たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

2016年09月

余りで場合分け

3n+2(nは自然数)の形をした数は、決して平方数にならないことを証明せよ。

x≡0 (mod 3)なら、x2≡0
x≡1 (mod 3)なら、x2≡1
x≡2 (mod 3)なら、x2≡4≡1
よって、任意の数の2乗は、決して3で割って2余ることは無い。
(Q.E.D.)


(合同式を使わないバージョン)
x=3nとすると、x2=9n2  これは3で割り切れる。
x=3n+1とすると、x2=9n2+6n+1  これは3で割ると1余る。
x=3n+2とすると、x2=9n2+12n+4  これは3で割ると1余る。
つまり、任意の数の二乗を3で割ると、余りは常に0か1であり、2余ることはあり得ない。
よって、平方数が3n+2の形をとることは無い。
(Q.E.D.)



(体育会系バージョン)
1の2乗は1、これは3で割って1余る。
2の2乗は4、これは3で割って1余る。
3の2乗は9、これは3で割り切れる。
4の2乗は16、これは3で割って1余る。
5の2乗は25、これは3で割って1余る。
6の2乗は36、これは3で割り切れる。
7の2乗は49、これは3で割って1余る。
8の2乗は64、これは3で割って1余る。
9の2乗は81、これは3で割り切れる。
10の2乗は100、これは3で割って1余る。
11の2乗は121、これは3で割って1余る。
12の2乗は144、これは3で割り切れる。
13の2乗は169、これは3で割って1余る。
14の2乗は196、これは3で割って1余る。
15の2乗は225、これは3で割り切れる。
16の2乗は256、これは3で割って1余る。
17の2乗は289、これは3で割って1余る。
18の2乗は324、これは3で割り切れる。
19の2乗は361、これは3で割って1余る。
20の2乗は400、これは3で割って1余る。

このくらいで勘弁してやると、どうも任意の数の2乗は、3で割ると余りが0か1らしい。
よって証明できたような気がする。
(Q.E.D.的な何か)



ふて寝する。

時代とともにある歌

街中の音楽ショップではCDが売れないのだそうだ。


割と大きなショッピングモールでさえ、CD屋さんは規模を縮小したり閉店に追い込まれたりしている。一昔前の絶頂期は音楽を聴くといえばCDを買うしかなかったわけで、それに比べれば音楽を聴く手段が多様化している昨今では致し方がないという面もあるだろう。特にお金のない学生さんなどは、好きなアーティストのCDが発売されても、「TSUTAYAでレンタルに出るまで待つ」という人も多いと思う。

だいたい、こういう「音楽業界の衰退」は、音楽がダウンロードされ課金配信されるようになった、という要因がとりあげられることが多い。しかし、僕はこの要因には懐疑的だ。
確かに、CDで買うよりもダウンロードで買った方が、資材費の分だけ若干安い。しかし、そもそも「CD売上額の低下」は、即「音楽業界の衰退」に直結するのか、といえば、そうではあるまい。

僕が常々疑問に思っていることのひとつに、なぜ音楽業界はCDの売り上げを「金額」でしか計らないのだろうか、というものがある。そりゃ業界というのは評価の尺度が売上高なのだから、売り上げ金額の多寡が重要なのは分かる。しかし、「売上高が減った」ということと「音楽業界が衰退した」ということの間には、論理の飛躍がある。

たとえば、CDが1枚売れても、楽曲が1回ダウンロード購入されても、聴く側にとっては同じ「1曲」の購入に過ぎない。こういう「購入された音楽の絶対数」が問題とされることは、ほとんどない。音楽で儲けようとしている人はともかく、音楽を作り出し広めようとしている人にとっては、「いくら売れたのか」よりも「どのくらいの人が聴いてくれたのか」のほうが重要なのではあるまいか。

また、CDの売り上げが減って街中のCD屋さんがいくら潰れたとはいえ、彼らはしょせん仲介業の「商人」であって、音楽を作り出しているわけではない。CD屋さんが潰れているのは、もはや一般市民がCD屋さんがなくても困らなくなっているからだ。流通経路が大きく変化することによって仲介業がいくら潰れようとも、音楽そのものが衰退しているわけではない。音楽を作り出しているわけでもない商人が倒産することによって「音楽が衰退している」とは、あまりに短絡的な見方だろう。

また、「最近はCDが売れない」という言葉のなかには、「いったい、どの時代と比較しているのか」という前提をぼかしている姿勢を感じる。
おおむね、業界側が「最近」と言うときは、「売り上げが最高潮だったバブル期と比べて」である。ミリオンセラーが続発した音楽絶頂期の「繁栄」が忘れられず、あの頃よもう一度、という単なる懐古主義に聞こえる。

今の時代が、音楽業界の歴史以来、過去最悪の売り上げなのか、と言われたら、決してそんなことはないだろう。昭和40~50年代の一般家庭には、まだレコードプレーヤーを持っていない家庭も多かった。そういう時代と比べても尚、現在の売り上げが劣っているのかというと、そんなことはないと思う。
「最近は音楽の売り上げが少ない」という人のほとんどは、比較の対象を「例外的な時代」に固定してしまい、その時代の価値観から抜けられなくなっているだけのことだと思う。

バブル期というのは、国中の経済が最高潮の景気だっただけではなく、一番音楽に敏感な若者世代の人口が圧倒的に多かった。要するに、買い手がたくさんいたのだ。買い手がたくさんおり、お金も持っているとなれば、売れるのは当たり前だ。そういう時代の変遷を一切見ない振りをして、「ネット配信のせい」とだけ原因を押しつけるようでは、現状の打開策にはまったく結びつかないだろう。


