たくろふのつぶやき

毎日がエブリデイ。

2014年09月

アルプス一万尺 全29番

1. アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを さあ踊りましょ

2. 昨日見た夢 でっかいちいさい夢だよ のみがリュックしょって 富士登山

3. 岩魚釣る子に 山路を聞けば 雲のかなたを 竿で指す

4. お花畑で 昼寝をすれば 蝶々が飛んできて キスをする

5. 雪渓光るよ 雷鳥いずこに エーデルヴァイス そこかしこ

6. 一万尺に テントを張れば 星のランプに 手が届く

7. キャンプサイトに カッコウ鳴いて 霧の中から 朝が来る

8. 染めてやりたや あの娘の袖を お花畑の 花模様

9. 蝶々でさえも 二匹でいるのに なぜに僕だけ 一人ぽち

10. トントン拍子に 話が進み キスする時に 目が覚めた

11. 山のこだまは 帰ってくるけど 僕のラブレター 返ってこない

12. キャンプファイヤーで センチになって 可愛いあのこの 夢を見る

13. お花畑で 昼寝をすれば 可愛いあのこの 夢を見る

14. 夢で見るよじャ ほれよが浅い ほんとに好きなら 眠られぬ

15. 雲より高い この頂で お山の大将 俺一人

16. チンネの頭に ザイルをかけて パイプ吹かせば 胸が湧く

17. 剣のテラスに ハンマー振れば ハーケン歌うよ 青空に

18. 山は荒れても 心の中は いつも天国 夢がある

19. 槍や穂高は かくれて見えぬ 見えぬあたりが 槍穂高

20. 命捧げて 恋するものに 何故に冷たい 岩の肌

21. ザイル担いで 穂高の山へ 明日は男の 度胸試し

22. 穂高のルンゼに ザイルを捌いて ヨ-デル唄えば 雲が湧く

23. 西穂に登れば 奥穂が招く まねくその手が ジャンダルム

24. 槍はムコ殿 穂高はヨメご 中でリンキの 焼が岳

25. 槍と穂高を 番兵において お花畑で 花を摘む

26. 槍と穂高を 番兵に立てて 鹿島めがけて キジを撃つ

27. 槍の頭で 小キジを撃てば 高瀬と梓と 泣き別れ

28. 名残つきない 大正池 またも見返す 穂高岳

29. まめで逢いましょ また来年も 山で桜の 咲く頃に





こやり



はぁ。

若者論なのか経済論なのか

『読書の秋 若者よ、本を開こう』
(2014年09月15日 毎日新聞社説)


同じような内容の社説を、何年繰り返して書いているのだろうか。
「最近の若い者は」という結論ありきの社説。何を啓発したい文章なのか、さっぱり分からない。

そもそも、「最近の若者は本を読まない」というのは、大昔から言われてきたことだ。知的活動の媒体が変化しているのだから、今の若者の読書量が減るのは、あたりまえだ。インターネットの発達で、学生は欲しい情報を書籍に頼らなくても済むようになった。今時の大学生は、期末レポートを書く際、図書館には行かないかもしれないが、インターネットは必ず使うだろう。毎日新聞の社説は「全国大学生活協同組合連合会の昨年の調査によると」と、「若者」という言葉の意味を、事実上「大学生」に限定している。媒体がもたらす「知」を話題にするのであれば、「なぜ、電子媒体ではなく紙媒体の書籍を読むべきなのか」を論じなくては話になるまい。

本当に学生の本離れが進んでいるのか。毎日新聞が引用している、全国大学生活協同組合連合会による第49回学生生活実態調査をよく見ると、男子・女子ともに例年平均とそれほど落ち込んでいるようには見えない。男子のほうが若干読書時間が多いが、毎年の数字を比べると、一日平均の読書時間は、男子は30分前後、女子は25分前後で、それほど大きな落ち込みには見えない。調査を行った大学生協も「04年以降男子の平均読書時間は28分~35分の間を上下しているが、女子は04年の31.6分から13年の24.3分にまで緩やかに減少が続いている。」という程度のまとめ方だ。
毎日新聞がこの調査で注目している箇所は、「まったく本を読まない」という学生が40.5%に達し、調査を始めた04年以降、初めて4割を超えたことだ。大学で教えている実感としても、本の読み方を知らない学生は確かに増えている。そういう学生をよく調べてみると、「そもそもこの学生はなぜ大学に入ってきたのだろう」という程度の学力しかないケースが多い。本の読み方を知らないだけではなく、知的活動に従事する意義も方法論も知らないし、分かろうとしないのだ。

