国立大学―すぐ役立つためだけか
(2015年6月10日 朝日新聞社説)
一読して、「朝日新聞はよくこの件を社説に取り上げたな」という感想だ。一年に数回ホームランをかっ飛ばす朝日新聞の社説のひとつ、と評価してよかろう。大学の状況はなかなか一般読者にとって馴染みの薄い話題だが、この件を社説として取り上げた問題意識を評価したい。
文部科学省が全国86の国立大学に対し、現状の学部や大学院を見直すよう通知を出した。狙いにされたのは文系学部であり、特に教員養成系と人文社会科学系が目の敵にされている。文科省はこれらの国立大学文系学部に対し、見直し計画をつくり、廃止や社会的な要請の高い分野への転換に取り組むよう求めた。「求めた」とは言っても、実質的には「命令」だろう。特殊法人化の後も、文科省は国立大学に多額の運営資金を提供している。命令に従わない大学には金をやらん、という構図だ。
通知の背景は、「少子化に伴う教員数削減のため、ダブついた教員養成系学部を縮小すること」とされている。しかしこれは後付けの理由だろう。もしこれが根本的な理由であれば、通知を国立大学だけに限定する必要はないし、文学部、経済学部、法学部などの他の文系学部まで巻き込む必要はない。実際のところ、文科省の通知の背景には「国立大学を産業界からの要請に沿うように授業内容を改変させたい」という意図があるのだろう。実質的に、政府による大学教育への介入と言ってよい。改善の方針は、曰く「地域性や特殊性を活かした教育内容の確立」だそうだ。
今回標的にされた国立大学は、そもそも地域における教員養成を主体として設立されている。県名+大学名を冠する、いわゆる「駅弁大学」は、その都道府県における小・中・高の教員養成を意図して創設されたものだ。だから地方国立大学の学部編成は、基本的に教育学部を中心としている。
日本の初等教育が世界各国と異なる点は、その徹底した普遍性だ。北は北海道から南は沖縄まで、ほぼ均一的な教育内容を確立している。4月はじめは、北海道ではまだ冬が残り、沖縄ではすでに初夏の陽気だが、そんな地域性に関係なく小学校1年生は全国均一に「さいた さいた さくらが さいた」から始まる。いわば「地域性を無視」して全国画一的な教育内容を作り上げ、地域格差をなくす努力が、日本の初等教育の基本方針だった。各都道府県の国立大学の教育学部は、その「画一性」実践のために現場の教員を育成してきた。
それを今になって、「地域性や特殊性を活かした教育内容の確立」もないものだ。本末転倒とはこのことだろう。
今回の文科省の通達の背景は、実際のところ産業界からの「要請」、実質的には「圧力」だろう。企業に就職して即戦力になるような「役に立つ人材」を育成しろ、という内容に読める。私立大学は学生募集のために就職率の数字が生命線なので、わりと産業界の要請に敏感に反応して「就職力の高い学生」の育成に奔走する。ところが国立大学は基本的に研究寄りの人材が多いため、教育内容も世間的には「使えない人材」を育成している、と映るのだろう。
朝日新聞は、この文科省の通達を批判している。産業界や経済界に読者層の基盤を置く朝日新聞にしては、かなり思い切った社説だろう。「産業界におもねた改革は乱暴だ」という主張なのだから、読者層の要請とは正反対だ。
国旗国歌の要請を根拠として取り上げているのは、朝日新聞らしい旗の振り方としてご愛嬌だが、おおむね言っていることは的を外していない。国立大学はもともと高い自由度を保証された上で、研究・教育の自立性が保証されていた。法人化して以来、どうもその自立性が脅かされている方向に向かっているような気がする。入試選抜方式の画一化、学部改変への制約、研究助成金の振り分けなどを見るに、文科省は言っていることとやっていることが一致していない。
僕は個人的には、役に立つ勉強をしたければ専門学校に行け、と思っている。大学というのは極論すれば「何の役にも立たない勉強」をするべき場所だ。大学の研究者が「世のため人のために研究に従事している」などと言ったら、それは大嘘だ。大半の研究者は、自分の研究が世の中にどのように役に立つかなど、知ったこっちゃない。学問大国というものは、世の中のどんな些細な事柄にも「それを真剣に研究している専門家がいる」という許容力のある国のことだ。大学の先生に「なぜその分野を専門に研究しようと思ったんですか?」と訊くと、口の上ではいろいろと大義名分を並べるだろうが、根っこのところは「単に面白いと思ったから」というのが実情だろう。いわゆる一流の研究者というものは、「能力が高い人」ではなく、「その分野に夢中になっている人」のほうが多い。
