最近、巷の本屋さんで頻繁に取り上げられている本を読んでみた。


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『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』
(呉座勇一著、中公新書)


出版は2016年10月25日だが、発売して半年程度の2017年5月15日の時点で、第19版という、とても信じられない重版を繰り返している。堅実に歴史ものを出版する中公新書が、ここまで売れる本を出すのも珍しい。

一読して感じたこととしては、「日本ってすごい国だな」ということ。書いてある内容のことではなく、このような本がベストセラーとなってよく売れる、ということ自体がすでに凄い。欧米では、売れる本といえば、ほとんどが同時代的な政治・経済ものの「役に立つ本」であって、歴史本、特にこの本のような「世間に一切媚びない本」が売れる、というのは、世界的に珍しい現象なのではないか。

日本には数多の歴史ファンがいるが、僕はその風潮に懐疑的なところがある。
自分の趣味として歴史探訪を楽しむ分には、何の問題もない。趣味というのはそもそも自己完結的なものであり、自分で楽しければそれでいい。
ところが、中には「歴史というのは高尚な趣味」「最近の若者はマンガばかり読んでけしからん、司馬遼太郎を読め」などという勘違いをしている輩がいる。『こち亀』の大原巡査部長のように、歴史趣味の価値を絶対化し、他人に押しつけ強要する手合いがいる。

ところが、そういう「歴史趣味伝導師」の話を聞いてみると、実は「歴史好き」なのではなく、単なる「歴史を題材にした『つくり話』好き」に過ぎないことが多い。歴史小説にかぶれて歴史好きを自称して憚らない人というのは、なんのことはない、著者のつくり話に夢中になっているだけだ。

例えば、司馬遼太郎は数多の歴史的偉人を題材にとっているが、司馬は実際にそれらの人物に会ったことがあるわけではない。その作品で描かれている世界も、「実際の世の中はこうだった」という、事実の描写ではない。司馬に限らず、歴史小説というものは、人物や題材こそ実話に近しいものであったが、その話の内容や詳細は作者が描きたいことを描いたにすぎず、所詮「作り話」の域を出ないものなのだ。司馬遼太郎は歴史小説作家として精力的な活動を行なったが、彼の示した世界が歴史学会で認められているわけではないし、彼自身が歴史研究家として名を成しているわけでもない。

つまり、「歴史小説が好き」という趣味も、「マンガを読むのが好き」という趣味も、ともに「作り話が好き」という同種のものに過ぎない。片方が他方を貶してよい関係ではあるまい。
そう言われると、「自称歴史好き」はすぐに反論する。曰く「いや、歴史小説はすべてが作り話ではない。そこで起きている事件や登場人物は実際に即している場合が多く、そういう物語を読むことで歴史の知識が身につく」・・・だそうだ。多くの人が「マンガよりも歴史小説のほうが高尚な趣味」と思い込んでいる原因も、おそらくそんなところだろう。
僕は、こういう言い方をする大人がいること自体が、日本の歴史教育の大失敗を示しているような気がする。

「自称歴史好き」の自己弁護の着地点は、つまるところ「歴史の知識を身につけることができる」ということだ。つまり、知識を覚えることが歴史の勉強だと思っている。人名を覚えて、事件を覚えて、年号を覚えることが、歴史の勉強だと思っている。

もちろん、そういう「覚えて覚えて覚えて」が大好きというのであれば、自分の趣味の範囲で充分に楽しめばいい。どんな趣味でも、個人が楽しむ範囲であれば良いも悪いもない。しかし、そういう「知識を増やすことが歴史の勉強」と思っているのであれば、他人に向かって偉そうに「歴史を学ぶ意義」を吹聴する資格はない、と僕は思う。


今でこそ日本の歴史は各時代の詳細が明らかになっているが、なぜそんな昔のことまでが明らかになっているのだろうか。平清盛が何を考えて権力を掌握したのか、徳川家康が幕府を作ったときに何に苦労したのか、明治新政府を作った時にどういういざこざがあったのか、いま現在の我々が知り得る「歴史の事実」というのは、どのようにして再現されたのだろうか。

歴史家というものは、別にタイムマシンを持っているわけではない。学校で使った歴史の教科書に書いてあることは、誰かが実際に「見てきたこと」ではないのだ。歴史学という概念が発生し、同時代の記録を後世に残す意義が理解され、方法論が確立されたのは、19世紀になってからのことだ。それまでの時代を生きた市井の人々は、国の通史はおろか、ほんの100年前に起こった出来事すらよく知らなかったに違いない。

では、歴史研究者はどのようにして太古の出来事を現代に再現しているのか。
特別な方法などない。文献に書かれていることを丹念に読んでいるだけなのだ。一字一句を精読し、複数の文献を比較し、地を這うような地道な作業を繰り返し、その時代の「事実」を明らかにする。現存している資料だけを頼りに、その針の穴から小さく見える世界だけを頼りに、その時代の様子を描いている。

