たくろふのつぶやき

食欲の秋の季節がやってまいりました!o(^▽^)o

2016年08月

屏風絵の企み

神戸市の香雪美術館に、不思議な屏風絵がある。



レパント海戦



この屏風は、1571年にスペイン王室とオスマン・トルコ帝国が戦った「レパントの海戦」を描いている。
屏風左側の馬車上にはスペイン君主が描かれ「ろうまの王(ローマの王)」と注記してある。屏風の右側はオスマン・トルコ側が描かれており、トルコの外観を象徴するものとして灯台が描かれ、「つうるこ(トルコ)」と注記がある。トルコであることが分かりやすいように、象に乗った兵士まで描かれている。

これが「不思議」な屏風絵なのは、不可解なことが多いからだ。
まず、なぜに日本で描かれた屏風絵の題材が、レパントの海戦なのか。「レパントの海戦」は、大体の世界史の教科書に載ってはいるが、それほど必須の知識というわけではない。世界史を学んだことのある学生さんだって「知らんなぁ」という程度ではないか。歴史の知識としては、Bマイナスくらいの重要度だろう。なぜ戦国時代末期のご時世に、そんな遠い彼方のヨーロッパ世界の戦争が絵の題材になるのか。

さらに、描かれている状況がおかしい。
読んで字のごとく、レパントの海戦というのは、船で戦われた海戦だ。領土拡張を進めるオスマン・トルコが西進し、キリスト教文化圏まで範囲を伸ばした。その端緒としてキプロスがトルコの手に落ちる。それに危機感を抱いたローマ教皇が、スペイン王国の手を借りて、ギリシアのイオニア海でオスマン・トルコ軍と戦った。

しかし、屏風絵ではなぜかこの戦いが陸戦として描かれている。一応、帆船も描かれているものの、ここで描かれている帆船は軍事用の船ではなく、貿易用の商業帆船だ。軍事史的にはレパントの海戦は、ガレー船が使われた最後の海戦として知られている。しかし屏風絵のなかの船の描写は、その事実を反映していない。

さらに、トルコっぽさを出そうとして描かれた灯台の風景もおかしい。この戦場はギリシアなのだから、トルコの沿岸の景色を描いた絵は状況を正しく表していない。
絵の中のトルコ兵は、ご丁寧に象を乗り回して攻撃を仕掛けているが、もともと海戦に象を連れて行くような間抜けな軍はないだろう。

こうしてよく見ていると、この屏風絵が、何のために、どうやって描かれたのか、疑問を感じることがたくさんある。
わざわざ屏風絵に描いてまで、この戦争を後世に広め伝えようとした制作者の意図は、どこにあったのか。


世界史的な知識としては、レパントの海戦の意義は、オスマン・トルコ側ではなくヨーロッパ世界側にある。戦争の結果として、スペインが勝ち、オスマン・トルコが負けた。領土拡張の野心が高いオスマン・トルコのヨーロッパ進出政策はここで頓挫し、両勢力が拮抗する軍事境界線がある程度確立した。

しかしこの敗戦は、オスマン・トルコにとってそれほど打撃だったわけではなく、この海戦以後もトルコは地理的要衝を占める国として依然、勢力を保ち続けた。ロシアの南下政策やヨーロッパ諸国の近代化によってトルコが相対的に弱体し、オスマン・トルコが革命によって崩壊するのは、第一次世界大戦後のことだ。260年続いた徳川幕府は大したものだが、閉鎖された島国と違い、地理的にも周囲に囲まれた環境にありながら、オスマン・トルコは約620年の長きにわたりイスラム圏を統括し続けた。

むしろ、「イスラム勢力を撃退した」という功を上げたスペイン王国が、その名を轟かせるきっかけとなった。スペイン絶対王政を表す言葉として「無敵艦隊」という用語がよく知られているが、そのイメージはすべてこのレパントの海戦の勝利がきっかけとなっている。無敵艦隊というのは、「誰に対して無敵なのか」というと、それは「イスラム勢力に対して」である。イスラム勢力を追い払ったスペイン強し。イスラム勢力を駆逐した艦隊強し。そういうプライドが、「無敵艦隊」という言葉になって今に残っている。

