2015年01月
最近、書き物の仕事が多くなってきまして。
普段の書き物の仕事は、下書きからMacを使うんですが、最近の仕事では図表を書いたり論理式や計算を書いたりすることが多いので、ノートにペンで書き物をしています。
もともと文房具が趣味ですので、いろいろとペンを試しているんですが、最近すごくフィットするペンを見つけまして。
僕が仕事用のペンを選ぶ条件は、(1)ペン軸がある程度太いもの、(2)軽いこと、(3)丈夫なこと、の3点。
僕は手が大きめで筆圧が強いので、太くて丈夫なペンでないと書きにくい。また、延々と書き仕事をしていると軽さも重要です。
これらの条件をちょうど満たしているペンはなかなか見つからなかったんですが、ちょうどいい感じなので重宝しています。¥4000と少々お高いんですが、それだけのことはある。
ちなみに色にシルバーを選んだのは、Macbook Airに合わせたからです。
ただこのペン、唯一の弱点は、インクと替芯なんですよね。
デフォルトのインクは水性で、やたらに裏写りします。替芯の値段も高く、あまり使い勝手がよいものではありません。
そこで、替芯を三菱鉛筆の「ジェットストリーム」に替えて使っています。
おそらく、ペン先とインクの具合だけで評価すると、ジェットストリームは現在の文房具で世界No.1だと思います。筆圧が要らず、インクの耐久性がよく、とても書きやすい。
最近は文房具屋さんで、消せるボールペンの「フリクション」が盛大に売られていますが、あれは消すことを前提に作られているので、インクの耐久性がよろしくない。1年も経たないうちにインクが消えます。
で、LAMYの軸にジェットストリームの芯を入れると、ちょっとサイズが合わないんですね。5mmほど短いんです。
それを調整するために、バネを埋め込んだり、固体を埋め込んだり、いろいろやっている人が多いようですが、僕がやってみて一番ぴったりしたのは、替芯の後ろに不足分の長さだけ余らせたセロハンテープを巻き付けるやり方。これだと空気穴も塞がず、バネが絡まってしまうこともなく、快適に使えます。具合が悪くなったらまた巻き直せばいいし。
この「LAMYの軸」+「ジェットストリームの替芯」という組み合わせ、速記者や新聞記者などプロの間で、わりと有名な組み合わせらしいです。確かにどんな体勢や環境で書き続けても疲れない。
使いやすいペンで仕事すると、ストレスがかからなくていい感じであります。
普段の書き物の仕事は、下書きからMacを使うんですが、最近の仕事では図表を書いたり論理式や計算を書いたりすることが多いので、ノートにペンで書き物をしています。
もともと文房具が趣味ですので、いろいろとペンを試しているんですが、最近すごくフィットするペンを見つけまして。
LAMY Al-star L325
僕が仕事用のペンを選ぶ条件は、(1)ペン軸がある程度太いもの、(2)軽いこと、(3)丈夫なこと、の3点。
僕は手が大きめで筆圧が強いので、太くて丈夫なペンでないと書きにくい。また、延々と書き仕事をしていると軽さも重要です。
これらの条件をちょうど満たしているペンはなかなか見つからなかったんですが、ちょうどいい感じなので重宝しています。¥4000と少々お高いんですが、それだけのことはある。
ちなみに色にシルバーを選んだのは、Macbook Airに合わせたからです。
ただこのペン、唯一の弱点は、インクと替芯なんですよね。
デフォルトのインクは水性で、やたらに裏写りします。替芯の値段も高く、あまり使い勝手がよいものではありません。
そこで、替芯を三菱鉛筆の「ジェットストリーム」に替えて使っています。
おそらく、ペン先とインクの具合だけで評価すると、ジェットストリームは現在の文房具で世界No.1だと思います。筆圧が要らず、インクの耐久性がよく、とても書きやすい。
最近は文房具屋さんで、消せるボールペンの「フリクション」が盛大に売られていますが、あれは消すことを前提に作られているので、インクの耐久性がよろしくない。1年も経たないうちにインクが消えます。
で、LAMYの軸にジェットストリームの芯を入れると、ちょっとサイズが合わないんですね。5mmほど短いんです。
それを調整するために、バネを埋め込んだり、固体を埋め込んだり、いろいろやっている人が多いようですが、僕がやってみて一番ぴったりしたのは、替芯の後ろに不足分の長さだけ余らせたセロハンテープを巻き付けるやり方。これだと空気穴も塞がず、バネが絡まってしまうこともなく、快適に使えます。具合が悪くなったらまた巻き直せばいいし。
この「LAMYの軸」+「ジェットストリームの替芯」という組み合わせ、速記者や新聞記者などプロの間で、わりと有名な組み合わせらしいです。確かにどんな体勢や環境で書き続けても疲れない。
使いやすいペンで仕事すると、ストレスがかからなくていい感じであります。
規格は統一してほしいなぁ。
「イスラム国―許しがたい蛮行だ」
(2015年1月21日 朝日新聞社説)
「イスラム国 人質の殺害脅迫は許されない」
(2015年1月21日 読売新聞社説)
「「イスラム国」人質 早期解放に全力挙げよ」
(2015年1月21日 毎日新聞社説)
「「イスラム国」の卑劣な脅迫は許されない」
(2015年1月21日 日本経済新聞社説)
「邦人人質脅迫 テロに屈してはならない」
(2015年1月21日 産経新聞社説)
イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が、とうとう邦人の殺害予告を行った。日本人男性2人を人質に、身代金2億ドル(約236億円)を72時間以内に支払わなければ殺害する、という警告動画をインターネット上で公表した。
今回の身代金要求は、安倍首相が中東訪問を行い、資金援助を約束するタイミングを見計らって行われた、と各新聞は報じている。それだけ日本の出方を注視していたということであり、かなり計画的に行われた声明だろう、という見方だ。
「イスラム国」には彼らなりの正義も信条もあるのだろうが、それが世界規模では同意されないものであることを如実に示した例だろう。もともとテロ行為に正義も信条も何もあったものではなかろうが、現在の世界中で、また後々の時代になってから、イスラム国の「正義」とやらが完全否定される下地を撒いておくことは必要だ。
今回のポイントのひとつは、イスラム国への非難の仕方だ。各新聞の社説は、「決して許されることではない」「激しく非難する」などと、主観的な非難をかき立てている。そんな非難は、日本に住む人間にとっては、当たり前だ。
