではどこも言及していないが、アジアで開催されるオリンピックの問題点として、競技時間が早朝や深夜などの不自然な時間に設定されるという問題がある。アメリカやヨーロッパの放送時間に合わせるためだ。そういう事態になっているのは、オリンピックが高度に商業化し、莫大な放送権料がないとオリンピック運営が成り立たなくなっているという現状がある。

今となっては、その懸念が現実のものとなったことが分かっている。女子スノーボード・ハーフパイプでは強風・吹雪の悪天候の中でも運営委員が競技続行を強行し、多くの選手が転倒し負傷した。実績のある実力選手がことごとく失敗し、「本当に実力が反映される競技環境だったのか」という批判が起きている。

運営委員が競技を強行したのは、「アメリカ、ヨーロッパの放送時間中に競技をしなければならないから」という、構造的な問題だ。カネを出してくれている国々の都合がすべて、選手の都合はどうでもいい。そういうオリンピックのあり方が、今回を含めて3大会も続く。東京オリンピックでも同様の問題が起きるだろう。真夏のオリンピックで、灼熱の昼間に競技を強行するような愚を犯しかねない。

問題が発生したときには、それが「当該の個別事象のみで起きたことなのか」と「そもそも全体の問題なのか」を見極める必要がある。僕が見る限り、今回のIOCバッハ会長、韓国の文在寅大統領のオリンピック政治利用は、ともに「オリンピックが商業的に巨大化した」という影響力が背景にあると思う。問題が発生し、それを解決したいと願うのであれば、まず問題の出所を正確につかむことから始めないことには話になるまい。



メダルを穫るよりも、自己ベストを出してほしい。
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「森監督の暴力は善意だからまったくOK」

星野流継承!?中日・森監督が鉄拳復活も

中日・森繁和監督(63)が闘将イズムを継承する!? 

就任1年目の昨年は何があっても口を出さず、コーチ、選手らを一年間じっと見ることに徹した指揮官だったが、結果は59勝79敗5分けのリーグ5位で5年連続Bクラスの屈辱を味わった。今年は何がなんでもAクラス入りのために、元中日監督で先月4日に膵臓がんのため死去した星野仙一氏の代名詞とされる鉄拳制裁も辞さない構えでいるという。  

チーム関係者は「今年の森監督はとにかく結果にこだわるためなら何でもするつもりでいる。もちろん口も出すし、場合によっては手足も出すことさえあるでしょ」と予告する。もともと森監督はリーゼント風の髪形に褐色の肌でこわもてであるばかりか、べらんめえ口調の熱血漢。しかし、2004年から8年間、落合政権下では腹心としてヘッドコーチなどを務めたことで、首脳陣が選手に対して「暴力を振るったら辞めさせる」とのオレ流ルールを守る必要があった。それにもかかわらず、森ヘッドは、当時一度だけある選手の態度の悪さからエキサイトしてつい手を出してしまって禁を破ったことがあり、すぐに辞表を提出したが、落合監督は“悪意の暴力”ではないなどとして翻意させたことがあったという。  

それだけに今年からリミッターを外した森監督についてチーム内では「どんな恐ろしいことになるか分からない。選手もコーチも覚悟した方がいい」との声が出ている。  

とはいえ、別の関係者は「森監督は当たりが強いと思われるかもしれないけど、きついことを言ったり、手を出すときって、その人のことを何とか正そう、直そう、成功させようと思って遠慮がなくなるだけ。コイツをどうにかしようと本気になっている証拠。コーチや選手も分かってくれるはず。優しさと人間の大きさがこれだけにじみ出る人はいないから」ときっぱり。落合&星野イズムを併用させて森監督は竜を闘う集団に変えることができるか。



「体罰」の真の問題点が分かってない。


悪意をもって「コイツを潰そう」と暴力を振るう指導者などいない。すべての体罰、すべての暴力的指導は、どれも「良かれと思ってやったもの」だ

そして、「体罰はいけない」という言葉の意味は、「たとえ『善意』であっても暴力は駄目だ」ということだ。暴力に善意も悪意も関係ない。ただ暴力を振るったという事実だけが問題であって、それを行った意図は一切斟酌してはならない。「体罰根絶」のために必要なのは、そういう認識だ。

ましてや、それを擁護するような人の言うことを楯にとって「分かってくれる人もいる」を容認の根拠にするなど言語同断。
プロ野球がこんな状態であれば、その下部組織や高校野球も推して知るべし。



中日ごと滅んでくれ。

施策の真意を読む

小学校の英語 授業の質と時間を確保したい
(2018年1月31日 読売新聞社説)

2020年度に実施される次期学習指導要領は、小学5、6年生での英語の教科化が柱となる。それを見据えた措置だ。円滑な移行のため、英語学習を先行して充実させる狙いは妥当である。

 気がかりなのは、外国語活動を担う教員の水準が十分とは言えないことだ。英語の指導法を学んでいない学級担任による授業が基本となっているためだ。

 教育委員会は研修を行っているものの、英語力に不安を抱える教員は少なくない。英語を母語とする外国語指導助手(ALT)の配置も、自治体ごとにばらつきがある。授業の質に格差が生じる懸念は、かねて指摘されていた。



まぁ、現場に余計な負担をかけるだけの改悪になることは間違いあるまい。


教育に関する「改革」というものは、大体が目的のための手段ではないことが多い。表向きの目的とは別に、その施策を是が非でも実行しなければならない事情がある。

たとえば大失敗に終わった「ゆとり教育」。あれの本当の目的は、生徒にゆとりをもたせることなどではない。ゆとり教育の背景には、1970年代から80年代にかけての、生徒数の増加がある。