しかしそうした研究機関に金を出す政府の側としては、それを表立って許容するわけにはいかない。なにせ国立大学の運営資金は、税金から出ているのだ。だから税金から給料をもらっている立場の国立大の教員は、「役に立ちませんが、何か?」とは声を出しては言わない。表向きはあくまでも、「私の研究は世の中のこんな役に立つんですよ」という表明をしなくてはならない。
特に文系学部の場合、研究成果が目に見える「事実」「数値」となって表れにくい。理系学部とは違い、「教育の質の向上」を客観的に計るものさしが存在しない。文系学部出身の大学生の多くは、勤め人として企業に就職することになるだろう。その際、必要とされている「社会人としての能力」というのは、一体何を指しているのか。
文科省がこの「社会人としての力」を伸ばすべく、国立大学に学部改変を迫るとしたら、言い出した側はその成果を客観的に評価する基準を明確にしなければならない。それができるのだろうか。
教育界では一般的に、「〜に対する取り組み」という試みは、すること自体が評価の対象とされ、その結果が効果的だったのか無駄だったのかの切追跡調査は一切行われない。その最たるものは教員免許更新制度だろう。教員免許を期限付きにすることによって、不適格教員がどれほど減り、学級崩壊がどれほど減ったかを示す資料が提示されるべきはずなのに、文科省は一切公表していない。
今回の大学改善に関しても、先だって平成26年概算要求の対象となる「国立大学の機能強化を推進する改革構想例」が公表されている。しかし、文科省が公表しているこの資料は、単に「こういうことをやろうとしています・やっています」という「意気込み」に過ぎず、「実際にこういう成果がありました」という「事実」ではない。
文科省が万事この調子だから、追随する大学もいきおい「成果など二の次、とりあえず取り組みを行ったという既成事実をつくりあげるほうが先決」という施策の打ち方になる。これでは単なる打ち上げ花火だ。昨今の大学では、このような「とりあえず形だけ整える」的な打ち上げ花火がバンバン上がっている。
現場が適切に行動するのは、指示系統がきちんとした評価の基準を持っているときだけだ。どんなに良い試みも、形だけ整えた雑な試みも、きちんとその成果を追跡評価し公表する体制が整っていなければ、すべて無駄になる。それはつまるところ、文科省の言う「社会人としての能力」を、数値的に定義しろ、ということに他ならない。原理的に、そんなことが可能だとは思えない。
それともうひとつ、文部科学省は、どれだけ「社会一般のニーズ」を適切に掴んでいるのか、という疑問がある。僕は個人的に、文科省は、社会の要請に対して全く無知の官僚だらけの組織だと思っている。ゆとり教育や法科大学院の大失敗を見れば明かだろう。文科省は「法曹界の人材不足が深刻で、人員の増大が求められている」という特定の声に踊らされて、各大学に法科大学院なるものの設置を強要した。その挙句が、供給過多となった末の相次ぐ定員割れ、果ては設置を要求した文科省側が「実績にばらつきがある法科大学院について、定員規模の適正化や組織の廃止も含めた検討も求め」、要するに「いらないから潰せ」というマッチポンプだ。「作れ」と言ったその舌で「潰せ」と来る。どの面下げてそんなことを言っているのだろうか。文科省が、社会の需要を適切に予測したことなど、一度もない。
文科省の行う施策というのは、すべて「形だけ整える」という打ち上げ花火だ。成果が上がろうと無駄だろうと知ったこっちゃない。検討のための調査すらしない。何よりも「すること」自体が大事なのだ。文科省の仕事のしかたは「施策を行う」というよりは「施策を行ったという具体的な事実をつくること」である。指示系統の文科省がこのザマだから、その指示を受ける大学も自然とその体質を継承するのは、当たり前だ。