そういう非難は、日本の中から、日本人の目で、日本の読者に向かってしか通用しない。今回のイスラム国の暴挙に対する非難が、時空を越えて、イスラム圏でさえも通用するものにならなくては、社説の意味がない。
付け入るべきは、イスラム国の身代金要求の根拠の、論旨が破綻している点だ。無法なテロ活動ならテロ活動らしく、「日本人は預かった。金を出せ」という犯罪行為で済むはずだ。なのに今回、イスラム国は2億ドルという身代金について、根拠にいろいろと御託を並べている。中東訪問中の安倍首相が2億ドルを「イスラム国」対策として避難民支援にあてた。これをもって、日本を「自分たちを攻撃する『十字軍』に参加した」とみなし、自分たちの敵だ、と決めつけている。だから「イスラム国」対策に日本が支出するのと同額を、日本人への身代金に払え、という論旨だ。
そもそもテロリストの理屈なので無茶苦茶極まりない。それでもイスラム国が身代金に「理由」をつけているのは、「自分たちは犯罪者ではない、正義のために戦っているのだ」というスタンスを保ちたいからだろう。
正義というのは、どのみち相対的なものだ。正義の反対は悪ではなく、また別の正義に過ぎない。だからイスラム国に対する非難は、その「正義」を主張する論理の破綻を指摘するのが王道だろう。声明を丁寧に論破していけば、そのうち正義の能書きを垂れるのが面倒くさくなり、なりふり構わなくなる。そうやって内部からの離反・乖離を図るのが、長期的な施策だと思う。
イスラム国の声明は、一読して「下手な論理構成だな」という感想のほうが強い。おそらくこの声明の草案を作ったイスラム国幹部は、ろくに高等教育を受けてはいないだろう。論理の意図とその破綻を指摘し、世界中の目、後世の目の審議眼に晒すことはそれほど難しくない。
日本が表明した2億ドルのイスラム国対策支援は、非軍事的活動のためのものだ。避難民向けの食料や医療などの人道援助が中心で、それはいわば「イスラム国が荒し回った被害地域の後始末」という面が強い。
それをイスラム国は、「自分たちに対する敵意行動」と決めつけている。これはイスラム国が本当にそう思っているというより、そうとしか主張できないからだろう。
イスラム国の目的は金だ。単純そのものだ。活動資金の調達源として、非イスラム圏の人間を誘拐し、身代金を調達する。そこには正義も何もない。
今回、人質のひとりになっている日本人男性は、2014年の8月にすでに消息を断っている。その頃にはすでにイスラム国に身柄を拘束されていたのだろう。しかし、今までなぜ半年間も身代金の要求がなかったのか。
おそらく日本に対して、自分たちの「正義」を保持したまま、身代金を要求する大義名分が何もなかったからだろう。日本人は金になるので、人質としての価値はある。しかし、イスラム国への攻撃と何の関係もない日本にいきなり金を要求すると、ただの犯罪者になる。「正義のために戦っているオレ達」というスタンスが保てなくなる。だから、日本人の人質は半年間、「どうやってこいつらを金にしようか」という、扱いに困る人質だったのではないか。
それが今回の安倍首相の中東訪問で、チャンスが訪れた。細かいことはさっ引いて頭と尻だけをつなげると「イスラム国対策のために・・・資金提供をする」という行動を日本が取った。だから日本は自分たちに敵意を示した(ということにする)。だから堂々と身代金要求ができる。
各新聞は、今回の身代金要求を「日本の動向をよく調べた、周到で計画的な行為」と見ているが、実際は逆だろう。イスラム国は、日本政府に「正当に」金を要求するきっかけがなくて、焦っていたのではないか。だから今回、安倍首相による資金援助が「非軍事的行為」に対するものであるにも関わらず、勇み足で身代金要求に踏み切った。このチャンスを逃せば、日本が中東問題に関与する機会は二度とないだろう。そういう焦りが、半端な論理構成のまま、破綻した論旨で、身代金を要求する、という無茶につながったのだと思う。
議論の鉄則は、周到な準備だ。はじめに結果行為ありきの、正当性をでっちあげるための論理は、堅牢な準備と論理に不備が生じる。そういう、結果から逆走した後付けの論理を「詭弁」という。
今回のイスラム国の身代金要求は、そういう意味で「詭弁」に過ぎない。到底、後世の評価に耐えうる「正義」ではないだろう。それどころか、イスラム圏からの反発を呼び起こすにも十分な非論理性を含んでいる。それをきちんと主張し、イスラム国を孤立させる論陣を張ることが、正しい非難の仕方ではないだろうか。
ふたつめのポイントは、マスコミが政府にどういう提言をするか、だ。これについては、2004年に相次いだ、イラク武装勢力による日本人人質事件で、マスコミが醜態を晒した背景がある。
2004年4月、イラクに滞在している日本人3人が、イラクの武装勢力に誘拐された。武装勢力は、身代金およびイラクに駐留している自衛隊の即時撤退を要求した。現地の武装勢力は、非イラク人のボランティア、NGO職員、民間企業社員、占領軍関係者を相次いで誘拐しており、外務省は最高レベルの海外渡航警告を発していた。誘拐された3人は、外務省の渡航警告を無視してイラク入りしている。
この事件に際し、マスコミは派手に報道を展開した。被害者の自宅を公表し、被害者宅には報道陣が大挙して押し寄せた。家族や親戚、学校時代の同級生に至るまで執拗な取材が行われた。
当時のマスコミの過熱報道の背景には、この誘拐事件を政治問題化しようとした野党議員の思惑がある。当時、小泉政権の圧倒的な選挙戦略に瞬殺されていた野党および左派マスコミは、事態を転換し小泉政権を攻撃する材料として、誘拐事件を利用した。そのため、「人質を無事に救出すること」だけが正しい収束の付け方だ、という報道の仕方をした。「万が一、人質が殺害されるようなことがあれば、小泉政権の責任問題だ」とさえ言い切った。
実際のところ、テロ活動による身代金を支払うことは、世界の常識に反している。身代金要求に応じることは、テロを行う側に「誘拐は儲かる」という既成事実を与えてしまい、同様の犯罪を呼び起こす誘因になる。それに沿って、当時の小泉政権は身代金の支払いを拒否した。
当時のマスコミは小泉政権を敵視していたため、「身代金拒否」→「人質殺害」→「政権の責任追及」→「小泉首相失脚」というシナリオを描いていた。
しかし、事態は他ならぬマスコミ自身のせいで、思惑とは異なる展開を示す。
