たくろふのつぶやき

お出かけの時には保冷剤を持つのだ

2016年03月

今日の俺。

ごはん未定




嫁さんが所用で夜遅くまで帰ってこないんです。

なぜ数学を勉強しなければならないの

「なぜ勉強しなければならないの?」という、学生がよく発する質問がある。


僕は勉強が好きなので、勉強する理由など考えたこともないが、学生はそのように思うことが多いようだ。特に学期末の試験期間直前になると、この疑問が湧くことが多いらしい。

正直、僕は学生にこの質問をされるたびに、腹立たしく感じることが多い。それは別に、自分が価値を感じていることを軽んじられたとか、自分の価値観を否定された気がするだとか、そういう理由ではない。僕が勉強が好きなのは、あくまで僕自身の価値観であって、世界の誰もが同じ価値観をもつべきだとは全く思っていない。勉強が好きな人も嫌いな人もいるだろう。そういう人の価値観を否定するつもりは全くない。

僕が腹立たしく感じるのは、入学試験を受けて、学費を払って、大学に所属している立場の学生が、この質問を発するからだ。
例えて言えば、自分が文房具屋さんの店員だったとしよう。そして、ホッチキスを買うお客さんがいたとする。お金を払って、会計を終えてから、そのお客さんに「で、このホッチキスってのは一体何の役に立つんですか?」「私はこのホッチキスを使って、一体何をやればいいんですか?」と聞かれたら、どう答えればいいのだろうか。
自分がもし車販売のディーラーだったら。車を購入した客がいきなり「で、私はこの車でどこに行けばいいんですか?」と訊いてきたら、どうすればいいのか。

つまり、僕が学生に「勉強が一体何の役に立つんですか?」と聞かれて腹が立つのは、「そんなこと知らねぇよ」という気分になるからだ。学生は、学びたいから大学に入ってきているはずだ。そもそも学ぶ意義などというものは人によって異なるし、なぜ学びたいのかという理由はこちらは関知しない。大学教師の仕事はただ、学びたい学生に、その機会と方法論を与えることなのだ。
大学生は、学費という対価を払って、学問を身につけるために大学に入学する。自らそれを希望して入学してきたはずだ。それなのに、自分が金で買った学問の機会を「何の役に立つの?」とは、どういう了見なのだろうか。勉強が役に立たないと思ったら、さっさと退学すればよいのだ。

僕は、勉強が嫌いであれば、義務教育が修了した中学卒業と同時に、さっさと就職して働けばいいと思う。そうすれば学校の勉強なんて一切やらなくて済む。それなのに、わざわざしなくてもいい高校進学、大学進学をしたのであれば、それは本人が望んで学ぶ機会を求めたからだろう。ホッチキスを買おうとしたのは、学生本人のはずだ。

進学の道を自ら断ち切って、中学卒業と同時に就職した人から「勉強が一体何の役に立つの?」と聞かれたら、その質問の意図は納得できるし、尊重できる。そういう立場の人からそう聞かれたら、僕だって正直に「立ちません」と答える。価値観の違う人に、自分の価値観を押し付けるつもりはさらさらない。

しかし、勉強する機会を求めて大学に入ってきた学生が、その質問を発するのは矛盾している。この質問を発する学生からは、もともと自分で機会を求めて入ってきたくせに、それに対応できない能力の不足を、勉強そのものの価値の問題にすり替えて、精神的に逃避する甘ったれた考えが透けて見える。学ぶことの価値を疑わしく思うのであれば、それを振り捨て、さっさと退学して働けばいいものを、そうする度胸もないまま、大学にずるずる在籍したまま文句ばかり言っている。個人的に、「勉強が嫌いな大学生」というのは、「右に左折する」くらいの矛盾した言葉だと思っている。



閑話休題。
最近、ちょっと面白い本を読んだ。


数学が面白くなる 東大のディープな数学
(大竹真一、KADOKAWA出版)

東大数学


最近、類似した本がよく出ている。大学入試や高校入試の面白い問題を集めて、一般の読者にも分かりやすく解説してくれている。
そういう本が、受験参考書ではなく一般書として発行されているあたり、数学を「単に楽しむため」に勉強している層が増えている、ということなのだろう。いいことだと思う。

僕の感覚では、数学が嫌いな人ほど完璧主義者で、「数学の全てを学ばなければならない」と思い込んでいるような気がする。受験時代の呪いがまだ色濃く残っており、数学を「正解を出せなければ、それまでの過程がすべて無価値」と思い込んでいるのではないか。

