たくろふのつぶやき

お鍋には熱燗をつけてくれたまへ。

2016年07月

紳士たる巨人軍の大エース様



巨人ベンチ凍りついた…菅野初めてのブチ切れ

巨人は28日の広島戦(京セラドーム)に0―4で完敗。負けが許されない首位との直接対決を落とし、ゲーム差は再び10へと広がった。先発したエース・菅野智之(26)は7回3安打2失点とゲームをつくったが、またしても打線の援護に恵まれず5敗目(6勝)。試合中に怒りをあらわにするなど大荒れで、チームに暗い影を落とした。  

いつもは冷静沈着な菅野が珍しくブチ切れた。テンポのいい投球で会沢、福井から連続三振を奪った直後の3回二死。田中に真ん中に入ったスライダーを痛打され、右翼スタンドへの先制ソロを浴びた。負けられない一戦で、東海大相模―東海大時代の同期に許した一発がよほど悔しかったのだろう。3回を終えてベンチに戻ってくると、その場でグラブを思いっ切り叩きつけた。これまで菅野は伯父の原辰徳前監督から「エースたるもの試合中、喜怒哀楽をあらわにしてはいけない」と教え込まれていた。それだけに「禁」を初めて破った格好だ。このエースの“初ブチ切れ”によって巨人ベンチの空気が一瞬で凍りついたのは言うまでもない。  

この日の打線は散発6安打で無得点。好投するエースを打線が見殺しにするシーンは今季何度も繰り返されてきた。菅野の防御率はリーグ唯一の1点台(1.69)ながら、6勝5敗という成績は気の毒すぎる。野手陣が「自分たちが打てないから、ブチ切れてしまったのかもしれない」と思ったとしても不思議はない。  

さらに7回を投げ終えて交代した直後には、菅野はベンチの端で鬼の形相のまま一点を見つめていた。そんなエースを気遣うかのようにナインや首脳陣が一斉に反対側へと集まる異様なシーンも見られた。周囲からは「このままでは菅野の我慢も限界に達してしまうかも…」と不安の声が出始めている。  

田中に6回にもソロを浴び、プロ入り初めて同じ打者に1試合で2被弾した菅野は「広島とやる時はアイツにだけは打たれたくないと思ってやっている。正直悔しい。来週(8月5~7日に敵地3連戦)でやり返したい」と努めて冷静にコメント。由伸監督はエースの2被弾について「そこが菅野にとってもったいなかった。それ以外は良かったが…」と評した。  

いずれにせよ「メークドラマ」の再現を狙う巨人にとっては、取り返しのつかない1敗となったのは間違いない。


大エース様がこういう振る舞いをした、というだけではなく、監督、コーチをはじめとする首脳陣が誰もこの行為を咎めなかった、ということからして、巨人がこの行為を容認していることは明白ですね。

野球少年の皆様におかれましては、嫌なことがあったら道具に八つ当たりして、怒られたら「だって菅野もやってたよ」「巨人では誰も怒ってなかったよ」と堂々と主張しましょう。



追い込まれた時の人格が、その人の本当の人格。

毎日新聞「余録」
2016年7月26日

仏文学者で昆虫好きとして名高い奥本大三郎さんは、小学校2年生から約3年間、股関節カリエスで寝たきりの暮らしを強いられた。そんななかでも窓辺に花の鉢を置き、蜜を吸いに来る虫をベッドから網を伸ばして捕らえていたという

回復後は鉄と革製のコルセットをつけたまま昆虫採集に熱中、6年生の夏休み明けにためていた標本箱を学校に持っていく。しかし級友や先生には足の悪い奥本少年にこんな立派な標本ができるはずがないと白い目で見られてしまった(柏原精一(かしわばらせいいち)著「昆虫少年記」)

その昔は学校の夏休みの課題といえば昆虫採集だった。だが、今や「気持ちが悪い」の声で学習ノートの表紙から昆虫の写真が一時消滅する時代である。とはいえ今も、野山に虫を追い、捕らえて標本にしたり、強いカブトムシを育てたりする昆虫少年も健在である

人には生き物を集め、仕分けし、育てる習癖があるようだ。どうやらその欲求を現実と仮想世界が融合したスマホの画面で満たそうというポケモンGOらしい。米国では国内で発見できる全モンスターを捕獲したという男性の話をCNNが伝えるありさまだ