小泉政権にプレッシャーを与えるためにマスコミが取った方法は、「被害者家族に会見をさせる」という方法だった。当初、人質の無事を祈るだけだった被害者家族は、日を追うごとに言論が過激化する。犯人グループの要求通りに自衛隊を撤退させることを主張したり、税金によって国が身代金を払うことは当然だ、と主張したり、挙句の果てには犯人グループの要求通りに動かない政権の批判を、公然と口にするようになった。 おそらく、被害者家族の過激化した言動は、マスコミによって煽られ、仕立てられたものだろう。図式としては、政権を失脚させたいマスコミが、被害者家族を利用して、世論の煽動を図ったものだったと思う。
ところが、過激化する被害者家族の言論に、非難が殺到する。マスコミによって被害者の自宅が特定され公表されていたため、被害者宅に中傷の電話、手紙、FAXが殺到する。電話回線が混乱して地方行政の業務に支障が出るほどの騒ぎだった。火付け犯のひとりであった朝日新聞は、自分たちで被害者家族の言動を煽っておいて、反発する世論の意外な反応に狼狽え、2014年4月12日に「被害者家族ーこれ以上苦しめるな」という社説をあわてて発表し、火消しを図っている。
被害者バッシングがあまりに炎上し、「自己責任」という言葉が流行った。イラクに行った奴は、危険も承知で行ったんだろう。外務省の渡航警告も無視した。だったら現地で死のうが誘拐されようが、自分で責任を取れ。そういう風潮が蔓延した。また被害者家族を祭り立てるマスコミの報道姿勢に非難が殺到し、報道の公正性が問われる事態になった。そういう世論に後押しされ、当時の小泉首相は、最後までテログループの要求に応じない毅然とした態度を取った。
結果としてマスコミは、政権攻撃のための方策によって、逆に自分たちが窮地に追い込まれることになった。テロ対策や人質の安全を、政治問題化しようとして火をつけ回り、逆に自分たちがその火を被ることになった。
半年後の2014年10月には、物見遊山でイラク見物に行った日本人青年が、現地の武装勢力に誘拐されて殺された。この頃になると、すでに「そりゃ殺されるだろ」「自業自得」という世論が形成されており、遺族も「本人の責任です」と達観していた。報道も事実だけを伝える静かなものであり、政府批判につなげるような暴論は一切出なかった。
あれから10年、マスコミの報道姿勢はどう変わったのだろうか。
今回の社説で注目すべきは、各新聞が「安倍政権はどうすべきか」という内容だ。身代金を税金から払って救出しろ、と言っているのか、断固として要求を呑むべきではない、と言っているのか。それを以て、10年が経ってから、各新聞社がこのような国際テロに対する言論を、どのように形成したのか、見ることができる。
身代金要求に対する態度を最も鮮明に表明しているのは産経新聞だ。「断固、払うべきではない」という主張だ。これは今回、菅義偉官房長官が出した声明と同様の内容だ。
また、読売新聞も政府発表に沿う内容を掲載し、官房長官の談話を「当然だ」と評価している。保守系の2紙は、まぁ当然といえば当然だろうが、政府の公式見解を支持している。
毎日新聞と日経新聞は、態度を曖昧にしている。どちらかというと日経のほうが「払うべきではない」感が強い。日経は安倍首相の談話を「テロに屈してはならない」と引用し、要求に応じない姿勢を伝えている。一方、毎日新聞は「「強い憤り」を表明」と間接的に伝えるに止め、直接的な引用を避けている。
反対に、安倍政権の姿勢に反する言論を「埋め込んでいる」のが朝日新聞だ。「人命の重みを最優先に対応すべき」という、耳触りのいい言葉でお茶を濁しているが、「最優先」ということは要するに「要求を呑め」という主張に読める。世界のテロ対応の趨勢よりも、これから未来のテロ封じ込め策よりも、今回の人質2人の命を「最」優先にしろ、ということだろう。
もし日本政府が身代金を支払わず、人質2人が殺されたとすると、朝日新聞はそれを「安倍政権の責任」と主張するつもりだろうか。そういう姿勢が隠れている書き方に見える。おそらく朝日新聞は、人質救出やテロ撲滅よりも「安倍政権失脚」が何よりも大事だろうから、こういう奥歯に物の挟まった書き方になるのだと思う。
まとめると、「身代金なんて払うな」色の強い順に
産経 > 読売 >>>>> 日経 >>> 毎日 >>>>>>> 朝日
という感じだろうか。
「テロに屈するな」というのなら、身代金は払うべきではない。最終的には「そんなところにいれば、そんな目にも遭うだろう」という自己責任の概念に行き着く。本人の意思で行ったのなら本人が責任をとるべきだろうし、本人の意に添わない形で強制力が働いたのであれば、強制力を行使した主体の責任だ。政府は勢力的に動くべきだろが、それは各社説が主張する通り、イスラム宗教指導者や現地の政治勢力との協力によってイスラム国に働きかける方法をとるべきであって、安易に身代金を払うべきではあるまい。
余談だが、もし誘拐されたのがフランス人だったら、イスラム教の宗教指導者は事態打開のための協力を拒否しただろう。
こういう時に、他人を侮辱せず、異なる価値観を尊重する重要性を痛感する。
(2015年1月21日 朝日新聞社説)
「イスラム国 人質の殺害脅迫は許されない」
(2015年1月21日 読売新聞社説)
「「イスラム国」人質 早期解放に全力挙げよ」
(2015年1月21日 毎日新聞社説)
「「イスラム国」の卑劣な脅迫は許されない」
(2015年1月21日 日本経済新聞社説)
「邦人人質脅迫 テロに屈してはならない」
(2015年1月21日 産経新聞社説)
イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が、とうとう邦人の殺害予告を行った。日本人男性2人を人質に、身代金2億ドル(約236億円)を72時間以内に支払わなければ殺害する、という警告動画をインターネット上で公表した。
今回の身代金要求は、安倍首相が中東訪問を行い、資金援助を約束するタイミングを見計らって行われた、と各新聞は報じている。それだけ日本の出方を注視していたということであり、かなり計画的に行われた声明だろう、という見方だ。
「イスラム国」には彼らなりの正義も信条もあるのだろうが、それが世界規模では同意されないものであることを如実に示した例だろう。もともとテロ行為に正義も信条も何もあったものではなかろうが、現在の世界中で、また後々の時代になってから、イスラム国の「正義」とやらが完全否定される下地を撒いておくことは必要だ。