文科省の体質はさておき、今回の朝日の社説が優れているところは、議論の落としどころとなる焦点をきっちり絞りきっているところだ。この話題を取り上げた問題意識だけでなく、主張の展開の仕方そのものも優れている。
朝日新聞は今回の文科省の通達を批判する焦点として、「地方の活性化」という軸を据えている。国立大学は別に東大や京大のような大都市圏だけでなく、47都道府県すべてに作られている。その設立意義は、基本的に、先に挙げたような「地元の公教育に携わる人員の育成」、つまり教員養成にある。
ところが今回の文科省のように下手に文系学科の統廃合を進めると、地元の高校生からすれば学びたい分野の選択が削られることになる。小学校の先生になりたいのに地元の大学に小学校教員養成課程がなければ、他県の大学に出ざるを得ないだろう。僕も国立大学の出身だが、教育学部出身の学生はほぼ地元の教員採用試験を受験している。
文科省は「各地の特色や強みを活かした独自性を」などときれいごとを並べているが、文科省のそうした強要が、却って各地の学力の素地を失うことになる、という逆説だ。朝日新聞のスタンスは基本的に左派なので、このトピックを選んだ趣旨は大きく言って安倍政権批判だろうが、単なる政権批判や文科省叩きに留まらず、「地方の大学の独自性」という観点から今回の通達を捉えているところが優れている。批判を単なる悪口で終わらせず、問題意識の焦点を絞ることによって、議論の主導権を握る書き方だろう。こういう書かれ方をされては、読者は厳しい目で文科省側からの説得力のある反論を待ち構えるようになる。社説の果たす役割として、十分に及第点だろう。
文科省側の立場になってみると、根にあるのは、財政難の折、国立大学の文系学部に分配する運営費交付金を整理したい、という事情だと思う。いくら教育には金が必要だといっても、先立つものがなければどうしようもない。文科省の目から見ると、国立大学の文系科目は「人を在籍させるためだけにある学部・学科」がダブついているように見えるのだろう。それを整理して、無駄な所に金は払わん、という意図だと思う。
だったら国立大学よりも先に、学部を乱立させる私立大学への交付金を整理するほうが先ではないか。一部の私立大学の学部改変は、「国際ナントカ学科」だの「ものづくり学科」だの「情報ナントカ学科」だの、できるだけ多くの受験生を集めたいが為の入試戦略と化している。「人目を引くために、とにかく新しいものを出し続けろ」という市場原理に蝕まれていると断じて良い。所属学科がころころ変わる在籍学生はたまったものではないだろう。そんな流動的に過ぎる形態で、確固たる大学教育が行えるとは思えない。
事実上、私立大学の運営のしかたは、国立大学のそれに範を置いている。少なくとも、文科省から大学への通達は、国立大学から私立大学へと「降りてくる」のが一般的だ。文科省としては、まず国立大学を締めつけることで、後続する私立大学の運営のあり方を牽制する意図があるのかもしれないが、生贄として晒される国立大学の側はたまったものではない。余計なことを言い出さないでくれ、というのが正直なところではないか。
僕も学生・教員の両方として長いこと大学に関わってきたが、「文科省のおかげで大学が良くなった」と感じたことは一度もない。「結果・成果の客観的公示」というピースが抜けたままでは、今後も同様の状況が続くだろう。評価の軸を持たない組織は、方針修正の方法論も持たない。「成果を出せ」というのなら、まず「成果とは何か」を定義しなければならない。そこから目を背けて絵空事ばかり並べているうちは、文科省の迷走は続くだろう。
(2015年6月10日 朝日新聞社説)
一読して、「朝日新聞はよくこの件を社説に取り上げたな」という感想だ。一年に数回ホームランをかっ飛ばす朝日新聞の社説のひとつ、と評価してよかろう。大学の状況はなかなか一般読者にとって馴染みの薄い話題だが、この件を社説として取り上げた問題意識を評価したい。
文部科学省が全国86の国立大学に対し、現状の学部や大学院を見直すよう通知を出した。狙いにされたのは文系学部であり、特に教員養成系と人文社会科学系が目の敵にされている。文科省はこれらの国立大学文系学部に対し、見直し計画をつくり、廃止や社会的な要請の高い分野への転換に取り組むよう求めた。「求めた」とは言っても、実質的には「命令」だろう。特殊法人化の後も、文科省は国立大学に多額の運営資金を提供している。命令に従わない大学には金をやらん、という構図だ。
