たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

2015年06月

自己開示のリスク

今年も夏が近づき、教員採用試験の時期が近づいてきた。
この時期になると、教採受験を控えている学生や卒業生から、面接のための相談を受けることが多い。

将来の進路として教師を志す学生は後を絶たない。子供の数は減っているのだから、需要と供給のバランスを考えれば、教師というのは「競合が激しい一般企業」のようなものだ。それでも学生というのは、そういう「なりやすさ」など考えず、自らの夢と希望と理想のために、教師を目指すものらしい。

ご苦労なことだ。僕は教師なんて真っ平だから、初等・中等教育を志す学生を見ると、心から頭が下がる。大学で教えておいてこんなことを言うのも何だが、僕は生徒ひとりの発育過程において、その価値観や人生観に影響を及ぼしうる存在など、ご免被る。そこまで人の人生に責任を取れない。
さらに、僕は教員採用試験を受けたことがない。教師として初等・中等教育の現場に立ったこともない。そういう僕に、学生は教員採用試験の面接のための相談をしてくる訳だ。相談する人を間違えているとしか思えない。

そういう教採受験生から、面接のためのQ&Aの対策のような相談をされるのだが、その中に定番の質問として「生徒に個人的に相談をされた時の心構え」というのがある。
教師であれば、生活環境が恵まれていない生徒、精神的に疾患を抱えている生徒から、打ち明け話に近い相談を受けることがある。そういう時に、どういう心構えで話を聞いてあげるべきか。出題の仕方は様々だが、意図としてはざっくり「どういう心構えで生徒に接しますか」という根っこを訊いてくる問題だ。

教師を目指す学生というのは、おおむね真面目で良い子で理想主義だから、「生徒の立場になって、親身になって話を聞き、共感してあげることが大事だと思います」のような回答を考えることが多い。


アホか、と思う。


実際の教採試験の面接で、何が「正解」とされているのかは知らない。しかし僕の実感を正直に言うと、実際の学校現場で、生徒の相談事にいちいち「生徒の立場になって共感」などしていたら、仕事にならない。

そういう理想的な態度で生徒に接している教師の成れの果てが、いま問題になっている「職場放棄」「学級崩壊」などを引き起こす、いわゆる「問題教師」の原因だと思う。問題教師というのは、絶対的な能力が不足しているケースもあろうが、それだけがすべてではないと思う。むしろ、能力的には高いが、教師としての自分の律し方を見失って、自己崩壊に陥っているケースのほうが多いのではないかと、僕は睨んでいる。

教師というのは、生徒に相談事を持ちかけられた場合でも、その単位時間が終了したらすぐに日常業務に戻らなくてはならない。親の離婚、いじめ、鬱症状などの相談を受けたとしても、その生徒と話す時間が終わったら、試験の採点やら会議やらの業務をこなさなくてはならない。生徒の深刻な問題に「共感」しすぎて、精神的に落ち込んだ状態では、教師の仕事は勤まらない。

人は、たとえ他人の話でも暗い話題を聞き続けると、話し手の精神状態までうつってしまう。一般に「もらい鬱」と言われる症状だ。性犯罪に遭った女性被害者の調書をとっているうちに、女性警官がその性犯罪を「仮想体験」してしまい、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥ってしまうケースがある。それと同様に、生徒の深刻な相談事を、自分の精神状態にトレースしてしまい、教師まで鬱になってしまうことがある。

ばっさり斬ってしまうのは酷なことは重々承知しているが、要は技量が未熟なのだ。自分の精神状態を一定に保つことができないのなら、他人の相談にのる資格など無い。
教師を目指す学生であれば、学生の相談を聞く時に「いいかげんに聞いて適当な返事をしよう」としている者はいない。みんな真面目に取り組もうとするはずだ。教師は生徒から相談事をされると、「なんとかして自分がその問題を解決してあげなきゃ」と、正義の味方になり切ってしまうことが多い。

そういう真面目さが、要らぬ感情移入を引き起こし、挙句は自分の心が振り回される。真の問題点は、能力がないくせに真面目に取り組もうとして、自分の精神状態を崩してしまうことにある。技量が、信念に追いついていないのだ。

誤解を招く恐れはあるがはっきり言ってしまうと、そういう時に大事なのは、「しょせん他人の話」と割り切って話を聞くことだ。我が事のように感情移入して話を聞いているうちは、防御が甘い。
僕も、研究室に来室した学生から、両親の離婚、実家の経済破綻、自殺未遂といった、深い相談事を受けたことがある。そういう時に僕が気をつけることは、その生徒に対する対応もさることながら、「その後に研究室に来た学生に、そういう深刻な相談を受けたことを悟らせないこと」だ。