数十年前と今では、「大学」の位置づけが異なる。少子化と大学乱立が同時に起こり、いま高校生は願書さえ出せば、どこかの大学には必ず入学できる状況にある。多くの学生にとって大学はもはや「学問を修めたい人が学ぶところ」ではなく、高校生活の延長としてバイトや部活に明け暮れる場所、就職活動の仕方を教えてくれる予備校だと思ってる。
いまの大学生はゆとり教育を被った最後の世代だ。十数年前にゆとり教育を自信満々に導入し、その手始めに「日本人には日本語を教える授業など要らない」といって現代文の授業時間をごっそり削減したのは、文科省なのだ。本の読み方を教え、読書を習慣づける契機になる機会を削っておいて、「最近の若者は本を読まない」もないものだ。毎日新聞は澄ました顔をして「高校や大学での読書指導も不十分なのではないか」などと書いているが、現場の先生方は頭に血が上る思いだろう。国語教育など不要と切って捨て、読書指導が不十分なカリキュラムにしたのは、いったい誰なのだろうか。

毎日新聞は第49回学生生活実態調査から「『まったく本を読まない』という学生が40.5%に達し、調査を始めた04年以降、初めて4割を超えた」という情報の上澄みだけを切り取って、安易に「若者の読書離れ」という結論を引き出しているが、この調査からは他の背景が読み取れる。
生活費、奨学金、仕送りなどの学生をとりまく経済状況は、2006年から緩やかに下降する傾向にある。2013年は数年ぶりに微増に転じたが、全体として学生の収入は下がっている。
また、大学の勉強以外の「就職に関することや関心事」の勉強時間は1日23.4分。この数字は増加傾向にある。1日の授業+大学の勉強+大学以外の勉強時間の合計は、2012年から15.3分増加した。

つまり、今の学生は「金がなく、就職活動で忙しい」のだ。大学3年の夏から就職活動が本格化し、大学後半の1年半を実質就職活動に割かなければならない。昔の学生ほど、読書に充てるような経済的、精神的、時間的なゆとりがない。そんな状況で、どうやって本を読めというのだろうか。
毎日新聞の社説からは、「秋になったからとりあえず読書を煽っとけ」「どうせ若者は本なんて読んじゃいないんだから啓発するような書き方をしておけ」「それにつじつまが合うようなデータでも飾っとけ」という、非常にテンプレートに沿った、頭を使わずに書いた文章に読める。去年の文章、おととしの文章と、何が違うのだろうか。こんな怠惰な「今時の若者は」論で、時代が変わったことなど、いままでの歴史にあったのだろうか。

こういう「若者の本離れ」のような文章が必ず犯す誤謬は、読書にまつわる「軸」を混同した主張を展開することだ。読書によって得られる理知的な能力と、読書がもたらす経済効果を、ごちゃ混ぜに論じている。


 灯火親しむ季節になった。読書は知識を蓄え、感覚を磨き、考える力を養うだけでなく、視野を広げ、想像力を鍛える。「読書離れ」がいわれて久しいが、今こそ、書物の効用を見直し、特に若者が本に向かうように呼びかけたい

日本の出版不況が続いている。「出版年鑑」(出版ニュース社)によると、昨年の出版界の売り上げは約1兆7711億円。内訳は書籍が約8430億円、雑誌が9281億円だった。出版界全体のピークは1996年の2兆6980億円で、3分の2に減ってしまったことになる。特に雑誌の落ち込みがひどい。スマートフォンなどの普及が大きな理由だろう。雑誌の不況は、出版社にとっては広告収入の減少になり、街の書店の不振や書店数の減少も招く。ネット社会において雑誌に何ができるかが問われている。



読書に親しみ「知識を蓄え、感覚を磨き、考える力を養うだけでなく、視野を広げ、想像力を鍛える」ことと、「日本の出版不況が続いている」ことの間に、何の関係があるのだろうか。前者は読書による知的能力の話で、後者は日本経済の話だ。このふたつをつなぎ合わせると、毎日新聞の主張は「若者は、日本の出版不況を克服するために本を買え」ということになる。