かようにCD売り上げの衰退には様々な要因があると思うが、僕はそれらとはまったく別に、「歌」というもののもつ機能が、時代によってかなり変化しているのではないか、と感じている。

むかしの日本は、今よりももっと生活とともに歌があったような気がする。田植え歌、子守唄、数え歌、遊び歌、仕事歌など、日常行う普通の営みのなかに、「歌」が自然に溶け込んでいた。

今になって考えれば、それらの「生活の歌」は、日々の暮らしを円滑に行うための「ルーティン」だったのだと思う。これは先のラグビーW杯やリオ五輪など、スポーツの世界で普及して、かなり人口に膾炙するようになってきた表現だろう。
ひとは、気持ちの切り替えを、精神力だけで行えるようにはできていない。気持ちというのは、自分の意思ではうまくコントロールできない。だが、体の動きは自分でコントロールできる。だから体の動きとして決まりきった規範をつくっておくことによって、それに伴って心のほうをうまくコントロールすることができる。「平常心を持て」とだけ言われて簡単にそうできる人はいないが、「ゴールキックを狙う前には両手を組み合わせろ」という体の動きとして習慣化すると、心がそれについてくるようになる。

昔はいまほど社会のあり方がシステム化されていなかった。田畑を耕す農耕民は、田んぼに出る時間に遅刻や始末書もなかっただろうし、子守りをする少女には時給も払われていなかった。システムの力によって人間の行動を制御していなかったのだから、人は自分の力で自分を制御しなくてはならない。「歌」というのは、そういう生活制御の力をもっていたのではなかろうか。お昼の休憩のあとで、さて田植えを再開しよう、というときに、田植え歌の持つ「切り替えの力」は、相当なものであっただろう。 兄弟が多かった時代に、年長の少女が子守りをさせられていた時代では、子守唄というのは赤ちゃんのためではなく、子守りをする少女のためのものだったと思う。

時代が変わって、現在ではあらゆるシステムによって人間の行動が制御されるようになった。あらゆる会社では、(終業時間は守られなくても)仕事を開始する勤務時間はきちんと定められている。お昼休みも時計で決まっている。休み時間におしゃべりしていた女子高生でも、チャイムが鳴れば授業を受ける。

ひとを制御するシステムが発展した一方で、いままで歌によってルーティンをつくりあげる必要があった営みのほうも変化した。腰に負担がかかる田植えは全部機械で行える。子守りは幼い子供がわずかな楽しみを見つけながら行う必要がない。ものを数えるときには数計算ソフトで一瞬に行える。今の世の中には、子守唄を歌おうとも、そもそも歌う側にその必要が無くなっている。
それが持つ機能が希薄となり、またその目的のほうも消滅するのであれば、それが廃れるのは必然だろう。だから今の世の中では、田植え歌も子守唄も、ほとんど伝わっていない。

むかし、歌というのは生活とともにあり、「歌うもの」だった。日常の暮らしを円滑に行うための、生活の知恵だっただろう。
しかし今では、そういう生活の歌が不要となり、歌といえば「金を出して買うもの」となった。現在の中高生が歌を歌うのは、音楽の授業かカラオケに行った時くらいのものだろう。少なくとも、その時自分が行う行為の指針として、ルーティンのごとく歌を歌う生活は、現在の若年層は送っていないのではないか。

歌が「金を出して買うもの」であれば、それは単なる消費の対象に過ぎない。使い潰せば、また新しいものを買って済ます。そうやって、音楽とひとの関係が希薄になってきたことが、本当の意味での「音楽の衰退」ではあるまいか。

まだ歌がひとと共にあり、生活の中に歌が染み込んでいた時代には、たとえ流行の歌謡曲であってもそれを生活の一部に取り込み、人生の一場面を彩る要素として、音楽はその機能を果たしていた。ひとつしかないレコードプレーヤーで同じ曲を何度も聞き込み、若い頃の生活を思い出すと、その時期を過ごした歌を思い出す中高年も多いだろう。

しかし、今の若者にとって、歌というのは「iPhoneにダウンロードされた、数メガバイトの情報」に過ぎない。そのとき聴いている曲に気分がのらなければ、クリックひとつで別の曲に切り替わる。新しい曲が出たら、すぐにダウンロードできる。音楽はすでに「消費するもの」であって、生活の根幹を成すものではなくなっている。上質の手ぬぐいではなく、単なるチリ紙に過ぎない。

技術の発達というものは、それまで希少な価値であったものを、大量生産して広く普及させることだ。音楽業界は、その革新を成功させたと言ってよい。
そして、それに成功したがゆえに、それ自体が持つ価値を自ら変容させてしまったのだ。それは単なる変化に過ぎず、良いも悪いもない。それに「悪いこと」と価値感をのせてしまっているのは、勝手に音楽の売り上げを金額に換算している、音楽業界の側なのだ。

むかしと今では、歌とひととの関係が変化している。これからの時代もそうだろう。音楽がひとと共にあり、人に寄り添う音楽を作ろうとするのであれば、これからの時代に即した「音楽との付き合い方」そのものを編み出して行かなければならない。むかしのやり方に固執して「売れないなぁ」と嘆くだけでは、音楽はどんどん時代に取り残されてしまうだけではないか。



幼稚園のとき「おかたづけの歌」というのにずいぶん操縦された。

文学とは何をするものなのか。

唐代の詩人・張継に「楓橋夜泊」という詩がある。

月落烏啼霜滿天
江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船


(書き下し文)
月落ち烏啼きて霜天に満つ
江楓の漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山寺
夜半の鐘声客船に到る


(現代語訳)
夜が更けて月は西に傾き、烏が鳴き、霜の気が天に満ちている
漁火の光が運河沿いの楓の向こうに見え、旅愁を抱いて眠れないでいる私の目にチラチラして見える
姑蘇城外にある寒山寺から夜半を告げる鐘の音が響いている。
その鐘の音はこの船にまで聴こえてくる。