いちいち感情移入などしていては、そんなことは不可能だ。プロの教師であるならば、自分をしっかり自分として保った上で、生徒の要求にきちんと応える対応ができなくてはならない。他の学生から顔色を伺われて、相談の内容を悟られるようでは、教師として三流だ。
そういう時には、言い方は冷たいが、「しょせん自分の問題ではない」という「壁」を、しっかり築いておかなくてはならない。心のなかに、高田純次を棲まわせておくことも必要なのだ。

逆説的なようだが、学生対応の基本として「むやみに解決案を提示せず、ひたすら共感してあげること」というのがある。教員志望の学生であれば、カウンセリングに類する授業で必ず習う。ところがこれを、文字通りに受け取ってしまう学生が多い。
はっきり言ってしまうと、本当に必要なのは、「共感してあげている、という姿勢をきちんと見せること」だと思う。「共感してあげる」というのは、「心のレベルで同じ感情を共有すること」ではなく、「頭脳で理解できるというレベルで止める」ことなのだ。具体的には、「こうこうしなさい」ではなく、「わかるよ、つらいね」と言ってあげる、というだけのことに過ぎない。

生徒は、自分の悩みを開示する時点で、かなり教師に信頼を置いている。その信頼を裏切ったり撥ね返したりするような対応は論外だが、親身になればそれでいい、というわけではない。生徒が、自分の心を開示して見せるときの、心理状況をよく理解しておく必要がある。


小泉八雲の怪談に、「雪女」という作品がある。
村に、茂作という老人と巳之吉という若者の、2人の樵が住んでいた。ある冬の日、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寝泊まりすることになる。その夜、寒さに巳之吉が目を覚ますと、白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。女が茂作に白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。女は巳之吉を見つめた後、「おまえも殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと、女は吹雪の中に去っていった。
それから数年経ったある雪の夜、巳之吉は「道に迷ったので泊めてください」という白くほっそりとした美女の来訪を受ける。女はお雪と名乗った。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけ,静かに針仕事をしていたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのだろうか。」
お雪は突然立ち上り、言った。「とうとう話してしまいましたね。私はあのときあなたに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言いました。でも、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしてもあなたのことは殺せません。どうか子供達をよろしくお願いします」
そういい残して、お雪の姿は消え、それきり、お雪の姿を見た者は無かった。


確か小学校の頃、国語の感想文で「女というものは、人間でも幽霊でも、若いイケメンには甘い」などと書き、先生に呼び出された記憶がある。
それはともかく、巳之吉は、なぜ妻に、雪女の話をしてしまったのだろうか。

一般的にこの話は悲哀物語とされているが、僕はこの話に少し違った見方をしている。
自分のなかに秘密を作らず、すべて相手に心のうちをさらけ出す行為を、心理学用語で「自己開示」という。自己開示は、「相手との距離を近づけたい」という、一種の承認欲求の現れと見ることができる。

おそらく巳之吉は、結婚して子供ができながらも、お雪に一定の距離を感じていたのではなかったか。雪の夜にふらっと現れた以外、お雪の過去は何も知らない。お雪のことをもっと知りたい、お雪との距離を縮めたい。そういう巳之吉の欲求が、「自分のことの包み隠さず話す」という行為につながったのだと思う。

巳之吉が最大の秘密をお雪に打ち明けたのは、そういう親密感への渇望と、愛情が表れたものだろう。だから、巳之吉が雪女のことを話してしまった瞬間が、はじめてふたりが心の底から通じ合った瞬間なのではなかったか。おそらく、話した巳之吉も、聞いたお雪も、あの瞬間だけが、ふたりの心が通い合い、心の奥底深くを共有していた時間だったのだと思う。
小泉八雲の他の作品を調べると、外国人の八雲は、そのへんに日本の「情愛」のかたちを見て取った気がする。

これによく似た話は、旧約聖書にもある。
「士師記」に登場するサムソンは、怪力の偉丈夫。自慢の腕力で、敵対する勢力をなぎ倒す豪傑だった。ところがサムソンには弱点があり、髪を切ると力が出なくなってしまう。
サムソンに手を焼いていた相手方のペリシテ人は、色仕掛けでサムソンを倒そうと、美女デリラを送り込む。サムソンは、デリラが敵の手の者であることを悟っていながら、寝物語のうちに髪の秘密を打ち明けてしまう。デリラはすぐにこの秘密をペリシテ人に報告し、サムソンの髪を切る。無力化したサムソンは遭えなくペリシテ人の捕虜となり、目を抉られて牢につながれ、粉を挽かされることになる。