毎日社説の話の軸は、何なのか。今回の社説が行っているふたつの問題提起、「若者の読書離れが進んでいる」「日本の出版不況が深刻だ」のうち、具体的な解決案を探るべく検討が可能な案件は、後者だろう。前者の内容は上述の通り、背景に疑わしい点があるし、提言に対する反証可能性が低い。日本の出版不況は統計的に確認可能な事例であって、その分、対策の有効性が客観的に評価しやすい。
だから毎日新聞の社説は、「出版不況からどうやって立ち直るか」という経済論であり、その解決案として「若者(=大学生)にマーケティングを行うべきだ」という提言をしている、という社説だろう。そうでなければ筋が通らない。

はたして、その毎日新聞の提言は妥当なのだろうか。毎日新聞は安直に「出版不況 → 若者」とつなげているが、本気で日本の出版業界に警鐘を鳴らすのであれば、この業界戦略は妥当なのだろうか。毎日新聞の提言は、本気で現在の出版業界の窮地に対する提言になり得ているのだろうか。

学生が本を買わなくなった理由は、「金がなく、時間がない」からだ。その逆に、「金があり、時間もある」という年齢層がある。
団塊世代の退職によって、自宅で時間を持て余す高齢者が増加している。そういう年齢層は、さぞやたくさん本をお読みになることだろう。もし高齢者が本を読まないのだとしたら、「最近の若者は」などと非難をする資格はない。 毎日新聞の言っているように、「最近の若者は本を読まない」のであれば、裏を返せば「高齢者は猛烈に本を読んでいる」ということだろう。

だったら日本の出版業界は、その世代にターゲットを絞るべきではないか。金がない大学生に本を買わせようとするよりも、経済的に余裕があり、時間にゆとりのある高齢者層の方が、書籍の売り込みには適しているだろう。問題に対する解決案を深刻に検討すれば、どう考えても「若者よ、本を開こう」などという提案にはならないと思う。

毎日新聞の社説が犯している誤謬は、「若者に本を読ませる」という理想論に、「現在の出版業界の不況」という全く関係ない事例をはさみこみ、話の軸を不安定にしてしまったことだ。どうせ結論ありきの若者批判するのだったら、読書の秋など関係ない。徹底して若者の無知無学を批判すればいい。その一方で、もし出版不況を論じるのであれば、徹底した分析で真剣に解決案を提案すればいい。今回の社説は、そのどちらでもない、両方を曖昧に混ぜてしまった中途半端な文章だ。

毎日新聞は出版業界の動向として「書籍」と「雑誌」の売り上げ数値しか挙げていない。もしこの社説を純然たる経済論と仮定すると、「マンガ」というカテゴリーが設けられていないのは問題だろう。新刊書や文庫本の売り上げが激減する一方、マンガやアニメ関連の書籍は、ここ10数年ほどで市場が膨大に拡張している。新規の出版社も続々乱立している。不況どころか、相当な成長を遂げている分野だろう。昨今はどこの書店も売り上げ増加のために、経営戦略としてアニメ関連の書棚を充実させているのは周知の事実だろう。 「読書の秋」に若者が読むべき本などとは一切関係なく、純然たる経済問題としてこの件を論じるのであれば、今の若者が読むものが学術書であろうとマンガであろうと、関係なかろう。両者とも単なる売り上げの金額に過ぎない。毎日新聞の社説は「若者に読書を」という理想論から文章に入ってしまったため、マンガなどという「下賎な」話ができない自縄自縛に陥ってしまい、経済論としても半端きわまりない内容になっている。

実は若者はわりと本を読んでいる。ただ、上の年齢層が「こういう本を読むべきではないか」という本を読んでいないだけの話だ。今の若者は、上の世代がやってきたことをやっていないかもしれないが、逆に、上の世代がやってこなかったことをやってもいる。単に自分の世代と比較しただけの、上から目線の「若者はこうすべきだ」論は、論旨が迷走し、自分が何を言っているのかさっぱり分からなくなってしまうだけの駄文になってしまう。「若者は本を読め」という人自身、いったいどれほどの本を毎日読んでいるというのだろうか。若年世代を説教したいのはいつの時代も高年齢層の共通点だろうが、説教が受け入れられるかどうかは、発言する側の人間性によるものであることを忘れてはなるまい。



