たくろふのつぶやき

春は揚げ物。

2012年04月

「破」の迷走

大学で僕が受け持っている学科では、学生は2年生からゼミに所属する。


僕のゼミでは理論言語学を勉強する。2年生ではまず、言語学の基本概念と思考の方法について勉強する。まぁ、どの学生もそれまで言語学なんて勉強したことはない。そういうナマの学生さんに、「言語学とは何ぞや」という話をする。
2年生の終わり頃には、もう自分で書く論文のテーマを決めさせる。乱暴なようだが、2年生の時点ですでに卒論のテーマを決めさせてしまう。

3年生になると、徹底的に論文の読み方を勉強する。気の遠くなるような量の文献を読み、英語で書かれた論文を読み、内容を発表させる。
一般的には、大学3年生への課題ではあるまい。学部4年生から大学院レベルの課題だと思う。しかし、僕は自分自身の経験から、論文を読む適切な時期に、3年生も大学院生も能力的には大した違いは無いと思う。特に明確な努力もなく、「学部3年生には無理だけど大学院生にはできる」というほど、能力というものは自動的に伸びていくものではないのだ。学部生でも鮮やかに論文を読みこなす学生もいれば、まったく論文の読み方を知らない大学院生もいる。

4年生になると、僕のほうからは大した指導はしない。週の決まった時間に決まった内容の講義をし、確認テストをし、宿題を課すようなサービスはしない。4年生ともなれば、自分のテーマに沿った自分なりの勉強の仕方くらい身につけてもらわないと困る。だから4年生の卒論指導の時間では、「今日は誰か発表したいことある?」と訊き、学生が自主的に自分の研究を進めるに任せる。学生が発表した後や、研究内容についてディスカッションを頼まれた時だけ、その時に必要なフィードバックを行う。基本的に4年生への授業では、学生の側から僕に働きかけてこない限り、放っておく。

最も学生が迷走するのは、3年生の時期だろう。それまで先生の話す内容に全力を傾注し、理解することだけに全力を注げばいいだけだった段階から、「自分はどうしたいのか」に主体を変化させなければならない。自分がそのときしている勉強のスタンスに不安を感じ、廻りの学生にちらちら目を配り、自信をなくしたり自信過剰になったり、自分の能力不足に絶望し憤り、廻りと自分の姿勢が合わないことに苛々し、漠然とした将来への不安に襲われる。きわめて不安定な時期だろう。

そして、その不安と苛々を感じることそのものが、学生が次の段階に進もうとしていることの萌芽だと思う。大学3年生にもなって先生の授業の内容を理解できた程度のことで喜んでいるレベルのままでは、さぞ卒論は苦痛だろう。卒論は僕が書くものではなく、学生自身が書くものだからだ。どこかの段階で、自分自身と向き合う覚悟が必要になる。


そういう不安定な大学3年生にかける言葉としては、「しっかり自分自身を創れ」ということに尽きる。


学生が周囲に対して苛々を感じるのは、廻りを見ているからだ。自分自身を見つめていない。人間、本当に自分主体で生きる姿勢をつくりあげ、覚悟が据わると、廻りのことはどうでもよくなる。ただがむしゃらに努力の時間を積み上げ、自分を磨くことに専念できるようになる。

3年生に論文内容を発表させるとき、前期授業の間だけはグループ発表をさせている。多くの学生は、グループ発表の意図を勘違いしている。「自分ひとりではとても読みこなせないので、みんなで協力して読み合えばいいんだ」と思い込んでいる。
実際のところ、ひとりで読めない論文が、4人集れば読めるようになる、などということはない。読めない4人が雁首揃えたところで、読めないものは読めない。極論すれば、ひとりひとりが能力を高めるより他に、論文発表という課題をクリアする方法など無い。

僕が学生にグループ発表をさせている理由は、自分自身の勉強スタイルを作り上げる際に、他の人のいい部分を盗み合うチャンスを与えたいからだ。「自分自身を創れ」と言ったところで、ひとはゼロから何かを作り上げることはできない。土台となり、材料となる下地が必要となる。飛行機だって、離陸するときには長い滑走路が要る。

その姿勢を勘違いしている学生は、グループ発表の際に他のメンバーに苛々を感じる。自分が分からないことを提供してくれるのが仲間だと思っている。自分が欲しいもの、自分に欠けているものを提供してくれない仲間に、頼りなさを感じる。
しかし、そう感じる学生本人が、他のメンバーに明確な何かを提供できているわけではない。論文の内容を発表しなければいけないという課題を前にして、分からないものは分からないのだ。