あまり日本では有名な漢詩ではないが、典型的な七言絶句で、対句や脚韻も教科書通り。学校で漢文をひととおり習った人であれば苦もなく読める平易な詩だろう。
大運河を旅する途中、蘇州郊外での旅愁を詠ったもので、張継の代表作として知られている。詩に詠まれている寒村寺(中国江蘇省蘇州市姑蘇区)には、この詩碑が立っている。

この詩が有名なのは、のちに解釈をめぐって論争が起きたからだ。
「老学庵筆記」巻の十では、欧陽脩がこの詩について異議を唱えたことが記載されている。

張継の楓橋夜泊の詩に云ふ、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船と。欧陽公之を嘲りて云ふ、句は則ち佳なるも、夜半は是れ打鐘の時にあらざるを如何せんと。後人また謂ふ、惟ただ蘇州にのみ半夜の鐘ありしなりと。皆な非なり。按ずるに于邺、褒中即事詩に云ふ、遠鐘来半夜、明月入千家と。皇甫冉、秋夜会稽の厳維の宅に宿すの詩に云ふ、秋深臨水月、夜半隔山鐘と。此れ豈に亦た蘇州の詩ならんや。恐らく唐時の僧寺には自ら夜半の鐘ありしなり。京都街鼓今尚ほ廃す。後生唐の詩文を読んで街鼓に及ぶ者、往々にして茫然知る能はず。況はんや僧寺夜半の鐘をや。


文意はなんとか根性で読んでいただきたいが、下線部だけを現代語訳すると

かの欧陽脩でさえこの詩をおかしいと笑っている。「詩句としては素晴らしいが、詩の中の『夜半』というのは、通常、鐘をならすべき時刻ではない」とのことだ。


張継の生没年は不詳だが、唐時代の作家だからおおむね8世紀ごろの人物といわれている。欧陽脩は11世紀の人物だから、両者が生きた時代にはおよそ300年の開きがある。
「老学庵筆記」の作者は、この300年の間に「詩の読み間違いが起きた」と論じている。

「老学庵筆記」の続きには、欧陽脩による批評に対して「いや唐代には、蘇州だけ夜半に鐘を鳴らす習慣があったのだろう」という巷の反論を載せている。
それに対して筆者は、欧陽脩も巷の反論も「両方とも間違い」と断じている。

その根拠として筆者は、于邺の「褒中即事」と、皇甫冉による詩の、2編の詩を挙げている。
「褒中即事」には、長安の地で詠んだ「遠くから響く鐘の音が真夜中に聞こえてきて、明々とした月の光がどの家にも差し込んでいる」という詩が収録されている。
また皇甫冉は、会稽の友人宅に宿泊した際に「秋も深まり月は川面を照らし、夜も更けて鐘は山々を越えて響いている」という詩を読んでいる。
長安も会稽も、蘇州からかなり遠く離れた土地だ。だから「蘇州だけ真夜中に鐘を鳴らす習慣があった」という巷の言説は誤りだ、ということになる。

それを受けて筆者は、「そもそも唐代には、国中で、時報として寺社の鐘を鳴らす習慣があった」と仮説をたてている。時間を知らせるための鐘なので、当然、真夜中にも鐘を鳴らしていただろう。電気も通っていない昔のこと、そういう真夜中というのは普通の人が起きている時間ではないのだろうが、だからこそそんな真夜中に聞こえてくる鐘の音が、詩歌の題材になり得たのだろう。

しかし時代が下って、時報として寺が鐘を鳴らす習慣がなくなってしまった。そうなると、当然ながらお寺が真夜中に鐘を鳴らしていたという習慣など誰も知る人はいなくなってしまう。そういう、唐代の習慣を知らない人が当時の詩を読むと、つい時代背景の違いから誤解が生じて、詩を誤読してしまうのではないか・・・という説だ。


閑話休題。
昨今、日本の大学では、文部科学省が文系学科の再編を促す通達を頻繁によこしてくる。文系学科とはいっても、要するに文学部が対象だ。文学や歴史学などという、「世の中に出てから何の役にも立たない学問」を減らして、目に見えて成果が分かりやすい自然科学系の科目を増やすように、とお達しを突きつけてくる。

それに対する教員、学生の反応がまた面白い。彼らは心のどこかで「文学の教育が減らされるのは仕方がないな」と思っている節がある。自分が志して選んだ学問分野に対して、その存在意義を広く知らしめようという気概がまったく感じられない。

ためしに文学専攻の学生をつかまえて「文学っていうのは、一体何を学ぶ学問なの?」と聞いてみると、これまたおかしいことに、誰一人としてまともに答えることができない。「文化的遺産としての文学を知ることで、この国の文化の価値を云々」「文学で描かれる人生や人間の真理を深く追求することで云々」などと、何を学んでいるのやら甚だ怪しい言説がふわふわと出てくる。

そういう学生の卒業論文を読んでみると、まぁ、読書感想文に毛が生えたようなもの。「人文科学」を標榜する文学研究の風上にも置けない。そういう学生に、ためしに「文学研究ってのは、読書感想文とどう違うの?」と聞いてみると、ごにょごにょとお茶を濁してはっきりした答えが返ってこない。どうやら文学専攻の学生の間では、その違いをずばりと問うことは、タブーになっているらしい。
文学を学んでいる側が、「文学とは何か」をしっかり理解していないのであれば、そりゃ文部化学省に「削れ」と言われても、ぐぬぬと窮してしまうのは仕方なかろう。

大学で行われている知的活動は、そのほとんどが科学的方法論を土台としている。文学や歴史学という、一見科学と関係ない分野でも、その思考法と方法論は科学を基本としている。
まず、そこのところを誤解している学生が多いのではなかろうか。

