今年も夏が近づき、教員採用試験の時期が近づいてきた。
この時期になると、教採受験を控えている学生や卒業生から、面接のための相談を受けることが多い。
将来の進路として教師を志す学生は後を絶たない。子供の数は減っているのだから、需要と供給のバランスを考えれば、教師というのは「競合が激しい一般企業」のようなものだ。それでも学生というのは、そういう「なりやすさ」など考えず、自らの夢と希望と理想のために、教師を目指すものらしい。
ご苦労なことだ。僕は教師なんて真っ平だから、初等・中等教育を志す学生を見ると、心から頭が下がる。大学で教えておいてこんなことを言うのも何だが、僕は生徒ひとりの発育過程において、その価値観や人生観に影響を及ぼしうる存在など、ご免被る。そこまで人の人生に責任を取れない。
さらに、僕は教員採用試験を受けたことがない。教師として初等・中等教育の現場に立ったこともない。そういう僕に、学生は教員採用試験の面接のための相談をしてくる訳だ。相談する人を間違えているとしか思えない。
そういう教採受験生から、面接のためのQ&Aの対策のような相談をされるのだが、その中に定番の質問として「生徒に個人的に相談をされた時の心構え」というのがある。
教師であれば、生活環境が恵まれていない生徒、精神的に疾患を抱えている生徒から、打ち明け話に近い相談を受けることがある。そういう時に、どういう心構えで話を聞いてあげるべきか。出題の仕方は様々だが、意図としてはざっくり「どういう心構えで生徒に接しますか」という根っこを訊いてくる問題だ。
教師を目指す学生というのは、おおむね真面目で良い子で理想主義だから、「生徒の立場になって、親身になって話を聞き、共感してあげることが大事だと思います」のような回答を考えることが多い。
アホか、と思う。
実際の教採試験の面接で、何が「正解」とされているのかは知らない。しかし僕の実感を正直に言うと、実際の学校現場で、生徒の相談事にいちいち「生徒の立場になって共感」などしていたら、仕事にならない。
そういう理想的な態度で生徒に接している教師の成れの果てが、いま問題になっている「職場放棄」「学級崩壊」などを引き起こす、いわゆる「問題教師」の原因だと思う。問題教師というのは、絶対的な能力が不足しているケースもあろうが、それだけがすべてではないと思う。むしろ、能力的には高いが、教師としての自分の律し方を見失って、自己崩壊に陥っているケースのほうが多いのではないかと、僕は睨んでいる。
教師というのは、生徒に相談事を持ちかけられた場合でも、その単位時間が終了したらすぐに日常業務に戻らなくてはならない。親の離婚、いじめ、鬱症状などの相談を受けたとしても、その生徒と話す時間が終わったら、試験の採点やら会議やらの業務をこなさなくてはならない。生徒の深刻な問題に「共感」しすぎて、精神的に落ち込んだ状態では、教師の仕事は勤まらない。
人は、たとえ他人の話でも暗い話題を聞き続けると、話し手の精神状態までうつってしまう。一般に「もらい鬱」と言われる症状だ。性犯罪に遭った女性被害者の調書をとっているうちに、女性警官がその性犯罪を「仮想体験」してしまい、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥ってしまうケースがある。それと同様に、生徒の深刻な相談事を、自分の精神状態にトレースしてしまい、教師まで鬱になってしまうことがある。
ばっさり斬ってしまうのは酷なことは重々承知しているが、要は技量が未熟なのだ。自分の精神状態を一定に保つことができないのなら、他人の相談にのる資格など無い。
教師を目指す学生であれば、学生の相談を聞く時に「いいかげんに聞いて適当な返事をしよう」としている者はいない。みんな真面目に取り組もうとするはずだ。教師は生徒から相談事をされると、「なんとかして自分がその問題を解決してあげなきゃ」と、正義の味方になり切ってしまうことが多い。
そういう真面目さが、要らぬ感情移入を引き起こし、挙句は自分の心が振り回される。真の問題点は、能力がないくせに真面目に取り組もうとして、自分の精神状態を崩してしまうことにある。技量が、信念に追いついていないのだ。
誤解を招く恐れはあるがはっきり言ってしまうと、そういう時に大事なのは、「しょせん他人の話」と割り切って話を聞くことだ。我が事のように感情移入して話を聞いているうちは、防御が甘い。
僕も、研究室に来室した学生から、両親の離婚、実家の経済破綻、自殺未遂といった、深い相談事を受けたことがある。そういう時に僕が気をつけることは、その生徒に対する対応もさることながら、「その後に研究室に来た学生に、そういう深刻な相談を受けたことを悟らせないこと」だ。
