たくろふのつぶやき

お鍋には熱燗をつけてくれたまへ。

2014年11月

『大学入試改革 「ゆとり」失敗繰り返すな』
(2014年11月18日 産経新聞社説)


音符も読めない人が音楽大学に入学できるわけはないし、絵も書けない人が美術大学に入れるわけはない。
だとしたら、なぜ最高学問の府である大学に入学するときには、「学力」が絶対条件になるはずだ。なのに、なぜ大学入試が話題になるときだけ、「多様な学力観」だの「総合的な人間力」だの、訳の分からない言葉が飛び交うのだろうか。総合的な人間力が高ければ、学問研究が優秀だとでも言うのだろうか。

中央教育審議会が、大学入試センター試験を廃止して新たなテストを導入する案を含む答申案をまとめた。相変わらずの迷走ぶりだ。中教審がここ10年ほど大学入試をめぐって右往左往しているのは、建前上、「大学の多様化に、制度が追いついておらず、現実に即さない実態になっている」という批判がある。それに突き上げられてのことだろう。

大学入試の混乱は、はるか昔、まだそんなに簡単に大学などへは進学できなかった時代に遡る。
東大、京大をはじめとする国立大学の入試は2段階選抜(1次試験、2次試験)だったが、もともと独自で作成する1次試験を課していた。そののち、志望者が多い難関校では、1次試験が「落とすための試験」となり、難問・奇問が続出するようになる。記念受験も含めて、誰でも出願できるのだから、当時の1次試験の採点担当者はさぞ大変だっただろう。そうした奇怪な1次試験が、高校での勉強とは別に「入試に受かるための勉強」を生徒に強いることになり、「高校での学習範囲を正しく反映しているのか」という批判が相次いだ。

そこで当時の文部省(現・文部科学省)は、何度も国立大学側に、一次試験の内容を「高校の学習範囲内に収まるもの」に定めるように通達を出した。ところが事態は一向に改善されず、大学側は2次試験の採点を楽にするために1次試験のハードルを上げ続ける。
そこでブチ切れた文部省は、国立大学の一次試験としてすべて共通の問題を実施することにした。これがいわゆる「共通一次試験」だ。国立大学に出願する学生は、すべてこの共通一次を受けなければならない。共通一次は、「高校での学習内容をマスターしていれば大学に入れる」という建前を実現するため、いわば文部省が面子をかけて行った施策だった。

大学の教師をやっていると分かるが、この共通一次という試験は、現場の大学教員に相当な負担を強いたことだろう。普段の業務だけでも忙しいところを、共通一次の問題作成という面倒な仕事が増える。大学独自の一次試験を作るなら、大学内の密室作業で済むが、共通一次の場合は他の大学の先生と連携しながら試験問題を作らなければならない。しかも問題と解答が一般公開されるため、作文ミスが許されない。こうした制度の無理がたたり、却って大学側の負担が増えることになった。
結局、「制度が変わっても問題を作る人が同じ」だったことが災いし、共通一次でも難問・奇問を完全に排することができなかった。

そこで文部省は、大学入試に特化した独立行政法人「大学入試センター」の権限と範囲を強化し、共通一次を土台とした改訂版の一次入試を実施した。これが「大学入学者選抜大学入試センター試験」、いわゆるセンター試験だ。
「センター」試験というのは、別にレフト試験やライト試験があるわけではなく、「大学入試センター」が作成・実施しているから「大学入試センター試験」、それが略されて「センター試験」と呼ばれているに過ぎない。一般には「大学入試/センター試験」と誤解されているが、実際には「大学入試センター/試験」と切るのが正しい。

実際のところは、大学入試センターの実施や権限強化は、文部省・大学関係者の天下り先の確保として行われた面がある。現在の大学入試センターは、1978年に閉校された東京教育大学の跡地(東京都目黒区駒場)に建てられている。当時、有数の優秀大学であった東京教育大は、その場所と人員を、新設された大学入試センターに譲渡し、学術研究機能を茨城県つくば市に移転した。現在の筑波大学だ。

