2017年09月
「電通の国内売上が激減 社員が「働き方改革」への本音を吐露」
夕方に連絡してきて「明日の朝イチまでに資料を作れ」なんて甘ったれてんのか。
もしそういうニーズがあるとして、それを自社の内部で用意できず、広告代理店に丸投げしてるのなら、それはその会社にその仕事を請け負うだけの能力がはじめから無いということだろう。淘汰されて然るべき無能企業だ。
そういう無能のニーズを汲み取ることで、広告代理店というのは成り立ってきた面があるのだろう。考えてみれば、すべての企業が自社で広報する能力があれば、原理的に「代理店」などというものは不要なのだ。
代理店が企業にとっての「無茶振りをこなす便利屋」に成り下がり、その蓄積が企業体質となり、構造的な歪みとなって、人命が失われた。代理店だけの問題ではなく、代理店を奴隷のようにこき使い、偉そうに上から目線で無茶な要求をする企業にも責任の一端がある。
代理店を使って不祥事をもみ消そうとする企業
その土下座をへらへら請け負う代理店
両方、頭おかしい。
もし広告代理店が、AM9時ーPM5時のような定時出勤よりも、クライアントの急な要求に応えられなければならない業種であるならば、勤務体系を根底から変えなければならないだろう。
たとえば、クライアントからの急な要求に対しては徹夜で勤務をしてもよい。イベントのような短期集中的な仕事のときには24時間働いてもよい。そのかわり、月単位で勤務時間をしっかり計上して、それに見合う休暇を翌月にとらなければならない。
1日24時間が勤務時間に等しい船員などは、20日間ほどの乗船勤務のあとでは、1週間〜10日の休暇をとらなければならない。要するに、勤務時間と休暇の割合が一定になっていればいいのだ。業種によって勤務形態は様々なのだから、それに応じて制度のほうを変えるしかあるまい。
ところが実際にはそうなっていないのは、管理職の無能によるのだろう。勤務時間をフレックスにして、労働時間に見合う休暇を消費しなければならないシステムにすると、そのシステムの継続性は上司の労働時間管理能力にすべてが懸かってくる。仕事の分配と、各個人の勤務時間を、適切に采配するマネジメント能力が必要になる。
現在の広告代理店がそのような制度になっていないのは、それができる人材がいないからなのだろう。いれば、そもそも新入社員が過労自殺するような事態にはなるまい。
日本人は、金よりも時間に汚い。売上金をちょろまかそうとする経営者は少なくても、従業員の勤務時間を超過窃取しようとする経営者は後を絶たない。形がなく眼に見えないためか、「時間はいくらでも搾取して構わない」と思ってはいないか。
そういう時間にだらしない根本体質が変わらない限り、広告代理店の勤務形態は変わるまい。表向きはフレックスを導入し、累加で休暇をとらなければならないシステムにしたとしても、すぐにそのシステムは形骸化し、実態は変わらないままだろう。再び「そのシステムのもとでは出るはずのない自殺者」が出るだけのことになる。
「現在も会社から言われて22時退社を徹底していますが、そのせいでクライアントから反発を食らって参っています。
夕方、担当者から『急遽、明日の朝イチでプレゼン資料が必要になりました。お願いできませんか』と電話がかかってきた時も、『22時退社なので……』と正直に断って平謝りしています。それでも粘られる場合は局長に相談しますが、当然『ダメだ』。『局長判断でできません』と伝えざるを得ない。
先方から不満を言われることも少なくない。いままでなら絶対に『喜んで』と即答していましたから、本当に大丈夫かと思うこともあります」
かつて電通のクライアント企業の担当者だった男性は、電通が置かれた状況の難しさを語る。
「電通が『ブラック企業批判』を受けるのは、広告を出す側としては印象が悪い。最近ではこうした問題がネットで炎上して不買運動につながりますから。電通への批判が自分の会社の商品に飛び火したらたまりません。
一方で、わがままな話ですが、クライアントとしては、これまで通り『何でもやってくれる電通さん』を続けてもらいたい。電通の経営陣はこのジレンマに苦しんでいると思いますよ」
夕方に連絡してきて「明日の朝イチまでに資料を作れ」なんて甘ったれてんのか。
もしそういうニーズがあるとして、それを自社の内部で用意できず、広告代理店に丸投げしてるのなら、それはその会社にその仕事を請け負うだけの能力がはじめから無いということだろう。淘汰されて然るべき無能企業だ。
そういう無能のニーズを汲み取ることで、広告代理店というのは成り立ってきた面があるのだろう。考えてみれば、すべての企業が自社で広報する能力があれば、原理的に「代理店」などというものは不要なのだ。
代理店が企業にとっての「無茶振りをこなす便利屋」に成り下がり、その蓄積が企業体質となり、構造的な歪みとなって、人命が失われた。代理店だけの問題ではなく、代理店を奴隷のようにこき使い、偉そうに上から目線で無茶な要求をする企業にも責任の一端がある。
「ある媒体にクライアントの不祥事の記事が出そうになれば、部長級、局長級が媒体に出向いて土下座してでもそれを止めるということもあった。是非はともかく、そこまでしたから今の電通があるのは間違いない」
(元電通社員の藤沢涼氏)
代理店を使って不祥事をもみ消そうとする企業
その土下座をへらへら請け負う代理店
両方、頭おかしい。