まぁ旧約聖書だから、最後は髪が伸びたサムソンが力を取り戻し、ペリシテ人に復讐して皆殺しにし「イスラエルに正義あり」のような終わり方になっている。
問題は、ここでもなぜサムソンが、敵と分かっているデリラにみすみす弱点を話してしまったのか、だ。

これも、自己開示による承認欲求のなせる業だろう。敵であるデリラに惚れてしまったサムソンは、その距離を縮めようと、自分の秘密を開示してしまった。デリラに、もっと自分の側に近づいてもらいたかったのだと思う。
名著『旧約聖書を知っていますか』を書いた阿刀田高氏は、「なぜサムソンは、デリラに秘密を打ち明けてしまったのか。分からない人は、まだ女性についての苦労が足りない人である。この方面に月謝の出し足りない人である」と断じている。的確な評だと思う。

雪女でも旧約聖書でも、共通していることは「自己開示には、それ相応の代償が伴う」ということだ。自己のすべてをさらけ出し、相手に自分のすべてを知ってもらうことは、気分がいい。しかしその行為は、相手を盲目的に信頼することが前提であり、相手にそれを受け止めることを強要する行為でもあるのだ。結婚してから、夫なり妻なりに、過去の恋愛遍歴を延々と話すような無邪気な自己開示は、単なる自分勝手だ。相手を思いやればこそ、自分の中に「壁」を作っておくことも、時には必要なのだ。

中・高生の段階では、その「壁」が、自分でまだうまく作れない。だから「全部隠す」か「全部話す」か、極端な態度になりがちだ。
だから教師の側が、「受け止め方」を技術として知っておかなくてはならない。なんでもかんでも心の奥底で共感してしまうような教師は、「いい人」ではあるのかもしれないが、「有能な教師」ではない。

教師というのは野球の捕手のようなもので、相談相手の投手がどんな荒れ球を投げようが、どんなスピードボールを投げようが、平然と受け止めなくてはならない。大切なのは、どんな時でもしっかり球を捕り、どんな投手の球でも変わらず同じように球を受けることなのだ。投手が肩を壊したら、おつきあいして一緒に肩を壊すことが、「いい捕手」ではない。

学生の相談を受けるときに、「むやみに解決案を提示せず、ひたすら共感してあげること」という技術を知っている人は多が、「なぜそうしなければならないのか」を知らない人は多い。
自己開示をするということは、生徒は全面的に教師を信頼している。つまり生徒は、教師に「味方になってほしい」のだ。頼れる人がいなくなり、自分を支えてくれる人が必要なのだ。だから「私はあなたの側にいるよ」ということを、態度と言葉で示してあげる必要がある。

改善案を提言するということは、要するに「今のままではあなたはダメだ」ということだ。少なくとも、精神力の消耗した生徒には、そう聞こえる。それは「味方」に与する立場ではなく、心情的に「そっち側の人」「敵」という対立関係を作ってしまう。

生徒はまだ精神的に未熟だから、結婚した夫婦が過去の恋愛遍歴をさらけ出すような、見当違いの自己開示だって平気でしてくる。そういう時には、「そんなことを聞かされて、私にどうしろって言うの」などと困惑せず、「ああ、この生徒は、私に『味方』になってほしいんだな」と思えばよろしい。そして、その渇望を受け止め、言葉にして手渡してあげれば、それでいい。

そういう対処は、「生徒は生徒、私は私」という、割り切った客観視が根幹になければ不可能だ。一般的に言われている「共感する」という相談作法は、そこのところの誤解が大きいと思う。必要なのは、心理的にべったり寄り添った「馴れ合い」などではなく、澄み切った感性で割り切った「対処」だろう。


真面目で熱血漢の教員志望の学生を見るたびに、「この子、こんなんで30年以上も勤め上げられるのだろうか」と心配になることがある。教師は、いわば生徒の生の魂を、素手で受け止めるのが仕事だから、自分の魂がすり減っていたら勤まらない。そういう「自衛」の手段を持たないような単純馬鹿は、プロとしての教師には不向きだと思う。