僕は毎年センター試験を解いているが、基本的な学力を問う試験として、それほど逸脱した問題だとは思わない。大学で勉強・研究をしたいのであれば、あれくらいの問題は解けないとだめだろう。
なのに、なぜセンター試験廃止論が出るほど、現制度は批判の対象になっているのか。

新聞報道では、「ゆとり教育」と「学力低下」がセットになって論じられている。このふたつは同じ問題として論じられることが多いが、「ゆとり教育」は「学力低下」の原因のひとつであって、すべてではない。より根源的な問題は、現在の大学が増えすぎたことにある。

現在のセンター試験は、成立過程から見ても分かる通り、もともとは国立大学の一次試験を想定して作られたシステムだ。私立大学の利用は念頭に入れていない。共通一次の時代には、私立大学の利用は認められなかった。
それがセンター試験の段階に移行すると、私立大学でこれを利用する大学が増えた。僕はセンター試験初期の頃の受験生だが、当時の私立大学でセンター試験を利用している大学は、立命館大学法学部と日本大学国際関係学部のふたつが有名だった。

団塊ジュニアの世代になると受験者数が急増し、大学入試の倍率がはね上がった。この頃は予備校バブルの絶頂期で、先日数多くの系列校を閉鎖した代々木ゼミナールの全盛期もこの頃にあたる。
こうした時流に沿って、新規の私立大学が数多く設立された。なぜか知らないが、中学・高校を経営する学校法人の経営者は、最終的な野望として「系列校の頂点として『大学』を設立すること」を夢見るらしい。そうした学校法人が次々と大学を設立し、有り余る受験生を吸収していった。

時代が変わり21世紀になると、10代の人口ががくっと激減する。新設私立大学の多くが経営難に陥り、今や全大学の4割は定員割れという有様だ。そういう私立大学は制度維持のため多くの留学生をアジア圏から受け入れることになり、学籍とビザを取得したあと姿を消す「不法就労留学生」が社会問題化した。山形県の酒田短期大学は、定員の2倍を超える多数の中国人留学生を不法に受け入れ、不法就労を目論む中国人労働者の間で「日本へのトンネル」として利用されていた。酒田短大は2004年に文科省による国内初の解散命令によって廃校となっている。
先月の10月29日、文科省管轄の大学設置・学校法人審議会は、新規登録申請の「幸福の科学大学」の設置を不可とする決定を下した。なにせ母体が宗教法人だから、マスコミに広告費をたっぷり払っているのだろう。マスコミはこの設置不可を批判する論調だった。しかし昨今の大学の乱立状態を鑑みると、認可がおりるほうが不可解なのだ。今の日本に、これ以上大学は必要ない。

現在では全国の大学が定めている入学定員の総計よりも、受験生の数のほうが少ない。いわゆる大学全入時代だ。選り好みさえしなければ、どこかの大学には必ず入れる。学力がなかろうが高校時代に不真面目だろうが、大学側が「入ってください入ってください」の状況のため、名前さえ書ければ入れる。日本の大学は、全体的に見ると、もはや「学問研究機関」ではなくなっているのが実態だ。大学側からしてみれば、「お客さん」に来てもらうためには設備とサービス充実が大切なので、やたらに就職活動の支援体制をアピールする。だから、大学で「通常講義を欠席して、就職ガイダンスに出席する」という本末転倒なことが平気で起こる。笑い話ではなく、実際の話だ。

もちろん一部の大学は、現在でも適切な競争倍率を維持して、高いレベルの研究・教育を行っている。そうした優良大学と、制度の維持だけに必死になっている「とりあえず作っちゃった大学」を、同じ「大学」として論じること自体、そもそも無理なのだ。酒田短大のような例を根拠に東大の入試を批判するのは、筋が通っていない。