翻って当時の日本の状況を考えてみると、スペインはこの頃、東南アジアをはじめとする地域の植民地化に熱心だった。スペインがもし当時、日本に接触することがあったとしたら、その目的は明らかに「植民地化」だろう。
その目的のためにスペインがとる方法はいつも決まっている。先に偵察隊として、カトリック宣教師を送り込み、現地の様子や人の性質を報告させる。

当時のヨーロッパは絶対王政の時代で、各王室は植民地の開拓に躍起になっていた。その目的は胡椒や銀の輸入だったから、産地であるアジアがよく狙われた。時代が下って、産業革命後の帝国主義時代になると、植民地は「物産の調達地」から「商品を売り込む市場」として利用価値が変わるが、それでも経済力が高かったアジア諸国が狙われたことに変わりはない。

当時、アジアに進出していたヨーロッパ諸国は、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルなどがひしめいていたが、江戸時代、鎖国を敷いた江戸幕府は、唯一貿易の相手としてオランダを選んでいる。これは徳川幕府が当時の世界情勢を正しく把握していたことを示している。植民地を広げる野望が強いイギリス、スペインなどに比べ、もともと母国の王制が盤石ではなく、軍事力がそれほど強力ではなく、もともと貿易によって国の体制を維持していたオランダは、平和的な貿易相手としては理想的だっただろう。もしこれがスペイン相手だったら、皆殺しにされたインカ帝国のようになっただろうし、イギリス相手だったら、市場として搾取されまくったインドや、アヘン漬けにされた挙句に戦争を吹っかけられた清のようになっただろう。

問題の屏風は、小西行長、黒田孝高らの依頼で作成されている。共にキリシタン大名だ。日本にキリスト教を伝えたのはカトリックのイエズス会だから、当時の日本のキリスト教の布教は、カトリックであるスペイン王国が後ろで糸を引いていると考えて間違いない。日本にキリスト教を伝えたザビエルは、スペインの一地方であるバスク地方の出身だ。

すると、この屏風が作られた意図が見えてくる。つまり、布教の権威付けのために、スペインが勢力を誇示するために描かれたのではないか。「いまヨーロッパでは、われわれスペインが覇を握っていますよ」ということを誇示するためのものだ、と考えて間違いなかろう。
単にスペイン王室の繁栄を誇示したいだけなら、別に宮廷の建築画であっても構わないはずだ。それをわざわざ、トルコを破った戦争の絵を題材にした、ということは、「逆らうとお前らもこうなるぞ」という威嚇と考えられる。

おそらく、小西行長や黒田孝高らは、純粋にキリスト教布教のために宣教師に協力する形でこの屏風絵を作成させたのだと思う。しかし、残念ながら彼らは頭が悪かった。スペイン王室の意図を正しく理解することなく、宗教的で崇高な使命感で操られ、宣教師に言われるままに利用され、この屏風を作ったのだろう。限られた情報源からでも対外情勢を正確に把握していた徳川幕府とは、現状認識能力に雲泥の差がある。彼らもろとも豊臣一派が滅んだのは、歴史の流れで見る限り、日本にとっては幸運だった面があるだろう。

そう考えると、なぜこの屏風が史実通りの海戦ではなく、陸戦として描かれたのかがなんとなく分かる。戦国時代には幾多の戦乱が発生したが、そのほとんどは陸戦だ。日本で海戦といえば、壇ノ浦の戦い、文永・弘安の役くらいのもので、それとて地中海の覇権を賭したレパントの海戦とは、規模が全く異なる。

つまり、「植民地化の下地としてスペインの軍事力を誇示する」という目的のためには、史実通りに海戦を描いても、当時の日本人にはあまりピンとこなかったのではあるまいか。戦国時代の戦争に慣れた日本人は、どうしても軍の戦力を、歩兵の数と武器の数で推し量る。海戦をそのまま描くと、どうしても船団の量を描くことに力点が置かれ、そうした「目に見える戦力」を描きにくい。

プロパガンダや広告のような媒体は、事実を描くことよりも、「受け手の目にどう写るか」によって、表現の方法が違ってくる。それはとりもなおさず、表現の仕方をよく検証することで、情報の発信元が意図していることが推測できる、ということでもある。この屏風の描かれ方からその意図を推察し、その目論見が失敗に終わったことから考えると、日本人というのは当時から、芸術的な審美眼の他に、冷静に事実を推察する思考力が備わっていたことが分かる。