団塊世代の子供にあたる世代で生徒数が激増し、それに伴って学業成績が追いつかず、学校の授業からドロップアウトする生徒が増えた。この時期に荒れた中学・高校の数はかなりの数にのぼり、不良生徒の素行が社会問題となった。マスコミはこぞって「受験地獄」「詰め込み教育」「偏差値重視」「学歴偏重」などをキーワードに、当時の文部省の方針を批判した。教育現場では教師の負担が増加する一方だった。

そういう背景で、「ドロップアウトする生徒が多いなら、いっそのこと、最初から教える項目を少なくすればいいのではないか」という趣旨で導入されたのが、ゆとり教育だ。ゆとり教育は、決してそれが「教育のために効果がある」という意図で実施されたのではない。ゆとり教育が意図する救済の対象となっていたのは、実は教師の側なのだ。増える一方の生徒数によって学校機能がパンクした状態で、教師の側に「落ちこぼれ生徒の面倒を見る手間を減らす」という目的のために採られた方策だ。 教師のためのものであって、生徒のためのものではない。

ゆとり教育によって子供の学力が下がることなど、最初から分かっていたことだ。それでもゆとり教育を断行したのは、当時そうでもしなければ学校現場が成り立たない事情があったからだ。子供の学力低下と引き換えに、学校機能を少しでも回復させる便宜上の措置にすぎない。当時の文部省も、ゆとり教育が未来永劫継続すべき指針だとは露ほどにも考えていなかっただろう。ほんの一時的な「その場しのぎ」に過ぎない。

だから生徒数が減れば、ゆとり教育は不要となる。2000年代になって生徒数が激減し、生徒ひとりひとりに手間と時間をかけた指導が可能になると、ゆとり教育は弊害のほうが重くなってきた。そうなると文科省は軽やかにゆとり教育を捨て、従来の「詰め込み教育」に回帰する動きをみせている。

そういう視点でゆとり教育の是非を考えると、単純に「子供の頭が悪くなったからゆとり教育は失敗」と断じることはできない。ゆとり教育を評価するときには、表向きの看板「子供の学力のため」以外に、裏の真意「学校機能の回復のため」のほうも評価の対象にする必要がある。

そのような複眼的な視野でも、やはりゆとり教育は失敗に終わったというべきだろう。最初から犠牲にするつもりの学力は順調に下がり、かつ学校機能も回復どころか悪化の一途を辿っている。「リーゼント」「長ラン」「派手なシャツ」というクラシックな不良はいなくなったが、代わりに不登校や学級崩壊など違った種類の問題が発生している。「指導力不足」という信じられない教師まで出現するようになり、文科省はあわてて教員免許を更新制にして必死に体裁を取り繕っている。ゆとり教育で学校が良くなったことなど何もなく、生徒の質も教師の質も、ともに下がる一方だ。

ところで、ゆとり教育に特徴的な実施事項に「総合的な学習の時間」というのがある。その趣旨は「地域や学校、児童の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うものとする」。まったく訳が分からない内容だが、要するに「アタマで覚えることだけでなく、実際にその知識を生かして、何かできるようになれ」という無茶振りだ。覚える内容を減らし、覚えた内容で何か生産的なことをしよう、といういかにもお役所的な発想だ。

こんな総合学習が企画倒れに終わることなど見え見えだっただろう。なにせ、教師の側にそんな能力などなかろう。自分がやったこともなければ、それを教えることもできない。もし総合学習が謳うような能力が身に付いているような人材であれば、最初から教師になんてなるまい
学校現場も気の毒だ。いきなり「各自が工夫して授業をつくれ」なんて丸投げされても困るだろう。創意工夫や知的好奇心に長けた教師にとっては良いだろうが、学校の教師は決して創造的な頭脳活動が得意な人種ではない。

「総合的な学習の時間」は、ゆとり教育のカリキュラムが転換した今でも残っている。いわば大失敗に終わったゆとり教育の「負の遺産」であって、学校現場はそれをどうしたものか持て余している。
その受け口として新たに架け替える看板が「英語教育」だろう。ゆとり教育から完全撤退するためには、「総合的な学習の時間」を世間に悟られることなくフェイドアウトさせる必要がある。そのためには、必要性を論じる必要のない「英語教育」は絶好の身代わりだろう。

つまり、小学校の英語教育導入の目的は「生徒の英語力を伸ばすこと」ではない。「批判されることなく、完全にゆとり教育から撤退すること」だと思う。生徒のためではなく、文科省および学校現場の面子を保つためなのだ。ゆとり教育の象徴として具体的に残ってしまっている総合学習の時間を英語教育に振り替えることによって、他科目の授業数を増減させることなく、目立たずに総合学習の痕跡を消す。

かように教育に関する施策というのは、教育の対象となる生徒児童のためを思って実施されることなど皆無だ。施策の目的はすべて「大人側の事情」による。文科省はいまだにゆとり教育の失敗を公式には認めていない。文科省にとっては、面子を守り、体面に固執し、形だけ整えることが何よりも大事なのだ。そういう本質を知らずして、表面だけの「英語教育の是非」を論じても無駄だろう。最初から「そうしなければならない裏の事情がある」という問題に対して、表向きの取り繕った体裁だけ批判しても、方針など変わらない。



本気で潰したければ相手の弱いところを突かないと
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ペンギン命

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