数学や論理学のような公理系をもつ形式科学は別として、ほとんどの科学は「経験科学」という方法論に基づく。
経験科学の出発点は、「疑問をもつこと」である。科学というのは「答えを導くもの」と思っている人が多いが、実は反対で「問いを立てること」が目的と言っても過言ではない。世の中の誰も気づいていない問題を発見することが、科学の第一目標なのだ。

問いを発見したら、客観的な根拠に基づいて、仮説を立てる。
仮説を立てたら、「その仮説が正しいとしたら、こういうことになっているはずだ」という予測を立てる。
予測を立てたら、それが正しいかどうか、実験したり文献調査をしたりして確認する。

そして、予測が正しかったら、また別の予測を導いて実験する。
もし予測が間違っていたら、仮説を立て直して、それに基づき予測を立て直す。
つまり、「科学」という営みには、明確な「あがり」は存在しない。仮説の立て直し、予測と検証、の延々と続く繰り返しなのだ。だから、山の頂上に達しないと満足できない人は、経験科学には向かない。

世の中の「経験科学」に属する分野、つまり物理、化学、天文学、地質学などは、すべてこの方法論に基づいている。扱う対象を人間の行為に拡張した心理学、社会学、法学、歴史学などの「社会科学」、人間の内面を扱う文学などの「人文科学」なども、基本的な思考方法は同じだ。

卒業論文が「感想文」になってしまっている文学専攻の学生の特徴は、出発点として「問いを立てていない」ことだ。そもそも、解くべき謎がはっきりしていない。小学校のときに夏休みの宿題に課された「読書感想文」をべらぼうに長くしたものが「文学の論文」だと思っている。そういう学生の書くものは、「読みました」「こう思いました」「これからこうしていきたいと思います」の3つの内容しかない。卒業論文の枚数制限をクリアするために、本文のあらすじを延々と説明しており、ひどいのになると「原著よりも長いあらすじ」なるものも出没する。

それに比べると、中国中世の著作のほうが、よほどしっかりと「文学」を行っている。
「老学庵筆記」巻の十で考察されている謎は、明快だ。要するに「唐代では、本当に真夜中に鐘を鳴らしていたのか」という疑問点。欧陽脩はそれに異を唱え、巷では地域限定でそれを是とする意見があった。

普通に考えれば、偉大な詩家である欧陽脩が「夜中に鐘が鳴るなんて、そんなバカなことあるか」と言ってしまえば、その意見が「事実」として世の中に認められてしまうことだってあるだろう。しかし「老学庵筆記」の筆者は、大欧陽脩が何と言おうと、「それは違うんじゃないか」という冷静な判断を下している。

それを議論する過程で、「老学庵筆記」は科学的方法論をきちんと踏まえている。すなわち、自分の主観や感想で議論を進めるのではなく、「同時代の著作」という客観的な証拠によって持論を組み立てている。「この時代の著作にはこういう記述があるから、この箇所はこのように解釈するべきではないか」という仮説の立て方になっている。

つまり、「老学庵筆記」は、それ自体が文学的著作というよりも、科学的方法論に基づく「文学研究」なのだ。
文学作品と、文学研究は、まったく違う。文学作品というのは、作者が自身の世界観に基づいて、主観まる出しで内面世界を描いても良い。しかし「文学研究」というのは、客観性が保証された科学的方法論に基づいて行わなければならないものだ。

「老学庵筆記」には、「文学がするべき仕事」が、明確に記してある。
文学作品というものは、長く後世に残れば残るほど、それが書かれた時代と読まれる時代に隔たりが生じる。読む時代によっては、当時の常識や時代背景が失われ、その意図が誤読されてしまう危険がある。
文学研究の仕事は、そうした時代の齟齬が生じないために、作品が書かれた時代ごとの価値観や時代背景を、後世に保存することだろう。現代的な価値観で読んでしまっては、当時にその物語がどのように読まれていたのか、理解することができなくなる。欧陽脩のように、自分の生きている時代の常識に基づいて作品を誤読する危険が生じてしまう。

シャイクスピアの作品に『ヴェニスの商人』という作品がある。全編を通して、ユダヤ人に対する差別意識が全開の作品だ。これを現代的な価値観で「ユダヤ人に対する差別許すまじ」と断じて、この本を発禁処分にして焚書にすることは、妥当な姿勢なのだろうか。

マーク・トウェインの作品に『ハックルベリー・フィンの冒険』という作品がある。主人公の少年が、逃亡奴隷のジムとミシシッピ河を延々と下るロード・ムービーのような作品だ。黒人の逃亡奴隷ジムはとても迷信深く、しょっちゅう状況判断や行動指針に滑稽な過ちを犯す。これを現代的な正義に基づいて「黒人に対する偏見許すまじ」と批判して、作品を闇に葬ることが正しいことなのだろうか。

「これからの世の中がこうあるべきだ」ということと、「いままでの世の中はこうだった」ということを、混同してはならない。現代の価値に合わない過去の価値観を弾劾することには、何ら生産的な価値はない。単に「いまの自分にとって不愉快なものを抹殺する」という、自分勝手な姿勢だ。人間は過去に数多の過ちを犯してきたが、大事なことはその過ちを正しく理解できる形で保存することであって、過ちを嫌って見ない振りをすることではない。『ヴェニスの商人』や『ハックルベリー・フィンの冒険』を禁書にするという行為は、例えて言えば、民族の大量虐殺を行ったアウシュビッツ強制収容所を「このような施設はけしからん」と取り壊す行為に相当する。