ダイエットのCMを見るたびに狙い打ちする顧客層が想像できて面白い。

なぜ女性の日記が1000年も残るのか

夏の読書は古典に限りますな。


古典というのは、主語が省略されたり場面が不明瞭だったり、情報が不足気味の文章がつらつらと並んでおり、きちんと読み解こうとすると非常に苦労する。
しかし、夏の暑い日に、だれた頭でなんとなくだらだらと読むと、この「いいかげんさ」が非常にちょうどいい。

日本の平安時代前後に書かれたもののうち現存しているものは、大抵、女性が書いたものだ。随筆、日記、物語など、ほとんどが女性の手による。
ひとつには、当時そういう物書きが専業の職種として成立していなかった、ということがある。当時書かれたもののうち男性の手に拠るものは、ほとんどがお上の命によって編纂された、政治的事業の側面がある。随筆や日記などのように「なんとなく書いたもの」は、当時の男性の書くものではない。

そう考えるにしても、もうひとつ疑問がある。日記や随筆というきわめて個人的な書き物が、なぜ1000年の長きにわたって読み継がれるのだろうか。
現在でも芸能人やらアイドルやらの日記やBlog, SNSの記事が広く読まれているが、まぁ、たいして面白いものではない。当人の熱心なファンでもなければ、なんの価値もない文章だろう。ましてや、1000年後にも残っている文章かというと、そんなことは決してない。
では、平安時代の女性の日記が、時代を超えて読み継がれているのは、なぜなのか。

この時代の日記ものを読み返してみると、全然面白くない。少なくとも、1000年の長きに渡って広く長く読み継がれるべきほどのもには見えない。
平安三大日記と目される「枕草子(=清少納言日記)」「紫式部日記」「和泉式部日記」を読んでみると、「瓜に子供の顔を描いてみたらチョーかわいい」だの、「蜘蛛の巣に朝露がかかっているとなんかイイ」だの、他愛もないことばかり書いてある。日記だから別に書きたいことを書けばいいのだが、その手の他愛ない内容が1000年も読み継がれる理由とは思えない。

現存している日記ものの共通点は、「宮中に使える女房が書いたもの」ということだ。要するに一般市民の下々の生活実感ではなく、宮中という上流階級の生活が余すところなく書かれている。現在の視点では、むしろ前者のほうが歴史学的価値が高いと思うのだが、そういう市井の人々はまだ識字率の点でも道具の点でも記録を残せる環境にはなかっただろう。

たとえば「和泉式部日記」には、次のような記述がある。

かくて二三日音もせさせたまはず。頼もしげにのたまはせしことも、いかになるぬるにかと思ひつづくるに、いも寝られず。目もさまして寝たるに、拠るやうやうふけぬらむかしと思ふに、門をうちたたく。あなおぼえなと思へど、問はすれば、宮の御文なりけり。思ひがけぬほどなるを、「心や行きて」とあはれにおぼえて、妻戸押し開けてみれば、

見るや君さ夜うちふけて山の端にくまなくすめる秋の夜の月

うちながめられて、つねよりもあはれにおぼゆ。門も開けねば、御使待ち遠にや思ふらむとて、御返し

ふけぬらむと思ふものから寝られねどなかなかなれば月はしも見ず

とあるを、おしたがへたる心地して「なほくちをしくはあらずかし。いかで近くて、かかるはかなし言も言はせて聞かむ」とおぼし立つ


(口語訳)
こうして、宮様は二、三日お便りもくださらない。頼もしいことをおっしゃっていたのも、どうなってしまったのだろうかと思い続けると、眠ることもできない。目を覚まして横になっていると、夜もだんだん更けてしまったのだろうよと思っているときに、誰かが門を叩いている。誰だか見当もつかないけれど、家のものに応対させると、宮からのお手紙であった。思いがけないタイミングに「心が通じたのかしら」としみじみ嬉しく思われて、妻戸を開けて手紙を読んでみると

見ているかね、あなたは。夜も更けて山の端近くに曇りもなく澄んでいる秋の夜の月を

すると自然に月をぼんやりと見やってしまい、いつもよりもしみじみと感じられる。門を開けないままだったのでお使いの物が待ち遠しく思っているだろうな、と思って、ご返事に