教採の面接でそう答えたら受かるかどうかは知らん。

絞り込みと力技

3以上9999以下の奇数aで、a2-a が10000で割り切れるものを全て求めよ
(東京大学)


解答の筋道はそれほど難しくない。最悪、3から9999までをすべて根性で試してみれば、いつかは解けるだろう。
「そういう真面目な根性論を振りかざすような姿勢は、学問には適さない」という、東大の姿勢を表すような問題。東大はたまにこういう問題を出す。

a2-a = a(a-1) なのだから、これは連続する2数の積になる。
aが奇数なのだから、当然、a-1 は偶数になる。

10000を因数分解してみると、24×54
aは奇数なので、24を因数に含むことはできない。よって、a-1のほうが24を因数にもつ。

では54を因数に含むのは、aなのかa-1なのか。
もしa-1が54を因数に含むとしたら、a-1=24×54×k (kは自然数)となり、これは10000kのことなので、aが9999を超えてしまう。
よって、aのほうが54を因数にもつ。

まとめると、
a = 54m = 625m
a-1 = 24n  (m, nはともに自然数、かつmは奇数)
ということになる。

3 ≤ a = 625m ≤ 9999 より、
3/625 ≤ m ≤ 9999/625
0.0048 ≤ m ≤ 15.9984
つまりmは、1, 3, 5, 7, 9, 11, 13, 15 のいずれかの数になる。


ここまではいい。数学的な能力をなにひとつ使うことのない単純作業といえる。
問題はここから先の手順で、ここに東大の入試の意図が隠れているような気がする。


最終候補となる数が8個に絞られたのだから、ここから先は実験してもいいと思う。3から9999までの数をすべて実験するよりは評価は高かろう。
実際に、試験場での受験生は、ここまで詰めたら、あとはひとつひとつ試して答えを出したと思う。

しかし、そもそもの出題の意図が「単純な実験では到底答えが出そうにない問題」に対する姿勢を見るものである以上、最後の詰めになって力技に頼るのは、なんか出題者に負けたような気がする。入試である以上、最優先するのは正答を出すことなのだろうが、入試を通して大学側が見ようとしている資質の見当がついている以上、その問いを正面から打ち返すのが筋ではないか、という気がする。

僕が今回、この問題を取り上げたのは、ここから先の手順が高校数学の範囲では扱いにくいからだ。
「高校数学の範囲を逸脱した問題」とは言わない。因数分解だけで候補を絞って、後は実験、という手順でも正解は出るし、その解法ではさしたる時間も取らない。10分もあれば解ける問題だろう。

しかし、現実の世界では、この問題における「3から9999までの間で」という条件が、ないことのほうが多い。これがもし、99999999999までの数字を範囲にしている問題だったら、どうするのか。範囲のない無制限な可能性を考えなくてはいけない状況だったら、どうするのか。

数学は高校の履修課程の中で、唯一、演繹法の演習を行う科目だ。経験によって積み重ねた一般化よりも、きちんと公理が与えられた学問体系で、限られた道具を使いこなす能力が問われる。
その数学の入試問題で、最後の最後に力技に頼るような問題を、東京大学が出題するとは思えない。ここは数学の王道に従って、最後まで条件を絞り込む演算を行ったほうが、汎用性が高いだろう。

高校時代に数学をさぼっていた僕は、高校数学の範囲でこれ以降の条件を絞り込む方法を知らない。赤本や参考書などにはそれらしい答えが載っているのだろうが、僕がこの問題を解くのであれば、高校数学の範囲には入っていない「合同式」を使う。

合同式というのは、割り算の、商ではなく「余り」に注目する演算の方法だ。例えば、5で割った余りを扱うときは、mod 5 と書く。「6は、5で割ると1余る」というのは、合同式では

6 ≡ 1 (mod 5)

と書く。

先ほどの問題に戻ると、a = 625mより、
a-1 = 625m-1 = 16n となる。
つまり、625m-1 が16を因数としてもつときのmの値を求めろ、という問題になる。
これを合同式で記述すると、

625m-1 ≡0 (mod 16) ・・・(1)

となる。
625を16で割ると、余りは1なので、

625 ≡ 1 (mod 16) ・・・(2)

(2)を(1)に代入すると、

m-1 ≡ 0 (mod 16)
m ≡ 1 (mod 16)

となる。つまり、求めるmは、「16で割って余りが1」になる数である。
先ほど、mとなる数の候補は、1, 3, 5, 7, 9, 11, 13, 15 であると求めた。この中で「16で割って1余る数」は、1のみ。
よって、m=1。
a=625m より、求める数aは、625 ひとつだけ。(答)