もし広告代理店が、AM9時ーPM5時のような定時出勤よりも、クライアントの急な要求に応えられなければならない業種であるならば、勤務体系を根底から変えなければならないだろう。
たとえば、クライアントからの急な要求に対しては徹夜で勤務をしてもよい。イベントのような短期集中的な仕事のときには24時間働いてもよい。そのかわり、月単位で勤務時間をしっかり計上して、それに見合う休暇を翌月にとらなければならない。
1日24時間が勤務時間に等しい船員などは、20日間ほどの乗船勤務のあとでは、1週間〜10日の休暇をとらなければならない。要するに、勤務時間と休暇の割合が一定になっていればいいのだ。業種によって勤務形態は様々なのだから、それに応じて制度のほうを変えるしかあるまい。
ところが実際にはそうなっていないのは、管理職の無能によるのだろう。勤務時間をフレックスにして、労働時間に見合う休暇を消費しなければならないシステムにすると、そのシステムの継続性は上司の労働時間管理能力にすべてが懸かってくる。仕事の分配と、各個人の勤務時間を、適切に采配するマネジメント能力が必要になる。
現在の広告代理店がそのような制度になっていないのは、それができる人材がいないからなのだろう。いれば、そもそも新入社員が過労自殺するような事態にはなるまい。
日本人は、金よりも時間に汚い。売上金をちょろまかそうとする経営者は少なくても、従業員の勤務時間を超過窃取しようとする経営者は後を絶たない。形がなく眼に見えないためか、「時間はいくらでも搾取して構わない」と思ってはいないか。
そういう時間にだらしない根本体質が変わらない限り、広告代理店の勤務形態は変わるまい。表向きはフレックスを導入し、累加で休暇をとらなければならないシステムにしたとしても、すぐにそのシステムは形骸化し、実態は変わらないままだろう。再び「そのシステムのもとでは出るはずのない自殺者」が出るだけのことになる。
嫌な世界だ。
「バイキング、元SMAP退所に関する誤編集を謝罪」
TBS、イスラム国ニュースで「佳子さま映像」流す
「『イスラム国』家族に『日本人』?」のテロップも
日テレ、「首相発言テロップ誤表示」で謝罪 ビビり過ぎ?当然の事?
安倍総理の発言を捏造した日テレ、お詫び訂正でも改行を巧みに使って悪あがき
まぁ、これだけ続けば、明らかにわざとだろう。
しかも、「編集ミス」の方向性があまりに一致している。テレビ局が印象を操作しようとしている立場にだけ「編集ミス」が生じ、テレビ局が支援したり出資したりしている立場を報道する際には、絶対にこういうミスは生じていない。
「編集ミス」であれば、ニヤニヤ笑いながら「申し訳ありませんでした」と頭を下げて謝罪さえすれば、それで一件は済んだことになる。
そして、そういう「ミス」は、何度も何度も繰り返されることによって、サブリミナル的に視聴者の印象を操作していく。批判されれば、「謝れば済む」ので、TV局にとってリスクはない。
いまマスコミは、こういう手段で印象操作をする段階に入っている、ということだろう。
こういう、マスコミ側の手段を知っておくことで、報道の意図がかなり分かる。
フジテレビ系「バイキング」で11日に放送された元SMAPメンバーの事務所退所に関する街頭インタビューの内容が間違って編集されたものだったとして、14日放送内で榎並大二郎アナウンサーが訂正して謝罪した。
11日放送では、元SMAPの稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾がジャニーズ事務所を退所したことについてファンに街頭インタビューを行ったVTRがオンエアされたが、その中で香港から来たファンが回答した内容を間違って編集したものが放送されたとした。
同ファンは、3人の退所に関する質問に「本当はうれしい。ずっと応援します」と答え、昨年末にグループが解散した時の感想については「寂しくて辛い」と答えたが、オンエアではそれぞれの回答が逆に編集されていたと説明。
榎並アナはこのミスの原因について「制作過程でのスタッフ間のコミュニケーション不足が原因でした」とし、「視聴者の皆さまに訂正させて頂くと同時に、インタビューを受けた方々に対してご不快な思いをさせてしまったこと、お詫びいたします」と謝罪した。
TBS、イスラム国ニュースで「佳子さま映像」流す
「『イスラム国』家族に『日本人』?」のテロップも
TBS系の夕方の報道・情報番組で、イスラム国に関するニュースのナレーションの際、誤って秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまの映像が流れるハプニングがあった。
ハプニングが起きたのは、2017年9月12日夕に放送された、報道・情報「Nスタ」(TBS系)。16時12分ごろ、CMに入る前に、「イスラム国戦闘員の家族に日本人か」のナレーションとともに、佳子さまがイギリス留学に出発されるときの映像が5秒程度流れた。佳子さまが空港で関係者に笑顔で挨拶している映像だった。また一瞬、画面右上にも「『イスラム国』家族に『日本人』?」というテロップが入った。
CMが明けると、井上貴博アナウンサー(33)が謝罪。CM前にイスラム国のニュースについてのナレーションをしたものの、映像が佳子さまに関するニュースのものだった、として、「大変失礼しました」とお詫びした。
日テレ、「首相発言テロップ誤表示」で謝罪 ビビり過ぎ?当然の事?