先日,ゼミで第1回の発表を行った。3つのグループがそれぞれに発表を行ったが、「全員で考えたんですけど、分かりませんでした」という単なるゼロの集団のグループと、「分からないなりに自分達で考え、自分なりの方法論をつくりあげようとしました」というグループに、はっきり分かれた。
僕だって同じ時期を辿ったことがあるのだ。学部3年生にいきなり専門の論文を読ませて、100%理解しろとは思っていない。どのグループも内容理解度は低いだろうが、できないなりに間違え方がある。失敗には、何度繰り返しても無駄に終わる失敗と、次につながる失敗がある。失敗にも、やり方があるのだ。

その違いを生み出すのは、課題に取り組む根本的な姿勢だ。受け身で論文を読まされ、やらされている課題をこなす姿勢では、何度失敗しても能力など伸びない。後ろ向きに倒れる。
自分から求めるものがあり、自分をつくろうと常にチャンスを狙っている学生だけが、前のめりに倒れて失敗できる。人は失敗するとき、前のめりに転ぶと、その勢いで少しだけ前に進める。

僕がゼミ生に大学2年生の段階で早々に卒論のテーマを決めさせるのは、そのためだ。自分は何がしたいのか。その時している努力が、その先で何につながるべきものなのか。目標がはっきりしていない学生は、努力のしかたも曖昧になる。明確な着地点を決めていない学生は、飛び立つことができない。そもそも、何のために飛ぼうとしているのか自分でも分かっていない学生が、飛び方を身につけることはできないだろう。

僕は海外インターンの授業でも、ゼミナールでも、成功のしかたなど教えない。そもそも、そんなものはない。
僕が学生に身につけてほしいのは、失敗のしかたのほうだ。人生をノーミスで、全勝で、順風満帆に乗り切ることなどできない。失敗は、必ずしてしまうものなのだ。だから、どうすればすぐに立ち上がれるのか、その失敗の中から何を次につなげ、どう活かすのか、その能力を身につけてほしいと思っている。


能楽の世界には「守・破・離」という言葉がある。
最初の段階では、師匠の教えを守り、その内容を理解することに全力を注ぐ。
それをマスターしたら、今度はそれを自分なりにアレンジし、師匠の枠を自分なりに破ってみる。
最後の段階では、師匠の世界から離れ、自分なりに自分の「型」をつくっていく。

「守」だけに拘泥している学生は、素直ではあるのだろうが、人間として生きる力が強いとは言えない。自分の人生を、自分でつくる能力に欠けている。
僕はよく学生に「優等生は嫌いだ」と言っている。「守」の姿勢だけを頑に守り、僕が提供する世界から一歩も外に出ようとしない学生は、僕の目から見て面白くも何ともない。


大学2年、3年、4年の段階で、それぞれ「守」「破」「離」を身につけられると、卒業後にも自分で自分の人生をつくっていけると思う。
そういう自分自身との格闘を戦い抜いた卒業生は、みんな活き活きとしたいい眼をしている。



「主体性」というもののつくりかた。

ゼロ限。

大学で「読書会」というのをします。


名前だけ聞くと、小学校の図書室でみんな自由に絵本でも借りて読むような和やかなイメージがありますが、大学の読書会というのは戦場です。
別の名を「文献講読」。英文で書かれた文章を、一文一文丹念に口語訳していく授業です。

大学での勉強というのは、要するに先行文献を読み解き、過去の研究の有様を理解することに大きなウェイトが置かれます。研究が進む魔法の方法なんてありません。英語で書かれた論文を、ゆっくりゆっくり、一文ずつ、地を這うようなスピードで丹念に読んでいく以外、勉強の方法なんてありません。積み重ねた時間の勝負になります。
当然、大学生は英語能力に不安がありますので、英文の読み取りに慣れていません。そこでみんなで集ってひとつの文章を丹念に読み解いて行く訓練を行ないます。それが読書会です。ちっとも楽しそうじゃありませんね。

僕は自分のゼミでも専門書を使った読書会をやっているんですが、それ以外にも英語読解力を鍛えたい学生さんたちが英文読解の基礎力から鍛え直したいと仰るので、別に読書会を作りました。
学生さんたちが自主的に集ってやる読書会ですから、正規の授業ではありません。単位も出ません。まぁ大学生なわけですから、大学から提供される授業だけでなく自分たちから求めるものを積極的に取りに行く姿勢は天晴でしょうね。
そんなわけで、僕が英語の読解を見てあげることになりました。

ところがですね、時間が決まんないんですよ。
任意で行なう読書会ですから、参加を希望する学生さんの時間割を調べて、誰も授業が入ってない時間に行なうことになります。
しかし、学年もバラバラ、所属学科もバラバラな学生さんが集るので、時間割を確認すると、誰も授業のない時間帯ってのが無いんですよね。
困ったなあ。


うーん、どうしようか。水曜の6限はどうかなぁ

「あー・・・、水曜日は連休明けから就職ガイダンスが始まります」

そっか、じゃあ3年生がみんな出れなくなるね。じゃあ木曜6限は?