いちいち感情移入などしていては、そんなことは不可能だ。プロの教師であるならば、自分をしっかり自分として保った上で、生徒の要求にきちんと応える対応ができなくてはならない。他の学生から顔色を伺われて、相談の内容を悟られるようでは、教師として三流だ。
そういう時には、言い方は冷たいが、「しょせん自分の問題ではない」という「壁」を、しっかり築いておかなくてはならない。心のなかに、高田純次を棲まわせておくことも必要なのだ。
逆説的なようだが、学生対応の基本として「むやみに解決案を提示せず、ひたすら共感してあげること」というのがある。教員志望の学生であれば、カウンセリングに類する授業で必ず習う。ところがこれを、文字通りに受け取ってしまう学生が多い。
はっきり言ってしまうと、本当に必要なのは、「共感してあげている、という姿勢をきちんと見せること」だと思う。「共感してあげる」というのは、「心のレベルで同じ感情を共有すること」ではなく、「頭脳で理解できるというレベルで止める」ことなのだ。具体的には、「こうこうしなさい」ではなく、「わかるよ、つらいね」と言ってあげる、というだけのことに過ぎない。
生徒は、自分の悩みを開示する時点で、かなり教師に信頼を置いている。その信頼を裏切ったり撥ね返したりするような対応は論外だが、親身になればそれでいい、というわけではない。生徒が、自分の心を開示して見せるときの、心理状況をよく理解しておく必要がある。
小泉八雲の怪談に、「雪女」という作品がある。
村に、茂作という老人と巳之吉という若者の、2人の樵が住んでいた。ある冬の日、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寝泊まりすることになる。その夜、寒さに巳之吉が目を覚ますと、白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。女が茂作に白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。女は巳之吉を見つめた後、「おまえも殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと、女は吹雪の中に去っていった。
それから数年経ったある雪の夜、巳之吉は「道に迷ったので泊めてください」という白くほっそりとした美女の来訪を受ける。女はお雪と名乗った。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけ,静かに針仕事をしていたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのだろうか。」
お雪は突然立ち上り、言った。「とうとう話してしまいましたね。私はあのときあなたに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言いました。でも、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしてもあなたのことは殺せません。どうか子供達をよろしくお願いします」
そういい残して、お雪の姿は消え、それきり、お雪の姿を見た者は無かった。
確か小学校の頃、国語の感想文で「女というものは、人間でも幽霊でも、若いイケメンには甘い」などと書き、先生に呼び出された記憶がある。
それはともかく、巳之吉は、なぜ妻に、雪女の話をしてしまったのだろうか。
一般的にこの話は悲哀物語とされているが、僕はこの話に少し違った見方をしている。
自分のなかに秘密を作らず、すべて相手に心のうちをさらけ出す行為を、心理学用語で「自己開示」という。自己開示は、「相手との距離を近づけたい」という、一種の承認欲求の現れと見ることができる。
おそらく巳之吉は、結婚して子供ができながらも、お雪に一定の距離を感じていたのではなかったか。雪の夜にふらっと現れた以外、お雪の過去は何も知らない。お雪のことをもっと知りたい、お雪との距離を縮めたい。そういう巳之吉の欲求が、「自分のことの包み隠さず話す」という行為につながったのだと思う。
巳之吉が最大の秘密をお雪に打ち明けたのは、そういう親密感への渇望と、愛情が表れたものだろう。だから、巳之吉が雪女のことを話してしまった瞬間が、はじめてふたりが心の底から通じ合った瞬間なのではなかったか。おそらく、話した巳之吉も、聞いたお雪も、あの瞬間だけが、ふたりの心が通い合い、心の奥底深くを共有していた時間だったのだと思う。
小泉八雲の他の作品を調べると、外国人の八雲は、そのへんに日本の「情愛」のかたちを見て取った気がする。