自民党の党大会での安倍晋三首相(自民党総裁)の発言をめぐり、日本テレビがニュース番組内でのテロップに誤りがあったとして陳謝した。
安倍首相は「選挙のためだったら何でもする、無責任な勢力に負けるわけにはいかない」と発言したが、テロップでは前半部分だけを切り出して「安倍首相『選挙のためだったら何でもする』」と表示。安倍首相が批判の対象としている野党ではなく、自民党が「選挙のためだったら何でもする」とも読めるようになっていた。
安倍総理の発言を捏造した日テレ、お詫び訂正でも改行を巧みに使って悪あがき
肝心の日テレはしばらくだんまりを決め込んだが、深夜になってようやく謝罪・訂正を報じた。しかし、ここでの訂正も誤解をミスリードするもので、もはや悪あがきとしかいいようがない。
こちらは変に入った改行のせいで安倍総理が「選挙のためだったら何でもする」と言ったと解釈できてしまう。高学歴で情報のプロであるテレビ局のスタッフがこんな初歩的なミスをおかすとは考えられず、故意にやっていることは明らかだ。
また、改めて安倍総理の発言を見返すと日テレは発言中の「こんな無責任な勢力に…」の「こんな」をカットしていることが分かった。こちらもまたミスリードを招く目的でわざと省いたのだろう。
まぁ、これだけ続けば、明らかにわざとだろう。
しかも、「編集ミス」の方向性があまりに一致している。テレビ局が印象を操作しようとしている立場にだけ「編集ミス」が生じ、テレビ局が支援したり出資したりしている立場を報道する際には、絶対にこういうミスは生じていない。
「編集ミス」であれば、ニヤニヤ笑いながら「申し訳ありませんでした」と頭を下げて謝罪さえすれば、それで一件は済んだことになる。
そして、そういう「ミス」は、何度も何度も繰り返されることによって、サブリミナル的に視聴者の印象を操作していく。批判されれば、「謝れば済む」ので、TV局にとってリスクはない。
いまマスコミは、こういう手段で印象操作をする段階に入っている、ということだろう。
こういう、マスコミ側の手段を知っておくことで、報道の意図がかなり分かる。
自浄作用がない以上、見る側が自衛するしかない。
「山尾氏離党 民進党よ、しっかりしろ」
(2017年9月9日 東京新聞社説)
なぜ「個人的な問題と政治活動は別だ」と断定しないのか。
新聞のくせに、なぜ自分たちの声として書かず、「そう言っている人がいる」と責任転嫁しているのか。
(2017年9月9日 東京新聞社説)
民進党新体制の発足早々なぜこんなことになったのか。山尾志桜里衆院議員の離党。政権を担う覚悟を全党で共有しているのかと疑いたくなる。言わねばならない。「民進党よ、しっかりしろ」と。
離党のきっかけは、七日発売の週刊文春で報じられた、山尾氏と既婚男性との交際疑惑である。大島敦幹事長に離党届を提出した後、山尾氏は記者団に文書を読み上げ「誤解を生じさせる行動で迷惑をかけ、深く反省しておわびする。臨時国会の論戦に今回の混乱を持ち込むことは、さらなる迷惑をかけることになると判断した」と理由を説明した。
国会質問では、保育園に子どもを預けられない母親の窮状を訴えた「保育園落ちた日本死ね」という匿名ブログを取り上げて安倍晋三首相を追及。政府が待機児童問題の深刻さを認識し、対策に本腰を入れるきっかけとなった。
その後、当選二回ながら政調会長に登用されるなど、民進党のみならず政界の将来を担うべき有為な人材である。その山尾氏が代表選直後に離党に追い込まれたことに、失望している人たちは多いのではないか。特に、子育て世代には「裏切られた」との思いもあるようだ。
個人的な問題と政治活動は別だとの声がないわけではない。しかし、そもそも誤解を生じさせるような行動を、民進党の再生を期すべき重要な時期にしていたことは軽率の極みである。
常日ごろは説明責任を果たせ、と安倍政権に迫りながら、記者からの質問を一切受け付けなかった対応にも不信感が残る。前原誠司新代表は、山尾氏の幹事長起用を一度は決めながら、男性との交際疑惑を報道前に知り、撤回した。党の要である幹事長自身が疑惑にさらされる事態は避けられたが、前原新体制の船出はかなり厳しいものになるだろう。
早ければ九月下旬には臨時国会が始まり、安倍政権と本格的な対決が始まる。十月二十二日には衆院三選挙区で補欠選挙、来年十二月までには衆院選がある。再び政権交代を果たすには時間を要するだろうが、民進党がその足掛かりを築くには、失墜した党への信頼を回復することが前提だ。
もはや甘えは許されない。自民党に代わる政策や理念の選択肢を示すのは国民のためだ。議員に限らず民進党にかかわるすべての人が、その決意を今後の政治行動で示すべきである。それができないのなら民進党に存在意義はない。
なぜ「個人的な問題と政治活動は別だ」と断定しないのか。
新聞のくせに、なぜ自分たちの声として書かず、「そう言っている人がいる」と責任転嫁しているのか。
世間の感情に迎合する根性無しが。
絶えない部活動の体罰 意識改革まだまだ足りぬ
