2013年01月
サッカーで体罰がほぼ淘汰された理由
サッカーで体罰がほぼ淘汰された理由
1,ライセンス制度が軌道に乗って腐った指導者どもが淘汰された
2,最高峰の大会が結構でかいリーグ戦勝ち抜けなければたどり着けなくなった
3,クラブユースが発達して選手の選択肢が増えた
1→
指導法の体系化、合理化によって体罰など独自の指導法は完全に否定された。
大元のメゾットがドイツからの導入のため、
「人間教育」などという曖昧な者は排除された
2→
最高峰の大会、高円宮杯は地域リーグで勝ち抜けなければ決勝ラウンドには絶対に進めない方式
一発勝負ではなく総合力が問われる形になったので精神力や根性よりもコンスタントに結果がでなければならない
早い話、根性じゃどうにもならない形になった
3→
クラブユース、街ユース、高校サッカーと多くの選択肢があるため選手集めが高校主導じゃなくなってる
てか強豪高校はクラブユースからのおこぼれで勝てるサッカー部になる形
もしも体罰なんかしようものなら供給源は絶たれ、協会は指導者のライセンス剥奪に動く。
結果、体罰なんかやっても良い事なくなる
個人的理由と構造的原因。
最近、言語学の仕事の関係で、とある東欧の希少言語を調べている。
自分の知らない言語を調べる必要があるときには、まずテキストを探さなければならない。
昔から、知らない外国語の勉強をするときの定番テキストはサン=テグジュペリの『星の王子様』だった。世界中の言語に翻訳されており、比較的用意に入手でき、絵本なのでストーリーを思い出しやすい。
外国語学習のコツは「子供向けの絵本をたくさん読んで単語を覚えろ」だが、『星の王子様』はこの条件によく合っている。僕もドイツ語、フランス語、ロシア語をこの本で勉強した。
僕はシャーロキアンなので、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズもよく使う。物語はぜんぶ覚えているので、知らない言語で読んでも、だいたい読んでいくとどの話なのか見当がつく。
最近では、『ハリー・ポッター』のシリーズも多くの言語に翻訳されている。しかし、ハリー・ポッターは実は語彙がとても難しい。空想上の世界を描いているので、あまり語彙や表現が日常的ではない。ハリー・ポッターを使った外国語学習は、「その言語を覚えたい人」ではなく、「ハリー・ポッターが好きな人」に限られると思う。
僕はだいたいこういうテキストを、外国に行った時に現地の空港の本屋で買う。海外に行く時には、帰りに本を買う分だけいつも荷物を空けてある。
いつも決め打ちで狙う本を決めてあるので、効率良く探せる。蓋し空港の本屋は、言語好きにとっては格好の漁場と言える。
そういえば最近は多くの空港で村上春樹の翻訳版を目にするようになった。
さて、今回僕が調べている言語は、いつもテキストに使っているどの本も入手できない。出版はされているのかもしれないが、簡単には手に入らない。
そういう困った時には最後の手段、聖書を使うことになる。なにせ世界で最も多くの言語に翻訳されている。しかも著作権がない。街中で無料で配っているくらいだから著作権もへったくれもない。インターネットで広く公開もしている。知らない言語を調べるときには非常に便利だ。
僕はキリスト教徒でも何でもないので、僕にとって聖書はただの本だが、大学時代にかなり本気で聖書を通読した。歴史学研究室のゼミでぶらぶらしており、中世教会史の読書会にも出ていたので、聖書はわりと近しい存在だ。新約聖書は徹底轍尾信仰の書なので、縁なき衆生には読みづらい。歴史書としての役割もある旧約聖書のほうが分かりやすい。話の筋もだいたい覚えている。
僕は希少言語のテキストを調べるために旧約聖書を読むとき、いつも『ヨブ記』を使う。
信心深く義人でもあるヨブが、悪魔に唆された神によって様々な試練を与えられる話だ。全財産を失い、周囲の人望を失い、妻の愛を失い、さらに重度の皮膚病に晒される。「自分はこんな罰を受けるほどの罪を犯したのだろうか」と苦悶に喘ぐ。
のちに友達と称する3人の男がヨブを訪れ、「お前いつも隠れて悪いことやってたんだろ」「ざまみろこの野郎」などと罵声を浴びせる。さらにエリフという正義面をした野郎が現れ、瀕死のヨブに対してそれ以上の罵詈雑言を浴びせかけ弾劾する。