日本でも車のながら運転の事故や検挙者が出て、高速道路への侵入者もあった。運転は論外で、弱者を巻き込む歩きスマホ禍や、熱中する子どもの事故もやはり心配だ。往年の虫捕り少年には大人も子どもも入り乱れて捕虫網を手に町をうろうろする様が思い浮かぶ

昆虫採集の夏休みから世上騒然の仮想モンスター集めの夏へ。時代は様変わりしたが、休み明けにそろう子どもらの元気な笑顔は昔も今もかけがえがない。



僕が大学時代にフランス語を習った先生。懐かしいなぁ。
授業シラバスが白紙だったり、演習中にフランス産のワインを飲ませてくれたり、一風変わった先生だったけど、すごく実力があって話が面白い先生だった。

「昆虫好き」なんて紹介してあるけど、この先生、日本昆虫協会の会長だったんだけど。



自分の熱中していることをすごく楽しそうに話す先生だった。

文房具が趣味で、いろいろと試してみては使っている。


文房具が趣味、という人が行き着く先は、万年筆だ。
まさしく「キング・オブ・文房具」。値段と価値が比例する、珍しい商品だと思う。高価な万年筆ともなれば、まさしくクラフトマンシップの結晶。その書き心地は素晴らしい。

趣味に昂じる人の陥りやすい罠は、「単なるコレクター」になってしまうことだ。万年筆が趣味、という人でも、その実は単なる万年筆コレクター、という人は珍しくない。
人は誰でも、子供の頃から何かを集めることを趣味にしたことがあるだろう。そして、本人は熱中しているつもりでも、たまにふっと「集めること自体が目的化していること」の空しさを感じたことがあると思う。

僕は経験上、そういう陥穽に嵌らないための、自分なりの方法を持っている。
つまり、「その分野の最高のものを持つこと」。

「欲しい」という欲求は、つまるところ「満たされていない」という感情が原因だ。だから一番欲しいものを手にしてしまえば、それ以上欲しいものはなくなる。
僕はそれを直感的に悟って、まだ学生の頃に世界最高の万年筆を買った。これを買うために、1年くらいせっせとバイトをしてお金を貯めた。
このご加護かどうか知らないが、今でも僕は「要らないのに、単に集めるためだけに欲しい」ということがまったくない。

今でも僕は、自分の勉強をする時には万年筆を使っている。気に入っている道具を使うのが楽しい、ということもあるが、もっと実際的な理由がある。
子供の頃から体育会系だった僕は、筆圧が強い。シャープペンや油性ボールペンを使っていると、筆圧の強さが筆記の疲れに直結し、わずかな勉強量で疲れてしまう。頭の疲れではなく、手首の筋力的な疲れなのだが、子供の頃にはそれを大雑把に「勉強疲れ」と認識してしまっていた。
万年筆を使うと、力を入れなくても、わずかな筆圧でくっきりと字が書ける。長時間書き続けていても、全然疲れない。万年筆を使うことの利点には、そのような勉強疲れを軽減する効果があるだろう。


話はまったく変わるのだが、大学で教えていると、よく学生から「こんな分野を勉強していて、いったい何の役に立つんですか」と訊かれることがある。
また文部科学省は教育の根本理念として、馬鹿の一つ覚えのように「生涯教育」「生きる指針」というお題目を掲げている。

両者とも、言葉だけがひとり歩きして、その実体には誰も踏み込もうとしない、不思議な現象だ。
学生は誰でも、勉強はしなければならないものだと分かっている。分かった上で、「なぜ自分が」その分野を勉強しなければならないのか、と文句を言っている。また、目先のものしか見えない視野狭窄に陥って、短期的に成果の上がるものにしか優先的な価値を見いだせなくなっている。
一般社会人にしても、一生勉強を続けるほうが「豊かで実りある生活」を送れることなど、よく分かっている。分かってはいるが、週末や休日には、ゆっくり寝てテレビを見て酒を飲むほうが、優先順が先になる。生涯教育を続けるほど、自分の中に「学ぶ土台」が出来上がっていない。

あまり知られていないことだが、大学というものは生涯教育のための市民講座や夜間授業を頻繁に開催している。僕が勤務している大学も、社会人対象の公開講座を無料で開講している。昨今では大学というものの存在意義が大きく変わっており、大学は学生相手だけではなく、一般市民の知への貢献度も評価の対象となるご時世なのだそうだ。
それ自体はいいことだと思うのだが、開講されている講座の内容や、受講しているお客さんの層を見る限り、僕はあまり建前を具現化しているような試みには見えない。誰でも、大学で開講する講座に飛び込むのは、勇気のいることだろう。なにか難しそうな内容を、必死に勉強しなければならない、というイメージで公開講座を見ている人が多いような気がする。

