最近、愛読しているBlogが本になりまして。
いつもBlogを楽しく読ませていただいております。
このBlogは嫁も大好きでして。
かの藤子・F・不二雄先生は「子供はね、丸いものが大好きなんですよ。だから子供向けの漫画には、丸っこいキャラクターを使うといいんです」とおっしゃっておりましたが、嫁はまさしくその好みがありまして。
このマンガのキャラクター設定が非常に好みらしいのです。
まぁ、その嫁が選んだダンナが僕なわけですが、その辺はまぁおいといて。
なんというか、嫁はこのマンガを見て、筆者の奥さんキャラが自分にかぶるらしいんです。
だいたい研究者の嫁なんてのは、ダンナの心の健康に気を配る必要があるものです。学会前や論文締切前になると、追いつめられた研究者は鬼と化しますので、うまくおだてて仕事にのせるのが上手なもんです。
僕の嫁は、僕が学会で発表した後には、かならずご褒美と称して、ちょっとぜいたくな夕食に連れていってくれます。1年に1回は僕を旅行に連れ出し、心のリセットをします。
このマンガの主人公の奥さんも、独立して仕事にプレッシャーを感じている筆者さんを、あちこち旅行に連れ出しています。マンガの内容はその道中記みたいなものなんですが、読んでてすごくよく気持ちが分かるんですよね。
だいたい男なんてものは、旅行の計画を立てるのはすごくめんどくさがるくせに、いざ旅行に連れ出すとウキウキして熱中しちゃうもんです。寝台列車で旅行するときのワクワクっぷりとか、気持ち分かるなぁ。こういう、自分でコントロールできないストレスをうまく和らげてくれる奥さんがいたら、男子一生の本懐でしょうね。
僕の嫁さんも旅行やグルメが好きなので、この本でいろんな所に行ったりおいしいものを食べたりする話を読んで、ご満悦です。
こんどの冬休みはどこに旅行に行こうかなぁ。
筆者曰く、このBlogを描きはじめたきっかけは、奥さんの薦めだそうです。プロのデザイナーとして仕事をする傍ら、「たまにお遊びで描いていたマンガ風のイタズラ描き」を奥さんが大好きで、それを日記風にBlogにすることを薦めたとか。「この漫画は元々、嫁さんのために描きはじめた」と言うあたり、非常に共感を覚えます。
僕もこのたくつぶを書き始めてもう10年になりますが、最初これを書き始めたときは僕はアメリカで大学院生、嫁さんは日本で働いていました。地球の反対側という超遠距離恋愛をしていた頃、このBlogは嫁さんのために書いていたようなもんです。学会準備とかで更新が止まったときなんて、よくメールで突っつかれたりしたもんです。
この本の最後の章は書き下ろしで、筆者が地元を出て東京で就職した時の話が綴ってある。
上京して慣れない仕事の技術を身につける過程で、筆者が奮闘した時代の話が載っている。
実家でゴロゴロしていた筆者に「20万円くれてやる。東京で働け」と喝を入れた兄の話。
静岡の富士宮で育った筆者が、東京の「水道水の臭い」に驚いた話。
グラフィックデザインというものが、単に絵を書くだけでなく、出力機器の条件から逆算して書き方を決めていかなければいけないことに衝撃を受けた話。
残業して他の人に追い付こうとすると「限られた時間内に仕事を終わらすのがプロだ」と怒られた話。
僕も大学院の駆け出しだった頃は、実家を出てひとり暮らしをする苦学生だった。それでも僕は奨学金をもらっていたし、実家から仕送りもしてもらっていたから、明日のごはんに危機感を抱くまでの生活ではなかった。
しかし、上京してひとり仕事をする多くの人は、この筆者のように、明日をも知れない環境の中で、自分の能力に失望しながら、少ないごはんで毎日を戦っているものだろう。
なんか僕も昔を思い出して、なんとなく懐かしい気分になった。
その中でひとつ、とても印象的な話があった。
ほぼ未経験のまま職に就いた筆者は、ベテランの女性グラフィックデザイナーから指導を受ける。作画の課題を出された筆者が、フォトショップというグラフィックソフトを使いコンピューターで作画しようとすると、指導女性に「フォトショップ使用禁止」を言い渡される。
筆者は泣く泣く、学校時代に使っていたポスターカラーを使って紙に絵を描いていく。