実際のところ、数学の楽しみは、「答えを当てる」というところにはないと思う。本気で学問をすればすぐに分かることだが、学ぶことというのは、与えられた問題の答えを出すことではない。思考の過程で使う筋道を自ら作り出し、その発想を応用的に使えるまでに昇華させるのが、勉強の醍醐味だろう。正直なところ、僕が数学を勉強するときは、答えの数値が合っているか間違っているかは、わりとどうでもいい。その答えを導くための考え方のほうに興味がある。個人的には、自分の考え方が模範解答通りのときは、かえってがっかりする。

この本は、一応、模範解答を提示してはいるが、そこにはそれほど重点は置かれていない。高校数学の範囲から逸脱した解法さえ平気で載せている。むしろ重視しているのは、過去の東大の問題から、「東大はこの問題で学生に何を求めているのか」を深く掘り下げることだ。 

僕もこのBlogでたまに東大や京大の問題をとり上げることがあるが、それは別に東大、京大という名前の威を借りるためではない。単純に、東大や京大の入試問題には良問が多いのだ。世間からの注目度も高く、大学としても優秀な学生を見分ける必要性が段違いに高い。それだけ時間と人手をかけて問題をつくっているだろうし、よく練られている。

この本のはじめのほうに、まぁ、受験生向けの内容ではあろうが、「なぜ数学を学ぶ必要があるのか」についての記述がある。その内容がなかなか面白い。

昨今、理系離れがよく言われます。数学を何故勉強するのか、しなければならないのか、という若者たちへの返答として、世間には見当はずれなものがあまりにも多く、例えば

・世の中に数学は役に立っているから、数学を勉強しなければならない
・科学技術で立つ日本だから、その基礎となる数学ができることが必要である
・数学を学んだ人のほうが収入はよくなり、君の人生で得するよ

というようなものまであります。
数学が役に立つから勉強しろ、といのは、おそらく最も若者を見ていない教育でしょうね。


数学が社会の役に立つことぐらい、若者は誰でも分かっている


のです。わかった上で、何故(私が)数学を勉強するの?と聞いているのです。
蛍光灯も電子レンジも、新幹線も航空機も、コンピュータソフトも株式市場も、数学抜きでは全く成立しません。しかし、「数学が役に立つから」という理由では「数学は役に立つことは分かってるけど、それらに関わる人が勉強すればいいじゃない。私には関係ないもん」という反論に、論理的に答えることはできません。

数学に限ったことではありません。音楽や美術、生物学、それぞれ自分の気に入ったものを自分の尺度に合わせて懸命に勉強する、これはある意味で非常に個人的な行いだと思います。しかし、そのような個人的な行いなのですが、例えば、数学を勉強すれば、


数学的体験を通して、数学の歴史を追体験することになる


のです。数学は長い歴史をもった、人類の文化の一つだと、私は思っています。
高校レベルの数学でも、ほんの少し前には、最先端の数学であったわけですから。そうした歴史を背負った文化である数学を若い世代の諸君が学ぶことができることは、本人が意識するかどうかは別にして、


身震いしそうなぐらい、「すごいこと」なんです


よね。文化なんですから、もちろん強制し、強制されるものではありません。しかし、人類はこれまで次の世代に脈々と文化を伝えてきました。この大きな人類の歩みの中で、少しでも、人類文化の素敵さを次世代に伝えられたらと思います。

例えば、音楽が好きな人はいっぱいいますよね。絵が好きな人もいっぱいいます。クラシックの音楽をものすごく聞いて、いろんなころを知っている、絵を見てすごくいろいろ思っている、ようなその人は、「じゃあ絵を見て何の役に立つの」って言われたら、「音楽を聴いて何か得するの」って言われたら、どう答えるのでしょうか?
我々が生まれて言語を学び、音楽を奏でるあるいは鑑賞し、スポーツを楽しみあるいは観戦し、美術を創作しあるいは鑑賞する、こうしたことと同じように、数学を楽しみあるいは数学を鑑賞する、「人間になる」とはこういうことだと思います。それらの総体が文化ですね。もちろん、すべてをすべての人が強制されるものではありません。数学に向いていないというなら、別の分野でいいのです。楽しむことです。でも楽しめるかどうかは、しばらくはやってみないとわかりうものではありません。そうした観点からも、


数学は文化だから、一度はやってみる


のがいいのです。それにしても、数学を鑑賞する人が少ないですねぇ。


なかなか面白い考え方だと思う。この本の著者は予備校の講師だが、受験生に数学を教えることを飯の種にしている人とは思えないくらい、高い所から数学を俯瞰している。

僕は数学の先生に会う機会があるたびに、「もし生徒から『なんで数学を勉強しなければならないの』と訊かれたら、どう答えますか」と訊いている。おおむね、本職の中学、高校の先生ほど、きちんとした答えを持っている人は少ない。おそらく、「受験のため」「進学のため」という便利な方便があるため、根源的な解答をもつ必要性が薄いのだろう。