だいたいそういう市民講座は、教える側も、大学事務局から頼まれて嫌々引き受けているケースが多い。だから手加減なしの授業を行う。「これくらいのことは分かっているでしょ」という前提知識のもとに、大学とはこのような場所でございます、とばかりに最先端の内容を講義する。こんな講座の開き方で、一般市民の生涯教育が啓発できるとは、とても思えない。
つまるところ、大学の公開講座というものは、「10の知識を100にする」という感じで行われている。僕が考えるに、本当に必要なのは「0の知識を1にする」ことの必要性と方法論を教えることではあるまいか。

大きな本屋さんに行くと、最近は社会人向けの「やりなおし学習」のための本がよく売っている。数学、歴史、理科、政治経済などの「学校で習ってはいたけど、もう一度勉強し直したい」という分野を、やさしく解説している本だ。
僕もそういう本をよく読むが、その手の本を読んで、改めて勉強が好きになる社会人はいないと思う。そういう本の共通点は、要するに「その分野を分かりやすく解説している」だけの、ただの教科書なのだ。自身が中学・高校時代に使っていた教科書と、構成も内容も何も変わらない。むしろ内容が簡単になった分だけ、その質は薄っぺらくなっている。

そういう本の前提として、「学ぶ側が何かの必要性に駆られて必死で勉強するはずだ」という思い込みがあるような気がする。必要があるから勉強し直すのであって、純粋に楽しむために勉強をするようには編集されていない。ああいう本を読んで「なるほど数学は楽しいな」と感じたとしたら、それはまるで使いもしない万年筆をずらっと買い揃え、悦に入っているような趣味と、たいして変わらないのではあるまいか。本人は「楽しい」と思い込んでいるのだろうが、それは本当に優れた逸品を鑑賞し、その価値を味わう姿勢なのだろうか。

大人の趣味が子供と違う点は、「それを使って何をするのか」以前に、「そのモノ自体に価値を見いだす」という、視点の違いだと思う。
子供のおもちゃというものは、それを使って「何かができる」ように作られている。おもちゃを渡されたら、子供はそれがどんなものであろうと、それを使って「何か」をするように行動する。それは勉強するときの態度にも反映され、ある分野を勉強する時には「それを学んだら、何ができるようになるのか」という、具体的な成果を欲しがる。

一方、大人の視点では、それを使うことに興味はなく、そのモノ自体を鑑賞することに意義がある。だから実利的には全く価値のない、盆栽や切手などを収集することで十分に楽しめる。本来は筆記用具である万年筆をやたらに集めるコレクターも、それと同じような心情だろう。100本の万年筆を集めている人に、「で、この万年筆で一体何を書くんですか?」と訊くのは、大人の趣味・嗜好を理解しているとは言えない。

大人の趣味がそのようなものである以上、社会人になってからの勉強の仕方というのも、それに沿ったもののほうが啓発の余地が大きいのではないかと思う。
別に入学試験のために勉強するのではないのだから、大人にとっては学んだ知識が何の役に立たなくても、別に知ったこっちゃないのだ。知識の価値それ自体を楽しみ、自分の知の体系を「作り込む」ような学びの方法を教えるほうが、大人にとっては楽しめる勉強の仕方だと思うのだ。

たとえば、「役に立たない分野」の最高峰と目されやすい数学。
誰でも、ax2+bx+c=0 (a,b,cは0でない数)の2解が、

解の公式


であることを「知っている」。
しかし、なぜ2解がそのような数になるのか説明できる人は、あまりいないだろう。

学校で二次方程式を習う時には、具体的に「答え」を出さないとテストで点をもらえない。だからこの方程式を解き、具体的な2解を出すことが「絶対的な目標」になる。
こういう価値観で勉強をしていれば、次なる疑問として「で、この答えを出したところで、それが何に使えるの?」となるのは自明だろう。「その知識を使って、一体何ができるのか」という姿勢が、学習の基本指針になってしまう。「数学が得意な人」というのは、入試問題に代表されるような「他人に出された問題の、正解を出せる人」という学力観が、支配的だと思う。

実際のところ、二次方程式の解の公式は、平方完成すれば簡単に導ける。それまで自分が「覚えている」だけだった知識に、「どうしてそうなっているのか」という原理原則を理解することが、本当の「勉強」だと思う。その知識が何の役に立つかなど知ったこっちゃない。「なるほど、そうなっているのか」という知的興奮を求めることが、大人の勉強の仕方ではないか。