今回のポイントのひとつは、イスラム国への非難の仕方だ。各新聞の社説は、「決して許されることではない」「激しく非難する」などと、主観的な非難をかき立てている。そんな非難は、日本に住む人間にとっては、当たり前だ。
そういう非難は、日本の中から、日本人の目で、日本の読者に向かってしか通用しない。今回のイスラム国の暴挙に対する非難が、時空を越えて、イスラム圏でさえも通用するものにならなくては、社説の意味がない。
付け入るべきは、イスラム国の身代金要求の根拠の、論旨が破綻している点だ。無法なテロ活動ならテロ活動らしく、「日本人は預かった。金を出せ」という犯罪行為で済むはずだ。なのに今回、イスラム国は2億ドルという身代金について、根拠にいろいろと御託を並べている。中東訪問中の安倍首相が2億ドルを「イスラム国」対策として避難民支援にあてた。これをもって、日本を「自分たちを攻撃する『十字軍』に参加した」とみなし、自分たちの敵だ、と決めつけている。だから「イスラム国」対策に日本が支出するのと同額を、日本人への身代金に払え、という論旨だ。
そもそもテロリストの理屈なので無茶苦茶極まりない。それでもイスラム国が身代金に「理由」をつけているのは、「自分たちは犯罪者ではない、正義のために戦っているのだ」というスタンスを保ちたいからだろう。
正義というのは、どのみち相対的なものだ。正義の反対は悪ではなく、また別の正義に過ぎない。だからイスラム国に対する非難は、その「正義」を主張する論理の破綻を指摘するのが王道だろう。声明を丁寧に論破していけば、そのうち正義の能書きを垂れるのが面倒くさくなり、なりふり構わなくなる。そうやって内部からの離反・乖離を図るのが、長期的な施策だと思う。
イスラム国の声明は、一読して「下手な論理構成だな」という感想のほうが強い。おそらくこの声明の草案を作ったイスラム国幹部は、ろくに高等教育を受けてはいないだろう。論理の意図とその破綻を指摘し、世界中の目、後世の目の審議眼に晒すことはそれほど難しくない。
日本が表明した2億ドルのイスラム国対策支援は、非軍事的活動のためのものだ。避難民向けの食料や医療などの人道援助が中心で、それはいわば「イスラム国が荒し回った被害地域の後始末」という面が強い。
それをイスラム国は、「自分たちに対する敵意行動」と決めつけている。これはイスラム国が本当にそう思っているというより、そうとしか主張できないからだろう。
イスラム国の目的は金だ。単純そのものだ。活動資金の調達源として、非イスラム圏の人間を誘拐し、身代金を調達する。そこには正義も何もない。
今回、人質のひとりになっている日本人男性は、2014年の8月にすでに消息を断っている。その頃にはすでにイスラム国に身柄を拘束されていたのだろう。しかし、今までなぜ半年間も身代金の要求がなかったのか。
おそらく日本に対して、自分たちの「正義」を保持したまま、身代金を要求する大義名分が何もなかったからだろう。日本人は金になるので、人質としての価値はある。しかし、イスラム国への攻撃と何の関係もない日本にいきなり金を要求すると、ただの犯罪者になる。「正義のために戦っているオレ達」というスタンスが保てなくなる。だから、日本人の人質は半年間、「どうやってこいつらを金にしようか」という、扱いに困る人質だったのではないか。
それが今回の安倍首相の中東訪問で、チャンスが訪れた。細かいことはさっ引いて頭と尻だけをつなげると「イスラム国対策のために・・・資金提供をする」という行動を日本が取った。だから日本は自分たちに敵意を示した(ということにする)。だから堂々と身代金要求ができる。
各新聞は、今回の身代金要求を「日本の動向をよく調べた、周到で計画的な行為」と見ているが、実際は逆だろう。イスラム国は、日本政府に「正当に」金を要求するきっかけがなくて、焦っていたのではないか。だから今回、安倍首相による資金援助が「非軍事的行為」に対するものであるにも関わらず、勇み足で身代金要求に踏み切った。このチャンスを逃せば、日本が中東問題に関与する機会は二度とないだろう。そういう焦りが、半端な論理構成のまま、破綻した論旨で、身代金を要求する、という無茶につながったのだと思う。
議論の鉄則は、周到な準備だ。はじめに結果行為ありきの、正当性をでっちあげるための論理は、堅牢な準備と論理に不備が生じる。そういう、結果から逆走した後付けの論理を「詭弁」という。
今回のイスラム国の身代金要求は、そういう意味で「詭弁」に過ぎない。到底、後世の評価に耐えうる「正義」ではないだろう。それどころか、イスラム圏からの反発を呼び起こすにも十分な非論理性を含んでいる。それをきちんと主張し、イスラム国を孤立させる論陣を張ることが、正しい非難の仕方ではないだろうか。
ふたつめのポイントは、マスコミが政府にどういう提言をするか、だ。これについては、2004年に相次いだ、イラク武装勢力による日本人人質事件で、マスコミが醜態を晒した背景がある。
2004年4月、イラクに滞在している日本人3人が、イラクの武装勢力に誘拐された。武装勢力は、身代金およびイラクに駐留している自衛隊の即時撤退を要求した。現地の武装勢力は、非イラク人のボランティア、NGO職員、民間企業社員、占領軍関係者を相次いで誘拐しており、外務省は最高レベルの海外渡航警告を発していた。誘拐された3人は、外務省の渡航警告を無視してイラク入りしている。
この事件に際し、マスコミは派手に報道を展開した。被害者の自宅を公表し、被害者宅には報道陣が大挙して押し寄せた。家族や親戚、学校時代の同級生に至るまで執拗な取材が行われた。
当時のマスコミの過熱報道の背景には、この誘拐事件を政治問題化しようとした野党議員の思惑がある。当時、小泉政権の圧倒的な選挙戦略に瞬殺されていた野党および左派マスコミは、事態を転換し小泉政権を攻撃する材料として、誘拐事件を利用した。そのため、「人質を無事に救出すること」だけが正しい収束の付け方だ、という報道の仕方をした。「万が一、人質が殺害されるようなことがあれば、小泉政権の責任問題だ」とさえ言い切った。
実際のところ、テロ活動による身代金を支払うことは、世界の常識に反している。身代金要求に応じることは、テロを行う側に「誘拐は儲かる」という既成事実を与えてしまい、同様の犯罪を呼び起こす誘因になる。それに沿って、当時の小泉政権は身代金の支払いを拒否した。
当時のマスコミは小泉政権を敵視していたため、「身代金拒否」→「人質殺害」→「政権の責任追及」→「小泉首相失脚」というシナリオを描いていた。
しかし、事態は他ならぬマスコミ自身のせいで、思惑とは異なる展開を示す。