書かれた時代と読まれる時代の差が大きければ大きいほど、文学研究が果たすべき役割は大きくなる。失われた価値観を蘇らせ、それを後世に保存することで、新たに見えてくる当時の姿がある。古典文学を「何言ってるんだこれ」と笑い否定するのではなく、その作品を通して時代に穴を開け、はるか昔の世の中のあり方を覗く営みが必要になる。

つまり、「文学研究」というものを行えること自体、その国が豊かな文学的遺産を多く有していることに他ならないのだ。文部科学省がなにか「新しいこと」を提言するときは、そのほとんどが、アメリカの教育のやり方に悪影響を受けていることが多い。文学分野の削減も、おそらくその手の影響を受けているだろう。

しかし、240年たらずの歴史しかもたないアメリカの「文学研究」など、たかが知れている。240年前の常識であれば、現在でも理解できる範疇のことが多い。よそ者の寄せ集まりで、論理と正義をひけらかして発展してきたアメリカごときの社会的通念など、真っ当な「文学研究」が必要なほど、大した変遷を経ているわけではない。アメリカでは「文学研究など役に立たない」のではなく、「そもそも文学が成り立つほど国が歴史を有していない」だけなのだ。

アメリカよりも比較的ましな歴史をもつイギリスでは、ケンブリッジ、オックスフォードなどの「国を導くエリート」を養成する大学で、文学的素養をみっちりと身につけさせる。それが直接的に世の中に何の役に立つかなど一切問題にせず、国の辿った歴史を学び、過去の人々が何を感じ、何を考えていたのか、文学を通してみっちりと体感させる。「役に立たない教養」をたっぷりと身につけてこそ、迷いなく国を導くリーダーを育成できる、という信念がある。

日本では、その点をしっかりと教えていないのではないか。日本は世界の国の中でも、長大な歴史と豊富な文学作品を蔵し、一国の中だけで「文学研究」が成り立つ、数少ない国なのだ。中学や高校で古典を教えるとき、その意義をしっかり伝えて授業をやっているのだろうか。その目的がはっきり伝わっていれば、「いまの時代では使わない知識だから古典は無駄」などと夜迷い言を抜かす生徒はいないはずなのだ。

日本以上に長大な歴史を有する中国では、数々の焚書坑儒や、近年では個人崇拝以外の価値観を全滅させる文化大革命によって、自国の文化的資産を自ら棄てる政策を行った。こういう政策をどのように評価するのか。学校で「古典」という科目から学ぶべきことをしっかり学び、「文学」という研究分野の目的と価値をきちんと理解していれば、自ずと答えは明らかだろう。



タイムマシンなんて要らないんだよ。

遺伝の法則が教えるもの

メンデル



グレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)

オーストリアの修道士。「メンデルの法則」として知られている優性の法則、分離の法則、独立の法則を発見し、「遺伝学の祖」とされている。

当時、遺伝という現象があること自体は知られていたが、生命体の形質は液体のように混じり合って遺伝すると考えられていた。メンデルはエンドウ豆の交配を観察することによって、形質は粒子状の物質(遺伝子に相当するもの)によって遺伝する、とする説を唱えた。

普通の修道士であればおとなしくエンドウ豆を栽培していればよいものを、遺伝の形質に気づいたことから、メンデルはかなり自然科学に興味をもっていたことが分かる。
実際、メンデルの所属していた修道院は、哲学、数学、鉱物学、植物学などで当時の最先端に匹敵する研究を行っている、一種の学術研究機関だった。またメンデルは、2年間ウィーン大学に留学して、物理学、数学、解剖学、生理動物学などを学んでいる。どう考えても普通の修道士風情ではない。

エンドウ豆の交配実験によって遺伝の法則を形式化したメンデルは、論文を、当時の細胞学の権威であった研究者に送る。しかし、浮世と離れて科学を独学していたメンデルは、当時としては斬新な、数値による計量的分析を独自に行っていたために、論文を黙殺されてしまう。ひとつには、数学的で抽象的な概念が理解されなかったからだという。当時の大学に跋扈していた学術主義や派閥意識も、外様の研究者を受け入れることを阻んでいただろう。

遺伝の研究を黙殺されたメンデルは失意に沈んだかというと、そうではなく、その後も修道院での業務に忙しい日々を送った。のちには修道院長に就任している。修道士としてもかなり優秀な人材だったらしい。
独学による科学研究も続けており、気象観測や天文学の研究でも成果を上げており、死去した時にはむしろ気象学者として知られていた。

メンデルの遺伝研究は、死去およそ15年後に、フリース、コレンス、チェルマクという3人の学者によって、偶然再発見された。この3人の学者はそれぞれ独自に遺伝学の研究でメンデルと同様に仮説にたどり着いており、自分たちの仮説をすでにメンデルが発表していることを同時に知った。3人は、遺伝法則発見の栄誉はメンデルが浴するべきである、と考え、メンデルの研究成果を広く再発表した。


現在、高校の生物の授業でもメンデル遺伝は教えられている。まぁ、話としてはよくできているし、遺伝というメカニズムをシンプルに提示するモデルケースとして題材に採り上げるのは分からないでもない。
しかし、メンデルの逸話から本当に我々が汲み取ることは、その遺伝法則の内容ではないような気がする。

実は、メンデルの法則は、それに該当しない事例が多く観察されていることが知られている。
メンデルが遺伝実験にエンドウ豆を使用したのは、品種改良が人為的に操作しやすく、純系からの交配が安定しているからだ。エンドウ豆という素材自体が、遺伝操作に絡む雑多な要素を排した「理想化された品種」と言える。

しかし、多くの生物はそのような「純系」を抽出することが困難で、遺伝に絡む様々な要素が含まれる。学校の試験では「摩擦はないものとする」と理想化していても、実際の世の中には摩擦があるように、エンドウ豆でうまくいった交配実験が世の中すべての生物に適用できるわけではない。