以前、中島敦の『文字禍』を題材に、「歴史とは何か」について書いたことがある。そこで中島敦の「歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌しるされたものである」「書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ」という文言を挙げた。乱暴に聞こえるが、実際の歴史学研究というのは、そんなものなのだ。

実際には、文書に記されなかった「事実」もたくさんあるだろう。しかし、そういう「沈黙の事実」は、歴史学という研究活動が対象にしない(できない)ものだ。歴史学というのは、過去に起きたすべての事実を網羅しようとする試みではない。限られた資料から、可能な限り、継続性のある客観的な方法論で、事実のかけらを細々と紡いでいく行為なのだ。

当然、間違いもある。ある時代には歴史の事実だと思われていたことが、新しい証拠の発見によって覆ることもある。学問である以上、そうした誤謬はいわば必然であり、避けられない。
つまり「歴史を学ぶ」ということで得られる最大の福音は、研究の結果として出てくる「知識」ではなく、それを導くための「方法論」のほうにある。研究結果としての「知識」は、間違っているかもしれないのだ。「どこかの歴史家がそう言っているから」「この本にそう書いてあるから」という、いわば「他力本願」の知識をいくら集めても、そんなものは一夜にして覆る可能性がある、脆弱なものなのだ。

歴史の知識をひけらかす人というのは、ほぼ例外なく、「根拠」を知らない。「今川は武田を孤立させるために通商路を遮断したけど、困窮した武田に塩を送ったのが上杉なんだぜ」などという「知識」を披露した人に、「出典は?」「何に載っているの?」と聞くと、ほとんど答えられない。
出典を答えられない、ということは、知識の確実性を自分で理解していない、ということでもある。なにか新しい証拠が出てきたときに、比較ができない。それまでの常識を疑い、新たな知見を導くことができない。つまり、自分自身の力で、自分の知識を改訂していくことができない。

そういう人は、いつまでも「誰々がこう言っているから」「何々の本にこう書いてあるから」と、他人の言説を鵜呑みにして盲信していくだけだろう。覚えるだけで、自分の頭で考えていない。信じやすく、騙されやすいだけの人だ。いくら歴史についていろいろ「知って」いても、その根拠がただの作り話の歴史小説であれば、たいした信憑性はない。 
もし歴史小説に書いてあることが歴史そのものであるならば、逆に歴史をでっちあげたければ歴史小説を書けばいい、ということになる。自分たちの得心のいくストーリーを勝手にこね上げて、国民こぞって熱狂し、いつのまにかそのストーリーを歴史上の「事実」だと思い込む、という無知蒙昧な行為が幅を利かせることになる。日本が、そんな歴史教育が皆無などこかの国のようになってもいいのだろうか。

つまるところ、歴史を学ぶ意義というのは、「証拠に基づく」「問いをたてる」「仮説を導く」「信頼性を検証する」「予測を検証する」という、一連の思考過程を鍛えるところにある。それは歴史に限らず、科学一般の方法論、およびそれがもたらす意義と、なんら変わらない。歴史学が「人文科学」というわけの分からない名称で括られているのは、それが生み出す「知識」が同質なものだからではなく、それが基づく「方法論」が同一だからだ。


この『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』という本は、そのあたりの「歴史を学ぶということは、一体どういうことなのか」を理解していない人が読んでも、まったく面白くない本だと思う。
応仁の乱。戦国時代を招いた大戦乱。誰でも名称くらいは知っているだろう。しかし、「何が原因で、誰が関わって、結局どういうことになったの?」と改めて聞かれると、答えられる人は少ないだろう。

この本を読めばよく分かることだが、結局、応仁の乱というのは、決まった原因がない。誰かひとりの意思によって始まった戦乱ではなく、室町時代という構造のねじれが溜まりに溜って、抑え切れなくなって一気に噴出したのが応仁の乱なのだ。そこには多くの人間の利益関係が複雑に絡まっている。
また本書の評によると、応仁の乱には「ただの一人の勝者もいない」。つまり全員が痛み分けだったのであり、勝者と敗者の二項区分で分けられるような、単純な結果ではない。

要するに、応仁の乱という事件は、「自称歴史好き」が大好きな、「固定化した知識を覚える」という作業に、最も向かない事件なのだ。勝者がいないから、ヒーローもいない。それぞれの利益に関する駆け引きが同時進行するから、TVドラマで分かりやすく描けるストーリーでもない。結果として「覚えにくい」「よく分からない」「面白くない」事件、という理解のされ方になる。