(2017年9月7日 毎日新聞社説)
わいせつ教員 情報共有はあたりまえだ
(2017年9月7日 産経新聞社説)
夏休みが終わり秋になって、学校が始まる季節になった。
だいたいの学校では、生徒を夏休みロスの気分から抜くために、この秋口の季節にイベント的な学校行事を置いている。夏の厳しい暑さが和らぎ、生徒の集中力を高めやすい時期になる。9月に文化祭が行なわれる学校が多いのはそのためだ。
そんな時期の2社の社説。それぞれ切り口は違うが、「学校に関する社説」という点で比較してみたい。
結論を先に言うと、産経の社説には意味があり、毎日の社説には意味がない。
そもそも、社説というのは何を書くべき場なのか、という「社説の意義」に立ち返って考えると、そういう評価になる。
産経の社説は、子供にわいせつ行為をはたらいて処分された教員に対する警鐘だ。
毎日新聞がとりあげたいじめ問題とならんで、学校現場での不祥事のトップ2だろう。
社説の役割のひとつは、「社会で生じている諸問題を広く知らしめること」だ。その事件が広く知られているか否かは関係ない。世間の耳目を集める大事件であっても、「問題の本質は、世間で思われているのとは違う」ということもあり得る。
わいせつ行為をした教員が処罰されるところまではよく報道されるが、その処罰された教員がその後どうなっているのかまでは、あまり知られていないだろう。産経新聞はここで驚くべき事実を公表している。懲戒免職になった教員は、その後、免許失効期限が切れるのを待って、よその地域で知らん顔して教員に復帰している、というのだ。 問題提起としてはかなりの衝撃だろう。
社説の役割のふたつめは、「現行の施策に対して適切な評価をすること」だ。問題が起きた。それに対する世の中の動きがあった。その動きは正しいのか間違っているのか。それを適切に評価しなくてはならない。
産経新聞は、現行のしくみに対して「ダメ」、という評価を下している。教員現場の不祥事は、扱う対象が児童であるため、情報の公開ができず、過去の問題事例も不透明になる傾向がある。その目的は児童を擁護することにあるのだが、それが悪いほうに働き、教員の不祥事が隠蔽されやすい仕組みになっている。
社説の役割のみっつめは、「具体的な解決案・代案を提示すること」だ。文句ばかり言っているだけではいけない。マスコミとしての社会的責任を果たすには、最低限の解決案は示さねばなるまい。
この点に関して、産経新聞は文部科学省の小さな動きに注目した。
要するに産経新聞の提案は、「犯罪履歴の登録をシステム化しろ」「警察案件にしろ」という2点だ。現行のやり方では、問題教員がいかようにも過去の履歴をごまかせる。だから、そのごまかしが効かないように情報登録と管理の方法を根底から変えろ、ということだ。
また教育現場では、教員・生徒の両方の立場に対して、警察権力の介入を忌避する傾向がある。学校内の問題は学校内で処理するというのが基本原則となり、あたかも不入権、治外法権かのごとく勘違いしている学校関係者もいる。
しかし、生徒によるいじめ(恐喝、暴行、強要)や、教員によるわいせつ事件などの不祥事は、本来的には警察に届けるべき「犯罪」だ。校則や服務規程の違反ではなく、刑法の違反だ。警察がそういう前科教員に関する情報にアクセスしやすくなることで、再犯を防止することができる。
産経新聞の真意を察すれば、おそらく本来の意図は「個人情報隠匿にまつわる危険性の警鐘」だろう。それも教師側ではなく、児童側のほうが発端だと思う。学校では児童の犯した不祥事は可能な限り隠匿することになっている。児童の出自などの個人情報も秘中の秘だ。それを強力に推進しているのが日教組だ。
日教組はもともと戦時中の学徒動員に反対する教職員組合だったが、「戦争反対」の部分だけが肥大化し、そのイデオロギーを朝鮮総連に利用される極左組織になり下がった。在日生徒の情報開示を頑に拒むのはそのためだ。
現在の小中学校では給食費の未納が相次いで社会問題化しているが、どの生徒、どの親が給食費を払わないのか、学校側は絶対に公表しない。日教組を中心とする勢力が「生徒の個人情報」を盾に、情報開示に反対しているからだ。だから、どういう出自の親が給食費の支払いを拒否しているのか、世間には一切知らされない。
産経はおそらく、わいせつ前科教員の問題を「社説の弾」として用意してあったのではなく、もともと用意してあったのは「教育現場の情報隠匿体質」のほうだろう。特に、日教組が子供の個人情報を秘匿したがることに、かねてから文句をつけたかったのだと思う。そこで「子供を保護するために情報秘匿を」という学校側の主張に対して、「情報秘匿のせいで子供が危機に晒されている」と、相手の主張を逆用して非難する方法をとったのだろう。