この指導の気持ちはよく分かる。大学での研究も、論文を読む時にはその内容がダイジェストでまとまっている要旨集のようなものがあるが、僕がゼミで学生に論文を読ませるときには、その使用を禁止している。まずは原著にあたり、苦労しながら1行1行を這うような遅さでじっくり読んでいく経験を積まなければ、論文なんていつまでたっても読めるようにはならない。
言い方が難しいが、別に学生に「無用な苦労をさせよう」と思っているわけではない。論文を読む時に必要なことは「その1本の内容を理解すること」ではない。「どんな内容の論文を読む必要が生じた時にも、なんとか読みこなしていける力をつけること」なのだ。
固定された既存の体系を理解するのが目的なのではなく、どんな新しい理論が出てきてもそれに柔軟に対処できる力、「自分の能力を自分で作り出していく力」のほうが、はるかに大事だ。
しかし初学者にとっては理不尽に感じるかもしれない。筆者も、指導女性からコンピューターの処理能力を越えた無理難題を課され、それに対処するため四苦八苦する。
おそらく、答えはあったのだろう。しかし、その答えを教わったところで、その問題に対処できるようにはなるかもしれないが、まだ未知の問題が生じたときには対処の仕方を失う。いつでも人に答えを教わっているのが習い性になっている人は、自ら問題を解決していく能力が身につかないものだ。
結局筆者は、自分なりに工夫をして、課題をクリアする。その答えが指導女性の用意していた答えと合っていたのかどうかは、さしたる問題ではあるまい。自分の頭で考え、結果として求められている効果を出せるように工夫する。その道筋を見つけたことが大事なのだと思う。
なんか、研究室で僕が学生にやっていることを見ているような気がして、僕はこの章を読んでいるときに筆者の立場ではなく、指導女性の立場で読んでしまっていた。
課題をクリアした筆者は、禁止されているにも関わらず、指導女性に「フォトショップを使わせてください」と申し出る。
「機械に使われるのではなく、自分で使いこなす新しい素材として、フォトショップを使いこなせるようになりたい」。
筆者はのちに会社を退職しフリーとして独立しているが、すでにこの頃からその資質に開眼していたのだと思う。
僕も学生を指導していてよく思うことだが、学生には「先生が正解として用意している答えを探そうとする学生」と、「先生や教科書など知ったこっちゃなく、自分の力で何か答えを見つけようとする学生」がいる。
どちらが正しいという問題ではない。資質としては両方必要なのだ。おそらく大学のゼミの中で、必要な資質のうち9割は、前者の資質だと思う。先行研究を踏まえ、それまでの研究史を踏まえて、それに上乗せをしていく姿勢は、いわば王道なのだ。経験の裏打ちのないオリジナリティーは、単なる自己流に過ぎない。それは学問研究分野に関わらず、どんな世界もそういうものだろう。
しかし、のこり1割の能力、「自分でなんとかやってみる」という資質に欠ける学生は、単なる人真似で終わる。論文を書かせても、他人の分析のまとめで終わる。いつまでたっても「自分の論文」が書けるようにならない。
自分でなんとかする能力を身につけるためには、自分が何のためにその分野を志しているのか、結局自分は何がやりたいのか、それが明確になっていなければならない。欲求のないところに能力は無い。
筆者が「フォトショップを使わせてほしい」と申し出たのは、自分がそれを使ってやりたいことが明確にあったからだろう。もし指導女性の課題だけを淡々とこなしていくだけの人だったら、いつまでたってもその指導女性の枠内から出ることはできず、いずれ同業者としてライバル関係になるであろう人を抜くことはできない。
結局、筆者はフォトショップの使用を許可される。それは、フォトショップという技術を使う前提となる資質を、筆者がすでに身につけていた、という判断だと思う。
コンピューターグラフィックの世界は技術の進化が早く、筆者がその時代に身につけた技術は、今では必要のない時代になったそうだ。しかし、自分で志し、自分の頭で考え、自分で道を作っていく、という資質は、どの時代でも必要なものなのだろう。
どの分野でも、成功していくために必要なことは、深い根っこのところで同じようなものなのだと思う。
僕はあまり人のBlogは読みませんが、こういう自分と共感できるところがある話はいいですね。
そろそろ大学は新学期が始まりますが、おいしいものでも食べて、また頑張りましょうかね。
『まんぷく遊々記』(片倉真二 著)