「力技に頼って実験で答えを導くことの否定」を受ける体裁にしておいて、高校数学の範囲で解けなかったのだから、僕としては「引き分け」という感じの問題だ。
実際のところ、この解法は実際の入試では減点されるのだろうか。

過去の入試問題でも、「不適切な出題」とされているのは、「高校の履修範囲から逸脱した問題」であることが多い。受験生の間でも「高校で習っていない解法を使うと減点される」という「常識」があるような気がする。
僕も入試問題の作問に関わったことがあるが、「高校の学習範囲内に収める」ことに関しては、入試管理委員会が非常に厳しくチェックする。なんでも、そういうことに関して頻繁にクレームをつけてくる人がいるのだそうだ。別に予備校関係者というわけではなく、普通の一般の人で、そういうことに固執する人がいるらしい。

しかし実際のところ、試験問題を作る大学の先生というのは、それほど厳密に高校の履修範囲を知らない。大学の先生というのは教育者ではなく学者なので、制限のかかった学習指導要領など知ったこっちゃない、という人が多い。
また大学受験をする人というのは、高校生ばかりではない。大検合格者や一般社会人など、高校生以外の人も受験する。そういう人たちに「これは高校で習っていない範囲なので」と解答に制限を設けることが、学問研究機関への登竜門として適切な姿勢だとは思わない。

今回の問題でも、別に合同式を使ったところで、減点はされないと思う。数学なんていうものは、要するに「できる限り楽をする答案」が、優れた答案であることが多い。ちょっと難しい問題になるとすぐに思考を停止して力技に頼るような人は、学問には向かない。

自然科学系の分野では実験による試行錯誤が不可欠で、実際に世の中ではそっちの姿勢のほうが重要であることのほうが多い。誤差や個別の特殊性を切り捨てる判断力も必要だろう。
しかし、その対極ともいえる「決まった規則だけから、一定のルールに従って、結論を出す」という、理想化された状況化での思考能力を鍛えることができるのは、高校までの教科では数学だけなのだ。その数学の入試問題で、すぐに実験からの一般化に走るような姿勢からは、「なぜ学校で数学を学ぶのか」ということを全く理解していない、ということをさらけ出すような答案しか生まれないと思う。



あるいは「そんなこと一回も考えたことない」ような答案。

とある文学談義

「だから、訳の分からない作家の書く文章を咀嚼する能力が無いのよ」

んー、例えば?萩原朔太郎とか?

「あら、朔太郎は訳分かるじゃない」

そうかなぁ。俺は全然分からなかったぞ。

「そう?」

うん、萩原朔太郎と中原中也だけは全然分からん。

「あら何言ってるの。中也は世の女性の憧れよ」

中二病をこじらせたようにしか読めんのだが。

「ああいう、繊細で、線の細い、破滅的な感じがイイのよ」

太宰とか?

「太宰ねぇ。あなたはどう?」

んー、人格的にはどうかと思うけど、書く文章は認めざるを得ない、って感じかな。

「そうねぇ。心中して未遂に終わった上に、相手だけ死んで自分は生き残ってるもんね」

まだ三島由紀夫のほうが心情的に分からんではない。

「あなた基本的に体育会系だもんねぇ」

まぁ、最期は変な方に向かっちゃったけどね

「そうねぇ。文章が凄いだけに、もったいなかったわね」

じゃあさ、三島と太宰だったら、どっちなの?

「断然、太宰よ。」

えー、そうなの?あんなダメ男でも?

「女はそういうダメンズに惹かれることがあるのよ」

そうなの?

「そうよ」

なんで女ってのはああいうダメな男にひっかかるのかねぇ

「それは、ほら、つい。」

・・・つい?

