えー。
全国各地のたくつぶファンのみなさま <いるのか?
最近、更新が滞っております、たくろふでございます。
いままで過去にたくつぶの更新が滞ったときは、たくろふかMacか、どちらかの調子が悪いときだったんですが、今回はそんなこともありませんで。
元気にやっております。
なんとゆーか、大学で新学期が始まりましてね。
僕も今の大学で勤めはじめて数年が経ちますので、学生の応対をする時間が長くなってきています。
別に大学側にそういう仕事をおしつけられているのではありません。自然と、研究室を訪ねてくる学生の数が増えてくるんです。
大学生といっても、高校を卒業したばかりの1年生と、将来に真剣に向かい合っている4年生では、相談の内容も違います。
特に入ったばかりの1年生は、まだまだ大学に馴染んでもいないでしょう。きっと「大学の先生の研究室を訪問する」ということが、彼らにとってはすごく怖いことなのかもしれません。
そういう、初々しい緊張感のある1年生は、慎重に扱わなければいけません。たとえ変なことを言ってきたとしても、頭ごなしに叱りつけたりしたら、それが「大学」というもの全体のイメージとして固定しかねません。
そんなこんなで、いろんな学生に対応しているうちに、教員の側も、「教員」を演じてる人格に染まってきちゃうんです。
特に春先は、最も研究室にいろんな学生さんが押し寄せてくる時期です。そういう時に、やってくるいろんな学生さんに対し、それぞれの求めるものを満たす「先生」になっていると、自分がなくなってくるのを感じるんですね。
僕はそもそも教師など真っ平だと思っているタイプなので、一日じゅう学生に応対したあとは、家に帰ってから「役落とし」が必要です。
先生から、個人に戻る時間が必要です。
通常であれば、そんなことは造作なくできるんですが、長い春休みの後には、リハビリが必要なんですね。ちょっとずつ、先生としての自分の役柄を思い出し、私人としての自分と、公人としての先生の、立場のバランスの取り方を思い出すのに、ちょっと時間がかかるんです。
特に今回の震災のように自己意識に直面するような出来事の後で、自分に向かい合う時間が長く、ひとりの個人としての人格が固まってしまった後は、自己が強くなっています。
で、たくつぶですが。
文章はすべてそんなもんだと思いますが、僕は文章を書くときには、何かが取り憑かないと書けません。
深夜にラブレターを書くようなもんです。日中の、冷静な自分であれば絶対に書けない文章ってのは、あるんです。僕が長ったらしいたくつぶの記事を書いているときというのは、自分ではない何かが乗り移って書いています。その狐が落ちたらもう駄目です。一行も書けません。
自分で書いた文章をあとから読んで、「俺、こんなこと書いたのか」と思うことがほとんどです。
「文章を書くのが上手い人」というのは、この狐と仲のいい人だと思います。乗り移らせ方を知ってるんです。
僕もたくつぶを8年も書いてますから、わりと狐を飼いならしているほうだと思います。
その方法は簡単です。世の中を、頭だけで考えるんです。
ふつう人が世の中を見る時は、頭と心の両方を使って見ています。「理路整然と説明されれば説得されてしまうけど、どうも正しいこととは思えない」ということは、よくあることだと思います。ふつうの大人であれば、その両方のバランスの取り方くらいは心得ているものでしょう。
しかし、なにか文章を書くときには、頭のほうを使う比率が格段に高くなります。頭脳が暴走するんです。心が制御できなくなった状態、それが「取り憑いている」状態だと思います。
深夜、ハイになった状態で書いたラブレターを後日読み返してみると猛烈に恥ずかしくなるのは、そのためです。通常な状態であれば、恋愛というのは心の作用です。しかしラブレターを書くときには頭脳が暴走しているので、心の制御が効きません。あとで通常な状態、すなわち「心で恋愛を捉えられるように戻った状態」で読み返すと、その暴走加減が分かってしまいます。心がダメ出しをするわけです。
かくして僕はいつもたくつぶを書くときは、狐に取り憑かせて書いています。長い論説を書くときなど、特にそうです。震災後しばらく、たくつぶに猛烈な頻度で長い文章ばかり載せていたのを見ても分かると思います。
しかしここ数日、大学の学期初めで、心を配って学生の対応をすることが多いので、心のエネルギーがいつもより強いんですね。仕事のあと家に帰ってから、なかなか頭が暴走しません。狐が取り憑いてくれません。
だから長い文章を書く気が起きず、放ったらかしになっていたわけです。
えー、以上、簡単にまとめますと
最近仕事が忙しくて、面倒だから書かなかった
とゆーことです。
全国各地のたくつぶファンのみなさま <いるのか?
