たくろふのつぶやき

お鍋には熱燗をつけてくれたまへ。

2016年10月

次の文章は、明治四十年に書かれた、国木田独歩の、友人あての書簡である。この書簡を受けとったと仮定して、一六〇字以上二〇〇字以内で返事を書け(句読点も一字として数える)。なお、解答に関しては、頭語(「拝復」など)・結語(「かしこ」「敬具」など)・書名・あて名・日付け・改行等は不要で、文体も自由である。


 僕もとうとう病人らしい病人の中に加入してしまった。Aドクトルは咽喉カタルと診断し、Bドクトルは肺尖カタルと診断す。右の中、右肺は軽微、左肺は肺尖以上のカタルの由。両ドクトルともに僕の顔を見ると転地転地とすすめ、ぐずぐずすれば死んでしまいそうな口ぶりで僕を東京から追い出す工夫に余念なし。
 さて何処へ転地するか、目下彼方此方とせんさくするばかりで決定せず。ただ今急に思いついたのはC君の別荘なり。差し当たり、あれを借りる事が出来るならすぐにでも行かれるし、万事好都合と案じたのであるが、君が考えてなるほどと思うならば、先方へ、単に独歩が病を養うべくひと月ばかり借りたいというが如何と、掛け合って見てはくださるまいか急に。右御返事を乞う。
 僕は衰えたよ。まるで骨と皮になったよ。君が見たらびっくりするぞ。ひいき目なしに見て「長くはあるまい」が適評ならん。僕も少々悔しくなって来た。今死んでたまるものかと思うと涙がぽろぽろこぼれる。しかし心弱くてはかなわじと元気を出して、これから大いに病と戦い、遠からず凱歌を奏する積りなり。
(国木田独歩『小杉未醒への手紙』明治四十年八月二十六日付)



何の文章作法の問題かと思うだろうが、これが東京大学・現代文の入試問題だと聞くと驚くだろうか。歴とした東大1982年の現代文[二]の問題だ。
東大がこの問題で受験生のどういう資質を試そうとしたのか、見当がつくだろうか。

東大は別に「いい人」を入学させるべくこんな問題を出したのではあるまい。現代文とはいえ、この問題は「大学という場で学問を修める資格のある学生」を選抜するための試験のはずだ。だとすれば、この問題で要求されている答案は、学問を行う上で必須の能力が試されていると思ってよい。間違っても、東大は文豪と対等に手紙をやりとりできる小説家を見分けようとしているのではない。

大学で行われている学問は、おおよそ科学の方法論を土台としている。たくつぶでも今まで何度となく「科学的方法論とは何か」のような記事を書き散らしてきたが、こういう問題を考えるときもまったくやり方は同じだ。

主観と客観を明確に分けること。
客観性を保証するために再現性を備えた観察を行うこと。
漠然とした事象の中に形式化し得る構造を見いだすこと。

そういう「科学的思考法の基本」が備わっていれば、東大がこの問題で何を問いたいのか、見当がつくはずだ。

まず不合格答案としては、「病気なのか、かわいそうだね。早く良くなるように祈るよ」のような返事は全部零点だろう。東大は別に、どれだけ独歩に同情できるか、「いい人競争」をさせようとしているのではない。
むしろ、同情というのは、科学的思考法が必要とする「客観性」と対極にある「主観」に過ぎない。そのような主観まる出しで、「かわいそう」の連打を綴る答案は、すべて学問的な姿勢としては無価値だろう。

科学的思考法の出発点は何か。
現象の中から「謎を見つける」ことだ。「なぜ、こうなっているのだろう?」という疑問を見いだすことが、科学的考察のすべての出発点と言ってよい。

もし僕が独歩からこの手紙を受けとったら、その意図が理解できずに首をひねるだろう。
そもそも、なぜ独歩は自分でC君に直接頼まないのか。なぜ「僕」を介して別荘を依頼するような、回りくどいことを頼んでいるのか。