産経の社説が評価できるのは、「この提言が正しいから」ではない。正直に言うと、僕個人としてはこの産経の提案には反対だ。学校による情報秘匿をすべて一括して非難し、すべての情報を開示する、という方法は、やはり恩恵よりも弊害のほうが多い。教師の情報は公開し、児童の情報は秘匿する、という方策をとるにしても、教師はそもそも児童の情報を得られる立場にあり、その逆は成り立たない。情報上の立場が不可逆的である以上、片方だけを保護し他方を公開する施策は、無理が生じるだろう。
また、すべての問題教員が再犯を犯すわけではない。真摯に反省し、人生をやり直そうとする教員もいるだろう。過度な情報開示は、そういう人々の人生のやり直しを阻害してしまう恐れがある。社会復帰の道が断たれることで、わいせつ行為の隠匿が悪化し、犯罪がより凶悪化することだって考えられる。
産経社説の価値は提言内容の是非にあるのではなく、それが踏まえている方法論の的確さにある。少なくとも表面的にはこの社説は、社説が満たすべき「啓蒙」「評価」「代案」の3要件をきれいにクリアしている。内容の良し悪しよりも前に、社説の書き方として合格だろう。これらの要件が揃っている主張には、きちんとした反論ができる。発展した議論の足がかりにできる。
誤解されることが多いが、論説では「正しいか、正しくないか」という「内容の是非」よりも、「適切な方法論にのっとり、議論のルールを守っているか」という「方法の是非」のほうが、説得力に直結することが多い。内容さえ正しければいい、というのであれば、すべての社説に対して「我々ひとりひとりがしっかりと自覚して、よりよい世の中をつくっていくために努力していくべきである」とでも書いておけばいいのだ。正しいが、何の役にも立たない。主張の「方法」を無視した一般論というものは、かように無駄なものなのだ。
社説に必要な3要件のうち、「代案」に必要なルールは、「実際にそれを行なったか否かが、はっきりと分かる」という情報単位にまで落とし込んだ提案を行なうことだ。これを科学用語では「反証可能性」という。
たとえば、「どうすれば野球の守備がうまくなるか」という問題に対して、「1日100球のノックを課す」というのは反証可能だが、「ひとりひとりが集中して、最後まであきらめずに努力する」というのは反証可能ではない。やったか、やらなかったかが、客観的に判定できるものでなければ、提言としてはまったくの無価値なのだ。
そこで翻って、毎日の社説を見てみる。
呆れるほどに社説に必要な要件を満たしていない。3要件のすべてが全滅だ。
(1)啓蒙
「部活動で体罰が行なわれている」 ←誰でも知ってる。
(2)評価
「体罰はいけないのである」 ←あたりまえ。
(3)代案
「指導者は意識を変えていかねばならない」 ←反証可能ではない。
小学生にでも書ける。
読者の知らない新しい事態を知らしめているわけでもない。良し悪しを判断するのに独自の視点が必要な問題ですらない。それに対する提案が「意識を変えること」と来る。社説として云々以前に、学校教育を受けたはずのまともな社会人が書いた文章とは思えない。
だいたい、社説の題名にしてからが「意識改革まだまだ足りぬ」。足りる、足りぬの問題ではなく、「意識改革」などという出発点が間違っている。「意識」などという計量不可能な概念に対して、「足りぬ」という計量的な判定。自分で何を言っているのか分かっていないのだと思う。毎日新聞は、「意識が十分」という理由で成功を評価できる段階を、どのように定義しているのだろうか。
毎日はどういう書き方をしなければならなかったか。
もし毎日の社説が僕の学生のレポートで、それに手直しをしなければならないとしたら、「問題指摘のポイント」から基礎工事をやり直さなくてはいけないだろう。
レポートの良し悪しを決めるのは、端的に言って「問いは何か」だ。答えは何か、ではない。「間違った答えを出したくない」というのであれば、反証不可能な言説を並べておけば間違えようがない。「みんなで頑張ればいいと思います」は、間違ってはいないが、決して評価される提案ではない。
その眼で毎日社説を眺めると、「問い」と呼べる問題提起がまったくない。ところがその芽まで皆無かというと、そうではない。惜しいところを何度も素通りしている。
いじめの発生件数が下がったら警戒しろ、というのは学校現場の常識だ。おおむね、いじめが減ったからではなく、単に隠匿が増えて報告回数が減っただけ、という理由であることが多いからだ。いじめの件数が0件と報告されて無邪気に喜ぶのは、よほど間抜けな教育関係者だろう。
社説には「大阪市立桜宮高校バスケットボール部の体罰自殺以来、暴力的な指導が次々に表面化した」とある。毎日新聞はこれを否定的に捉えているが、本当にそう捉えるべきだろうか。いままで隠匿されていた体罰が明るみになったということは、自浄作用が増し、情報の透明度が上がったということでもある。いままで隠匿されていた要因は何なのか。その問いから始まって、学校現場の情報開示に対する具体的提言にもっていく書き方だってできるだろう。