そういう「インチキ歴史好き」の好みなど一切顧みず、この本は淡々と歴史的検証を積み重ねる。
ふつう戦乱を描くとなれば、武将が主人公になると思うだろう。しかしこの本の主人公は、経覚と尋尊という、奈良・興福寺の2人の高僧だ。なぜ京都の戦乱を描くための主人公が、奈良の坊主なのか。

その人物設定は、べつに著者が奇をてらったわけでも、ストーリー的に新機軸を打ち出そうとしたわけでもない。単に、応仁の乱を検証するための重要な文書資料が『経覚私要鈔』『大乗院寺社雑事記』という文献であり、その著者がふたりの坊主、というだけの理由だ。文献資料の著者を主役に据える、という、当然すぎる理由だ。

当然、文献の信憑性を検証するためには、ふたりの坊主の置かれた環境や経歴を知る必要がある。この本のはじめには、そういう必要な情報を怠ることなく、丹念に紹介する章が設けられている。業火の中で刀を斬り合う決闘を期待して読んだ人は、本の最初のほうで延々と奈良の坊主について説明されて、戸惑うことだろう。この本で行なっているのは「文献を丁寧に読み解いて、時代の姿を再現する」という歴史学の検証であって、「見てきたように嘘を言う」という歴史小説の記述ではない。物語性の高いドラマチックな展開だけを期待するインチキ歴史好きの手合いが読んで、面白いと思う類いのものではあるまい。

文献を読みとくと、いままで学校で習った「応仁の乱」観が、わりといいかげんなものだったことが分かる。僕はこの本を読むまで、応仁の乱の原因は、子がいなかった足利義政が、弟の足利義視に将軍職を譲ろうとしたが、実子の義尚を将軍にしたい日野富子が対立し、それに細川勝元、山名宗全らの権力争いが絡んだもの・・・という理解をしていた。しかし文献をひとつひとつ紐解くと、そういう「常識」とは異なる事実がいろいろと分かる。

たとえば、実は足利義視と日野富子は個人的に親しい良好な関係だったこと(日野富子の妹が義視の妻なので、両者は義理のきょうだいの関係にある)。細川勝元と山名宗全は「不倶戴天の敵」ではなく、むしろ20年以上の長きにわたって苦楽をともにした盟友だったこと。東軍から総大将に祭り上げられた足利義視が、いつのまにか西軍側の大将になっていたこと。京都の戦乱が各地に拡大した理由は「補給路を潰した結果」であり、その中継地となった奈良のほうがむしろ物騒になり、坊主が記録を残す理由になったこと。城にめぐらせた堀は攻め込まれないための施設だが、市街戦になると単なる塹壕となり、戦乱が長期化する原因になったこと。

すべて、歴史にストーリー性を求めようとせず、文献から事実を丁寧に拾うようにする姿勢をもって、はじめて分かることだ。おそらく大河ドラマが応仁の乱を取り上げるとしたら、義視と富子は「不倶戴天の敵」として描かれるだろう。ドラマの視聴者は、「直感的には分かりにくい事実」よりも「面白くて分かりやすい嘘」のほうを好む。インチキ歴史趣味の好みも、似たようなものだろう。

そういう一般的な傾向に一切媚びることなく、淡々と文献から客観的根拠を拾い上げていく構成は、がっちりして弛みがない。足腰が盤石な、知的な堅牢さを感じる。物語性など関係ありません、ドラマチックな展開なんてありません、ただ単に歴史資料にはこのように書いてあります。そういう積み重ねでこの本は成り立っている。

構成と方法論がしっかりしているだけでなく、著者の文章力がなかなか高い。記述ひとつおろそかにせず、研究成果を余す所無く公表したい、という魂の込もった文章だ。いわゆる名文・美文の類いではないが、そもそも学問研究にはそんなものは必要ない。伝えたいことを過不足なく、わかりやすいように例えを入れ、簡潔かつ躍動感のある文章を綴る。機能美に溢れた文章とでも言おうか。


日本という国は長い歴史があるので、学校で日本史を学ぶのは大変だ。試験が嫌いなあまり「歴史なんて昔のことを暗記ばっかりして、いったい何の意味があるのか」と嘯く学生がいる。また先述の通り、歴史小説と歴史学習を混同し、ただの作り話に心酔することを「歴史を学ぶこと」と勘違いしている大人も多い。ともに、日本の歴史教育がきちんと目的を果たしていないことによる結果だろう。
この本の筆者が、歴史学の方法論を啓蒙する意図でこの本を書いたのかどうかは分からない。しかし、偶然かもしれないが、応仁の乱という題材そのものが、「歴史を学ぶということはどういうことなのか」を問うための、よい試金石だったのではないか。このような本が版を重ねているということは、日本人の知的レベルも、なかなか高いものなのだろう。 日本もまだ捨てたものではないのかもしれない。



堅実な中公新書らしい本といえば中公らしい。