「独歩はC君とあまり親しい仲ではないから、『僕』に仲介を頼んできた」というのは、違うだろう。誰が死にかけている際の療養に、親しくもない人の別荘を借りようと思うだろうか。余計な気を使い、却って健康に悪いだろう。転地療養の場としてC君のことを考えていることからして、独歩とC君は充分に親しい間柄と考えてよい。

手紙の文面から独歩の意図を察するに、その本意は「別荘を手配すること」ではあるまい。友人である「僕」に、現状を知らせるのが目的ではあるまいか。別荘の手配などはことのついでに過ぎず、今自分がこういう状況に置かれている、ということを知ってもらうためにこの手紙を書いた、と考えられる。

この手紙にテーマがあるとしたら、それは「死」だろう。独歩は手紙の中で死を恐れているし、それに立ち向かう決意表明もしている。受験生がこの文章のテーマとして「死」というものを見いだしたら、その構造を客観的に把握しようと努めなくてはならない。間違っても主観的に「かわいそうだな」などと感想文を書いてはいけない。

また、独歩がこの手紙をわざわざ「僕」に書いてきた、ということは、病気で心が弱くなり、友人としての「僕」に病状を知ってもらい別荘を手配してもらうことにより、「友情を確認したい」という希望があるのだろう。ここから、この文章には「友情」というもうひとつのテーマがあることが察せられる。

ここまで分かったら、もう答案までは一直線だ。東大が問うているのは、「『死』と『友情』に関して、この文章から見いだせる共通点は何か」という問題に過ぎない。自分が死や友情についてどういう考え方をもっているかは一切関係なく、「この文章を読んで」、そのふたつに見いだせる共通点を客観的に示せばよい。

死に瀕している独歩に対して「かわいそうだね」と同情するということは、そう言う自分を「生」という死の対岸に置いていることになる。自分は生きている、独歩は死にかけている、という相反する立場と考えていることになる。死と関係ない安全地帯から、死を他人事のように眺めている。
しかし冷静に考えれば、死というものは、誰にでも平等に訪れる。独歩だけでなく、「僕」もC君も、いずれは死ぬのだ。「死」を独歩のものだけでなく、自分自身も「死」という大きな環からは抜け出せない。

また独歩は、友情を感じたいために、わざわざ僕に別荘の手配を依頼している。つまり独歩にとって友情とは「人とのつながり」であって、人から人へとつながることで友情を確かなものと感じている。

そう考えると、「死」と「友情」の共通点として、「連鎖」というキーワードが思い浮かぶ。死も友情もともに、ひとりの個人が単独で向かい合うものではなく、人と人とのつながりを包括するものだ。その枠の外から他人事のように眺めるものではない。
それを反映させた返事を書けば、東大の要求を満たす答案になるだろう。


東大現代文の第二問は、代々「死」にまつわるテーマが多く、俗に「死の第二問」と呼ばれている。死をテーマにしているだけではなく、受験生にとって答案の書き方がさっぱり分からない、という意味でも「死の問題」と言える。
東大は別に、死についてなにか哲学的・超越的な知見に達している仙人のような受験生を採りたいわけではない。あくまでも学問研究機関として、学問をするに足りる資質を備えている学生を選抜するのが目的だ。

科学に基づく学問を行う以上、どんな学問分野でも「主観」と「客観」を区別することは必須の資質となる。東大が死にまつわる出題を頻発するのは、別に死そのものが重要だからではない。人が誰でも直面する現実問題として、「死」は主観を交えず客観視することが難しいテーマだからだ。たとえ「死」という重いテーマであっても、感情的にならず、冷静に客観視できるような学生を、東大は欲している。