「つい。」



一言で片すな。

ブラックバイト

ブラックバイト 苦しむ学生放置できぬ
(2015年06月14日 毎日新聞社説)


若年世代に縁のない人にとっては、「何の話だ」という程度の話題だろう。
しかし、大学で学生と接している立場としては、対岸の火事ではない。学生のアルバイトの環境は、ここ数年で劣化の一途を辿っている。

大学の教師にとって、学期末の残務整理には、面倒な仕事が3つある。
「期末試験の採点」、「各種分掌の報告書」、そして「落第した学生への対処」だ。

試験で合格点に達することができず、単位を落とした学生はたいてい、単身、研究室に乗り込んでくる。特に卒業がかかっている4年生は真剣だ。土下座でもせんばかりの勢いで、追試や補習を懇願してくる。さらに、その学生の指導教官からもメールが廻ってきて、「なんとかしていただけないでしょうか」のようなお願いをされる。僕よりも年配の教授からそのようなお願いをされるのは、心情的に非常につらい。嫌味ではなく、本心から「出来の悪い学生をもって大変ですね」と感じる。

ぶっちゃけた話、そういう時は「お互い様」の原理が働く。僕の授業ではそのような「お願い」をされるが、逆に僕のゼミ生が勉強を疎かにして卒業の危機に瀕した時には、僕がお願いをする側に廻るのだ。実際、僕が指導をしている学生が不埒にも単位を落として卒業が危うくなり、僕が授業担当の先生に頭を下げたこともある。

大学の教師だって人間だから、それまで自分の指導学生を冷酷に切り捨ててきた先生の頼みは、聞きたくない。かくして、基本的には寛大な措置をとり、追試や追加レポートなどを課し、ギリギリの点数で単位を与えることが多い。
ちなみに僕は追加レポートの提出は認めてあげるものの、その量と内容については容赦しない。レポートの60枚や70枚は当たり前。3日3晩くらい徹夜しなければ到底終わらないようなものを課す。追いつめられた学生が指導教官に相談し、その指導教官が僕にこっそりレポートの筋道を聞いてくる、という笑い話のようなことも起こる。大抵、そういう場所は研究室ではなく、居酒屋だ。大学の周囲には居酒屋が欠かせない所以である。 学期末に居酒屋で先生同士が深刻な顔をして話をしていたら、学生は決して聞き耳を立ててはいけない。

追加レポートを課される学生は、自業自得とはいえ大変な思いをするだろうが、単位を与える側の教員も大変なのだ。なにせ、一旦期末試験やレポートで成績を出し、大学教務課に成績を提出したあとで、追加措置として加点修正するのだから、書類上は「授業担当教員の採点ミス」という体裁になる。むろん教務課の事務員は事情が分かっているから、単純な採点ミスとは違って優先的に処理してくれるが、書類上いろいろと整えないといけないことが多い。

得点修正のために事務方に提出する書類には、当たり前のことだが、「修正理由」というのを書かなくてはならない。だから僕は追加措置をする学生は、必ず面と向かって話を聞き、どうしてレポートの出来が悪かったのか、授業に出席しなかったのか、個別に話を聞くことにしている。

そういう時、最近の学生は、のうのうと「バイトが忙しかったからです」などと抜かす。張っ倒してやろうかと思う。学生というのは学業が主体であるから「学生」なのであって、そんなにバイトに生活の軸を置くのなら、大学なんてさっさと辞めて働け、と言いたくなる。学業を疎かにするほどバイトをするとは何事ぞ。自分の生活管理がなっとらん。
すべて正論だし、学生にとってはぐうの根も出ないだろう。

しかし、こういう「懇願学生」の話をよく聞いてみると、「なんでそこまで追いつめられているのか」と感じるほど、バイトに縛られている学生が多い。一回8時間勤務を、週4日で入っている学生も珍しくない。

大学生のバイトには、年間収入にして103万、130万というふたつの壁がある。
まず年収が103万を超えると、親の扶養控除から外れ、所得税を取られるようになる。103万程度の収入だと、所得税を取られるとがくっと実入りが減り、却って損をする。これを回避するには「勤労学生控除」という裏技があって、バイト先に提出する源泉徴収票にチェックすれば、さらに27万円分が控除される。手続きを忘れた場合、年度末の確定申告でも申請できる。
しかし働きすぎて130万円を超えると、保険に関しても親の扶養から外れてしまう。つまり、国民健康保険に加入して自分の保険証を作らなければならない。こうなるともはや、法律上は「学生」としては認められないに等しい。

普通の大学生であれば、103万を超えないように、月収平均にして8万5千円程度にバイトを抑えるのが普通だ。これはバイトをする学生の常識で、それを知らない無知な学生は年度末に泣く思いをする。
しかし、最近の学生からの泣き言を聞いていると、103万はおろか余裕で130万を超えているんじゃないか、という働き方をしている学生が増えている。