前の項に一定の数を掛けた数列のことを、等比数列という。初項をa, 公比をrとすると、等比数列は

a, ar, ar2、ar3, …, arn-1

と表せる。

このa1からanまでを全部足した等比数列の和Snは、

等比数列の和

として求められる。学校の数学では、これを公式として「覚えろ」と言われることが多い。
では、等比数列の和は、なぜこの公式で求められるのか。

等比数列の和の公式は、別に根性で暗記しなくても、簡単に求められる。
Snのほかに、公比を一回掛けたrSnというものを用意し、後者から前者を引き算すれば、初項と末項以外の、間にある項はすべて全滅して求められる。
ただ覚えているだけだった知識に、「なぜ、そうなっているのか」という原理原則から始めて、自ら知を形作る方法論こそが、勉強の本当の面白さなのではあるまいか。

市販されている「やりなおし数学」があまり面白くない理由は、そこのところの面白さを啓発するように書かれていないからだ。社会人対象のやりなおし教科書でも、その目標とするところが、学生時代に教室で叩き込まれていた勉強と、まったく同じなのだ。そんな勉強に対しては、学生時代と同じ感情を抱いてしまうのも無理はない。

僕は個人的に、大人になってから数学を勉強し直す際には、学生時代に暗記させられていた公式を全部証明していくだけで、十分に楽しめると思う。
万年筆を楽しむときには、「それで何を書くのか」は問題にならない。万年筆という道具自体を楽しみ、その構造や精密性を味わうだけで、十分楽しめる。それと同様に、数学の知識を使って何をするかなど知ったこっちゃなく、既存の知識のしくみを知り、その精巧さに驚嘆する、というのは、思いがけないほど「凄いこと」なのだ。

別にそれは数学に限ったことではない。歴史を勉強する際にも、学生時代の呪縛から外れて、知識を精密化し再構築していけば、十分に楽しい。
例えば、誰でも「幕府」という用語を知っている。しかし、本当に幕府が何であるのかを知っている人は、思いのほか少ない。たとえば、「いま自分で幕府を作ろうと思ったら、必要なことは何か」という問いに答えれる大人は、あまりいないだろう。

幕府というのは、もともと征夷大将軍に与えられた行政権を指す。京都におわします天皇から遠く離れた「夷人」を征伐する際に、その責任者である頭領に全権を与えたのが始まりだ。京都から遠くなればなるほど、夷人を征伐するためには、様々な事業が必要になる。前衛基地としての都市を作る必要もあろうし、膨大な人員を統括するための立法機能も必要になる。そういうときにいちいち京都にお伺いを立てていたのでは小回りが効かないから、「必要なことは全部そっちで勝手に決めてくれ」という全権委任が、幕府の前段階となる概念だ。

時代が下って武家政権の世の中になると、いっそのこと国の政治全部を武士の頭領に委譲したほうが話が早い、ということになった。それが制度化したものが幕府だ。
つまり幕府というものの存在の前提として、「行政権を朝廷が握っている」という背景がある。それを譲渡したものが幕府だ。江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜は、委譲された政治権限を朝廷に返納している。俗にいわれる「大政奉還」だ。

だから、朝廷(天皇)が行政権を握っていない現在の日本では、幕府というものは原理的に成立し得ないことになる。もし今の日本で、誰かが幕府を開こうとしたら、行政権を一旦日本国政府から天皇に戻し、その上で天皇から行政権を委譲してもらう必要がある。

戦国時代、各地に割拠した戦国武将は、みな「京都を目指せ」と上洛を目指した。幕府の何たるかを知らないと、なぜ戦国武将が京都を目指したのか、その理由が理解できない。
戦国武将の究極の目的は「全国を自分の支配下に入れること」。そのためには、朝廷から「お前が武士の頭領だ」というお墨付きである征夷大将軍に任じられることが、必要かつ十分な条件だ。

鎌倉幕府は、行政府が鎌倉という辺境の地に置かれた事情から、原始的な「征夷大将軍」のイメージに近い幕府の開かれ方だった。その時代の朝廷はまだ実質的な力を失っておらず、純粋に権力を「委譲」しているだけだったので、朝廷は何かにつけて幕府に目を光らせ、武家政権に偏った政策には介入を行った。
ところが戦国時代になると、朝廷は単独で行政を敷けるほどの地盤と背景を失う。建武の新政に失敗して以来、朝廷は武士の助力なくして行政権を安定させることが事実上不可能だった。つまり、室町時代以後、征夷大将軍に任じられることは、同時に行政権のすべてを掌握することを意味する。