これによく似た話は、旧約聖書にもある。
「士師記」に登場するサムソンは、怪力の偉丈夫。自慢の腕力で、敵対する勢力をなぎ倒す豪傑だった。ところがサムソンには弱点があり、髪を切ると力が出なくなってしまう。
サムソンに手を焼いていた相手方のペリシテ人は、色仕掛けでサムソンを倒そうと、美女デリラを送り込む。サムソンは、デリラが敵の手の者であることを悟っていながら、寝物語のうちに髪の秘密を打ち明けてしまう。デリラはすぐにこの秘密をペリシテ人に報告し、サムソンの髪を切る。無力化したサムソンは遭えなくペリシテ人の捕虜となり、目を抉られて牢につながれ、粉を挽かされることになる。
まぁ旧約聖書だから、最後は髪が伸びたサムソンが力を取り戻し、ペリシテ人に復讐して皆殺しにし「イスラエルに正義あり」のような終わり方になっている。
問題は、ここでもなぜサムソンが、敵と分かっているデリラにみすみす弱点を話してしまったのか、だ。
これも、自己開示による承認欲求のなせる業だろう。敵であるデリラに惚れてしまったサムソンは、その距離を縮めようと、自分の秘密を開示してしまった。デリラに、もっと自分の側に近づいてもらいたかったのだと思う。
名著『旧約聖書を知っていますか』を書いた阿刀田高氏は、「なぜサムソンは、デリラに秘密を打ち明けてしまったのか。分からない人は、まだ女性についての苦労が足りない人である。この方面に月謝の出し足りない人である」と断じている。的確な評だと思う。
雪女でも旧約聖書でも、共通していることは「自己開示には、それ相応の代償が伴う」ということだ。自己のすべてをさらけ出し、相手に自分のすべてを知ってもらうことは、気分がいい。しかしその行為は、相手を盲目的に信頼することが前提であり、相手にそれを受け止めることを強要する行為でもあるのだ。結婚してから、夫なり妻なりに、過去の恋愛遍歴を延々と話すような無邪気な自己開示は、単なる自分勝手だ。相手を思いやればこそ、自分の中に「壁」を作っておくことも、時には必要なのだ。
中・高生の段階では、その「壁」が、自分でまだうまく作れない。だから「全部隠す」か「全部話す」か、極端な態度になりがちだ。
だから教師の側が、「受け止め方」を技術として知っておかなくてはならない。なんでもかんでも心の奥底で共感してしまうような教師は、「いい人」ではあるのかもしれないが、「有能な教師」ではない。
教師というのは野球の捕手のようなもので、相談相手の投手がどんな荒れ球を投げようが、どんなスピードボールを投げようが、平然と受け止めなくてはならない。大切なのは、どんな時でもしっかり球を捕り、どんな投手の球でも変わらず同じように球を受けることなのだ。投手が肩を壊したら、おつきあいして一緒に肩を壊すことが、「いい捕手」ではない。
学生の相談を受けるときに、「むやみに解決案を提示せず、ひたすら共感してあげること」という技術を知っている人は多が、「なぜそうしなければならないのか」を知らない人は多い。
自己開示をするということは、生徒は全面的に教師を信頼している。つまり生徒は、教師に「味方になってほしい」のだ。頼れる人がいなくなり、自分を支えてくれる人が必要なのだ。だから「私はあなたの側にいるよ」ということを、態度と言葉で示してあげる必要がある。
改善案を提言するということは、要するに「今のままではあなたはダメだ」ということだ。少なくとも、精神力の消耗した生徒には、そう聞こえる。それは「味方」に与する立場ではなく、心情的に「そっち側の人」「敵」という対立関係を作ってしまう。
生徒はまだ精神的に未熟だから、結婚した夫婦が過去の恋愛遍歴をさらけ出すような、見当違いの自己開示だって平気でしてくる。そういう時には、「そんなことを聞かされて、私にどうしろって言うの」などと困惑せず、「ああ、この生徒は、私に『味方』になってほしいんだな」と思えばよろしい。そして、その渇望を受け止め、言葉にして手渡してあげれば、それでいい。
そういう対処は、「生徒は生徒、私は私」という、割り切った客観視が根幹になければ不可能だ。一般的に言われている「共感する」という相談作法は、そこのところの誤解が大きいと思う。必要なのは、心理的にべったり寄り添った「馴れ合い」などではなく、澄み切った感性で割り切った「対処」だろう。
真面目で熱血漢の教員志望の学生を見るたびに、「この子、こんなんで30年以上も勤め上げられるのだろうか」と心配になることがある。教師は、いわば生徒の生の魂を、素手で受け止めるのが仕事だから、自分の魂がすり減っていたら勤まらない。そういう「自衛」の手段を持たないような単純馬鹿は、プロとしての教師には不向きだと思う。