曰く、両親からの仕送りが止められている。家庭の事情で働かざるを得ない。こういう事情は、学生調書を調べれば簡単に「裏」がとれるから、その事情が本当の場合は、僕も成績に関して寛大な措置をとることが多い。
しかし最近、「バイト先に無理矢理シフトを入れられて断れないんです」「店長の仕事を代わりにやっているんです」のような、言い訳めいたことを言う学生が増えてきた。

そんなアホな、と思うが、学生の話を聞いていると、どうやら本当らしい。深夜の勤務で時間帯責任者になったり、バイトなのに店舗を掛け持ったり、売上金の管理を任されているケースもある。
企業運営の仕方など僕はまったく知らないが、普通に考えて、会社運営の方法として気が狂ってると思う。学生バイトにそこまで運営を依存するなど、正気の沙汰ではない。

僕がアメリカの大学で教えていたときも、アルバイトをしている学生はいた。しかしアメリカの学生は非常にだらしないので、バイトといっても番犬程度の役にも立たない。僕が教えている学生がスーパーでバイトをしているところを見かけたことがあるが、野菜や果物などの食材を荷下ろしする際に、段ボール箱を放り投げていた。テスト前になると当たり前のように、大挙してバイトを休む。だからアメリカのスーパーでは、期末試験の時期になると人手不足になり、非常にサービスが悪くなる。日本の小売店が、実質上、学生アルバイトだけで人材を切り回している現状を知ったら、アメリカの経営者は卒倒するだろう。

彼らの根本原理は「もらっている給料以上は働かない」だ。時間の5分前に来て、仕事が終わった5分後には帰る。当たり前と言えば当たり前だろうが、働くということは、それだけでは収まりきらないものもある。
その「収まりきらないもの」が、日本の学生アルバイトでは、異常に肥大化しているらしい。

日本の学生は、どうもアルバイトを神格化し過ぎる傾向にあるらしい。洋の東西を問わず、学生がバイトをする理由は「金が必要だから」だろうが、日本の学生はそれに「社会訓練」だの「就職前の就労体験」だの、余計な付加価値をつけすぎる傾向にあるようだ。
そして日本の経営者は、そんな真面目な日本の学生気質につけ込んで、「安価な労働力」として学生アルバイトを搾取する傾向が著しい。

僕が学生からバイトの窮状を相談されたとき、必ず「ご両親はどう言っているの?」と訊くことにしている。驚くことに、そういう学生の両親は、そういう「就労体験」や「社会的責任感」に価値を置き、バイトを辞めることを良しとしないことが多いらしい。不況の中、親から学生への十分な資金援助が難しくなっている、という事情はあるにせよ、学生が体を壊してまでアルバイトに明け暮れるのを良しとする傾向は、異常なほどだ。また学生の両親が、職場では学生アルバイトを使う側であることも多いのだろう。いろいろな要素が絡まって、学生はアルバイトの「負のスパイラル」から抜けられなくなっている。

これは、僕が学生の頃とは大きく事情が変わっている。僕が学生の時はまだ学生の絶対数が多く、バイトの面接に受かるのも一苦労だった。また職場には多くのアルバイト学生が働いており、むしろシフトに入れてもらうのが大変だったほどだ。今のような「責任」を課せられるのは、塾講師などの一部のバイトだけで、それとて好きな者が好きこのんでやっている感が強かった。

経済は不況とデフレから脱却しておらず、企業は生き残りに必死で人件費をバンバン削減し、しかも学生数は減っている。こうした構図では、「弱者」である学生に、企業運営のしわ寄せが集まるのだろう。
そういう事情は分からないではないが、やはり不健全なあり方と言わざるを得ない。働く学生の側、雇う企業の側の両方で、機能不全に陥っている。

しょせんはバイトなのだ。働くことにはある程度の義務感と責任感は必要だろうが、それは「定時にきちんと出勤すること」程度のものでしかあるまい。学生アルバイトが、その企業の命運を握っているかのように感じる必要はないのだ。また、そのような責任感を押し付けるべく恫喝してくる経営者など、論外と言ってよい。もしバイト先がそのような真っ黒な企業であれば、むしろ「いち早く逃げる」ことこそ、学生にとって将来的に必要な資質に結びついてるのではないか。
人間は、過去の体験によって自分のあり方が左右される。もし学生時代にそのような過酷なバイトを経験すると、将来学生バイトを雇う側になった時に、そのような使い方をする雇用主になる。