小泉政権にプレッシャーを与えるためにマスコミが取った方法は、「被害者家族に会見をさせる」という方法だった。当初、人質の無事を祈るだけだった被害者家族は、日を追うごとに言論が過激化する。犯人グループの要求通りに自衛隊を撤退させることを主張したり、税金によって国が身代金を払うことは当然だ、と主張したり、挙句の果てには犯人グループの要求通りに動かない政権の批判を、公然と口にするようになった。 おそらく、被害者家族の過激化した言動は、マスコミによって煽られ、仕立てられたものだろう。図式としては、政権を失脚させたいマスコミが、被害者家族を利用して、世論の煽動を図ったものだったと思う。
ところが、過激化する被害者家族の言論に、非難が殺到する。マスコミによって被害者の自宅が特定され公表されていたため、被害者宅に中傷の電話、手紙、FAXが殺到する。電話回線が混乱して地方行政の業務に支障が出るほどの騒ぎだった。火付け犯のひとりであった朝日新聞は、自分たちで被害者家族の言動を煽っておいて、反発する世論の意外な反応に狼狽え、2014年4月12日に「被害者家族ーこれ以上苦しめるな」という社説をあわてて発表し、火消しを図っている。
被害者バッシングがあまりに炎上し、「自己責任」という言葉が流行った。イラクに行った奴は、危険も承知で行ったんだろう。外務省の渡航警告も無視した。だったら現地で死のうが誘拐されようが、自分で責任を取れ。そういう風潮が蔓延した。また被害者家族を祭り立てるマスコミの報道姿勢に非難が殺到し、報道の公正性が問われる事態になった。そういう世論に後押しされ、当時の小泉首相は、最後までテログループの要求に応じない毅然とした態度を取った。
結果としてマスコミは、政権攻撃のための方策によって、逆に自分たちが窮地に追い込まれることになった。テロ対策や人質の安全を、政治問題化しようとして火をつけ回り、逆に自分たちがその火を被ることになった。
半年後の2014年10月には、物見遊山でイラク見物に行った日本人青年が、現地の武装勢力に誘拐されて殺された。この頃になると、すでに「そりゃ殺されるだろ」「自業自得」という世論が形成されており、遺族も「本人の責任です」と達観していた。報道も事実だけを伝える静かなものであり、政府批判につなげるような暴論は一切出なかった。
あれから10年、マスコミの報道姿勢はどう変わったのだろうか。
今回の社説で注目すべきは、各新聞が「安倍政権はどうすべきか」という内容だ。身代金を税金から払って救出しろ、と言っているのか、断固として要求を呑むべきではない、と言っているのか。それを以て、10年が経ってから、各新聞社がこのような国際テロに対する言論を、どのように形成したのか、見ることができる。
日本政府は関係各国と連携して情報を集め、2人の救出に向け粘り強く交渉していく必要がある。2人が拘束された経緯ははっきりしないが、どんな事情で現地にいたにせよ、人命の重みを最優先に対応すべきだ。
(朝日社説)
不当な要求に応じれば、日本がテロに弱いとみなされる恐れがある。テロ組織を勢いづかせ、同様の事件を引き起こしかねない。菅官房長官が「テロに屈することなく、国際社会とテロとの戦いに貢献する我が国の立場に変わりない」と語ったのは当然だ。
(読売社説)
イスラエルで記者会見した安倍首相は、人質の処刑予告に「強い憤り」を表明する一方、人命尊重を第一に早期救出を目指す方針を示した。その通りである。
(毎日新聞)
安倍首相は「テロに屈してはならない」と述べるとともに、「国際社会と連携し、地域の平和と安定に貢献する方針は揺るがない」と決意を示した。「イスラム国」と対峙する各国と綿密に連携し、2人の早期解放に全力をあげてほしい。
(日本経済新聞)
エルサレム市内で会見した安倍首相は「人命を盾に脅迫することは許し難い行為で、強い憤りを覚える。日本人に危害を加えないよう、直ちに解放するよう強く要求する」「国際社会は断固としてテロに屈せず、対応していく必要がある」と述べ、2億ドルの拠出は避難民への人道支援であることを強調し、実施する考えを示した。菅義偉官房長官も「テロに屈することなく、国際社会とともにテロとの戦いに貢献していく」と述べた。この姿勢を支持する。
2004年にイラクのテロ組織が日本人を人質にとった際には、当時の小泉純一郎首相が直ちに「テロには屈しない」との大原則を示した。事件は最悪の結末を招いたが、それでも大原則を曲げるわけにはいかない。無法な要求を受け入れれば、日本が脅迫に屈する国であると周知され、同様の犯罪を招くことにもつながる。
(産経新聞)
身代金要求に対する態度を最も鮮明に表明しているのは産経新聞だ。「断固、払うべきではない」という主張だ。これは今回、菅義偉官房長官が出した声明と同様の内容だ。
また、読売新聞も政府発表に沿う内容を掲載し、官房長官の談話を「当然だ」と評価している。保守系の2紙は、まぁ当然といえば当然だろうが、政府の公式見解を支持している。
毎日新聞と日経新聞は、態度を曖昧にしている。どちらかというと日経のほうが「払うべきではない」感が強い。日経は安倍首相の談話を「テロに屈してはならない」と引用し、要求に応じない姿勢を伝えている。一方、毎日新聞は「「強い憤り」を表明」と間接的に伝えるに止め、直接的な引用を避けている。
反対に、安倍政権の姿勢に反する言論を「埋め込んでいる」のが朝日新聞だ。「人命の重みを最優先に対応すべき」という、耳触りのいい言葉でお茶を濁しているが、「最優先」ということは要するに「要求を呑め」という主張に読める。世界のテロ対応の趨勢よりも、これから未来のテロ封じ込め策よりも、今回の人質2人の命を「最」優先にしろ、ということだろう。
もし日本政府が身代金を支払わず、人質2人が殺されたとすると、朝日新聞はそれを「安倍政権の責任」と主張するつもりだろうか。そういう姿勢が隠れている書き方に見える。おそらく朝日新聞は、人質救出やテロ撲滅よりも「安倍政権失脚」が何よりも大事だろうから、こういう奥歯に物の挟まった書き方になるのだと思う。
まとめると、「身代金なんて払うな」色の強い順に
産経 > 読売 >>>>> 日経 >>> 毎日 >>>>>>> 朝日
という感じだろうか。
「テロに屈するな」というのなら、身代金は払うべきではない。最終的には「そんなところにいれば、そんな目にも遭うだろう」という自己責任の概念に行き着く。本人の意思で行ったのなら本人が責任をとるべきだろうし、本人の意に添わない形で強制力が働いたのであれば、強制力を行使した主体の責任だ。政府は勢力的に動くべきだろが、それは各社説が主張する通り、イスラム宗教指導者や現地の政治勢力との協力によってイスラム国に働きかける方法をとるべきであって、安易に身代金を払うべきではあるまい。