その過渡期にある室町幕府が、あまり一般的に「幕府」としてのイメージが薄いのは、地理的理由と背景的理由のふたつがある。
室町幕府は、京都に開かれている。つまり、朝廷のお膝元で開かれているわけで、これは原始的な「征夷大将軍」の必要性からすれば、本末転倒と言える。つまり、朝廷としては単独で行政権を執行したいものの、時代の変化によって武士がもつ軍事力に依存しなければその実現が不可能になっていたのだ。そこで、建前的には武士に政権を委譲するものの、「それを委譲しているのは朝廷だからな」と面子を保とうとした苦肉の策が、室町幕府なのだ。その時代では武士のほうでも朝廷の威光は利用価値があったので、その体制のもとでの自己の権威付けに利用した。

その体制が崩壊したのは、「もう朝廷の威光に頼るだけで軍事力のない勢力などものの数ではない」と価値観をがらっと転換した織田信長が、室町幕府を滅ぼした時だ。織田信長が凄かったのは、単に「朝廷にお墨付きをもらっている」という室町幕府の形骸化を見抜き、「それよりも力のある勢力があれば、朝廷はそちらに権力を委譲するはずだ」という時代の流れを正確に掴んでいたことだ。

このように、「幕府とは一体何なのか」という原理原則を知るだけで、鎌倉・室町・戦国時代という時代がひとつにつながり、「朝廷と武士の関係」というひとつの横糸で歴史が見えるようになる。一般的に室町時代は「つなぎの時代」と見なされ、歴史ファンにも人気が薄い。その一般的なイメージに乗っかるだけでなく、「なぜそういう時代だったのか」「何と何をつないでいた時代なのか」を自分で再構築するだけで、歴史を見る目が変わってくる。

それを考え、自分で答えに至ったところで、別に入試問題が解けるようになるわけではない。目的のために勉強するのではなく、既存の知識を、自分の中で「作り込む」作業をすることで、見えるものが違ってくる。
勉強というのは本来、自分の知らなかった世界を見るためにするものだ。凡人には、盆栽の何が楽しいのか、万年筆の何がそんなに面白いのか、理解できない向きもあろう。しかし、そういうものの中に独自の価値観を見いだし、モノそのものに価値を見いだすようになると、かなり楽しい時間が送れるようになる。それが一般的に認められる価値であろうとなかろうと、知ったこっちゃない。自分だけが楽しめればいいのだ。「知的に充実する人生」とは、そういう経験を自分の中だけでじっくり熟成させる生き方のことではあるまいか。

一般的には、「知識をいっぱい知っている人」を「頭のいい人」という学力観があると思う。しかし、その知っている知識なるものを、ただ知っているだけの人は、100本の万年筆を集めているコレクターと変わりない。自分の気に入った知識を、微に入り細を穿ち作り込み、丹念に鍛え抜いてこそ、その知識の本当の「使い方」が分かる。知識というものは、持っている量よりも、それをどれだけいじり回して楽しい時間を過ごせるか、のほうに価値の基準があると思う。


大学の公開講座や市民講座は、何かにつけて「○○○に役立つ歴史講座」「すぐに活かせる○○○授業」など、実利や効能を謳い過ぎる。個人的には、何かに役に立つ勉強など、全くつまらないと思う。端から見ればつまらないものに、それ独自の価値を見いだすことが、本当に熱中に値する行いではあるまいか。役に立つことを求めて、せっせと知識の暗記に精を出す勉強など、学生時代の呪縛の中に再び足を突っ込もうとする、愚かな行為に見える。



「ダンゴムシの生態」という公開講座はなかなか面白かった。

変わり者の哲学教授が学期末に最終試験を実施した。
クラスの全員が集まったところで、教授は椅子を机の上に置き、こう言った。

「今学期に学んだ全てを使ってこの椅子が存在しないことを証明しなさい」

学生はいろんな理論を駆使し、書いたり消したりして、答案用紙を埋めていった。
30ページを越える答案を書いたものもいた。

ところが一人だけは一分もしないうちに立って教室を出て行ってしまった。

数週後に成績が発表されたとき、みんなはなぜこの学生が「優」を取れたのかを不思議がった。
彼はほとんど書いていなかったのだから。
みんなは彼の答案の内容を知りたがった。

彼の答案用紙には、こう書かれてあった。


「どの椅子?」




公理系の基本。

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