「笑いすぎて死ななかったら、むち打ち100回の刑だ」(Charlie Hebdo紙)
「フランス週刊紙襲撃―言論への暴力を許すな」
(2015年1月9日 朝日新聞社説)
「パリ新聞社銃撃 表現の自由に挑戦する蛮行だ」
(2015年1月9日 読売新聞社説)
「仏週刊紙襲撃 憎悪あおるテロを断て」
(2015年1月9日 毎日新聞社説)
「表現の自由へのテロは断じて許されない 」
(2015年1月9日 日本経済新聞社説)
「仏紙銃撃テロ 表現の自由は揺るがない」
(2015年1月9日 産経新聞社説)
フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」のパリの事務所が武装した男たちに襲われ、記者、風刺画家ら12人が殺害された。被疑者の3人は身元が特定され、そのうち事件に関与した18歳の男性が出頭した。フランスでは法律で18歳は成人として扱われるため、出頭した容疑者は世界中で実名報道されている。
のこりの2人の容疑者は2015年1月9日現在、いまだ逃走中で、フランス当局はその行方を必死に追っている。
シャルリー・エブド紙は政治、宗教の過激な風刺画で知られ、いままで何度かイスラム過激派の攻撃対象となっている。今回だけでなく、2011年には火炎瓶攻撃を受け、編集部がほぼ全焼している。
この件に関して、日本の各紙が社説を掲載した。内容はすべて異口同音、「表現の自由を侵害するテロ行為は断じて許すべきではない」という内容だ。
テロ行為を非難することには何の異論もない。特に、被害にあったシャルリー・エブド紙と立場を同じくするジャーナリストの立場からは、出版を暴力によって圧力をかけようとする行為に嫌悪感を抱くのは当然だろう。今回のようなテロ行為は断じて許すべきではなく、それに糾弾する姿勢には特に問題はない。
しかし僕は、今回の各紙の社説を見て、非常に違和感を感じた。どの紙面も、ことの本質を覆い隠して、被害者的な立場からテロ行為を糾弾しているだけの内容に終止している。
各紙は、今回の社説の着地点を「今回のテロ行為をもって、イスラム信者全体を敵視するのは間違いだ」という結論に据えている。テロ行為はテロ行為として糾弾し、それをもってイスラム全体を敵視し、和平への道を閉ざしてはならない、という主張だ。
容疑者がアルカイダを名乗ったとの証言もあり、イスラム過激派にかかわりを持つ人物たちである可能性は高い。昨年来、カナダやオーストラリアなどでも、イスラム過激派に触発された可能性のあるテロ犯罪が頻発している。戒めるべきなのは、こうした事件の容疑者と、イスラム教徒一般とを同一視することだ。そのような誤った見方が広がれば、欧米市民社会とイスラム社会との間に緊張関係をつくりたい過激派の思うつぼである。
(朝日新聞社説)
欧州には多数のイスラム系住民が暮らしている。半面、各国で反イスラム感情や移民排斥の動きが強まっているのが気がかりだ。フランスも、旧植民地の北アフリカからの移民を中心にイスラム教徒は人口の8%、約500万人に上るといわれる。一方で反移民を掲げた極右政党「国民戦線」が勢力を伸ばし、経済の低迷も亀裂を深める要因になっている。事件がその傾向に拍車をかけ、世界で文化・宗教間の「不寛容」がはびこることを懸念する。
(日本経済新聞社説)
このような主張が成り立つためには、イスラム指導者側が「今回のテロは、イスラム教の信条に基づくものとは言えない」と断定し、テロ実行者を非難する姿勢があることが大前提にある。もしイスラム教の側がテロ行為を支援するのであれば、上掲のような主張は意味がない。
欧米諸国がイスラム圏諸国に不信感をもっているのは、イスラム指導者側が欧米へのテロを容認し支援する事例があまりにも多かったからだ。イランでは、対米嫌悪路線をあからさまにした政策が相次ぎ、それがアメリカとの関係悪化に繋がった。日本でも1991年に、英作家の著作「悪魔の詩」を翻訳した筑波大助教授に対して、イランの宗教指導者が死刑宣告を発し、大学構内で殺害される事件が起きている。