エンターブレイン、ISBN-13: 978-4047290433
いつもBlogを楽しく読ませていただいております。
このBlogは嫁も大好きでして。
かの藤子・F・不二雄先生は「子供はね、丸いものが大好きなんですよ。だから子供向けの漫画には、丸っこいキャラクターを使うといいんです」とおっしゃっておりましたが、嫁はまさしくその好みがありまして。
このマンガのキャラクター設定が非常に好みらしいのです。
まぁ、その嫁が選んだダンナが僕なわけですが、その辺はまぁおいといて。
なんというか、嫁はこのマンガを見て、筆者の奥さんキャラが自分にかぶるらしいんです。
だいたい研究者の嫁なんてのは、ダンナの心の健康に気を配る必要があるものです。学会前や論文締切前になると、追いつめられた研究者は鬼と化しますので、うまくおだてて仕事にのせるのが上手なもんです。
僕の嫁は、僕が学会で発表した後には、かならずご褒美と称して、ちょっとぜいたくな夕食に連れていってくれます。1年に1回は僕を旅行に連れ出し、心のリセットをします。
このマンガの主人公の奥さんも、独立して仕事にプレッシャーを感じている筆者さんを、あちこち旅行に連れ出しています。マンガの内容はその道中記みたいなものなんですが、読んでてすごくよく気持ちが分かるんですよね。
だいたい男なんてものは、旅行の計画を立てるのはすごくめんどくさがるくせに、いざ旅行に連れ出すとウキウキして熱中しちゃうもんです。寝台列車で旅行するときのワクワクっぷりとか、気持ち分かるなぁ。こういう、自分でコントロールできないストレスをうまく和らげてくれる奥さんがいたら、男子一生の本懐でしょうね。
僕の嫁さんも旅行やグルメが好きなので、この本でいろんな所に行ったりおいしいものを食べたりする話を読んで、ご満悦です。
こんどの冬休みはどこに旅行に行こうかなぁ。
筆者曰く、このBlogを描きはじめたきっかけは、奥さんの薦めだそうです。プロのデザイナーとして仕事をする傍ら、「たまにお遊びで描いていたマンガ風のイタズラ描き」を奥さんが大好きで、それを日記風にBlogにすることを薦めたとか。「この漫画は元々、嫁さんのために描きはじめた」と言うあたり、非常に共感を覚えます。
僕もこのたくつぶを書き始めてもう10年になりますが、最初これを書き始めたときは僕はアメリカで大学院生、嫁さんは日本で働いていました。地球の反対側という超遠距離恋愛をしていた頃、このBlogは嫁さんのために書いていたようなもんです。学会準備とかで更新が止まったときなんて、よくメールで突っつかれたりしたもんです。
この本の最後の章は書き下ろしで、筆者が地元を出て東京で就職した時の話が綴ってある。
上京して慣れない仕事の技術を身につける過程で、筆者が奮闘した時代の話が載っている。
実家でゴロゴロしていた筆者に「20万円くれてやる。東京で働け」と喝を入れた兄の話。
静岡の富士宮で育った筆者が、東京の「水道水の臭い」に驚いた話。
グラフィックデザインというものが、単に絵を書くだけでなく、出力機器の条件から逆算して書き方を決めていかなければいけないことに衝撃を受けた話。
残業して他の人に追い付こうとすると「限られた時間内に仕事を終わらすのがプロだ」と怒られた話。
僕も大学院の駆け出しだった頃は、実家を出てひとり暮らしをする苦学生だった。それでも僕は奨学金をもらっていたし、実家から仕送りもしてもらっていたから、明日のごはんに危機感を抱くまでの生活ではなかった。
しかし、上京してひとり仕事をする多くの人は、この筆者のように、明日をも知れない環境の中で、自分の能力に失望しながら、少ないごはんで毎日を戦っているものだろう。
なんか僕も昔を思い出して、なんとなく懐かしい気分になった。
その中でひとつ、とても印象的な話があった。
ほぼ未経験のまま職に就いた筆者は、ベテランの女性グラフィックデザイナーから指導を受ける。作画の課題を出された筆者が、フォトショップというグラフィックソフトを使いコンピューターで作画しようとすると、指導女性に「フォトショップ使用禁止」を言い渡される。
筆者は泣く泣く、学校時代に使っていたポスターカラーを使って紙に絵を描いていく。