センター試験が現状に合わなくなった理由は、「大学入試にすべて使える汎用性」にこだわった結果、東大・京大のような難関校と「なんちゃって大学」の入試を、同列に扱ってしまうことにある。
僕は個人的には、「大学というのは学問研究機関。その機能を果たしていない底辺大学はさっさと廃止するべきだ」とは思わない。18歳人口が減っているとはいえ、事実として高校卒業後に簡単に就職できるほど、日本の景気は上向いていまい。企業は苦しい台所事情で少数精鋭の人事採用をするため、質の高い教育を受けた人材を欲しがる。

学生の側からすれば、そんなこと言われても困るだろう。ゆとり教育があってもなくても、学生の全体的な質というものは下がり続けるものなのだ。大学卒業の資格のために大学に通う必要はあるが、そこに入るだけの学力がない学生はいるだろう。実際のところ、大学生のほとんどは、学ぶために大学に通っているのではない。「大学卒業」の学歴を得るためだけに大学に通っている。そういう学生を、高校卒業後から22歳くらいまでの間に「収容」する受け皿は、ないよりはあったほうがいいと思う。

しかし、そういう大学は、あくまでも「就職支援校」に過ぎず、最高学府としての機能を果たすことは難しいことを自覚するべきだ。英語の授業でbe動詞と一般動詞の区別を教えているような大学が、「大学」を名乗るなと言いたい。僕が教えている大学も、「そこそこまともな大学」と世間一般には思われている大学だが、実際のところは英語の授業で5文型を教えている。

センター試験は、国立大学も私立大学も共通して使用するため、「大学といってもいろいろある」という現状に対処し切れていない。要するに、出題内容が悪いのではなく、利用の仕方が悪いのだ。全身の共通一次試験は、国立大学に限定された試験だったから、まだ教育の基本理念を共有する大学間での利用だった。それらは、同じ「大学」という呼び方で括ってよい。ところが現在では、名前だけ「大学」を冠し、実態は就職支援専門学校、という私立大学が激増している。国立大学の難関校と、そういう「名前だけ一応大学」の入試を、同じ問題で行うのは、そりゃ無理だろう。

大学に入ってくる生徒に、人間性や将来的魅力が不要だとは言わない。大学は人が集まる集団なので、そういう要素はどのみち必要だろう。
しかし、そういう要素を「選抜の要件」にするのは、僕は絶対に反対だ。「人間性」などという数値に換算できない要素を埋め込むと、それを利用した不正が絶対に起こる。大学には、経営戦略やコネの事情で「なんとしても入学させなければならない学生」というのがいる。今までの入試制度は、そういう「不正」入学学生を完全には排除できないまでも、抑制力にはなっていた。大学側もそういう学生の入学を大っぴらにするのは憚られた。しかし入試に学力以外の要素を盛り込むと、大学側に「この学生は入試要件を満たしています」という大義名分を与えてしまう。その結果、「入試の合否は大学側の一存でどうにでも決まる」ということになるだろう。

大学入試を学力で輪切りにすることを批判するマスコミは、よく「学力だけで判断して良いのか」などという本末転倒なことを言う。しかし、学力さえ身につければ自分の将来を開ける可能性のあるシステムを備えている国が、世界中でどれだけあるというのだろうか。コネも家柄も関係なく、勉強さえすれば大学には入れるのだ。この「公平さ」が、どれだけ貴重なものなのか、分かっているのだろうか。
逆の立場になれば、理不尽さが分かると思う。大学に入りたくて必死に勉強し、入試でも高得点を取った。しかし「人格的に優れている」「人間性が高い」という不明確な理由で他の受験生が多数合格し、それに弾かれる形で不合格になってしまった。そういう事態は大学入試として健全な形だろうか。