学問というものがどのような営みであるのかをきちんと分かっていれば、そこから逆算して入試問題が問うている資質の見当がつく。東大が求めているのは、他人に共感できる「いい人」ではない。どんな事象にも冷静に客観視できるような学生だ。それは現代文という、一見科学的方法論と無縁に見えるような科目でも例外ではない。
そのような意図が分からずに答案を書いても、ことごとく「学問の本質」から外れた見当違いを書き連ねるだけだろう。


(解答例)
君がC君に直接別荘を依頼せず、僕を介して依頼してきた由、君が僕を友人として大切にしている気持ちを感じる。君と僕とC君と、友人として繋がる関係に感謝する。君は死に直面して辛い日々を送っているだろうが、死に向かうのは君ひとりではない。友人関係と同じく、死も僕ら全員に平等に訪れる。友情と死というものは、すべて等しく人をつなぐ環として、その本質は同じようなものなのだ。君の手紙を読んで、そんなことを思った。
(200字) 




誰か転地休養する別荘、貸してくれませんかね

ある能楽師のエッセイを読んでいたら、面白いことが書いてあった。


昨今、能楽師や狂言師などの伝統芸能の演者が、現代演劇とコラボして舞台に出演する機会が増えているそうだ。ミュージカルやオペラなどへの出演も増えているという。多くは演劇側からの要請だそうで、日本風の文化を反映させるために伝統芸能の要素を盛り込む工夫をしている。伝統芸能の側でも、演者の所作に新しい風を取り入れるために、そういう企画を歓迎しているのだそうだ。

面白いのは、舞台本番直前の、いわゆる「気持ちを作る」ための時間の使い方が、伝統芸能と現代演劇でまったく違うことだそうだ。
演劇の役者さんは、本番前に、自分が演じる登場人物に「同化」するため、そのキャラクターの心情・感情を心の中に再現する。中には、悲劇を演じる際に、準備の段階で涙を流す俳優さんもいるそうだ。作品に共感できる心理状態を作り上げ、「心」からそのキャラクターになり切る努力をするらしい。

こういう感情移入の方法論を、演劇用語で「スタニスラフスキー・システム」という。モスクワ芸術座の演出家スタニスラフスキーが編み出した手法で、特定のキャラクターを演じるときには、その感情や心情から再現すべく、心をそのキャラクターに一致させる、という演じ方だ。この方法論は、後に「メソッド演劇」として、演じる側の方法論を体系化させる試みに発展している。

実際のところ演劇の世界では、このスタニスラフスキー・システムは、賛否両論ある方法論らしい。「登場人物に感情移入する」ということは、要するに「役者個人の人生経験を、演技に反映させる」ということだ。つまり、役者個人が経験したことがない感情は、演技で再現できない、ということになる。親を亡くして悲しむ役は、実際にそれを経験したことがない者には演じられない。また、演技の質が役者の個人的体験、経験に左右される、ということは、オーディション等で役を決める時の基準が、演技力とは関係ない個人調査に陥りやすい。

現在でも、スタニスラフスキー・システムは、意識的にしろ無意識にしろ、本番前の「気持ち作り」として採用している俳優さんが多いらしい。かくして本番前の舞台裏では、やたらに怒ったり、悲しみのあまりさめざめと泣き出したり、という俳優さんが多くなるそうだ。

能楽師などの伝統芸能の演者さんは、そういう準備を見ると、非常に戸惑うそうだ。
伝統芸能では、本番前にいわゆる「気持ちを作る」ということを全くしない。むしろ、稽古では個別のキャラクターに「感情移入」することを、厳しく禁じられているそうだ。現代演劇とは真逆といっていい。

だから、本番前に能楽師が何をしているかというと、「ぼーっと時間待ちしている」だけなのだそうだ。ところが周りでは、俳優さんたちが必死に怒ったり泣いたり笑ったりして「気持ち」を作っている。「その迫力と、ぼーっとしている自分とのギャップが、なんかいたたまれない」のだそうだ。
その場面を想像してみると、なんとなくおもしろい。さぞ居心地が悪いだろう。