さらに、メンデルの実験には致命的な弱点があった。
たとえば、分離の法則には、つるつるのエンドウ豆と、皺のあるエンドウ豆の形質発現が問題になる。
メンデルは、このふたつの種類のエンドウ豆を、「感覚」で区別した。実際には第2世代、第3世代のエンドウ豆になると、ツルツルともシワシワともつかないような「中間形質」が多く現れる。メンデルはこれらの曖昧な形質を、「なんとなくこっち」と、自分の直感に基づく感覚で区別した。

このような感覚に基づく分類は、当然ながら再現性がない。他の人がその実験を追試してみても、同じような結果を出すことができない。
これは、黄色と緑のエンドウ豆の色彩区別の実験でも同様の結果が出ている。黄色とも緑ともつかないような「黄緑色」をどっちに区分するか、かなり感覚的に分けてしまっている。

メンデルの研究が当時理解されなかったのは、数値に基づく計量的な立証方法が理解されなかったからだが、その計量方法それ自体にすでに誤りがあった。いくら「ツルツルのエンドウ豆が○○個」「シワシワのエンドウ豆が××個」と数値化して考察したとしても、その数値の根拠が個人の感覚では、科学研究の土台として失格だ。

要するにメンデルは、正しい統計データの取り方を知らなかったのだ。統計データの基本は、そこで使用されている諸概念の定義をきっちり行うことだ。その定義は、再現可能性を保証するために数値化する必要がある。
たとえば「シワシワのエンドウ豆」を、「皮角表面との屈曲率が表面積全体の○○パーセント以上のもの」などと定義しなければならない。ひとつひとつのエンドウ豆について、その定義に照らし合わせて「シワシワなのかどうか」を決めなければならない。そのように数値化された定義を使ってはじめて、実験に再現可能性が保証される。

統計データの信憑性をきちんと保証する訓練を積んでいれば、直感で決めるエンドウ豆の形のような「似非データ」の危険性を排除できるはずだ。
たとえば、頻繁に行われる似非統計に「都道府県の幸せ指数」「幸福度の高い国ランキング」のようなものがある。このようなランキングの上位は、大都会から遠く離れた郊外地方が軒並み選ばれる。

しかし、実際に「何をもって『幸せ』とするのか」という構成要素をひとつひとつ見てみると、「人口ひとり当たりの公園面積」「道路の広さの平均」「保育園の待機児童の少なさ」のような、恣意的なものばかりだ。それが本当にひとの「幸せ」につながるかどうかは一切無視。勝手に幸せのあり方を押し付けられているように見える。

そのような公的インフラのような数値がいくら束になって掛かろうとも、おそらく「年収1000万」ひとつのほうが幸せ指数は高かろう。そして、地方企業よりも大都市に集中している大企業のほうが、収入の高さは期待できる。
「幸せ指数」のようなランキングは、そもそもの目的が「人口を地方に分散させて、大都市への人口集中を防ぐ」というものだ。「地方はこんなにいいところですよ」という、行政府による打ち上げ広告に過ぎない。だからそもそも「地方都市が上位でなければならない」という、はじめから目的ありきの似非統計なのだ。

このようなインチキ統計に引っかからないためには、「正しい統計データ」をきちんと見分ける訓練が必要だ。中学、高校などの中等教育では、これを教えるのは社会、理科、数学にまたがる分野になる。資料集に乗っている表やグラフが本当に統計的に妥当なものなのか、ひとつひとつ検証する癖をつけなければならない。


そこへメンデル遺伝である。高校の生物の授業では、メンデルが実際に収集した数値データとその根拠を開示せず、いきなり「ツルツルの豆と、シワシワの豆が、○○対xxの割合で発現」などと教えてしまう。そのデータの信頼性については一切触れない。本来であれば正しい科学的思考の方法論を教えるべき理科の授業で、重大な誤認を犯している事例を覚えさせていることになる。

これは、正しい中等教育の仕方として妥当なのだろうか。日本人は統計に騙されやすいところがある。その原因は、初等・中等教育の段階でこのような「正しい統計データの取り方」を教わっていないところにあるのではないか。

以前、僕の講義を受講していた学生が、期末に「戦争というのは本当に惨禍だけをもたらすものなのか」というテーマで課題レポートを書いてきたことがある。戦争というのは歴史的に悪いだけのものではなく、戦争があったからこそ世の中が進歩した、という面もあったのではないか、というレポートだった。
その結論を導くために、その学生はデータとして、歴史の教科書に載っているような戦争をひとつひとつ取り上げていた。それらの戦争が「益をもたらした」のか、「害しか与えなかった」のか、ひとつひとつ区分していた。

僕は別に歴史学の授業を担当していたわけではなく、その授業は「世界の言語」という言語学の授業だったのだが、そこは別に問うまい。その授業は1, 2年生対象の入門授業だったので、僕は期末レポートの課題として「科学的思考の方法論が実践されていればそれでよし。テーマは言語についてでなくても何でもいい」という出題をしていた。仮に言語についてでなく歴史についてであっても、その方法論が適切でさえあれば、ちゃんと単位をあげる所存だ。

しかしその学生のレポートは、ある戦争が「益」なのか「害」なのか、その一番大事なところを、本人の直感で分けていた。その学生によると、第一次世界大戦は「害」だが、第二次世界大戦は「益」なのだそうだ。これは適切な統計データの取り方ではない。考察のはじまりがこのような似非統計に基づいてしまうと、その先に考察をいくら組み立てたところで、すべては無駄に終わる。
そのレポートは50枚を超える労作で、時間も手間もかけたのだろうが、問答無用で不合格にした。授業をきちんと聞いておらず、自分の中で決めてあるマイルールに基づいただけの、単なる「お話」に過ぎない。少なくとも、「再現可能性が保証された共有可能な知」としての科学研究の条件をまったく満たしていない。