通知の背景は、「少子化に伴う教員数削減のため、ダブついた教員養成系学部を縮小すること」とされている。しかしこれは後付けの理由だろう。もしこれが根本的な理由であれば、通知を国立大学だけに限定する必要はないし、文学部、経済学部、法学部などの他の文系学部まで巻き込む必要はない。実際のところ、文科省の通知の背景には「国立大学を産業界からの要請に沿うように授業内容を改変させたい」という意図があるのだろう。実質的に、政府による大学教育への介入と言ってよい。改善の方針は、曰く「地域性や特殊性を活かした教育内容の確立」だそうだ。
今回標的にされた国立大学は、そもそも地域における教員養成を主体として設立されている。県名+大学名を冠する、いわゆる「駅弁大学」は、その都道府県における小・中・高の教員養成を意図して創設されたものだ。だから地方国立大学の学部編成は、基本的に教育学部を中心としている。
日本の初等教育が世界各国と異なる点は、その徹底した普遍性だ。北は北海道から南は沖縄まで、ほぼ均一的な教育内容を確立している。4月はじめは、北海道ではまだ冬が残り、沖縄ではすでに初夏の陽気だが、そんな地域性に関係なく小学校1年生は全国均一に「さいた さいた さくらが さいた」から始まる。いわば「地域性を無視」して全国画一的な教育内容を作り上げ、地域格差をなくす努力が、日本の初等教育の基本方針だった。各都道府県の国立大学の教育学部は、その「画一性」実践のために現場の教員を育成してきた。
それを今になって、「地域性や特殊性を活かした教育内容の確立」もないものだ。本末転倒とはこのことだろう。
今回の文科省の通達の背景は、実際のところ産業界からの「要請」、実質的には「圧力」だろう。企業に就職して即戦力になるような「役に立つ人材」を育成しろ、という内容に読める。私立大学は学生募集のために就職率の数字が生命線なので、わりと産業界の要請に敏感に反応して「就職力の高い学生」の育成に奔走する。ところが国立大学は基本的に研究寄りの人材が多いため、教育内容も世間的には「使えない人材」を育成している、と映るのだろう。
求めるのは、大学が社会の変化に応じて、すぐ役立つ人を生み出すことである。たしかに技術革新や産業振興の要請に応えることは大学の役割の一つだ。文系学生の多くは勤め人になる。社会人としての力を伸ばすことも必要だろう。国立大の努力はまだまだ足りない。通知は、企業や政府のそんな見方の反映でもある。
(朝日社説)
朝日新聞は、この文科省の通達を批判している。産業界や経済界に読者層の基盤を置く朝日新聞にしては、かなり思い切った社説だろう。「産業界におもねた改革は乱暴だ」という主張なのだから、読者層の要請とは正反対だ。
だが、だからといって効率を求めて、国が組織の廃止や転換を求めるのは乱暴過ぎる。いまの社会を批判的にとらえ多様な価値をつくりだす研究は、激しい変化の時代にこそ欠かせない。そこから新しい発見が生まれる可能性もある。国立大は法人化で、国の縛りが緩むはずだった。なのに実態として介入が強まっている。卒業式、入学式での国旗国歌の要請の動きもその一つだ。なんのための法人化だったのか。
(朝日社説)
国旗国歌の要請を根拠として取り上げているのは、朝日新聞らしい旗の振り方としてご愛嬌だが、おおむね言っていることは的を外していない。国立大学はもともと高い自由度を保証された上で、研究・教育の自立性が保証されていた。法人化して以来、どうもその自立性が脅かされている方向に向かっているような気がする。入試選抜方式の画一化、学部改変への制約、研究助成金の振り分けなどを見るに、文科省は言っていることとやっていることが一致していない。