自治体や競技団体が「暴力根絶」を宣言しても無駄っぽい、と言うのであれば、それらの宣言の実効性を数値的な件数で公表してもいいだろう。暴力根絶宣言は、体裁を繕うだけの単なる題目と化してはいないか。それが現場の改善に結びつかない要因は何か。必要な措置と現実の間には、どういうギャップがあるのか。そういう提言をして、はじめて反証可能性が保証された具体的な提言になり得る。
毎日新聞は、なぜこんな無意味な社説を書いたのか。
社説に限らず、物事に対する提言というのは「合っている」「間違っている」という二極分化でばっさり分けられるものではない。どの主張にも、それなりの背景と思惑と正義がある。だから論説の是非を決めるのは「方法論」だ。何を主張するのか、ではなく、どうやって主張するのか、が論説全体の是非を決める。そこらへんを理解していない社説は、単なる印象のばら撒きに過ぎない。
(2017年9月7日 毎日新聞社説)
わいせつ教員 情報共有はあたりまえだ
(2017年9月7日 産経新聞社説)
夏休みが終わり秋になって、学校が始まる季節になった。
だいたいの学校では、生徒を夏休みロスの気分から抜くために、この秋口の季節にイベント的な学校行事を置いている。夏の厳しい暑さが和らぎ、生徒の集中力を高めやすい時期になる。9月に文化祭が行なわれる学校が多いのはそのためだ。
そんな時期の2社の社説。それぞれ切り口は違うが、「学校に関する社説」という点で比較してみたい。
結論を先に言うと、産経の社説には意味があり、毎日の社説には意味がない。
そもそも、社説というのは何を書くべき場なのか、という「社説の意義」に立ち返って考えると、そういう評価になる。
産経の社説は、子供にわいせつ行為をはたらいて処分された教員に対する警鐘だ。
毎日新聞がとりあげたいじめ問題とならんで、学校現場での不祥事のトップ2だろう。
子供にわいせつ行為をして処分された教員について都道府県の教育委員会が情報共有するシステムが検討されている。処分歴を隠して他の地域で教壇に立ち、事件を繰り返す例が後を絶たないためだ。子供を守る、あたりまえの情報共有がなされていない現状にこそ驚く。早急に改善策を講じるべきだ。
今年発覚した例でも、女子児童への強制わいせつ容疑で逮捕された愛知県の公立小の臨時講師は、埼玉県内の小学校教諭時代に、児童ポルノ事件で停職処分を受けたことを隠していた。
社説の役割のひとつは、「社会で生じている諸問題を広く知らしめること」だ。その事件が広く知られているか否かは関係ない。世間の耳目を集める大事件であっても、「問題の本質は、世間で思われているのとは違う」ということもあり得る。
わいせつ行為をした教員が処罰されるところまではよく報道されるが、その処罰された教員がその後どうなっているのかまでは、あまり知られていないだろう。産経新聞はここで驚くべき事実を公表している。懲戒免職になった教員は、その後、免許失効期限が切れるのを待って、よその地域で知らん顔して教員に復帰している、というのだ。 問題提起としてはかなりの衝撃だろう。
社説の役割のふたつめは、「現行の施策に対して適切な評価をすること」だ。問題が起きた。それに対する世の中の動きがあった。その動きは正しいのか間違っているのか。それを適切に評価しなくてはならない。
懲戒免職処分や禁錮以上の刑を受けた教員の免許は失効し、官報に掲載される。システムにも登録されるが、検索方法が複雑で、氏名を入力しただけでは失効状況や理由がすぐ分からないという。また、現行では官報に載らない停職以下の処分については、自己申告頼みだという。免許が失効しても3年たてば再交付可能で、他の教委で採用される例がある。
教職員らのわいせつ事件をめぐっては、学校や教委が情報を得ながら警察の捜査が及ぶまで調査を行わない例がある。問題ある教員を教壇に立たせず、研修などを行う制度も適用例がわずかだ。
産経新聞は、現行のしくみに対して「ダメ」、という評価を下している。教員現場の不祥事は、扱う対象が児童であるため、情報の公開ができず、過去の問題事例も不透明になる傾向がある。その目的は児童を擁護することにあるのだが、それが悪いほうに働き、教員の不祥事が隠蔽されやすい仕組みになっている。
社説の役割のみっつめは、「具体的な解決案・代案を提示すること」だ。文句ばかり言っているだけではいけない。マスコミとしての社会的責任を果たすには、最低限の解決案は示さねばなるまい。
この点に関して、産経新聞は文部科学省の小さな動きに注目した。
文部科学省が来年度予算の概算要求に「教員免許管理システム」改修の関連経費を盛り込んだ。
13歳未満の児童を対象とした性犯罪について法務、警察両省庁が情報共有するなど、再犯防止を強化する流れにある。教育界も真剣に取り組むべきだ。
児童生徒へのわいせつ行為は、教職者の立場を利用した卑劣な犯罪と銘記すべきだ。停職など極めて重い処分の情報共有をためらうべきではない。個人情報を名目に子供が危険にさらされている。