しかし、「受験のために勉強する」という狭いものの考え方では、受験が終わってしまえば勉強する理由がなくなる。それに比べて、「数学はひとつの文化だから、それを味わないのはもったいない」という考え方は、数学だけでなく、学校で学ぶすべての文化に共通したものだろう。

高校を卒業してしばらく経つと分かるが、高校までで習った知識というのは、「その分野を学ぶ機会は、高校時代が人生で唯一、最初で最後だった」という分野が少なくない。物体の落下運動の法則も、夜空に見える星座も、三角形の形状を決定する関数も、平安時代に書かれた文学も、すべて高校までに習った「知識の貯金」で、その後の人生を生きていく人がほとんどだろう。

そして、その貯金の価値を自覚していない人がほとんどなのだと思う。学校教育がきちんと制度化していない発展途上国では、いまだに病気の発生を「神の怒り」だと思っている地域もあるだろう。違う言語を話す人を「よそ者」として排除し、意思の疎通に嫌悪感を示す人もいるだろう。20世紀になってから革命で国が成立したため、その国で生まれた文学が皆無な国だってあるだろう。

その国の文化レベルは、初等教育・中等教育の教科書を見ればすぐに分かる。学校という学ぶ場所は、そのような文化的な礎を作り、後世に残し、発展させていくための最も基本となるものなのだ。日本は、その環境に恵まれている国のひとつだ。その国に生まれて、学校で学ぶことの意義を否定するのは、例えて言えば、金持ちの家に生まれたバカ息子が、「財布が重くなる」というだけの理由で紙幣を嫌うようなものだと思う。価値に囲まれ過ぎているために、自分のもっているものの本当の価値が、分からなくなっているのだろう。

学生は、発展途上国の恵まれない子供たちに慈善活動をするのが大好きだ。簡単にいいことをした気分になれるし、活動を通して学生同士の団結めいた雰囲気を味わうこともできる。
しかし、本当に発展途上国の恵まれない子供たちのことを理解しているのなら、まず自分が置かれている教育的環境に感謝し、まず己が学ぶ姿勢が生まれてしかるべきだろう。個人的に、ろくに勉強もせずに慈善活動に打ち込んでいる学生から、生産的で継続性のあるものなど何も生まれないと思う。

数学を「入試のために勉強するもの」と思うのであればそれで良い。そう思うのであれば、入試によって大学進学の道が自力で開ける国がどれだけあるのか、よく知った上でそう思うべきだろう。そのことを知っていれば、学校で数学を勉強できることがどれだけのことなのか、考えれば分かるだろう。それはすなわち、人類が積み重ねて来た叡智、すなわち「文化」に触れる機会に他ならない。その知見に自ら達し得ない者は、高校、大学という場で学ぶ資格がない。
資格がないというよりも、むしろそういう人は、自ら学ぶ機会を捨てて平気な人なのだろう。



そして東大の入試はそれが分かってるかどうかを問うてくるぞ。

東京大学入試問題・国語1(評論)

今年の東京大学入学試験・国語の第一問(評論)に、内田樹の「日本の反知性主義」の一部が使用された。
これを受けて、「東大は『知的』な人間を入試で排除するのか」「『反知性主義』の何が悪いんだ」といった批判が沸き起こっている。

僕もそれらの批判のすべてを見たわけではないが、どうも批判のほとんどが的外れのような気がする。
僕は個人的に内田樹の著作は眉唾ものが多いと見ており、正直なところ話半分に読む程度がいちばん良い距離感だろうと思ってはいるが、この東大入試に使用された文章を読む限り、それほど支離滅裂なことは言っていない。むしろ、東京大学がこの文章を評論文の読解問題に使用した意図がよく分かる。

あまり重視されていないことだが、大学入試の国語の問題を解く際には、重要なルールがある。
どの大学の、どの問題にも、冒頭には異口同音に必ずこう書いてある。

次の文章を読んで、後の設問に答えよ


つまり、文章に書いていない知識を勝手に動員して、文章の「枠」の外から解答してはいけない、というルールだ。この問題を解く際にも、そもそもホーフスタッターが提唱している「反知性主義」とはどういうものなのか、バルトが「無知」についてどう言っていたのか、著者の内田樹がどういう信条・主張の持ち主なのか、そういう知識は一切必要ない。むしろ、そういう「文章外の知識」を使って、問題を解いてはいけない。

