大学で僕が受け持っている学科では、学生は2年生からゼミに所属する。
僕のゼミでは理論言語学を勉強する。2年生ではまず、言語学の基本概念と思考の方法について勉強する。まぁ、どの学生もそれまで言語学なんて勉強したことはない。そういうナマの学生さんに、「言語学とは何ぞや」という話をする。
2年生の終わり頃には、もう自分で書く論文のテーマを決めさせる。乱暴なようだが、2年生の時点ですでに卒論のテーマを決めさせてしまう。
3年生になると、徹底的に論文の読み方を勉強する。気の遠くなるような量の文献を読み、英語で書かれた論文を読み、内容を発表させる。
一般的には、大学3年生への課題ではあるまい。学部4年生から大学院レベルの課題だと思う。しかし、僕は自分自身の経験から、論文を読む適切な時期に、3年生も大学院生も能力的には大した違いは無いと思う。特に明確な努力もなく、「学部3年生には無理だけど大学院生にはできる」というほど、能力というものは自動的に伸びていくものではないのだ。学部生でも鮮やかに論文を読みこなす学生もいれば、まったく論文の読み方を知らない大学院生もいる。
4年生になると、僕のほうからは大した指導はしない。週の決まった時間に決まった内容の講義をし、確認テストをし、宿題を課すようなサービスはしない。4年生ともなれば、自分のテーマに沿った自分なりの勉強の仕方くらい身につけてもらわないと困る。だから4年生の卒論指導の時間では、「今日は誰か発表したいことある?」と訊き、学生が自主的に自分の研究を進めるに任せる。学生が発表した後や、研究内容についてディスカッションを頼まれた時だけ、その時に必要なフィードバックを行う。基本的に4年生への授業では、学生の側から僕に働きかけてこない限り、放っておく。
最も学生が迷走するのは、3年生の時期だろう。それまで先生の話す内容に全力を傾注し、理解することだけに全力を注げばいいだけだった段階から、「自分はどうしたいのか」に主体を変化させなければならない。自分がそのときしている勉強のスタンスに不安を感じ、廻りの学生にちらちら目を配り、自信をなくしたり自信過剰になったり、自分の能力不足に絶望し憤り、廻りと自分の姿勢が合わないことに苛々し、漠然とした将来への不安に襲われる。きわめて不安定な時期だろう。
そして、その不安と苛々を感じることそのものが、学生が次の段階に進もうとしていることの萌芽だと思う。大学3年生にもなって先生の授業の内容を理解できた程度のことで喜んでいるレベルのままでは、さぞ卒論は苦痛だろう。卒論は僕が書くものではなく、学生自身が書くものだからだ。どこかの段階で、自分自身と向き合う覚悟が必要になる。
そういう不安定な大学3年生にかける言葉としては、「しっかり自分自身を創れ」ということに尽きる。
学生が周囲に対して苛々を感じるのは、廻りを見ているからだ。自分自身を見つめていない。人間、本当に自分主体で生きる姿勢をつくりあげ、覚悟が据わると、廻りのことはどうでもよくなる。ただがむしゃらに努力の時間を積み上げ、自分を磨くことに専念できるようになる。
3年生に論文内容を発表させるとき、前期授業の間だけはグループ発表をさせている。多くの学生は、グループ発表の意図を勘違いしている。「自分ひとりではとても読みこなせないので、みんなで協力して読み合えばいいんだ」と思い込んでいる。
実際のところ、ひとりで読めない論文が、4人集れば読めるようになる、などということはない。読めない4人が雁首揃えたところで、読めないものは読めない。極論すれば、ひとりひとりが能力を高めるより他に、論文発表という課題をクリアする方法など無い。
僕が学生にグループ発表をさせている理由は、自分自身の勉強スタイルを作り上げる際に、他の人のいい部分を盗み合うチャンスを与えたいからだ。「自分自身を創れ」と言ったところで、ひとはゼロから何かを作り上げることはできない。土台となり、材料となる下地が必要となる。飛行機だって、離陸するときには長い滑走路が要る。
その姿勢を勘違いしている学生は、グループ発表の際に他のメンバーに苛々を感じる。自分が分からないことを提供してくれるのが仲間だと思っている。自分が欲しいもの、自分に欠けているものを提供してくれない仲間に、頼りなさを感じる。
しかし、そう感じる学生本人が、他のメンバーに明確な何かを提供できているわけではない。論文の内容を発表しなければいけないという課題を前にして、分からないものは分からないのだ。
先日,ゼミで第1回の発表を行った。3つのグループがそれぞれに発表を行ったが、「全員で考えたんですけど、分かりませんでした」という単なるゼロの集団のグループと、「分からないなりに自分達で考え、自分なりの方法論をつくりあげようとしました」というグループに、はっきり分かれた。