僕はいまだに3人の男とエリフが「なにを以てヨブを罪人と断じているのか」の根拠がよく分からない。話の筋が論理的ではなく、自己撞着も多い。言っていることが首尾一貫しなくなると「そもそも神の意志だから」論に逃げ込む。「悪いから、悪いんだ」と言っているように見える。間違ってもディベートの手本として使ってはいけない議論の仕方だ。
この部分の解釈は神学者の中でも評価が分かれるらしい。ここの解釈が難しいのは、この場面だけ韻文で書かれているからだ。そして、それが僕が言語テキストとして『ヨブ記』を使う理由でもある。
僕が希少言語を調べるときには、音韻的特徴、単語の形態的特徴、文の構造に関する文法的特徴の3つを軸にすることが多い。単語や文の構造は調べればすぐに分かるが、音に関する特徴は字で書かれた書物からは計りにくい。だから語調とリズムを整える必要がある韻文をテキストに使うと、単語の音韻的特徴が分かりやすい。
ヨブ記を読んでいるといつも、聖書にこの話が収録された意図がわからなくなる。仮に聖書をキリスト教の教科書のように考えると、信者を増やすための方策としてこの話を使うのは、得策ではあるまい。「この宗教を信じるとこんないいことがありますよ」なら話は分かるが、「この宗教の神様はこんなひどいことをしますよ」では、誰が入信したいと思うのだろうか。
阿刀田高氏は、著書『旧約聖書を知っていますか』の中で独自の見解を述べている。ヨブは、3人の男やエリフにやいのやいの言われる過程で「自分は試練に耐え得る限界を後世に示す存在として、神に選ばれたのだ」と悟ったのではないか、という見方だ。信仰に敬虔で、善人であるヨブでないと、その大役は果たせられない。キリスト教の話に仏教用語の「悟る」という言葉を使うのも変な話だが、阿刀田高はこの語彙こそがその時のヨブの心情にぴったりではないか、と論じている。
僕の実感では、キリスト教の世界観では、いいことも悪いこともすべて含めて「神の意志」とされているような気がする。信者ではないので詳しいことは分からないが、もしそのことが正しいとしたら、自分になにか良いことがあった時に「神に感謝」するのは、大きく道を踏み外した行いではないのか。
たとえば大きな交通事故に遭って九死に一生を得たとする。その時、助かった人が「やっぱり神様っているんですね。この事故で生き残ったということは、神様が天から私を見てくださっているに違いありません」などと言ったとする。
するとその人は、「世界中の交通事故で死んでいる人は、神が見捨てた人だ」と断じていることになる。自分は神に助けられた。だから死んだ人はすべて神が助けようとしなかった。そういうロジックになる。
その姿勢は、『ヨブ記』に出てくる3人の男どもと大差ないだろう。「神様のおかげで助かった」という感謝のしかたをする人は、交通事故で死んだ人の遺族のもとに行って「神様に不遜な態度でもとったから罰として死んだんでしょ」などと言えるのだろうか。
おおむね、自分の身の安泰を神の福音に帰する人は、そうした両面性を備えていることになるのではないか。確か東京大学の2003年度入試問題の英文和訳問題にも、似たような視点の話があった。
僕は、世俗的な利益や損得を教義に組み込んでいる宗教は三流だと思う。人間はどのみち利益を追求する動物なのだろうが、根本的な指針をそれに依拠する人生が、幸福なものになるとは思えない。
一般企業だって経営方針の第一義は「利益を上げること」だろうが、それは個々の状況における判断の基準にするべき指針であって、企業という存在の根底に据えるべき哲学ではないと思う。「どうしてこの企業を設立したのですか?」という質問に対して「金儲けのためです」が、答えになっているだろうか。
ヨブ記に限らず、すべての宗教の教典には「このような困難を拝しました」的な苦労話が入っていると思う。しかし、その読み方を間違えると、その宗教がそもそも意図していなかった逆の読み方ができてしまうことがあると思う。
その誤謬が生じないように教義を正確に伝えることが、聖職者の仕事だろう。宗教が成立した時期と現代では社会的環境が違うので、教義がそのまま適用しづらい部分があるかもしれない。しかし、そういう宗教はそもそも特定の時代と場所に限定される程度の人生の指針しか示すことができない代物なのだろう。時を超え、場所を替えても、なお普遍的な人のありかたを示すことができてこその宗教ではないのか。