この時期になると、教採受験を控えている学生や卒業生から、面接のための相談を受けることが多い。
将来の進路として教師を志す学生は後を絶たない。子供の数は減っているのだから、需要と供給のバランスを考えれば、教師というのは「競合が激しい一般企業」のようなものだ。それでも学生というのは、そういう「なりやすさ」など考えず、自らの夢と希望と理想のために、教師を目指すものらしい。
ご苦労なことだ。僕は教師なんて真っ平だから、初等・中等教育を志す学生を見ると、心から頭が下がる。大学で教えておいてこんなことを言うのも何だが、僕は生徒ひとりの発育過程において、その価値観や人生観に影響を及ぼしうる存在など、ご免被る。そこまで人の人生に責任を取れない。
さらに、僕は教員採用試験を受けたことがない。教師として初等・中等教育の現場に立ったこともない。そういう僕に、学生は教員採用試験の面接のための相談をしてくる訳だ。相談する人を間違えているとしか思えない。
そういう教採受験生から、面接のためのQ&Aの対策のような相談をされるのだが、その中に定番の質問として「生徒に個人的に相談をされた時の心構え」というのがある。
教師であれば、生活環境が恵まれていない生徒、精神的に疾患を抱えている生徒から、打ち明け話に近い相談を受けることがある。そういう時に、どういう心構えで話を聞いてあげるべきか。出題の仕方は様々だが、意図としてはざっくり「どういう心構えで生徒に接しますか」という根っこを訊いてくる問題だ。
教師を目指す学生というのは、おおむね真面目で良い子で理想主義だから、「生徒の立場になって、親身になって話を聞き、共感してあげることが大事だと思います」のような回答を考えることが多い。
アホか、と思う。
実際の教採試験の面接で、何が「正解」とされているのかは知らない。しかし僕の実感を正直に言うと、実際の学校現場で、生徒の相談事にいちいち「生徒の立場になって共感」などしていたら、仕事にならない。
そういう理想的な態度で生徒に接している教師の成れの果てが、いま問題になっている「職場放棄」「学級崩壊」などを引き起こす、いわゆる「問題教師」の原因だと思う。問題教師というのは、絶対的な能力が不足しているケースもあろうが、それだけがすべてではないと思う。むしろ、能力的には高いが、教師としての自分の律し方を見失って、自己崩壊に陥っているケースのほうが多いのではないかと、僕は睨んでいる。
教師というのは、生徒に相談事を持ちかけられた場合でも、その単位時間が終了したらすぐに日常業務に戻らなくてはならない。親の離婚、いじめ、鬱症状などの相談を受けたとしても、その生徒と話す時間が終わったら、試験の採点やら会議やらの業務をこなさなくてはならない。生徒の深刻な問題に「共感」しすぎて、精神的に落ち込んだ状態では、教師の仕事は勤まらない。
人は、たとえ他人の話でも暗い話題を聞き続けると、話し手の精神状態までうつってしまう。一般に「もらい鬱」と言われる症状だ。性犯罪に遭った女性被害者の調書をとっているうちに、女性警官がその性犯罪を「仮想体験」してしまい、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥ってしまうケースがある。それと同様に、生徒の深刻な相談事を、自分の精神状態にトレースしてしまい、教師まで鬱になってしまうことがある。
ばっさり斬ってしまうのは酷なことは重々承知しているが、要は技量が未熟なのだ。自分の精神状態を一定に保つことができないのなら、他人の相談にのる資格など無い。
教師を目指す学生であれば、学生の相談を聞く時に「いいかげんに聞いて適当な返事をしよう」としている者はいない。みんな真面目に取り組もうとするはずだ。教師は生徒から相談事をされると、「なんとかして自分がその問題を解決してあげなきゃ」と、正義の味方になり切ってしまうことが多い。
そういう真面目さが、要らぬ感情移入を引き起こし、挙句は自分の心が振り回される。真の問題点は、能力がないくせに真面目に取り組もうとして、自分の精神状態を崩してしまうことにある。技量が、信念に追いついていないのだ。
誤解を招く恐れはあるがはっきり言ってしまうと、そういう時に大事なのは、「しょせん他人の話」と割り切って話を聞くことだ。我が事のように感情移入して話を聞いているうちは、防御が甘い。
僕も、研究室に来室した学生から、両親の離婚、実家の経済破綻、自殺未遂といった、深い相談事を受けたことがある。そういう時に僕が気をつけることは、その生徒に対する対応もさることながら、「その後に研究室に来た学生に、そういう深刻な相談を受けたことを悟らせないこと」だ。