僕だって同じ時期を辿ったことがあるのだ。学部3年生にいきなり専門の論文を読ませて、100%理解しろとは思っていない。どのグループも内容理解度は低いだろうが、できないなりに間違え方がある。失敗には、何度繰り返しても無駄に終わる失敗と、次につながる失敗がある。失敗にも、やり方があるのだ。
その違いを生み出すのは、課題に取り組む根本的な姿勢だ。受け身で論文を読まされ、やらされている課題をこなす姿勢では、何度失敗しても能力など伸びない。後ろ向きに倒れる。
自分から求めるものがあり、自分をつくろうと常にチャンスを狙っている学生だけが、前のめりに倒れて失敗できる。人は失敗するとき、前のめりに転ぶと、その勢いで少しだけ前に進める。
僕がゼミ生に大学2年生の段階で早々に卒論のテーマを決めさせるのは、そのためだ。自分は何がしたいのか。その時している努力が、その先で何につながるべきものなのか。目標がはっきりしていない学生は、努力のしかたも曖昧になる。明確な着地点を決めていない学生は、飛び立つことができない。そもそも、何のために飛ぼうとしているのか自分でも分かっていない学生が、飛び方を身につけることはできないだろう。
僕は海外インターンの授業でも、ゼミナールでも、成功のしかたなど教えない。そもそも、そんなものはない。
僕が学生に身につけてほしいのは、失敗のしかたのほうだ。人生をノーミスで、全勝で、順風満帆に乗り切ることなどできない。失敗は、必ずしてしまうものなのだ。だから、どうすればすぐに立ち上がれるのか、その失敗の中から何を次につなげ、どう活かすのか、その能力を身につけてほしいと思っている。
能楽の世界には「守・破・離」という言葉がある。
最初の段階では、師匠の教えを守り、その内容を理解することに全力を注ぐ。
それをマスターしたら、今度はそれを自分なりにアレンジし、師匠の枠を自分なりに破ってみる。
最後の段階では、師匠の世界から離れ、自分なりに自分の「型」をつくっていく。
「守」だけに拘泥している学生は、素直ではあるのだろうが、人間として生きる力が強いとは言えない。自分の人生を、自分でつくる能力に欠けている。
僕はよく学生に「優等生は嫌いだ」と言っている。「守」の姿勢だけを頑に守り、僕が提供する世界から一歩も外に出ようとしない学生は、僕の目から見て面白くも何ともない。
大学2年、3年、4年の段階で、それぞれ「守」「破」「離」を身につけられると、卒業後にも自分で自分の人生をつくっていけると思う。
そういう自分自身との格闘を戦い抜いた卒業生は、みんな活き活きとしたいい眼をしている。
僕のゼミでは理論言語学を勉強する。2年生ではまず、言語学の基本概念と思考の方法について勉強する。まぁ、どの学生もそれまで言語学なんて勉強したことはない。そういうナマの学生さんに、「言語学とは何ぞや」という話をする。
2年生の終わり頃には、もう自分で書く論文のテーマを決めさせる。乱暴なようだが、2年生の時点ですでに卒論のテーマを決めさせてしまう。
3年生になると、徹底的に論文の読み方を勉強する。気の遠くなるような量の文献を読み、英語で書かれた論文を読み、内容を発表させる。
一般的には、大学3年生への課題ではあるまい。学部4年生から大学院レベルの課題だと思う。しかし、僕は自分自身の経験から、論文を読む適切な時期に、3年生も大学院生も能力的には大した違いは無いと思う。特に明確な努力もなく、「学部3年生には無理だけど大学院生にはできる」というほど、能力というものは自動的に伸びていくものではないのだ。学部生でも鮮やかに論文を読みこなす学生もいれば、まったく論文の読み方を知らない大学院生もいる。
4年生になると、僕のほうからは大した指導はしない。週の決まった時間に決まった内容の講義をし、確認テストをし、宿題を課すようなサービスはしない。4年生ともなれば、自分のテーマに沿った自分なりの勉強の仕方くらい身につけてもらわないと困る。だから4年生の卒論指導の時間では、「今日は誰か発表したいことある?」と訊き、学生が自主的に自分の研究を進めるに任せる。学生が発表した後や、研究内容についてディスカッションを頼まれた時だけ、その時に必要なフィードバックを行う。基本的に4年生への授業では、学生の側から僕に働きかけてこない限り、放っておく。
最も学生が迷走するのは、3年生の時期だろう。それまで先生の話す内容に全力を傾注し、理解することだけに全力を注げばいいだけだった段階から、「自分はどうしたいのか」に主体を変化させなければならない。自分がそのときしている勉強のスタンスに不安を感じ、廻りの学生にちらちら目を配り、自信をなくしたり自信過剰になったり、自分の能力不足に絶望し憤り、廻りと自分の姿勢が合わないことに苛々し、漠然とした将来への不安に襲われる。きわめて不安定な時期だろう。
そして、その不安と苛々を感じることそのものが、学生が次の段階に進もうとしていることの萌芽だと思う。大学3年生にもなって先生の授業の内容を理解できた程度のことで喜んでいるレベルのままでは、さぞ卒論は苦痛だろう。卒論は僕が書くものではなく、学生自身が書くものだからだ。どこかの段階で、自分自身と向き合う覚悟が必要になる。