余談だが、もし誘拐されたのがフランス人だったら、イスラム教の宗教指導者は事態打開のための協力を拒否しただろう。
こういう時に、他人を侮辱せず、異なる価値観を尊重する重要性を痛感する。
こういう場所に行きたがる人は後を断つまい
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『自民の敗北 佐賀の乱で見えたこと』
(2015年1月14日 朝日新聞社説)
「大学入試に出題される頻度No.1」という恥を、堂々と宣伝文句にする朝日新聞の面目躍如たる社説。
僕が現代文や小論文の出題担当者だったら、ぜひ内容要約問題に使いたい文章だ。つまり、内容が破綻しており、何を主張したいのか全く分からず、趣旨が一貫していない。
朝日新聞の社説の根本姿勢は、「日本なんて潰れてしまえ」だ。国益に反する方向に世論を誘導し、外患が容易となる政策を声高に主張する。少なくとも、そう批判されても仕方がない。
今回の社説も、要するに言いたいことは、現在の自民党政権に対する批判に過ぎない。先月の衆議院選挙で、朝日新聞は現政権へのネガティブキャンペーンを大々的に展開し、「選挙によって、政権にNOを突きつける民意が明らかになるだろう」と豪語した。しかし結果として自民党・公明党は大勝。現状認識の誤りが明らかになり、朝日新聞は面目を失った。
今回の社説は、その延長上にある。1月11日の佐賀県知事選で、自民、公明両党推薦の樋渡啓祐氏が破れ、新顔の山口祥義氏が当選した。これをもって朝日新聞は「ほらみろ、やっぱり地域住民は自民・公明にNOを突きつけたじゃないか」と鼻息を荒くしている。衆議院選で予測を外した失態を少しでも回復しようとする、せめてもの負け惜しみだろう。
この社説で論じられていることは、矛盾ばかりだ。特に、「地方選と国政の関係」と「結果分析に対する評価」のふたつで、相反する内容を並べており、結果として何が言いたいのかまったく分からない社説になっている。
まず、自民・公明にとって、佐賀県の知事選で負けたら、それが何なのだろうか。
国政選挙と地方選挙は、それぞれ異なる基準で候補者に投票するべき、別の問題だ。僕だって、知事選や県議会選で投票する政党と、国政選挙で投票する政党が異なることなど普通にある。別に地方選と国政選で同じ勢力に投票しなければならない理由はなく、それぞれの選挙ごとにマニフェストと実績を汲み取って、独立して考えて投票しなければならない別事案だろう。
社説全体の趣旨は、明らかに「だから安倍政権はダメなんです」だろう。佐賀の知事選で自民・公明推しが負けた。つまり佐賀県民は自民・公明にNOを突きつけた。だから国政でも自民・公明はダメだ。そう言いたいのだろう。それは、結語を「問われたのは、民意に対する安倍政権の姿勢そのものだ」で締めていることからも明らかだ。
しかし、同じ社説の文章中で朝日新聞自身が、佐賀県知事選の結果について「それを安易に国政に結びつけるべきではない」とも述べている。佐賀知事選の結果が国政への批判につながるのか、つながらないのか、さっぱり分からない。
地方政治と国政の関係は、単純に部品と全体の関係ではない。佐賀には佐賀なりの事情も状況もある。先に行われた衆議院選と同じ軸で議論をすることに、それほど意味があるとは思えない。
その「佐賀なりの事情」を、朝日新聞は農業問題と見ている。佐賀県は鉱工業や生産業による輸出産業が盛んではなく、農業が主体の県だ。朝日新聞は今回の佐賀県知事選の結果を招いた理由として、以下のように論じている。
なんだかよく分からないように工夫して書いているが、「改革派」だの「農協改革」だのの背景にあるのは、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)だ。「人、モノ、サービスの流動性を高める」という綺麗事のもと、関税を撤廃して貿易を活発化させようという協定だ。厳密にはTPPは知的財産権や環境基準などを包括する幅広い協定だが、日本の産業界の浮沈に直結するのは関税問題だけと断じて良い。
日本は自動車や精密機械の輸出によって生き延びている国なので、関税を撤廃すれば輸出収入が増える。だから政権はTPPの締結に前向きな方向で検討を続けている。一方、関税が撤廃されて海外の安価な食料品が輸入されると、日本の農業は壊滅的な打撃を受ける。日本の農作物はグラム単位の単価が高いので、海外の安価な農作物が入ってきたら危機を被る。つまりTPPの締結というのは、「カネ儲けを優先して、日本の農業を見殺しにするのか」という問題だ。
佐賀県は農業県なので、TPPの締結にはもちろん反対の民意が強い。朝日社説の言う「農協改革」というのは、要するにTPPに反対する農協勢力を排除して、国策に沿う人材だけで農協を構築しようとする「人の入れ替え」を意味する。自民・公明が支持した樋渡啓祐氏は、その入れ替えを図る側の立場だ。
県知事選でそれが選ばれなかったということは、県民がTPP推しの政策に反対したということだ。これについて朝日社説は、「やり方が強引すぎたからだ」と主張している。
しかし朝日新聞は、もともとTPPには賛成の立場だ。2014年9月7日の朝刊では「TPPは消費者にメリットをもたらす」という前提で、TPPに賛同する姿勢を示している。左派の朝日新聞は工業労働者を支持する立場なので、輸出産業を活発にするTPPを容認する立場をとる。保守系との結びつきが強い農業関係者は、もともと朝日新聞の読者層ではない。
つまり、佐賀県知事選の結果は、従来朝日新聞が主張していたTPP擁護の立場にとっても打撃のはずだ。その朝日新聞が、こともあろうに、TPP反対の農業関係者の民意を根拠に、現政権を批判しているわけだ。自社の主張とぶつかる結果が出ようとも、「政権批判のネタになるんなら、それもいいや」という、無節操な態度だ。少なくとも、日本の行く末について真剣に考えている新聞の態度ではない。
今回の朝日社説の内容が不可解なのは、本来であれば批判するべき事態を、「現政権の批判に役に立つ」というだけの理由で擁護しているからだ。自社の立場や主張と反することでも、「反安倍政権」を何よりも最優先し、肯定する立場に立つ。そして、そこから生まれる批判を受けないために、わざと分かりにくく記事を書いている。