僕は以前、コーランを精読したことがあるが、あれを普通に読む限り、イスラムとは異なる価値観を暴力によって排斥するような内容は含まれていない。僕の理解では、コーランというものは、砂漠や旱魃という過酷な環境で生活する民に精神的な支えを提供する、「生き抜くための知恵」という色彩が強い。
コーランでは飲酒や豚肉食が禁止されているが、それだってイスラム教が興った土地に特有の事情を反映したものに過ぎない。昼夜の気温差が激しい砂漠で泥酔すると、命に関わる。またイスラム教が成立した7世紀頃、食料の腐敗が激しい高温地帯では、傷みが早い豚肉を保存する技術もなかっただろう。
だからコーランの内容に即して判断する限り、今回のようなテロを起こした過激派は、「真摯なイスラム教信者」としては認められないと思う。世界各地でテロ行為を繰り返しているイスラム過激派は、自分の気に食わない価値観を攻撃するための口実として、イスラム教を利用しているだけだろう。テロを行う者は、「自分は正義である」という体制的な基盤を欲しがる。イスラム教のように「対・欧米諸国」と位置づけられている宗教は、その目的ためには非常に便利な看板なのだろう。
だから、イスラム教の宗教指導者たちは、今回のようなテロ行為を、「イスラムの原理に反するもの」として糾弾する声明を出すことが必要だ。「今回のテロをもってイスラム全体を憎んではならない」と主張するのであれば、イスラム側のそのような姿勢を確認することがまず大前提になる。
それに関しては、朝日と毎日の2社だけが言及している。
貧困や専制政治などによる社会のひずみから、イスラム世界には過激思想に走る者が一部いることは否めない。だが、圧倒的多数の人々は欧米と同様に、言論の自由や人権、平等などを尊ぶ社会の実現を望んでいる。今回の事件を「西洋文明対イスラム」の対立に置き換えてはならない。フランスのイスラム団体代表も「これは、イスラムの名の下になされたことではない」と非難した。
(朝日社説)
その中で今回、エジプトやサウジアラビアなどイスラム世界の指導者が事件を一斉に非難し、テロ行為は「イスラム教の敵」であると訴えていることは心強い。
(毎日社説)
普段は社説を書くのがとても下手な2社にしては上出来な書き方だろう。論旨に必要な条件をきちんと踏まえている。新聞の社説のように意見や主張を掲載する際には、「どのような内容を書くか」以前に、「どのようにそれを書くか」のほうが重要だ、という事例だろう。
ふたつめの違和感は、そもそもの事件の引き金となったシャルリー・エブド紙の風刺画について、一切の非難が行われていないことだ。シャルリー・エブド紙は週刊新聞で、発行部数は30万部ほど。記事よりも下劣な風刺画で売り上げを稼ぐ、要するにタブロイド紙だろう。同社へのテロ行為は今まで何件か行われており、その理由はすべてイスラム教とムハンマドへの侮辱的な風刺画が原因だ。その描写は、非常に下品極まりない。そもそも偶像崇拝を禁止しているイスラム教では、ムハンマドの肖像を描くこと自体が侮辱にあたる。イスラム教の人々が怒るのも当然だ。
「表現の自由」を叫ぶのは出版社の権利だし、その自由は保証されるべきものだ。しかしその自由は、他者の尊厳と権利を守る姿勢が備わっていることを前提とした自由だ。自分の自由のためには他者の尊厳を踏みにじってよい、という姿勢は、断じて許されるものではないだろう。
今回のようなテロ行為を防ぐ方法のひとつは、欧米世界の側に「イスラム教を侮辱するような言動を行わない」ということが求められる。挑発するだけしておいて、攻撃された途端に被害者面、というのでは、単なる自分勝手だ。
今回の各紙の社説では、シャルリー・エブド紙の下品な風刺画について戒める論調がほとんど見られない。それは各紙自身もマスコミであるという構造的な理由だろう。シャルリー・エブド紙のような「炎上商法」は、ともかく儲かるのだ。マスコミは視聴率や販売部数が全て、という世界だ。その数字を稼ぐためには、他者を愚弄しようが尊厳を奪おうが構わない、という姿勢がありはしないか。また新聞各紙には「そういう行為をしている他社を公然と非難するのはタブー」という風潮がないだろうか。