そういう不安定な大学3年生にかける言葉としては、「しっかり自分自身を創れ」ということに尽きる。
学生が周囲に対して苛々を感じるのは、廻りを見ているからだ。自分自身を見つめていない。人間、本当に自分主体で生きる姿勢をつくりあげ、覚悟が据わると、廻りのことはどうでもよくなる。ただがむしゃらに努力の時間を積み上げ、自分を磨くことに専念できるようになる。
3年生に論文内容を発表させるとき、前期授業の間だけはグループ発表をさせている。多くの学生は、グループ発表の意図を勘違いしている。「自分ひとりではとても読みこなせないので、みんなで協力して読み合えばいいんだ」と思い込んでいる。
実際のところ、ひとりで読めない論文が、4人集れば読めるようになる、などということはない。読めない4人が雁首揃えたところで、読めないものは読めない。極論すれば、ひとりひとりが能力を高めるより他に、論文発表という課題をクリアする方法など無い。
僕が学生にグループ発表をさせている理由は、自分自身の勉強スタイルを作り上げる際に、他の人のいい部分を盗み合うチャンスを与えたいからだ。「自分自身を創れ」と言ったところで、ひとはゼロから何かを作り上げることはできない。土台となり、材料となる下地が必要となる。飛行機だって、離陸するときには長い滑走路が要る。
その姿勢を勘違いしている学生は、グループ発表の際に他のメンバーに苛々を感じる。自分が分からないことを提供してくれるのが仲間だと思っている。自分が欲しいもの、自分に欠けているものを提供してくれない仲間に、頼りなさを感じる。
しかし、そう感じる学生本人が、他のメンバーに明確な何かを提供できているわけではない。論文の内容を発表しなければいけないという課題を前にして、分からないものは分からないのだ。
先日,ゼミで第1回の発表を行った。3つのグループがそれぞれに発表を行ったが、「全員で考えたんですけど、分かりませんでした」という単なるゼロの集団のグループと、「分からないなりに自分達で考え、自分なりの方法論をつくりあげようとしました」というグループに、はっきり分かれた。
僕だって同じ時期を辿ったことがあるのだ。学部3年生にいきなり専門の論文を読ませて、100%理解しろとは思っていない。どのグループも内容理解度は低いだろうが、できないなりに間違え方がある。失敗には、何度繰り返しても無駄に終わる失敗と、次につながる失敗がある。失敗にも、やり方があるのだ。
その違いを生み出すのは、課題に取り組む根本的な姿勢だ。受け身で論文を読まされ、やらされている課題をこなす姿勢では、何度失敗しても能力など伸びない。後ろ向きに倒れる。
自分から求めるものがあり、自分をつくろうと常にチャンスを狙っている学生だけが、前のめりに倒れて失敗できる。人は失敗するとき、前のめりに転ぶと、その勢いで少しだけ前に進める。
僕がゼミ生に大学2年生の段階で早々に卒論のテーマを決めさせるのは、そのためだ。自分は何がしたいのか。その時している努力が、その先で何につながるべきものなのか。目標がはっきりしていない学生は、努力のしかたも曖昧になる。明確な着地点を決めていない学生は、飛び立つことができない。そもそも、何のために飛ぼうとしているのか自分でも分かっていない学生が、飛び方を身につけることはできないだろう。
僕は海外インターンの授業でも、ゼミナールでも、成功のしかたなど教えない。そもそも、そんなものはない。
僕が学生に身につけてほしいのは、失敗のしかたのほうだ。人生をノーミスで、全勝で、順風満帆に乗り切ることなどできない。失敗は、必ずしてしまうものなのだ。だから、どうすればすぐに立ち上がれるのか、その失敗の中から何を次につなげ、どう活かすのか、その能力を身につけてほしいと思っている。
能楽の世界には「守・破・離」という言葉がある。
最初の段階では、師匠の教えを守り、その内容を理解することに全力を注ぐ。
それをマスターしたら、今度はそれを自分なりにアレンジし、師匠の枠を自分なりに破ってみる。
最後の段階では、師匠の世界から離れ、自分なりに自分の「型」をつくっていく。
「守」だけに拘泥している学生は、素直ではあるのだろうが、人間として生きる力が強いとは言えない。自分の人生を、自分でつくる能力に欠けている。
僕はよく学生に「優等生は嫌いだ」と言っている。「守」の姿勢だけを頑に守り、僕が提供する世界から一歩も外に出ようとしない学生は、僕の目から見て面白くも何ともない。
大学2年、3年、4年の段階で、それぞれ「守」「破」「離」を身につけられると、卒業後にも自分で自分の人生をつくっていけると思う。
そういう自分自身との格闘を戦い抜いた卒業生は、みんな活き活きとしたいい眼をしている。
「主体性」というもののつくりかた。