いちいち感情移入などしていては、そんなことは不可能だ。プロの教師であるならば、自分をしっかり自分として保った上で、生徒の要求にきちんと応える対応ができなくてはならない。他の学生から顔色を伺われて、相談の内容を悟られるようでは、教師として三流だ。
そういう時には、言い方は冷たいが、「しょせん自分の問題ではない」という「壁」を、しっかり築いておかなくてはならない。心のなかに、高田純次を棲まわせておくことも必要なのだ。
逆説的なようだが、学生対応の基本として「むやみに解決案を提示せず、ひたすら共感してあげること」というのがある。教員志望の学生であれば、カウンセリングに類する授業で必ず習う。ところがこれを、文字通りに受け取ってしまう学生が多い。
はっきり言ってしまうと、本当に必要なのは、「共感してあげている、という姿勢をきちんと見せること」だと思う。「共感してあげる」というのは、「心のレベルで同じ感情を共有すること」ではなく、「頭脳で理解できるというレベルで止める」ことなのだ。具体的には、「こうこうしなさい」ではなく、「わかるよ、つらいね」と言ってあげる、というだけのことに過ぎない。
生徒は、自分の悩みを開示する時点で、かなり教師に信頼を置いている。その信頼を裏切ったり撥ね返したりするような対応は論外だが、親身になればそれでいい、というわけではない。生徒が、自分の心を開示して見せるときの、心理状況をよく理解しておく必要がある。
小泉八雲の怪談に、「雪女」という作品がある。
村に、茂作という老人と巳之吉という若者の、2人の樵が住んでいた。ある冬の日、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寝泊まりすることになる。その夜、寒さに巳之吉が目を覚ますと、白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。女が茂作に白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。女は巳之吉を見つめた後、「おまえも殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと、女は吹雪の中に去っていった。
それから数年経ったある雪の夜、巳之吉は「道に迷ったので泊めてください」という白くほっそりとした美女の来訪を受ける。女はお雪と名乗った。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけ,静かに針仕事をしていたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのだろうか。」
お雪は突然立ち上り、言った。「とうとう話してしまいましたね。私はあのときあなたに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言いました。でも、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしてもあなたのことは殺せません。どうか子供達をよろしくお願いします」
そういい残して、お雪の姿は消え、それきり、お雪の姿を見た者は無かった。
確か小学校の頃、国語の感想文で「女というものは、人間でも幽霊でも、若いイケメンには甘い」などと書き、先生に呼び出された記憶がある。
それはともかく、巳之吉は、なぜ妻に、雪女の話をしてしまったのだろうか。
一般的にこの話は悲哀物語とされているが、僕はこの話に少し違った見方をしている。
自分のなかに秘密を作らず、すべて相手に心のうちをさらけ出す行為を、心理学用語で「自己開示」という。自己開示は、「相手との距離を近づけたい」という、一種の承認欲求の現れと見ることができる。
おそらく巳之吉は、結婚して子供ができながらも、お雪に一定の距離を感じていたのではなかったか。雪の夜にふらっと現れた以外、お雪の過去は何も知らない。お雪のことをもっと知りたい、お雪との距離を縮めたい。そういう巳之吉の欲求が、「自分のことの包み隠さず話す」という行為につながったのだと思う。
巳之吉が最大の秘密をお雪に打ち明けたのは、そういう親密感への渇望と、愛情が表れたものだろう。だから、巳之吉が雪女のことを話してしまった瞬間が、はじめてふたりが心の底から通じ合った瞬間なのではなかったか。おそらく、話した巳之吉も、聞いたお雪も、あの瞬間だけが、ふたりの心が通い合い、心の奥底深くを共有していた時間だったのだと思う。
小泉八雲の他の作品を調べると、外国人の八雲は、そのへんに日本の「情愛」のかたちを見て取った気がする。