一般的によく誤解されているが、やたらと知識を頭に詰め込んでいる「歩く辞典」のような人が、東京大学の入試に合格するわけではない。大学全入の時代となり、大学で学んだ経験をもつ人が多くなってきたこのご時世に、そんな誤解がいまだに流布しているのもいかがなものかと思うが、テレビのクイズ番組などで「東大芸人」「京大卒タレント」などと喧伝する時には、おおむね「いろんな知識をよく知っている」というイメージで「学力観」をでっちあげていることが多いようだ。

しかし実際のところ、東大入試に合格するためには、漢検一級で出題されるような難解な漢字を知っている必要はないし、アフリカの小国で使われている貨幣通貨の名前を覚えている必要もない。必要なのはただひとつ、「高校までの範囲で習う知識をきちんと身につけ、その知識をもとに思考する能力をもつこと」だけだ。東大に限らず、国立大学であれば、入試合格に必要なのは高校の教科書に載っている情報だけといってよい。

国語の入試というのは、与えられた文章がいわばひとつの「土俵」であり、その土俵の外から考察を加えるのは御法度なのだ。だから、今回の出題箇所を批判するときに「そもそも反知性主義というのはそういう信条ではない」「内田樹は反知性主義を間違って理解している」という批判は、ことごとく筋違いだ。
仮に著者の内田樹が反知性主義について間違った解釈のうえで文章を書いていたとしても、入試の問題を解く際には、著者の言っていることをそのまま解釈して問題を解かなければならない。

だから今回の入試問題を解く際には、「俺、『反知性主義』だったら知ってるぜ、もともとの意味はそういうことじゃなくて〜」のような態度が、真っ先に不合格になる。おそらく、多少なりとも「反知性主義」という言葉を「知っている」人であれば、左翼系の政治主張に絡めて内田樹の論旨を批判するだろう。そして、そう感じた時点で、「入試の基本的なルール」から逸脱している。
ちなみに東京大学の現代文は、そうした「知ってるぜ知ってるぜ」のような人間をふるい落とすために、用語の意味が一般的な定義や理解とは異なる使い方をされている文章をよく使用する。

もともと反知性主義というのは、主に独裁国家において愚民政策として採られた政策の通称だ。例えば、伝統的に中国は、体制維持のためにこの愚民政策=反知性主義を好み、「国民を賢くさせてはならない」という国策を採り続けている。
明代には、国民から「思考する力」「判断する力」を奪い、優秀な頭脳をことごとく「暗記マシーン」にするために、膨大な四書五経を丸暗記する「科挙」を課した。毛沢東は本人が読書好きだったにも関わらず、「本を読むほど馬鹿になる」と言い放ち、国民に読書を禁止している。現在でも中国はインターネットに制限をかけ、共産党に都合の悪い情報を遮断している。

のちに西洋社会では、この反知性主義という言葉がひとり歩きし、キリスト教に基づく「教養」と「道徳律」の概念混同から、「教育を受けてないからといって人間として価値が低いのか」という文脈に使われるようになった。無教育上等、むしろ本来の人間の平等の前では、教育の多寡など瑣末な要素に過ぎない。そう主張し、「教育的特権階級(=エリート)」から政治権力を奪還するための理論的背景になった。その考えが適用される場面は、軍隊による反シビリアンコントロール(文民統制)から共産主義革命まで、幅広い。現在行われているアメリカ大統領選挙で、共和党候補者を争っているドナルド・トランプの言説も、この反知性主義を下敷きにしている。

そして、そのような余計な知識をつけている人ほど、今回の東大入試は解けない。文章中で引用されているホーフスタッターも、著者の内田樹も、「反知性主義」という言葉をそのような辞書的な意味では使っていない。
そもそもこの出題文は、反知性主義について書いたものではない。「知性とはどのようなものか」について、著者の独自の見解を述べたものだ。だから、反知性主義に関するありとあらゆる「前提知識」が、著者の内田樹の論旨に噛み合ない、ということを以て「内田樹の言っていることは論旨が破綻している」ということを根拠に、今回の東大入試の問題を批判するのであれば、そうした批判はすべて的外れだ。

大学で教育をきちんと受けた人がこの文書を読めば、話の筋は科学論だとすぐに分かる。
世の中の真理を探求する方法として、人間は「宗教」「哲学」「科学」という三つの方法を編み出した。そのうち、現在の大学教育で採用されている方法論は(一部の大学、一部の学部を除き)科学である。「人文科学」「社会科学」というよく分からない区分用語は、扱う対象の分野に必要な特異性と、科学という一般的な方法論の、齟齬を埋めるために用いられている便宜上の呼称だ。