今回、テロの引き金となったシャルリー・エブド最新号は、さっそくインターネット上で競売にかけられている。落札価格は7万ユーロ(約990万円)を超える高値を付けている。2011年に火炎瓶が投げ込まれた事件の際も、その引き金となった2011年11月発行の号もネットオークションにかけられ、一時1万4000ユーロ(約200万円)の値を付けた。また、シャルリー・エブド紙は「テロに屈しない」という大義のもと、次号を休刊にせず、従来の3倍以上の100万部を発行する、と宣言している。
今回のテロ行為自体は決して許されるものではないため、「被害者」であるシャルリー・エブド紙の炎上商法に対する批判がまったく見られない。しかし、シャルリー・エブド紙は自身の編集方針が「多くの人の恨みを買うものである」という反省をするべきだ。テロへの宣戦も不退転の決意も結構だが、その御大層な決意によって発売される紙面を埋めるものが「下品な風刺画」とあっては、ジャーナリストとしての品性を疑う。
今回の各紙の新聞社説は、結論として「イスラム教との相互共存の道を模索するべき」のような耳障りのよい主張を展開している。しかし、イスラム教をあれだけ罵倒し侮辱している内容を一切スルーしておいて、相互共存もないだろう。各紙の新聞社説の頭と尻尾をつなげると、「イスラム教を思うさま侮辱する表現の自由は認めろ。その上でイスラムとは仲良くしろ」ということになる。ふざけているとしか思えない。
唯一、日本経済新聞の社説だけがこの点に触れている。
風刺画に悪意が込められていたとしても、表現の自由は侵すことのできない民主主義の基本的な価値である。ただ、預言者に対する侮辱がイスラム教徒に呼び起こす強い反発も、非イスラムの人々は知る必要がある。多様な文化、宗教が共存するためには対話と相互理解が不可欠だ。
(日経社説)
触れ方としては全然踏み込みが足りないし、「一応、書きました」的な不完全感は否めない。シャルリー・エブド紙に対する直接的な批判ではない点もいただけない。しかし、全くこの点に触れないゼロよりはましだろう。一応、被害者としての立場であるシャルリー・エブド紙に対する配慮として、この程度の書き方しかできない、という事情もあろう。しかし本質的には、シャルリー・エブド紙の他者を侮辱する姿勢は、非難されるべきものだと思う。
3つめの違和感として、フランス公安当局に対する意見が皆無である点が気になる。シャルリー・エブド紙は従来からイスラムのテロ行為の対象とされており、過去には実際に襲撃事件も起きている。また、同社の掲載記事については何度かフランス当局から警告と改善勧告が出されており、しかもシャルリー・エブド紙はそれを無視して挑発的な記事を発行し続けている。今回のようなテロが起こるのは、いわば予測できる事態だっただろう。
しかしフランス当局は、今回のテロ事件の初動捜査に失敗した。パリ圏内で容疑者を逮捕できず、犯人は現在もフランスのどこかに潜伏中だ。地域住民に与える不安は計り知れないものだろう。
これはフランスだけの問題ではなく、テロ行為が発生したときの初動捜査のあり方として、各国警察・保安当局が他山の石としなければならない問題だ。実際に日本で1991年に筑波大学構内で「悪魔の詩」翻訳者の筑波大助教授が殺害された事件でも、犯人は逮捕されずに事件は時効を迎えている。
テロを防ぐためには、「テロ行為は割に合わない」ということを実行者側に実感させることが必要だ。テロ活動は普通の刑事事件とは異なり、破壊活動防止法や凶器準備集合罪などの「予備罪」を適用することができる。こうした法案を実際の適用可能性に結びつけるように、各国の警察・公安は保安のあり方を再考する必要があるだろう。
テロ行為は断じて許されるべきものではない。しかしそれを「許されるべきではない」などと当たり前の非難をすることだけが、新聞社説の仕事ではなかろう。その根っこにある要因を解き明かし、再発を防止する方法を真摯に論じることが、ジャーナリストの使命だ。その仕事を真面目にやっているとは思えない社説が多い。
過激派に付け入る隙を与える風刺画なんて載せるな。
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