そういう学生は、メンデルと同じだと思う。決して、悪気があって研究結果を「捏造」したわけではない。単に、「適切な統計データ」がどのようなものか知らなかっただけだ。着眼点がいくら良くても、そこで使われる方法論が間違っていたら、学問的に無価値なものになってしまう。
「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」、俗に「ハンロンの剃刀」と呼ばれるこの手の誤謬は、世の中に思いのほか多いのではあるまいか。


かように間違いのあるメンデルの研究だが、僕は個人的に、このメンデルの遺伝研究の仕事について、ちょっと説明しにくい複雑な感想をもっている。
科学的に誤謬が伏在していることは間違いない。しかし、だからといってこの事例を「無価値」として科学史から葬り去るには、ちょっと抵抗がある。

そもそも、なぜメンデルの研究は、発表当時に広く知られず、埋もれたままだったのか。ひとつには、メンデルが行った数値化する科学的思考の概念がまだ不十分だった時代という不運はあるだろう。しかし、僕は当時の生物学をとりまく状況から、メンデルの研究が知られていなかった他の理由を疑っている。

そもそも、メンデルが修道士だったことを忘れてはならない。メンデルは修道士として、キリスト教の価値観のみで作られた世界で暮らしていた。「生命体はすべて神が作り給う」という世界観のなかで、「生命の形質には法則性があるのではないか」という発想をすること自体、かなりの掟破りな破戒行為だったのではないか。メンデルの論文が抽象的で難解だったのは、メンデル自身がそのように、わざと真の意図を隠して曖昧に書いたのであるまいか。

つまり、「知られていなかった」というよりも、「意図的に隠していた」と考えるほうが、当時の時代背景に合うような気がする。神に仕える修道士として、神の意志と関係なく生命体の形質に関して形式的な考察を行うなど、ダーウィンの進化論に匹敵するほどのヤバさだろう。

そう考えると、なぜメンデルが遺伝形質の研究からすぐに離れたのか、その理由も理解できる。メンデルは終世、修道士としての人生を全うした。宗教的信仰のなかで独学で科学研究を行うことは、「信仰」と「科学」の間で折り合いをつける努力の繰り返しだっただろう。天文学を学べば自力で地動説にもたどり着くだろうが、同時期に生きたダーウィンの進化論についてはむしろ宗教界から批判を行う側だったと思う。

また修道院というのは女人禁制の場で、そこでは性や生殖に対する言動はタブーとなる。そのような道徳律の中で、交配による形質遺伝の研究をする、ということ自体、場を支配する道徳律に反するものとして弾劾される危険があったのではないか。

そのような時代背景を考慮すると、メンデルというのは、控えめに見積もっても「宗教上、道徳上のタブーをものともせず、事実を事実として見極めたい求道者」という人物だったのではないか。温厚そうな宗教者としての顔と、冷徹に事実を見極めたい科学者としての顔が、同居していた人だったのだろう。時代と環境の制約の枠にとらわれず、知りたいことを知ろうとする、知的なガッツを感じる。

科学を志す者に必要なのは、「事実を知りたいという知的欲求」と「考察を正しく行う方法論」だ。後者は訓練によって身に付けることができるが、前者は個人の性格が大きくものを言うことが多い。高校まで成績優等生でも、大学に入ってから勉強ができなくなる学生が多いのはそのためだ。メンデルは、その知的欲求が非常に強く、それが為に新たな科学分野を切り開くほどの足跡を歴史に残すことができたのではあるまいか。

惜しむらくは、後者がきちんと備わっていなかったことだ。時代の不幸、環境の不幸、いろいろな理由があろうが、本人がそれを本気で望んで、宗教的信仰よりも科学研究を最上位の価値に置くような人生を送ったならば、おそらく自力でその方法論を編み出せたのではあるまいか。そうなれば、現在におけるメンデル遺伝の位置づけはまた違うものになっていたのかもしれない。



エンドウ豆でビールのむと(゚Д゚)ウマー

都電荒川線の遠足に行ってきました


スタンプラリーがやりたい。



秋のはじめとなりましたが、暑さが残る今日この頃、みなさまいかがおすごしでしょうか。
ワタクシめは大学の新学期がまだちょっと先なので、夏休みの続きを満喫中であります。

夏になるとあれですな、各公共交通機関がこどもたち向けのスタンプラリーをいろいろと実施しておりますな。
大体、そういうのに熱中するのは男の子だそうです。「すべてをコンプリートして集める」「夏の暑さをものともせずに動き回る」「何の得にもならないことに熱中して手段が目的化する」というのは、どう考えても男の子向けのイベントでありましょう。同伴するご両親諸氏におかれましてはお疲れさまです。

さて、かつての男の子としては、この夏にいっちょスタンプラリーを完遂してみようか、と思い立ちました。
こちとら手段も時間も金もある大人です。本気になってとりかかればスタンプラリーなど1日でコンプリートなのであります。

僕は電車好きですので、普段は乗らない路線でスタンプラリーをやってみることにしました。
ターゲットは都電荒川線。東京の都心を走る唯一の路面電車です。三ノ輪橋から早稲田まで、東京東北部の下町情緒溢れる界隈を走ります。


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いかにも地元的な乗り物。 


この路線沿線は、『こち亀』でも両津勘吉の地元、「東京の下町情緒を伝える街」として頻出する地域です。ちょうどこち亀も連載終了が決まったことですし、記念がてら乗ってみることにしました。