要するに産経新聞の提案は、「犯罪履歴の登録をシステム化しろ」「警察案件にしろ」という2点だ。現行のやり方では、問題教員がいかようにも過去の履歴をごまかせる。だから、そのごまかしが効かないように情報登録と管理の方法を根底から変えろ、ということだ。
また教育現場では、教員・生徒の両方の立場に対して、警察権力の介入を忌避する傾向がある。学校内の問題は学校内で処理するというのが基本原則となり、あたかも不入権、治外法権かのごとく勘違いしている学校関係者もいる。
しかし、生徒によるいじめ(恐喝、暴行、強要)や、教員によるわいせつ事件などの不祥事は、本来的には警察に届けるべき「犯罪」だ。校則や服務規程の違反ではなく、刑法の違反だ。警察がそういう前科教員に関する情報にアクセスしやすくなることで、再犯を防止することができる。
産経新聞の真意を察すれば、おそらく本来の意図は「個人情報隠匿にまつわる危険性の警鐘」だろう。それも教師側ではなく、児童側のほうが発端だと思う。学校では児童の犯した不祥事は可能な限り隠匿することになっている。児童の出自などの個人情報も秘中の秘だ。それを強力に推進しているのが日教組だ。
日教組はもともと戦時中の学徒動員に反対する教職員組合だったが、「戦争反対」の部分だけが肥大化し、そのイデオロギーを朝鮮総連に利用される極左組織になり下がった。在日生徒の情報開示を頑に拒むのはそのためだ。
現在の小中学校では給食費の未納が相次いで社会問題化しているが、どの生徒、どの親が給食費を払わないのか、学校側は絶対に公表しない。日教組を中心とする勢力が「生徒の個人情報」を盾に、情報開示に反対しているからだ。だから、どういう出自の親が給食費の支払いを拒否しているのか、世間には一切知らされない。
産経はおそらく、わいせつ前科教員の問題を「社説の弾」として用意してあったのではなく、もともと用意してあったのは「教育現場の情報隠匿体質」のほうだろう。特に、日教組が子供の個人情報を秘匿したがることに、かねてから文句をつけたかったのだと思う。そこで「子供を保護するために情報秘匿を」という学校側の主張に対して、「情報秘匿のせいで子供が危機に晒されている」と、相手の主張を逆用して非難する方法をとったのだろう。
産経の社説が評価できるのは、「この提言が正しいから」ではない。正直に言うと、僕個人としてはこの産経の提案には反対だ。学校による情報秘匿をすべて一括して非難し、すべての情報を開示する、という方法は、やはり恩恵よりも弊害のほうが多い。教師の情報は公開し、児童の情報は秘匿する、という方策をとるにしても、教師はそもそも児童の情報を得られる立場にあり、その逆は成り立たない。情報上の立場が不可逆的である以上、片方だけを保護し他方を公開する施策は、無理が生じるだろう。
また、すべての問題教員が再犯を犯すわけではない。真摯に反省し、人生をやり直そうとする教員もいるだろう。過度な情報開示は、そういう人々の人生のやり直しを阻害してしまう恐れがある。社会復帰の道が断たれることで、わいせつ行為の隠匿が悪化し、犯罪がより凶悪化することだって考えられる。
産経社説の価値は提言内容の是非にあるのではなく、それが踏まえている方法論の的確さにある。少なくとも表面的にはこの社説は、社説が満たすべき「啓蒙」「評価」「代案」の3要件をきれいにクリアしている。内容の良し悪しよりも前に、社説の書き方として合格だろう。これらの要件が揃っている主張には、きちんとした反論ができる。発展した議論の足がかりにできる。
誤解されることが多いが、論説では「正しいか、正しくないか」という「内容の是非」よりも、「適切な方法論にのっとり、議論のルールを守っているか」という「方法の是非」のほうが、説得力に直結することが多い。内容さえ正しければいい、というのであれば、すべての社説に対して「我々ひとりひとりがしっかりと自覚して、よりよい世の中をつくっていくために努力していくべきである」とでも書いておけばいいのだ。正しいが、何の役にも立たない。主張の「方法」を無視した一般論というものは、かように無駄なものなのだ。
社説に必要な3要件のうち、「代案」に必要なルールは、「実際にそれを行なったか否かが、はっきりと分かる」という情報単位にまで落とし込んだ提案を行なうことだ。これを科学用語では「反証可能性」という。
たとえば、「どうすれば野球の守備がうまくなるか」という問題に対して、「1日100球のノックを課す」というのは反証可能だが、「ひとりひとりが集中して、最後まであきらめずに努力する」というのは反証可能ではない。やったか、やらなかったかが、客観的に判定できるものでなければ、提言としてはまったくの無価値なのだ。
そこで翻って、毎日の社説を見てみる。
呆れるほどに社説に必要な要件を満たしていない。3要件のすべてが全滅だ。
(1)啓蒙
「部活動で体罰が行なわれている」 ←誰でも知ってる。
(2)評価
「体罰はいけないのである」 ←あたりまえ。
(3)代案
「指導者は意識を変えていかねばならない」 ←反証可能ではない。
小学生にでも書ける。