「信じること」を方法論とする宗教と、「疑うこと」を方法論とする哲学・科学の違いは、一般的によく知られているだろう。ところが、「哲学」と「科学」の違いについて明確に定義できる人は少ない。
端的に言うと、「哲学」は個人的な職人芸でも構わないが、「科学」は継続性がなくてはならない。科学においては、自分ひとりが世の中の真理に到達できたところで、それを他者と共有し、追体験できなくては意味がない。いくら「STAP細胞を発見した」と主張しても、他者にも同様にその発見が確認できなければ、科学的な事実とは認められない。科学が、真実を記述する際の言語として、誰にでも追体験と確認ができる「数値」を使用するのは、そのためだ。
そして科学は、そのように「いつでも、どこでも、誰にでも」真実であると確認できる事柄しか扱わない。

東大の出題文で内田樹が言っている「知性」というのは、この科学論の考えに沿ったものだろう。単に個人ひとりとしていくら頭が良くても、それが人類が蓄積してきた知識の総体に対してなんら寄与しないものであれば、知性とは呼ばない。既存の知識をやたらに記憶しているだけの「歩く辞書」は、人類が積み重ねている知の総体にとっては何のプラスにもならないのだ。過去から継承されてきた知の総体をきちんと継承するのは確かに必要だが、それは継承自体が目的なのではなく、その先のプロセスに対して必要な基礎だからだ。そうした知識の総体にわずかなりともプラスを加え、人類の知を前進させることが、「知性」の正しいあり方である。

少なくとも、東京大学は受験者にそのような「知性」を求めている。設問(四)は、そういった東京大学の要求を問題文から正しく読み取れなければ答えられない。
東大の態度は明確だ。大学で行われる知的活動がすべて「科学」の方法論に根ざしたものである以上、「科学」の定義における「知」のあり方を正しく認識していない者は、入学を許可できない。東大は、自己の中だけで完結し、他者と互換できないひとりよがりな「知性」など、要らないのだ。この程度の文章からその要求が読み取れないようであれば、科学を研究する態度としては失格だろう。

毎年、東京大学の国語入試問題の隠しテーマとして、「自己と他者」の対比、というものがある。これは国語教育の業界では常識とされている東大入試の傾向で、東大はこのテーマに根ざした出題をもう30年以上続けている。
今回の評論文も、「知性とは自分だけの中に存在するのではなく、それを一般性の高い方法で開示し、他者と共有し前進させることができなくてはならない」という、知識に関する「自己」と「他者」の距離感に話を落とし込んでいる。その点、東京大学が求めている「学力観」と、「知性のあり方」に対する姿勢が、とても分かりやすい問題と言えるだろう。その分、入試問題としては難易度が低くなってしまったのは残念だが、東大が学生の入学を許可する条件を問う問題としては良問の部類に属するだろう。


たとえ百科事典の内容を全部暗記したとしても、東京大学の入試には受からない。人間が協力してつくりあげてきた「知識の総体」を前進させるためには、既存の知識に新しいなにかを足し加える必要があり、言い替えればそれは「新しい知を創造する」ことである。暗記ばかりしている人は、古い知識には強いかもしれないが、自分で何かを新しく考え出すことはできないだろう。
巷ではやたらに情報を覚えている人を「頭のいい人」とみなす傾向があり、勉強といえば「暗記すること」と思っている中高生も多い。東京大学の入試問題は、そういう思い込みに対して「大学の学問ってのは、そういうことじゃないぞ」という、冷徹な姿勢を突きつけている。



ほとんが「反知性主義」という名称に脊髄反射しただけの批判だったけどね。

アメリカ大統領選挙予備選

米国大統領選 分断の政治を憂う
(2016年3月3日 朝日新聞社説)
米大統領選 危うさもはらむトランプ旋風
(2016年3月3日 読売新聞社説)
トランプ氏優勢 これでいいのか共和党
(2016年3月3日 毎日新聞社説)
世界的な影響が懸念される米政治の混迷
(2016年3月3日 日本経済新聞社説)
トランプ現象 「痛快だから」では済まぬ
(2016年3月3日 産経新聞社説)


アメリカで4年に1度のお祭り、大統領選が始まった。
今回の大統領選では、共和党の指名候補者をかけて競っているドナルド・トランプが話題となっている。

アメリカの大統領選挙はほぼ1年をかけて争われる長丁場なので、そのシステムが分かりにくい。
二大政党制をとっているアメリカでは、大統領選はほぼ共和党と民主党の一騎打ちになる。それぞれの党で、党が指名する候補者をまず決める。現在やっている「予備選」がそれにあたる。いわば党内の予選大会のようなものだ。