やっつけ感満載の記事。



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教え方

教え方のルール10カ条

1.熱意よりも何をどうすればいいのか具体的な指示を

2.「教えた」かどうかは「学ぶ側が学んだかどうか」で考える

3.結果が思わしくないのは,すべて教える側の責任

4.上手に教えたいのならコミュニケーション上手になる

5.教えるときは相手をよく観察して相手の状況をつかむ

6.相手にとってちょうどいい知識を与える

7.相手に教えたことを練習させて結果をフィードバックする

8.相手にできるようになってほしい具体的なゴールを決める

9.相手の「心」は変えられないが「行動」は変えられる

10.ゴールは必ず「行動」として設定する




よし後期授業開始。

カンガルーなのだ

カンガルー





どうもどうも

企業のモラルを保つには

日本の企業に、モラルがなくなっている。

居酒屋チェーンを経営するワタミグループでは、「365日24時間死ぬまで働け」との文言が記載された理念集を配布し、過酷な労働を従業員に強いた。実際に26歳女性従業員が過労自殺し、遺族が会社や当時代表取締役だった渡邉美樹・参議院議員らに損害賠償を求める裁判を起こしている。ワタミ経営陣は自殺が過労によるものであることを頑として否定し、社の労働環境が「適性である」との態度を一切崩さず、事実をごまかして風化させようと画策し、遺族の感情を逆撫でする発言・行為を繰り返した。
ワタミ内では従業員への賃金未払い、内部告発者への懲罰解雇、不適切な労使協定の元での時間外労働など数々の労働基準法違反が常態化している。創業者の渡邉美樹は、ビルの高層階で会議をしているとき「今すぐここから飛び降りろ」と命じたり、「どれだけきつく叱っても大丈夫かというのが信頼関係のバロメーター」と吹聴するなど、パワーハラスメント遵守の観点などまるで無視する姿勢を、正当化する発言を繰り返している。

株式会社ゼンショーは、全国展開している牛丼チェーン「すき家」で過酷な従業員搾取の実情が明らかになった。度重なる労働基準監督署からの改善勧告をことごとく無視し、深夜のワンオペ、休憩なしの24時間勤務、強盗されやすい店舗形態にも関わらず防犯対策を講じない、など従業員を踏み台にして「利益第一」の経営を強引に押し進めた。

株式会社不二ビューティーは、エステティックサロン「たかの友梨ビューティクリニック」で、実効のない誇大広告を出した咎で景品表示法に基づく改善指示を受けた。またゼンショー同様に従業員を搾取し、有給休暇を取った社員の残業代を減額するなどの圧迫を行なった。労働基準監督署から是正勧告が出ると、訴えた社員に対して「法律を守ってたら、つぶれるよ、うち。それで困らない?この状況でこんだけ働けているのに、そういうふうにみんなに暴き出したりなんかして、あなた会社潰してもいいの」と恫喝し、社員を精神的ショックに追い込んだ。法令などまるで無視し、パワハラによって社員の権利を力づくで封じ込める違法経営を行なった。

朝日新聞の一連の誤報・言論封圧問題は広く周知されている通りだ。いわゆる従軍慰安婦問題に関しては、嘘八百を書きまくった吉田清治の著書、通称「吉田証言」を鵜呑みにし、日韓の深刻な国際問題を30余年にわたり煽り続けた。東北地方太平洋沖地震直後の福島第一原子力発電所の事故対応に関する政府調書、通称『吉田調書』の内容に関して、「所長命令に違反 原発撤退」など、東京電力の作業員が現場を放り出して逃亡するような煽動記事を書いた。朝日新聞の記事を鵜呑みにしたウォール・ストリート・ジャーナル、ニューヨークタイムスなどの記事も、朝日新聞の記事を引用し連鎖的に誤報を発した。朝日新聞は、政府の担当部局(東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会)が吉田調書を非公開としたことをいいことに、誰も見られない内容について好き勝手なことを書きまくった。のちに他紙がこの調書を入手し朝日記事の誤謬を指摘したが、朝日新聞はシラを切り通した。論争が加熱したため政府は吉田調書の公開に踏み切り、朝日記事の誤謬性が完全に明らかになるに及んで、朝日新聞は渋々誤報を認めた。


これらの企業の不祥事は、ともに「大企業だから世間の耳目を集めやすい」というだけの理由で明るみに出たニュースだろう。これらの事例から勘案するに、日本の企業では、程度の差こそあれ、この手の「違法行為」が行なわれていると考えられる。
日本の企業は、いったいどうなってしまったのだろうか。なぜ、このようなモラルを平気で破るような企業が跋扈するようになってしまったのだろうか。