都電荒川線のスタンプラリーは9カ所。駅ではなく、路線に近い地域のランドマーク的なところにスタンプが設置してあります。
スタンプラリーの台紙には、周囲のおすすめスポットなどが紹介されており、僕のような大人がぶらぶらと街歩きをするのに非常にぴったりの企画になっています。スタンプも他の鉄道会社のようにアニメのキャラクターなど一切使わず、チェックポイントも寺社や公園など、渋いチョイスになっています。こりゃ子供向けというよりも、僕みたいな大人を対象としてるんじゃあるまいか、と思ってしまいます。

で、実際に三ノ輪橋から都電に乗ってみたんですが。
「渋いチョイス」の理由がなんとなく分かりました。

とにかく、乗客に高齢者が多い。
始点の三ノ輪橋から乗った乗客は、僕以外は全部後期高齢者の方々ばかりでした。席を譲らずに座席に座っていると、そこはかとない罪悪感を感じます。

都電荒川線は、地元の方々が多く使用する路線のようで、普段のお買い物や近所の用事程度の出歩きにも、普通に使われる路線のようです。なんかみなさん普段使いに乗っていらっしゃる。
ワタクシのような若輩者の一見さんといたしましては、こうした地元の方々のお邪魔にならないように、端っこのほうにこっそりと乗せていただくのが仁義でありましょう。



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(1) 三ノ輪橋駅
都電荒川線の始発駅です。もちろんターミナル駅です。ターミナル愛好家としてはぜひとも押さえておきたいスポットであります。
接続は、地下鉄日比谷線の南千住駅が便利です。この界隈は松尾芭蕉が奥の細道へと旅立った始点として知られており、近所の素盞雄(すさのお)神社には芭蕉の句碑がありました。


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見よ、この堂々としたターミナルっぷり。 


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現役でお仕事中の看板の大先輩のみなさん 




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(2)荒川ふるさと文化館
荒川区の歴史、文化を展示してある博物館です。地域文化の保存館としてはかなりレベルの高い展示がありました。入館料が100円というところも良心的。子供の夏休みの自由研究ではかなり重宝しそうです。
館内には、荒川区で出土した遺跡・遺品のほかに、昭和当時の街並を再現したコーナーがあります。


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こういうの大好きなんですよね 



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ジョイフル三ノ輪商店街。「ザ・昭和」の趣きが満載。 



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(3)あらかわ遊園
こち亀などで、名前だけは聞いたことあるけど実際には行ったことがない遊園地。荒川区のこども達はここが人生初の遊園地のでしょうか。
東京23区内で唯一の公営遊園地です。入園料が大人200円、子供100円というのがすばらしい。こども同士で遊びに行くにはこのくらいの遊園地が最適なんじゃないか、と思います。いきなりディズニーランドとか行くな。のちの人生の楽しみ方の大事な部分を失うぞ。


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プールは8月31日まで。夏休みは子供で一杯だったのかな。 



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(4)都電荒川電車営業所
都電荒川線の車両基地です。車両基地とあらば是非とも寄らねばなりますまい。
近くには「都電おもいで広場」が併設されていて、懐かしい停留所を再現して、旧型車両が展示されています。


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パン屋さんまで下町風。 



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(5)音無親水公園
都電の「王子駅前駅」で降りてしばらく歩くと、石神井川沿いの木立に囲まれたところに音無親水公園があります。木々に囲まれて水が流れているため、とても涼しい所です。のんびりと文庫本を読みふけっている学生さんらしき人達がちらほらいっらっしゃいました。僕もここで足を冷やして、のんびり休憩しました。

そういえば余談なんですが、都電荒川線には「王子駅前駅」「大塚駅前駅」というのがありまして、それぞれJRの王子駅、大塚駅と接続しているんですが、駅の名前が「○○駅前」っていうのはどうなんでしょう。それ自体が駅でしょうに。



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(6)飛鳥山公園
王子駅の西側に広がる大きな公園です。「紙の博物館」「北区飛鳥山博物館」などが併設されており、そんじょそこらの公園とは格が違います。
公園広場には、いまどき珍しい大型遊具が並び、D51型機関車などが遊具として無造作に置かれています。子供が一日遊べる公園といえましょう。


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俺が子供の頃だったら絶対に主になってる。 


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公園とはこうでなくてはならない。 



都電15

(7)雑司ヶ谷鬼子母神堂(法明寺)
雑司ヶ谷、怖いです。池袋にありながら、ちょっと街並が周りと比べて5度くらい涼しくなった感じがします。夜とか絶対に一人で歩けない。
都電の雑司ヶ谷駅を降りると、いきなり雑司ヶ谷霊園の入り口があります。そこからちょっと歩くと、鬼子母神堂のある法明寺まで参道が続いています。


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お祓いしてから行った方がいいかなぁ。 


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こんな所まで来てやるんじゃねぇよ。 



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(8)早稲田大学
都電の終点駅、早稲田駅の近くにある大学です。実はまだ一度も行ったことがなかったんですよね。嫁の出身大学で、話には何度も聞いたことがあるので、なんか始めて来た気がしません。
校内は広いので、油断すると迷子になります。早稲田大学には、JR高田馬場駅、東西線の早稲田駅、都電荒川線の早稲田駅が最寄り駅ということになっていますが、実際の大学の目的地にたどり着くにはそのどの駅からも遠い、という構造になっています。


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(9)早稲田駅
都電のもうひとつの端のターミナル駅です。都電の線路は新目白通り(都道8号)の真ん中をぶっちぎって通っていますので、大通りのど真ん中にいきなり駅があります。駅から降りると、まるで中央分離帯の真ん中に降り立つような感じになります。


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なかなかのターミナルっぷりだ。 



都電22
大人の本気をもってすれば、このくらい楽勝なのだ。 



季節に一度くらいはこういう遠足してみたいですね。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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