大統領選挙は一般市民が直接投票することはできない。一般市民が選挙によって選べるのは、大統領選抜の直接選挙権をもつ「選挙人」である。選挙人は、上院、下院の議員数と同数だけ選ばれるため、全国で538名が一般選挙によって選ばれる(議員数がないワシントンDCは特例として3名)。この538名の選挙人は、あらかじめ支持する候補者を明確にしているため、選挙人を選ぶ選挙が終わった時点で、事実上、時期大統領が決定する。

選挙人は州ごとに選抜されるため、それぞれの州で、民主党・共和党がどの候補者を擁立するかを決定しなくてはならない。それが現在行われてる、党内予選となる「予備選」で、それぞれの党がどの候補者を推すか、が州ごとに決定される。

アメリカは伝統的に、国政選挙は火曜日に行われる習慣がある。キリスト教では日曜日は安息日だし、月曜日に選挙をやると遠隔地に住む人は日曜日から移動を開始しなければならないため、火曜日に選挙が行われるのが慣例となっている。
毎年、2月下旬から3月上旬の火曜日には、各州が一斉に党内候補者を決める予備選挙を行うため、「スーパーチューズデー」と呼ばれている。候補者にとっては、スーパーチューズデーは一気に多くの州の支持を取り付けるチャンスになる。
おととい3月1日の火曜日が「スーパーチューズデー」にあたり、ジョージア、アラバマ、テネシーなど11の州で一斉に予備選挙が行われた。このスーパーチューズデーの結果で、その後、各州の動向がある程度予測できる。

スーパーチューズデーの結果、民主党ではヒラリー・クリントン候補、共和党では政治経験がない不動産業者のドナルド・トランプ候補が優勢という結果が出た。それを踏まえての各新聞社の社説。
どの新聞も、民主党のクリントンのことはどうでもいい。もっぱら話題は、共和党候補が濃厚なドナルド・トランプのほうにある。

いま行っているのは党ごとの候補者を決める予備選挙であるため、別にトランプが多くの州で支持を得たからといって、それがすぐに大統領選出につながるわけではない。現在、トランプが競っているのは民主党のクリントンではなく、同じ共和党のテッド・クルーズ上院議員とマルコ・ルビオ上院議員だ。政治経験が豊富な他候補者を抑え、なぜか政治経験皆無のトランプがスーパーチューズデーに圧勝した。

トランプが属する共和党は、一言で言うと「武力で強いアメリカを誇示することで支持率を上げる」ことを党是としている。レーガン、ブッシュ親子など、やたらに戦争屋が多い。湾岸戦争やアフガニスタン派兵など、世界中にアメリカ軍を派遣して、力でアメリカの影響力を誇示しようとする。

だから共和党が支持される時というのは、「アメリカが自信を無くしている時」と言ってよい。現在、アメリカは貿易赤字や移民による労働機会簒奪など、国内の不均衡が顕著になっている。端的に言えば、国民の生活が苦しくなっているのだ。そんな時に、過激な発言で「強いアメリカ」を誇示するトランプが支持を得るのは、いわば当然と言えば当然だろう。なんのことはない、第二次世界大戦前にナチスドイツが国民の熱狂的な支持を受けたのと同じことが、いまアメリカで起きている。

トランプが「仮想敵国」として国民の憎悪を煽っているのが、「イスラム諸国、メキシコ、日本」だ。
イスラム諸国は言うまでもなく、「アメリカのテロの脅威となっている」という理屈だ。メキシコは、流入する移民がアメリカ国民の就労機会を奪っている、という理由だ。もとはといえばメキシコ人労働者を安価な人件費で雇っているアメリカ人の雇用態度がそのような現状を招いたので、自業自得と言えば自業自得なのだが、そんな正論は誰も知ったこっちゃないのだろう。その二者に対しては、トランプは断固排他を叫んでいる。「外国人をアメリカから追い出せ」というスローガンだ。

日本を仮想敵国としているのは、主に経済の退廃の原因を押し付けるための、適当なスケープゴートが日本くらいしか見当たらないからだろう。アメリカの経済停滞は主に国内市場の閉塞と対外貿易赤字が原因だが、アメリカ、特に共和党は「自分たちのせい」とは決して認めない。必ず誰かのせいにする。それに加えて共和党は原理的に白人至上主義なので、有色人種に対して差別的な感情が根底にある。