この指導の気持ちはよく分かる。大学での研究も、論文を読む時にはその内容がダイジェストでまとまっている要旨集のようなものがあるが、僕がゼミで学生に論文を読ませるときには、その使用を禁止している。まずは原著にあたり、苦労しながら1行1行を這うような遅さでじっくり読んでいく経験を積まなければ、論文なんていつまでたっても読めるようにはならない。
言い方が難しいが、別に学生に「無用な苦労をさせよう」と思っているわけではない。論文を読む時に必要なことは「その1本の内容を理解すること」ではない。「どんな内容の論文を読む必要が生じた時にも、なんとか読みこなしていける力をつけること」なのだ。
固定された既存の体系を理解するのが目的なのではなく、どんな新しい理論が出てきてもそれに柔軟に対処できる力、「自分の能力を自分で作り出していく力」のほうが、はるかに大事だ。
しかし初学者にとっては理不尽に感じるかもしれない。筆者も、指導女性からコンピューターの処理能力を越えた無理難題を課され、それに対処するため四苦八苦する。
おそらく、答えはあったのだろう。しかし、その答えを教わったところで、その問題に対処できるようにはなるかもしれないが、まだ未知の問題が生じたときには対処の仕方を失う。いつでも人に答えを教わっているのが習い性になっている人は、自ら問題を解決していく能力が身につかないものだ。
結局筆者は、自分なりに工夫をして、課題をクリアする。その答えが指導女性の用意していた答えと合っていたのかどうかは、さしたる問題ではあるまい。自分の頭で考え、結果として求められている効果を出せるように工夫する。その道筋を見つけたことが大事なのだと思う。
なんか、研究室で僕が学生にやっていることを見ているような気がして、僕はこの章を読んでいるときに筆者の立場ではなく、指導女性の立場で読んでしまっていた。
課題をクリアした筆者は、禁止されているにも関わらず、指導女性に「フォトショップを使わせてください」と申し出る。
「機械に使われるのではなく、自分で使いこなす新しい素材として、フォトショップを使いこなせるようになりたい」。
筆者はのちに会社を退職しフリーとして独立しているが、すでにこの頃からその資質に開眼していたのだと思う。
僕も学生を指導していてよく思うことだが、学生には「先生が正解として用意している答えを探そうとする学生」と、「先生や教科書など知ったこっちゃなく、自分の力で何か答えを見つけようとする学生」がいる。
どちらが正しいという問題ではない。資質としては両方必要なのだ。おそらく大学のゼミの中で、必要な資質のうち9割は、前者の資質だと思う。先行研究を踏まえ、それまでの研究史を踏まえて、それに上乗せをしていく姿勢は、いわば王道なのだ。経験の裏打ちのないオリジナリティーは、単なる自己流に過ぎない。それは学問研究分野に関わらず、どんな世界もそういうものだろう。
しかし、のこり1割の能力、「自分でなんとかやってみる」という資質に欠ける学生は、単なる人真似で終わる。論文を書かせても、他人の分析のまとめで終わる。いつまでたっても「自分の論文」が書けるようにならない。
自分でなんとかする能力を身につけるためには、自分が何のためにその分野を志しているのか、結局自分は何がやりたいのか、それが明確になっていなければならない。欲求のないところに能力は無い。
筆者が「フォトショップを使わせてほしい」と申し出たのは、自分がそれを使ってやりたいことが明確にあったからだろう。もし指導女性の課題だけを淡々とこなしていくだけの人だったら、いつまでたってもその指導女性の枠内から出ることはできず、いずれ同業者としてライバル関係になるであろう人を抜くことはできない。
結局、筆者はフォトショップの使用を許可される。それは、フォトショップという技術を使う前提となる資質を、筆者がすでに身につけていた、という判断だと思う。
コンピューターグラフィックの世界は技術の進化が早く、筆者がその時代に身につけた技術は、今では必要のない時代になったそうだ。しかし、自分で志し、自分の頭で考え、自分で道を作っていく、という資質は、どの時代でも必要なものなのだろう。
どの分野でも、成功していくために必要なことは、深い根っこのところで同じようなものなのだと思う。
僕はあまり人のBlogは読みませんが、こういう自分と共感できるところがある話はいいですね。
そろそろ大学は新学期が始まりますが、おいしいものでも食べて、また頑張りましょうかね。
研究室の本棚にしれっと置いときます。