僕は大学の講義で、よく「中学・高校の科目で必要ないと思う科目はなんですか」というアンケートを行う。おおむね、数学、化学、物理、古典、歴史が不人気だ。その理由はすべて「今の自分の生活の役に立たないから」というものだ。神の福音に関する是非と同じように、自分の利益を第一に物事を判断する習慣が習い性になると、その裏側に潜む逆の価値観の弊害を自分自身が被ることになる。「あいつは仕事ができない使えない奴だから、今回のイベントでは仲間はずれにしようぜ」といういじめを受けても、自業自得ということになるだろう。
『ヨブ記』を読むたびに、そういうことをよく考える。
自分の知らない言語を調べる必要があるときには、まずテキストを探さなければならない。
昔から、知らない外国語の勉強をするときの定番テキストはサン=テグジュペリの『星の王子様』だった。世界中の言語に翻訳されており、比較的用意に入手でき、絵本なのでストーリーを思い出しやすい。
外国語学習のコツは「子供向けの絵本をたくさん読んで単語を覚えろ」だが、『星の王子様』はこの条件によく合っている。僕もドイツ語、フランス語、ロシア語をこの本で勉強した。
僕はシャーロキアンなので、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズもよく使う。物語はぜんぶ覚えているので、知らない言語で読んでも、だいたい読んでいくとどの話なのか見当がつく。
最近では、『ハリー・ポッター』のシリーズも多くの言語に翻訳されている。しかし、ハリー・ポッターは実は語彙がとても難しい。空想上の世界を描いているので、あまり語彙や表現が日常的ではない。ハリー・ポッターを使った外国語学習は、「その言語を覚えたい人」ではなく、「ハリー・ポッターが好きな人」に限られると思う。
僕はだいたいこういうテキストを、外国に行った時に現地の空港の本屋で買う。海外に行く時には、帰りに本を買う分だけいつも荷物を空けてある。
いつも決め打ちで狙う本を決めてあるので、効率良く探せる。蓋し空港の本屋は、言語好きにとっては格好の漁場と言える。
そういえば最近は多くの空港で村上春樹の翻訳版を目にするようになった。
さて、今回僕が調べている言語は、いつもテキストに使っているどの本も入手できない。出版はされているのかもしれないが、簡単には手に入らない。
そういう困った時には最後の手段、聖書を使うことになる。なにせ世界で最も多くの言語に翻訳されている。しかも著作権がない。街中で無料で配っているくらいだから著作権もへったくれもない。インターネットで広く公開もしている。知らない言語を調べるときには非常に便利だ。
僕はキリスト教徒でも何でもないので、僕にとって聖書はただの本だが、大学時代にかなり本気で聖書を通読した。歴史学研究室のゼミでぶらぶらしており、中世教会史の読書会にも出ていたので、聖書はわりと近しい存在だ。新約聖書は徹底轍尾信仰の書なので、縁なき衆生には読みづらい。歴史書としての役割もある旧約聖書のほうが分かりやすい。話の筋もだいたい覚えている。
僕は希少言語のテキストを調べるために旧約聖書を読むとき、いつも『ヨブ記』を使う。
信心深く義人でもあるヨブが、悪魔に唆された神によって様々な試練を与えられる話だ。全財産を失い、周囲の人望を失い、妻の愛を失い、さらに重度の皮膚病に晒される。「自分はこんな罰を受けるほどの罪を犯したのだろうか」と苦悶に喘ぐ。
のちに友達と称する3人の男がヨブを訪れ、「お前いつも隠れて悪いことやってたんだろ」「ざまみろこの野郎」などと罵声を浴びせる。さらにエリフという正義面をした野郎が現れ、瀕死のヨブに対してそれ以上の罵詈雑言を浴びせかけ弾劾する。
僕はいまだに3人の男とエリフが「なにを以てヨブを罪人と断じているのか」の根拠がよく分からない。話の筋が論理的ではなく、自己撞着も多い。言っていることが首尾一貫しなくなると「そもそも神の意志だから」論に逃げ込む。「悪いから、悪いんだ」と言っているように見える。間違ってもディベートの手本として使ってはいけない議論の仕方だ。
この部分の解釈は神学者の中でも評価が分かれるらしい。ここの解釈が難しいのは、この場面だけ韻文で書かれているからだ。そして、それが僕が言語テキストとして『ヨブ記』を使う理由でもある。
僕が希少言語を調べるときには、音韻的特徴、単語の形態的特徴、文の構造に関する文法的特徴の3つを軸にすることが多い。単語や文の構造は調べればすぐに分かるが、音に関する特徴は字で書かれた書物からは計りにくい。だから語調とリズムを整える必要がある韻文をテキストに使うと、単語の音韻的特徴が分かりやすい。
