たくろふのつぶやき

食欲の秋の季節がやってまいりました!o(^▽^)o

2013年03月

アイスランド上空から

あいすらんど



季節の移り目(キャッシュクリーク・カナダ)

うつりめ



大学の勉強なんて何の役に立つんだ

『アフリカにょろり旅』


大学院修士課程を終えた私は、ある時、ひょんなことから塚本教授に食ってかかった。
「研究者なんて糞だと思います。何もできないくせに口ばっかりで!」  
すると窓の外に目をやった先生は、静かな声でこう言った。
「糞だって時間が経てば肥料になるんだ。百年二百年先には役立つかもしれないじゃないか」
(そんな事じゃない! 今、この瞬間にも役立っているのかってことだ。ただの空論なんて聞きたくもない)  
キッと睨みつける私の視線を、先生は寂しそうな顔で受けとめた。  

しばらくたって、市民講座で先生の講演を聴いた。私にとっては目新しくもない「いつものウナギの話」だった。
しかし、講演の後、決して豊かとは言えない身なりをした老人と孫なのだろう、連れて来た子供が目をキラキラ輝かせ、話す声が耳に残った。

「面白かったね。ウナギはすごい所まで泳いで行くんだね。不思議だね」  

その時私は、初めて生態学研究が何も作り出さないのではなく、自分自身が作り出したものを料理出来ないだけだったことに気がついた。




「役に立つ」勉強をしたい学生諸君、すぐに大学なんてやめて働きなさい。

犬の餓死

「犬の餓死」


ある芸術家が餓死寸前の犬を展示して「犬の餓死」という芸術を発表した。
しかもこれはまだ最初の布石に過ぎず、私が表現しようとする芸術の準備段階だと宣言した。
「犬の餓死」だけでも非人道的なのに、それが準備段階に過ぎないと宣言したことで、様々な人から非難が集中した。
ネットでは芸術家のブログは炎上し、自宅には反対するグループが押し寄せ、それらをマスコミが取り上げ更に盛り上がり、収拾がつかない程に社会問題化した。

それを受けて芸術家は新たなコメントをした。次の展示に使う犬は保健所で処分される予定の犬を使用することにします。
助けたい人がいらしたらどうぞご自由に。次の展示が行われる日、展示される美術館では初めて開館前に行列ができていた。
鉢巻をして襷をかけたいかにも抗議団体ですという集団や、興味本位で初めて美術館に訪れましたというような一般人、
そしてそれらを面白可笑しく撮ろうする撮影人。100人以上の人が集まっていたので美術館はいつもより早く開館した。

開館するや否や、皆早足で「犬の餓死」が展示されている前に集まった。前回と同じように動く元気もないような犬が元気なく伏せっていたが、そこに立ててあった看板だけは前回と違った。

「助けたい人がいらしたらどうぞご自由に。」

展示の前に集まった皆が静かに周りを伺う。
多くの人が降りる停留所なのに停車ボタンを皆なかなか押さないバスの空気に似ていた。そんな中一人の老婦人が静々と手を挙げた。
この犬を引き受けたいのですが。すると奥から芸術家が現れてわかりましたと犬の縄を看板から解き、老婦人へと手渡し、また奥へと下がっていった。
縄を受け取った老婦人が屈み「もう大丈夫よ。」と犬の頭を撫でると自然に拍手が巻き起こった。

しかしそんな中、芸術家は奥から飄々と現れ、また連れてきた犬を看板に繋いだ。
どういうことだと詰め寄られるが特に気にすることもなく、今日は10匹連れてきましたから後9匹いますよ、と答えた。
人々は唖然としたが一度できた流れは変わらず、次々と挙手する人が現れた。
自分が引き受ける、いいや自分が引き受けると、我先にと手を挙げた。
芸術家は機械的に受け渡しを9回済まし、その日の展示は終了した。マスコミはその様子を何度も放映し、国民もその美談に酔いしれた。

芸術家はその後も精力的に展示を行ったが「犬の餓死」が完成することはなかった。
どこの美術館でも用意した犬は全て貰い手が現れたからだ。それは数を増やしても変わらなかった。
展示の度に生成され続ける美談が一大ブームを作っていたからだ。そしていつしかある噂が囁かれていた。
あの芸術家は処分予定の犬達を救うためにこんな展示を始めたんじゃないだろうかと。

しかしある時、芸術家は突然展示をやめた。ブームの最中だったから人々は不思議がった。
そしてとある記者が尋ねた。「噂では処分予定の犬を救うためにこの展示をしていたとのことですが本当でしょうか?」芸術家は答えた。
「いいえ違います。それにもしそれが目的ならば展示をやめるなんておかしいでしょ?」もっともな話だった。
「では何のために展示をして、そして何故展示をやめられるのですか?」芸術家は答えた。
「それはこれからわかります。そして私の準備はこれで終わったので展示をやめます。どうぞ皆様これから行われる出来事をお楽しみください。」展示は終わった。