なぜ、能や狂言などの伝統芸能では、「気持ちをつくる」ことを禁じているのか。
伝統芸能の稽古では、演じる側の感情や個人的経験など一切関係なく、ひたすら所作の「型」を習得することに専念する。心の稽古をするのではなく、ただひたすら「体の動き」としての「型」を稽古するのだそうだ。

長い歴史をもつ伝統芸能では、各シーンでの「ココロ」を演じる際に、演じる側が多種多様でも、時代や場所を隔てても、それを忠実に再現する必要がある。たとえ現代と価値観が違う数百年前の演舞を行う時にも、それを忠実に再現する。そんな昔の登場人物に「ココロで接近する」など、どだい無理な話だ。
だから伝統芸能では、各シーンの「ココロ」の奥にある「芯」「思ひ」と言うべきものを、身体の動きに封じている。それが「型」だ。

つまり能や狂言では、各シーンのココロや感情は、それを表す身体の所作によってのみ表す。その「型」は、演じる側の感情や個人的経験に左右されてはならないものだ。個人の体験を越えた、より普遍的なものを保存し、表出するための知恵なのだろう。

だから伝統芸能では、舞台の本番前に「気持ちを作る」などということはしない。むしろ、そういうことをしてはならない。演じるキャラの気持ちがどんなものであろうと、個人の経験が追いつかなくても、関係ない。稽古によって身体に染み込ませた「型」によって、どんな世界のどんな気持ちでも表現する。

同じ演劇という枠でくくられていても、それに対するアプローチのしかたが正反対なのが面白い。世の中のノウハウに正解なんてものはないのだろうが、それぞれの方法にはそれぞれの根拠があり、それぞれの稽古の仕方があるだろう。

これは大きく言うと、「心から入る精神的アプローチ」と「身体から入る『型』のアプローチ」の違い、ということだろう。たとえばスポーツの世界では、昔から試合前に「気持ちを作れ」とよく言われる。試合に負けると「気持ちで負けたからだ」とよく責められる。これは要するに、心を先行させて、身体をそれに追随させる考え方だろう。

こういう指導の仕方は、試合に負けたり上達が滞ったりする原因を、すべて個人の「気持ち」のせいにする風潮につながり、ひいては選手個人への人格を否定することにつながる。
今年の夏に、なでしこリーグの岡山湯郷で、宮間あや、福元美穂ら日本代表経験選手を含む4名が同時に退団するという事件があった。結城治男監督代行に「選手の人格を否定する言動があった」ということが原因と報じられている。
これと近いことは、日本全国の中学・高校の部活に蔓延しているだろう。身体能力に帰着するスポーツの根源資質を「心」「気持ち」「人格」「人生経験」に安易に結びつける傾向は、スタニスラフスキー・システムが重視していることと根っこが同じだと思う。

最近では、選手の側が自発的に工夫をして、メンタルトレーニングやノウハウの蓄積が体系的に行われるようになってきた。ラグビー日本代表の五郎丸選手がプレースキックの前に行う「ルーティン」はかなり有名になった。あれは要するに、「身体の動きによって普遍的なパフォーマンスを表出する」というやり方で、方法論としては能楽師に近い。スポーツ選手のなかには無意識のうちにこれを実行している人もいて、「いつも同じ通路から球場入りする」「試合前にはいつも同じ食事をとる」などの、いわゆる「ジンクス」というものも、要するに身体的な動きによって自らをコントロールする知恵だ。

心で身体を動かそうとするのか、身体で心をコントロールしようとするのか、どちらが正解ということはないだろう。場に応じて、必要に応じて、どちらも正解となり得る方法論だと思う。
しかし、多くの人はそのどちらかに方法論が偏っている気がする。学生が「よし気合を入れて勉強するぞ」と意気込んでいるのを見るたびに、気合が入っていない時にもするのが本当の勉強なんだけどな、とつい茶々を入れたくなる。