センター試験は、膨大な時間と手間をかけて作られているため、かなり良くできている試験だと思う。世界各国の大学入試資格試験と比べても、問題の質はかなり高いだろう。僕は個人的に、センター試験の5教科8科目(数・社・理は2科目ずつ)を解いて、点数が8割に達しない大人は、「大学卒業」を名乗ってはいけないと思う。

「21世紀の学力」だの「情報化社会の能力」などという実態のないことを主張する入試改革案は、もれなく「底辺校」に目線を定めている。そういう新規大学が現状のシステムに合っていないのであれば、その層だけを対処する案にするべきだろう。そういう一部の大学の自業自得を、あたかも全体の問題のように騒ぎ、きちんと学術研究・教育を行っている優良大学を巻き込まないでもらいたい。




「1点刻み」の何が悪いのだろうか
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5MB



1956年に制作されたハードディスク、IBM 350


容量は5MB



世界史的に見てもここ100年の進化度合は異常

『「スーパーウーマン」に学ぶ 老いない勉強法』(草野仁)
(日本経済新聞)

1986年に「世界ふしぎ発見!」が始まるとき、担当者が黒柳さんに出演依頼をしたところ、最初は「私はクイズ番組には出ません」とキッパリ断られたといいます。負けず嫌いな黒柳さんは、解けない問題があることを視聴者に見られたくなかったのだそうです。そもそもこの番組は、正解した人は頭が良いということではなく、人間の考え方や行動に多様性があることを示そうとする狙いがありました。その点を強調して、私は説得を試みました。

黒柳さんは1週間考えた末、出演を承諾してくれました。でも、そこで一つだけ条件を付けたのです。

「音楽やお芝居の問題ならば、人に負けない知識があります。でも、科学やスポーツはもちろん、地理、歴史の分野は知らないことばかり。そこで考えたのですけど、この番組に出ることをきっかけにして、腰を据えて勉強しようと思うんです

黒柳さんが要求した条件というのは、番組収録の1週間前でいいから、「開拓時代のアメリカ」「大航海時代」といった程度の、大まかなテーマを教えてほしいとのことでした。そうすれば、収録までの間にいろいろと本を読んで、大ざっぱなイメージを頭に入れることができるというわけです。結局、ほかの4人の回答者にも同じ条件を与えることで番組が始まりました。  

その話を聞いて、私は正直言って半信半疑でした。  
「勉強するとはいっても、忙しい方だから難しいのではないか。たかだか娯楽番組に出演するくらいで、本当に勉強するのだろうか」

そんなある日、黒柳さんは真っ赤に充血した目でスタジオにいらっしゃいました。聞けば、今週は本を3冊買い込んだのに、非常に忙しくて1冊目に手がかかったのが前夜の10時。そして、難しい内容ばかりの本を必死に読んで頭に入れ、ようやく3冊目を読み終わったのがついさっき。午後の3時だというのです。
これを聞いて私は驚きました。テレビやお芝居の仕事が終わってから、一睡もしないで17時間も本と格闘していたのです!  

30年近くたった今でも、毎週平均5冊の本を読んでいるといいます。「音楽家について」というこれまた抽象的なテーマを出したときには、なんと週に16冊も読んだそうです。こんなことが続けられる人は、芸能界だけでなく、広い世界でもそうはいないでしょう。私が、心の中で「スーパーウーマン」と呼んでいるゆえんです。

 黒柳さんと接していると、「人間は、頭脳を使いすぎて病気になることはない」ということを身に染みて感じます。私たちは、もっと頭を使って活動しなくてはならないと思うのです。使わないままで死滅する脳細胞の方が問題です。何かに関心を持ったら、スピードとエネルギーを注いでいくのが一番。目の前に黒柳徹子さんといういい実例があるからにほかなりません。  

私も彼女を見習い、最近になって様々なことを勉強し直そうと考えるようになりました。「わからない」「知りたい」ということがあったら、すぐにネットを使ってでも調べるようにしています。




御年、81歳。

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