僕は個人的には、役に立つ勉強をしたければ専門学校に行け、と思っている。大学というのは極論すれば「何の役にも立たない勉強」をするべき場所だ。大学の研究者が「世のため人のために研究に従事している」などと言ったら、それは大嘘だ。大半の研究者は、自分の研究が世の中にどのように役に立つかなど、知ったこっちゃない。学問大国というものは、世の中のどんな些細な事柄にも「それを真剣に研究している専門家がいる」という許容力のある国のことだ。大学の先生に「なぜその分野を専門に研究しようと思ったんですか?」と訊くと、口の上ではいろいろと大義名分を並べるだろうが、根っこのところは「単に面白いと思ったから」というのが実情だろう。いわゆる一流の研究者というものは、「能力が高い人」ではなく、「その分野に夢中になっている人」のほうが多い。
しかしそうした研究機関に金を出す政府の側としては、それを表立って許容するわけにはいかない。なにせ国立大学の運営資金は、税金から出ているのだ。だから税金から給料をもらっている立場の国立大の教員は、「役に立ちませんが、何か?」とは声を出しては言わない。表向きはあくまでも、「私の研究は世の中のこんな役に立つんですよ」という表明をしなくてはならない。
特に文系学部の場合、研究成果が目に見える「事実」「数値」となって表れにくい。理系学部とは違い、「教育の質の向上」を客観的に計るものさしが存在しない。文系学部出身の大学生の多くは、勤め人として企業に就職することになるだろう。その際、必要とされている「社会人としての能力」というのは、一体何を指しているのか。
文科省がこの「社会人としての力」を伸ばすべく、国立大学に学部改変を迫るとしたら、言い出した側はその成果を客観的に評価する基準を明確にしなければならない。それができるのだろうか。
教育界では一般的に、「〜に対する取り組み」という試みは、すること自体が評価の対象とされ、その結果が効果的だったのか無駄だったのかの切追跡調査は一切行われない。その最たるものは教員免許更新制度だろう。教員免許を期限付きにすることによって、不適格教員がどれほど減り、学級崩壊がどれほど減ったかを示す資料が提示されるべきはずなのに、文科省は一切公表していない。
今回の大学改善に関しても、先だって平成26年概算要求の対象となる「国立大学の機能強化を推進する改革構想例」が公表されている。しかし、文科省が公表しているこの資料は、単に「こういうことをやろうとしています・やっています」という「意気込み」に過ぎず、「実際にこういう成果がありました」という「事実」ではない。
文科省が万事この調子だから、追随する大学もいきおい「成果など二の次、とりあえず取り組みを行ったという既成事実をつくりあげるほうが先決」という施策の打ち方になる。これでは単なる打ち上げ花火だ。昨今の大学では、このような「とりあえず形だけ整える」的な打ち上げ花火がバンバン上がっている。
現場が適切に行動するのは、指示系統がきちんとした評価の基準を持っているときだけだ。どんなに良い試みも、形だけ整えた雑な試みも、きちんとその成果を追跡評価し公表する体制が整っていなければ、すべて無駄になる。それはつまるところ、文科省の言う「社会人としての能力」を、数値的に定義しろ、ということに他ならない。原理的に、そんなことが可能だとは思えない。
それともうひとつ、文部科学省は、どれだけ「社会一般のニーズ」を適切に掴んでいるのか、という疑問がある。僕は個人的に、文科省は、社会の要請に対して全く無知の官僚だらけの組織だと思っている。ゆとり教育や法科大学院の大失敗を見れば明かだろう。文科省は「法曹界の人材不足が深刻で、人員の増大が求められている」という特定の声に踊らされて、各大学に法科大学院なるものの設置を強要した。その挙句が、供給過多となった末の相次ぐ定員割れ、果ては設置を要求した文科省側が「実績にばらつきがある法科大学院について、定員規模の適正化や組織の廃止も含めた検討も求め」、要するに「いらないから潰せ」というマッチポンプだ。「作れ」と言ったその舌で「潰せ」と来る。どの面下げてそんなことを言っているのだろうか。文科省が、社会の需要を適切に予測したことなど、一度もない。
文科省の行う施策というのは、すべて「形だけ整える」という打ち上げ花火だ。成果が上がろうと無駄だろうと知ったこっちゃない。検討のための調査すらしない。何よりも「すること」自体が大事なのだ。文科省の仕事のしかたは「施策を行う」というよりは「施策を行ったという具体的な事実をつくること」である。指示系統の文科省がこのザマだから、その指示を受ける大学も自然とその体質を継承するのは、当たり前だ。