「あ、俺、木曜はもう動かせないバイトが入っちゃったんです」

「それに木曜日はみんな何かしら部活が入ってると思います」

そっか。6限はきついのかなぁ。でも昼間の時間帯はみんな授業があるし・・・
じゃあ朝やるか。1限にやる?

「朝1限ですか。そっちのほうがいいかもしれませんね」

そうすると朝寝坊の学生さんが来なくなるから、研究室でできるでしょ。

「でも、みんな1限って授業入ってないんですか?」

どれどれ・・・あー、ぜんぶの曜日に何人かずつ1限に授業が入っている人がいるなぁ。

「どうしましょう、時間とれませんね」

困ったなぁ。昼休みにやるわけにもいかんし

「そうだ先生、朝1限が始まる前の、朝7:30から9時までやりましょうよ



いやです。

日本とアメリカの学生の質

実は英米より日本の方が機会平等で実力社会


また、英米の名門大学は、日本のようにペーパーテスト一発勝負ではなく、どういう高校時代を送ったのか、スポーツは何を頑張ったのか、ボランティアには積極的だったか、など総合的に資質を問われる。これも多くの人が勘違いしているのだが、こうやって総合的なテストが行われると、名門大学はどこもかしこも個性のない金太郎飴みたない学生ばかりになる。アメリカの名門大学の学生は、ハキハキとしていて、リーダーシップに積極的で、ボランティアに熱心で、スポーツもやって、といかにもナイスガイという感じの、薄っぺらい人間ばかりで、新卒の採用面接などしていると本当にうんざりする。

その点、日本の名門大学の学生はペーパーテスト一発勝負なので、パチスロにハマっていたり、コミュニケーション障害だったり、リーダーシップどころか友だちがひとりもいないような人間がゴロゴロいて、実に個性的だ。だから、筆者のような人間も楽しく学生生活を送ることができた。

アメリカの大学がすごいのは、こうやって金持ちの親から授業料としてかき集めた金を使って、世界中から著名な学者や、優秀な大学院生をスカウトして来ているからであって、教育が優れているわけでは全くない。あくまで、学術研究の頂点の部分がすごいだけなのである。




正しいかどうかは別として、視点として面白い。

時間割。

大学で新学期の授業が始まりまして、まぁ2週間くらい経ちまして。
ようやく、学生さんたちも時間割が固まってきたみたいですけど


教員の方の時間割がまだ確定してないってどういうことでしょう。


僕は英語、日本語、言語学という3種類の授業を担当していますが、そのうち留学生対象の日本語授業は、少人数授業ということもありイレギュラーに時間が変わります。
留学生たちの必修時間割をまず埋めてしまい、余った枠に日本語授業を押し込む、という不規則な時間の決め方をします。

それに加え、今年は学生さんが英語読解のための勉強会を希望しまして。正規の授業ではありませんが、英文読解の練習をしたいというので、そのための読書会をひとつ作りました。
違う学年の学生さんが参加するので、参加を希望する人の時間割を調整するのもひと苦労です。

まぁ、そんなこんなでようやく僕の授業の時間割も確定しつつある今日この頃ですが。
今学期はずいぶん授業が減りました。午前中なんてほとんど空いています。木曜日なんて授業がなく、会議のためだけに出校です。
まぁ、その分後期授業に授業を詰め込まれているので、秋以降は授業がみっちり入ってます。
てか、両方の学期に均等に振り分けてくれよ。

そんなこんなで授業の時間割を整理してみたら、水曜日の授業時間がえらいことになりました。



1限(9:00)と6限(18:15)。



いったん家に帰れるぞ。

おみやげ。

春先に、留学してた学生さんたちが軒並み帰国しまして。


僕の研究室からは、よく学生さんが留学に行きます。
まぁ、僕が海外インターンの担当ということもありまして、学生さんにとってわりと留学は身近なものらしいです。
いいことですな。4年間もあるんだから、一度くらい海外に行ってくるとよろしい。

そういう学生さんたちは僕に、海外のおみやげを買ってきてくれます。



おみやげ
なぜか若干ペンギンめのおみやげたち 





えーと、かねてから不思議なんですが





なぜ、君らはぬいぐるみを買ってくる。





ぬいぐるみたち
研究室にお揃いのぬいぐるみのみなさん 



保育園じゃねぇぞ。
ペンギン命

takutsubu

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