佐賀県知事選の結果を「民意の反映」として捉えると、要するに「TPP反対」ということだ。だから馬鹿正直に「佐賀県民の総意はTPP反対だ。だからTPPを押し進めようとする安倍政権はダメだ」と書き、TPP導入を徹底的に叩けばいいだけの話だ。しかし、朝日の購買層である輸出産業界はTPPに大賛成のため、露骨にTPPを叩くと購買層からの反発を受ける。だから朝日社説はわざと「TPP」というキーワードを隠し、「農協改革」「規制改革」などという、実態がよく見えない言葉でごまかしている。
ごまかしの最たるものは、最後の段落にある「今回の結果を、農協改革の是非という狭い枠組みだけでとらえるべきではなかろう」というまとめ方だ。「だったら言うな」だろう。自分で持ち出した根拠を自分で否定して、一体何をしたいのだろか。農協改革の是非を根拠に現政権を批判しておいて、「それだけで今回の結果を捉えるべきではない」というのであれば、朝日新聞の政権批判は根拠を失う。
このまとめ方は要するに、朝日新聞の購買層に対する言い訳だろう。「TPP導入に反対の結果が出てしまいましたけれど、それだけが今回の選挙結果の理由ではありませんよね。すべて安倍首相が悪いんですよね」という媚に過ぎない。
自分たちの主張を曲げることなく政権の批判をするのであれば、それはそれで立派な態度だ。また、それが新聞の果たすべき役割でもあるだろう。しかし、まず「政権批判ありき」で、自社の主張と反することでも政権批判のためならば節操なく持ち上げる態度は、まっとうな新聞社のあり方とは思えない。
(2015年1月14日 朝日新聞社説)
「大学入試に出題される頻度No.1」という恥を、堂々と宣伝文句にする朝日新聞の面目躍如たる社説。
僕が現代文や小論文の出題担当者だったら、ぜひ内容要約問題に使いたい文章だ。つまり、内容が破綻しており、何を主張したいのか全く分からず、趣旨が一貫していない。
朝日新聞の社説の根本姿勢は、「日本なんて潰れてしまえ」だ。国益に反する方向に世論を誘導し、外患が容易となる政策を声高に主張する。少なくとも、そう批判されても仕方がない。
今回の社説も、要するに言いたいことは、現在の自民党政権に対する批判に過ぎない。先月の衆議院選挙で、朝日新聞は現政権へのネガティブキャンペーンを大々的に展開し、「選挙によって、政権にNOを突きつける民意が明らかになるだろう」と豪語した。しかし結果として自民党・公明党は大勝。現状認識の誤りが明らかになり、朝日新聞は面目を失った。
今回の社説は、その延長上にある。1月11日の佐賀県知事選で、自民、公明両党推薦の樋渡啓祐氏が破れ、新顔の山口祥義氏が当選した。これをもって朝日新聞は「ほらみろ、やっぱり地域住民は自民・公明にNOを突きつけたじゃないか」と鼻息を荒くしている。衆議院選で予測を外した失態を少しでも回復しようとする、せめてもの負け惜しみだろう。
この社説で論じられていることは、矛盾ばかりだ。特に、「地方選と国政の関係」と「結果分析に対する評価」のふたつで、相反する内容を並べており、結果として何が言いたいのかまったく分からない社説になっている。
まず、自民・公明にとって、佐賀県の知事選で負けたら、それが何なのだろうか。
国政選挙と地方選挙は、それぞれ異なる基準で候補者に投票するべき、別の問題だ。僕だって、知事選や県議会選で投票する政党と、国政選挙で投票する政党が異なることなど普通にある。別に地方選と国政選で同じ勢力に投票しなければならない理由はなく、それぞれの選挙ごとにマニフェストと実績を汲み取って、独立して考えて投票しなければならない別事案だろう。
社説全体の趣旨は、明らかに「だから安倍政権はダメなんです」だろう。佐賀の知事選で自民・公明推しが負けた。つまり佐賀県民は自民・公明にNOを突きつけた。だから国政でも自民・公明はダメだ。そう言いたいのだろう。それは、結語を「問われたのは、民意に対する安倍政権の姿勢そのものだ」で締めていることからも明らかだ。
しかし、同じ社説の文章中で朝日新聞自身が、佐賀県知事選の結果について「それを安易に国政に結びつけるべきではない」とも述べている。佐賀知事選の結果が国政への批判につながるのか、つながらないのか、さっぱり分からない。
地方政治と国政の関係は、単純に部品と全体の関係ではない。佐賀には佐賀なりの事情も状況もある。先に行われた衆議院選と同じ軸で議論をすることに、それほど意味があるとは思えない。
その「佐賀なりの事情」を、朝日新聞は農業問題と見ている。佐賀県は鉱工業や生産業による輸出産業が盛んではなく、農業が主体の県だ。朝日新聞は今回の佐賀県知事選の結果を招いた理由として、以下のように論じている。
知事選では、県内にある九州電力玄海原発の再稼働や、自衛隊のオスプレイ佐賀空港配備といった問題よりも、政権が進める農協改革をめぐる「政権対農協」の争いがクローズアップされた。政権が支援する樋渡氏に対し、改革に否定的な地元農協などが反旗を翻す形で山口氏を推したからだ。
農協改革など規制改革に力を入れる政権が樋渡氏を全面的に支援したのは、「改革派」の側面を買ったからだ。農業県の知事選を制すれば、抵抗が大きい農協改革にも弾みがつくとの狙いだ。
なんだかよく分からないように工夫して書いているが、「改革派」だの「農協改革」だのの背景にあるのは、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)だ。「人、モノ、サービスの流動性を高める」という綺麗事のもと、関税を撤廃して貿易を活発化させようという協定だ。厳密にはTPPは知的財産権や環境基準などを包括する幅広い協定だが、日本の産業界の浮沈に直結するのは関税問題だけと断じて良い。
日本は自動車や精密機械の輸出によって生き延びている国なので、関税を撤廃すれば輸出収入が増える。だから政権はTPPの締結に前向きな方向で検討を続けている。一方、関税が撤廃されて海外の安価な食料品が輸入されると、日本の農業は壊滅的な打撃を受ける。日本の農作物はグラム単位の単価が高いので、海外の安価な農作物が入ってきたら危機を被る。つまりTPPの締結というのは、「カネ儲けを優先して、日本の農業を見殺しにするのか」という問題だ。
佐賀県は農業県なので、TPPの締結にはもちろん反対の民意が強い。朝日社説の言う「農協改革」というのは、要するにTPPに反対する農協勢力を排除して、国策に沿う人材だけで農協を構築しようとする「人の入れ替え」を意味する。自民・公明が支持した樋渡啓祐氏は、その入れ替えを図る側の立場だ。