だから「いまアメリカが苦しいのは、アジアのサルどものせいだ」ということにしたい。そう主張しているトランプがこれだけ熱狂的な支持を受けているということは、いかに多くのアメリカ人が「口には出さないが、心の奥底ではそう思っている」ということの表れだろう。

実際のところ、いまトランプが人気取りのために公言している方針のほとんどは、実際に大統領になれば己の首を絞めることだらけだろう。日米安保条約を「日本が安全のただ乗りをしている」、TPPを「日本が得するだけの不平等条約」など、本末転倒の主張を繰り返している。もともと日米安保もTPPも、アメリカのほうが日本に押し付けてきたものだ。それをアメリカ側から撤回するのであれば、日本としては「どうぞどうぞ」という態度になるだろう。
こうしたトランプの支離滅裂な主張については、共和党本部でも苦言を呈する声が上がっている。今後、大統領予備選で共和党がトランプの手綱をどのように取るのかで、現在の共和党の指導力が見積もれるだろう。


さて、そのトランプについての各社の社説。
ここではトランプの主義主張の是非ではなく、純粋に記事の書き方として意義のある書き方をしているかどうかを見てみたい。

そもそも話の大本として、「なんでこんな輩が大統領選で支持を得られるのか」を考えるのが王道だろう。もしトランプが大統領になったら、日本に対してかなり強行な政策を振りかざしてくることが予想される。それに対処するには、その背景、「なぜこんな奴が大統領に」という根っこを理解しておく必要がある。

だから現時点での社説としては、「もしトランプが大統領になったら日本はどうすればいいのか」という内容はピントがずれているだろう。まだ予備選の段階で、共和党の候補として決定したわけでもない。この段階で対トランプ対策をいろいろと提言したところで、二階から目薬の観が否めない。

そういう目で社説を読み比べてみると、めったにないことだが、一番よく書けているのは毎日新聞だろう。毎日新聞の社説は、トランプのように政治的な基盤がまったくなく、センセーショナルに人気取りを煽り、過激な発言を繰り返す候補者が出てくる背景として、最近の共和党の特質に触れている。

共和党自身の迷走も指摘できよう。トランプ氏を批判するのはいいとして、では共和党本来の姿、主張とは何なのか−−

同党は「家族の絆」を含めて米国のよき伝統と価値観を重んじてきた。だが、近年は原理主義的なキリスト教右派に加え、ブッシュ前政権をイラク戦争へ後押ししたとされるネオコン(新保守主義派)、保守系草の根運動の「ティーパーティー(茶会)」などが影響力を増している。 キリスト教右派はテッド・クルーズ上院議員の支持基盤。ネオコンはマルコ・ルビオ上院議員への支持が厚いとされ、茶会を含む三つの勢力の台頭で、伝統的な共和党の価値観が揺れている。同党執行部などの主流派は候補一本化でトランプ氏に対抗することを検討したが、主流派とされるクリスティー・ニュージャージー州知事がトランプ氏支持に回り、本流の分裂を印象付けた。
(毎日社説)


こと大統領選挙のような大きな権力人事の前では、個人の資質を攻撃して「お前、何言ってるんだ」的な批判は、どんなに正論であっても意味がない。気の狂ったような過激な発言が本当に大統領として不適切であれば、国民はそいつを選ばないはずだ。しかし、ヒトラーの時もそうだが、トランプのケースでも、問題は「国民の中にそれを支持している層がある」ということのほうにある。そういう自体を憂うのであれば、トランプのような個人を批判するだけでは、問題の根本的な解決にならない。第二、第三のトランプが出てくるだけの話だ。

毎日新聞が指摘しているのは、要するに共和党がトランプを押さえつけるだけの力が無くなっている、ということだ。指導部の求心力低下なのか、内部分裂なのか、詳しい事情はよく分からないが、ニュージャージー州の知事が一転してトランプ支持に廻ったのは、共和党の内部崩壊の一端とする見方は正しいだろう。

党内に押さえつける抑止力がなく、白人至上主義に基づく人種差別観のような「国民の本音」をすくい取り、理性を失って熱狂した国民を煽動する。いまアメリカの共和党で起きていることは、ヒトラーが政権を奪取した頃のナチスドイツと、何も変わらない。おおむね、外国からの醒めた目で「なんでこんな奴が支持されるんだ」という時は、いつでもどこでも似たようなことが起きているものだ。