最近、更新が滞っております、たくろふでございます。
いままで過去にたくつぶの更新が滞ったときは、たくろふかMacか、どちらかの調子が悪いときだったんですが、今回はそんなこともありませんで。
元気にやっております。
なんとゆーか、大学で新学期が始まりましてね。
僕も今の大学で勤めはじめて数年が経ちますので、学生の応対をする時間が長くなってきています。
別に大学側にそういう仕事をおしつけられているのではありません。自然と、研究室を訪ねてくる学生の数が増えてくるんです。
大学生といっても、高校を卒業したばかりの1年生と、将来に真剣に向かい合っている4年生では、相談の内容も違います。
特に入ったばかりの1年生は、まだまだ大学に馴染んでもいないでしょう。きっと「大学の先生の研究室を訪問する」ということが、彼らにとってはすごく怖いことなのかもしれません。
そういう、初々しい緊張感のある1年生は、慎重に扱わなければいけません。たとえ変なことを言ってきたとしても、頭ごなしに叱りつけたりしたら、それが「大学」というもの全体のイメージとして固定しかねません。
そんなこんなで、いろんな学生に対応しているうちに、教員の側も、「教員」を演じてる人格に染まってきちゃうんです。
特に春先は、最も研究室にいろんな学生さんが押し寄せてくる時期です。そういう時に、やってくるいろんな学生さんに対し、それぞれの求めるものを満たす「先生」になっていると、自分がなくなってくるのを感じるんですね。
僕はそもそも教師など真っ平だと思っているタイプなので、一日じゅう学生に応対したあとは、家に帰ってから「役落とし」が必要です。
先生から、個人に戻る時間が必要です。
通常であれば、そんなことは造作なくできるんですが、長い春休みの後には、リハビリが必要なんですね。ちょっとずつ、先生としての自分の役柄を思い出し、私人としての自分と、公人としての先生の、立場のバランスの取り方を思い出すのに、ちょっと時間がかかるんです。
特に今回の震災のように自己意識に直面するような出来事の後で、自分に向かい合う時間が長く、ひとりの個人としての人格が固まってしまった後は、自己が強くなっています。
で、たくつぶですが。
文章はすべてそんなもんだと思いますが、僕は文章を書くときには、何かが取り憑かないと書けません。
深夜にラブレターを書くようなもんです。日中の、冷静な自分であれば絶対に書けない文章ってのは、あるんです。僕が長ったらしいたくつぶの記事を書いているときというのは、自分ではない何かが乗り移って書いています。その狐が落ちたらもう駄目です。一行も書けません。
自分で書いた文章をあとから読んで、「俺、こんなこと書いたのか」と思うことがほとんどです。
「文章を書くのが上手い人」というのは、この狐と仲のいい人だと思います。乗り移らせ方を知ってるんです。
僕もたくつぶを8年も書いてますから、わりと狐を飼いならしているほうだと思います。
その方法は簡単です。世の中を、頭だけで考えるんです。
ふつう人が世の中を見る時は、頭と心の両方を使って見ています。「理路整然と説明されれば説得されてしまうけど、どうも正しいこととは思えない」ということは、よくあることだと思います。ふつうの大人であれば、その両方のバランスの取り方くらいは心得ているものでしょう。
しかし、なにか文章を書くときには、頭のほうを使う比率が格段に高くなります。頭脳が暴走するんです。心が制御できなくなった状態、それが「取り憑いている」状態だと思います。
深夜、ハイになった状態で書いたラブレターを後日読み返してみると猛烈に恥ずかしくなるのは、そのためです。通常な状態であれば、恋愛というのは心の作用です。しかしラブレターを書くときには頭脳が暴走しているので、心の制御が効きません。あとで通常な状態、すなわち「心で恋愛を捉えられるように戻った状態」で読み返すと、その暴走加減が分かってしまいます。心がダメ出しをするわけです。
かくして僕はいつもたくつぶを書くときは、狐に取り憑かせて書いています。長い論説を書くときなど、特にそうです。震災後しばらく、たくつぶに猛烈な頻度で長い文章ばかり載せていたのを見ても分かると思います。
しかしここ数日、大学の学期初めで、心を配って学生の対応をすることが多いので、心のエネルギーがいつもより強いんですね。仕事のあと家に帰ってから、なかなか頭が暴走しません。狐が取り憑いてくれません。
だから長い文章を書く気が起きず、放ったらかしになっていたわけです。
えー、以上、簡単にまとめますと
最近仕事が忙しくて、面倒だから書かなかった
とゆーことです。
よし今日はうまい具合に取り憑いてる。