読者の知らない新しい事態を知らしめているわけでもない。良し悪しを判断するのに独自の視点が必要な問題ですらない。それに対する提案が「意識を変えること」と来る。社説として云々以前に、学校教育を受けたはずのまともな社会人が書いた文章とは思えない。
だいたい、社説の題名にしてからが「意識改革まだまだ足りぬ」。足りる、足りぬの問題ではなく、「意識改革」などという出発点が間違っている。「意識」などという計量不可能な概念に対して、「足りぬ」という計量的な判定。自分で何を言っているのか分かっていないのだと思う。毎日新聞は、「意識が十分」という理由で成功を評価できる段階を、どのように定義しているのだろうか。
毎日はどういう書き方をしなければならなかったか。
もし毎日の社説が僕の学生のレポートで、それに手直しをしなければならないとしたら、「問題指摘のポイント」から基礎工事をやり直さなくてはいけないだろう。
レポートの良し悪しを決めるのは、端的に言って「問いは何か」だ。答えは何か、ではない。「間違った答えを出したくない」というのであれば、反証不可能な言説を並べておけば間違えようがない。「みんなで頑張ればいいと思います」は、間違ってはいないが、決して評価される提案ではない。
その眼で毎日社説を眺めると、「問い」と呼べる問題提起がまったくない。ところがその芽まで皆無かというと、そうではない。惜しいところを何度も素通りしている。
2012年12月、大阪市立桜宮(さくらのみや)高校バスケットボール部の主将が顧問の教諭から日常的に体罰を受け、自殺した事件を契機に、部活動の暴力的な指導が次々と表面化した。
文科省の調査では、中学・高校の部活動での体罰は減少傾向にあるが、15年度でも195件発生した。体罰全体の約3割が部活動中だ。発生件数というが、認知できた数と取るべきで実際はもっと多いだろう。
桜宮高の事件以降、自治体やさまざまな競技団体が「暴力根絶」を宣言したが、現場には浸透していないとしか思えない。
いじめの発生件数が下がったら警戒しろ、というのは学校現場の常識だ。おおむね、いじめが減ったからではなく、単に隠匿が増えて報告回数が減っただけ、という理由であることが多いからだ。いじめの件数が0件と報告されて無邪気に喜ぶのは、よほど間抜けな教育関係者だろう。
社説には「大阪市立桜宮高校バスケットボール部の体罰自殺以来、暴力的な指導が次々に表面化した」とある。毎日新聞はこれを否定的に捉えているが、本当にそう捉えるべきだろうか。いままで隠匿されていた体罰が明るみになったということは、自浄作用が増し、情報の透明度が上がったということでもある。いままで隠匿されていた要因は何なのか。その問いから始まって、学校現場の情報開示に対する具体的提言にもっていく書き方だってできるだろう。
自治体や競技団体が「暴力根絶」を宣言しても無駄っぽい、と言うのであれば、それらの宣言の実効性を数値的な件数で公表してもいいだろう。暴力根絶宣言は、体裁を繕うだけの単なる題目と化してはいないか。それが現場の改善に結びつかない要因は何か。必要な措置と現実の間には、どういうギャップがあるのか。そういう提言をして、はじめて反証可能性が保証された具体的な提言になり得る。
毎日新聞は、なぜこんな無意味な社説を書いたのか。
要因を端的に言うと、「ネタ切れ」だろう。新聞は社説を毎日載せなければならないが、世の中にはそうそう大事件が頻発するわけではない。書くことがない、という日だってある。
そういう日のために、新聞社は常々、「隠れた事案」に対するアンテナを張り巡らし、提言のストックをたくさん用意しておかねばならない。緊急の事案ではないが、長期的な視野での提言が必要なことだってあるだろう。そういう「持ち弾」の多寡が、新聞社としての基礎体力を決める。
毎日新聞には、そうした「貯め」がないように見える。社説の内容を日々のビッグニュースに依存し、泥縄式に社説を書き飛ばしてはいないか。だから何も起こらなかった日は、「体罰」という、特に何が起こったわけでもなく、世間的な評価も当たり前、提言など皆無、という安易な記事しか書けないのだと思う。どうせこんな屑のような社説を書いたところで、読者はその屑さ加減など分からないだろう、という舐めた態度も垣間見える。
社説に限らず、物事に対する提言というのは「合っている」「間違っている」という二極分化でばっさり分けられるものではない。どの主張にも、それなりの背景と思惑と正義がある。だから論説の是非を決めるのは「方法論」だ。何を主張するのか、ではなく、どうやって主張するのか、が論説全体の是非を決める。そこらへんを理解していない社説は、単なる印象のばら撒きに過ぎない。
はじめから目的ありきの文章ほど方法論を無視して書いている。
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ペンギン命
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