文科省の体質はさておき、今回の朝日の社説が優れているところは、議論の落としどころとなる焦点をきっちり絞りきっているところだ。この話題を取り上げた問題意識だけでなく、主張の展開の仕方そのものも優れている。
朝日新聞は今回の文科省の通達を批判する焦点として、「地方の活性化」という軸を据えている。国立大学は別に東大や京大のような大都市圏だけでなく、47都道府県すべてに作られている。その設立意義は、基本的に、先に挙げたような「地元の公教育に携わる人員の育成」、つまり教員養成にある。
ところが今回の文科省のように下手に文系学科の統廃合を進めると、地元の高校生からすれば学びたい分野の選択が削られることになる。小学校の先生になりたいのに地元の大学に小学校教員養成課程がなければ、他県の大学に出ざるを得ないだろう。僕も国立大学の出身だが、教育学部出身の学生はほぼ地元の教員採用試験を受験している。
国立大の使命の一つは、教育の機会均等の確保のはずだ。学びたい学部がなくなれば、学生は地元を離れなければならない。地方創生の流れにも反するのではないか。社会人の学び直しもしにくくなるだろう。組織のあり方を決めるのは、あくまで大学自身だ。学問のあり方を考え、多様な立場の意見を広く聞いて決めてほしい。
(朝日社説)
文科省は「各地の特色や強みを活かした独自性を」などときれいごとを並べているが、文科省のそうした強要が、却って各地の学力の素地を失うことになる、という逆説だ。朝日新聞のスタンスは基本的に左派なので、このトピックを選んだ趣旨は大きく言って安倍政権批判だろうが、単なる政権批判や文科省叩きに留まらず、「地方の大学の独自性」という観点から今回の通達を捉えているところが優れている。批判を単なる悪口で終わらせず、問題意識の焦点を絞ることによって、議論の主導権を握る書き方だろう。こういう書かれ方をされては、読者は厳しい目で文科省側からの説得力のある反論を待ち構えるようになる。社説の果たす役割として、十分に及第点だろう。
文科省側の立場になってみると、根にあるのは、財政難の折、国立大学の文系学部に分配する運営費交付金を整理したい、という事情だと思う。いくら教育には金が必要だといっても、先立つものがなければどうしようもない。文科省の目から見ると、国立大学の文系科目は「人を在籍させるためだけにある学部・学科」がダブついているように見えるのだろう。それを整理して、無駄な所に金は払わん、という意図だと思う。
だったら国立大学よりも先に、学部を乱立させる私立大学への交付金を整理するほうが先ではないか。一部の私立大学の学部改変は、「国際ナントカ学科」だの「ものづくり学科」だの「情報ナントカ学科」だの、できるだけ多くの受験生を集めたいが為の入試戦略と化している。「人目を引くために、とにかく新しいものを出し続けろ」という市場原理に蝕まれていると断じて良い。所属学科がころころ変わる在籍学生はたまったものではないだろう。そんな流動的に過ぎる形態で、確固たる大学教育が行えるとは思えない。
事実上、私立大学の運営のしかたは、国立大学のそれに範を置いている。少なくとも、文科省から大学への通達は、国立大学から私立大学へと「降りてくる」のが一般的だ。文科省としては、まず国立大学を締めつけることで、後続する私立大学の運営のあり方を牽制する意図があるのかもしれないが、生贄として晒される国立大学の側はたまったものではない。余計なことを言い出さないでくれ、というのが正直なところではないか。
僕も学生・教員の両方として長いこと大学に関わってきたが、「文科省のおかげで大学が良くなった」と感じたことは一度もない。「結果・成果の客観的公示」というピースが抜けたままでは、今後も同様の状況が続くだろう。評価の軸を持たない組織は、方針修正の方法論も持たない。「成果を出せ」というのなら、まず「成果とは何か」を定義しなければならない。そこから目を背けて絵空事ばかり並べているうちは、文科省の迷走は続くだろう。
形だけの仕事ばかりで、本気で事態改善に臨んでいる態度ではない。
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