たくつぶの更新が多いのは長い論文を書いている時であります。

必ず室内にある

『NHKきょうの料理』2003年年10月号に掲載されている「お作法の恐怖」という随筆は興味深い。

筆者はある時京都で友人に招かれて旧家の邸宅を訪ねる。
そこで友人から「母親がお茶をどうぞと言っている」と招かれ、通された部屋は茶室だった。
茶道の嗜みなど知らない人なら誰でも困惑するだろう。
自分は外国人の如く茶道の事を何も知らないと告白するが、気軽に飲んで下さいと勧められ、筆者は緊張しながら友人の母親の点てた抹茶を頂いた。
抹茶も和菓子も美味だった。

茶を点てた母親が「もう一杯如何ですか?」という意味の事を言った。
そこで辞退しては失礼だろうと気遣って「頂きます」と返事すると隣に座っていた友人から「そこは一応遠慮するのが決まりなの」と“申し訳なさそうに”指導された。
また、後に自分の母親からも調度品を何も褒めなかった事の失態を知らされる。
筆者は羞恥を味わいながら茶室に座っていた、という記事だった。

これを読んで思うに、実に酷い話ではないか。
人を招いておきながら客に飲み食いの仕方で独自の流儀や作法を守る事を要求し、作法の出来不出来を指摘して恥をかかせ肩身の狭い思いを味わわせる。
それも湿った木造家屋の微生物の湧くような植物を編んだものの上で来客に足の痺れる座り方をさせて流儀や作法を要求し、抹茶はともかく暴力的に甘ったるい和菓子を差し出した上に調度品を褒める事までも期待する。

茶を点てる人は何の目的で客を招いたのだろう?
これが日本の伝統文化だと言われればそれまでだが、気位だけは高く、品性卑しく心貧しいとしか言いようが無い。
しかしこれが茶の湯の流儀とされてているらしい。
客人の立場になってみれば、足を痺れさせ舌に刺さり歯にしみるような甘い菓子を提供された上に珍奇な作法を知らないというだけで屈辱を味わわされる、
二重三重の暴力を受けるも同然ではないか。
これが日本の伝統的な“おもてなし”か。




「形骸化」が招いた、絵に描いたような本末転倒。

「殺したがるばかどもと戦って」 瀬戸内寂聴さんの発言に犯罪被害者ら反発「気持ち踏みにじる言葉だ」 日弁連シンポで死刑制度批判

日本弁護士連合会(日弁連)が6日、福井市内で開催した死刑制度に関するシンポジウムに、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(94)がビデオメッセージを寄せ、死刑制度を批判したうえで「殺したがるばかどもと戦ってください」と発言した。会場には全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーや支援する弁護士らもおり、「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と反発した。

日弁連は7日に同市内で開く人権擁護大会で「平成32年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言案を提出する。この日のシンポジウムでは、国内外の研究者らが死刑の存廃をめぐる国際的潮流について報告。瀬戸内さんのビデオメッセージはプログラムの冒頭と終盤の2回にわたって流された。

この中で瀬戸内さんは「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」と指摘。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と述べた。





君はこの職場にいる限り私の部下だ。そのあいだ、私は君を守ることができる。裁判はいつかは終わる。一生かかるわけじゃない。その先をどうやって生きていくんだ。

君が辞めた瞬間から私は君を守れなくなる。新日鐵という会社には君を置いておくだけのキャパシティはある。勤務地も色々ある。
亡くなった奥さんも、ご両親も、君が仕事を続けながら裁判を見守ってゆくことを望んでおられるんじゃないのか。

この職場で働くのが嫌なら辞めてもよい。君は特別な体験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。
でも、君は社会人として発言していってくれ。労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。君は社会人になりなさい

(新日鐵に勤務する本村洋さんの上司の言葉。
光市母子殺害事件で妻子を殺された。)




実際に人を殺したばかどものほうが何よりも大切なんだな。

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