これによく似た話は、旧約聖書にもある。
「士師記」に登場するサムソンは、怪力の偉丈夫。自慢の腕力で、敵対する勢力をなぎ倒す豪傑だった。ところがサムソンには弱点があり、髪を切ると力が出なくなってしまう。
サムソンに手を焼いていた相手方のペリシテ人は、色仕掛けでサムソンを倒そうと、美女デリラを送り込む。サムソンは、デリラが敵の手の者であることを悟っていながら、寝物語のうちに髪の秘密を打ち明けてしまう。デリラはすぐにこの秘密をペリシテ人に報告し、サムソンの髪を切る。無力化したサムソンは遭えなくペリシテ人の捕虜となり、目を抉られて牢につながれ、粉を挽かされることになる。
まぁ旧約聖書だから、最後は髪が伸びたサムソンが力を取り戻し、ペリシテ人に復讐して皆殺しにし「イスラエルに正義あり」のような終わり方になっている。
問題は、ここでもなぜサムソンが、敵と分かっているデリラにみすみす弱点を話してしまったのか、だ。
これも、自己開示による承認欲求のなせる業だろう。敵であるデリラに惚れてしまったサムソンは、その距離を縮めようと、自分の秘密を開示してしまった。デリラに、もっと自分の側に近づいてもらいたかったのだと思う。
名著『旧約聖書を知っていますか』を書いた阿刀田高氏は、「なぜサムソンは、デリラに秘密を打ち明けてしまったのか。分からない人は、まだ女性についての苦労が足りない人である。この方面に月謝の出し足りない人である」と断じている。的確な評だと思う。
雪女でも旧約聖書でも、共通していることは「自己開示には、それ相応の代償が伴う」ということだ。自己のすべてをさらけ出し、相手に自分のすべてを知ってもらうことは、気分がいい。しかしその行為は、相手を盲目的に信頼することが前提であり、相手にそれを受け止めることを強要する行為でもあるのだ。結婚してから、夫なり妻なりに、過去の恋愛遍歴を延々と話すような無邪気な自己開示は、単なる自分勝手だ。相手を思いやればこそ、自分の中に「壁」を作っておくことも、時には必要なのだ。
中・高生の段階では、その「壁」が、自分でまだうまく作れない。だから「全部隠す」か「全部話す」か、極端な態度になりがちだ。
だから教師の側が、「受け止め方」を技術として知っておかなくてはならない。なんでもかんでも心の奥底で共感してしまうような教師は、「いい人」ではあるのかもしれないが、「有能な教師」ではない。
教師というのは野球の捕手のようなもので、相談相手の投手がどんな荒れ球を投げようが、どんなスピードボールを投げようが、平然と受け止めなくてはならない。大切なのは、どんな時でもしっかり球を捕り、どんな投手の球でも変わらず同じように球を受けることなのだ。投手が肩を壊したら、おつきあいして一緒に肩を壊すことが、「いい捕手」ではない。
学生の相談を受けるときに、「むやみに解決案を提示せず、ひたすら共感してあげること」という技術を知っている人は多が、「なぜそうしなければならないのか」を知らない人は多い。
自己開示をするということは、生徒は全面的に教師を信頼している。つまり生徒は、教師に「味方になってほしい」のだ。頼れる人がいなくなり、自分を支えてくれる人が必要なのだ。だから「私はあなたの側にいるよ」ということを、態度と言葉で示してあげる必要がある。
改善案を提言するということは、要するに「今のままではあなたはダメだ」ということだ。少なくとも、精神力の消耗した生徒には、そう聞こえる。それは「味方」に与する立場ではなく、心情的に「そっち側の人」「敵」という対立関係を作ってしまう。
生徒はまだ精神的に未熟だから、結婚した夫婦が過去の恋愛遍歴をさらけ出すような、見当違いの自己開示だって平気でしてくる。そういう時には、「そんなことを聞かされて、私にどうしろって言うの」などと困惑せず、「ああ、この生徒は、私に『味方』になってほしいんだな」と思えばよろしい。そして、その渇望を受け止め、言葉にして手渡してあげれば、それでいい。
そういう対処は、「生徒は生徒、私は私」という、割り切った客観視が根幹になければ不可能だ。一般的に言われている「共感する」という相談作法は、そこのところの誤解が大きいと思う。必要なのは、心理的にべったり寄り添った「馴れ合い」などではなく、澄み切った感性で割り切った「対処」だろう。
真面目で熱血漢の教員志望の学生を見るたびに、「この子、こんなんで30年以上も勤め上げられるのだろうか」と心配になることがある。教師は、いわば生徒の生の魂を、素手で受け止めるのが仕事だから、自分の魂がすり減っていたら勤まらない。そういう「自衛」の手段を持たないような単純馬鹿は、プロとしての教師には不向きだと思う。
教採の面接でそう答えたら受かるかどうかは知らん。