朝日新聞に関しては、「時代が読めていなかった」という、時流を読み違えたことが一番の理由だと思う。朝日新聞が事実を捩じ曲げて自社の都合のいいように報道するのは、別に今に始まったことではない。例えば1960年代には、大躍進の大失敗から文化大革命の大混乱を、好意的に報道した。北京に駐留を許される日本唯一の報道社として、中国政府の大本営発表を疑うことなく流し続けた。大躍進による大飢饉を否定したエドガー・スノーの著書をそのまま引用して毛沢東の方針を賛美するなど、現在の『吉田証言』への盲信振りと変わらないことを昔からやっている。
朝日新聞の失敗は、21世紀になってから情報の流れ方が劇的に変化していることが把握できていなかったことだろう。現在はインターネットの発達で、だれもが情報の発信者になれる。昭和の昔は「ただの読者」だった層が、今では「疑義を呈して異論を問う」ことが可能になっていることが分かっていない。また、朝日の伝統手法である「情報を独占し、検証されないことをいいことに、『誰も知らない』ことについて勝手なことを書きまくる」という取材手法が、意味をもたない世の中になっている。原発処理問題の『吉田調書』にしても、朝日新聞はまさか政府がこれを公表するとは思いもしなかっただろう。

「ワタミ」「すき家」「たかの友梨」のような蟹工船企業が相次ぐ理由は、一言で言うと、「罰則がないから」だと思う。どの企業も、労働基準監督署からの度重なる改善勧告を、平気で無視し続けた。労基によるアクションはあくまで「勧告」であって、罰則のある実刑判決ではない。これらの企業が安易に利益第一主義に走り、従業員を使い潰すような経営方針をとる理由のひとつには、今の日本がそういう企業の暴走を止めるような法体制が整っていないことがある。
こういう企業がちゃんと法令を順守した経営方針を守るよう体質を改めるためには、「経営者のモラル」など何の役にも立 たない。「国や企業の経営の根幹を、個人のモラルに帰する方針は、ことごとく挫折する」というのは、マキャベリが500年前にすでに喝破している。こうした企業がまともになるためには、「法令を順守しないのは、割に合わない」ということを、身を以て実感する必要がある。

法令による締め付けは、アメリカのような訴訟社会を招き、モンスターカスタマーを増大させる可能性がある。アメリカでの、企業を相手取る無茶な訴訟は笑い話のように語られる文脈がある。「濡れた子犬を電子レンジで乾かそうとしたら死んでしまったので、電子レンジのメーカーを相手取って訴訟」のようなバカ裁判だ。
僕はアメリカに住んでいたことがあるので実感として分かるが、アメリカでは本当に「訴えてやろうか」と思うくらい、いいかげんな企業が多い。僕は一度、スーパーマーケットでパンケーキを買ったら、中が腐ってて蛆虫が湧いていたことがある。買った牛乳がすでに腐っていたことも3回ある。従業員の態度もいいかげんで、平気で商品を投げる。「この人達は、法律の縛りがなければ、絶対に真面目には働かないんだろうな」という思いをしたことが何度もある。

そういう無秩序に近い倫理の社会では、法による強制力だけが、社会を健全に保つ唯一の手段になる。校則の厳しい学校ほど生活レベルが荒れているように、法律の厳しい国ほどモラルが低い。法律で縛らなければならないということは、人としての倫理観が堕ちるところまで堕ちている証拠だ。
そして今の日本は、そういう国になってしまったのだと思う。日本の企業は、自社に利益をもたらす「商品」に対しては、高い質を丁寧に保っている。しかし、自社に利益をもたらす「従業員」には、忠誠心だけを要求し、搾取して絞り取ることしか考えていない。企業を家庭に例えて、「社員はみな家族」のような昭和的企業観をいまだに振りかざす経営者が多い。しかし昭和の頃の企業は、社員を家族とみなして時間外労働を課していた代償として、その社員の面倒を一生見続ける体制を保証していたのだ。人材を「人件費」の数字としか見ず非正規雇用で雇用費を浮かせておいて、経営者に都合の悪いベテラン社員を「実力主義」の大正義のもとリストラしまくり、「社員は家族」もへちまもない。 家族を切る家庭があるものか。