朝日新聞は、絶対に書いてはいけない書き方をしている。

米国の民意はどこへ向かうのか。「トランプ現象」はもはやブームではない。保守層の中で確かな流れになりつつある。 実業家のドナルド・トランプ氏が2大政党のひとつ、共和党の大統領候補指名に向けて着実に歩を進めている。 50州のうち、11州でおとといあった予備選や党員集会でも、ライバルとの差を広げた。この勢いが続けば、党の候補の座を獲得し、11月の大統領選挙に臨むことになるかもしれない。

多くの国の人びとが不安の目を注いでいる。トランプ氏は、米国と世界を覆う難題への冷静な取りくみではなく、むしろ、米国内外の社会の分断をあおる言動を重ねてきたからだ。 やり玉に挙げるのは、メキシコ人であり、イスラム教徒であり、中国や日本でもある。民族や宗教などに標的を定めて攻撃し、テロの心配や雇用難などで怒る有権者の歓心を買う。 そんな扇動的な訴え方が、自由主義の旗手を自負する大国のリーダーとしてふさわしくないのは明らかだ。


「お前が言うな」の一言に尽きる。いままで様々な捏造記事で国民を煽動し、国に害を与え続けてきた朝日新聞がしれっと言ってよいことではない。

また、「多くの国の人びとが不安の目を注いでいる」という書き方は、何の根拠もない。朝日新聞は実際に世界各国で意見調査をしたわけではないだろう。「多くの国の人びと」と言うのであれば、何カ国の、何人くらいの人がそう言っているのか、客観的な根拠を出さなくてはならない。そんな根拠は一切無いだろう。

「不安の目を注いでいる」というのは、一般市民の意見のふりをした、朝日新聞の主観に過ぎない。これは朝日新聞が世論を誘導するときの常套手段で、ものの書き方としては下の下と断じて良い。朝日新聞は、「みんなこう言っている」と他人の意見として捏造するのではなく、正直に「我々は不安の目を注いでいる」と書かなくてはならない。 トランプの煽動的な言動を批判する朝日新聞が、読者を煽動してどうしようというのだろう。

書き方の他にも、内容の面でも朝日新聞は的を外している。朝日新聞の社説は、要するにトランプの言動の内容を非難しているに過ぎない。前述した通り、本当の問題点は「そういう非難に値する言動が、アメリカ国民の支持を得ている」ということのほうだ。国民がそういう言動を支持している限り、もしトランプが出馬を取り消しても、同じような方策をとる候補者が出てくるだけの話だ。ものの表層しか見ていない、薄っぺらい内容といってよい。

トランプ個人ではなく、背景にある構造的な要因を指摘する点については、毎日以外では産経がきちんとクリアしている。

政治経験のないトランプ氏の人気は、既成の政治への不満の反映であり、大衆の本音をずばり口にするポピュリズムにある。オバマ政権が招いた「弱い米国」への批判や、同政権下で広がった保守とリベラルの両極化などが背景にあろう。富裕層に対する不公平感など、米国民にやり場のない不満があることも無視できない。共和党内には、主流派の候補が絞り込まれればトランプ氏に勝ち目はないとの楽観的な見通しがあったが、有権者の不満を読み切れていなかった。 「トランプ現象」が米国の政治、社会の課題を示しているのだとすれば、対立候補はその問題点を指摘し、自ら克服する手法や政策を明確に提示して、巻き返しを図る必要がある。
(産経社説)


トランプ個人を批判するよりも、よほど建設的な提言だろう。問題の根っこを、より深く考察していると言える。

共和党の指導力低下は日経も触れているが、日経の社説はあくまでも「日本はどうするべきか」という論に終止しており、予備選挙のタイミングで出すべき記事とは若干のずれがある。実際にトランプが大統領に選出された際には、日本は経済・外交・軍事などさまざまな面で対応策を講じる必要があろうが、今の時点ではまずその前段階として、トランプがこれだけ騒がれている背景について抑えておくのが筋だろう。その考察を疎かにしては、具体的な策を講じる必要性が生じた時に適切な措置が取れなくなる。


ウィンストン・チャーチルは「いままでで最悪の政治家は?」と問われて、「さよう、最悪の政治家を決めるのは難しい。これぞ最悪という奴がいても、必ず後にそれよりも悪い奴が出てくる」と答えている。
基本的に、指導力に欠け、政治を勘違いしている輩が大統領になって困るのは、アメリカであって日本ではない。もし間違った人間を大統領に選ぶのであれば、それはその国の惨禍に過ぎない。
過去の共和党政権は、国内の支持率を挙げるための対外軍事政策を強行するたびに、国際社会の強い批判に晒された。その轍をまた踏むのであれば、アメリカのレベルはその程度ということだろう。



アメリカ国民はよっぽどストレスが溜まってるのだろうな。
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ペンギン命
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