県知事選でそれが選ばれなかったということは、県民がTPP推しの政策に反対したということだ。これについて朝日社説は、「やり方が強引すぎたからだ」と主張している。
しかし朝日新聞は、もともとTPPには賛成の立場だ。2014年9月7日の朝刊では「TPPは消費者にメリットをもたらす」という前提で、TPPに賛同する姿勢を示している。左派の朝日新聞は工業労働者を支持する立場なので、輸出産業を活発にするTPPを容認する立場をとる。保守系との結びつきが強い農業関係者は、もともと朝日新聞の読者層ではない。
つまり、佐賀県知事選の結果は、従来朝日新聞が主張していたTPP擁護の立場にとっても打撃のはずだ。その朝日新聞が、こともあろうに、TPP反対の農業関係者の民意を根拠に、現政権を批判しているわけだ。自社の主張とぶつかる結果が出ようとも、「政権批判のネタになるんなら、それもいいや」という、無節操な態度だ。少なくとも、日本の行く末について真剣に考えている新聞の態度ではない。
今回の朝日社説の内容が不可解なのは、本来であれば批判するべき事態を、「現政権の批判に役に立つ」というだけの理由で擁護しているからだ。自社の立場や主張と反することでも、「反安倍政権」を何よりも最優先し、肯定する立場に立つ。そして、そこから生まれる批判を受けないために、わざと分かりにくく記事を書いている。
佐賀県知事選の結果を「民意の反映」として捉えると、要するに「TPP反対」ということだ。だから馬鹿正直に「佐賀県民の総意はTPP反対だ。だからTPPを押し進めようとする安倍政権はダメだ」と書き、TPP導入を徹底的に叩けばいいだけの話だ。しかし、朝日の購買層である輸出産業界はTPPに大賛成のため、露骨にTPPを叩くと購買層からの反発を受ける。だから朝日社説はわざと「TPP」というキーワードを隠し、「農協改革」「規制改革」などという、実態がよく見えない言葉でごまかしている。
ごまかしの最たるものは、最後の段落にある「今回の結果を、農協改革の是非という狭い枠組みだけでとらえるべきではなかろう」というまとめ方だ。「だったら言うな」だろう。自分で持ち出した根拠を自分で否定して、一体何をしたいのだろか。農協改革の是非を根拠に現政権を批判しておいて、「それだけで今回の結果を捉えるべきではない」というのであれば、朝日新聞の政権批判は根拠を失う。
このまとめ方は要するに、朝日新聞の購買層に対する言い訳だろう。「TPP導入に反対の結果が出てしまいましたけれど、それだけが今回の選挙結果の理由ではありませんよね。すべて安倍首相が悪いんですよね」という媚に過ぎない。
自分たちの主張を曲げることなく政権の批判をするのであれば、それはそれで立派な態度だ。また、それが新聞の果たすべき役割でもあるだろう。しかし、まず「政権批判ありき」で、自社の主張と反することでも政権批判のためならば節操なく持ち上げる態度は、まっとうな新聞社のあり方とは思えない。
「○○の乱」というのは、結果として鎮圧されたものを指すのだが
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休日になんとなく大学入試問題を解いていたら、こんな問題を見つけましてね。
(答え)
P(x)をx-1で割った商をA(x)とおくと、
P(x)=(x-1)A(x)+1001 …(1)
と表せる。
A(x)をx-11で割った商をB(x)とおくと、
A(x)=(x-11)B(x)+101 …(2)
(2)を(1)に代入して、
P(x)=(x-1){(x-11)B(x)+101}+1001 …(3)
ところで、整式f(x)をx-aで割った余りは、f(a)である。 …(4)
(∵)f(x)をx-aで割った商をq(x)とする。x-aは1次式なので、余りは定数になる。それをrとする。
つまり、f(x)=(x-a)q(x)+r
これにx=aを代入すると、f(a)=rとなる。(Q.E.D.)
(4)を利用すると、P(x)をx-11で割った余りはP(11)である。
(3)により、P(11)=(11-1)・101+1001 = 1010+1001 = 2011
よって答えは、2011
(4)で証明した内容は「剰余の定理」といって、厳密には高校数学の範囲には入っていない。
答案には「剰余の定理より」と書いてしまってもいいのかもしれないが、どうせ定理なので証明可能なので、面倒がらずに証明まで入れたほうが答案としてはしっかりしているだろう。
そんなことよりも、この問題が面白いところは、2011年の入試に出題された問題、ということにある。
2011年の入試の答えが、2011。
なかなか面白いジョークだと思う。出題者の遊び心が見えて面白い。
整式P(x)をx-1で割ると余りが1001であり、その商をx-11で割ると余りが101であった。
P(x)をx-11で割った余りを求めよ。
(答え)
P(x)をx-1で割った商をA(x)とおくと、
P(x)=(x-1)A(x)+1001 …(1)
と表せる。
A(x)をx-11で割った商をB(x)とおくと、
A(x)=(x-11)B(x)+101 …(2)
(2)を(1)に代入して、
P(x)=(x-1){(x-11)B(x)+101}+1001 …(3)
ところで、整式f(x)をx-aで割った余りは、f(a)である。 …(4)
(∵)f(x)をx-aで割った商をq(x)とする。x-aは1次式なので、余りは定数になる。それをrとする。
つまり、f(x)=(x-a)q(x)+r
これにx=aを代入すると、f(a)=rとなる。(Q.E.D.)
(4)を利用すると、P(x)をx-11で割った余りはP(11)である。
(3)により、P(11)=(11-1)・101+1001 = 1010+1001 = 2011
よって答えは、2011
(4)で証明した内容は「剰余の定理」といって、厳密には高校数学の範囲には入っていない。
答案には「剰余の定理より」と書いてしまってもいいのかもしれないが、どうせ定理なので証明可能なので、面倒がらずに証明まで入れたほうが答案としてはしっかりしているだろう。
そんなことよりも、この問題が面白いところは、2011年の入試に出題された問題、ということにある。
2011年の入試の答えが、2011。
なかなか面白いジョークだと思う。出題者の遊び心が見えて面白い。
こういう問題ってどうやって作るんだろう。
ペンギン命
takutsubu
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