夜も更けてしまいつつ眠れないでいたけれど、月を眺めるとかえって物思いがするので、あえて月は見ていません

と読んだのを、宮は意表をつかれた思いがして、「やはりすばらしい女だ。なんとかして彼女を近くに置いて、このようなたわいない和歌を詠ませて聞きたいものだ」と決心なさった。


宮(=天皇)から夜にラブレターをもらって、こんなお便りをしたら気に入られちゃいましたよ、という自慢話。宮の手紙には「月が奇麗ですね」。これは我が日本では古来の昔より「まるであなたのようです」と相手の美貌を褒める際の常套手段だ。夜の会話に「月」が入ってきた時点で、すでに会話の意図は口説きと断じてよい。

それに対して作者の和泉式部は、わざと逆の内容の「月なんて見ていません」と返事をする。そのこころは「見るとあなたを想ってしまうから」。
その結果、宮は「なんとすばらしい女だ」と感心し、この女を手に入れたいものだ、と気が引かれてしまう。

凄いのは、和泉式部が「こういうことを言ったら、宮様が私のことを『すばらしい女だ』と思ったのですよオホホホホ」と自分で書いていることだ。しかも相手は天皇だ。天皇に見初められた、ということは、つまり和泉式部にまつわる一族郎党すべての栄華繁栄を意味する。

つまり、当時の女性作者の筆による日記物語は、すべて「こういうことを言ったら、誰々にとても気に入られましたの」的な、時の権力者に寵愛されたことの自慢合戦なのだ。
清少納言の「枕草子」は、終始一貫して中宮定子に褒められた自慢で埋め尽くされている。定子が香炉峰の雪に擬えて問いかけをしても誰も理解できなかったのに、清少納言ひとりがその意図を察して御簾を上げたら「さすが頭が良い」と褒められた、のような自慢話を得意げに書き連ねている。

一方、根暗で地味で内向的で、壁に向かって独りごとを言う癖がある紫式部は、明るくて開放的な清少納言を徹底的にこき下ろして批判している。しかしそういう紫式部も、中宮彰子に気に入られた話が中心となっており、「ま、こういうことを書くと自慢話になってしまいますけれど」と断りつつも、その自慢話を延々と並べている。

しかし、清少納言や紫式部などは、自慢の原因がしょせん中宮だから、まだ可愛げがある。これが和泉式部になると「わたくし天皇に気に入られちゃいましたのオホホホホ」となる。当時としては大した自慢だ。しかも自分の筆ながら「ワタクシのこういう所に宮様は夢中になってしまいましたの」のようなことを、臆面もなく書き連ねている。
さすがにこうした描写は第三者的な筆によるものではないか、という憶測から、「和泉式部日記」の実際の作者は本人以外のゴーストライターだったのではないか、という説もある。しかし本人の筆によるものでなくとも、そうした内容が広く読み継がれ、1000年もの時代の評価に耐え続けてきた事実に変わりはない。

つまり、当時の女性作家による日記や随筆は、当時の読者にとって「こういう振る舞いをすれば、たとえ天皇でも虜にできますよ」というハウツー本のような役割を果たしていたのではないか。当時、藤原一族による摂関政治が全盛で、その権力の礎は、何よりも当時の天皇に自分の娘を差し出すことにあった。自分の娘が天皇に気に入られるかどうかが、一族の権力を左右する。そういう世の中にあって、その気に入られっぷりを披露する日記物は、権力を欲する政治家、宮中の生活を羨む下級役人、煌びやかな世界に憧れる一般女性など、多くの層にとって必読の書だったのではないか。

過去でも現在でも、他人の日記というものは、読んでみたい欲求が高い割には、実際に読んでみてもつまらないものだ。「なんだ、こんな程度のことか」という、たわいもない内容が多い。日記というのは基本的に人に読ませるためのものではないのだから、それはそれで一向に構わない。
しかし、平安時代に書かれた日記や随筆を読むと、明らかに他人に自慢したい意識で書かれた文章に読める。意図的に、人に読ませることを前提に書かれているような気がする。時の女房共が大挙して日記や随筆を書き残しているところから考えて、そういう行為を推奨した、何らかの政治的背景を感じてしまう。



僕の日記はトドちゃんが登場する絵日記ですが。
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