こういう状況に際し、毎日新聞の社説のように、企業側に「けしからん」と高説を垂れるのは簡単だ。しかしそんなことをしても、現状は変わらないだろう。なにせ従業員に不当なサービス残業やタダ働きを課して、平気で「労働基準法を守っていたら、会社は絶対成り立たない」「あんた、会社潰したいの」などと恫喝する会社が闊歩するご時世だ。ましてや学生アルバイトなんて、使い捨て程度にしか思っていないだろう。そういう体質の企業に、待遇改善など訴えても、実効性は期待できない。

だから、学生は自衛するしかない。アメリカの学生のように働けとは言わないが、自分が今するべきことは何なのか、優先順位を確立するくらいのことは必要だろう。おおむね、そのようなブラックアルバイトにはまり込む学生は、学業にあまり熱心ではない学生が多い。自分は本当にそのアルバイトが必要なのか、大学での勉強から逃避するためにブラックアルバイトを言い訳に使っていないか、常に自問する必要があるだろう。


僕の学生時代は、高価な洋書の専門書を買うためにアルバイトをした。そうやって自分の時間を切り売りして買った本は、今でも粗雑に扱えない。
今の学生は、一体何にお金を使うためにアルバイトをやっているのだろうか。



いくらバイトをしても就活には何のプラスにもならんぞ。
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プロの鞄修理職人によるブランドバッグ評

●エルメス●
う~ん、疑問だな~。高価すぎですよ、いくらなんでも60万とか100万とか。インチキですよ。
それにさ、その値段なら生涯無料修理が当然です。修理に関し、どこで購入?って聞かれるそうです。ふざけるんじゃない!そんな高価ならチップでも革に入れこんでおいて、ピコピコとデーター入れておけばいいのです。トヨタなんかは、走行データーのロムの書換えを無料でしてくれますよ。 それとあのハンプみたいなポーチのファスナー?信じられないです。ウッドペッカーみたいに、野越え山越えで波打っている。日本製なら全部返品です。ファスナーもチープ。YKKさ~ん、早くエルメスにファスナーの意味教えてあげてよ。

●グッチ●
凄いメーカーです。たぶん、たぶんですよ、デザイナーが職人の話聞いてないと思う。それかトップダウンじゃないかな? 考えられない素材を無理矢理つけている。バンプーがメガトンヒットして調子こいているのかな? 簡単に言いますよ。出来悪すぎです!日本の輸入業者さん、よく確認し、ミスがあればグッチ社を叱って下さい。数々の修理の中でダントツです。それは普及数が多いので修理が多いのかもしれませんが…。 じゃあ何処が壊れるの?それはですね~、まず革が破れます。塗料が溶けます。裏地がほころびます。金具が壊れます。形状が崩れます。あれこれありますですです。 あまりに最新トレンドを追求するあまり、耐久テストや、職人の声など聞いてられないのでしょう。

●コーチ●
凄まじい耐久力です。グラブタンという、野球のグローブでバッグ作成したのですよ。
それにあの糸、あれはワイヤーですよ。ほとんど修理した覚えがありませんよ。お値段も適正です。 たださ、アメリカのハンバーグみたいでごつい!重いです。

●シャネル●
何をおっシャネルです。凄い人気ですね。
平素使うバッグに設計されていません。選ばれた方が、選ばれた場所で使用するバッグです。当然、あのソフトな革に耐久求めるのは間違いですよね。

●プラダ●
ナイロン、絶対高価過ぎです。裏地のほつれ、なんとかしてください。リュックの右のカブセは、ヘリ曲げを7ミリにして、テープのほつれ留めしてくださいよ。
それとさあ~、あの生地に硬いガラスの革使用するのは雰囲気ありますが、力布入れて下さい! みんなお金貯めて買っているのですよ。私はメーカーに嫌われてもいいですが、お客様への対応をしっかり受け止めてください。壊れ過ぎです!
ところが、時々少量生産の皮革バッグを見ますが、恐ろしいほど綺麗で丁寧、モダンなのです。とても同じ三角とは思えないですよ。素晴らしい職人と大量生産の二刀流。

●ルイ・ヴィトン●
書けば本になるぐらいのバッグですよ。伝統・コンセプト・仕上げ、最高ですよ。
僕はユニクロ好きです。ブランドの中で、ユニクロで似合うバッグはこれぐらいですよ。 何故か?それはカジュアルなのです。プラダも良さそうですが、ヴィトンには負けます。 もちろんアイテムは多く、スーツに似合うタイガ、ドラえもんみたいな絵書く度胸も凄いですね。




あの、僕愛用のゼロ・ハリバートンは・・・。
ペンギン命

takutsubu

ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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