ヨブ記を読んでいるといつも、聖書にこの話が収録された意図がわからなくなる。仮に聖書をキリスト教の教科書のように考えると、信者を増やすための方策としてこの話を使うのは、得策ではあるまい。「この宗教を信じるとこんないいことがありますよ」なら話は分かるが、「この宗教の神様はこんなひどいことをしますよ」では、誰が入信したいと思うのだろうか。
阿刀田高氏は、著書『旧約聖書を知っていますか』の中で独自の見解を述べている。ヨブは、3人の男やエリフにやいのやいの言われる過程で「自分は試練に耐え得る限界を後世に示す存在として、神に選ばれたのだ」と悟ったのではないか、という見方だ。信仰に敬虔で、善人であるヨブでないと、その大役は果たせられない。キリスト教の話に仏教用語の「悟る」という言葉を使うのも変な話だが、阿刀田高はこの語彙こそがその時のヨブの心情にぴったりではないか、と論じている。
僕の実感では、キリスト教の世界観では、いいことも悪いこともすべて含めて「神の意志」とされているような気がする。信者ではないので詳しいことは分からないが、もしそのことが正しいとしたら、自分になにか良いことがあった時に「神に感謝」するのは、大きく道を踏み外した行いではないのか。
たとえば大きな交通事故に遭って九死に一生を得たとする。その時、助かった人が「やっぱり神様っているんですね。この事故で生き残ったということは、神様が天から私を見てくださっているに違いありません」などと言ったとする。
するとその人は、「世界中の交通事故で死んでいる人は、神が見捨てた人だ」と断じていることになる。自分は神に助けられた。だから死んだ人はすべて神が助けようとしなかった。そういうロジックになる。
その姿勢は、『ヨブ記』に出てくる3人の男どもと大差ないだろう。「神様のおかげで助かった」という感謝のしかたをする人は、交通事故で死んだ人の遺族のもとに行って「神様に不遜な態度でもとったから罰として死んだんでしょ」などと言えるのだろうか。
おおむね、自分の身の安泰を神の福音に帰する人は、そうした両面性を備えていることになるのではないか。確か東京大学の2003年度入試問題の英文和訳問題にも、似たような視点の話があった。
僕は、世俗的な利益や損得を教義に組み込んでいる宗教は三流だと思う。人間はどのみち利益を追求する動物なのだろうが、根本的な指針をそれに依拠する人生が、幸福なものになるとは思えない。
一般企業だって経営方針の第一義は「利益を上げること」だろうが、それは個々の状況における判断の基準にするべき指針であって、企業という存在の根底に据えるべき哲学ではないと思う。「どうしてこの企業を設立したのですか?」という質問に対して「金儲けのためです」が、答えになっているだろうか。
ヨブ記に限らず、すべての宗教の教典には「このような困難を拝しました」的な苦労話が入っていると思う。しかし、その読み方を間違えると、その宗教がそもそも意図していなかった逆の読み方ができてしまうことがあると思う。
その誤謬が生じないように教義を正確に伝えることが、聖職者の仕事だろう。宗教が成立した時期と現代では社会的環境が違うので、教義がそのまま適用しづらい部分があるかもしれない。しかし、そういう宗教はそもそも特定の時代と場所に限定される程度の人生の指針しか示すことができない代物なのだろう。時を超え、場所を替えても、なお普遍的な人のありかたを示すことができてこその宗教ではないのか。
僕は大学の講義で、よく「中学・高校の科目で必要ないと思う科目はなんですか」というアンケートを行う。おおむね、数学、化学、物理、古典、歴史が不人気だ。その理由はすべて「今の自分の生活の役に立たないから」というものだ。神の福音に関する是非と同じように、自分の利益を第一に物事を判断する習慣が習い性になると、その裏側に潜む逆の価値観の弊害を自分自身が被ることになる。「あいつは仕事ができない使えない奴だから、今回のイベントでは仲間はずれにしようぜ」といういじめを受けても、自業自得ということになるだろう。
『ヨブ記』を読むたびに、そういうことをよく考える。
辞書が出版されていない言語を調べるときの苦労ときたら
ペンギン命
takutsubu
ここでもつぶやき
趣味。
ネタ元
バックナンバー長いよ。
かんたんアクセス
記事検索