謎めいた発言は一時的に話題にはなったものの、その後も特に何かが起こるわけでもなかったので、 すぐに忘れ去られた。そして数ヶ月後。奇妙な現象が起こり始めた。全国各地の公園などに痩せ衰えた犬が次々と放置され始めたのだ。

「助けたい人がいたらご自由に。」と書かれた言葉と共に。

引き受けたはいいものの、流行と偽善の気持ちから挙手した人が殆どで、数ヶ月もする頃には飼うことが嫌になっていた。どうしたものかと考えつく先は皆同じで、それが芸術家と同じような手段だった。
直接捨てたり保健所に連れて行くよりも心が痛まない。悪いのは助けることができたのに、助けることなく見ていたやつだと。

かくして「犬の餓死」は完成した。多くの人の手によって。




よくできた寓話だ。

なぜ3流大学卒を採用するのか

大卒採用増に隠れた、憂うべき大学の実態…日本電産・永守社長の“採用基準”とは?


3月18日付日本経済新聞朝刊1面に、大学生とその親が読んだら飛び上がって喜ぶだろうと思われる記事が載っていた。

『大卒採用10%増 円安で製造業回復』  

確かに、大企業だけでなく中小企業も大学新卒予定者の採用に前向きになっているようだ。とはいえ、ネットによるエントリーが一般化し一部の企業に応募が集中するため、大学生の間で人気が高い大企業の門はますます狭くなっている。そのため、「相変わらず大企業志向」と言われていた大学生が中小企業に目を向け始めた。この動きを表層的に見ると良いことなのだが、現場では大マスコミが報じない現象が起こっている。

「うちにも(一流大学である)A大学の学生が入社試験を受けに来ました」  

こうした言葉を口にして喜ぶ中小企業の経営者を目にする。しかし、単純に喜んでいいものだろうか。そこで、問いたい。

「なぜ、一流大学の学生が、あなたの会社の門を叩いたのでしょうか」  

もちろん、その中には志高き青年がいることを否定しているわけではない。だが、「どこもとってくれなかったので中小企業でも」と考えているプライドだけが高い「でもしか」学生であるかもしれない。


28歳の時に京都市のプレハブ小屋で日本電産を創業し、ハードディスク駆動装置用モーターで世界シェア断トツ首位を獲得した永守重信社長は、20年ほど前の経験から次のような例え話をする。

「『日本電産に入りたい』と思い、日本電産一本に絞って応募してくる三流大学の天橋立大学(仮名)の学生。片や『他の会社に行きたかったけれど不採用だったから、仕方なく来た』と思っている京都大学の学生。2人に採用通知を出したとします。反応はまったく違います。天橋立大学の学生は歓喜し、さっそく親に連絡する。母親も赤飯を炊いて祝います。ところが、京都大学の学生は『こんな会社に受かるのは当たり前』と、すました顔でいる。2人が入社したとき、どちらが成果を上げると思いますか。答えははっきりしています。天橋立大学の学生です」  

その理由について永守氏は持論を展開する。

「天才を別にして、頭の良い人とそうでない人の差は、せいぜい2~3倍程度です。しかし、やる気のある人とやる気のない人では、意識がまったく違い、仕事の成果に100倍の差が生まれます。IQ(知能指数)とEQ(心の知能指数)という言葉に置き換えれば、わが社はこれまで徹底的にEQの高い人を採用してきました」  

筆者も同感である。確かに、一流大学の学生の中には、IQとEQが両方とも高い人がいる。しかし、「一流大学」の看板だけをあてにしていると期待はずれに終わることもある。なぜなら、永守氏が指摘するように、「変なプライド」が邪魔をしている場合があるからだ。自信がある割には、企業が求める「問題解決能力」「行動力」「コミュニケーション能力」に欠ける人が少なくない。その背景には、試験、受験にターゲットを絞った「想定された答えを見つけさせる教育」がある。その結果、自ら未知の分野を探索しようと行動もせず、人と議論しようとしない学生が増えていると考えられる。ビジネスを行う上で、これでは困る。  

企業が社員に求めるこの3条件は、企業人としては必須であり、受験秀才が幼少から受けてきた「英才教育」により磨かれた能力よりも優先される資質と言えよう。この能力を発揮し「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を体現してくれる人物こそ逸材である。




僕も大学のインターン選抜で、能力よりも気合を重視します。
ペンギン命
ここでもつぶやき
バックナンバー長いよ。
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