僕は、アメリカのような法で縛るしかない訴訟社会など、3流国の有り様だと思う。今の日本はその3流国に堕ちてしまっているのではないか。労働基準法違反に実刑を課し、労働基準監督署に逮捕権を付与するしか、改善の方法はないのではあるまいか。


アメリカの企業訴訟には「懲罰的賠償金」という制度がある。企業の違法行為に対して「懲罰的」な大金の賠償を命じる制度だ。
クルマのフォード社が起こした「フォード・ピント事件」で有名になった。

1960年代の後半、フォード社は「ピント」というコンパクトカーを開発した。開発のコスト削減のために、通常43ヶ月かかる開発期間を25ヶ月で開発し、販売に踏み切った。この無理な開発期間によって、フォード車は設計上の欠陥を見過ごすミスを犯した。「ピント」の初期設定車は、ガソリンタンクとバンパーが近い位置にあり、追突事故などによって容易にガソリンタンクに引火する危険があった。

販売直前にこの設計ミスに気づいたフォード社は、リコール修理の試算を行なった。リコールによって全車の修理を行なうと、かかる費用は1億4000万ドル(397億円)。
一方で経営陣は、その設計ミスによる事故件数と賠償額も試算した。想定される事故件数は180件程度で、それらへの賠償額は総額で4900万ドル(1億8000万円)。1件あたり27万ドルの賠償で済む、という計算だ。
これらの試算によって、フォード社は、死亡事故の危険性があるにも関わらず「ピント」を販売する、という暴挙に出た。

はたして1972年、高速道路を走行中のピントがエンストを起こし、後続車に追突されて炎上し、運転していた男性が死亡する事故が起きた。この事故の陪審評決で、フォード社を退職した元社員らが、「フォード社は欠陥と危険性を知りながら、コスト比較の末に、強引に販売を強行した」ことを証言した。その1件の裁判で課せられた賠償金は、1億2500万ドル(385億円)。フォード社が胸算用していた賠償金の460倍だ。

この高額な賠償金の判決理由が、「懲罰的賠償金」だ。日本にはない制度で、企業が損得勘定で社会悪を行なったとき、実際に生じた損害よりもはるかに高い賠償金を命じる制度だ。フォードの経営陣は、欠陥車の危険性を「損失額」という金勘定だけでしか判断しておらず、それによって生じる人命の損失については無視する態度をとった。こうした企業の反社会的行為を抑制するための制度が、懲罰的賠償金だ。
いまもアメリカに生じる企業訴訟のほとんどは、この「懲罰的賠償金」が適用されるかどうかがポイントになる。たまに「なんでこんな事案でこんな賠償金が発生するんだ」という裁判が報じられるが、そのほとんどはこの制度が適用されているケースだ。
フォード社の引き起こした「フォード・ピント事件」は、ジーン・ハックマン主演の映画『訴訟』(“Class Action” 1991)の題材になっている。現在では、商学部や経済学部の企業倫理の授業で、よく教材として採り上げられている。


僕は個人的に、「懲罰的賠償金」などという法律が存在すること自体、国の恥だと思う。しかしマキャベリの言ったことは、残念ながら真実なのだろう。個人のモラルと、企業経営のモラルは、別のレベルで論じなければならないものだ。汚い経営の仕方をする経営者が、必ずしも個人として卑怯者であるとは限らない。会社を経営する人間は誰しも、企業当時は大きな志を持っていたものではあるまいか。人間というものは、背負うものがあり、追い込まれる立場に置かれると、常軌を逸した判断をしてしまうことがある。経営者ひとりの道徳観やモラルをいくら追求しても、そういう危険性を避けることはできないだろう。「反省しております」という言葉で反省する個人はいても、それで反省できる企業はない。  

今の日本の企業モラルを健全に保つ方法は、「実刑」か「高額賠償金」しかないと思う。情けないことだが、そこまでしないと、今の日本の企業は、人を人として扱わない。
学校が校則を厳しくするのは、学生の生活態度のいわば自業自得だ。それと同様に、法律が厳しくなるのは、企業の自業自得だ。法による締め付けが緩いことをいいことに、企業倫理に反する行為を繰り返した経営方針が、我が身に降り掛かってくるだけのことだろう。



情けない国だこと
ペンギン命

takutsubu

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